ケース2−4 続いて田中エリの場合


 ゆらりと、陽炎が立ち昇ったような錯覚。
 いつも誰とでも対等で、誰にでも向けられていた無関心な微笑みはそこにはない。
 そう、そこにある得物を捕らえた肉食獣に似た、底の見えない瞳だけ、笑っていない。
 背中をつたう、汗。そらせない目。
 瞬時にして絶対の怒りが結ばれた視線から体内に流れ込む。
 生まれて初めて足が竦んだ。
 彼にだけは負けたくなかった。
 小学校ではいつも一番だった。中学受験をする小学生を対象にした、最大手の全国規模の進学塾が行う試験では、全国でも十位以内に入っていたし、県内ではもちろん一番だった。
 まわりも自分もできて当然だと思っていた。条祥にだって、受かって当然だと思っていた。条祥で送る六年間の学校生活でも、自分がトップである事を疑わなかった。現に、新入生代表も私だった。
 でも。
 入学してすぐの実力試験で、私は初めて敗北する。
 昇降口に張り出された上位成績者の名前。
 当然、一番上にあるべき自分の名前の場所には…
『斎藤駿壱』
 同じクラスの、物静かな少年の名があり、私の名前はその次だった。
 驚きのあまり、開いた口が塞がらなかった。
 でも、まぐれだと思う事にした。次をがんばれば、首位は奪還できると、軽く考えていた。現に彼は、学校のほかに塾に通っていた私と違い、朝から晩までクラブ活動をしていたので、絶対に勝てると思っていた。
 蓋を開けて見れば、連敗の嵐だった。
 私はいつも次席で、彼はいつも主席だった。
 主席である事を鼻にかけるところもなく、面倒見のいい彼は、いつもクラスの中心だった。休み時間は大抵、彼のまわりに人垣ができて、先の授業で分からないところを聞こうとクラスメイトが我先にと彼に質問をぶつけていた。対する私は、人に物事を説明するのが下手で、プロセスよりすぐ急いで答えを教えようとして、結局相手を混乱させるだけだった。
 一人ガリ勉をしていると思われたくない一心で、バレーボール部に入部した。それで成績が落ちたといわれないために疲れていても毎日寝る間を削って勉強した。しかし彼は、いつ勉強してるのと尋ねた私に、笑って答えた。
「俺、学校以外で教科書開いた事ないよ。授業さえ聞いてたら、大体理解できるし」
 信じられなかった。でもなぜか真実だとわかった。
 敵わないと思った。
 それと同時期に、本当は彼が入試でも一番だった事を知る。彼は、代表挨拶を辞退していたのだ。
 負けたくない、と思った時点で、自分が彼に大敗しているのだと、気づかされた。
 対等でありたい、と思った時点で、彼の隣には行けないのだと、気づいた。
 いつもイラついていた。
 気に入らないヤツを傷つけるのは平気だった。
 私よりバカなくせに、私より幸せなヤツに腹が立った。
 いつも満たさせていない自分がいた。
 いつも負けつづけた。でも、ここで負けたら一生ものだ。この勝負、勝たなくてはいけない。絶対に。
「あーあ、結局自分の力で戦わないのね。最後はやさしいオニーチャンに助けてもらうんだ?」
 ひくりと、ガキの肩が動く。

「そんなんじゃ、いつまで経ったってガキのままね。斎藤君も、そんなちびっこの面倒みるの、大変でしょう? 本当の兄だって、そこまではしないと思うわ」
「いや。そんなことはないよ。自分たちより年下の子供に優しくするのは当たり前のことだろう?」
 背中をなでてやりながら、彼が静かにそう言う。

「でもその子、斎藤君のことただの「近所のやさしいお兄さん」だとは思ってないみたいだけど? いいわね。いい男は女の子にもてて。彼女みたいな子に好かれてて、斎藤君もそれで満足してるんなら、翔子や他の同級生の女の子にコクられてもうれしくもなんともないでしょうねぇ」
「まさか。いろんな人に自分に好意を持ってもらえることはうれしいよ」
 やんわりとした、肯定とも否定とも取れる答え。もしも斎藤君が、万が一にも腕に抱く子供に対して保護者として以上の感情を持っていたとしても、こんな衆人監視のなかで、彼の腕の中にいるクソガキが一番望む答えは出せるわけがないわ。カミングアウト覚悟でそうですとは言えないわよね。
「さっすがよね。優等生の斎藤君らしいおこたえありがとう。でもね斎藤君そうやってんの見たら何て言うか、保護者っていうより」
 悪いけど、わたし、伊達にいじめっ子やってたわけじゃないのよ。
 どう言うタイミングで言葉を切って、笑って、蔑んで、つぎの言葉を叩きつけるか。相手に、どんなことを言われるのだろうかと考える最悪の間を取る。
「なんか、斎藤君、ロリコンみたいに見えるわよ」
 どんな笑い方をすれば相手が怯むのか。
 斎藤君は、そのくらいの事を言われるのは分かっていたと言わんばかりのすました顔でわたしを見返す。
 しかし、彼は何も言わない。否定すれば、腕の中のガキに恋愛の範疇ではないと言うようなものだ。でも肯定はできないだろう。ただならぬ雰囲気に、徐々に人が集まって来ている。
 イエスともノーとも取れる彼の沈黙。
 彼がどう思っていようが、とっちつかずの場合は自分の都合のいいように取って、まわりの意見を自分の方へ流せばいいのだ。
「そうよね、斎藤君だってまさかロリコンじゃないだろうし、セックスも出来ないような子供じゃ相手にならないわよね」
 さあ、どう答える?
 さっきみたいに優等生ぶって性欲ありませんって顔でさわやかに答える?
 腕の中のガキが子供だと思ってるのなら否定しなさいよ。でもね、その子は絶対そうは思ってないわ。
 さあ、どうする?


ブレス 近宮君のつぶやき
ケース2−4´(ダッシュ) 駿壱の場合
------------この節と同じ時間経過ですが、飛ばして
ケース2−5 そして田中エリの場合
------------を選択したらストーリは続かないです…

ケース2−3 駿壱の場合


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