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 うわあああああ。暑っ
 って言うか、六月半ば過ぎが夏になっちゃったのはいつからなのかしら。子供のころはもっと、六月は涼しかったような気がする。って言うか、梅雨ってどこに行ったのかしら。
 弱冷房の車両でさえ、都心は乗ってる人が多くて不快度ゲージが上がってたのに、目的の駅に降り立った瞬間まとわり付いてくる日本の夏の、ねっとり湿り気を帯びた大気。さらに改札を抜けて炎天下。半そでから伸びた腕を容赦なくじりじり、ゆっくりと焼きにかかる太陽。
「眩し……」
 右手をひさしにして目を細めれば、やっと車がすれ違えるくらいの、なんと石畳の道。その狭い路地の向こうに、見上げても足りないくらい高い塀。しかも、レンガ造りの上に矢じり型の突起が連なっている。塀の反対側、歩道のあるこちら側にはやたらお上品なた佇まいの低層マンションやビル。その一階には漏れなくおしゃれなカフェ、雑貨店、そして花屋。景色全体がまったり女の子色をしているような雰囲気。
「……着てくるもの、間違ったかも」
 おそらく同じ行き先を目指す途切れがちの人並みは、微妙にハイソだ。斜め前を歩いている女性が着ているワンピース、そんなのどこで売ってるのか私には分からないよ。
 高校の学校祭と聞いていたので、いたって普通の……いやちょっと派手目のオレンジの地に英字プリントのTシャツと、いつものジーンズ。こんなそこらのコンビニにふらりと行くような格好をしたような人が見当たらないのが余計に不安。ってか、おそらくこの人たちはコンビニに行くにもそれなりの格好をしてそうと言うか、そもそもコンビニなんか行くのか?
「だから言っただろ、スカートにしろって」
「………」
 その長身を生かして日よけになってくれている先生が、斜め上からあきれたような言葉を降らせる。
「だって。あのズルズルしたのは電車ではちょっと動きにくいし……」
 出かける先が都内を突き抜けるので、今日は車じゃなくて電車で移動。ウチから約二時間。あの長くてテロンとした生地で出来たスカートは、階段の上り下りがつらいし、ちょっとした風で足に絡むから歩きづらいのよ。
「赤いのは? 去年の今頃だろ、買ったの」
 うん、まあ。私が持てるスカートって、制服以外だと赤いワンピースとあのヒラヒラの、二枚だけ。まあ、季節的にもあの赤いヤツがピッタリなんだけど。なんだけどっ
「………いの」
「え?」
 他人に聞かれるのはちょっと恥ずかしいので、ちょっと先を行く案内してくれてる初対面の人物の背中を見て声のトーンを下げてつぶやいた言葉は届かなかったらしい。少し身をかがめて近づいてきた先生の耳元に、囁く。
「だからー……ちょっとキツくて」
「なんで? そんなに太ってないだろ」
「………ウエストとかはいいのっ! ってかまだ余裕! だけどそのっ……む、むね……っていうか、まあ」
「ああ、そう」
 先生が身をかがめたまま、その視線を一点に固定。慌てて両手で胸元を隠す。いや、別に見えてるわけじゃないんだけども。
「み、見るなっ」
「いいだろ別に。むしろ増えてるし」
「そう言う問題じゃないっ いやむしろもう増えなくていい」
 シャーっと威嚇しても、なんていうか、改めてって感じでまじまじと見下ろされる。目を細めるなっ なんかその視線ってやらしいんだよっ
「もしかしなくても制服のベストもきついだろ?」
「うううっ ガマンしてるの。どうせ今年だけだもん。それに、着てないとなおさらどーんって感じでそれはどうかと思うんだもんっ」
 私の通う高校は、一応五月六月と、九月十月の夏服移行期間が個人の判断でベストの着用が出来る。指定のシャツが白いから、下着が透けるのを嫌って結構みんな年中ベストをきているので、七月になっても着るけどね。ある程度押さえてるほうが動きやすいしさ。
「ま、いいけどな」
 先生がやっと視線をそらして歩調を緩める。その顔の動きに促されて前を見ると、いつの間にか目的地の門まで到達していた。コソコソ話しながらコソコソ歩いてきた私たちを、先に行っていた人物が待っていてくれている。
 無言で差し出された右手には、二枚のチケット。一応一般に開放された日なのでなくても入れるんだけど、持たないと身分証を見せて氏名住所連絡先などを記帳しなければならないらしい。さすがは超有名お嬢様学校というべきなのかしら。
「あ、ありがとうございます」
 先生がそれを受け取って、私に。なんとなく、目の前に立つ寡黙を通り越して全くしゃべらない人物──先生の同級生だという氷川哉氏にお礼を言うと、ちょっとだけ反応した。毛先が揺れるくらい。もしかしたら風が吹いただけかも。んで、すたすた行ってしまう。
「しゃべれない、んじゃないよね?」
 事前に先生から『言語によるコミュニケーションはほぼムリ。必要最低限をさらに下回るときが機嫌がよいとき』って説明されてなかったら、確実に嫌われてると感じるような態度。氷川さんは本当に何にもしゃべらない。途中の大きな駅で待ち合わせたんだけど、私が自己紹介しても微動だにしなかった。もちろん、向こうの紹介は先生がした。目だけがちょっと動いたような気がしたけど、気のせいだったかもと思うくらいに。それでも先生が話しかけたらなんとなく反応してるっぽい。動きが微妙だけど。かなり謎な人だ。それもあんまり解明したくない部類の謎。
「しゃべらなくても通じる相手にはしゃべらないからな、基本的に」
「……よくわからない……」
「言葉でなきゃ通じない相手にはしゃべるぞ。ただしそうまでしてしゃべることは滅多になかったがな」
「電話、してたよね? 今日のこととか」
「端的に要点をな。連絡事項ならあのクチもするする動く」
「スルスル……」
 ……動くところが想像できない。
 門を通って、受付でチケットがちぎられ、半券と一緒にパンフレットが手渡される。このパンフレットも凝ってるなぁ 光沢紙にフルカラー。新城東のガリ版とは月とすっぽんの出来栄えだ。いや、ウチの学校案内よりこのパンフの方がすごいかも。この学校の生徒で、何と私の同級生だという氷川さんの彼女さんとの待ち合わせの場所は分かっているのか、迷うことなく歩を進めている。ってか、待って。女子校のどこに何があるか知ってるの? この人……
 その背中を追っていると、ポケットから携帯電話を取り出して誰かと話して、あっという間に切ってしまう。遠くはないけれど会話までは聞こえなくて。でもものすごい短い事務連絡だった。ああ、とか、ん、とか。阿吽? それは阿吽の呼吸ってヤツですか? それって、会話、なの?
 電話をしている間も全く歩調を緩めずに進んでいく背中をてくてく追いかけた。


 困っちゃった。
 制服のスカートの端っこを掴んで放してくれないのは、先ほど昇降口の階段の踊り場で、柵の間に頭を突っ込むように下を見ていた男の子。どう見ても迷子で、そこから誰かを探してる様子だったから、放って置けなくて声をかけてしまった。
 着ている服は、ウチの学校の幼稚舎の制服だ。初等科以上は女子のみだけど、数年前から幼稚舎だけは男の子もいる。女の子の制服が私たちと同じ色なのに対して、男の子のはチャコールグレー。ぴっちりとアイロンのかけられた半そでのシャツに、指定のサスペンダーが付いた膝小僧が見え隠れするくらいのハーフパンツ。足元はこれまた真っ白な靴下に、ぴかぴかに磨かれたミニチュアみたいな黒い革靴。
 子供特有の、細くてさらさらの黒髪、真っ黒な瞳はすごく意志が強そうで、本部テントにいた教師がどんなに聞いても自分が迷子だとは認めず、一緒に来ている母親のほうが迷子になったと言いはって曲げなかった。きゅっと結んだ口からは名前さえ尋ねることが出来なかった。結局、幼稚舎の男の子が迷子だという案内は放送してもらえたけれど、アレだけで来てくれるかしら、保護者の方。
 このままじゃ待ち合わせの時間に遅れちゃいそう。ただでさえリナちゃんや翠ちゃんの所に寄っていて、ギリギリだったのに。
 ため息を飲み込んで、傍らの男の子を見る。態度は迷子になった子供とは思えないほど偉そうなんだけど、その手だけが正直に一人になるのが怖いって言ってるみたいで、逃がさないと言わんばかりに力のこもった小さな手を見ると、振り払うのはかわいそうになってしまう。
「ああ、どうしよう……あ、そうか、電話したらいいんだわ」
 うーんと考えて思いつく。というか、考えないと思いつかないのよね……携帯電話というものをもってまだ日が浅いので、なんて言うかあんまり使い慣れてない。せっかく便利なものを持っているのに使わなくっちゃ意味がないよね。
 リダイヤルから番号を出して三コール。
「あ、氷川さん、樹理です。はい、あの、ちょっと遅れそうで……すみません、すぐとなりにテントがあって……そうです、じゃあ折り紙のところに、はい、そんなにかからないとは思うんですけど、はい、ごめんなさい」
 ……氷川さん、どうしてあのテントのこと知ってるんだろ。あ、もしかしてもう着いちゃってたとか? 慌てて電話の時計を見たら五分前……氷川さんなら来てそうな時間。
「じゅり、って言うのか?」
 携帯電話を見つめていたら下から声は幼くて、でもなんだか大人びた口調の問いかけ。見たら、男の子が私のことを見上げていた。うーん、首が痛そう。
「ええ。そうよ。そう言えばキミの名前を聞くばっかりで、言ってなかったね。私は行野樹理。よかったら君の名前も教えてもらえるかな?」
 スカートの裾に気をつけながらしゃがんで、電話の冒頭で名乗ったのと聞いていたらしい男の子と視線を合わせる。黙ったまま気詰まりな時間をすごすより、何かはなしていたほうがいい。
「柾虎。桐生柾虎(きりゅうまさとら)。木ヘンに正しいで柾、動物の虎」
「私の名前は、樹木の樹に、理由の理って書くの」
 さっき先生に自分の名前を教えることを頑なに拒んでいた態度がウソみたいに、柾虎君が名前を教えてくれる。自分の名前の漢字まで説明できる幼稚園児って、ちょっとすごいかも。だから私も、分かってもらえるかどうかは別にして、同じように説明する。
「ふうん。いい名前だな」
「あ、ありがとう」
 にっこりと無邪気な笑顔を添えて直球でほめられて、子供相手ってわかっててもちょっと照れてしまう。真っ黒なのにキラキラした澄んだ子供の瞳。さっきまでのツンケンした雰囲気が一気に吹き飛ぶ天使の笑顔。言葉遣いが大人びているのにこうして笑うとすっごくかわいらしい。
「柾虎君の名前もカッコいいよ」
「そうか? なんだか古臭くないか?」
「今風の名前より柾虎君には似合ってていいと思うよ」
「そうか」
 思ったことをそのまま言ったら、柾虎君が満足そうににっこりしてくれた。
「柾虎君、疲れない? 座ってていいよ」
「いや。ぼ……お、俺は大丈夫だから樹理が座るといい」
 今更だけど隅っこに空いているパイプイスを見つけて柾虎君に勧めると、きっといつもは『ボク』な一人称を慣れないほうに言い換えて少し恥ずかしそうにうつむいている。どうしよう、ホントにめちゃめちゃかわいい。
 小さな男の子が一人前を一生懸命演じている姿に、つい口元が緩んじゃう。
「じゃあこうしよう」
「え? わっ!!」
 ついでに、気も緩んじゃったのだと思う。でないと、いつもの私なら絶対出来ないような行動にでちゃったからだ。
 すとんとイスに座って、柾虎君を膝に抱く。わたわたしてるけどムリに降りようとはせず、なんだか立ってるより緊張してそうな感じで柾虎君が膝に乗っている。ああ、ますますかわいい。
「ほら、二人とも座れた」
「いや、これは……樹理が重いだろう?」
「大丈夫よ? 柾虎君一人くらいヘイキ。でも、お母さん遅いわね。もう一回放送してもらう?」
「……母は……ちょっと変わってるから、もしかしたら放送自体聴いてない可能性も……」
 なんだか所在無さ気に柾虎君がゴニョゴニョとさっきまでの勢いはどこにやったのか、歯切れ悪く答えてる。あんまり聞かれたくないのかな。さっきもすごく頑なだったし。
 とりあえず、リナちゃんたちの影響で見てる、ちょっと子供向けじゃない内容のだけどアニメの話を振ってみたら、キャラクターの裏設定とか、私よりやけにに詳しかった。他にも習い事のこととか、幼稚舎のことを話題にしたら、だいぶ気持ちがほぐれてきたのか素直に何を習っているかとか、お友達の名前とか教えてくれる。暫くそうしていて、ふと視線を感じて顔を上げると、本部テントのそばに若い女性が立っているのが見えた。あれ?
「すいません、さっきの迷子……あれ? 樹理ちゃん?」
「琉伊さん?」
 すらりとした細身を上品なワンピースに包んだその人は、知っている人だった。膝に乗っていた柾虎君がするっと降りてくれた。
「琉伊さん? ……の、子供?」
「違う、私のじゃなくて、友人の子供。ああ、やっと来た。ユリ、いたわよ」
「うわあ、よかったぁ トラ君急にいなくなっちゃったから、ユリ、どうしようかと思っちゃったわ」
 琉伊さんから遅れること数歩。まぶしいくらいのお嬢様オーラの塊が立っていた。茶色くカラーリングした髪を念入りに巻いた、どう見ても女子大生……同じ制服を着ていたら同級生にも見えてしまいそうな若々しい……っていうか、自分のことを名前で言っちゃう辺りからしてちょっと常識が通用しなさそうな、その姿より中身がずっと幼い雰囲気の女性が、満面の笑顔で柾虎を見ている。
「違うっ! 母が急にいなくなったんだっ いつも言ってるだろう、面白そうなものを見つけても黙って勝手に行くなって」
 すたすたと母親の前まで行って、柾虎君が両手を腰に当てて仁王立ち。申し訳ないけどその後姿がかわいくって。
「ええー トラ君がついてきてるって思ってたもん」
「歩幅を考えろ! 手を振り払うな!! 走って人ごみにまぎれるなっ! おかげでこっちのほうが迷子扱いだ!!」
「はぁーい。ごめんなさーい。トラ君怖ぁい。ヨリ君がもう一人いるみたい」
「まあまあ柾虎、私もユリのことを見張っててあげるから、そのくらいで許してやって。樹理ちゃんもありがとう。扱いづらい子供だったでしょう?」
 すごくかわいいけど、本人はいたってご立腹で湯気を出しそうな勢いだ。そんな彼をなだめて、今にも脱走しそうな柾虎君のお母さん、ユリさんの首根っこを抑えて、琉伊さんが声をかけてくれた。
「いえ。言葉遣いは大人びてるけど、素直でいい子でしたよ。お話も楽しかったです」
「……素直で、いい子?」
 私の返答に、琉伊さんがいぶかしげな顔をして鸚鵡返しに尋ねてくる。私、何かヘンなことを言ったかしら。
「……ハイ……」
「いや、まあ、うん、樹理ちゃんのことを困らせていなかったならいいんだけど。もしかしなくても長いこと待たせたわよね? 他にも用事とかあったんじゃない? 大丈夫だった?」
「あ、そうだ。氷川さんのこと待たせてるんだった」
 言われて思い出す。少し遅れるといったものの、すでに少しではないくらい時間が経ってしまってる。
「哉が来てるの?」
「ハイ。お友達と一緒に。一人より誰かとの方がこういうところにくるのは気が楽かなと思って、余ってたチケットを渡したら学生時代のお友達を誘ったって。銅像横の折り紙テントで待っててもらってるんです」
 生徒が申請できるチケットは最大五枚。本当は、二枚だけ申請して両親だけにチケットを渡すつもりだったんだけど……ほら、氷川さんが一人でこんなところに来るとも思えなかったし。でもリナちゃんと翠ちゃんに『呼べる人間は枚数の限り呼ばなきゃダメ』って言われちゃって、誰か誘ってきてくださいって氷川さんに押し付けけちゃったのだ。そしたら、ちゃんとお友達を誘ってきてくれた。もしかしたら一人でも来てくれたのかな?
「……お友達の名前聞いた?」
「えーっと確か、イナリさん」
「だけ?」
「イナリさんのお友達って言うか、彼女がご一緒みたいです」
「へぇ そう、あの人も来てるの……」
「ねぇねぇっ 琉伊のお兄様と井名里様がいらしてるの?」
「母っ! 人様の会話に割り込むのは失礼だぞ!!」
 琉伊さんに知ってるのか聞こうと思ったら、横からユリさんの声でさえぎられてしまった。中途半端に口が空いてるのが見えたのか、柾虎君がその行為に足元でわめいていたけど、ユリさんはぜんっぜん聞いてない。
「きゃぁ 久しぶりっ! お兄様はこの前のパーティでお見かけしたけど井名里様は何年ぶりかしら!? ねぇ あなた、私も連れて行って下さらない? ご挨拶したいの。ああ、二人揃ってるところを見られるなんて何年ぶりかしら!? お邪魔はしないから」
「存在が邪魔だと思う」
 なんだか諦めたような口調で柾虎君が突っ込むけど、それすらさらっとスルーしてしまうユリさん。力の限りゴーイングマイウェイ。
「ええっと、あれは私たちが高校一年生のときだから……懐かしいわぁ もう十年近くも前になるのねぇ」
 記憶とともに魂さえどこかに飛ばす勢いでそう言うと、ユリさんが勝手に歩き出す。足元はあくまで優雅に。ああ、コレが迷子の元なんだわ。言っても止まらなさそう。仕方なく三人で、ユリさんを追いかけた。


 なんだか怖い、しかめつらしたオジサンの銅像。後ろに回って詳しい経歴を読めば、学園の創始者だった。
「こんなヤクザみたいな人が、こんな学校作ったんだ……」
 顔がいかつい上に、右眉にガリっと刀傷。そんなものまで再現しなくていいと思うんだけど。
 その銅像の周りには私たちと似たような待ち合わせをしてるっぽい人が結構いた。
 じっくり経歴を読んで、私は再び男二人がどんと陣取っている、銅像横のブースを覗く。動きにあわせてひらめくかわいいモスグリーンのジャンパースカートはキッチリお上品ラインをキープの膝丈。腰で折れないからだろうけど、やたらと丈を短くしてるような子は一人もいない。白いブラウスにどう見てもシルクなふわふわのリボン。ウチの高校の制服とは比較にならないくらいいい生地使ってます! って感じな、お嬢様制服に身を包んだ女生徒が、来場者に折り紙を手渡している。千羽鶴を作って災害被災地や戦争記念公園なんかに贈る活動の一環なんだとか。やってることもちょっぴりハイソだ。
 人待ちの手持ち無沙汰を解消するにはもってこいの作業なのだろう、結構な人が折っている。一人一枚とは限らないのみたいだし。
 だからか、折り紙が苦痛じゃなければ、何枚でも折り続けていい。私も久しぶりだったし、最初こそ楽しかったけど、三枚で飽きちゃったから、そこらをウロウロしてたんだけど。
 折るためにかがまなくていいように、少し高めにしてある作業台。でもさすがに先生はかなり前かがみだ。で、そこで黙々と紙を折る男二人。なんなんだろう、この絵は。
「先生、そんな折り紙好きなの?」
「知ってるか? 折り紙は数学だ」
「……折り紙は折り紙でしょ」
 先生の手元を見ると、二次元の平面に見えて実はきちんとこの世に存在することを主張する、わずかな紙の厚みという三次元的ハンデをものともせずに一分の狂いもなくキッチリ、他とは一線を画すほどきれいな折鶴が長い指によって造形される。瞬く間にスタンダードな折鶴が完成した。器用だなぁ ホントに。
「コレ、元に戻して折り目の図形を見てみろ」
 少し勿体無いと思いながら、言われたとおり元に戻す。
「……すごい、キレイ」
 正方形の紙に、大小の三角四角。ぶれることなくきれいにつけられた折り目。角度も辺の長さも対称。その線がどれも美しい。
「一枚の紙で何かを作る。有限の中で無限の可能性を作り出すためのプロセスは数学だ。例えばコレなんかは、割と有名だな」
 いつの間に折ったんだか、先生の右手人差し指でくるくる回っている何か。
「見せてっ!」
 広げて差し出した両手に、コロンと落ちてきたのは、薄い黄色の折り紙で折られたバラだった。
「すっごーい。こんなのいつの間に折ったの?」
 私が鶴を戻してる間に折ったんだろうけど、どう考えても三分くらいしか経ってない。
「簡単だぞ。慣れたら一分で折れるから『一分ローズ』」
「一分で折れるの!?」
 見ただけでは、どうやって折ったのかも分からないくらい立体的なバラ。
「さすがに久しぶりだしそれなりにきれいに折ろうと思ったら一分は無理だな。んでこっちのが、一分ローズを考えた川崎敏和准教授が作ったもっと本格的で難しいバラだから『川崎ローズ』」
「ひゃー」
「ちなみにこの人は、折り紙に関する論文で数学の博士号をとってる。確か川崎定理『一点から放射状に延びた折り線で紙を平坦に折りたたんだとき、折り線のなす角度の交代和が……」
「たんま。ココで講義始めないで。帰ってから聞くから、ゆっくり」
 放って置いたら延々講釈垂れそう。先生はヘイキかもしれないけど、私は周りの人たちの視線が気になる。多分誰もついて来れない。
 一分ローズの横に、さらに精巧なバラ。一分ローズがシンプルな原種に近い一重のバラなら、川崎ローズと手渡されたほうは八重の花びらをほころばせかけた豪華なバラ。どうやったら折り紙一枚でこんなものが作れるの? 切ったり貼ったりしてないんだよね? ココにはハサミもノリもないから。
 誰が作ったって、そんな地味な作業を黙々とやっちゃうのは氷川さんくらいしかいないよね。ちらりと窺うと、どうやったのか折り紙の辺に対して微妙に角度が違う大量の折り目で作られた升目がついた折り紙をくるくる手の中で回しながら川崎ローズを折り上げている。魔法を見ているのかしら。
 折り紙を折っていたほかの来場者も、折り紙を配っていたお嬢様方も、あっけに取られたような顔で一体何分割の升目が付いているかもしれない折り紙がバラに変貌する様を見ている。実際に折っている指先をじっとみても、ああ、本当に全然分からない。って言うか、何この早送り映像。しゃべらないし、ぼーっとしてる雰囲気からは思いもよらない早業よ。
 暫く氷川さんの手元を見て、なんとなく先生を見る。なんかヘンな間が出来たので、もらった一分ローズを頭の天辺に載せてみた。
「見てみてー ティアラみたい? 今度アルミホイルで折ってよ、一辺三十センチの」
「教えてやるから自分でやれ」
「あ、あそこにいらっしゃったわ! お兄様っ 井名里様っ お久しぶりですわ!! まあ素敵なバラ! 折り紙には見えませんわね」
 すっとーんと突き抜けるような女性の声が後ろから聞こえて、折り紙のバラを片手で支えながら振り返ると、全身からお嬢様オーラを炸裂させているとしか表現しようがないくらいキラキラ全開のかわいらしい女性が、両手の平を胸の前で合わせて、濡れたような大きな瞳で、私の頭のバラを見上げている。ダレ? 先生のこと、呼んだよね。しかも『様』で。
「見て、琉伊。本物のバラのようだわ。アナタのお兄様は相変わらず器用でらっしゃるのね」
 視線をすぐに台のほうに向けて、そこに転がった、氷川さんの折ったバラを見て大げさにため息をついている。仕草がいちいちオトメっぽい。
「こんにちは。お久しぶりです」
「ああ、十年ぶり、くらいか」
 オトメな人に『ルイ』と呼ばれたすっごいほっそりしたすんごい美人が、先生に挨拶をして、先生も返している。知り合い? 知り合いなの? 
「だれ?」
「ああ、哉の妹、琉伊。あっちの騒がしい人は、その同級生の……桐生ユリ……結婚してなかったらな」
「妹!? うっわ、似てないっ」
 なんていうか全然違う人種に見えるんだけど。
「まあな、哉は公や琉伊とは似てないからな」
 そう言われて改めて見ると、ああそうかって思う。なるほど、この人は公さんと似てるんだ。すっきりした目元とか。うん、見れば見るほど公さんの女版、美人なわけだ。
 そのとなりに、あふれるほど居るこの学園の制服姿の女の子が小さな男の子と手を繋いで立っていた。うわあ、こっちもかわいいなぁ コレまで何人も同じ制服の女の子を見てきたけど、ダントツな感じ。なんでココ、こんなにレベルが高いんだろう。キリカをつれてきたらよだれたらして喜びそう。子羊ちゃんの群れにオオカミぶっこむようなもんだから、絶対にしないけど。
 なんて考えてたら、いつの間に移動したのか、その少女の前に氷川さんがいた。
 ──音が全然しなかったんですけど。
 絶対目の前を通ったはずなのに、気配すら感じなかったのはどうしてですか? 最近キリカと仲良くなったせいか、少しずつ己の欲望のまま行動や想像が動きがちだし、その心赴くまま美女や美少女に見惚れていたのは認める。だけど、それにしたって空気過ぎやしませんか? 氷川さん……
「わぁ すごい。これ、氷川さんが折ったんですか? きれい。いただいていいんですか?」
 氷川さんが最後に折った、おそらく最初に作ったもの(私が持ってるのは二番目に折ったやつで、多分アレは三番目の作品)より出来がいいであろうピンクのバラを、子供と繋いでいないほうの手で受け取って、その美少女がにっこり氷川さんに笑みを返している。あああ、その笑顔は反則だと思うよ。
 そんな砂糖菓子みたいな笑顔を、手を繋いでいる子供に向けて、子供に合わせてしゃがんで、もらったバラを見せてあげている。さり気にそう言う風にしてあげられる子って点数高いよね。
「見てみて、柾虎君。すごいでしょう?」
「ああ、すごいな……あうあっ!?」
 手元のバラを見るためなのか、顔と顔が近い。良くわからないけど仲がよさそう。きっといいお母さんになりそうだなぁとか、想像してしま………うあ? あ?
 柾虎君と呼ばれた子供の体が宙に浮いている……ってのはさすがに錯覚で、正しくは背中のサスペンダーが交差する辺りを下のシャツごと氷川さんが掴んでネコの子みたいにぶら下げていた。細身に見えたのにどこからその腕力が?
「なっ! なにをする!?」
 そして、ぽいっと捨てるように子供を下ろす。柾虎君と呼ばれた男の子が唖然としたした後、至極真っ当な問いを、不条理な行いをした大人、氷川さんに投げかけた。ユリさんはその様子をニコニコ笑いながら見てるだけで、琉伊さんが『あーあ』と言いながら額に手を当てて天を仰ぐような仕草をしている。
「え? えと、あの、氷川さん?」
 ひどく憤慨しているのか、腰に両手をあてて仁王立ちし、氷川さんを見上げる柾虎君と、氷のような表情のまま柾虎君を見下ろす氷川さん。うわあ、怖い。子供相手に本気だよこの人。さっきまでこの世の何にも興味ありませんって感じだったのに、ものすごい変貌ぶり。そんな二人の間で少女がオロオロしている。こっちはやっぱりかわいい。
「……さぃ……じゃなかった、お兄様、子供相手に大人気ない行為はヤメテクダサイ。柾虎、アナタの母親同様にこの大人にもあまり常識が通用しないわ。戦ったらその時点で負けよ。あなたなら言ってる意味、わかるでしょう?」
「わからないっ! なんでこんな扱いを受けなくてはならないんだ!!」
 琉伊さんの仲裁にも、お互い聴く耳を持つつもりがないらしい。にらみ合って一触即発って感じ。格闘ゲームで、パワーゲージが溜まるのを待っているような間。なんだろう、この面白いコント。
「桐生柾虎……か」
「なんだっ!」
 ぼそりと氷川さんにフルネームで呼ばれて、人生の長さも身長も、とにかく劣勢っぽい柾虎君が、じりっとたじろぐような仕草をしつつも強気な言葉を返している。うわぁ 初めてちゃんと聞いた、氷川さんの声。
「樹理は、俺のだ」
 大きくはないけれど、ものすごい威圧感のあるセリフのあとに、放送事故が起こったのかと思えるほどの真っ白い間。いや、笑いそうになったけど、先生が視線で制すから、必死にガマンしたの。でも唇の端がヒクヒクするのは許して。だって面白すぎる。あとで絶対思いっきり思い出し笑いをしたい気分だ。
「あのっ こちらは要りませんの? でしたら私もほしいですわ!」
 そんな微妙な静寂を破ったのは、おそらく全くこっちのことなんか気にも留めていなかったらしい、ユリさんのハイテンションボイスだった。
 我が子のことなんか全く興味がなかったのか、作業台に残っていたバラをユリさんがさっと我が物にしている。すごい、速かったよ今の動作。
 そのすばやい行動とは対照的にゆっくりと氷川さんが首をめぐらせて、やっとその存在に気づいたって感じで数秒考えるような時間を置いて、それでもあっさりどうぞと答えている。
「うれしい、大切にいたしますわ。ほらっ バラですわよ、琉伊。お兄様が折ったバラっ」
「分かったからバラバラ叫ばないで」
 それこそ大輪のバラが咲くような笑顔。でもなんか、ウラがありそうな笑み。そんな穿った見方をするのは彼女がなんとなく気に入らないからだろうか。でも、おそらく、それを向けられた男性が誤解してしまいそうなくらい完璧な笑み。うん、完璧すぎて逆に不自然な笑み。計算なら怖いけど、天然ならもっと性質が悪い気がする。おそらくものすごーっくお育ちがいいんだろうとは想像が付く。けど、毛穴から育ちのよさをダダ漏れさせてる公さんの力が抜けるような邪気のなさとは別物だ。これは、要注意人物かも、知れない。
「あ、そうだ、トラ君」
 にこっと笑うその顔は、母親が子供に向ける種類じゃないような気がする。
「ダメよ、琉伊のお兄様はね、ヨリ君の会社の副社長だから、敵に回しちゃ。ヨリ君が巻き添え食ってとばっちりっちゃうわよ?」
 ヨリ君ってダレ? って、聞けるような雰囲気じゃなかった。見てたのなら途中で止めてあげたらよかったのに。ってか、副社長ってシャチョウの次に偉い人のことなんだよね? 氷川って、あの氷川? ウヒョ。もしかしなくても氷川さんってすごい人?
 ヨリ君ってのが誰なのかわかってる柾虎君が、さっきまでの毛を逆立てたネコみたいな様子から一転してぽかんとした顔で氷川さんを見上げている。多分まだ五歳くらいにして、社会の世知辛さを思い知ったような顔をした柾虎君がちょっとかわいそうだった。


 なんとなく行く方向が同じなのか、とにかく大勢でぞろぞろと校舎に向かって歩きながら、自己紹介。
「うん、同い年だよ。えーっと、樹理ちゃんって呼んでいい? 私も夏清でいいよ。携帯ある? 番号とか交換していい?」
「ハイ。あ、でもごめんなさい、私は夏清ちゃんのこともっと年上かと思ってて」
 来るのは氷川さんの同級生のお友達とその彼女って聞いてたから、てっきりもっと年上の女性が来ると思ってたし、パッと見た瞬間、彼女は自分より年上だと思ってしまった。なんていうか、キリっとしてるというか、存在感があるの、氷川さんのお友達の井名里さんもだけど。二人とも背が高いからかしら。
「だよねぇ 私もびっくりした、先生の同級生の彼女が同い年!! しかもこんなお嬢様学校の生徒! いや、氷川さん見てると彼女がお嬢なのはなんか頷けるんだけど」
「お嬢様が一杯いる学校だけど、私は別にそんなんじゃ……」
 しゃべりながら、夏清ちゃんが器用に両手に携帯電話を持って、赤外線通信。
「ハイ、完了。そう言う謙遜はダメだよー? 私から見たら樹理ちゃんって十分お嬢だもん」
「そ、そうかな?」
「そうだよ! それにこの中でも一番樹理ちゃんがかわいいって!!」
「いや、だから、それは……」
 夏清ちゃんがそう言って指差したのは、てくてく歩いてたどり着いた生徒用昇降口に設けられたミスコンの投票所の壁に貼られた顔写真。
「すっごいねぇ ミスコン。ウチの高校も昔はあったらしいけど、うやむやのうちになくなったんだって。男女差別だとかなんとかってクレームが出て」
「へぇ……」
「その点ココは女子校だもんね。やりたい放題だ。でも何で名前が出てないの?」
「あ、それはね、何年か前にミスコンの一位の子にその、ストーカーみたいなのが出てきて警察沙汰までにはならなかったんだけど……だから今日もチケット以外のお客様に身分証を見せてもらったり、入場が厳しくなってるの。一応、校内の撮影も制限されてるんだよ。って言っても、今は携帯電話で写せちゃうから微妙なんだけど。終わったらどこの誰か知らないけど、勝手に写真を載せてホームページが作られたり……だから、立候補者の個人情報がなるべく漏れないように、番号制になったの。一応、挙動が不振な人は持ち物とか調べるみたいだよ」
 そう言う問題だろうかと思いながら、簡単に説明する。
「……それでもやめないってのはすごいね」
「うん、私もそう思うんだけど、すごく歴史があるから続ける方向なんだって。それにまあ、多分そう言う人はミスコン以外にも興味があるんだろうし」
「あら、今年は大勢立候補してるのね。確かにそうねぇ 樹理ちゃんが一番かわいらしいと私も思うわ。トラ君、半券持ってるでしょう? それが投票用紙も兼ねているの。写真の下に書いてある番号を書いてあそこの箱に入れるのよ」
 ユリさんがバッグから半券とペンを取り出して、柾虎君と琉伊さんの半券にもさらりと数字を書き、柾虎君に渡すと、彼はたたっと走って投票箱にその紙を投じた。
「ホントだ。私のころは大本命と盛り上げ役の二、三人だったのに」
 帰ってくる柾虎君を見ながら、琉伊さんがつぶやいた。投票所に張り出された顔写真は六枚。私はナンバー六だ。
「私たちが三年の時は琉伊が女王様だったのよぅ 琉伊って美人なのに性格が男前だから、下級生にファンがいっぱいいてね、もう、お姉さまーってすごかったわ。私なんか、いつも一緒にいるから嫉妬されちゃって困ったわ」
「ユリ、みんなが知らないからって捏造しないの。それに私の人気は私本人よりバック狙いばっかりよ。このコンテストはただかわいい子を選ぶのとは、違う意味合いも含まれる年もあるから」
「ええー 私、ホントのことしか言ってないわよう。んもー 謙遜しなくていいのにっ」
 過去をばらされて、ちょっと顔を赤らめた琉伊さんがユリさんをたしなめる。首をすくめてちらりと舌を出して、ユリさんが全く反省していないようなことを言っている。
「あ、私たちも済ませちゃおう。先生、半券頂戴。氷川さんのもついでに書きましょうか?」
 夏清ちゃんがそう言って、男性二人がポケットから出した半券に六と書いて柾虎君と入れ替わりに投票に行く。みんな、ありがとう……
「すごいね。毎年盛り上がるの?」
「うーん。実は私、あまり興味がなくて、去年まではクラスの出し物とかで忙しくて……よくわからないの。ただ、六人も立候補者が出たのは長い歴史があるらしいのだけど、今年が初めてみたい」
 大本命と目されていた藤原さんが突然学校を去って、彼女に遠慮していたと思われる生徒たちが雨後の竹の子みたいに立候補したの。なんとなく、藤原さんがいなくなったのは私のせいだとみんな気づいてはいるみたいだけど、面と向かって聞いてきたりはしないし、私も何も言わない。リナちゃんたちにも口止めしてるから、真相は藪の中。琉伊さんが言うとおり、それなりに父親や祖父が有名人な子が、他の美人を抑えてグランプリなんて年も時々ある。琉伊さんは実力っぽいけどなぁ
 そんな理由もあって、私は最後までミスコンへの参加に乗り気じゃなくて、受付最終日に例の二人に引きずられて書類を調えて提出したの。もう少しで出なくてよかったのに……
「ユリ、そろそろ食事に行かない? お茶会が一時からだから、そろそろ行かないと」
 投票を終えて、琉伊さんが左腕に巻いた高そうな時計を見て、ユリさんに話しかけている。
 そこらじゅうに花を撒き散らさんばかりの微笑を湛えて井名里さんや氷川さんに話しかけていたユリさん。あ、なんか若干夏清ちゃんが機嫌悪そうだ。琉伊さんもやれやれって顔をしている。
「あら、もうそんな時間? もう少し皆様とお話したいわ」
 皆様、と言っても、彼女は男性陣二人としか話そうとしていない。いや、彼女は二人に話しかけてるけど、相変わらず氷川さんは話さないからだいたい井名里さんが答えてる。ああ、それで夏清ちゃんが不機嫌なんだわ。
「ユリが迷子になってたからね。もう十分でしょう? これ以上は迷惑……」
「あ! そうだわ!!」
 いいこと考えた!! って顔で、琉伊さんの言葉をさえぎってユリさんが叫ぶ。そんな彼女の様子に、見間違いじゃなかったら全員イヤそうな顔をしている。夏清ちゃんなんか最上級な感じ。
「よろしければ皆様ご一緒されませんこと? ランチテラスでお昼をしてからお茶会にでるのですけど。師匠方もきっとお兄様や井名里様にお会いになりたいと思いますわ!」
「ユリ、急に客を増やすのは……」
「構いませんわよぅ あの時あんなにお世話になった方々がいらっしゃるのにお招きしないほうが師範に叱られてしまいましてよ? ちょっと詰めたら入れます」
「用意もあるだろうし……」
「大丈夫ですわ。お菓子は余分を用意しているはずですもの。ね? 皆様と一緒のほうがきっと楽しいわ! ちょっと待ってらしてね。今電話して聞いてみますわ」
 なんと言うゴーイングマイウェイ。みんながあっけに取られている間に有無を言わさぬ勢いで携帯電話を取り出して、誰かと会話を始めてなんだかぽんぽん畳み掛けて、最後は言い逃げのように電話を切ってご機嫌な笑顔でみんなの顔を一巡。
「皆様! 時間が少し遅くなりますけれど大丈夫ですわ!! さあ一緒にお食事に参りましょう!!」


 さすがはお嬢様学校と言うべきなのだろうか。元々、クラス数もウチの半分くらいな上に、模擬店を出すのは一年か二年の半数ほどのクラスで、そのうち飲食店となるとさらに数が減り、ココにきては当たり前かと納得せざるをえないんだけど、とりあえず扱いやすい炭水化物代表、小麦粉メニューの代表格と言うべき、たこやきだの焼きそばだのと言うファストフード的な店は一店もなく、ほとんどが同じ小麦粉を使っていてもお菓子のお店。まあ、油がコッテコテでキャベツ増量、肉一人一切れなモサモサした焼きそばとかじゃないのは胃袋にはありがたいんだけど。
 つまり、来客も生徒も食事を取りたければランチテラスこと学食へ行くのが当たり前らしい。テーブルは四人がけが基本。樹理ちゃんと氷川さんと先生と私でひとテーブル。これは譲れませんことよ。
 学食と言うには申し訳ないくらいきれいな建物。これをウチの、どんな掃除をしているのか、いつもこってり脂のにおいのするあの場所とは似ても似つかない。メニューも、個人的にウチにほしいくらい女の子が好きそうなものがあふれている。とにかく量があったらいいだろ! みたいな、油と炭水化物で埋め尽くされたものとは雲泥の差だ。ちょっと卑怯だと思う。
 薄め間違ったとしか思えないくらい薄い出汁に気休めネギがパラついている、それでもうどんだけは一玉半入ってワンコイン百円なら文句言うな的最安値、テーブルに置かれたしょうゆを足したのち、一味をたっぷりかけて味をごまかさないと食べられたものはない素うどんなどここには存在しない。今樹理ちゃんが食べてる『ミニうどん』は、量は多分半玉。でもネギと厚めのかまぼこと食べやすさを考慮したのか細切りのお揚げがお上品にのってて、お値段は三倍だった。
「なんか、私の中の学園祭とのイメージとの隔たりが……」
「夏清ちゃんのところは、どんな感じなの?」
 学食のものとは思えないそこそこおいしいパスタを食べながら私がつぶやくと、樹理ちゃんが軽く首を傾げて尋ねてくる。
「もっとガチャガチャしてるよ、至るところがやかましいと言うか。ウチのは九月だから、来てみる?」
「いいの?」
「いいよ。ココと同じで、三年はほとんど何もしなくていいし。あ、進学とか大丈夫?」
 というより、ぼちぼち時期的に三年生が何かできるわけがない。それに、樹理ちゃんを絶対つれて歩きたい。そしてキリカに自慢したい。
「付属の短大に専願するから、受験って言っても小論文書くくらいでいいの。推薦は十一月だから大丈夫。日にちとか分かったら教えてね。あ、夏清ちゃんは? 進学するんでしょう?」
「うん。私も大丈夫。地元の大学だし、結構余裕かな」
 言いながらちらりと先生を見る。私の視線に気づいて先生の視線が絡んで、無意味ににっこり笑い返すと付き合いきれないってカンジでコッソリため息吐かれちゃった。
 まあなんですか、その態度。
「それよりさ、えっと、茶道部のお茶会だっけ、それって、こんなカッコで行っていいの?」
 となりのテーブルを伺うと、そもそものお茶会が目的だったらしい、段違いに装いの違うお三人様。ウチの高校にも一応茶道部は存在するけど、学園祭では一般向けにタダでお茶席を設けたりして、だれでもウエルカムな野点って言うの? 赤い敷物敷いた長椅子を並べて、笠を立ててやるやつ。それとはなんとなく段違いっぽい雰囲気。大体、時間指定で伺うと言う時点で、限定されている気配。
「それに、ジーンズで正座ってちょっときついかも。絶対しびれる」
「……うん。私も、茶道部は行ったことがないから分からないのだけど……その、この学校でも一、二を争うくらい古いクラブで、入部テストがあって、誰でも入れるわけじゃないの」
 多分、樹理ちゃんには全然そんな気はなかったんだろうけど、その説明はちょっと引くよ。学校の一クラブに入部テストですか……
「……確かにジーンズで正座は足が痛いよね……あ、そうだ」
 うーんと考え込んだ後、樹理ちゃんが何か思いついた様子で琉伊さんにお茶会の時間を聞いている。どうも、ユリさんが無理に増員要請をしたために、一番ラストの招待客に回されたとかで、二時の予定だと答えてくれた。
「二時なら、まだ一時間以上ありますよね。じゃあ十分着替えられるなぁ」
「着替え?」
「うん。友達が……後輩なんだけど、衣装屋さんというか、貸衣装を着て写真を撮る模擬店をやってて。頼めば何か貸してもらえると思うの。行ってみる?」
「まあ面白そう!」
 樹理ちゃんの提案に、食らい付いたのはユリさん。身を乗り出して、目がキラキラ。その後ろで、琉伊さんと柾虎君がため息をついている。この二人、ちょっと不憫かも。


 またぞろぞろと、結構な人数で移動開始。明らかに注目を集めてる気がする。ものすごーっく人目を引いている気がする。気のせいじゃなく。誰がそんなに目立ってるんだろうと考えて、おそらくみんなが目立ってるんだと一人心の中で納得。夏清ちゃんと井名里さんなんか、背が高いからそれだけで注目の的。全然気にも留めてないみたいなんだけど。
 そして、私はなんだか険悪な空気にサンドイッチされてる気分。右に柾虎君、左は氷川さん。両手はおのおのがっちり塞がっている。食事が終わって目的地へ向かう途中、なんとなく隣に居た柾虎君と手を繋いだら、次の瞬間ナナメ後ろから擬音で言うなら『ぐわっ』って感じで、氷川さんからものすごいプレッシャーが……チラッと見るとなんだか不機嫌そうだ。あんまりよいほうにも悪いほうにも感情が出ない目が、五割り増しくらい冷たい。どうしてこんなに柾虎君のこと目の敵にするのかしら?
 仕方ないから、空いたほうの手を氷川さんに差し出したら、びっくりするくらいぎゅっと、指を絡めるようにつながれた。氷川さんは、この繋ぎ方が好きみたい。
「あら? 教室のほうではないの?」
 私が向かう先が、特別教室等であることに気づいたらしいユリさんが、当然の疑問を口にする。
「はい、衣装もたくさんあるし、デジカメでですけど撮影もするから、広い視聴覚室を借りてるんです」
 午前中、一般入場が始まる前に覗いたけど、一体どこからこんなにたくさんの衣装を持ってきたのかと思うくらい、大量の衣装がハンガーラックにかかっていた。レンタルらしいけれど、それが全部、リナちゃん個人のツテをたどって借りたホンモノの舞台衣装や、私でも知ってるくらい有名な結婚情報誌の表紙を飾ったウエディングドレスなど。絶対、採算は取れてないと思う。考えてないんだろうけど。高性能のデジカメで撮る写真だって、一枚二百円で、自分のカメラや携帯で撮る分にはタダ。それじゃ元手が取れるわけじゃないけれど、自分や着てくれる人がたのしかったらいいのだとリナちゃんは笑っていた。
 階段を昇って、廊下を曲がればすぐ。踊り場で折り返して見上げると、不思議の国のアリスなんだろうか、かわいい格好をした翠ちゃんが、その姿に似つかわしくない大きな看板を掲げて立っていた。
「あっ! おねぇさまだ!!」
 看板を放り出して駆け寄ってくる。いつもみたいにタックルばりの抱きつき攻撃が来ると思ったら、隣の氷川さんを見てうっと仰け反って足を止める。どうしたの? 翠ちゃん?
「なにしてんのー? 翠? あ、お姉さまっ!!」
 角から、こちらは白雪姫の衣装を着たリナちゃんが、看板を放り出した翠ちゃんに唇を尖らせながら抗議して、私たち一行を見て、こちらは氷川さんの存在なんてお構いなしに駆け寄ってきて、ちょうど階段を昇り終えた私に抱きつく。
「うわぁ すごいね、大盛況だ」
 視聴覚室のほうを見ると、廊下まで客があふれていた。
「そうなの。午前中宣伝して回ったのがよかったのか、すっごいお客さんでね。あーあ。ミスコン出場者が制服以外着用禁止じゃなかったら、お姉さまにもぜひ着てほしい衣装があったのに!」
 一時期、俗に言うバブルって時代に立候補者の衣装がどんどん派手になってしまって、その反省から立候補者は制服以外禁止されたの。ありがたいことに。
「あら! これはこの春まで遠芸座が上映していた『ロンド』の衣装ではなくて? こっちは『月の影』のミランシャの衣装!! まあステキ! 『アンゲスト』のシャルロットが最後に着ていたドレスもあるわ!!」
 他のお客さんなんてさっさと押しのけ、ユリさんが人であふれかえる視聴覚室に入って、中から黄色い声で叫んでいる。彼女が本能のまま動いたことに気づいた柾虎君と琉伊さんが慌てて走っていく。
「すご、詳しいね、あの人」
「……リナちゃん、そんなすごい衣装、集めたの?」
「このはちゃんの知り合いの衣装屋さんに頼んだら一山いくらで貸してくれたよ?」 
 ユリさんの悲鳴に近い歓声によると、公演をCMで告知するくらい超有名劇団の、超有名公演で使われた衣装があるらしい。そんなものを高校の文化祭如きに貸し出しちゃっていいのかしら?
「まぁ あのお姉さんみたいにマニアな人はそういなくて、ほとんどみんなウエディングドレスが着たいみたいだけど。えーっと、こちらは?」
 翠ちゃんに促されて、慌てて井名里さんたちに二人を紹介する。
「あああああー! とーるちゃんの後輩っ!! 千円宿(やど)のっ!!」
 続けて夏清ちゃんたちを紹介すると、ずっとなんだか考え込むような顔をしていたリナちゃんが、井名里さんを見て叫ぶ。
「……ああ、アレの娘……似てるな。そうか、もう高校生か」
 びっくり眼のままのリナちゃんと怪訝そうな顔の夏清ちゃんを交互に見て、井名里さんがなんともいえない顔で笑う。
「なに? リナ、知ってる人?」
 珍しく本気であうあうしてるリナちゃんに、翠ちゃんが小首を傾げている。そう言えば前、チラッと言ってたような気がするなぁ 氷川さんのお友達のこと。
「知り合いって言うか、ちっちゃいころそっちの人およびその他二名、よくウチに来てたの。ここで会ったが百年目っ! 教えなさいよ、あの答えっ!!」
「どの答え?」
「三人の旅人が千円払って百円がナントカってやつっ」
「……問題も覚えてないのに答え聞いてどうするんだ」
「……っ 幼心のわだかまりを解消してやろうとは思わないのっ!?」
「思わねぇ ってか、なんで中途半端に覚えてられるんだ?」
 井名里さんが見下ろすようにしてリナちゃんに尋ね返す。すごい、あのリナちゃんが言葉に詰まってる。
「ちょっと、置いてかれてかなりヤな感じなんですけど。誰これ? ってか、先生の知ってる子?」
 ずっと前からの鬱憤が臨界点を超えたのか、不機嫌な声音を隠そうともしないで、夏清ちゃんがさっきの氷川さんと戦えそうなくらい冷たい視線をリナちゃんに向けている。そんな夏清ちゃんを見て笑いながら、井名里さんが『中高のときの一つ上の先輩の娘』と簡潔な説明をしている。
「せっ!? 先生っ!?」
 そんな絶対零度的な空気をものともせずに、リナちゃんが声を裏返して質問に答えず聞き返している。もう、これ以上開いたら目がこぼれて落ちちゃうよ?
「し、信じられないっ」
 リナちゃんが大げさにそう叫んで、ぐらりと倒れかけてみせる。それを翠ちゃんがしっかり! とか、大丈夫? とか言いながら支える。こういう漫才を、この二人は息をするより簡単にやってしまう。
「先生? 生徒っ!? しかも美人!? こんなところに二人一緒に? ってことなナニ!? なんなのっ!? 揃いも揃って類友ねっ!? キツネとタヌキのくせにそうなのねっ!?」
 そして、リナちゃんは実はものすごく頭の回転が速くて飲み込みがいい。きっと私よりもずっと早く深く、状況を把握してしまったのだろう。私には彼女の叫びがちんぷんかんぷん分からない。
「ああ、なんか、よくわかんないけど、ものすごい敗北感が……」
 がっくり、とリナちゃんが廊下に両手をついてつぶやいている。その姿を見下ろして、夏清ちゃんの何かが振り切ってしまったのか、怒りを通り越した何か諦めに似た表情で、私を見る。
「……樹理ちゃん、ごめん、ついていけないんだけど、なに、この子?」
「こっちこそごめん、後輩なの。一年生。方長谷真里菜ちゃんと柴田翠ちゃん。いつもこんな感じだから、私はもう慣れちゃって。多分もうすぐ立ち直るから」
 私が言い終わるかどうか。絶妙なタイミングでリナちゃんが立ち上がりあっという間に距離を詰めて、夏清ちゃんの両手を取り、自分の胸の高さくらいに持ち上げて、うっとりした瞳で夏清ちゃんを見上げている。
「どうしよう、趣味が似てるのは気に食わないけど超好みっ! あ、あのっ! カスミお姉さまってお呼びしてもかまいませんかっ!?」
「……かまうから、やめて、お願い」
 背伸びしてさらに距離を縮めようとするリナちゃんに押されて後退しながら、夏清ちゃんがため息をつくように答える。すごい、断った!! 私には出来なかったわ。でも冷たかった視線が今はなんだか柔らかい。
「えええええー ざんねーん リナ、美人のお姉さまがもう一人ほしかったのに」
 本当に残念そうにリナちゃんが、それでもきっと計算された表情でため息をついている姿に、夏清ちゃんもつられてため息。どうやらあっという間に毒気を抜かれてしまったらしい。なんと言う真里菜マジック。
「いつも、このテンション?」
 その問いに、曖昧な笑顔で無言で答える。多分、言葉よりも雄弁だったと思う。


 先生と氷川さんは、早々に戦線離脱。時間には茶道部の部室前にいるからと消えてしまった。そして私は、まるで戦車かロードローラのような、辺りのものを軒並み押しつぶす勢いのリナちゃんに、絶対似合うからと押し付けられた奇抜な制服を着て、カーテンをつけただけの簡易更衣室を出た。
 お上品に評すると、その色はラベンダーカラー。まあ、ぶっちゃけると、真紫とか、ど紫とか、ナス色とか、が、使われている。
 丈の短いブレザーの全体色はラベンダー。デザイン重視なのか、異様に細身。スカートのウエストもかろうじて止まるくらいの細さで、ブレザーのウエストも変わらない。まあ当然、胸が結構キッチキチ。ネクタイでごまかさないとシャツの前がヤバイかも。襟や袖、裾にナス色のバイヤスライン。胸ポケットのエンブレムは、ど紫がやたら自己主張。ブレザーの下には、ラベンダーをさらに薄くした白に近い襟高のカッターシャツ。胸元には、ナス色のネクタイ。膝上二十センチの超ミニの、超細かいプリーツが入ったスカートは、ナスとラベンダーの細いラインと空色と白の太いラインが入ったチェック。
 そして、なんとも形容しがたい、紫に銀色を混ぜたような色のカラータイツ。暑いのにタイツ。しかしこれを履かないことには歩いただけで余裕でスカートの中が覗けそうだ。正座したら色々ダメっぽい。他の衣装も似たり寄ったり。いや、ドレスみたいなのばかりだから、これよりひどいかも。付属品は頭には金メッキのヘアバンド。そして極め付けが模擬刀。これはスチル撮影用のものだとかで、中が空洞の樹脂製。ただ本物っぽく重厚に塗装されてるので見た目を裏切る軽さ。それを挿す為の、皮製の剣帯……これはもしかして、このゴールデンウイークに公開されてた学園アクション恋愛映画の衣装?
「くぅううぅううぅっ! 似合うっ 似合いすぎるっ!、麻生ミイより絶対似合う!!」
 興奮気味のリナちゃんの言葉に、その隣に居た翠ちゃんもうんうんと頷いている。麻生ミイは、あの映画の主役の女の子、刃朔羅(ハザクラ)をやっていた若手ナンバーワン(って言われてる)アイドルだ。
「麻生ミイが、映画で着てた服……?」
「そう。夏清ちゃんも見た? 本人が撮影で着てたのなんだって。すごいね、すっごく似合ってるよ」
 これが似合うってのはちょっと微妙だけど、ほめ言葉以外の何物でもないんだろう。はしゃぎまくってる二人ではなく、樹理ちゃんが答えてくれる。さっきの舞台衣装といい、ものすごいもの揃えてるなぁ 
「うん、クラスメイトと一緒に見に行ったから。結構面白かったよね」
 クラスのみんなと出かけた映画館でキリカが買った公式パンフレットには、麻生ミイという女優の全身の写真の横に、やたらと目のでっかい女の子のカラーイラスト。マンガならありえる奇抜な配色。どうしてアニメで映画化じゃなくて実写だったんだろう。しかし、このスカート丈。こんな部分まで原作に忠実ってどういうことなのさ。
「私も三人で見に行ったよ。すごかったよね、特撮」
 特撮……うん、確かにすごかった。でも私はそれより麻生ミイの演技の方がすごかったと思う。まあ、どうすごいかは言わないけど。
「ああああー! ほんっと、ミスコンの縛りが無かったらお姉さまにも着てほしかったのにっ!」
「どうしよう翠っ! ホントにモロ好みなんだけどっ!!」
 すぐ横でリナちゃんと翠ちゃんがキャーキャー騒いでる。さらに向こうには、もう何着目になるか知れないくらい着替えては撮影会をしてるユリさん。
「あ、写真撮ろうよ。せっかくだからっ」
「賛成っ じゃあみんなで撮ろうっ」
 応も否もなく、私は二人に引きずられて、部屋の隅につけられたベージュのロールスクリーンの前に立たされる。ポーズ指導はリナちゃん。抜刀して構えてくださいとか、無理だから、そんな恥ずかしいポーズは。
「ええー『刃朔羅(ハザクラ)見参!!』とか言ってよぅ」
「絶対無理。ってか、写真に写らないから、声は」
 キャラクタ名を出して、リナちゃんがポーズを決める。まあ、よく見なくてもすごいかわいい子だし、手がすんなり長いから、妙な姿勢も妙にキマって見える。
「ん?」
「どうかした? 夏清ちゃん?」
 騒がしいノイズの中に、なにか別の気配が混じったような気がして、窓の外を見る。この学校の校舎はコの字型になって、中庭を挟んだ向こうにあまり人気のなさそうな教室が見える。今何か、光った?
 窓際まで歩いて、もう一度向こうを見ると、閉められたカーテンが不自然に揺れている教室があった。
「あの教室って、今日使ってる? 誰かいたような気がしたんだけど」
 私たちが居るのが二階。指を指したのはほぼ対面にある校舎の四階の教室。それを見上げた樹理ちゃんが、緩々首を振っている。
「あそこ? 二階までは展示とかに使ってるけど、あの校舎の四階の教室はここと同じで特別教室だから用はないはずなんだけど……三階は私たち三年の教室だし……ああ、やっぱり、三階には生徒がいる」
 樹理ちゃんが言うとおり、三階の教室はほとんどのカーテンが開かれ、ところどころ窓も開いていて、生徒の影が見える。そして、私が気になる四階は全ての教室のカーテンが閉まっている。気のせいかな。生徒が居ただけかな。でもなんか、さっきの背筋が寒くなるような感覚は見逃しがたくて、とりあえず確認だけしたいと言ったら、樹理ちゃんたちも一緒に来てくれた。


 階段を二階分あがるだけで、さっきまでの人気が全くなくなる。被服室などがある四階。静かな廊下を四人で静かに歩く。
 ここまで来るまでに、私たちは注目の的になってたんだけど、その中心人物である夏清ちゃんはそんな視線全然気にならないのか、まっすぐ目的地を目指している。もしかしたら、注目され慣れてる?
 さっき視聴覚室から見た教室の、後ろ側になるドアの前まできて、なんとなく四人視線を合わせる。夏清ちゃんが小さく頷いて、ガラっと勢いよくドアを開けたら。
「きゃっ!!」
 待ち構えていたように中から勢いよく誰かが飛び出してきて、私の隣にいた翠ちゃんの肩がぶつかった。勢い、翠ちゃんがしりもちをつく。
「あっ! 待てっ!!」
 そう叫んで、夏清ちゃんがあっという間に廊下の向こうの階段へ消えた『誰か』を追いかけて、これまたあっという間に走っていってしまう。それを、リナちゃんが追っかけていくのが見えた。
「翠ちゃん、大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫」
 立ち上がってお尻を払って、別に何も言ったわけじゃないけど、示し合わせたようにピッタリのタイミングで、翠ちゃんと二人、私たちは反対方向に走る。この校舎を出るには、窓から飛び出さない限りは生徒用の昇降口しかない。その上あちら側の階段は、増改築の影響でそのまま一階に降りられない。二階の廊下を突っ切って、昇降口のテラスでこちらの階段と合流する。
 ここに潜んでいた人物が走り去ったのは、昇降口とは反対側の遠い方の階段。そこから入ってきているのなら……と言うよりも、そこしか今日は出入りできないようになっているのだから、その人物が目指す出口は昇降口しかない。ならば、先回りすべきだと思う。
 普段じゃありえないけれど、階段を二段も飛ばして降りていく、リアルアリスの翠ちゃんを追いかけて私も自分が出来る最高速度で駆け下りた。


「待てコラッ!! アンタ、何やってたのよあんなところでっ!?」
 速いッ 足速いって!! リナだって結構速いほうって思ってたけど、あっという間に夏清ちゃん(ホントはお姉さまって付けたいところだけど却下されちゃったから)が、二、三階の間の踊り場でアヤシイ人物に追いついてその肩にかかったカメラのストラップを掴んでいる。
 しかし敵も必死だ。望遠レンズが付いた、ものすごく高価そうなカメラを振り回している。
「アッ!!」
 ガツっと鈍い音がして、大きく張り出したレンズの部分が夏清ちゃんの顔に当たる。それでひるんで力が抜けたスキをついて、アヤシイ人物は再び逃走。
「夏清ちゃんっ!! 大丈夫っ!?」
「ヘーキ。だけど、めちゃくちゃむかつくッ!!」
 伸ばした手が本当にちょっぴりの差でヤツの襟を掴みそこなった。けど、再びすごいダッシュで走り出す。
 二階は上の階と違って、廊下にもそこそこ人がいる。そんな人たちにぶつかりながらヤツが逃げる。夏清ちゃんも、人をよけながら追いかける。そしてリナが追いかける。どんどん離されてるんですけどっ
 ヤツは多分、この学校の構造や、学園祭のことをある程度知ってるんだと思う。ある程度。だから、毎年使われていない教室を知っていたりしても、この階段がここで途切れてるとは知らないから、走りやすい三階の廊下を突き抜けず、降りきってしまったり、初動で逃げる方向を間違ったみたいだけど、今は確実に昇降口に向かって走っている。この学校は校舎が古かったり、増改築されているから、知らない人が適当に歩くと迷子になったりするのだ。これで防火法がマル適とか、ウソみたいだけどホントの話。建物自体が重文並みの扱いなんだとか。
 必死に走って、何とかヤツと夏清ちゃんの姿を視界に入れ続けたんだけど。ヤバイ、もう昇降口だ。モヤシっぽくてオタクっぽい外見からは想像できないくらいの身のこなしで逃げていく。テラスになったところから階段を降りれば、すぐ外に出られる。逃げられるっ!
「待ちなさい!!」
 昇降口への踊り場に、翠とお姉さまがいた。ああ、先回りしたんだ。
 ヤツがまたカメラをぶん回す。翠はその軌道を読んでするりと回避! ……したけど、お姉さまが巻き込まれてる!? いや違う。お姉さまの方が引きとめようとしてヤツの腕を掴んでるんだ。ダメだよ。あぶないっ!!
「止まりなさっ!?」
 短い悲鳴。階段を降りようとするヤツにひっぱられて、お姉さまも移動。翠が手を伸ばしても、指先を掠めただけ。それまでの私たちの追いかけっこの騒がしさとお姉さまの悲鳴。大勢の人が立ち止まってこちらを見ている。けれど近くにいる人たちは事の成り行きについていけないのか、誰もヤツを止めようとしない。間に合わないっ
 あっ!
 って、叫んだ。誰がってリナが。
 ヤツの姿が階段へ消えて、もうだめかと思った瞬間、夏清ちゃんが走った勢いごとテラスの柵を乗り越えちゃったのだ。軽やかに。下までは結構な高さがある。悪くしたら骨折しかねない高さなのに!!
 自分の息が切れていることも忘れて、柵に体当たりするように下を見下ろす。
 見えたのは、キレイな上段の構えの後姿。長い黒髪が、体が落ちる重力の速度に遅れてたなびく。
 飛び込んでいくのが、まるでスローモーション。リアルに。
「こぉおんっのー!! きったない手で樹理ちゃんにさわんなっ! ヘンタイがあっ!!」
 あ、やっぱり今『掴んでんのはお姉さまの方』とか、突っ込んじゃいけないわね。うん。都合の悪いことは全部ヤツのせいにしとけばいいんだ。それが正義! あっけに取られた様にぽかんとアホ面で止まってしまったヤツに向かって、夏清ちゃんが飛ぶ。空中で体勢をひねって、ヤツの背中側に着地点を定めたようだ。
 いくら中身のない軽い模擬刀とは言え、自由落下ではなく、柵を蹴って威力と体重を存分に乗せた一撃は、かなり痛かったに違いない。
 お姉さまが腕をつかんでいた方の肩をしたたかに打たれて情けない悲鳴。衝撃でも伝わったのか、お姉さまがぱっと手を離して離れる。
 打たれた肩を押さえてうずくまりそうになるヤツに、夏清ちゃん、さらに攻撃。カエルが潰されるような声で、ヤツが前かがみで撃沈。まあ、どこを攻撃したかとか、オトメのクチからはいえないわ。うん。
「リナちゃん! 先生……警備員さん呼んでっ!」
 下を覗いていたら、夏清ちゃんが階段の踊り場でこちらを振り仰いでさけぶ。逃げてたヤツの背中に体重を乗せた膝を入れて、肩を打たれた衝撃のせいでしびれたのか、最後にヤられた箇所を押さえることも出来なかったらしい片手を後ろ手に見事にロック。
 あたしが呼ばなくても、騒ぎを聞きつけていつもは門にいる守衛さんたちが校舎に入ってきていた。
「こっちです! 盗撮してたのこの人っ!!」
 ……人気のない教室。あのごっついカメラ。まあ、この想像は外れてないはず。指差した階段の踊り場に、どやどや警備会社のゴツイおじさんたちが駆け込んで、あっという間にヤツは文字通り引きずられながら引っ立てられて行った。
 パンパンと両手を払っている夏清ちゃん。まあなんていうか、改めて高さと距離を見る。テラスの柵は普通に一メートル二十センチ。そして、この踊り場までそこから多分三、四メートル下。問題は距離だよ。夏清ちゃんが飛んだところからこの踊り場まで、ヨコの距離、目測で五メートル以上あるよ。勢いがあったとは言え、よくこんなとこまで飛んだよね、この人。
「すごいね。あの人」
 階段を降りるため、翠の方に近づくと、ため息とも付かない息を吐いて、翠が感心したようにつぶやいた。
「うん。カッコいいねー 混じってきていい?」
「近くより俯瞰で見てるほうが楽しいと思うよ?」
「そうかなぁ」
 手すりに寄りかかって、階下を眺める。先ほどの騒動に、ギャラリーもてんこ盛り。その中心は、あの二人だ。なんていうか、二人の距離の近さがヅカの舞台みたいだな。なんて。実は生で見たことないけど。


「あなたたちは大丈夫? 怪我はない?」
「うーん。ハイ、大丈夫みたいです。樹理ちゃんは?」
「私も、大丈夫です」
 警備員から遅れてやってきた先生たちに、簡単に事情を説明する。こう言う時、普段おとなしくまじめにしてると得よね。なんて言うか、先生方は例のアノ、氷川さんがやっちゃった事件に絡んで私が取った行動とか、ご存知なワケで。触らぬ神に祟りなしってことなのか、少々曖昧でも先生たちはチラチラと他校生の夏清ちゃんのことを気にしながらも、あんまり突っ込んだことは聞かれなかった。ここを飛んだことは伝わってないのか、在校生じゃないからか、叱られるかなと思ったけどお咎めなし。
 でもさすがに、このギャラリー。明日にはすごい噂になってそう。服だって、知ってる人は見たら映画の衣装だって分かるだろうし。
「……夏清ちゃん、踊り場の位置とか分かってて飛んだの? あんな高さから飛んで、足、じーんってしなかった?」
 私、さっき二段飛ばしで結構つらかったんだけど。
「うん。ここはお昼食べる前に来てたし、大体構造は頭に入ってたから。高さと距離で、柵を蹴れば余裕かなと。それに、飛び降りたときの衝撃っていうのは、膝だけじゃなくて全身の関節から抜けばわりと大丈夫だよ」
 思ったのって。思っても飛べないと思うけど。それに、普通全身の関節を意識して衝撃を抜くとか、出来ないと思うんだけど。
「だって、ムカついたんだもん。なんかもう、コソコソ盗撮してるのも気分悪いのに、誰に断って樹理ちゃんに触ってんのさ。と言うわけで、氷川さんに代わって天誅下してみた。私だからあの程度で済ませてやったけど、幼児にあの扱いの氷川さんいたらきっとボッコボコだよ?」
 ……ごめんなさい、氷川さん。否定できないかも。でもどっちかって言うと、掴んでたのは私の方だったんだけど。ま、いっか。
「それも見たかったかもー あの人って樹理ちゃん絡むと人格変わるよねー」
「ボクは遠慮する」
 がっちり肯定しながらリナちゃんが、やれやれって感じで翠ちゃんが上から降りてくる。
「夏清ちゃん、顔大丈夫? 腫れると美人台無しだからハンカチ濡らしてきたよ」
 なんだかいない人を中心にして申し訳ない会話を続けるのは心が痛い。例えそれが真実に近そうだとしても。なので、リナちゃんたちが来てくれてほっとしたのもつかの間、彼女に言われて初めてよく見て気づいたの。夏清ちゃんの頬がうっすら赤くなってるのに。
「あああああああっ ほんとだ夏清ちゃん、顔どうしたの!? 赤くなってるよ、左頬っ」
「そう言えばカメラ当たったんだっけ、カメラの望遠で。大丈夫だよー がきょって音がしたし、望遠レンズの方も割れてたから。高そうなヤツだったよね」
 それって、大丈夫の意味合いが違うと思う……そしてなぜか、リナちゃんがハンカチをハイと私に手渡してきたので、勢いそのまま背伸びして夏清ちゃんの顔にハンカチを当てる。
「うわたっ 冷たイタイ。今頃痛くなってきたかも」
 背の高い夏清ちゃんが、ちょっと背をかがめてふざけたように笑う。
「あああっ 思ったとおり!! すっごい絵になるっ 写メ取りたい!! ああでもきっと夏清ちゃんはダメって言うだろうなぁ コッソリ撮るとかは、さっきのヤツと同レベルになってしまうから却下! ああこうなったらしっかり見てリナの脳内メモリに永久ほぞ……」
 リナちゃん、脳内が口から漏れてる漏れてる。
「ふーん。こうとかは?」
「えっ!?」
 これ以上リナちゃんの脳内が暴走しないように手を離そうとしたら、逆に夏清ちゃんが顔に当てた私の手の上に手を重ねて、更に腰まで引き寄せられた。
「どうしよう、翠、もうリナ……イってはいけない世界に突入しそう」
「いいけど、帰ってきてね、早めに」
 めまいでも起こしたようにフラリと倒れるマネをしたリナちゃんを、ちょっとイロイロ諦めた表情の翠ちゃんが受け止めた。


「おま、どうしたその格好。それにその顔」
「えーっと、なんて言うか、かくかくしかじか?」
「わかるか」
 やっぱりさすがに無理か。お着替え大会や大捕り物をしていたら、時間はあっという間に過ぎていて、例の踊り場でリナちゃんたちと別れて、リナちゃんに借りたハンカチで顔を冷やしながら部室棟に来てみたら、もう先生たちが居て、開口一番聞かれてしまった。と言うか、押さえていた手をハンカチごとぐいとその手に取られて、さすがにまだ少し赤い部分を見られてしまった。
 しょうがないなぁとか思いながら事情を説明すると、先生がため息をついた。わかってますよ、あきれられるようなことしましたともさ。さすがにあそこを飛んだことはカットですよ。言ったら多分グリグリの刑に処せられるから。
「どうして最初から大人に言わない」
「仕方ないじゃん。確実に見たわけじゃないから、間違ってたら恥ずかしいし。先生がいたらもちろん言ってたよ? って言うか、あの騒ぎ、気づかなかった?」
「ちょっと外に行ってたからな」
 居なかったのを責めるつもりはないから、さらっと言い訳する。
「でもまあいいじゃん。捕まえたし。でも琉伊さんたちとは離れちゃったんだよね。まだ来てないの?」
「ああ、まだだな。それよりこれ」
「なに、これ?」
 手渡されたのは、二つ折りのかわいいイラストが入った二つ折りの和紙とちっちゃい扇子。和紙は、私のが鞠で、樹理ちゃんのが花。
「懐紙と扇子。お茶の道具。一応持っておいた方がいいだろうからさっき買ってきた。その服内ポケットあるか? あったら懐紙はそこに入れとけ。扇子は左側のポケットに入れときゃいいだろ」
「えええ。お抹茶飲むだけじゃないの?」
「ココのお茶会は結構格式ばってるからな。別に難しく考えるな。俺が先に行くから真似してればいい」
「先生、お茶できるの!?」
「飲む方は一応、な。哉は師範免状持ってるぞ」
 自分用なんだろう、私たちのよりは少し大きめの扇子を右手持って、パシパシと左手のひらを打ちながらニヤリと先生が笑う。
 師範? それっておいしいの? じゃなくて、偉いの? 私、茶道なんてこれっぽっちも知らないよ?
「……まあ、見てそのまま真似しろ。先に出る薄いほうのお茶は飲んだことあるだろ? 次に濃いのがでてくるから、飲めそうになかったら飲んだ振りだけして次にまわせ」
 うええええ。断ったらよかったかも。二回も飲むの? それって結構本格的なの? いや、そんなお茶会行ったことないから、わかんないけど。言いだしっぺ、ホントに遅いなぁ 午後二時まであと五分もないよ。
 こもれ日が差し込むテラスみたいな廊下を見渡しても、それらしい人は居ない。と言うか、どうもこの辺りで今日活動しているのは茶道部だけみたいで、かわいい着物姿の女の子や、着物の上に割烹着を羽織った、OGなのかな、お手伝いらしい女性がちらほら居るだけ……
 キョロキョロしてたら、両開きの茶道部室のドアが開いて、中から私たちより前の時間に来ていた人たちが出てきた。狭い靴脱ぎ向こうの襖も開いていて、なんともいえない和のニオイが漏れてきた。
「わぁっ 夏清ちゃんだ。何でこんなとこに居るの?」
 ふんふんそのニオイをかいでいたら、ちょっと低いところからかわいい声がする。見下ろしたら、朱赤の地に細かい花の刺繍がしてある着物っぽいドレスみたいなワンピース姿の逢ちゃんがドレスと同じ色のエナメルのサンダルをつっかけて両手を前に出すようにしてぶんぶん振りながら突撃してきた。
「え? いや、それこっちのセリフなんだけど、なんで逢ちゃんが居るの?」
「お母さんたちがご招待受けてたからついて来たの。まだ中でお師匠さんと話してるよ。あっ! 樹理ちゃんも居るっ!!」
「わぁい、樹理ちゃんだー」
「きゃー」
 真っ赤な逢ちゃんとは対象に、姉妹でおそろいの白いワンピース姿の桜ちゃんと椿ちゃんが、樹理ちゃんに抱きついている。うわぁ いいなあ この絵。
「モテモテだね、樹理ちゃん」
「いや、ちょっと違う……って言うか、夏清ちゃんもだと思うけど」
 そう言われて、無意識にゴロゴロ懐いてる逢ちゃんの頭とかなでてたのに気づく。一方の樹理ちゃんは、二人にしがみつかれてちょっとヨロヨロしながら照れたように笑う。ちらりと氷川さんを窺っても、さっき柾虎君にしたような暴挙に出ようって気配はない。そうか、女の子なら大丈夫なのか。
「ごめん、ちょっと無意識にかわいくてつい。手があと五セットくらいほしい気分。あったらみんなぎゅーなのに」
「増えすぎ増えすぎ。夏清ちゃん、神崎さん知ってるの?」
「あー うん。ちょっとだけ知ってる。顔はいいけど口の悪い人でしょ?」
 ああ。思い出しても腹が立つ。あの時は先生の悪口言いたい放題言ってくれやがって。理右湖さんが殴ってくれてなかったら私がヤってたよ。あれ? じゃあ今日ココにきてるのかな、あの人。先生知ってるのかな? 私はもう別に、会いたくないんですけど。
「……なんか、ミもフタもない言い方だね……神崎さんの奥さんの理右湖さんが、実冴さんと同級生で、ココの卒業生なの」
 ふーん……って、ちょっと待って。理右湖さんってそんな年上なの!? ちょっと年上かなとは思ったけど、さすがに初めて会って年齢とか聞けないし、でも実冴さんと同級生ってことはすごい逆年の差なのでは? この二人は理右湖さんの連れ子って言ってたからまあ分かるんだけど、そう言えばリナちゃんのお父さんが先生たちのイッコ上の先輩だとか言ってたよね? ちょっと待って。いくつのときの子供よ、それって。
 リナちゃんは高一、先生の年を思い出して、ざっと引き算してどっちにしてもありえない数字が出てきて脳内がお祭り騒ぎ状態。先生に聞こうと思って口を開きかけたとき、向こうから、琉伊さんたちが小走りでやってきた。
「ほら、先の組が終わってるわ。全くもう、だから最後のをやめておけって言ったのに」
「ごめぇん。でもほら、間に合ったからいいじゃない。いつだって時間が押して決まった時間に始まったためしがないんだし」
「そう言う問題じゃないでしょう」
 誘っておいて一番遅れるってどういうコトかとか、タイミング悪いなぁとか思うけど、そう言う感情がわいてくるのはやっぱりユリさんのことが好きになれないからかも。仕方ない、あとで先生に詳しく聞こう。
「ああよかった。先に来ててくれて。途中でいなくなっちゃったからどうしようかと思ったわ。連絡も出来ないし」
 駆け寄ってきた琉伊さんが、色々ほっとしたように言う。この人、結構苦労人?
「うわぁ びっくりした。アンタなんでこんなとこ居るの?」
 聞き覚えのある声に振り返ったら、ステキなスーツに身を包んだ実冴さんが先生をみてびっくり顔。しかし、こういう格好すると良家の奥様みたいに見えるんだよねぇ この人。普段はフリーダム過ぎるけど。そのとなりに、こちらも負けてないくらい高そうなツーピースを着こなした理右湖さん。
「いろいろあって。そっちこそ、ココの部員だったのか」
「理右湖は正部員だったわよ。私は色々やってたからね。あーあ、そう言うことか。ふぅうん」
 でてきて、先生見つけて驚いて、その周りに居る人物に視線をまわして、実冴さんが一瞬すうっと目を細めたあと、表情をひっくり返すように戻して、一人何か納得している。
「電車で来てるんなら帰り、よかったら送るけど?」
「いや、久しぶりに哉とメシ食って帰るからいい」
「そ。じゃ 速人君も誘ってあげたら? 今日も置いてけぼりだから」
「アイツはこういうのが嫌いだろ」
「アンタたちが来るって聞いたら来たと思うけどねぇ ほんっと、昔からアンタって哉君以外結構ないがしろよね」
 実冴さんがくすくす笑って、先生がイヤそうな顔をしている。実冴さんってどこまで知ってるんだろう。聞いても教えてくれないんだけどさ。
「そうそう、速人君、よく昔の話しでグチグチ文句言ってわよ。構わないなら電話してあげて。家にいると思うわ」
 同じように笑いながらそう言った理右湖さんに、先生が仕方ないってポーズを取りながら電話してみますよと答えていた。いや、別にいいです。会いたくないです。先生の昔のこと聞きたいけど、神崎さんからはいいです。ムカつくから。なんか微妙に含みを持たせて私の知らないことで盛り上がるのは許せないのよ。肝心のところは言ってくれないのが一番ムカつくの。
「きゃあああぁああっ! 北條のお姉さま! 暮林(くればやし)のお姉さまっ!! おひさしぶりでございますぅっ!」
 私と樹理ちゃんの間を割るようにめきょっと現れたユリさんが、文字通りすっとんで実冴さんたちのところへ。えーっと、誰と誰って? 北條は実冴さんの旧姓だから、クレバヤシは理右湖さんのか。
「あら、お久しぶり。桐生のお嬢様。にしてもなんでアンタいつも旧姓で呼ぶわけ? 何かの嫌がらせ?」
 私はやらないけど、あのノリは女子高校生くらいまでの女の子のみに許されるんじゃないかってくらいのテンションで実冴さんの両手を取ってぴょんぴょん跳ねている。
「ホントに。何度教えても覚えないわね、この子は。久しぶりに呼ばれたわ、暮林で」
 その隣の理右湖さんが、やれやれって笑う。
「だって。もうそれで刷り込みで上書きNGなんですもの。いいじゃありませんの、一人くらい旧姓で呼ぶ人間がいるくらいが」
 へろりんと笑って、ユリさんが小首を傾げている。
「ユリ、おじい様によろしく伝えて頂戴。この間はありがとうって。琉伊、また今度ゆっくり、またみんなでお茶でもしましょうか。じゃあ、私たちはこれで。夏清ちゃん、樹理ちゃん、またね」
 実冴さんのお言葉に、目をそらして他人の振り状態だった琉伊さんが、諦めたようにため息をついて頷くのを見から、実冴さんたちが背を向けて去っていく。その背中に、ユリさんが名残惜しそうに手を振っていた。こっちもどういう関係? 年の差を考えると、絶対在学中に一緒だったとは思えなんだけど。
「ユリさんって、何者?」
 樹理ちゃんが袖をひっぱって、手を口に当てて背伸びして、ひそっと耳元で。
「さぁ……また近いうちに実冴さんには会うと思うし、聞いてみるよ」
 あ、もしかしたら先生が何か知ってるかもしれない。これもあとで聞こう。二人で頷きあっていると、一旦閉められたドアが開く。
「氷川様、桐生様、お席が整いましたのでどうぞ」
 中から着物姿の生徒がやってきて、廊下で微妙な空気を撒き散らしている私たちにちょっと腰が引けながらそう案内してくれる。
「上座はどうする? さ……お兄様か井名里さんにお願いする?」
 今気づいたけど、琉伊さんって氷川さんのこと呼ぶとき言い直すよね、名前で呼びそうになって、なんか照れみたいなのを飲み下して『オニイサマ』って。それって普段、名前で呼んでるってコトかなぁ。
「いや、俺たちは中でいい。桐生さんが正客で次にその子供、俺、夏清、彼女、哉で並ぶから、詰めを務めて」
 ユリさんが反論するより早くすぱぱっと一同を見回して先生がそう言う。なんだか順番に不服がありそうなユリさんの口を琉伊さんが文字通り塞いで、まだぎこちなさの残る笑顔で了承した。
「えー お正客めんどくさーい」
「あなたがみんなを誘わないで私たちの順番で来ていれば順当に選ばれた人がいたの。私だってお詰めするのは初めてなのよ? そのくらいの責任は取りなさい」
 琉伊さんに押されて、本当にぶうぶうと口に出しながらユリさんが部屋に入っていく。そのあとに柾虎君がきちんと靴をそろえて上がって、行儀よく正座して、一度お辞儀をして中に進んでいった。良くわからないけど、一番初めに入る『お正客』と、一番最後に入る『お詰め』は、何かややこしい役目らしい。ユリさんと琉伊さんに、私たちはサンドイッチされてる感じ?
「先生行かないの?」
「前の人が掛け軸の前まで行ってから。見とけ。あと、畳のふちは踏むな、なるべくすり足、歩幅狭く。つま先にかかとくらいの歩幅を意識しろ。お前は俺があそこに座ったのを見たら入って、前に扇子置いて一礼、まっすぐ掛け軸まで行って、座って眺めて立ってああやってきびすを返して、そのとき俺が座ってるとこまで行って……説明めんどくせぇな。あとは見てまねしてろ」
 一番に入ったユリさんの動きを眼で追う。うわあああああ。一片に言わないで。しかもメンドクサイで省略とか!! マネしたらいいんだよね、いやでも、一回見ただけで動き完全コピーとかムリです。
「樹理ちゃん分かる?」
「昔、おばあちゃんが習ってて、お茶会には時々連れて行ってもらってたから。でも私が行ってたのは裏千家の方だから、もしかしたらちょっと違うかも。間違ってても笑わないでね?」
 いえ。間違ってるかどうかすら分かりませんから。ここでウラって何? とか、もう聞けない雰囲気。


 イヤイヤ言ってたのに、ユリは正客をそれなりにこなしてしまった。常識がなくて性格が微妙で、男癖が悪くて脳みそがハンパなく腐ってるけど、なんだかんだで本番に強いんだよね、この子は。
 逆にかわいそうだったのは夏清ちゃんだけど、最初こそガッチガチに緊張してたみたいでぎこちなかったけど、途中から吹っ切れたのか、何か放棄した感じで、逆に動きがスムーズになって、最後にはすごく場慣れした空気すらかもし出していた。さすが、井名里さんの隣にいるだけのことはあると言うか。順応性の高い子だな。
 順々に拝見のお道具が回されてくる間も、ユリが今日の亭主を務めてお茶を点てていた私たちの師匠や、半東(はんどう)を勤めてくださっているそのまた大師匠と、嫌味のない会話を続けている。その常識的な会話を日常にもしてほしいわ。いつもいつも周囲にはばかるような話ばっかりしてないで。
 型どおり、私のところまでお道具が回り、それを半東が引いてくれる。お客様として招いているはずの、師匠のまた大師匠が半東をしてるのは先にユリが電話していたからだろう。下町の軒先に出された縁台で碁を打っていそうな小粋なおじいちゃんっぽい外見だけれど、関東では名の知れた茶人がこの場にいるのはさすがに少し緊張する。
「今日は本当に懐かしい方々がお見えで、大変楽しませていただきましたよ」
 一連の茶事が終わったのを見計らったように、それまでより少し砕けた口調で半東を務めていた大師匠がユリに話しかける。
「私も含めていただけますの?」
「もちろんですよ。先ほども、あの騒動からもう十年以上も経ったんですねぇって話していたんですよ」
 大師匠が、師匠と顔を見合わせて楽しい過去を思い出すような微笑を湛えている。古きよき記憶……などではないのだけれど、私にとっては。
「よろしければ、氷川君の点てたお茶をまたいただきたいんだが、お願いできるかな」
「私もお相伴させていただきたいわ。お話を聞くだけで、お会いするのは初めてですわねぇ あの折はありがとう」
 大師匠の要望に、師匠も追従。大体予想はしていたけれど、やっぱりか。
「僕は構いません。お時間が許されるなら点てさせていただきます」
 ええええええ? 点てちゃうの? ほんとに? 正座をしてもぴんと伸びた背中。身長は高い方ではないけれど……ぶっちゃけ私とそんなに変わらないけれど──立ってるときとかヘタしたらヒールの分私の方が若干アレだけど──まあ、すぐそこに井名里さんがいると、かなりちっちゃく見えるんだけど姿勢がいいからそれなりの存在感が哉にはある。
 すっと両手をついて礼。頭ではなく、体が覚えている動作で。それを見た二人の老人が、いそいそと自分たちのお茶のおしまいをする。それを見届けて、三十分近くじっと正座をしていたとは思えないくらい滑らかに立ち上がる。つくづく無駄がない。
 哉がすいっと視線を井名里さんに。それだけで哉が何を言いたいのか分かったらしく、ハイハイと言いながら彼も立ち上がった。
「別に今回は妹でもいいだろう、半東なんてあの時やっただけだぞ」
「私はまだ一度もそんな大役承ったことがありませんので、謹んでお譲りします。前は物陰からコソコソ見ていたので、今日はここで見させて頂きます」
 こちらは座ったまま、言われっぱなしは悔しいのでとりあえずの笑顔で応酬。そんなことを言っても、哉も井名里さんも誰かに代わるつもりなどないはずだ。お互いの背中はお互いが守るみたいな空気が今もしっかりある。しかし、哉はともかく井名里さんは気づいてるはずなのだから、そう言う空気がユリを狂わせるってことに。逆に煽って面白がってるのかしらあの人は。
「みんな、こっちにずれて。上にお二人が入られるから」
 そう言うと、樹理ちゃんと夏清ちゃんが一つ、ユリたちも座布団を移ってきて、空いた場所に優雅な振る舞いでご老人が二人、着席する。
「氷川さんってお茶点てられるの?」
「そう、みたいだね」
 さすがにそんなことが出来るとは思っていなかったらしい樹理ちゃんが、少しの戸惑いを混ぜて夏清ちゃんと話している。
「お兄様の所作はとっても美しいですわよ?」
 そんなことも知らないの? と言外に込めて、ユリがふふんと鼻を鳴らす。ほらもう、夏清ちゃんがイヤそうな顔してるでしょう。だからそう言う態度はやめなさいって。私がどうしていちいちあなたが極度の人見知りで初見の人にはツンツンしちゃう本当はお茶目なオンナノコなのよって説明しなくちゃいけないのよ。誤解されてあとで泣くマネしても知らないからね。かわいい女の子の掛け算が三つ目くらいに好きなくせに。ちなみに一つ目はイイ男同士の掛け算で、二つ目は自分に言い寄ってくるイイ男。イベント帰りにウチの店に寄って戦利品広げながら女の子同士でもゴハン三杯いけるわよって豪語する子持ちバツイチってどうなのかしら、本当に。
「ねえ、あれって私たちが中等部の二年のときだから、十一年前?」
 ユリが最近流行りのオタク……じゃなかった、大人向けの漫画に出てくる、気の強い女の子にハマってるって言ってたけど、確かこの制服着てなかったっけ? あの主人公。ガッチリ好みにジャストミートなんだろう、イヤそうな顔の夏清ちゃんの敬遠オーラにより、萌えが先走ってダメなルーチンにはいったユリが、彼女たちを挟んで私に話しかける。だから巻き込まないで。私まで嫌われたらどうするのよ。
「私たち、大ピンチをお二人に助けていただいたのよ」
「ユリ、余計なことは言わないで。私が話してあげるわ」
 ……このままユリに語らせると、あのこととか、このこととか、そのこととかっ 要らないことまで語りかねない。
 大体、普通、超絶美形の男と結婚しておいて、妊娠を理由に実家に帰って数いる元カレ数人とヨリを戻して遊び倒す妻と、中身はともかく見た目は極上のお嬢様な女と結婚しておいて、出産の為の里帰り中に同じ会社の女の子や、合コンで引っ掛けたその他色々数名と浮気を繰り返す夫と言う、ある意味似たもの夫婦な二人だったんだけれど! 柾虎を生んだあと、産院のベッドの上で離婚届にサインしながら『ヨリ君もさぁ 相手が男だったら許したのにぃ』とつぶやくような女に、あの嵐のような出来事を語らせたらどうなることか知れたもんじゃない。
 ユリの妄想を侮って、何回痛い目を見たと思ってるの?
 絶対発言禁止! じろりと睨むと、にへらっと笑ってユリが肩をすくめている。
 そんな回想と無言のやり取りをしていたら、するりとふすまを開けて茶室に入り、礼をする哉に、慌ててみんなで礼をしたあと、ため息を一つ吐いて、出来るだけ妄想を排除して、昔ここで起こった騒動を教えてあげることにした。


 ことの起こりは、十一年前のこの場所。私とユリは、まだぴっちぴちの十四歳。この茶道部は、毎年入部するのは多くて五名くらい。希望者はその十倍くらいだけれど、家の格だとかまあ、くだらない選考を経て入部が認められる。上流の子女は同類と仲良くなりなさいと言う場がこの茶道部だ。それ以外はとことん排除されるし、入部はある意味ステータスの証。
 ちなみに、選考に個人の性格は含まれない。幼稚舎から同級生だった私は彼女の本性を知っていたし、幼少期から決して良家のお嬢様らしからぬ行動・発言がてんこ盛りだったユリだけど、家の格としてはウチよりずっと長い家系図を持つ由緒正しいお家柄。そして、私と同年の入部者はユリだけだった。そこからこの腐れ縁が深まったんだけれど。
 大師匠は、五・六年に一度くらいの頻度でこの文化祭で行うOGを招いての茶会に顔を出してくださる師匠の師匠。大師匠が来る年は、いつもにないくらい部に緊張が走る。大抵の部員は、中高六年間の在籍期間中、一度顔をあわせるだけなので、どんな人かは分からないけれど、とにかくすごい人、と言う認識は満場一致。その年の部長のおばあ様が同じくらい有名な茶人でご友人だったらしく、部長曰く大層な威厳を持った老紳士とかで、日本で一番エラい方との茶会でお茶を点てることもある、そのくらいのネームバリューがある大人(たいじん)なのだ。
 その年も、数年来のお越しとのことで、師匠も先輩方もそれはもう気合が入っていて、朝から緊張ムードに包まれていた。
 午後二時の最終でいらっしゃると言うことで、師匠も、大師匠の前でお手前を披露する高等部三年の部長も、準備万端だったはず。
 なのだけれど。
 食中毒が起こったのだ。茶道部で取った仕出しで。この年は朝早くから支度に追われていて、朝食も仕出しのお弁当だった。お手前に備えて早く来て、早く食べていた茶道部の主要メンバーは午後一時を待たずに全滅。普段なら、食べてやばいものにくらい気づきそうなものだけれど、このときはみんなムダにハイテンションで、とにかく食べちゃったらしい。毎年同じところから取っているというのも安心感としてあったのかもしれない。結局、確実に生き残ったのは、ユリの遅刻に巻き込まれたと言う恥ずかしい理由もあって朝の弁当を食べていなかった私とユリだけ。
 普通、食中毒と言うか、食中りというのは早々すぐに症状が出るもんじゃない。けど、一人に症状が出て、原因に思い当たったら、連鎖するようにみんな気分が悪くなり、当然本当に中っているのであっという間に戦闘員はいなくなってしまった。
 救急車は派手になりすぎると、先生方の車で病院へ向かう師匠に手を握られて『あなたたちで何とか頼む』と遺言のような言葉を残されても、悲しいかな、残った人間は二人ともほぼ素人だった。
 この年は、物心つく前からお茶を習っていたと言う部長の手腕がすばらしいこともあって、端っからお任せムードでやる気ゼロ。それに、中等部の三年間は見て覚えなさいってことでここでお手前の練習などさせてもらえていなかった。実際、高等部の部員だけで十名以上。全員が練習すれば、部活を終えるにちょうどよい時間になってしまって、中等部の出番はない。私もユリも、バレエやピアノは習っていても、部長のようにお茶は小さい頃から習ったりなんかしていなかった。
 結局私なんか、一応六年在籍したのにすでにお手前の手順なんかうろ覚え。
 お仕着せのそろいの小紋姿で右往左往。
 そんな中、誰か他の人に頼めないだろうかと言い出したのはユリだった。しかし、他にお手伝いに来てくれて、無事だったOGも、客としてきてくれていたOGも、みんな卒業後お茶を続けていた人は居らず、大師匠の前でお手前が出来るような腕に覚えのある御仁は皆無。今日来ているお客で、お茶が点てられる人物を思い出してみても、部長のおばあ様は、なにか用があるとかで、午前の早い時間に来てもう帰ってしまっている。ユリはと言うと、いいとこのお嬢様のくせに、身内にお茶を点てられる人はいなかった。対する私は──……
 ……──私は思い出してしまったのだ。そう言えば、哉が子供のころオニのように習い事をさせられていて、その中に茶道が含まれていたことを。そして、今日哉がここに来ていることを。そんなことをどうして知っていたかと言うと、当時、ユリが付き合っていたからだ、神崎君と。いや、神崎君にもユリにも他に大勢彼女彼氏がいたから、そのうちの一人だったと言うべきか。忌憚なく言えば心より体のほうでとても親しい間柄。うん、それ以上は察して。後半は脳内オフレコにしよう。この子たちにヘンなこと吹き込んだら、『次のお茶』が怖すぎる。
 ついでに、ユリはいつも影の薄いオタク君とも仲良しだった。どのくらいって、一緒に海辺にあるイベント会場に行くくらいには。なぜか彼は高確率で超難関イベントでもサークルチケットをゲットすることが出来る能力を有していて、入場が楽なサークルチケット目当てにある意味ユリがおいしく操縦してたんだけど。ユリの『お友達に会いたいの』攻撃に辟易して、部室に超絶遅れて現れたにもかかわらず二人で中抜けしてしぶしぶ『お友達』に会いにいったら、その中に哉がいたのだ。
 ユリの友達の中に哉を見つけた衝撃でほとんど何もしゃべることが出来なかったけどね。彼らと別れたあと、哉が私の兄だとは全く気づかなかったらしいユリに、彼女にとっては初見だった男二人……片方実の兄で男同士掛け算するような話を延々されて、ぐったりした気分で部室に帰ると、緊急事態が待っていたってワケ。さっきまでアドレナリン全開で動き回っていた人たちが、青い顔でウンウン唸ってる図ってのは、かなり衝撃。
 おぼれるものは藁にも、これまで一度とて会話したことのない兄にもすがる。
 背に腹は替えられない。この窮地を脱すべくユリに、アレが兄であることをカミングアウト。してもユリが哉たちで遊ぶのをやめるような子じゃないって事くらい知ってたけどさ。とにかく走って本部まで。放送をかけてもらうために。
 走って息が上がったのと、自分でもきちんと状況が把握できていなかったのとで、放送を担当する本部役員と上手く意思の疎通が測れなくてじたばたする私の横でマイクを分捕って放送をぶっ放したのはユリだった。
 軽やかに響くユリの声。思い出しても本当に、とっさの機転がきくヤツ。しかし、内容はひどかった。哉の学校名とフルネームを連呼して、妹ちゃんがピンチです!! とか。
 ふざけた放送をして、本部役員にこってり叱られつつ、まだ帰っていないことを祈りながら、じりじりと待っていた時間は、五分も経っていなかったと思うけど、私には永遠にも思えた。だって、私の呼び出しに哉が応えてくれるとは、さすがにほんの少しくらいは期待していたものの、来ない、無視される公算のほうが大きいと思っていたから。
 それが、まあ、ぞろぞろと来てくれた。と言うか、神崎君がユリの呼び出しを面白がって哉を連行して来てくれたというべきか。
 今思い出しても、哉は心情が読みづらい無表情だったけど、迷惑そうではあった。けれど、そのときの私にはそんなこと構ってられなかった。とにかく茶道部の一大事。それが頭の中全てを占めていた。これも今思えばだけど、どうしてそんなに必死だったんだろうと思う。事情を説明すれば、大師匠だってお茶が飲めなくても許してくれただろう。けれど、会ったこともない、それはもう恐ろしく厳しい師匠の、更に上の人ならば怖い人だと言う思い込みの力は無駄に威力があったのだ。
 やってきた哉のガラスみたいな目に、泣きそうな顔をした自分が映っていた。
 そのとき口走ったのが『助けてお兄様』で、未だにユリに笑いものにされる原因。ユリが哉のことを殊更『お兄様』と呼ぶのは、このときの私のこの発言のせいなのだ。さすがに兄に向かって名前を呼び捨てるわけにはいかない。とにかく声をかけなくては! と、意気込んだ結果がコレだ。思い出しても恥ずかしいけれど、これ以外の呼び方が思いつかなかった。相当テンパっていたのだろう。もう一人の兄のことは、普通にお兄ちゃん(当時)だったのに。もう過去は巻き戻せない。どんなに恥ずかしい記憶だろうが、だからこそイヤになるほど鮮明だ。
 もともと年に数回しか会わず、哉が中学に上がり寮生活をするようになってからは全く会っていなかったのに、でも、さすが血の繋がった兄妹だったというべきだろうか、私はその言葉のあとセリフに詰まってしまった。いや、泣いてしまった。哉の顔を見た瞬間、気が緩んでしまって。
 結局、状況を説明してくれたのはユリだった。事情を理解したらしい哉が、一言ぼそりと『分かった』と言ってくれて、ここまできていてなんだけど、それこそまさか了解してくれるなんてこれっぽっちも期待してなかったから、びっくりして今度は涙が止まった。きょとんと顔を上げた私の頭に、ぽんと置かれたのは、幻ではなく哉の手で。
 すぐにするりと降りたその手が、暖かかったのか冷たかったのか、覚えていない。思えば、哉と私が触れ合ったのはあれが最初で最後だ。
 そのあとは、また怒涛。男物の道具はないから、急遽近くの茶道具店へ哉の道具を買いに走ったり、さすがに着物はないので、哉の制服を寮まで取りに走ってもらったり。
 部室に哉を案内して、師匠が持ち込んだ茶道具について問われても、茶碗の釜がどうだとか、何代目の好みだとか、そんなことは全然分からなかった。萩だ信楽だと言われてもナニがどれなんだか。問うことをやめて、棗(なつめ)の作が誰かとか、季節に合う茶杓を選びをいちいち説明してくれるんだけど、そんなもの覚えられるわけがない。
 そこで初めて、哉が私に点てさせて自分が半東をするつもりだったことを知って、慌てて全くお手前が出来ないことを伝える。とにかく何にも分からなくてまた涙目になりかけた私に肩で息を吐いて井名里さんを呼び、私に説明したのと同じことを彼に伝え、寮に制服を取りに帰った使いっ端……じゃなくてお友達に急遽井名里さんの制服も持ってくるように連絡する。ちなみに連絡手段は神崎君のポケベル。なにかあったとき連絡が取れるよう、帰った彼が借りてくれていたのだ。ちなみに当時はまだ、さすがに高校生が携帯電話を持てるような時代じゃなかった。巨大だったし。ポケベルだって出始めたばかりだったような気がする。
 何とか時間までに制服が届き、大師匠が来たときには、一応体裁が取れていたと思う。彼は、やってきていきなり他校の生徒がお手前をすると聞いて驚いてはいらっしゃったが、しどろもどろの私の説明に、そうですかとあっさり納得してくれた。さすがに大物。
 どうなることかとドキドキしっぱなしだったけど、大師匠には、かなり満足していただけたようだ。コッソリ見ていた哉のお手前は全く迷いも躊躇もなく、流れるようにきれいだった。もともと、動作の流れが美しくなるように洗練されているのが茶道であると再認識させてもらえるような。あとで聞いたら、中学に上がると同時にやめていて、五年ぶりくらいのお手前だったらしい。あれは体が覚えていたのかもしれない。それだけ練習をしたと言うことなのだけど。
 そして、始まる直前まで『一度もやったことないのに』とかイヤそうにしていた井名里さんが、大師匠相手に飄々と初めて見て聞いたはずの茶道具について答え、会話をしていたことが一番すごかった。元々は漢字だったはずだけど、達筆すぎて呪文のようでどうにも読めず覚えきれない、床に掛けられた書も澱まず読んで説明するし。私なんか名前も知らないような山野草、可憐だけど地味な花が生けられていて、そんな花のことにも詳しかった。そこは哉は全く説明していなかったから、彼の知識なのだろうけど、よくそんなことを知っていたわよね。
 なんと言うか。思い切り他人の褌(ふんどし)どころかその例えであれば力士まで借りて相撲をとってしまったのだけれど、見事なお手前を披露した哉と井名里さんをねぎらい、病院に運ばれた師匠や先輩方にいたわりの言葉を残し、大師匠は悠々と帰っていった。
 もちろんこの騒動は、今でも語り草で、毎年この茶会にユリとともに招かれては、師匠にこのときのことをリピートされている私たち。哉と井名里さん。この二人を見たとき、師匠が会いたがるだろうなとは、私も思った。
 師匠には話をしていても、実際に二人と会わせた事がない。事件の時いなかったら当たり前なんだけど。それでも、誘うことは思いつかなかった。と言うか、断られなかったのにちょっとびっくりした。もちろん、両方に。そして来てみたらなんと大師匠までいらっしゃった。そして彼は今、上座で哉の点てたお茶をお代わりまでしておいしそうに飲んでいて、師匠は二人に、楽しそうにあのときの事をいろいろ尋ねている。
 アレだ。役者と言う名の他人が大真面目に大騒動で駆けずり回った出来事ほど、客席からみれば見事な喜劇になるということなのだ。そう思って諦めるより他にない。この事件のあと、ユリが三日徹夜で何描いてたかとか、回想するのもイヤだ。勢いに乗って勝手に本にしてあろうことかオフセで三百部。全て没収。捨てて人目に触れるのも怖くて、実家に置いておいて誰かの目に触れるのはもっと怖くて、この春から住み始めたマンションの一室に厳重に封をしたダンボールを運び込んだけれど、いっそ燃やしてしまうべきかしら。あの黒歴史。
 前回同様一発仕込みのはずなのに、おそらく先に半東をしていた大師匠の動きをトレスしたのだろう、それはもう、体は大きいのにそれを感じさせない動きで井名里さんが茶碗を引いて、哉がお手前のおしまいの動作に入る。ちらりとユリを伺うと、なんかニヤニヤ笑ってるし。一度脳みそ搾り出してやろうかしら。
「そんなことがあったんですか」
「へぇえ」
 頭の中の回想から、語っていい部分だけをピックアップしてつじつまを合わせながらの説明だったけれど、二人のギャラリーにはそれなりに暇つぶしにはなったみたいだ。と言うか、それなりに相槌を打ってくれていたのは主に樹理ちゃんで、夏清ちゃんのほうは意識が完璧に哉のお手前に向いていたけど。
 全てが終わって、挨拶をして、来年もまたとか言いながらなんだか名残惜しそうな師匠たちと別れる。部室を出ると、コスプレ屋を出していた少女が二人、制服姿になって立っていた。どうやら夏清ちゃんを待っていたようで、なにやら話して、慌てた様子で三人走り去っていく。
「先生! すぐ着替えてくるからヤクザの銅像の前にいてね!!」
 ヤクザ。ああ、創始者像か……
「じゃあ私たちはこれで……」
「あらっ! まだ時間はありまして? よろしければこれからどこかでお茶で……」
「いい加減にしなさい、ユリ。この二人にいくらくっついてもムダよ。二人ともこんなかわいい彼女がいるでしょ? ほらほら、帰る帰るっ! それじゃあ井名里さん、お兄様、ごきげんよう」
 まだしぶとく付きまとってなにかネタになりそうなことをほじくりだそうとするユリを引きずって、おそらく彼らが向かうであろう生徒用の昇降口とは反対側に移動する。ごり押しで来客用の駐車場に車を止めたので、教師用と併用されたそっちの出口の方から出てもさして移動距離としては変わらない。外を歩くか、校舎内を歩くかの差だ。
「柾虎君、バイバイ」
 樹理ちゃんがかわいらしく柾虎に手を振り、いつも小生意気なちびっ子も、年相応の笑顔で手を振り返していた。この気難しい子供に、こんな顔をさせる樹理ちゃんって、やっぱりすごいのかも。
「ふふふふふ。かわいかったわね、樹理ちゃんと夏清ちゃん。夏清ちゃんがウチの生徒じゃないってのがマイナスポイントだけど、コスオンリーイベントでもあれだけ刃朔羅っぽい子なかなかいなくてよ? 樹理ちゃんは秋桜(コスモス)の方かしら。いいカプだと思わなくて? ああ、なんだか創作意欲がわいてきちゃったんだけどどうしよう」
 そっちか! 薄々そうかとは思ってたけどそっちの方だったのか!! 哉たちにくっついて回ってたのは女の子二人を観察する為だったのかっ! やけに夏清ちゃんを煽ってるなぁと思ったけど、本当にいつもいつもどうしてこうも二次元と三次元を絡めようとするのかしらこの子は!!
「琉伊、これは燃やすゴミでいいのか? それとも燃やさないゴミ?」
 そうね、リサイクルはまずムリよね。再利用なんかしちゃったら、核物質で被爆するよりずっとひどい痛手を負うわ。すでに妄想の世界にトリップ完了。当分帰ってきそうにない上に、脳内はおろか周囲にまでお花畑の幻想を撒き散らしながら、軽やかな足取りで踊るように進むユリの姿を見て、柾虎がつぶやく。さっきまでの子供らしい笑顔がウソみたいに、ゲンナリした表情を浮かべながら。


「よかったぁ でてきたっ」
 部室の戸を開けると、制服姿のリナちゃんと翠ちゃんが待ち構えていて、私の後に出てきた夏清ちゃんの腕をつかんでぐいぐいひっぱっていく。
「あ、リナちゃん、ハンカチありがと……」
「そんなことよりっ! 二時半から業者が撤収作業始めちゃってるから早く早くっ」
「えええええっ!? もうそんな時間!? うわあ、ホントだ」
 夏清ちゃんが慌ててポケットから携帯電話を取り出して、時間を見て悲鳴を上げる。
「先生! すぐ着替えてくるからヤクザの銅像の前にいてね!!」
 そう言って、夏清ちゃんが二人と一緒に走り去る。
 そのあと、琉伊さんと柾虎君に引きずられるように去っていくユリさんを見送って腕時計を見たら、もう二時四十五分を過ぎている。
 各模擬店の終了時間は午後二時半。その時間から三時までの間に自分の教室にいる担任に在籍報告をして、用がなければ帰宅と言うのが、文化祭の日の通例。朝の点呼と帰りの点呼でいたらいいのだ、要するに。
「昇降口までご一緒していいですか?」
 三人が走り去った方向へ歩を進めようとしている氷川さんにそう言って、ちょっと離れた距離を小走りに縮める。
「氷川さん、すごいですね。さっきの。カッコよかったです。私のおばあちゃんの茶道具とかあるんですけど、借りてきたらおうちでも飲めますか? 氷川さんが点てたお茶、私も飲んでみたいです」
 ナナメ後ろから首を前と左に四十五度くらい傾けて氷川さんの顔を見上げる。
「さっきいただいたお薄、すごくおいしかったんですけど『小山園』の『妙風の昔』って、普通に買えるんですか? 家元の御好の銘柄はさすがに普通のスーパーには置いてないですよね……普通のでもいいかなぁ」
 昔、お菓子を作るのに買ったことはあるけど……普通に飲むお茶だって、銘柄やメーカーで全然味が変わってくるんだから、きっと今日頂いたお茶は最上級のものだろう。
 うーんと悩んでいると、ちらりと視線がこちらに。左側しか見えないけれど、口角がほんの少しだけ上へ。
「お道具の方は、お母さんに頼んでみます。お茶も探しますね。揃ったらお願いします。すごく楽しみ」
 その時を想像したら、とても幸せな気分になって、自然に笑ってしまう。顔を向けたらすぐにすいっと正面に戻る視線。指先が指先を掠めて、また手を繋ぐのかと思ったら、そのままするりと離れる。あれ? と顔を見ていたら、視線が一瞬反対側の井名里さんをみて、正面へ。あ、今のはもしかして無意識? 井名里さんがいたからやめた? 柾虎君がいたときはヘイキそう……というより、むしろ積極的というか、強引だったのに。これはもしかして。
「……っく」
「……ふふっ」
 思い至って、思わず小さく噴出したら、同じようなニュアンスを含んだ短い笑い声。私とほぼ同時に気づいたらしい井名里さんが、精一杯笑うのを堪えるような、でもどう見てもひくひくひきつってるけど笑ってる顔で、氷川さんと私を見下ろしている。なんだか、誰も氷川さんの表情の変化が分からないって言うから私だけかもとか思ってたけど、さすが、さっきのお手前で言葉もなく動きが重なるくらいの間柄。そんなのはわかっちゃうのか。
 上からと下からの視線に挟まれた氷川さんが。
 どちらに目をそらすことも出来ずに何度か瞬きをして、なんの前動作もなく立ち止まって目を閉じ、ふうっと息を付いた。歩いていた勢いで、私が半歩井名里さんが一歩半ほど先んじたところで止まる。
 右向け右の角度で振り返ると、右手を口元へ、視線を私、井名里さんと動かして右下へ。珍しくよく動く、日本人にしては少し色素の薄い瞳。その目元が、よく見るとちょっと朱鷺色。この表情は、もしかしなくても。
 なんだかもう、見ているとこっちの方が恥ずかしくなるような、そんな気分。
「顔、赤いぞ」
 そう言われて、ばっと頬に手をやると、耳まで熱い。いつの間に。
「あ、こっちもか」
 ええええ。私は井名里さんを振り向かなければばれなかったと言う事なのかしら。
「ふうん、そういうことか。さっきのガキとの突っ張り合いと言い……哉がこんな分かりやすいの初めてだ。抹茶なら、さっき扇子やら買った店にあるんじゃないか? 無くても取り寄せてくれるだろ。ま、俺は先行く。勝手にやってくれ」
 もう誤魔化す事もなくニヤニヤ笑って、言うなり井名里さんがくるりときびすを返して、背中を向けて去っていく。
 昇降口の方へ繋がる角を曲がって、その姿が消えた。
 ぽかーんとそっちを見ていたら、急に氷川さんが目の前に。と言うか、こちらももう背中。だけど。
 ひらりとまるで見えているように私の右手をその左手が捉えて。
 ゆっくりと時間をかけるように、ゆったりとした歩幅で。
 しっかりと指を絡めるように、ぎゅっと握り返すと、当たり前って答えのように、更に強く。
 すぐに隣に並んで、いつもの角度で見上げても、すいっとその顔が反対側の斜め上を向いてしまって、見えたのは頬と顎のラインだけだった。


「あっはー アキランがホントにいたー」
 屋内にいる間はそうと気づかなくても、一歩外にでると、そこが存外薄暗かったのだと気づく、そんな一瞬のハレーションを打ち砕く、語尾にことごとくハートマークがついているようなのんきな一言。声のした方を見ると「梅雨の晴れ間最高!」と、その胸元にショッキングピンクの楷書で書かれた空色地のTシャツ姿で、携帯電話を片手にもったまま、こちらに向かって両手をぶんぶん振りながら走ってくる人物が目に入る。視力が悪くとも、見まごうことなきその姿。と言うよりも、その動作。とっさに無視して、見なかったことに。この俺をこんなふざけた具合に呼ぶのはたった一人。
「ひっさびさのさいかーい! なのに無視とか? 無視するとか? 絶対記憶力の持ち主が忘れるわけないから故意に無視してるとか!! 知ってたけど性格悪ッ! どうしよう僕、ショックで死ぬかも。死ぬ前に名前叫んでやる。アーキー……」
「本気で死にたいとか?」
「めっそーもないでーっす」
 三十路を目の前にした、しかも高校生の娘がいるとは思えないヘンなテンションがよく似合う男が目の前に立っている。できれば見間違いたい。知ってる人によく似てる人だと思いたい。けれど自分の知っている次能都織と言う人物とよく似た人間が他にいたらいたで大変迷惑だ。こんなのは一人でいい。
「さっき起きたらリナからメール入ってるしー んで、大至急とかだし、電話してみたらアキランまで来てるとか言ってるし、じゃあお父さんも参加しちゃうぞー みたいな。学祭終わったんでしょ? これからヒマ? ってかヒマだよね? ってか、ヒマって作るもんだよね? ヒマ作るよね? 僕のために」
 返事も聞かないで、長身の男の周りをヤッホー デートだー と小躍りする青年。そんな二人に微妙な視線を投げかけながら生徒たちが帰っていく。
 さすがにこれ以上この衆人環視でこの男のペースに巻き込まれるのはごめんだ。夏清に待ち合わせ場所の変更を伝える為に電話を開くが、気づいていないのか全くでない。つい舌打ちをしている間にも、ぴょんこぴょんこ跳ねながらノンストップでしゃべり続けている。
「あれ? ドコ電話するの? ダレ? リナが言ってた美人の彼女ちゃん? あ、そうか、もしかしなくてもこの辺りで待ち合わせ。だから止まったけど場所変更? ダメだよー ふっふーん。そんなことしたら僕が先に彼女捕獲してないことないこと吹き込んでやるもんねー あっ 哉ちゃぁああんっ」
 殴りつけようと考えてから行動に移すのでは、この男は倒せない。気配を察すると言うよりも、原始的な部分で反応してこちらが予想だにしない様な動きをするため、広い空間で倒すことは不可能に近い。振り上げようと手を動かす数瞬前にスルリと俺の前からその身を翻し、昇降口の方へくるくる回りながら移動しつつ、極上の笑顔でウインクまで飛ばしている。反射で生きているくせに、どうしてこの男は、こうまで空気を読まないのか。
 校舎から出てきた直後、予想していなかっただろう出迎え人が大音量で叫ぶ姿を見ても別段驚いた様子も見せず、哉が歩みを進め、こちらへやってくる。
「何週間ぶり? 仕事復帰したってホント? なんだよもう、無職同士せっかく一杯遊ぼうとおもってたのにさー ってか、やっぱり無視とか? 哉ちゃんも無視するとか!? どうしてそんなとこばっかり似ちゃうわけ? お父さんそんな子に育てた覚えがありませんッ!!」
 すたすたと、この空気を完全に無視して進み、目の前に立った哉が無言のまま顔を上げた。
「知らねぇよ いたんだよここに。呼んだのは娘だ」
 普通なら見分けがつかないくらいほんの少しだけ中央に眉が寄っている。暫く会っていなくてもわかる。これは、大変迷惑していると言う表情だ。
「いや、むしろ俺が聞きたい。お前、コイツの娘がココにいるって知ってただろ? あの子も娘たちのことよく知ってたし。今更会うなんて思っても見なかったぞ」
「ひっどーい。コイツ呼ばわり!? 仮にも先輩を……」
「じゃぁ アンタ」
「いやだー ちゃんと次能先輩カッコハートカッコとじで」
「却下」
「ちょっ 哉ちゃんもなんか言ってやってよ! 哉ちゃんは前呼んでくれたよね? 次能先輩って呼んでくれたよねッ!?」
 右手の親指を下に向ける動作で却下。救いを求めるように哉に詰め寄るが、哉は目をあわせないようにしながら上体を少しそらして距離を取っている。
「ううっ ホント哉ちゃんってアキランいるとしゃべらないよね? 同じ日本人なのに異文化コミュニケーションな気分だよ。哉ちゃんの顔面芸はアキランと樹理ちゃんにしか通じないから、他の人とは言語で意思の疎通を図るべきだと思う。出来るだけ全力で」
 肩に両手を置かれ、至近距離な位置で泣きまね声で詰め寄られて、首をナナメにして、哉がこっちを見ている。
「却下。だってさ」
「日本人相手に通訳が要る日本人ってどうよ!?」
「少なくともオマエの言葉を訳する必要はないみたいだからいいだろ」
「ひどいっ いじめっこー 僕だって哉ちゃんと戯れたいよぅ うげふっ! やめてー 襟がのびるっ これこの季節のお気に入りッ! やめてぇ 首が絞まるぅううぅううっ」
 Tシャツの首を掴んで哉から引き剥がすと大げさに叫ぶ。
「相変わらずひでぇセンスのコレが?」
「僕に言わせればアキラン達がそんな右に習えな画一的な服で満足できるなんてことが信じらんないよ。ってか、隠れない! そこ、隠れないの。ホンット、全然変わってないや」
 引き伸ばされた襟を整えながら、ブツブツつぶやいて、一人が騒がしいうちに、さりげなく移動して俺の後ろにポジションを取った哉を指差して叫ぶ。
「せんせーい、お待たせー……って、今度はダレ? この人」
「ハイハーイ! あの人はリナのお父さんのとーるちゃんでーっす」
「あー 都織ちゃんホントに来てるー」
 Tシャツとジーパンに着替えた夏清が、真里菜と翠を従えて小走りにやってくる。背中に『でもカエルは雨が好き』という達筆なのに変な言葉が書かれた、色彩感覚が死んでいるとしか思えない色取りのTシャツを着た青年が一人増えていることに気づいて問いかける夏清に答えたのは真里菜だった。
「ハイハーイ!! リナのお父さんの都織ちゃんだよー」
「へー リナちゃんのお父さんなんだー って。え? 父……父親!?」
 満面の笑顔で手を振っている人物と、そっくりな笑顔の真里菜を見て、また都織を見て。数回首の運動を繰り返し、夏清が恐る恐る真里菜に尋ねる。
「ごめん、ホントのお父さん? お兄さんの間違いとかじゃなく? ってか、リナちゃんのお父さんっていくつ?」
「実の父でーッス! 大丈夫、初見の人は大抵驚くから!! その反応ウェルカムで。ちなみにお年はアキランより一ヶ月ほど年上だよー 中学二年生の時には子持ちだったよー」
「だよー ちなみにお母さんは夏清ちゃんくらいの頃に私のこと産んだんだよー」
 ウンメーのサイカーイと叫びながら抱きしめあう父娘プラス一名の姿を若干魂が抜けたような顔で夏清が見ている。
「あんまり見るな、バカが伝染(うつ)るぞ」
「……アキラン……この人、先生のことアキランって……先生がそんな呼ばれ方して絞め殺さないとか……キリカだってさすがに先生のことは変なあだ名つけないのに……この人何者!?」
「見ての通りのバカだから」
「そっかー バカなんだ。じゃあ仕方ないか」
 どこか遠くを見たまま、感情のこもっていない声で夏清がつぶやく。
「えええー! 僕バカじゃないよ?」
「そうだよー とーるちゃんはちょっとアホの子だけどバカじゃないよー」
「あははははー 同じじゃんリナ」
「えー ほら、バカって言われるよりアホって言われる方がムカつかない?」
「ムカツク方とか、ありえないしー でも分かるかも。アホってバカよりヤなカンジだよねー でもって都織ちゃんはバカってよりアホだよね」
「あー それなんかで読んだことある。関東人はアホのほうがムカついて、関西人はバカって言われると怒るんだってね。知ってる? 関西ローカルでは『アホ』は放送禁止用語じゃないんだよ」
 関西のお笑い芸人の芸名を例に挙げて、アホバカ談義に夏清が一緒になって笑っている。
「夏清ちゃん、そのマメ知識ウケるー」
 他にも草野から教えられたと思しき腐ったような雑学を披露する夏清に、娘たちと一緒になって笑っている男の襟足を再び掴んで引き寄せ、間近で睨む。
「見てみろ、どうしてくれる、伝染ったじゃないか」
「こっ 怖ッ!! ちょっ 待ってっ! 僕って言うよりリナとかじゃない? やめてやめて至近距離でその目で睨まないでッ! ごめんなさい!! 助けてー 石になるうぅぅぅうう───!!」


 余計なことはしゃべりません。
 あることもないこともしゃべりません。
 と言うより、もう口を聞きません。黙ります。
 涙目で復唱させられてはいたけれど、この店に落ち着くまでの五分ほど観察しただけで分かるくらい脳みそちゃらんぽらんっぽいこの人がいつまでその誓いが守れるのか。
 危うくカチンコチンになる前に、帰り支度をした樹理ちゃんがやってきて事なきを得たけど、大型犬に危うくかみ殺されかけたハムスターのようなおびえっぷりで、都織サンがリナちゃんを盾にキャラメルラテを啜っている。
「先生、この人、一応年上で先輩なんだよね?」
 先生は四月生まれだから、例え一ヶ月の差であろうとも、都織サンは一学年上と言うことになるはずだ。
「いちおう、な」
 駅の近くのコーヒーショップで、おのおの好きな飲み物を都織サンに、先生が当然のように支払いを要求しておごってもらって奥のブースに陣取る。なんていうか、力関係がどう見ても後輩の先生>先輩の都織サンな感じ。確かに先生はいつでもオレサマだけど、暴君ではない、はず、だ。
「なんであの人あんな怯えてるの?」
「過去の因果が今に報いてんだよ」
「なにしたの? あの人」
「厄介ごと押し付けられた」
「あー とーるちゃんって厄介ごと丸投げすんの得意だもんねぇ」
「濡れ衣だよぅ 厄介ごとじゃなくて我が校の文化と伝統を継承しただけだし、イヤイヤ言ってた割には好き勝手やってたじゃ……ぁぅぁぅ」
 ぶすっとした顔で答えた先生に、横からリナちゃんが茶々を入れ、その後ろから都織サンが口を挟んで、慌ててラテのカップを口に持っていってお口チャック。あーあ。三分持たなかったな。
「それよりもっ! 本日皆様にお集まりいただいた最大の問題を解決したいと思います!!」
 メソメソしてる父親をほったらかしにして、リナちゃんが仕切りだす。そう、ここでこんな風にお茶してるのは、リナちゃんがどうしても、先生にもう一度聞きたいことがあるからと誘ったのだ。
 最初こそある意味アホの子かと思ったけど、なかなかどうして結構臨機応変でしたたか。
 先生に直接アプローチしてもムリと判断するが早いか、まず樹理ちゃんを攻略。見かけどおりって言うか、押しに弱い樹理ちゃん陥落。ココで攻めるのが私じゃないところとか、よく見てるなぁと思う。多分私じゃ先生は動かないし、私は先生を敵に回してまでリナちゃんを応援できない。
 しかし、樹理ちゃんがあちら陣営の捕虜になれば自動的に氷川さんが付いてきて(なんていうか、助けに行くというより一緒に捕虜になりに行くような感じ)仕方ないから先生が解放交渉に出向く、みたいな。
 なんていうか、先生は都織サンにめっちゃめちゃ厳しくて、氷川さんにめっちゃめちゃ甘い。ちらりと視線を向けられただけで折れちゃうのよ。その扱いの差は一体。
「というわけでっ! ここであったが百年目! 三つ子の魂百まで!! 宿屋に泊まって百円余るアレの答え教えてよ」
「だから、問題覚えてないのに答え知ってどうすんだよ。大体オマエあの時五歳になってただろう」
「じゃあ問題からプリーズ! もしかして忘れちゃった?」
「忘れた」
「ウッソだー アキランが物事忘れるワケないじゃん。コンピュータ並みに正確に記録して、一度聞いたこと一言一句間違わずに再生できる人間テープレコーダーって呼ばれてたくせにぃ 知ってる? 昔はコンピュータのプログラムをカセットテープにいれてたんだよー? アキランって口から出しそうじゃない? カセッ……ヒギャアアァアァ」
 テープレコーダー……なんか微妙に時代を感じる呼び名だなぁ んで、やたら早口になりながらも余計なこと口挟んだ都織サンがコメカミグリグリの刑に処されているのをみんなで見守ってから、なんだかこのまま話が終わらなさそうなので、挙手して発言を求めてみる。
「ハイ。なんかよくわかんないけど問題に興味があるので聞きたいです」
 リナちゃんの説明は超うろ覚えで、本当に要領を得ないから、聞いてみたいってのは本音。くだらなくても、このわけわかんない感に比べたらまだマシよ。
 真面目に提案してみたら、先生がしかたねぇなぁとつぶやいて、ものすごーっく、気乗りしない棒読みで問題を出してくれた。
「問題っつーか、なぞなぞだ。
 三人の若者が、旅行に行って、旅館に泊まろうとしたが、生憎満室。途方にくれる三人に、主人が『素泊まりで、空いているふとん部屋なら泊めてあげるよ。一人1000円でいいよ』と、泊めてくれることになりました。
 三人は喜んで1000円ずつ支払い、ふとん部屋に泊まることにしました。
 そんな三人に主人は『ふとん部屋に1000円は取りすぎたかな』と、仲居に『三人に返すように』と500円渡しました。
 500円預かった仲居は『三人で500円は割り切れないな』と、
三人に300円返して残りをピンはねしました。
 さて、ココで問題です。
 三人は結局、一人900円掛ける三人イコール2700円を出費しましたが、仲居がピンはねしたのは200円です。もともと3000円払っていたのに、
2700円足す200円イコール2900円にしかなりません。
 さあ残った100円はどこにいったのでしょうか?」
 子供たちが気乗りしない声で語られる昔話を真剣に聞いている横で、都織サンが『巻き戻しー そしてサイセー』とか『僕の記憶が確かならば、一言一句違わない……と思う。たぶん』とか、小さい声でつぶやいていたけどさすがにスルーされていた。微妙に小さい子に語りかける口調なのは、小さかったリナちゃんに語ったのをそのまま同じようにしゃべってるからなのか。しかし、五歳の幼稚園児に出すレベルの問題じゃないと思うよ。確かにこれじゃ、リナちゃん問題覚えてられないわけだ。
「うああああああ。改めて聞いてもわかんない。プリーズバックトゥミィヒャックエーン!」
「……え? えええ? え? なにが? どうして? なんで計算合わないの?」
 リナちゃんが頭を抱えながら変なジャパニーズイングリッシュを叫び、樹理ちゃんが本当に分からないって顔でキョロキョロしてる。探しても答えは落ちてないと思うよ。
「ちょっと待って。なんかおかしいよ、どっかおかしいよ。算数と言うより国語的におかしいよ。なんなの、このモヤモヤ感……」
 そして、一番答えに近づいているっぽい翠ちゃんが目を閉じてうんうん唸ってる。
「え? ホントにみんなわかんない、とか?」
「わかるのっ!?」
「え、うん。どこがおかしいのかは分かるよ」
 自分用に買ってもらったアーモンドオーレを一口飲んで、頭を抱えている女の子たちに問うと、リナちゃんが食いついて来た。まあ、十数年来の疑問なわけだから当然か。
「教えてっ!!」
「うーん。口で説明するのメンドクサイから書いていい?」
 先生に『不要なものは持ち歩くな』といつも言われるくらいいろんなものが入って重たいカバンから、A6サイズのノートとペンを取り出す。ほら、こうやって時々活用されるのだよ。あえて聞かなくても先生は自分で解説する気なんてサラサラないって顔でアイスコーヒーを飲んでいる。
「まずは登場人物ね」
 言いながら、マルと線で構成された人物絵を、旅人三人、この三人は白いままで、主人は頭の部分になるマルの中に『主』、仲居は『仲』を書いて合計五人描く。
「で、この三人が1000円ずつ、合計3000円を主人に払う」
 お札を模して横長の四角を三枚を描き、大きな円で囲ってから、主人の方へ矢印。
「主人が仲居に500円渡す」
 ちょっと大き目のマルに500を描いたものを一個、仲居に矢印。
「仲居が300円を旅人に返す」
 顔部分のマルに『仲』と描いたイラストの足元に、先ほどより小さいマルを五個描いて、そのうち三つをより大きい円で囲って、矢印で旅人へ。
「ほら、最初から100円なんてないんだよ。さも正しそうに足し算をしてたけど、本当は2700円足す200円じゃなくて、主人が実際に受け取ったことになる2500円と、旅人に返された300円と、仲居がピンはねした200円を足す、もしくは、旅人が最終的に支払ったことになる2700円と、戻ってきた
300円を足す。この二つの式をごっちゃにして出題してるだけなんだよ」
 イラストの上部に先の式、下部に後の式を赤ペンで書き込む。同じ答えがでるけど違うプロセスの問題をさりげなくミックスしてるだけなんだけど、主人に残った2500円をあえて出さず、存在しない100円を持ち出してかく乱するのがこの問題のポイントなんだろう。聞き流してたら、どちらも別ルートとは言え正解を導く為の数字だから、大体ドコが引っかけなのか分からないで終わっちゃうよね。
「すっごーい。夏清ちゃん、説明上手だね」
「そっか、そう言うことか。モヤモヤしたのはそのせいなのかぁ」
「こ、こんな簡単なことに私……長いこと悩んでたなんてっ」
 ノートを見て、三人が口々に思いをこぼしている。
 ホントに、こんなクソ意地の悪い問題、子供にしたよね。きっとキリカも分からないでパニック起こすと思うよ。よし、今度やってやろう。
「じゃ、用は済んだな」
 先生がそう言って立ち上がってこっちをチラッと見た気配ではっと最近無意識に発生するニヤニヤ笑いを引っ込める。
「あっ 待って待って。夏清ちゃん、メアドと番号教えてー また遊ぼうよ。次はオジサン抜きで」
「わーい、賛成ー」
 リナちゃんと翠ちゃんが携帯電話を取り出して赤外線の構え。ま、いっか。女の子だし。
「いいよー でもウチ遠いからそんな遊べないと思うけど」
「ならお泊りしたらいいんだよー リナんちすんごい高いとこにもあるから、そこなら夜景きれいだよー みんなでパジャマパーティーだー」
「高いところ『にも』?」
「うん。住民票はおじいちゃん家にあるけど、他にとーるちゃんにもらった部屋が三ヵ所くらいあるの。気分で引っ越すよ」
 ……やっぱりこの子、お金持ちのお嬢様なんだ……
 まずはリナちゃんとピコピコ通信をしていたら、ゴキブリが逃げるみたいな音がして、顔を上げたら都織サンが先生に捕らえられていた。
「えええ!? 僕? 僕なの!? 僕何にもしてないよっ! 無実無実っ!! リナが勝手に! うぁ そりゃ僕の娘だけどっ! 部屋は税金対策で買って住まないのもなんだからあげたけどっ 何で僕が!? あ、もしかしてアキラン、実はフェミニスト? 女の子には乱暴しない人? ってか女の人怖い人? あー そっか、あの人があ……ぬぁあああああ!!! っ痛い痛い痛い痛いっ それ以上したら死ぬうぅううぅう!!!」
 都織サンが叫んでる間に通信終了。
「翠ちゃん? 交換しないの?」
「や、あの、ボクは、うん、なんか携帯電池切れてるみたいだから……今回はいいや……」
 さっきまで満面笑顔だったのに、すごい青ざめた顔でチラチラ氷川さんを窺いながら、そそくさと携帯をポケットにしまっている。
「ふーん。まあいいや。じゃあリナちゃんから聞いて?」
「あ、うん、えっと……そうする、ね」
「ごめんごめんごめんごめんごめんなさいっ もう黙りますしゃべりませんだから殺さないでお願……」
「お客様、ほかのお客様のご迷惑になりますので、申し訳ありませんが続きは店の外でお願いできますか?」
 引きつった笑顔を貼り付けた店員さんが、ちょっと怒りに震えた感じの声で、恥も外聞もなく大声で謝りつづける都織さんのセリフをぶった切る。一礼して、店の出入り口に向かって慇懃に手を向けている。
 一番すまなさそうに謝っていたのは一番静かにしていた樹理ちゃんで、一番平然としていたのは、一番うるさい人を一番騒がせた先生で、一番うるさかった人は本気で泣いていた。
 一体全体どういう力関係なのか、先生って高校生のとき一体ナニをやらかしてたのかとか、都織サンが最後に漏らしかけた言葉がなんなのか、まあ、この際だから神崎さんでも妥協してあげようかとも思ったんだけど、余計なことを言いそうな人物を先生が呼ぶわけもなく、全くしゃべらない氷川さんから情報が引き出せるはずもなく、結局この日の晩は四人でちょっと高そうな和食料理のお店の個室でゆっくりゴハン食べて終わっちゃったのだ。
 いつか、絶対聞いてやる。






 あと、余談だけど、ミスコンは案の定、樹理ちゃんが一人勝ちだったとリナちゃんが教えてくれた。ついでに、例年になく無効票がたくさんあって、その大半に『刃朔羅の人』ってかかれてたらしい。女子校パワーってすごいよね。うん。

                              2009.06.16fin.






あとがき


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