普段報道番組くらいしか映ることのない大画面テレビ液晶。しかし今日そこに映っているのはリアルなCGでマシンやコースを再現しているレースゲームだ。
「やったー! 最速記録っ! やっぱり画面でっかいと見やすーい」
 コントローラを持った手を高々と上げてガッツポーズをしているのは、神崎家の次女、椿。その隣で床にへばりつくように体を倒しているのは長女、桜。
「やーらーれーたー! 今度は負けないからね!!」
「えー 樹理ちゃんの番だよー 負けた人は交代」
「あの、私、いいよ? 別に……桜ちゃんがやってくれて……」
「そんなこと言ってー さっきから見てるばっかりじゃん、お姉ちゃん、樹理ちゃんとチェンジ!!」
 神崎家から持ち込まれた家庭用ゲーム機。そこからコードで繋がったコントローラを押し付けられて、樹理がしぶしぶと言った様子で椿の隣に座り込む。先ほどよりかなり難易度が低いコースを選択して、スタート。
「そこで緩めて全力で右右右右ー!! って、ぎゃー! 曲がりすぎいぃいいっ!」
 桜の悲鳴に似た指示に、樹理があたふたしながら、なぜかコントローラーを曲がる方向へ傾けつつ操っているが、敢え無く側壁に激突している。必死で立て直しているうちに、椿が操るマシンが悠々ゴールを突き抜けた。
「椿ー もうちょっと手加減してよ」
「手抜きはダメだよ。樹理ちゃん相手だからこそ私は全力で戦うのだ! お姉ちゃんは手抜きの私に勝ってうれしいの?」
「うぐぐぐぐっ いや、むしろ悔しいけどっ! それにしたって、散々やりこんでる私たちと違って樹理ちゃんは初めてなんだからさぁ」
「……いいよ、でもごめん、私、もうギブアップ……なんだか酔いそう……」
 コントローラを桜に返して、満更嘘でもなさそうに、ヨロヨロしながら樹理が立ち上がってダイニングテーブルの方へやってくる。ヘタクソゆえに、無駄にハンドルがブレたり、側壁に激突したり、コースのど真ん中でも車体がスピンする画面は映像がリアルゆえに慣れない者には結構つらい。
「お疲れー」
 何か運動をしたあとのように疲れきった様子でイスに着く樹理に、理右湖がテーブルの上に置いてあった樹理が使っていたグラスをとり、氷を入れ、ウーロン茶を注いてくれる。頂き物の四個セットで、今日がお披露目のグラスは、底まで丸いが不思議と安定感があり、コロンとした形がかわいらしい。グラスを両手で持って礼をいい、半分ほど一息に飲むと、樹理は盛大に溜息をついた。
「ゲームって、どうして体を動かさないのにこんなに疲れるんでしょうか……」
「アタマは使ってるもんねぇ 脳は活動する為に筋肉より糖の消費が多いからじゃない?」
 樹理のグラスにウーロン茶を注ぎ足しながら、考えるでもなく理右湖がそんなことを口にする。
 夕食を終えて、樹理が作っておいた、様々なツマミはあっと言う間に桜と椿と速人が食べつくしてしまい、コンビニで買ってきたチーズとありあわせの野菜スティックのみがテーブルに乗っているが、酒飲み二人は酒があれば文句はないらしい。約一名何やらヒマそうにしているが、別段普段どおりに無表情だ。
「そういうものなんでしょうか……?」
「ってことはゲームしてたら座ってるだけでダイエットにもなるのかしら!?」
「……素直に有酸素運動した方がいいと思うけど?」
 いいこと思いついたとばかりに、ぱぁっと顔を輝かせる理右湖に、キューブ型チーズの個包装を捲りながらほとんど興味なさそうな口調で速人が答え、がらりと空気が変わるのを敏感に察したのか、慌ててフォローする。
「だってほら、そんなことで痩せられるならゲーム会社が謳い文句にしてるだろ? 『このゲームをするだけで座ったまま劇的簡単ダイエット!!』とか」
「……むむむ」
 そう言われたらそのとおりだ。人間楽して得したい生き物なのだから。
「でも一応、人間って呼吸するだけでもカロリー消費してるはずでしょう? ボケーっと待合室の雑誌読んでるだけでもおなかは空くし。そこら辺どうなの? 速人君……は、聞くだけ無駄か。哉くん、知ってる?」
「……座って読書一時間、平均女性の消費カロリーは約二十七。きゅうり約二百グラム相当」
 二人の娘たちのやっているゲームをボーっと見ながらチーズをジェンカのように積み上げては、速人に抜かれて崩されている哉がぼそりとつぶやく。
「きゅうり二百グラムって何本分?」
 スティック状に切ったきゅうりでもろみ味噌を掬い上げてポリポリ食べながら、理右湖が哉の答えを待つ。
「普通サイズ二本。散歩程度のウオーキング十分と同じ」
「それなら一時間本読みながらマシンで歩いた方がいいじゃないの!! きゅうり十四本分痩せられるわ」
「それが有酸素運動」
 チーズの包装を小さくまとめてゴミ入れ代わりのチーズの空箱に落としながら、結論と言わんばかりに速人が言う。
「結局落ち着くのはそこか。このチーズ一個何カロリー? うわ、面倒くさっ なんでひと箱のカロリーじゃなくて百グラムあたりなのかしら。何個入ってるんだっけ? 哉くん計算ヨロシク!」
 箱の中からゴミが落ちないように持ち上げて底面の表示を見ていた理右湖が早々にリタイヤして箱を哉に手渡す。
「……………十三・四キロカロリー」
「二個食べたら読書一時間がパァなわけね。あー なんかバカバカしくなってきた」
 少なくなった自分のグラスに氷を入れて、一般ルートでは入手できないと言われている小さな醸造元の焼酎を注いでロックでぐいっと飲み、哉の視線に気付いて、みなまで言うなとばかりに手で制す。
「焼酎のカロリーは言わないで。知る人ぞ知る幻の焼酎が不味くなるから。でもホントに全部貰っちゃっていいの? 超無造作に二本開けちゃってるけど、速人君が今飲んでるカルヴァドス、百パーセント林檎で出来てるのってめちゃくちゃ希少品だし」
「いいんじゃないの、要らないつってんだから。まぁそう何度も面倒掛けられても困るし、コレも反省の弁? こんな美味いもん流し捨てるとか、信じられん。排水溝より俺たちの喉通るほうが酒も喜ぶでしょ。うわ、入れすぎた」
 色付きの細口ビンの中に丸のまま一個林檎が入っている酒を、コロンと丸いブランデーグラスに傾けて、ムダ話をしていた速人が注ぎすぎて慌ててビンを上げている。アルコールの芳醇な香りと、かすかに林檎の香りが混じっている。
 そう。
 件の過去からまだ半年と少し。なのに哉の自宅リビングには、なぜか着々と酒が集まりつつある。もともと強くはないが全く飲めないわけではないし、それなりの酒は実際美味い。仕事と割り切れば酔うこともない。接待はするよりされる方が多いのだが、その際、入手困難なものや、大抵高価な酒が供されたときその酒を褒めるのがいけないらしいが、どうだとばかりに見せ付ける相手の自尊心をくすぐるのは、ビジネスを円滑に進めることへの一助となることは確かなので、話題の中で反射の行動として身に付いてしまっているのだ。
 すると後日、どーんと届けられるのだ。酒が。さらにマメな相手だと、二月と空けずに贈られて来る。
 樹理が再び哉の元で暮らすようになってから、幾度か神崎家から食事の招待があり、手土産を持って行っていたのだが、何度目かの時たまたま届いた酒を持っていった時、さすがの逸品に『貰っていいのか』と聞いてきた理右湖に『いらないなら捨ててる』と答えた哉になんと罰当たりなと速人が懇々と説教を垂れて『捨てるものなら貰う』と締めくくった。
 そして九月になってもまだまだ夏を思わせる日々の続く本日、一家総出でやってきて、夕食を食べて現在に至り、神崎家の二人の娘たちがやかましくテレビの前を占領し、揃ってザルを自負する速人と理右湖は早速自分の好みの酒の封を切ってすでに各々半分近く空けている。
「んもー! 椿ってば強すぎっ 速人君代わってっ カタキ(敵)討ってー」
 大人たちが取留めの無いことでわいわいやっている間も、二人で何度も対戦していたが、ついに桜が音を上げ、コントローラを放り投げるように手放してバンザイをしている。呼ばれた速人はしょうが無いなと言いながらも呼ばれたことには悪い気もしないらしく、大げさに指を鳴らしながら桜と場所を代わって少しの間、走るコース選びで椿と揉めて、ジャンケンして大人げなく勝ち、己の得意なコースを選択してレースを始める。
 が。
「へっへーん。速人君が選ぶコースなどやり倒しておるのだよ!! 飲酒運転でこの私に勝とうなど甘いのだっ」
 三戦三勝したのは、椿だった。
「ウソッ!? お母さんお母さんっ 出番です!!」
「あー 私、無理。酔ってるし。カートの方ならやってもいいけど」
「ゲームなんだから大丈夫」
「ほらいるじゃない? 運転できて酒飲んでない人。哉君、やっておしまい」
 焼酎ロックのグラス片手に、どこの悪役の決め台詞か、理右湖がそんなことを言ってヒラヒラ手の平を動かして哉を促している。
「そうだ、哉君! 樹理ちゃんと速人君と私の敵をっ! がふうっ!」
 桜が意味不明のうめき声を上げてソファの背もたれから片手だけ覗かせる倒れこむ。
「氷川さんもゲームとか、やるんですか? こう言うの? ちょっと見てみたいかも」
 先ほどからの会話に加わる気力もないくらいのゲーム疲れからやっと立ち直ったらしい樹理に言われて、チーズを積む手を止め、哉が席を立とうと腰を浮かせる。
「あー 割とできるよ。と言っても、やってる姿は大昔にアーケードで一度見ただけだけど」
 そんなことを理右湖が言っている間に哉がスタスタとテレビの前に行き、足で速人を小突いて脇に追いやり、コントローラを握って、隣に座る椿になにやら言われて頷いている。
 先ほどと同じコースで良いかの確認だったらしく、速人が三連敗したコースを、縦に二分割されたテレビが映し出す。流石に何度もやっている椿のコース取りは完璧で、ぶれることなく同じ場所を通っている。しかし、下に写る哉のマシンからの視点での映像には椿のマシンの後部がその動きをトレスするようにぴったりと映っている。
 一度目の対戦は、哉を後ろにくっつけるようにして椿が勝利した。続けて同じコースで対戦するらしく、再び画面が分かれてレースがスタートする。
 同じように椿のマシンの後ろに哉がくっついて走っていたのだが。
「うぎゃぁあああああ」
 最終のヘアピンを抜けた直後、椿が悲鳴を上げる。カーブの微妙な加減速を利用して、哉が椿のマシンと並んで、ほとんど同時にゴール。YOU WINのテロップは、下画面、つまり哉の方についている。
「もう一回勝負!! コース変えていい?」
 コースを変えて再び二人がコントローラを構える。しかし、先程よりも早い時点で哉が椿の前に立ちはだかり、追い越すスキを与えずに勝利した。
「……このコース、超お気に入りで負け知らずだったのに……こんなあっさり……負けた……」
 がっくりと床に手をつく椿と、相変わらず喜怒哀楽の読めない表情の哉。そして何故か大喜びしている桜。
「……すごい、氷川さん勝っちゃった」
「ま、実際スポーツカーに乗ってる人間の方がスキルが高いのは当然だわな。椿の腕もかなりだけど。今度カート乗りに行くか?」
 テレビの方を見たままびっくりしている樹理の背後から、いつの間にやら戻ってきていた速人が酒をちびちび舐めながらものすごい落ち込みっぷりの椿を慰めてやっているらしい。
「あ、哉、お前アレまだ持ってんだよな? 乗らねぇならくれ」
「あんなの貰ってどうすんのよ。実質ツーシーターだし」
「え? 往診とか?」
「近所のジジババん家なんかチャリで十分でしょうが。却下却下。うかつに駐禁なんか取られちゃったら稼ぎがパーじゃないの。知ってる? あの車、カブリオレじゃないクローズドタイプですら雨の日に乗ったら雨漏りするのよ?」
「んなアホな」
「知らないのー? んで、本社に『雨漏りしたぞ』ってクレームの電話かけたら受付嬢に『わが社の車を雨の日に乗るなんて非常識です!』って叱られるのよ?」
「……どんなギャグネタですか……」
 ほろ酔い気分らしい理右湖が楽しそうに話すのを、速人が呆れた様子でツッコミを入れる。
「哉くんの車は大丈夫なの?」
「……それは昔の話。それに、俺の車とは違う」
「え。雨漏りマジなの?」
「馬ついてるじゃないのっ 違うの?」
 ほぼ同時に、速人と理右湖が切り返す。
 コントローラを桜に渡して、戻ってきた哉が椅子に座りながら、それでも気に入って買った車のことだからか淡々と説明を続ける。
「俺のはドイツ車。あれはイタリア車。もともと、イタリアは雨が少ないから長時間風雨にさらされることを想定してない。それに、塗装も甘いから濡らしたらサビ易くなる。向こうで乗ってる人間はそれをわかってるから、受付嬢に非常識だと罵られる。知らないのは『高級車』の触れ込みで買った日本人くらい」
「いや、雨降りを想定しないイタリア人の感覚がわからん。ワイパーは一応ついてんだろ? それって雨の日OKってことじゃねぇのかよ」
「あの車のワイパーは飾りだ。雨が降ったら動かなくなることもあったらしいけど、今は欧州車でも日本の気候に対応してきているから、そんなに故障もしない。クローズドタイプならもちろん雨漏りもしないし、濡れてもワイパーも動く」
 今度はチーズをピラミッド型に積み上げながら、哉が事もなげに言う。
「趣味で昔の持ってるヤツ、車検はどうすんだよ」
「濡らさなければワイパーモータが動くから問題ない。通る」
「意味がねぇ……ってか詳しいな」
「……………」
 同じ種類のものがピラミッドの上にあるのにわざわざ最下段から一つ抜き取って、ふーんと聞き流しかけた速人が、包装を剥きながら、答えない哉を半眼で見る。
「お前、あの車買うとき調べたんだろ? ってことは、初めは買うつもりだったのかよ」
 続けて問い掛けをしれっと無視して、チーズの抜けた部分を補充している哉を見ながら、やっていられないとばかりに速人が口にチーズを放り込み、包装を丸めて空箱に落とす。
「シカトこいてんじゃねぇぞ」
「まあまあ。昔に比べたらすごい喋ってるし、この位は速人君もスルーしなさい」
「ホント、今日はすごく喋ってますよね?」
 哉が几帳面に補充した場所のチーズを抜き取って包装を捲りながら理右湖がうんうんと頷く。
「うん。高校生くらいの頃なんかさ、質問しても長文説明がいる類のやつは大抵こんな感じでスルーだし、哉君への質問は返事がイエスかノーに限るって状態よ。もちろん声じゃなくて頭が縦か横に振れるだけ。会話続かないことこの上ない。私本当に、この子は社会に出て生きて行けるんだろうかって心配してたのよ?」
「そうそう、俺なんか寮で六年同室だったけど、哉が授業で指名された時以外喋ってる姿に出くわしたの両手の指で足りるね」
「……それは速人君が毎日遊び歩いててほとんど部屋にいなかったからでしょ」
 両手の指をわきわき動かしている速人をあきれたような目で理右湖が見ている。
「ひでぇ それなりに居たし。メシの時とか。まぁ なんつーか、超、哉をえこひいきする自動翻訳機いたしな。あの頃は」
「井名里さんですか? えこひいき?」
「超、だ。超えこひいき。哉だけ特別待遇。いいとこのボンボンが多い学校だったけどよ、こんな変なヤツはさすがにイジメの対象になるだろ。クラスメイト全員シカトで自分世界全開野郎なんか。入学したての頃なんて、教室にでっかいコケシがいるようなもんで、いろんな意味で微動だにしねぇんだぜ? 哉がクラスで孤立してても排除されなかったのはヤツが陰日向フォローしてガードして睨み効かせて哉の言いたいことを代わりにみんなに伝えてやってたからだ」
 幾度か酒を舐めている速人に、やっていられないと言った顔を作って見られても哉はテーブルの上ではしれっとなんでもない顔をして一旦バラバラにしたキューブ型のチーズを色分けして再び積み上げている。
「翻訳機って言うか、表情発見機でしょ? 他の人が見ても分からない哉くんの表情の変化を読む男。樹理ちゃんもそうよね。なんとなくわかるでしょ?『あ、イヤそう』とか『機嫌よさそう』とか。哉くんに言われなくても。私、よっぽどイヤそうでなきゃ分からないから。今もなんなの、その無表情。このくらいなら別に言われても構わないのかしらね」
「……かなり、いやそうな顔ですけど」
「んもう、イヤならイヤって言えばいいでしょうが」
「……速人は言ってもやめない。言うだけ無駄」
「……それは確かに。って言うか、何よ、あの歩く雑学みたいな知識。あるならちゃんと出しなさいよ惜しまずにっ 樹理ちゃんがいると普段の十割増くらいよく喋ったわね」
 哉と理右湖のやり取りに速人が文句を言っているが、二人にさらりと流されている。
「理右湖さん、十割増くらいって……」
 それは、全く喋らないという意味か。
「ん? いやいやいや。うん。樹理ちゃんがいたら哉君も人間に戻れそうだし? いいんじゃないの? いやー ホントもう、いろいろアレな感じだけど、収まるところに収まっちゃったって言うか、どんな人間にもぴったりくる相手がいるもんだなぁって言うか」
「理右湖さん、結構酔ってるだろ」
 フォローなのかなんなのか、取り留めのないことをブツブツつぶやきながら上機嫌にグラスをあおり、残った氷をカラカラと回している理右湖を窺うように身を低くして下からそう問いかけた速人に、人差し指を唇に当てて少し考えたあと、理右湖がにっこり笑って応える。
「そうねぇ 割といい感じかも。今何時? うわ、十時過ぎてるじゃない。桜ー 椿ー ボチボチ帰るよー 支度しなさーい。三分以内に。できなかったら走って帰ってきなさい。という訳で、送ってね、哉君」
 椿が哉に敗北後、次はポヨンポヨンしたゼリーみたいなものが落ちてきて、色を揃えて消していくゲームをしていた桜と椿だが、椿だけが返事をし、まだやる気だったらしい桜を置いてささっと電源を落としている。
 コントローラを握ったままブラックアウトした画面を凝視することコンマ三秒。叫び声を上げている桜をちらりと見ながら哉も車の鍵をとりに立ち上がっている。
「私の大連鎖をー!」
「いいじゃん別に。七連鎖以上はおんなじ叫び声ばっかりだし」
「『ぱよえーん』の恨み、覚えてなさいよぅ 今度お邪魔ぷよで椿の画面を埋めてやるから」
「それっていつものコトじゃん。お姉ちゃんのやり口って超鬼畜だもん。その代わりお姉ちゃんは超激辛でやってよね。私は超激甘だから」
「アンタの方が鬼畜じゃん……」
 そんな軽口を叩きながらコード類をまとめて入れてきた紙袋に本体やソフトを入れる。理右湖の号令一下、一瞬前まで不服そうだった桜もその動きは俊敏だ。なぜならば、理右湖は言ったことは実行する。速人には若干甘いが、娘には大変厳しい。
「元帥閣下、桜伍長、帰投準備終わりましたでございますっ」
「椿上等兵、同じでありマス!」
 二人が理右湖へたたっと駆け寄り、敬礼して報告している。
「ちょ、待て。俺の酒まだ残ってるっ!」
「置いて帰りなさいよ、その位」
「だめだ! だって流しに捨てられるんだぞ。アルコールの廃棄は立派に水質汚染だ!」
 舐めるように少しずつ飲むべき酒なので、ハイそうですかと一息に煽れる訳が無い。グラスには半分には満たないが三分の一くらいの量が残っている。
「あー 無計画にいっぱい注いじゃったね。こないだ慌てて消毒用アルコールぶちまけて正座させられてた時お母さんに言われてたセリフだし。速人二等兵、また降格かも」
「だねぇ 二等兵の下って何かな? 衛生兵は階級外?」
「足軽とかは?」
「アリだと思う」
 キヒヒヒヒと笑いながら、母親に言われる前に机の上のグラスなどを持ってキッチンへ向かう二人にやかましいわと言い捨てて、名残惜しそうにグラスを掲げて酒を回している。夕食の洗い物は酒を呑む前に女性陣で済ませているので、これから洗うべきものは、各自が飲み物を飲んだグラスと、野菜スティックをなどを入れていた皿位の物なので、空の皿を運んで洗えば終わりである。
「あ、いいよ。その位、置いておいてくれたら……」
「この位だから洗うのデス!」
 空いた皿を運んでいくと、桜と椿が並んで洗いとすすぎを分担している。
「置いて帰ったりしたら降格でアリマス!」
 暗に上官命令だと言いながらも楽しそうにあっという間に洗い終え、布巾でキュッキュと水気を拭いている。
「でもこのグラス、かわいいよね」
「そうよね。でもどうしてこんなコロコロしてるんだろ」
「なんかね、昔、プロペラ機の中で揺れても飲み物がこぼれないようにって作られたものを北欧のデザイナーがリプロダクトした物、なんだって。箱に入ってた紙に書いてあった」
 一緒にグラスを拭きながら説明文そのまま伝えると、椿がりぷろだくとってナニ? と聞いてくるが、桜も樹理も答えられない。
「ねー! そこの大人の人々っ りぷろだくとってナニ?」
 持って帰る酒を箱に戻して紙袋に入れていた理右湖が速人を見ている。
「……productは『製品』とか『産物』とか言う意味だけどreproduction……ではないか」
 そこで言い淀んで、テーブルの上に置かれた製品を紹介するカードを見て未練たらしく酒を舐めながら車の鍵を持って出てきた哉を見ている。更には桜と椿が興味津々と言った期待顔でじっと説明を待っている視線を感じて、短い嘆息の後、哉が口を開く。
「re-productは和製英語。権利が切れたデザインでオリジナルとは違うメーカが復刻したりすること。完全に同じ品質、同じ意匠のものから、より使いやすく基本デザインを元に変更したりもする」
「コピーってこと?」
「……コピーというのは著作権や意匠権があるものを違法に複製したりすることで、re-productは合法的なもの。ジェネリック医薬品のgenericと同じような意味として主に復刻家具などに使われている」
 椿の質問に哉が淡々と答える。
「へー リプロダクトの方が安いの?」
「そうとは限らない。昔は豊富にあっても今は希少な部品を使うものなら、自ずと価格は相応のものになる。そういう意味でも、re-product製品はcopyとは一線を画す、と言う自負を持って作られている物を指す」
「なんでreproductionじゃなくて勝手に和製英語作るんだ……日本人……」
「似た意味なの?」
 グラスを拭く手を完全に止めて、桜がカウンタから身を乗り出す様にして速人に尋ねる。
「んー reproductionは複製とか複写、再生産って言う意味。他にも生殖とか繁殖とかな。なんかこう、会話にカタカナ英語を混ぜたら賢そうに見えるから織り交ぜるヤツが多くてイライラするのは俺だけ?」
「それはわかる。訳に値する日本語があるのなら敢えて使わなくていいような場面でも使うもんね。それはそうと、そろそろ立って、でないとホントに足軽になるわよ。歩いて帰る?」
「えええー ってか、足軽って何。槍持って敵陣に走って行って馬に踏まれて、大将がアップで戦ったあと雨の降る戦場で半分泥に埋まって死んでるくらいのイメージしかないんですけど」
 速人がグラスを両手で持ったまま、ズズズっとイスをずらしているが、腰が重いのか中々立ち上がらない。上目遣いで足軽について説明して時間を稼げと哉に催促するが、見事に無視されている。
「あの、お酒、グラスごとそのまま持って帰りますか……? ウチ、二人しかいないし、もし良かったらもう一つ……」
「マジ!? 持って帰っていいのか!?」
「……樹理ちゃん、グラスはまた来たとき使わせてもらうから置いておいて。他に入れ物ない? この際だからペットボトルでもいいわ」
「えーっと。ミネラルウォータのでいいですか?」
「どんなのでも。全く、子供みたいに。そんなに大事な酒なら一滴も零さず移しなさいよ」
 リサイクルのため、綺麗に洗って置いていた三百五十ミリリットルのペットボトルをカウンタ越しに理右湖に渡すと、空のボトルで速人の頭を叩く素振りをして手渡している。
「……何気に零さないのがムカツク」
 ペットボトルの細い口からほんの少し離したところでグラスを傾けて、速人が器用に液体を移す。
「速人君って無駄に器用で結構貧乏性だもんね」
「貧乏性言うな。勿体無いお化けがでるぞ、こんなもん捨てたら」
 色的にはウーロン茶と間違えそうな琥珀色の酒が、透明なペットボトルの中で揺れている。やっと中身のなくなったグラスを桜が茶化しながら速人から受け取り、洗ったものを椿が拭いて片付けは完了した。
「化けで出るならリンゴのお化けかな? そう言えばカルヴァドスって中ボスっぽい名前だよね?」
「酒びたりの中ボス? うわぁ 全然怖くない。きっと柔らかいから素手で一撃したらぺちゃんこだよ」
「ほら! あなた達、バカみたいなこと言ってないで挨拶。帰るわよ」
 好き放題言っている娘たちに、一つため息をついて理右湖が呆れたように言う。
 エレベータ前まで見送りに来た樹理に、桜と椿が次々にバイバイまたねと手を振っている。
「じゃあね、樹理ちゃん。今日はありがとう。今度はウチに来てよ。ちょっと哉くん借りるけどゴメンねー」
「樹理ちゃんバイバーイ」
「まったねー」
 押し合い圧し合い、桜と椿が扉の閉まるまで、隙間に顔を移動させて手を振るのを見送り、何だか良くわからないけれど体の奥から湧いて出たため息を一つついて、樹理は家へと入る。先ほどまでいつもの三倍人がいて、いつもと比べ物にならないほど騒がしかったせいか、いつも通り静かなはずなのになんだか玄関から見える家の中が寂しい。
 風呂を沸かして居間に戻り、すでにきれいになっているテーブルを拭いて、ぐるりと部屋を見渡す。かすかに聞こえる湯を張る音の中でソファの隅っこに横たわるシャチを見つけて、哉がよくしているように、そのぬいぐるみを枕にソファに転がって天井を見上げるも、頭の下で折れているシャチに申し訳なくなって引っこ抜いて抱える。
 そうやってじっとしていればおなかの真ん中でぐるぐるしているものが何なのか分かるかもしれないと思ったけれど、結局何も答えが出ないまま風呂のタイマーがタイムアップを告げる。自動で湯は止まっているのでそのまま放置してもどうということはないのだが、もそもそと起き上がって適温適量で湯が張られた浴槽にフタをする。
 しっとりとした無音の部屋で再びソファに寝転んで無意味にシャチを撫でたり捻ったりしながらこの消化不良感について考える。
 静かな、普段どおりのリビング。客を迎えたのは初めてではないし、以前真里菜と翠が来た時などは桜と椿以上にやかましかったように思うのに、その時はこんな気持ちにならなかった。それに、幾度か行った神崎家の食卓でも、哉はいつもと同じように黙々と理右湖たちが作った料理を食べているだけだった。車で行っているし、診療所が夜間診療指定されていない日を選んぶとなぜか平日が多いことから、持ち寄ったデザートを食べたら長居せずに暇(いとま)するので喋っているのはほとんど樹理ばかりだった。
 前の時と今回と、なにが違うのだろうと比較してみて、やっぱり明確に違うのは哉の発言量だと言う結論に至る。夏休みの平日、真里菜たちがやってきた時も、元もとの予定通り彼女たちは夕食まで居座っていたが、哉はいつもよりちょっと無表情に磨きがかかっていたものの、口の方はどちらかと言うと通常営業で、理右湖が言うところの『十割喋らない』状態だった。
 そこまで思いを巡らせて、寝転がったまま肩まで動くようなため息をつく。このもやもやの理由が分かってしまった。これは、嫉妬だ。哉と沢山喋っていた理右湖たちがうらやましくて仕方なかったのだ。
「………ばか、みたい」
 誰にでも平等に無口なのだと思っていたのに、今日の哉は樹理もびっくりするくらい喋っていた。と言うより、びっくりしてしまって樹理は相槌一つも会話に交われなかったのだが。
「そんな風に、思っちゃダメなのに。全然、そんなのじゃないのに」
 別に、何か気に障るような内容の会話などなかった。哉は質問に答えていただけだ。頭ではまるで見当違いだと理解できても、気持ちは、心は、納得できない。認識してしまうと、もやもやに色がついたような気がする。正体が分からないうちは濃淡はあれどグレーだったのに、どんどん黒に近づいていく。
 だんだん真っ黒になったソレが、本当に体の中に存在しているようにへその辺りがぐるぐるする。
 自分の中に見つけてしまった、知りたくなかった感情に目を閉じても目が回っているような、大小の波に飲まれる小さな船に乗っているような酩酊感。
 そんな感覚に身を任せているうちに、いつの間にか時間は過ぎて不意にがちゃりと玄関のカギが開錠されてドアが開く音が響く。
 条件反射のように玄関へ出迎えに行こうと起き上がりかけて、樹理の中で何かが待ったをかける。中途半端に起こした上体を再びぽすんとソファに預けて、ほとんど聞こえない足音に耳を澄ます。他に音が無いのだから、意識して追えばその足音は一定の速度で近づいてくる。
 部屋を見渡している気配。目を閉じていても、否、目を閉じているからはっきりと分かる気配。
 ソファの背に隠れた樹理に気付いているのかいないのか、哉の気配は自室へ消え、すぐに現れる。
 すたすたとまっすぐ樹理のいるソファの方へやってくる気配。気付かれたのかと目を開けると、逆さまにびっくりしたような顔をした哉と目が合った。ちょっと行き過ぎて立ち止まっているところを見ると、和室へ向かっていたのか。
 そのまま、数秒。いつもとは逆の視点。哉はいつもこんな風に自分を見上げているのかなとじっと見つめる。
「……氷川さんは、絶対、サボってるんです」
 零れて出た本音に、泣きたくも無いのに涙腺が緩んできて、ギュとシャチを抱きしめて、それを堪える為にぐっと下唇をかみ締る。
「他の人とはちゃんと会話するのに、私だとサボってるんです」
 いきなり静かに責められて、哉が緩やかに視線をそらした。
「理右湖さんたちがいたらいっぱい喋るのに、私には全然喋ってくれません。なんだかもう、いつも私ばっかり喋ってて」
 上体を起こして、体をひねって足を床につけ、反動をつけるように樹理が立ち上がり、シャチのぬいぐるみを哉に突きつける。
 困惑。当惑。いきなり突然責められて、普段から口数の少ない哉がスパっと切り替えしてくるはずもなく、されとていつものように無意識で対表面に張っているバリアでさらりと空気に溶けるように躱(かわ)してしまうこともできないのかぎこちない状態で立ち尽くしている哉を、色素の薄い大きな瞳で見つめたままぐいっと一歩、樹理が近づく、
「私、氷川さんがどんな気持ちかとか、結構ちゃんと分かります。察せます。でも……以心伝心って、ちょっといいけど、やっぱり言わなくても分かるようなことでも言葉が欲しい時ってあるんです」
 いよいよ目をそらすだけではなく顔まで横に向けて、普段はおそらく普通の女の子よりも格段に口数の少ない樹理の口撃とも取れる攻撃にどうし対処すればいいのか、一分の無駄もなく整然と並んだ脳細胞をフル活用してシミュレーション中なのか、じりっと近づいてきた気配にほんの少し仰け反るようにしながらも哉はじっとしたまま動かない。
「ほら、もうずるいです。でもダメです。ちゃんと言ってくれないと」
 いつもなら何の苦痛もない静寂(しじま)がギスギスしている。ガマン比べのような無言の時間。
「そんなに難しく、考えなくていいんですよ?」
 どう答えたものかとぐるぐる悩んでいるらしい哉にさらに接近して、体を少し傾げて、哉の顔を下から見上げるように覗き込むと不意に現れた樹理にさすがにびっくりした顔をしている。
 何だか本当に、いい大人が、どうしてこんな簡単なことに生死でも関わる問題でも解かなくてはならないような顔をしているのだろうと思うと、なんだかもう、どうでもよくなってしまって、結局いつも通り、許してしまうのは甘いなと思うのだが、樹理だって好きでいつまでも口元を『へ』の字にしていられない。仕方ないなと軽く息をついてしまえば、哉の前では自然に口角が上がってしまう。
 言外に『許してあげますよ』とにっこり笑うと、哉も降参とでも言いた気に小さく息をついた。
「……言葉は万能じゃない。外から取り入れた知識を説明する分には、そのまま伝えれば齟齬は生まれないけれど、自分の思いや考えを、心をそのまま全て伝えることは出来ないツールだ。百パーセント確実に思い通り伝える術を人間は持っていない。おそらく世界中、どんな言語を駆使してもそんなことは成し得ない。だから──」
「だから喋らないとか、極論過ぎます。言葉にしたら、思ってることと少し違う時もあるけど、それでも、やっぱり言葉が欲しい時って、いっぱいあるんですよ? 些細なことでも、一言あったら幸せになれることがたくさん」
「……」
 哉の言うことにも一理ある。一理あるが、それが全てではない。と言うより、そんな風に考えて不確かな道具を使うくらいなら、どうやっても伝わらない部分があるのならば、別に言葉を使わなくてもいいではないかと言う極論的結論に至ってしまうその回路が理解不能なのだが、周りの情報を集約すると哉の場合、かなりの長期間、そんな状態だったのだろう。言わなくても察してくれる人がいたら、極端に口数が少なくなるのは仕様ともいえる哉の標準装備であり、無自覚の甘えだと言えるが、一体全体どうしてこうなったのか。
「言葉は、時々嘘になる。吐こうとして吐いた嘘もあれば、結果嘘になることもある。嘘を吐くくらいなら、それが元で誤解が生じて溝ができて近かったものが離れてしまうのなら言葉はいらない、と……思う」
「……大丈夫です。そう言う溝は埋めるのではなくて、そのときただ正直に、思ったまま言葉を重ねたらいいんです。被る所があってもいいんです。同じ事を一万回言っても通じなくても、一万一回目に通じることだってあるんですから。ゆっくり、たくさん、話がしたいです。うん、大丈夫です。私、ちゃんとわかりますよ? 氷川さんが言いたいこと、私なりにちゃんと。だから、心配しなくて大丈夫。私も、もっとちゃんとお話できるようにがんばります。会話がないのが当たり前になるなんて、すごく寂しかったんだって、今日やっと、ちゃんと分かったから」
 最初はただの嫉妬で。けれど煮詰めて突き詰めれば、結論は簡単だ。結論は簡単だけれど、実行するのは難しいかもしれない。でも、始める前から諦めたら、きっといつか、取り返しのつかないようなことになるかもしれない。
 それだけは絶対にイヤだから。
「……樹理が望むのなら」
「叶えてください。私も、がんばって我慢しないでちゃんと伝えます。だから、応えてください」
「わかった」
「そんな簡単に、いいんですか? もしかしたらものすごく、わがまま言うかもしれないのに」
「いや、樹理はむしろ……欲がなさすぎる」
 哉の答えに樹理が上目遣いにくすくす笑う。
「じゃあ、どうして氷川さんがそんな風に、会話することをやめちゃったのか、教えてください」
「…………」
 取って置きの悪戯を思いついたような顔で、改めてにっこりと笑う。
「っていうのは、また今度でいいです。ごめんなさい。実はちょっとだけ、氷川さんの昔のこと、琉伊さんにきいちゃったんです。でも、ちゃんと氷川さんからききたいんです。今じゃなくていいから。今は………あ、そうだ。絶対絶対、答えてくださいね?」
「…………」
「おかえりなさい」
 何を言われるのかとほんの少し身構えようとした哉が、一瞬止まって、微笑には届かないくらい口元をほんの少し緩めて、その緩んだ口元からほんの少し息をつく。
 そんなことか、と。
 そして、そんなことさえ言われるまで言っていなかったのだと気付く。
「……ただいま」






   あとがき


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