幸せのありか 1


 いつものように出社して、いつものようにデスクに就き、いつものようにパソコンを立ち上げる。
 机に積まれた、決済のおりた書類を蹴散らして、女子社員が満面の笑みでどうぞ、とコーヒーを置いていく。甘ったるくこびるようなその声に、顔も上げずに応えて、今日のお茶汲み争奪戦は一番若い子が勝ったんだなと、どうでもいいことを考えていると、ぴこ、というまぬけな音の後、画面上に『メールが十二通あります』と表示された。
 軽くて使いづらいマウスをどうにか動かして、クリックすると受信画面が現れ、未開封のメールをチェックする。
 赤いエクスクラメーションマーク付きの至急と書かれた、支社長からのメールを開けると出社したらすぐに支社長室へ来るように、とだけ書かれていた。
 呼び出された理由が思いつかなかったけれど、出された不味いコーヒーを流し込んで、氷川哉(ひかわさい)は立ち上がった。
 
 
「失礼します」
 形ばかりドアをノックして、中からの返事を聞いて哉がドアを開けると、当の支社長もすでにデスクワークに入っている。彼は支社で一番に出社している。自分の秘書よりも早くに。当の秘書自身が『イヤになっちゃう』とこぼすくらいに早いらしい。
 応接セットにかけるように言われ、支社長のデスクの前に言われたとおり腰かける。支社長もすぐに仕事にキリをつけて、哉の前に座った。
「急に呼びたててすまなかった。本社からの辞令だ」
 そう言われて渡されたのは、メール添付らしい一枚の書類。
「………わかりました」
 やたら大きなフォントで『辞令』と記されたそれには、本日付をもって神戸支社における哉の職務解任と、同日付をもって、本社副社長の就任の決定が、発行者本社の社長名で『公印省略』の文字まで含めてあっさりと、五行、続いていた。
「火のないところに煙は立たないというが、噂は本当だったんだな」
 支社長がつぶやくように言った。哉はあいまいに笑ってから、受け取ってそのままぞんざいにたたむ。
「短い間ですが、おせわになりました」
 そう頭を下げて、支社長室を辞する。
 我ながら、芝居がかっていたとは思ったが、自分を取り立ててくれたのは支社長だ。今さっき解任された自分の肩書きが、本当に自分にふさわしかったのかどうかは、本人には客観的に判断することは出来ない。支社の人事は一部を除いて支社長に一任されている。彼の判断のなかに『もしかしたら』という仮定が含まれていたかどうかは哉にはわからない。
 大学を卒業し、一般の新入社員と同じ試験を受けて、父親とその一族が経営する会社に入った。本当は違う会社に入りたかったが、素性がばれた場合を考えて周囲から止められた。哉にしてみれば一人だちさえできれば良かったので、どうせだからばれるまで一社員でいたいという哉の希望は一応ついさっきまで叶えられていたことになる。
 最初こそ、社名と同じ苗字の若者に、もしかしたらという噂はあったが、長男は大学の卒業と同時に問答無用で副社長に任命されたのだ。次男であれ三男であれ、もしも氷川の人間だとしたら、田舎ではないにしろ、神戸支社に平社員として入ってくるわけがないというのが、他の社員の出した結論だった。
 哉が二十六の若さでこの夏、係長に昇進したことは、一部仕事の出来ない人間を除いて、ほとんどの社員が彼の努力によるものだということを理解していた。
 無口で必要以上のことは話さないけれど、仕事上のことなら必要なことだけを相手に分かりやすく伝える。笑わないけれど物腰が柔らかく、無意識に他人を優先するので社内・社外を問わず、彼に対する評価はかなり高い。
 アルコールはあまり好きではないようだが、誘われれば滅多に断らない。ただ静かに人の話を聞き、話を振られれば話題が逸れない程度の退屈しない雑学も話せる。酔いが回った人間に下ネタを振られても、顔色一つ変えずに切り返す。
 一見好人物だが、裏を返せば誰とも深く接しようとせず、常に一歩後から冷静に観察しているからこそ誰とでもソツなく付き合うことが出来るだけだ。モノであれヒトであれ、何にも興味がないのでどんなことでも突出することなく、広く浅く雑学を吸収することもできる。
 もし仮に御曹司ではなかったとしても、将来有望株の哉を、寿退社を狙う女子社員が見逃すはずはない。毎日毎日彼女らは哉の一挙一動見逃すまいと目を光らせて、どうにか哉に近づこうとしているのが鬱陶しいくらい分かったが、当の本人に全くその気がなく、あっさりと玉砕した者も少なくはない。
 街頭で渡されたポケットティッシュほどにも価値を見出さず、机に盛られた書類の山の上に哉は辞令をおく。
「あ、あの、どうぞ」
 帰ってきた哉に日本茶を持ってきたのは、朝イチでコーヒーを持ってきた者とはまた別だった。
「氷川係長?」
 顔を上げないまま、未決済の書類を取って、内容を確認する様子もなく、機械的にシャチハタの判を押していく哉に、どうしたのですかと問う声が落ちてきた。
 いつもの哉ならば、どんなに忙しくても書類にはちゃんと目を通して、判を押し、分からないところは担当に確認に行っているのに。
 瞬く間に判を押し終えて、課長決済の箱に入れるために席を立つ。盆を抱いたまま哉のデスクの横にいる女子社員に、一目もくれずに。
 風圧で、紙が一枚フロアに落ちた。
「あの、落ちま、し…たっ!!」
 書類が落ちたことに気づく様子のない哉に、彼女が拾い上げて何気なく書面を覗いた。必要以上に大きな文字で印字されているのだ、一瞥しただけでそれが何かわかってしまう。
「氷川係長っ! これ…」
 戻ってきた哉が、ああ、と書類を受け取る。
「?」
 細かく手を震わせながら、書類を掴んだまま離さない女子社員に、哉が怪訝そうな顔をする。
「っす! すいません」
 哉に見つめられて、彼女が悲鳴のような声で謝り走り去って行った。
 逃げるように遠ざかる背中を見送ってから、わりとすっきりしたデスクにまたそれを置いて、私物を入れるためのダンボールをとりに、哉は資料室へ向かった。


 課に戻ると同時に、哉のデスクに集っていた社員がクモの子を散らすように自分のデスクに逃げていく。
 課長以下自分以外全員が着席している様子に、哉がおもむろに口を開いた。
「もうご承知かとは思いますが」
 嫌味な前置きだとは分かっていた。誰かが見るだろうと辞令をそのまま置いて行ったのだから。
「本日付で本社への転勤が決定しました。短い間でしたが、おせわになりました」
 誰も何も言わなかった。ひそひそという内緒話すら聞こえてこない。
 それだけ言うと、再び自分のデスクに戻って、ダンボール箱とゴミ袋を広げ、要るものと要らないものを何も考えずに判別しておのおの突っ込んでいく。
 その作業を黙々とこなしていると、ぴこっと言う音とともに、新しいメールが入ってきた。
 差出人のアドレスはe-hikawa、ご丁寧に発信者欄は”本社社長”となっている。
 ため息をついて、メールを開封した。
 そこには、前副社長だった兄が先日の役員会で解任されたことと、同じく哉が副社長につくことが満場一致で可決したこと。兄の持っていた自社株はすべて哉に譲られること。そしてすぐに戻ってくるように、と括られていた。
 読んですぐ、フォルダ内のメールをすべて削除した。正規の終了の手続きを取らず、強引にパソコンの電源を落とす。
 私物は、文房具と、引き出しに溜めた給料明細くらいだった。ダンボールの底に転がるそれらを手近な封筒に入れ、ダンボールは畳んで部内のロッカーに突っ込んだ。ついこの間追加で作った名刺は、持っていても仕方がないので全てゴミ袋に捨ててしまう。他の重要な書類は、誰かがまた分類してくれるだろうと引出しの中に残しておく。やたら軽い荷物を小脇にはさんで、得意先に行ってきます、くらいの気軽さで、哉が席を立った。
「失礼します」
 出て行く哉を誰もが固まったまま見送った。
 その三秒後、先程までのクモの子たちが、今度は巣をつつかれたハチのごとくやかましく動きだす。
 やっぱりという意見と、追いかけようかという女子社員の悲鳴と、まさかという歎息。
 ぽつんと空いた係長席を見ながら。






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