篠田が氷川哉と言う名の社長の次男坊に引き合わされたときの第一印象は、後に引き合わせた秘書課の部下たちと同じ、近未来にはいるかもしれない人型のロボットみたいだと言う、おそらく彼を見た人間が持ち得(う)るであろう有り体な表現しか思い浮かばなかった。
 そのくらい、なんと言うか、ぱっと見た存在に温度がない。温かみを感じないし、かといって冷たそうでもない。
 名刺を差し出して名乗り、よろしくお願いしますと差し出した右手を握った彼のきちんと人並みに柔らかくて温かい右手がその印象を若干修正させたものの、社長秘書からの情報では彼なりに平穏に暮らしていたところをかなり強引に連れ戻されたと言うことなのに、理不尽な状況に憤るでもなく、屋台骨から抜かれたような部門の一年以内の立て直しという無理難題を吹っかけられても眉一つ動かない表情筋だとか、フォーカスがどこにも合っていない感情を見せないガラス球のような瞳だとか、それなのにやたらと無駄のない動きだとか、抑揚のあまりない喋り方だとか、とにかく人間のニオイがあまりしない生き物、だった。
 顔合わせ後すぐ、哉に宛がわれた副社長室での篠田や他の担当者の説明に理解しているのかいないのか返事ひとつ──頷くことさえなく、殆ど反応を示さない。
 前任の長男坊は別の者が付いていたので、噂でしか知らないが、あっちは笑顔が標準装備で、いつもニコニコしているのに実は物凄く頑固なところがあって柔和な表面にだまされていると、甘い方向に物事を転がしてしまうので、とても扱いが難しかったと聞く。
 対する次男の哉は、これまで勤務してきた神戸支社での評判も評価もとても高い。幹部候補試験を受けてもいないのにすでに係長まで昇進を果たしていたのは、本人の実力であると大方の人間が、哉の素性を知らない頃から口を揃えていたという。
 だが、目の前にいる哉を見て、もしやこちらのほうが遥かに面倒なのではなかろうかと心の中で思いつつも、篠田は淡々と彼とて引き継いだばかりの業務について手元の分厚い引継書に沿って確認がてら読み上げる。
 とは言え、事前に内容を把握して重要な箇所だけ読んでいるので、A四版両面刷りで三センチ近くある引継書も、一日で説明は終了だ。明日は顔見せを兼ねて本社内を回り、土日を挟んで月曜以降、かなり強行なスケジュールで国内外の主だった支社と取引先を巡る弾丸ツアーに出発である。時差の関係もあるが、機内一泊して三日で五ヵ国を回る、などと言う詰め込み具合だ。
「本日の説明は以上ですが、ご質問は?」
「今のところはない」
 昼食と、一時間ごとに五分程度の休憩を挟んで現在午後七時を少し過ぎた頃。
 引継書に目を落としたまま、哉が短く応えた。彼も幾度か女性秘書が持ってきた飲み物を飲み、トイレに立ったが、他の者のように篠田の少し休みましょうとの声を聞いてほっと伸びをしたりもせずに背骨はおろかそれを支える筋肉さえ鉄筋で出来ているのかと思うほど、きちんと背を伸ばした体勢を崩さなかった。
「本日の予定はこれで終了ですが、食事はどうされますか?」
 何か気になる箇所でもあるのか、形ばかりの礼をして出ていた工業部門の課長の挨拶にさえ顔を上げず、分厚い引継書の中ほどをじっと読んでいる哉に声をかけると、一拍の間をおいて、音もたてずに引継書が閉じられた。
「帰って食べる」
 使い込んだ様子のビジネスバッグに引継書を入れて、すいっと立ち上がっても、やはり殆ど音を立てない。気配もない。時代が時代ならかなり有能な間者になれそうな身軽さだ。
「では、ご自宅まで送らせて頂きます」
 新しい副社長用に新調されたセダンのキーはスーツのポケットに入っている。
「……送ってもらわなくても一人で帰るが? どうせ二駅だ」
 何を考えているのか非常に読みづらい、感情を排した顔を向けられて、さすがの篠田も二の句を継ぐのに一瞬の間を要した。
 駅?
 二駅と言うことは、彼の実家ではない。
 彼がつい昨日、経営者一族の血縁者であることを伏せて勤務していた神戸支社から、昼過ぎに東京駅に到着する新幹線で帰京したということは社長から聞いている。さすがにまだ、新しい住まいを得ているとは考えがたい。で、あるならば。
 最寄り駅から二駅上ると駅前に、氷川の系列とは表立っては知られていないが、大きなホテルがある。
「ラディアビアンツァホテルにお泊りですか?」
「……ああ」
「では、ホテルまで。副社長用の車がありますので。二駅とは言え副社長が他の社員と満員電車で通勤、と言うのは……」
 外聞が悪い。なんてものではない。彼の副社長待遇は、他の部長以上級とほぼ同列で、重役フロアに勤める彼らは、そのステータスとして専用車を持っているし、それを当たり前と受け取っている。さすがに専任の運転手がついているのは社長以上のみだが。
 篠田の濁した語尾を察したのか、哉が小さな息を吐いた。
 実家に住まないのかと聞くのは簡単だが、こうして現在ホテルに居を構えていると言うことは、何らかの事情があってのことだろう。
 今日顔をあわせたばかりでそこまで突っ込んだことを聞くほど篠田は無粋ではないし、好奇心が猫だけでなく人も、命を取られるわけではないが社会的に殺すことがあることくらい、十分に弁えている。
 これも事前に仕入れた情報として、哉が殆ど社長家族と生活を共にしたことがないということを知っていたと言うインターバルのおかげだ。実際、篠田自身も本家の長男と長女は様々な場面で見かけたが、次男である哉の存在を全く知らなかった。
 上流階級の人々は往々にして家族関係が薄いものだとは感じているが、哉については段違いだ。穿って見れば存在そのものが故意に秘匿されていたとも感じられる。
 母親によく似た他の二人と違い、ニュートラルな状態では存在感が希薄で表情が薄いので今まで気付かれにくかったのかもしれないが、哉が正統派の『氷川一族』の者に共通した顔立ちであり、父親の若い頃にそっくりだと年配の役員たちが言っていた。
 社長自身、哉が自身の息子であることは当たり前の事実であり疑う余地もない様子だ。息子の方も父親が誰であるかは理解しているのだろう。
「わかった。車は?」
「地下に。こちらです」
 歩きながらで失礼しますが、と前置いて、篠田が明日以降のスケジュールを一つずつ伝える。
 篠田よりやや背の低い哉の表情は殆ど見えない。エレベータが地下に着き、全てを聞き終えてから再び分かったと短く応える。一つ一つ応えられるより早く説明が済むが、流れるように伝えた情報が漏れず彼の中に入っているのかは少々気になった。なったものの、哉が忘れていたならば、その時に伝えればよいことで、ここで自身の不安を払う為にもう一度スケジュール確認を繰り返すことは最初の関係作りと言う上ではよいほうに作用しない。
 地下駐車場内に、コツコツと己の靴音が響く。
 並んで歩いているのに、靴音は一つ。歩調が同じなのかと足元を窺っても、微妙にずれているように見える。同じような黒のビジネスシューズ。まさかソールに消音機能でもついているのかと疑えるほどに、無音。
 社長会長用スペースの隣に真新しい国産車がでんと停まっている。以前の副社長が使っていたものは、別の役員に回った。そう言えば副社長室の内装も突貫工事ですべて作り変えられた。そこまで徹底して前副社長の使っていたものを排除すると言うことは、長男との仲が最悪によろしくないと言う噂も本当らしい。その点については、父親はこの次男に配慮したのだろう。
 キーレスエントリで開錠した後、後部座席のドアを開けるとするり乗り込んだ。猫みたいな身のこなしで。
 猫と言う己の例えに、車の後部を回り運転席に向かいながら、篠田が少しだけ笑った。そう、猫が背をピンと伸ばして、何が見えるのかよく分からないけどじっと中空を見据えているようだ。ついでに何を考えているのかもよく判らない。
 エンジンをかけてナビをセットし、無駄口を叩かずに篠田がゆっくりとアクセルを踏み込んだ。



 その後は本当にあっと言う間だった。まず国内支社と取引先を巡ったのだが、大阪にある関西本社と神戸支社以外はスムーズに予定通りこなせたし、その後のアジア、欧州、アメリカにある支社をいくつかと取引先を多数回ったがこちらもあっさり問題なく終えられた。飛行機に乗っていた時間のほうが遥かに長かった。その間、暇ができれば哉は引継書を開いている。ページの一言を指でつついてなにやら思案もしている。
 が、その引継書はいわゆる『ドッグイヤー』と呼ばれる端を折った目印も付箋も、文章に下線も蛍光ペンのマーキングも一切ついていない。ついていないのに、彼が熟読している箇所は数箇所あるが読みたいページを開くにも何の迷いもなくスパッと一撃で開けている。何度も同じ場所を開けば癖がつくので、そのためだとは思うが前後を探すようなこともない。同じように幾度か読んでいる篠田のものより使い込まれているのに、やたらと綺麗だ。
 記憶力が桁外れに良いと言うことは、本社内のあいさつ回りについていたときに思い知った。先に社内報を見ていたのだろうが、主要な役職については紹介をする前にほぼ名前と顔が一致しているようだったし、業務の内容についても把握していた。
 次に国内外支社取引先だが、そちらについても全く問題なく顔合わせもスムースだった。ごくたまに、イレギュラーな人物や会社名が出てきた時はさすがに対応が鈍るが、いくつかのキーワードさえ提供すればすぐに相手にふさわしい話題を返している。話さない人物かと思ったが、ビジネスワーク上では相手を退屈させない程度の話題を持ち、話術もそれなりだ。
 デフォルトが無表情なので何を思っているのか推察し辛いのが難点と言えば難点だが、それ以外については子供じみた我が侭も言わないし、頼まなくても覚えるべきことはきちんと事前に完璧にインプット済みだし、仕事らしい仕事はまだ殆どないが、この過密スケジュールでも文句一つ言わない。ついでに、こちらが気を揉まなくても最低限の体調管理もできる。思いの外と言うより、拍子抜けするほど扱いやすい。
 十日ぶりに副社長室に帰ってみれば、その手前にある秘書室が様変わりしていた。デスクの位置が変えられて、出発前はいなかった秘書課内で移動してきた女性秘書二人と、今年の幹部候補生テストに合格した男性秘書が一人、各々のデスクで前の秘書たちから引き継がれたファイルを熱心に読んでいた。
 午前十一時に成田に到着する便で帰国して、その足で出勤したので、時刻は既に午後を大分回っている。
 一応のノックの後入ってきた哉と篠田を見て、三人が立ち上がって礼をする。篠田は既に三人とも顔を知っていたのだが、あえて秘書それぞれに挨拶をさせて、その奥の副社長室へ入った。
 重い書類やパソコンを詰め込まれた哉が長年使ってきたと思われるビジネスバッグは、出張中に絹を引き裂く悲鳴を上げて殉死した。現在彼が使っているのは現地で調達したブランド物のバッグだ。
 哉がバッグを音も立てず机において、中から白い記憶媒体を取り出し、ずいっと篠田に向けて手を伸ばした。
「入っている文書を全部プリントアウトして持ってきてくれ」
「わかりました」
 記憶媒体を受け取って、秘書室に取って返す。若い方の女性秘書、鈴谷にその役目を命じて自身のデスクに戻り変更されたスケジュールや追加の面会希望などに目を通していると、鈴谷がやってきた。
「あのう……篠田室長」
「なんだ?」
「あの中身、ざっと見ただけで紙にしたら三百枚くらいになると思うんですが……ここのプリンタだとどのくらい掛かるか……フォルダが五つあるので、とりあえず一つずつ、刷り上ったものから副社長にお持ちしたら良いですか?」
「そうだな。それからデータを移して、下の秘書事務室の高速プリンタも使わせてもらえ。瀬崎、行って来い」
 篠田が言い終わって内線を繋ぎ、事務室にプリンタの使用について了解をつける間に、鈴谷がデータを自身にあてがわれたパソコンにコピーして、記憶媒体を瀬崎に渡している。あとはアイコンタクトで瀬崎が頷いて部屋から出て行った。
 三百枚。一体何が書かれているのかと吐き出される紙を手にとって見れば、鉄鋼部門の現状と改善点、今後の展望など見やすい程度の行間をあけたレポートだ。
 哉が任された部門は五つ。一部門に単純に割って六十枚のレポート。これをあの移動兼休息の合間に業務をこなしていた十日ほどで書き上げたのか。
 刷り上ったものを手に、篠田は色々な成分を含んだため息をついた。



 ひと月ほどが経ち、一通りの諸段階を終えてやっと通常業務が送れる様になり、哉の仕事は一段と増えた。
 彼のレポートに添って各部門で改革が進み始め、細々様々と業務をスリム化して無駄を省く。
 それはイコールでリストラであり、人であれ物であれ関係企業であれ、その繋がりを断つと言う行為の難しさと心労は、実際携わるものにしか判らないだろう。
 その実、哉は少し痩せた様に見える。昼は社員食堂からのデリバリか契約している仕出屋の弁当で、夜はほとんどが接待したりされたりだ。そうした中で物凄い偏食家でさらに小食であることも判明した。
 感情を排して、黙々と非情な決断を下していく様は、白いのに血管の見えない肌も相まって哉を益々人間離れした生き物に見せている。そのあまりに一方的で独裁的な采配に、自分の倍ほど年かさの部下から私情まみれの苦情を突き上げられても痛烈な嫌味を毒針のように仕込んで切り返す。そんな時に唇の端を上げるように笑えば、どんな効果を撒くのかさえ計算しているのだろう。
 一部からは既に、実は人間じゃなくて氷川の技術者が極秘に開発したサイボーグなのだとかまで言われている。氷川哉のサイはサイボーグのサイなのだそうだ。秘書課の三人も、その意見には概ね賛成のようだ。鈴谷に言わせると、彼は物凄く熱エネルギーを効率よく消費して動いているからあのカロリーでも生きていけるらしい。
 篠田にしても、先日紙の端で指を切って血の滲んだ指を何事もなかったかのようにティシュに押し付け止血している姿を見ていなかったら、哉の体内を流れているのは赤い血液ではなく緑色の潤滑油だったと言われても信じられる。
 そのくらい、私情がない。表情がない。慈悲がない。容赦がない。
 どこまでも企業と言う生き物がより円滑に動く為に、不要なものを排除し、人間を含めた企業に付随する部品や歯車をより効率的に配置すべくこれまで不要なアクセサリをジャラジャラつけたような、無駄に肥大化した組織のスリム化を図っている。
 業務に心血を注ぎすぎて、接待のない日は放って置けば二十四時過ぎても執務室で仕事をしている。確かに後から後から仕事は溢れ出てきて、無理をしなければ追われ出すのは目に見えているのだが。
 大きな企業には、それなりの社会的責任が負わされる。確かな仕事をしなくてはならないことはもちろん、従業員の福利厚生についてもだ。毎週水曜は平社員については全て、ノー残業デーになっていて、きちんと仕事を終えて定時に帰らなければ逆にペナルティがつく。役職については例外が認められるが、示しがつかないので暗黙の了解の下、それぞれ定時とは行かずともいつもよりはかなり早く退社する。
 新調したバッグにノートパソコンと一緒にみっちりと書類を詰め込んで、哉もまた篠田に促されて午後八時ごろ退社した。
 そんな忙しい中でもそれなりにステイタスに見合った、会社から三十分ほどの場所に物件に居を構えた。篠田はどんなに忙しくとも毎日迎えと送りを自身でこなしていた。
 車の中での様子も、観察しておくべき場面だからだ。
 後部シートの哉は、柔らかいがしっかりしたシートに背を預けて目を閉じている。が、寝ているわけではない。情報を頭の中で整理するとき、彼は大抵目を閉じている。車という閉塞空間は本を読んだり字を書くのにはあまり適していないので、時間を有効に使うべく、まとめの作業をしているのだろう。
「では、翌朝お迎えに上がります」
 マンションのエントランス前にゆっくりと停車した車から、するりと哉が降りる。篠田の挨拶にほんの少し頷いて。
 明るいエントランスへ向かう背中は、もともとの骨格が細身だからか酷く小さいが、しゃんと伸びていて頼りなくはない。しかしそんな風に自宅を目の前にしても姿勢を崩そうとしない姿に、できれば息を抜く時があってもいいのにと思ってから、ウインカを出してバックミラーを確認し、篠田はアクセルを踏み込んだ。



 最初は小さな違和感だった。
 何がどうとははっきりとは言えないけれど、何かが確実に変わってきていることは判る。そんな微妙な感覚であり、それを表現することはできない。
 例えば、人間の顔のパーツは一ミリもずれたら驚くほど別人になったりするが、そこまでとは言わずとも生き物である以上毎日少しずつ変化しているものだから、地球の地殻変動くらいの速度での変化だからなんとなく、昨日と雰囲気が違う……くらいのものでしかないのだが。
 ただ、ある朝突然唐突に、昨日まで取引中止で決定していた協力工場を大幅なリストラと改革を前提としていたが取引継続リストに返り咲かせた。バブルを未だに引きずっているような企業体質で、真っ先に切り捨てたその会社の再生計画を自ら立てて成り行きを見守っていく構えらしい。
 初めて私情を挟んだのかと表情を窺っても、無表情に長年の付き合いのある提携会社に取引をやめると告げた時の顔と変わりがない様で、その時は全くその理由が判明しなかった。
 執務室で仕事をしている時は全く以前と変らないが、偏りまくった食生活と激務の為にもともと『最低限』だった体調管理もおろそかになり始め、失いつつあった人間らしさが戻ってきた。一時よりも肌の色艶も良くなってきているおかげだ。
 強引で独裁的な采配で始まった工業部門の再生計画も、反発を受けながらも、少々遅滞がありつつも、哉の提案したプランに沿って進みつつある。
 年末年始は、カレンダー上十三日の連休になっているが、哉にそんなものは関係ない。ここぞとばかりに仕事が詰め込まれている。やっと目処が立ちつつあるのに、ここで人並みに休んでしまえばまたどこかで綻ばないとも限らない。来年の年末は静かに長く休みが取れることを祈り、仕事ばかりの二ヶ月に文句も言わない妻に感謝しつつ、篠田は哉に付き合って出勤だ。ついでに加えると、女性秘書には少し短めで十日ほどの連休があるが、瀬崎は道連れだ。
 そんな休日出勤を終えて、いつもより空いている道をマンションへ向けて走る。
 いつからか、送り届けた時に彼の部屋の電気がついていることには気付いていたけれど、歓迎できないような変化はなく、寧ろ仕事はしやすくなっているので篠田はその件について社長への報告を留めている。
 帰りの車の中、いつも口元を引き結んで己の中に埋没する哉が、時々不意に笑みをこぼす。バックミラー越しにだが、初めて見たときは一瞬握ったハンドルがぶれるほどびっくりしたが、無意識に上がっている口角は、考えの足りない者の発言に辛らつな切り替えしをした後のそれと全く雰囲気が違う。
 いつものようにするりと車を降りて、その背中がふっと力を抜くのがわかる。仕事中は一切力を抜かずいつだって気負ってしゃんとしているし、以前は車から降りてもその状態を維持していたのに。
 常に緊張状態でフル稼働。以前の哉は家に帰っても仕事のことばかり考えていたに違いない。けれど最近は、そんなピンと張った単調な生活は緩やかに消失して、良い意味で緩むことが出来ているらしい。メリハリがあると言う事は、常時張り詰めているより効率がいいものだ。



 仕事においても私生活においてもよい方向へ向かっていると思っていた矢先。



 これまでの更生計画の進捗状況の報告会で、それは起こった。まず、哉が決断を翻して残した会社が槍玉に挙がり、そこをついてきた同業の社長を哉が言いくるめた。ここまではいつもの流れで、哉はその一身に彼らの非難を受けて立っている。
 どれだけマイナスの感情ばかりを投げかけられても、それでもその感情を買って、同じく感情で返すことを哉は一度もしたことがない。怖いくらい冷静な態度で理路整然と相手を袋小路に追い詰めると言う、どちらかと言うともっと酷い手法で攻めて行く。
 そこまではいつもの流れだった。しかし、いつも隅っこに居て、これまで一度たりとも発言をしたことのない、ここに集められたメンバーの中でも若い方の部類に入る男がぼそりと呟いた一言がいけなかった。
 どこかから流れる噂など、巡り巡って皆の耳に入っている。誰もが氷川の長男と次男の軋轢は聞き及んでいたはず。言った本人も、つい本音がポロリと零れただけだろうが、運悪く会議室内は哉の短いが辛らつな言葉が劣化ウラン弾のように、後々にまで禍根を残しそうなレベルの絨毯攻撃が繰り広げられ、相手社長の陣地が灰燼に帰した余韻で他の音が全くなかったのだ。
 誰もが哉と目をあわそうとせず、言った当人ももともと気の小さい人間なのだろう、真っ青になって俯いている。
「言いたいことはそれだけですか?」
 逆に、やさしい口調が更に冷え冷えと室内に広がった。
 会議室内は眠くならない程度にゆるく暖房が効いていたはずだが、いきなり氷点下になったかのような錯覚を起こすほど空気が冷える。
 口元は笑っているが、その瞳は蒼い氷点下の焔を上げている。その場にいた数名が武者震いをするように体を揺すらせていた。
 放っておくと錯覚の冷気を当てられている彼らの体が本当に凍りかねない様子なので、哉の隣で補佐していた篠田が音頭を取って次の報告会の日時を告げてお開きにした。
 コソコソと逃げるようにいい年をした大人が背を丸めて去っていくのを哉が睥睨するように見送った。誰もいなくなってから、下らないとでも言いた気に固いイスに背を預けてフンと鼻を鳴らしている。
 哉がこんなにも感情を顕わにする事は……これまでなかったことだ。少なくとも、今日集まった面子には哉が人並みに感情を持った人間だと言うことが理解できただろう。
 それでも五分ほども静かに座っていれば切り替えができたらしく、音を立てずに立ち上がってさっさと執務室に帰って他にも山とある仕事に取り掛かっていた。
 毎度変わらず午後八時を過ぎても腰を上げない哉を、それでも執務室から追い出したのは午後九時を少し回った頃。そのまま家まで送ろうと進路を決めた篠田に、哉が初めて家以外の目的地を指示した。
 こちらからの接待でよく使う、雰囲気のよいクラブに向かってくれと言われて、どうしたものかと考える。が、顔が知れている飲み屋であるのならと諒解して車を進め、一人でいいと篠田の同行を断った哉を置いて車を少し走らせ、クラブに連絡を入れておく。そうすれば、無茶な飲み方をする前に止めてくれるだろうと予測して。
 なので、その後、哉がどうやって家に帰ったのか篠田は知らない。さすがに後数年で三十になろうかと言う青年の同行を首に縄をかけて見張るほどではないだろうと思ったのだ。
 だが、翌日マンションへ迎えに行ってみれば、いつも定時にエントランスに姿を現すのに一向に出てくる気配がなかった。どうしたのかと自宅に電話を掛けてみれば、酷く慌てた様子で応答し、相手が篠田だと判って落胆したのか冷静さを取り戻したのか、十分待てと言って電話を切り、きっかり十分後にエントランスを出てきた。
 後部シートの哉をちらりとバックミラーで見ると、本人も気になるのか、しきりに左のこめかみに貼られた、ガーゼ部分にまだ色合いも鮮やかな赤いシミを滲ませた絆創膏を触っている。
「まだ出血もあるようですし、今日一日は剥がさずそのままのほうがいいと思いますが」
 篠田が、無意識なのか絆創膏の端に爪を引っ掛けている哉にそう言うと、ため息未満のような息を吐いておとなしく触らなくなった。
 これは、これから顔をあわせる秘書たちの反応が楽しみだと思っていたら、案の定三人とも朝の挨拶も曖昧になるくらい驚いていた。哉が執務室へ消えてたっぷり一分くらい経ってから鈴谷が『普通の人間っぽい……』と呟いたのをきっかけにやっと動けるようになったほどだ。
 朝のコーヒーを運んだ時に見た、肌色の絆創膏がその白い肌に全くそぐわなくて浮いている。と言うのはまあ、感想として有りだとは思うが、その後の一言に篠田も笑ってしまった。
「だって、血が赤かったんです!!」
 では何か。緑か青かったら鈴谷は納得したのだろうか。
「血が出て汚れてたし、新しいの持っていったほうがいいんでしょうか?」
「……鈴谷さんが持ってるのってアレでしょ、リリィちゃんだっけ……ウサギ柄の。さすがにそれは、成人男性には嫌がらせですからやめてあげて下さい」
 己のデスクの一番上の引き出しを開けて、ポップにピンクな缶に入った絆創膏の在庫を調べていた鈴谷が誰に問うでもなく言った独り言に、瀬崎が真面目に返している。同じ部屋で三ヵ月近く一緒に仕事をしていれば、最初は緊張していた瀬崎も言いたいことを言うようになってきた。
「案外似合うかもしれないわよ?」
「増本さんまでやめてくださいよもう。一応今日、昼から会議入ってるんですよ。それまでに取れたらいいんだけど。あんなトコ、転んでも中々血が出るような怪我ができるトコじゃないし……ってことは殴られた? ケンカか何か……するような人に見えないんだけどなぁ」
 哉の今日のスケジュールを今一度確認していたらしい瀬崎が、女子に人気のキャラクタがプリントされたかわいいハニーピンクの絆創膏を己が貼れと言われたかのように弱弱しく反撃しているが、女性陣のほうが強いのだ。各個打破もままならないくらいに。
 そんな麗らかな雰囲気の秘書室とは対照的に、その日の哉は散々だった。普段なら決してやらないようなミスをしたり、聞き流しているようできちんとインプットしている情報を本当に聞き流してしまっていたり、だ。
 とりあえず、重要な案件はないし、昼休みに瀬崎が買ってきた、より目立ちにくい色合いの絆創膏に貼り替えて出席した会議にしても時間がかかるだけで実りなく終わった。
 何となく、心ここに在らずな様子。いつもが必要以上にしゃんとしているせいか、こんな風に芯がない状態は見慣れない以上に想像も出来なかったので、周りが何となくソワソワしている。極めつけは会議後に執務室へのドアを開けて入ろうとして、然程急いでいる様子でもなかったのに半開きのドアにゴンっと音がするほどぶつかった。そして、ぎょっとした四人分の視線も、ぶつかった痛みも感じていないのかそのままするーっとドアの隙間から中に消えてしまった。
 秘書室の面々……鈴谷がチラチラと執務室と隔てるドアを窺いながら『電池切れちゃったのかなぁ もともとHP少なそうだもんなぁ MPはカンストしてそうだけど』などと言っている。もちろん、言い方はアレだが心配はしているのだ。
 その翌日も似たようなもので、一応呼び出さなくてもエントランスにいたものの、一段と増して憔悴した様子だった。そして輪をかけて仕事が出来なかった。いっそ見事なくらいに。
 いつもは殆ど使用していない様子の携帯電話の着信履歴を気にして、数十分おきに確認している。
「副社長、ご気分が優れないのでしたら、今日はもうお帰りになりますか?」
 定時を待ってそう提案すると、パコンと携帯電話を折りたたみながら逡巡の後に同意してくれた。
 まだ冬の最中なのに、あの朝からコートを着なくなった。昨日も回り道を指示されて狭い路地を用心深く低速で通り抜ける時、板塀に囲まれたこじんまりとした診療所が見えて、哉が口を開きかけて結局何も言わずにわずかに乗り出した体をシートに預けてしまった。
 何より、マンションの部屋の電気が消えているのが気がかりだ。
 何かあったのは違いない。違いないが、そこまで入り込むべきか考える。はっきりと哉の口から現状を告げられれば、篠田には上へ報告する義務が生じる。実際、哉に何か変化があればその情報を上げるよう指示を受けている。
 知らなかったことにするべきか。
 知っておくべきか。
 昨日も見た建物が近づく。少し減速して、バックミラー越しに哉を見る。
「止めますか?」
 できるだけやわらかく問うと、哉がふっと自嘲するような表情を作る。
「いや、いい。そのまま行ってくれ」
 そう応えて、ずるずるとスーツに皺が撚るのも気にならないのか、後部シートに寝転がってしまい、バックミラーから姿が消えた。



 珍しく早く帰ってきた篠田を、ぎょろりと大きな青灰の瞳が見上げて、黙ったままじっと凝視している。目が合っても、彼女は絶対に自分から逸らさない。
 玄関の下駄箱の上に敷かれたムートンの上に、それに負けないつやつやした黒い毛皮をまとった猫が伏せている。子猫と言うほど小さくもなく、成猫と言うほど大きくもない、中途半端な思春期を思わせる体躯。真冬でも天窓から日光が射して、日が暮れても玄関は暫く暖かいので、おそらく昼間から今までいぎたなくここで寝ていたのだろう。
 クリスマスのその日、雪に変らない程度に冷たい雨の中、車庫の前でずぶぬれで震えていたところを篠田に拾われた彼女は、三日ほど文字通り猫をかぶって警戒心も顕わにおとなしく過ごしていたが、この家に慣れた今では家人よりふてぶてしく暮らしている。妻は何度か撫でたり洗ってやったりしているらしいが、命の恩人とも言うべき篠田は、拾ったとき以来手を出そうにもシャーっと威嚇されて触ることさえ許されていない。
「お帰りなさい。晩御飯、まだ出来てないの。あら? 五十四号ったらこんなところにいたの?」
 哉を降ろした後に電話をしておいたので、帰宅が早いことに関してはあえて問わない妻の声に篠田が視線を逸らした直後、とんと床に下りてゆっくりした足取りで奥へ歩いていく。ちなみにこの変な名前は妻の命名だ。
 黒猫からクロ。逆さにしてロク。そこで留まらずロックになって、六掛ける九イコール五十四と言う具合らしい。
 哉のマンションより更に三十分ほど郊外に走ったところに篠田の自宅はある。もともと篠田の両親が暮らしていた土地に建てた家で、現在彼らはもっと便利のよい都心のマンションに引っ越してしまったので、一度更地にして、ハウスメーカー製の四人家族用だった以前のものより少し小さな家を新築した。
 スーツの上着だけ脱いで夕刊を持って居間へ行けば、座り心地のよいソファには既に先客がいる。丸くなってくれればいいものを、堂々と足まで伸ばして占拠だ。猫が喋ることができたのならきっと『何か文句でも?』くらいは言っていそうな態度でのさばる黒猫に一瞥をくれて、ダイニングのイスに座るのと同時に、テーブルに置いた携帯電話が震えだす。その振動音が気に入らないのか、五十四号が耳としっぽをビビッと振るわせた。
 発信者は氷川哉。お互い電話番号を交換したが、実際電話が掛かってきたのは初めてだ。殆ど一緒にいるから当然なのだが。
 やり取りは予想通り簡素で、伝えるべきことを伝えて通信は終わった。
「お仕事の呼び出し?」
「いや、その逆で明日は朝も少しゆっくりできそうだ」
 アドレスから瀬崎の番号を出して、哉ともども出社が遅くなる旨を伝えて携帯電話を置いた篠田に、食事を作りながら尋ねてきた妻に応える。
「あら、珍しい。じゃあ今夜ちょっと遅くまで付き合ってくださる? 姉さんが怖い映画のDVDを貸してくれたんだけど、ホントに物凄く怖くて最初のほうちょっとしか見れてないの」
 そんなに怖いのなら見なければいいのにと思うのだが、それは『怖いもの見たさ』と言う言葉の通り、見ないと気が済まない物らしい。相変わらず、タイトルを聞いても公開されていたことすら知らないようなB級ハリウッド物。ただ、時々低予算ゆえにリアルに怖い作品もあるのでそれなりに楽しめる。
 そう言えば最近めっきり妻の趣味に付き合っていなかったことを思い出して二つ返事で諒解し、ざっと目を通した夕刊を閉じる。
 子供がいないなりに楽しんでいる夫婦の会話を聞きながら、黒猫が一度伸びをしてごろんと面倒くさそうに寝返りを打った。



 少し待っていてくれと言い置いて、哉が古めかしい観音開きになった診療所のドアをくぐって、たっぷり十五分。
 さすがに待つには少々長く、一度車の中に戻ろうかと思った矢先に、ギイギイと遠慮なく軋みながら木製のドアが開かれた。
 先に哉が出てきて、その後からふわふわした長い髪の少女が付いてきた。さらに見送りらしき男女が二人。
 どう見てもまだ十代。一応後半か。哉の近くに誰か──異性がいることは薄々気付いていたものの、想定外に若い。いや、若すぎる。
 この存在はどうしたものかと思案する篠田をよそに、少女がその二人にお辞儀をして別れを告げているのを、哉が一度足を止めて待ち、彼女が再びこちらを向いたのを確認してやってくるのを見て、篠田は後部座席のドアをいつもよりやや慇懃な身振りで開けた。
 そんな篠田を一瞥して、何も言わず哉が乗り込む。その様子を見て自分も同じようにしていいのかと少女が戸惑うように篠田と哉、交互に視線を動かしているが、車の中の人物は全く気付いていないらしい。
「どうぞ」
 促した篠田にぺこんと頭を下げて、さりげなくスカートを気にしながら、哉の横に乗り込んだのを見て、ドアを閉める。車が出るまで見送るつもりらしい男女にも一礼をして、アイドリングを続けていた車の運転席に戻って車を発進させた。
 車に乗っても、哉は少女に顔を向けようとせず外を見たままだ。少女の方は知らないケージに入れられた小動物の様になにやら落ち着かない様子で微妙な緊張感を漂わせている。
 暫く説明を求めるような視線を哉に向けていたが、微動だにしない様子に諦めて視線をさ迷わせ、不意にバックミラー越しに視線が合ってしまい、あからさまにばっと逸らされた。しかしそれは不愉快なものではなく、むしろなにやら微笑ましい。
 診療所から哉の住むマンションまでなど、十分少々しかかからない。無言の空気ごと、車はあっと言う間に人間たちを目的地へ運んでしまった。普段どおりエントランス前に車を止めると、歩道側に座している少女がまたもや挙動不審だ。
 自分で降りるべきか、先ほどのように開けてもらうのを待つべきなのか。全くの初対面で部外者の篠田でさえ、彼女の疑問は手に取るように判るのに、視線で必死に問うているのに、哉は全く気付いていない。
 放っておいたら益々パニックを深めそうな少女の為に、篠田が降りてドアを開けてやると、それを見て慌てて車から降りて、礼を言いながら頭を下げてくれる。
「すいません、ありがとうございました」
「いえ」
 下げた頭を上げて、車から降りてくる哉を不思議そうに見ている。
「あの、仕事は?」
「キーを持っていないだろう。篠田、すぐ戻る」
「わかりました」
 送ってもらうのはここまでだと思っていたらしい。その質問にため息と一緒に答えて、彼女の返事を待たずにさっさとエントランスへ向かってしまう。
 その背中を見て、追おうとして止まって、篠田を振り返って少女が再びお辞儀をした。
「えっと、すいません。ご迷惑おかけしました」
 そう言って、少女が走って哉を追いかけていく。すぐに奥にその姿が消えてしまう。
 控えめで自己主張がないので目立たないが、すれ違った後、振り返ってしまうようなタイプ。
 どうしたものか。
 彼女は『誰』なのか。
 その答えはすぐに浮かぶ。去年、哉が唯一挟んだ私情を窺わせる決定の反故。なぜか残された協力工場。先日、槍玉に挙げられた行野プラスティック。あの時は、至極冷静に切り返していたし、その直後に長男の事が話題に上ったので気付かなかったが、長男のことの前から哉はかなり、不機嫌だったのではないかと思い至る。あの氷点下を思わせる怒りは行野プラスティックと長男の話題と言う、各個ならばギリギリ臨界点を越えない危険物だったのに、それをうっかり同じバケツでかき回してしまった結果の臨界突破(メルトダウン)か。
 何にせよ、少女のことは関係者を調べればすぐに判るだろう。
 判ったところで。
 せめてもう少し、そう、あと五年。あと五歳。
 せめて、少女の域を脱してくれていたのならば、上への報告をここまで躊躇しなくてよかったのにと考えて、ふっと笑ってしまった。
 躊躇。
 なぜ、何を悩む必要があるのか。どうして彼女の年齢などと言うことに問題を摩り替えようとしているのか。
 揺れているからだ。己の心が。
 ぐらぐらと。鋭利に切り立った三角柱の上でバランスを取るように。
 哉か、その父か。
 篠田の立場から言えば、報告は至上であり必須。
 だが、報告をすれば速やかに、最適の方法で二人は別たれる。
 常識では、どう見ても高校生然とした少女などとは離れるべきだと判っている。社会的規範の中で、そんな子供を親元から離して一人暮らしの成年男性が近くに置くべきではないことなど明白なのだ。
 こんな事実が外に漏れでもしたら。攻撃材料を欲している輩に知られたら……どうなるかなど明白だ。今更ではあるが、知った以上速やかな対処が必要だ。
 そこまで頭で理解しているのに、篠田の感情は傾かない。
 少女を見たのは、これが初めてだ。
 どんな為人(ひととなり)なのかなど、わずかの会話で全てが判る訳がない。
 全ては判らない。
 けれど、今、彼女を哉の元から排除すべきではない、と言うことは判る。
 確信はない。自信などもっとない。ならば、安易な方を──社長に報告して全てを終わらせてしまう方を選べばいいのに、それは出来ない。
 こんなにも優柔不断だったとはと少し笑って、顔を上げるとちょうど哉がエントランスの自動ドアの向こうから出てきた。
 車のドアを開けて哉を迎え入れ、運転席に付いた時、後から体中の空気が抜けるような盛大なため息が聞こえた。
 まだ車を走らせていなかった篠田がバックミラー越しではなく、すいと後を窺うと、シートに深く腰掛けて姿勢よく座っていたはずの哉がずるずる腰を浅いところまでずらして、クラゲのように軟体化している。
 どんなに敵意をむき出しに責められたあとでも、どんなに非情な決断をしても、どんなに綱渡りな状況を脱した時も。哉が張り詰めていた精神の反動を思わせる行動を取ったことはなかった。最近軽く力を抜けるようになったのだなと感じていたが、昨日と言い今日と言い、あの少女が絡むと哉は無意識にいつもは体の中に充填している何かを放出してしまうようだ。
 篠田の視線に気付いて、哉が軽く右手を上げたあと、体勢を直した。
「すまない。出してくれ。私用につき合わせて悪かった」
 再び座り直してそう言うと、哉は一仕事終えたような充足感や、期待通りに物事が運んだあとの安息、安寧感。そんなものを漂わせながら自分の殻の中に入り込み、背をシートに預けて目を閉じたので、この時、篠田がどんな顔をしていたのか見ていなかった。
 ああ、そうだったのか。と、一人納得して、深く笑った顔を。
 不自然にならない程度の間の後、短く返事をして、ステアリングを握り、後方などを確認。ウインカーを出して、車を発進させ、篠田は思考を続行する。
 哉に呼ばれて指示を受け、車を運転し少女を迎えに行ってここまで送ったが、それらは全て哉の『私用』なのだ。そんなことに今更気付くほどに、篠田は哉を中心にして動くことについて何の疑問も持ち合わせていなかった。
 更に言えば、哉も私用と知りつつ篠田を呼んだということになる。別に篠田など呼ばずに自分の車を持っているし、自身で解決できないわけではない。
 篠田をもっと遅くに呼び、その前に済ませてしまえるようなことだし、済ませてしまうべきことだったと言える。
 哉とて、篠田が社長の息がかかった中途半端な間者であることなど、最初から判っていたはずだ。
 なのになぜ、致命傷になりかねない弱みとも言うべきあの少女を篠田に見せたのか。
 試されているのかと一瞬頭を過(よぎ)るが泰然と平素の通りでひとかけらさえ篠田を疑わない様子。スタンスを今ひとつ読み取れない。だが、哉の思いも一つではないはずだ。
 一応の信頼されている。そう思うことは自惚れからではない。その上で試されているのだ。
 だからこそ、篠田の気持ちは揺れた。哉の信頼をとるのか、それともその父親のものを取るのかで。
 哉のこれまでの仕事振りを見ていて、全力で補佐をしてきて、哉の為人はかなりの部分で把握できている。年は随分下だが、トップに立つべき人間が備えていなければならないものはほぼ習得している。会社と言うものは大きくなればなるほど、時折やや強引なくらいのトップダウンが必要になる。
 重役が仲良く会議で決めていくと、そこに渦巻く駆け引きの為に、折角のプランが骨抜きになることも珍しくない。中途半端な決定は現場に混乱を齎し、動きを悪くして負のスパイラルへと否応なく流されて、結果損失を生むのだ。
 トップに立つ人間がある程度、強引とも言える決定を下せるかどうかで、明暗は分かれる。
 こと仕事に関して、哉には迷いがない。決定を下すまでに、哉は誰の手も借りず一人で煮詰まるほどに熟考する。様々な予測を立てて、最善の道を探し、決める時には迷わない。その面では例外である行野プラスティックの再生リスト復帰についても、すばやい決断、計画の策定と、最善を尽くす姿勢に変わりがなかった。
 その哉が、行動を決めても実行に移すことに躊躇したのがどうやらこの『迎え』なのだ、きっと。
 裏側に色々な思惑が混在していても、結局のところ、哉は一人で迎えに行くことができなかったのだと、篠田は確信する。
 そしてそれを見届けることを要求されるのであれば、それ以上でも以下でもないもので返すことが、先へ繋がる。
 確信はない。勝算も薄い。しかし、何を持って勝ち負けを決めるのか。負けるが勝ちとはよく言ったものだと思う。
 青臭い感情で付いて行くことはできないが、醜い大人の打算で割り切ることは出来る。
 哉が哉であり続けるのならば。



「瀬崎、これを英語とドイツ語に翻訳。期限は月曜だ。鈴谷、こっちは分類してファイル」
 副社長の執務室から出てくるなり指示を出した篠田に、既にオーバーワーク気味になりながら机にかじりついていた二人が揃って絶望の深遠を見たような目を向ける。
 無理もない。
 瀬崎に渡されたメモに書かれた内容で計画書を作ろうと思えば当たらなくてはならない資料が膨大すぎる。その上、翻訳作業付きだ。本人は自分の能力について過小評価しがちだし、女性陣もそう言った瀬崎の性格を把握して軽く虐めるので仕事が出来なさそうに見えてそれなりにスキルは高い。今与えた仕事も、様々な作業と平行しながらおそらく週末を待たずに上げてくるだろう。
 鈴谷の机の上にはもう既に山のようにファイリングを待つ書類が折り重なって積まれている。処理しても処理しても、増えていくからだ。
 午前十時過ぎ。哉の出社が遅れると聞いて、ここ数日の彼の様子も相俟って(あいまって)秘書室にはいつになくのほほんとした空気さえ流れていた。
 それが一転、この忙しさである。これまでに遅滞していた分だけでなく、とにかく現状において出来うる仕事全てが同時進行だ。
 鈴谷が限られたスペースで慎重に書類を分ける。崩したら仕事が増えてしまう。雪崩れないように資料をまとめながら、瀬崎が秘書事務室から借りてきた巨大な穴あけパンチ器に全体重をかけて分厚いそれに穴を開けている。
「ああもう、紙じゃなくて電子データで保存してくれたらいいのにっ! 増本さんも手伝ってくださいよー」
「無理に決まってるでしょ。私の方が急を要するのよ、そっちこそ手伝ってよ」
 哉がどんどん進めていく決済のアオリを食って、増本も関係各所との連絡、調整、報告と、右手に七色インクのボールペン、机の上には下が見えないほどに色とりどりの大型付箋が増殖し、現在保留状態らしい受話器を肩で押さえて左手は手元の資料を捲っている。
「大体こういう連絡調整は瀬崎君の仕事でしょうが。アンタこないだまで営業にいたんでしょ? 代わりなさい」
「無理。俺の扱ってたのはルーチンワークの消耗品だったから、売り込まなくても受注できたんで、交渉とか無理。俺、温厚がウリなんです。取引先にケンカ腰で怒鳴り込みとか無理」
「アンタそれでも男なの? どうしてどうやって幹部候補テストに合格したのよ」
「それは俺が聞きたいです……」
 苛々している増本に痛い所を抉られて、瀬崎が小さくなった。それを見て増本も少し溜飲が下がったらしい。保留になっていた電話から漏れてくるなぜだか郷愁を誘われる電子音が途切れ、目的の相手を捕まえた増本が畳み掛けるように相手に無理難題を押し付けている。並みの営業より怖い駆け引きの末、半分安堵、半分予定通りとでも言いたそうな表情で受話器を置く。
「室長、皆本鋼材、なんとかこちらのプランに合わせてもらえるようです。これをネタに他も調整します。全く。一番面倒なのが自社の部長とか、洒落になんないわ本当。って言うわけで一番ヒマそうな瀬崎君、ちょっと三島部長のところに行ってハナシつけてきてよ。在室確認は……よし、いる」
 パソコンで重役の所在を確認して、増本がニッコリ笑って書類を封筒に突っ込む。
「ヒマなんかないですよッ! 無理無理ムリッ! 男が行っても無理ッ!! 俺よりもよっぽど鈴谷さんが行った方がハナシがスムースに通りますからッ!」
 少々先ほどの毒舌攻撃にへこたれながらも社内LANを使ってライブラリから必要な資料の所在を調べていた瀬崎がパソコンから顔を上げ、ぶんぶんと首を振っている。実際、ある意味わかりやすく男女差別をする三島は、若い男が行くより、若い女の子が行った方が機嫌よく応じてくれる。
「じゃあ鈴谷ちゃん。ファイリングはあとからでもできるでしょ? ちょっとお使い行ってきて」
「えええええー あのトド部長の部屋、変なニオイするから嫌ですー!」
 三島は、哉とほぼ同時期に部長に昇格したやたらと横向きに体格のよい中年男性だ。セクハラととる人には十分受け止められそうなオヤジギャグを得意とし、いつもなんだか油っぽい印象の。鈴谷が言っているのはそんな彼が愛用している、昔ながらの銀色の小さい粒状の口中清涼剤の匂いのことなのだが、たった数ヶ月で表現しがたい匂いが部屋に染み付いているのだ。
 そんな、いろんな意味で昭和な三島は、己より年が下だったり役職が下だったりすると、露骨に嫌がらせめいたことをすることでも有名だ。さらに、社内にいる『下っ端』が電話で用件を告げるなどしても取り合ってくれないことが多い。どうするかと言うと、彼が在室中に直接『お願い』に行かなくてはならない。鈴谷はちょくちょく『お使い』に行かされているので、その匂いをよく覚えている。
「書類渡してニッコリするだけなんだから、息止めときなさい。昔はあのニオイ撒き散らしてるオッサンがもっと大量に居たのよ? そんなこと言っていつか三島部長付きになったらどうするのよ。と言うか、私が推薦するわよ?」
「いっ 嫌です! 行きますよもう」
 そう言いながらも、さすがにファイルしてもファイルしてもあとからあとから湧いて出る資料に辟易していたらしい鈴谷がさっさと立ち上がり、増本から封筒に入れられた書類を受け取る。
「ちょっと俺も資料取りに行ってきます」
 哉のメモと自身のメモを持って、瀬崎も立ち上がり、鈴谷ともどもそそくさと部屋を出て行った。
「室長、とりあえず、副社長への報告、お願いしま……あれ? 通話してる?」
 二人を見送って文字通り一息ついた増本が、本来の文書に赤字で書き込んだA四用紙を手渡し、ふと電話を見てつぶやいた。篠田もつられて見ると、確かに外線ランプが一つ赤く光っている。
 外部からの哉への電話は、まず総合受付からこの秘書室へ取り次がれて、そこから副社長室へ繋がれるのだが。はたと二人で顔を見合わせる。副社長室と合わせて、引いている外線は二本。そのうち一本を先ほどまで増本が使っていたが、秘書室には三台の電話がある。外線の知らせはいくらでも出来たはずなのに。同じ疑問に増本も首をかしげている。
「副社長秘書室(ここ)飛び越して直接……? 副社長から外に電話したのか。あ、切れた」
 無言で過ごしたのはものの三十秒もかからない時間。
「まあいい。増本さん、他の調整を」
 思案顔の増本にそう言い置いて篠田は受話器をとり、内線で哉に繋ぐ。先ほどの電話が何だったのか。けれど、電話越しの哉はいつもと殆ど変らず、いつも通り淡々と用件のやり取りのみで早々に電話は切れた。
 その後も、普段どおり午後九時過ぎまで仕事をこなして篠田の運転する車で家へ送る。見上げる部屋には明かりが灯っていた。
 『家に帰った』顔で車を降りて哉がエントランスの奥へその背中が消えるまで見送って、篠田は再びアクセルを踏み込んだ。



 それから暫くは、ただ平穏に日々が過ぎていった。
 ゴタゴタとした三日間ほどを挟んだ後も、静かに。
 静か過ぎる事になぜか不穏を感じた。いつもはエサを与えてくれるでも、遊んでくれるでもない篠田のことなど気にも留めない黒猫が、あの三日間以降、毎日毎日じっと物言いた気に見つめいる様な気がするせいだろうかと責任転嫁して気を落ち着けようとしたところに、社長である越から呼び出された。
 用件を伝えられなくとも、内容などたやすく想像がつく。
 呼び出しの電話は、月曜の朝早くに齎された。朝一番で本宅へ顔を出すようにとの指示を受け、すぐに瀬崎に連絡を入れ、すぐに会社の予備の車を使って哉を迎えに行くように指示を出す。
 山の手の一等地。長い長い塀に囲まれた日本家屋が連なる本宅の、濡れ縁で続いた離れが、篠田の本来の雇い主の書斎になっている。
 真冬の寒さは、日中こそ若干和らいできたが、朝と日暮れはまだまだ寒い。白髪の家令の先導の申し出を断って白い息を吐きながら、一人廊下を渡る。
「篠田です」
「入れ」
 縁で一度座って建て付けのよい障子戸を静かに開け、にじり入って両手で閉め、その場で主人に膝を向け、居住まいを正し平伏する。
 涼しい音をたてて、膝まで滑り込んできた封の開いた無記名の茶封筒から、大判の写真が幾枚か零れ出ている。
「今朝早くに届いた」
 一度深く礼をして、半ば投げ渡された封筒を手に取り、中を改める。まず、どこから写されたのか、マンションの玄関先らしき写真が数枚。他にも通学中らしいが視線が他を向いている少女の写真が無意味なほど大量にあり、小ぶりのダブルクリップで留められた行野樹理についての調査書、それとは別に一枚だけの白い紙。否、真ん中に、アルファベットと数字の羅列。これは、欧州にあるあの有名な銀行名か。
「その様子では、やはり知っていたな……全く……何のために哉にお前を付けていたのか」
 さして動揺も見せない篠田に、嘆息交じりの声が届き、続いて今度こそ確実に、投げてよこされたのはカードキーだった。哉が自ら預けたとは考え難いが、このくらいのものなど簡単に入手してしまうのだろう。目の前の男は。
「娘の父親が経営する工場の資料は目を通した。そちらはとりあえず今のままで構わん。だが娘の方はこのままにしておけん」
 衣擦れの音がして、立ち上がる気配が届く。更に身を低くした篠田を置いて、その気配は奥の襖の向こうへ消えた。
 暫くそのままの体勢で留まり、室内の空気がしんと寒く落ち着いてから封筒と取って面を上げる。
「……潮時か」
 苦い笑みを噛みそう呟いて、篠田もゆっくりと立ち上がった。



 やけに重く感じる茶封筒を助手席に放って運転席のシートに身を預ける。一度目を閉じて息をつき、気分を切り替えてそのまま自宅に戻った。午前中に連絡もなしに帰ってきた夫を見て、妻もさすがに驚いていたが苦笑いをして見せたら何も聞かずに昼食は篠田の好物を並べてくれたし、孤高を楽しむのが信条な黒猫までも、慰めてくれようとでもするかのように篠田の膝に丸くなって、大人しくその毛並みを撫でさせてくれた。
 しばらくそのほど良く熱を持つ毛皮を堪能する。それで人心地ついて、篠田は重い腰を上げた。
「少し遅くなる」



 高校生がどのくらいの時間に帰宅するものなのか、さすがによく分からなかったが、行野樹理と言う名の少女の通う学校までの通学時間は、哉の住むマンションから軽く一時間以上かかることを勘案して冬の日が落ちない頃合にエントランスを通り、渡されたキーで開錠して自動ドアをくぐる。
 静かな箱が目的階にたどり着き、ドア横のベルを押すが応答はない。念のため、手にしたキーでドアを開けてみるが、不在らしい。
 踏み込むことは躊躇われ、さてどうしたものかと左手を顎に持っていったとき、一度下に戻ったエレベータが到着を告げた。
 扉が開き、まず視界に入ったのはモスグリーンのスカートの裾と、高級な制服の影に見え隠れするスーパーの袋と思われる白いポリエチレン。
 篠田に気付かないままエレベータから踏み出して、やや右斜め下に向けていた視線が、気配を感じたのかすっとこちらへ向けられた。
 静かに立つ篠田に、もともと大きな瞳を少し見開いた後、ふわりと何の衒(てら)いもなく微笑を向ける。
「あの、この間はお世話になりました」
 自然な仕草で樹理がそう言って頭をさげた。
「えっと、氷川さんに、ご用事ですか?」
 その頭が上がってから軽く会釈をするとやっとここに篠田がいることに疑問を持ったらしく、ほんの少し首をかしげている。
「いいえ、あなたに、です」
 言いながら、脇に挟んでいた封筒を差し出すと、樹理が手にしていた荷物を置いて両手で受け取り、じっと封筒を見つめてから、開けてよいものなのかと視線で問うように篠田を見るので、促す。
 見苦しくない程度に膨らんだ封筒の中から沢山の紙が束になったものを出して、写真を見ている。伏せた視線は長い睫にさえぎられて、表情は見えない。
 パラパラと写真を見て、A四用紙に印刷された自身のデータをさらりと目を通し、何も言わずに封筒に戻し篠田に向けた。
「今朝、氷川の社長宅のポストに投函されていたものです。あなたがこのまま自宅に帰るのなら、副社長が独断で決定したことではありますが、あなたのお父上の会社との取引はこのまま継続してもよいと、社長から承っております」
 しばしの間の後、樹理が顔を上げた。その表情は先ほどまでとは打って変わって、硬質だ。一度目を閉じて深呼吸をするように大きく息を吸い込んで、息を吐く力を借りるように樹理が言葉を紡ぐ。
「わかりました。荷物を、まとめてきます。しばらく待って頂けますか?」
 迷いも未練も切り捨てたような表情で茶封筒を差し出し、あっさりと了承を下した樹理に、一瞬反応が遅れたが頷くとするりと室内へ入っていった。これまでに一度しか会っていないが、何となく優柔不断で誰かの判断に己の行動を委ねようとする少女だと言う印象がひっくり返る。
 てきぱきと冷蔵庫の中を整理してゴミを捨て、自分の荷物さえあっと言う間にまとめてしまった。否、もともといつでも出て行けるようまとめてあったのだろう。
 何も問わず、まるで全てを予期していたかのような行動。ならば彼女がここを去ることに全くの心動かない様子かと言うと、それは否だと言うことはひしひしと伝わる。
 やわらかく揺れる中身を、氷の膜で覆って固めたような、硬質で不安定な空気。
 哉を待って事態の説明を求めることなど初めから選択肢にないのだろう。余分な時間稼ぎも一切なく、奥で小さな気配が動いている。
 玄関のドアを背にして立っていると、軽い音が響き、エレベータのドアが開いた。中から珍しく乱れた足音。いつもなら気配すら無意識に消してしまうのに、見なくても誰がそこにいるのかわかるほどに。
 すい、と篠田を見て、哉が乱雑に靴を脱いで家に上がって行った。玄関まではさすがに意味を成した言葉は届かないが、何かのやり取りをしている気配は感じる。
「いりません! 私は、こんなもののためにここにいたわけじゃない!!」
 不意に、樹理が声を上げた。けれども聞こえたのはそれだけで、再びしんとした空気が戻る。
 暫く、余韻のような間のあと、樹理がスーツケースを引きずりながら玄関に現れる。
 先ほどここで顔を合わせた時に緩く笑んでいた唇をかみ締めるようにぎゅっと結んで三和土(たたき)まで進み、そこにある二足の靴に、フッとその口元を解いて、己の靴を履いてからスカートの裾を押さえてしゃがみこみ、踏みつけられたかかとまで指で形を戻してそっと壊れ物のように哉の靴を整える。
「……お待たせしました」
「いえ。では、ご自宅まで送らせて頂きます」
 立ち上がって目を閉じて頭を少し下げた樹理を促して、先に立った篠田は別の階に行ってしまったエレベータを呼ぶためにボタンを押した。



 何も会話のないまま、しばしのドライブを終えて車は住宅街にある樹理の自宅に到着した。ここでも、樹理は迷わず自分でドアを開けて車を降りる。
 トランクから樹理の荷物を降ろしていたら、見慣れぬ車が止まったことに気付いたのだろう、母親らしい女性が慌てて出てきた。
「それでは」
「ありがとうございました」
 短い挨拶の後、篠田はすぐに車を出す。バックミラーに写る母子の姿も、あっと言う間に見えなくなった。
 行きにはなかった事故渋滞で、帰りは少し時間がかかった。篠田が再びマンションを訪ねると、玄関ドアが開いたままだ。閉め忘れたことさえ覚えていない。そんなに慌てていたのだろうかと自嘲して、形ばかりそのドアをノックし、きちんと揃えられた靴の横に己の靴を脱ぎ、初めて哉の自宅に入る。
 薄暗い室内に、スイッチの位置を見当で探して電気をつけると、まず床一面に散らばった紙幣が目に入った。よく見ると小銭も混じっている。ざっと見ただけでも余裕で百万を超えているであろう、諭吉の肖像。
 座り心地のよさそうなソファにすっぽりと嵌るように寝転がっていた哉に封筒を差し出すと緩慢な動作で起き上がり、手にとって無造作に逆さにして軽く振り、紙幣の上に中身をぶちまける。
 まず、重い写真が滑り落ちて表になり裏になり床に散らばる。次に調査書が、最後に真っ白い紙の真ん中に二行だけ文字が印字された紙が落ちる。
 写真などには全く興味を示さず、それを拾い上げて書かれた文字を見て、哉が唇をゆがめるように笑った。
 予備動作なしに、すっと哉が立ち上がる。
「実家へ行くぞ。車を出せ」
 篠田の返事を待たず、哉が玄関へと向かう。いつものように背筋が伸びた背中を見てなぜか笑みがこぼれた。
「はい」



 車寄せに停めた車から、哉がするりと降りる。門で来訪を知らせていたためか、哉の母である社長夫人がニコニコと満面の笑みで哉を迎えている。その後ろにちらりと長女が姿を現したがすぐ消えた。
 矢継ぎ早に喋る社長夫人に遠慮しているのか、いつもなら一番に来客に対応する家令が少し離れたところで控えている。
 話題が少ないのだろう、同じことを何度も繰り返している母親に、哉がおそらくうんざりしているだろうが、もともと表情は乏しいのだ。普段から顔をあわせている篠田にもやっと判るくらいなのだから、絶交流とも言える母親がそれに気付くわけがない。
「父は、どこですか?」
「えっと……満定(みちさだ)?」
 忍耐強くエンドレスに続きそうな母親の言葉が勢いをなくした瞬間を見逃さず、それまで黙っていた哉が口を開く。
 同じ屋根の下で暮らしていて夫の所在さえ把握していないらしい彼女が家令に問うと、離れの書斎に居られますとの答えが返って来る。
「離れの書斎ですって。でもいいじゃない、そんなに急がなくても。おいしい和菓子があるのだけれど……」
「篠田」
 まだなお言い募ろうとする母親に見向きもせずに哉が篠田を呼んで奥へ進んで行く。
 マンションで足音が乱れていたのは意図ではなかっただろうが、今の荒い足運びは意図的だろう。逆によく足音が響くように歩を進めている嫌いがある。
 そんな調子で濡れ縁を目的地に向かって進む。障子戸が柱に当たって跳ね返るほどの勢いで開け放ち、一言の挨拶も礼もなくずかずかと室内に入っていく哉を追って篠田も入室し、開け放たれたままの戸を静かに閉める。
 骨董物の文机を挟んで親子が対峙している。哉がスーツのポケットからぞんざいにたたんだあの白い紙を出し、手首を使って文机の上に投げ落とした。
 筆を持つ手を止めて、紙を拾い広げて一瞥後、顔を上げた父親に笑みに似た表情を向けて、哉が言い放つ。
「ドイツ語のスペルが間違ってますよ。そんな名前の銀行は、ない」
 再び紙に視線を落とした父親の方の唇の端も、息子と同じようにきゅっと上がる。
 キンと張った沈黙の中で、なるほどと腑に落ちた。あのマンションの玄関での写真。確かに近くに同じ高さのマンションが数棟あるが、あれほど綺麗に撮れていたのはおそらく篠田に渡されたキーで依頼されたカメラマンがマンション内、哉の住居のある階に身を潜めていたのだろう。あの階の玄関は哉の自宅のみだが、左奥に様々な機械類などが納まっている少しくぼんだ箇所があったので、そこに潜んでシャッター音のしないカメラで撮ればあんな写真はいくらでも撮影できるだろう。
「あの娘はなんだ? お前は女子高校生を囲っていたのか?」
 手に持った紙を畳みながら、話題がそらされる。
「それがあの会社を残した理由か?」
「そうだとしたら?」
 問いかけに問い返すと、わざとらしいため息が聞こえる。
「分かっているだろう」
 目の前の親子は、無言に潜むものを汲み取って会話を成立させている。
 外気温だけではなく、室内に冷たい空気が漂う。にらみ合うように視線を合わせたまま。
「お前も公(こう)のように私を失望させるのか?」
「……あなたは、何も望んでなどいないでしょう?」
 兄の名を出されても、哉は動じない。
 父親はそれを肯定も否定もせず、ただじっと息子を見ていて、息子はこちらも、何か情を求めることもせず、淡々と見返している。
 まんじりともしない長い沈黙を破ったのは、哉だった。
「構いませんよ。少し前から家に帰そうと思っていたんです。ちょうど良かったくらいだ……俺も、あなたに望むものはなにもない。だけど一つだけ」
 すうっと音がするほど強く、哉が息を吸った。
「彼女の父親の会社はすでに軌道に乗り出しています。手出しをしたら、俺は全力であなたに刃向かう」
 挑戦的に、哉がいつもビジネスで使うあの冷えた笑みを満面にたたえて言い切り、もう用はないとばかりに踵(きびす)を返した。しっかりと篠田を見て、微かに頷く。それに応えて、篠田が障子戸を開ける。
「どうして私がこの件に気付いたのか、聞かないのか?」
 敷居を片足踏み越えた時に、その背中に不意に父親が語りかける。哉の足が止まり、振り返る。
「少なくとも俺は、自分の部下を信用していますよ」
 何の迷いもなくそう言い切って、去っていく。篠田も一礼し、慇懃なほどに丁寧に礼をして静かに戸を閉めた。白い和紙が張られたその戸の向こうで、小さく笑うような声が聞こえた。
 来た時とは逆に、足音さえなく哉が玄関へ向かって歩いている。追いついて少し後ろを歩く。
「あらまぁ! 本当に短かったのね! ねえ哉さん、お茶を用意したのよ、少しくらい時間はよろしいでしょう? そうそう、よかったら夕食もこちらで食べて。あなたの部屋もそのまま残してあるのよ? 泊まっていけばいいじゃない」
 あっさりと実家を辞そうとしていた哉を、何とか引きとめようと、母親が矢継ぎ早に色々提案しているが、どんどん要望が高くなっている。
 家令に靴べらを返して、哉が嘆息後、後ろの人物と間向かう。
「帰りますよ、自分の家に。ここは、俺の家ではないですから」
 何を言われたのか理解できないのか、ぽかんとした顔の母親を置いて、哉が玄関から出て行った。深々と頭を下げている家令と、おそらく篠田など見えていないであろう女性に軽く会釈を残して篠田も続いた。



 氷川の本宅から随分離れてきた頃、物憂げに窓の外を見ていた哉が、息を吐きながら後部シートに寝転がってしまった。
 いつもしゃんとしているが、おそらくこのだらんと寝転がった方が哉の本性だろうと篠田は苦笑する。ダメージが重なって電池を消耗しすぎたら一番楽な姿勢になってしまうのだろう。
「……連れ戻しに、行きますか?」
 思わず口から零れた言葉に、哉が頭をあげた。わずかな驚きの表情を伴って。
 バックミラー越しに目が合って、哉が今度は苦笑を浮かべ、再びシートに転がった。
「いや。やめておく。どうせ、また泣かせるだけだ」
 あの少女には、できれば帰ってきて欲しいのだが、哉が諦めてしまっている以上、樹理が決意してしまった以上、篠田にはどうしようもない。
 樹理の穴を埋め切れるかは判らないが、今まで以上に哉の状態に気を配らなくてはならない。
「……人はもろいな。篠田」
 初めて哉の口から漏れる本音の弱音に、返す言葉が見つからない。
「拒絶されたら、俺は俺でいられなくなる。過ぎた望みは、人を壊す」
 まるで自分を納得させる為のように、哉が呟く。
 ゆっくりと流れる車の列。
 ほんの少しの回り道。
 哉が一人になる時間が、少しでも短くなるように。
「もういい。まっすぐ家に向かってくれ。明日はお前が迎えに来い」
 そんな風に思いながら車を流していることに、哉も薄々気付いていたのだろう。篠田のおせっかいを、厭わずに受け入れて。
「分かりました」
 ウインカーを出して、左の車線へ移りそれでももう少し回り道をする算段で篠田はマンションを目指してルートを変更した。



「もうダメです……」
 呟いて机に突っ伏したのは瀬崎。秘書の仕事に就いて半年。ルーチンワークにやっとなれたところにどんどん篠田に仕事を振られて、四月以降瀬崎はキリキリ舞に働いている。
「こら、そこ潰れてんじゃないの。四月の昇給がすごかったの知ってんだからね。給料分キッカリ働きなさい」
「……その分、営業報奨金は減ったからトントンってか減ったかもですー」
 言葉でケツを叩く増本に瀬崎がクソが付くほど真面目に応えている。
「チッ コイツいくら稼いでんのよ」
 瀬崎は営業時代を『消耗品を扱っていたので楽でした』とケロっと評しているが、室長権限で取り寄せた彼の成績は入社当初からずっと、一度も一位になったことはないが地味にトップ十以内を維持していた。瀬崎の言う『消耗品』だけでは到底達成できない額を毎月毎月売り上げていたので、それとなく聞いてみたらやっぱりあっさり『ああ、ついでに色々買って貰えたんです』と、それがどうしたのかと言った顔で返された。
 この押しに弱くて引きに甘い男がどうやってと思うが、営業課長いわく、年配にかわいがられる性質があったらしい。企業のトップクラスはほぼ瀬崎の守備範囲だったわけだ。ある経営者は『どう考えても営業成績は底辺を這っているだろうから』といつも同情して他企業も扱っている製品も、価格が同帯であれば優先して色々注文してくれていたそうで、瀬崎を引き継いだ担当がいきなり締まった財布の紐に泣きそうになったとかならないとか。
「よろこべ、瀬崎。お前、有給消化もできてないだろう。今抱えてる仕事さえ片付けたら今日から連休明けまで出社しなくていいぞ」
「ホントですかっ!?」
 この二ヶ月ほど休みらしい休みがなかったのだ。おそらく、連休もこの調子でこき使われると思っていたのだろう、さっきまで死んだ魚のような、空ろな目をしていた瀬崎が、一転元気になって目もキラキラ輝いている。
「ああ。殆ど前倒しでケリが付いてきているからな。重要な案件は決算も近いしもう数件しか残ってない。副社長はこれから昼を挟んで視察に行って直帰。連休は本社のメンテナンスで立ち入り禁止を理由にしっかり休んで頂こうと思っている」
「え。いいんですか、それ」
 確かに、大型の休みの間に本社内の一斉メンテナンスが入り、同時に大清掃が行われるが、大体五階分を一単位にしているので連休中全く仕事が出来ないわけではない。
「なんだ? お前が送り迎えして一緒に仕事するのか?」
「滅相もないです!」
 ぶんぶんと首を横に振った後、腕まくりをせんばかりの勢いで瀬崎が仕事を片付けにかかっている。
「室長って、人使い荒──上手いですよねぇ」
 視察先から送られてきた事前資料の保管分をファイリングしながら鈴谷が、滑りかけた口を強制的に軌道修正してアメを与えられた瀬崎に哀れみ全開の視線を向けている。
「上に立とうと思ったら下をうまく使わないと身が持たないからな」
 そういい置いて、篠田は副社長の執務室のドアを叩いた。



 連休前、この場所で別れた時は、確かに最近カドが取れては来ていたがいつも通りだったのに、久しぶりに車に乗り込んだ哉は何かが違う。
 まず髪型。長くなりすぎた前髪を緩く後ろに流していたスタイルからこざっぱりと適度に短く整えられている。
 しかし、変化はそれだけではない。何か、纏う空気が違う。この休みの間に何かいいことでもあったのだろうか。
「休日は何を?」
「読書。散髪」
 ウインカーを瞬かせて、後部確認と一緒に哉を見て尋ねると、用意されていたかのような滑らかさで哉が応える。
「それから、水族館だ」
 車が来ないことを確認してアクセルを踏み、ハンドルを切っていた篠田は一瞬哉の言葉に反応が遅れる。
「は?」
 すいぞくかん。と言っただろうか。一人で?
「天上会議は予定通りか?」
「……はい。今月は皆様おそろいのはずです。いつもどおり九時から四十七階大会議室で行われます」
「わかった」
 車窓から外を見ながら、哉がそう応えて唇の端を笑みの形に歪める。何かを企んでいるような、そんな顔で。
 いつもは殆ど空車状態の本社地下駐車場は、他支店にもいる同族が乗りつけた高級車で溢れていた。今回も、場所がよくとも社長の隣に車を止める様な挑戦者はいないらしく、副社長用のスペースはきちんと空いていたが。
 車を降りてエレベータホールに入ると、先客としてスーツ姿の男性が二人。二人とも眼鏡をかけているが、より仕立てのよいスーツに身を包んだ男性が哉に気付いて振り向いた。
「あ、誰や思たら哉ちゃんやんか。おはようさん」
 程よくスタイリッシュな黒縁眼鏡の男性が人好きする笑みを浮かべて、やたらとフランクな方言でヒラヒラ手を振っている。そのひたすら軽い挨拶に、かっちりオールバックに固められた髪形、銀縁の鋭角な眼鏡とその下の切れ長の目と、堅物な秘書を絵に描いたような姿の、そして中身も同様の秘書がピキっと青筋を立てて彼をさえぎるように一歩前に出て先んじてきちんと挨拶をする。
「おはようございます」
「………」
「おはようございます」
 さりげなく黒縁のほうの挨拶を無視しようとしている哉の代わりに篠田が挨拶を返す。
「よかったわー なんかな、さっき落として踏んでもうたらパス反応せぇへんねん。頼むし一緒に乗せたって」
 己に発行されている黒いカードをポケットから出して見せて、大げさに肩をすくめている。
 哉が嘆息している横で篠田がエレベータを呼ぶためにドアの横にあるスロットルに差し込む。
「うわー 東京本社は秘書さんも持ってんねんな。んで哉ちゃん、連休どうだったん? なにしてたん? ええことあったんやろ? 俺はなー 昨日まで三日間ネズミの国行っててんよ。育ち盛り四人もおるしめいめい、勝手にライドに乗ろうするし、ヒモ付けとくわけにも行かんし、もうホンマある意味仕事してるより疲れるわ。でもこう見えて結構忙(せわ)しいし? こう言う時に家族サービスっちゅうのしとかんと、息子に他人扱いされてまうしなぁ こないだごっつショック受けてんて聞いて、久しぶりに幼稚園行っとる息子が起きてから家出よう思たらな、なんて言われた思う?『パパ、バイバイ』やで? 行ってらっしゃいちゃうねんで? 嫁はんもしゃあないやんって言うし、コレはもっと父親としての存在を──」
「……奥様は静岡出身で標準語を話していたと記憶してるが? ついでに、東京生まれの東京育ちで標準語で喋られるだろうが」
 話の途中で哉が口を挟むとは……と珍しい行動を見て内心驚きながら、どこかで突っ込まなければ彼の独壇場はいつまでも続くだろう。
 話の腰を折られても別段気にする様子もなく、鼻で短く息をついてスイッチを切り替えているのは、大阪にある関西本社の、哉と同じ肩書きの人物、氷川和(かず)。哉よりいくつか年が上で、哉の従兄にあたる。
「……気分の問題だ。折角人が親しみを込めて喋りかけてるのに。大体なぁ 神戸に五年近くおって関西弁に全く染まらんお前の方がおかしいわ。関西弁もしゃべれてみ? そんだけでバイリンガルやで?」
 標準語のイントネーションで始まって、徐々に発音が関西弁へシフト。喋りながら滑らかにギアがチェンジするらしい。
「同じ日本語だ。クイーンズもブロークンも同じ英語だろう」
 にべもなく哉が言い切って、漸くやってきたエレベータに男四人で乗り込む。ボタンは一階ホールの次は重役階しかない。篠田が迷わず四十六階と四十七階を押すと、緩やかに上昇する圧力が小さな箱の中にかかる。
「相変わらずやなぁ でもホンマ、連休なんかあったやろ。ええことが」
 壁に背を預けて腕を組み、確信めいた口調でニヤニヤ笑いながら言う和に哉が胡乱な視線を向ける。
「だってなんか、表情あるもん。なぁ 教えてぇな。誰にも言わへんから」
「………」
 歩くスピーカ。回遊していないと死んでしまうマグロと同じで、和は喋っていないと死ぬと普段から嘯いている。当然だが口は軽い。誰にも言わないなんて常套句を信じるものがバカを見る。もともと調子のいい性格ではあったが、関西弁が更に油を注いでいる印象。哉が益々胡乱さを深めた視線を向けても和はノーダメージで受け流している。そうしているうちに時間が切れて、エレベータは四十六階へ到着した。
「私は他の方にもご挨拶をしてから部屋に参ります」
 開くボタンを押したままそう言った篠田に哉が軽く頷くのを見て、閉まるボタンを押せば、あっと言う間に最上階に到着である。
「ちぇーっ 同じカマのメシ食うた仲やのに、なんなん冷たいなー あ。なんか疑(うたご)うてるやろ。ホンマのホンマに哉とは俺、小学生の頃三年くらい一緒におってんで、本家で。母親病弱で入院する度(たんび)に預けられて。母親亡(の)うなった後もちぃと間。あん時はまだ代替わり前やったでじいさんとこやけどな。結局父親が京都転勤決まって、一緒について行ったから哉が神戸来るまであんまり会わへんかってんけどな。神戸来てからは良う逢(お)うとってんで。電話一本『バラすで?』言うたらちゃんと逢うてくれたし。で、ホンマ、ナニがあってん?」
 再び開いたドアを、愚痴を言いながらも当然として先に下りた和が振り返り、真偽がつかない顔をしていた篠田にどんどん言葉を重ねている。最後のほう、弱みに付け込んで振り回していたと白状しているが、本人は気付いていないらしい。
「プライベートは存じません」
「……まぁ 期待はしてへんからええけど。いっつも退屈ばっかりやけど、今日はなんかおもろいことありそうやなぁ ほなな〜」
 出会ったときと同じく、ヒラヒラと手を振りながら和が大会議室へ入っていく。一緒にやってきた大方の秘書は隣にある五分の一ほどの会議室が控え室になっているので、大概がそこにいる。顔見知りやこちらから挨拶をすべき相手に一通り声をかけて、珍しくフル稼働で中々捕まらない重役用のエレベータを諦めて、こちらもカードがないと開かないドアが付いている階段を使い一階下へ降りる。
 氷川和はいつもチャラチャラしているが、その実、内面はクールだ。裏の裏の表まで計算高く見極めようとしている節があり、要注意人物。大阪で関西の重役が多く揃った臨時役員会での顔合わせでは胡散臭さが全開で、下らない話ばかりしていた印象だったが、柔らかい曲線を描く眼鏡で多少ごまかされているものの、その瞳まで笑っていることは稀であると言うのが、予定時間を大幅にオーバーした面会で篠田が得た感触で、実際その前から聞き及ぶ評判もその後の調べでもこの若さでほぼ関西エリアを掌握していると言う。
 彼の貼り付けた笑顔とその内側の温度差が違和感だったが、先ほど言い訳がましく彼が付け加えた生い立ちでおぼろげに判った。彼も哉と同じ教育を一時期受けていたのだ。恐ろしいほどの無表情と笑顔武装。各々の性格の違いだろう。同じ笑顔でも、ウラを感じさせない哉の兄のものとは全く質が違っている。
 その人物が、厳密に二人きりではなく己のテリトリーの内とは言え、本当に楽しそうに哉に話しかけていた。篠田でさえ少し前にやっと判るようになった哉の表情の変化にもすぐに気付いたようだった。
 篠田の中で漂っていた漠然とした予感めいたものが、スッキリ片付く。こちらも認証が必要な階下への階段を降りながら、篠田はポケットに手を入れて、その中の車のキーを玩んだ。



 スケジュールを全てキャンセルすると言った篠田に、副社長付きの秘書三人が豆鉄砲を食らったハトよりも驚いて、なんとも表現しづらい難解な顔をしていたが、執務室のドアを叩いて哉を天上会議へと促す。
 エレベータはさすがにあと五分もすれば会議が始まるため殆どの者が上階に集まっているためだろう、呼べばすぐにやってきた。乗り込めば一階分など瞬く間で、ドアが開き、操作盤の開くボタンを押す篠田の前を一瞥もなく通り抜けて、哉が会議室へ消えて行った。
 いつもと変わりのない、すっと伸びた背中を見送って、篠田が再びパスをだして、重役用のエレベータを指示を出すまで待機の状態で固定する。
 然程(さほど)の刻(とき)も過ぎぬうちに、高い防音性を誇るはずのドアもさすがに不穏な空気は堰止められなかったらしく、何やらいつもと違う気配が漏れ出し始める。
 しかし、そんな状態もすぐに消えて、すっと温度が常温に戻るのと同時に、哉が入室時に通った会議室後部のドアが静かに開いた。立つ鳥の潔さなのか、振り向きもせずに後ろ手にドアを閉めた哉が、さすがにほんの少し目を見開いて篠田を見ている。
 どちらが先に笑ったのかは判らないが、一瞬止まった表情をささやかに動かして哉が口元を緩めてスタスタと篠田の前を横切り、エレベータの中に入る。
「ばれていたのか」
 操作パネルに向かう篠田に哉の呟きが届く。
「この会社の中では五指に入る有能な秘書だと自負しているので」
 待機を解除してとりあえずいつもの地下階を指定すると、音もなくドアが閉まり、すいと腹が空くような感覚さえもないままに箱が降下を始めた。
「連休中入れないというのは嘘だっただろう?」
「ばれていましたか」
 開き直って、先ほどの哉の口調を真似て振り返れば、哉が奥の鏡に背を預けて今度こそ本当に笑っている。
「公用車は使えませんが、どうされますか? ハイヤーが何台か地下にあるはずですが」
「………久しぶりに歩いて電車に乗る。お前は?」
 哉が少し考えるような間を置いて、篠田の問いに答え、そして問う。
「途中までお供しますよ」
 一階ロビーのボタンを押して篠田がそう答えたのとほぼ同時に、下降速度に制動がかかり、目的階でドアが開いた。一般社員が利用するロビーなど、いつから歩いていないだろうかと、哉を認めて目で追う社員になど一瞥もくれずにまっすぐ回転扉の向こう、外へ向かって歩く背中を追いながら考えてみたが、少なくともこの十年以上、縁のないエリアだと見渡せば、社内でも選り抜きと噂される受付嬢までもともと大きな目を開けてぽかんと哉を見ている。
「付いてきても何もでないぞ」
 回転扉を抜けて、広く緑化された正面玄関前を歩き、哉が振り向きもせずに篠田にそう尋ねた。
「残るよりはましでしょうからね」
「……瀬崎には荷が重いだろう」
 今はまだ何も知らずに仕事をしているだろうが、情報が回るのも時間の問題だ。情けない声で泣き付いて来ることなど簡単に想像が付き、シャットアウトすべく仕事用の携帯電話の電源を落とす。
「なに、あれで結構やれますよ」
 携帯電話を仕舞った篠田を一度だけ振り返って、すぐそこにある駅へ迷いのない足取りで進んでいく哉の背中を見ながら家に帰ったらまず、例の一件から気が向いたら膝にやってきて毛皮を梳るよう催促してくる黒猫が嫌がるくらい構い倒してやろうと考え、引っかかれてやることがなくなったらどうしようかと思いをめぐらせた。
 






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