はじまりのうた ♪  1






 駅を出て自宅に向かって小走りで帰る途中に最初に目に付いたのは赤い傘。
 静かに、けれど朝から降り続く雨にふやけた段ボール箱にそっと立てかけられた赤い傘を避けると、中身のあんこだけ綺麗に舐め取られたアンパンの残骸と、茶色の物体。
 自分を覆う景色の色が変わった事に気づいたのか、傘を持ち上げると丸くなって寝ていたらしい茶色い物体──コロコロした子犬が、黒い鼻の周りをドロボウに扮したコメディアンのように黒くした顔を上げた。
「困ったなぁ この傘には先客がいたのかぁ 傘だけもらうわけにもいかないし。キミ、一人? じゃなくて一匹か。どうする? ウチに来る?」
 困ったといいながらも、にこにこ笑う健太に、子犬がまだ短いしっぽを懸命に振って一声『あんっ』と鳴いたので、それを了解ととって抱き上げ、ついでにどこかの誰かが中途半端な親切心から置いて行ったらしい赤い傘を肩に乗せゆっくり歩き出した。



『あんっ!!』
「あっ コラまて。まだちゃんと乾かしてないっ!」
 玄関を開けて『ただいま』の『た』の形で口を開けたままのちいの前をバスタオル片手に走りぬけたのは見間違いだと思いたいが、兄だった。それも全裸の。
 ムダに広いエントランスで、あんあん言いながら走り回る茶色い物体を、楽しそうに『待てコラー』と叫びながら追い掛け回している。目を閉じて家の間取りを思い出す。ムダに広いではいい勝負の浴室の位置を。この家の玄関、古い映画のセットになりそうな、優雅な曲線を描く階段を備えた吹き抜けのエントランス、その階段を折れて右翼側へ、やっぱりムダに長い廊下を延々歩いて最奥だったはずだ。ちなみに左翼側は食堂やリビング、キッチンがある。左右に広いので奥行きはそこまでないが、戦後建て直されてから幾度かの改修をしているものの、大本そのまま使っているのでいたるところ年季が入っている建物だ。
「ごめんお兄ちゃん、ここ、玄関だよね?」
 ようやく、大きな柱時計の横で茶色い物体を手にしたバスタオルの中に捕獲した兄に、一応そう尋ねてみる。
「あ、ちいだ。おかえりー」
「ただいま、じゃなくて、その格好、なに? って言うか、近づくなー!!! 風呂場に帰れ! Get back!!」
 だぶついたバスタオルのおかげで隠れているものの、申し訳ないが見たくない。
「あはははははは。ごめんごめん。服着てくるからこれ、乾かしといてよ」
 ハイ、と、バスタオルごともごもごうごめく何かを手渡して、健太がくるりと背を向けて急ぐでもなく、いや、どちらかというとのんびり家の奥へ歩いていく。
「し、信じらんない、あのアホ兄貴……」
 家族が一緒に暮らすようになって三ヵ月。別の国の常識が身に付いた兄の奇行に未だに慣れない。兄に言わせれば『日本人の常識の方が非常識だよー』だが、コレを非常識と呼ばないのならあの国は紳士の国ではない。絶対。
 もごもごぷは。
 バスタオルに突っ込まれた物体が、何とか顔を出して息を付く。ふわりと香る甘いニオイ。コレはちいのシャンプーだ。五百ミリリットル四千八百円の。母はともかく犬にか。
 エントランスに飾られたちょっと擦り切れた感が時代を感じさせるゴラリン織りのソファに座って、渡されたものを膝に出してゴシゴシ拭く。くすぐったそうにしているが、子犬特有の全身柔らかい毛がふわふわになっていく。
「サンキュー なんかね、お風呂イヤみたいでさ。きゅんきゅん言うから上げたら一目散で逃げちゃって。今、ウチ誰もいないし、ま、いっかってカンジで」
「全裸でうろついたと?」
「ごめんってー」
 家着のスエットに着替えた健太が首にかけたタオルでまだ水分が滴る長い髪を拭きながらちいの横に座る。
「怖いオネエサンに意地悪されなかったかー? 権三郎?」
 ちいがつけている香水が気になるのか、しきりにふんふんと胸元のニオイをかいでいた子犬がちらりと健太を見て、またニオイをかぐことに戻る。
「あ、ひどい。シカトされた」
「変な名前で呼ぶからだよ。オスなの? この子」
「さあ? 知らない」
 無責任な健太のセリフにあきれながら、ちいが子犬の前足脇に手を入れて顔の前でぶら下げる。子犬特有の、ぷるんと毛のない腹がかわいらしい。
「……多分、メスだよ、この子」
「そうなの?」
「そう。だから権三郎は却下」
「の割にはちいの胸が気になる感じ?」
「ニオイでしょ。今日のはちょっとムスク入ってるから。一応天然素材で動物系だし、これはラストノートで残りやすいから」
 再び膝におろすと、またふんふん鼻を鳴らしながらまとわり付いてくる。
「ふーん。あ、どうしよう、ちい」
「なにが? なにを? なにに?」
「女の子とお風呂入っちゃったよ!!!」
「あっそう」
 長い手足をくねらせている兄に一瞥を投げつけて、膝の上のかわいらしい動物を見る。
「ノリ悪ー」
「いちいちノってられません。それよりさ、お兄ちゃん、この子どうしたの? 飼うの?」
「えっとねー ホラ、今日雨降ってたでしょ? 昨日泊まり込みで傘なんかないし。構内に駅があるから大学では全然濡れなかったのね。でもウチ、駅からちょっと距離あるじゃん。まあもう春の霧雨だしぃ 濡れてもヘイキかなとか思って走ったんだけど、結構寒いし冷たいし? んで、どうしようかなぁと思ってたら植え込みに赤い傘があってさ、ラッキーってもらおうと思ったら下にこの子がいて、傘だけもらうのもなんだから連れて帰ってきたの」
 何度、要点を手短にと言っても、健太の状況報告はいつもダラダラ長い。とりあえず頭に浮かんだ言葉をそのまま口から垂れ流している。
「………ねえ、なんか、すっぱり気にしてないみたいだからあえて言ってみるけど、ウチ、生後3ヶ月の乳児がいるって覚えてた?」
「え? なんかマズいの?」
 きょとんとした顔を傾げる健太に、ちいが深々とため息をつく。
「お母さんたち帰ってきたみたいだし? 聞いてみたら?」
「ええ? 何で分かるの?」
「車の音きこえたじゃん。お父さんの」
「聞こえないよー 雨降ってるし。相変わらずちいって地獄耳だよね」
 健太の言葉にかぶるように、がちゃりと玄関のドアが開く音が響く。これで『ギギギギギ』とか軋んだら立派にオバケ屋敷の扉になりそうな大きなドアだ。
「あら、どうしたの? 二人ともこんなところで」
 例の白いモコモコ(For Dogs)に包まれたみあを抱いた母が、エントランスにたむろする息子と娘をみて目を丸くしている。
「ハイ、説明してね」
 茶色い子犬をバスタオルごと健太に渡して、ちいが立ち上がり、すたすた階段へ向かう。
 いきなり居心地のいい場所がなくなった、そしてこやつに洗われたのだと記憶に新しい子犬が、ぴょんと健太の膝から降りててけてけ夏清に向かっていく。
「あら?」
 先っぽだけ白いしっぽを千切れんばかりに振っている足元にじゃれてくる生き物を見て、健太を見て。
「えーっと、その、飼っていい?」
「私は構わないけど。最終決定はお父さんかしらね」
 子犬に躓かないようにしながら歩みを進めて、一階にある食堂へ向かう母を追う。裏の勝手口から、車を車庫に入れた父が入ってきた。
 無言で、新しく現れた人物を見定めようと近づいてきた子犬と健太を見ている。
「えーっと……」
「でかくなるな」
「は?」
「足が太い」
 片膝をついてしゃがみこみ、お尻をぺたんとつけるようにしてそれでも何とかお座りの体勢を取る子犬の、雑種をあらわす白靴下のを履いたような前足を取ってしげしげと眺め、礼良が立ち上がる。
 忙しなく動き回っていた子犬が、ぴしいっと座ってじっとしている。誰が何を言わなくても、誰が一番偉いのか本能でわかるのか。
「バカではなさそうだ。よし、エサをもらって来い」
「あんっ」
 ぴょこっと立ち上がって、しっぽを振り降りみあをベビーチェアに移した夏清の足元を歩き回っている。
「エサねぇ どんなのを食べるのかしら。まだまだ赤ちゃんっぽいし、今日はさっきもらった離乳食の試供品でいいか。しらすがゆでいい? あん?」
「あんっ!」
「あれ? 飼うことになったの? 名前決まったの?」
 化粧を落として部屋着に着替えたちいがひょっこり現れる。
「そうみたい」
「ちい、悪いんだけど犬用品一式取り寄せてくれない? 子犬用のえさと食器とトイレと……」
「首輪とリードね。ハイハイ」
 よく不携帯になる健太のそれと違い、塗装とデコレーションでフルカスタム、フル防水、お風呂でも手放さない大学指定の携帯端末をポケットから取り出して、ピッピと買い物を済ませている。
「ネームプレートつける? あんならAN? ANN? それともANNE?」
「ANNEがいいかしらね。赤毛じゃないけど」
「栗毛だよね」
「多分もっと濃くなるぞ」
 冷蔵庫からビールを取り出して勝手に自分のグラスに注いだ礼良が、夏清がレトルトパウチから搾り出すしらすがゆを待ちきれずにぴょんぴょん跳ねているあんを見て言う。
「ナニが混じってるのかな。顔のマロ模様は柴は間違いなく入ってるよね? その割りにしっぽがくるんってしてないなぁ」
「短毛の洋犬だろう」
 一応綺麗に洗われた雑巾を敷いて、その上にかゆの入った小皿を置くと、目をキラキラさせてよだれをたらさんばかりの表情をした後、待てと言う前に皿に顔を突っ込んで食べている。
「おなか空いてたのかしらね」
「ボクが拾ったときは顔中あんこまみれだったよ。誰かアンパンやったみたいでさ」
 こーんな、ドロボウみたいな顔。と、自分の口の周りに輪を作って、拾った当人なのにどうにも会話の輪から除外されていた健太がやっと加わる。
「飼っていいの? みあがいるけど」
「いいだろ、別に。さっきの検診でも喘息もアレルギーも今のところ何もないみたいだし。なんかあったらお前が責任もって処分しろ」
「えええー イヤだよ、一度飼ったペットは大事にしないと」
 処分という言葉に反応したのは、コンマの差でちいが早かった。
「じゃあお前も散歩とか行けよ?」
「うへぇ 朝はご勘弁いただきたい」
「一蓮托生だろ」
 自分の将来を無責任に語られているとは全く気づいていないあんが、離乳食用で量が少なかったからかあっと言う間にしらすがゆを食べきって、まだ食べたいと言った風で顔を上げて自分よりでっかい人間を見上げている。
「ぷ」
「……白いけど……」
「たしかにドロボウかも」
 黒い鼻の周りに付いた白いかゆを舌で必死に舐めていいる子犬を囲んで、人間たちはひとしきり和やかな時間を過ごした。








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