梅雨が上がり、ほとんどの学校が夏休みに突入する祝日は、抜けるような青空が広がる土曜日。サンルームになった物干し場にシーツを広げて、樹理は一人、よし、と気合を入れた。
 今週末は久しぶりに二日続けて哉が休めることは最終確認済みだ。
 いつもカレンダー通り休める予定でも、金曜の夜に覆ることが多いので、ギリギリまで聞かずにいたのがよかったのか、前日の夕食時に、樹理から聞かなくても哉が久しぶりに土日続けて休みが取れると言っていた。
 今日こそは。と言うよりも、今日を逃したら後がない。代わりに伝えてくれる人がいないのだから、自分から言わなくては。そう心の中でつぶやいて、樹理が部屋を出たとき、家の電話が鳴った。
 いやな予感。というより、勘がよいとか悪いとかではない。仕事の呼び出し電話は携帯電話ではなく家の電話にかかってくるのだ。哉が家にいるときに家の電話が鳴るのは、ほぼ百パーセントのイコールで仕事の呼び出しと言っていい。樹理の母は、用があるときはいつも携帯電話にかけてくる。
 短い受け答えの後、哉が受話器を置いている。
「えーっと、仕事、ですか?」
「ああ、ちょっとトラブルが起こったらしい。多分、夕方には帰る。遅くなるようなら連絡するから」
「あ、はい……あ、あのっ」
 嘆息して着替える為に部屋に帰る哉の背中に、伝えたいことを伝えなくてはと声をかける。
「どうした?」
「いえ、や、なんでもないです」
 足を止めて振り向いた哉の顔を見て、言おうとこめた気合がしゅーっと音を立てて抜けていった。
 慌てて手を振る樹理に少しだけ怪訝そうな顔をしたものの、それ以上哉も聞くことはなく、スーツに着替えていつも通り見送る樹理にいつも通り一言だけ返して、哉は家を出た。
 パタンと閉じた玄関ドアを見て、ため息を一つ。
「ま、いいや。休日出勤は大抵いつもより帰り早いし」
 誰に言うともなくつぶやいてから、ついでに玄関を掃除して、ぱんぱんと手を払う。
 そして今日は、いつも掃除が行き届かないところをガンガン磨こうと決めて、なんとなく腕まくりをしてみた。
 

 何も考えずに……とまではいかないが、とにかくテレビの裏とか棚の上とか、普段目が届かないところを拭き終わり、キッチンの棚の中を整理しているとキッチンカウンターの上で充電していた樹理の携帯電話が軽やかなメロディを奏でだした。
 携帯電話というのは、出る前に誰からか確認できるのがいい。開くと全く知らない番号からで、少し躊躇した後、樹理は通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『もしもし、樹理ちゃん? 私わたし、実冴お姉さまだよー』
「……」
『よかったー 出てくれて。今日ヒマ? 今ねぇ 理右湖んちにきてて、これから買い物に行こうって。よかったら樹理ちゃんも一緒に行かない? 迎えに行くよー っていうか、ヤダって言われても行くからね』
「え、あの、私も行っていいんですか?」
『いや、むしろ来てくれないと困るから』
 なにがどうして困るんだろう。
『じゃああと二十分くらいしたらそっちつくから、支度しといてねー』
 有無を言わさぬ勢いでそう言って、樹理の返事も聞かずに電話が切れてしまった。
「支度? 支度って……あああああ、何着て行こうっ!? 頭あたまっ 頭直さないとっ 日焼け止めもっ」
 掃除用の袖つきエプロンをはずして、埃除けにかぶっていたバンダナを取る。とりあえず櫛を通しただけで軽く団子に縛った髪を解いて洗面台の前へ。鏡の中の自分としばらくにらめっこして、結局横に流す三つ編みにし、日焼け止めを塗る。もともと色が白いので、少しのつもりでも外に出るとすぐに赤くなってしまうのだ。黒くならずに引いてしまうけれど。
 和室に駆け込んでクロゼットを開けてノースリーブのワンピースを出す。ゴールデンウイークに哉に連れて行かれた店から、今月の初めにダイレクトメールが届いた。いや、ダイレクトメールというより、カタログだった。買う買わないは置いておいて、かわいい服を見るのは楽しいので哉が帰ってくるまでの暇つぶしにパラパラとめくって、いいなぁと思うものが載ったページを後からまたじっくり見ようと折っていたのがいけなかったのだ、多分。
 樹理のクローゼットにはまた服が増え、シューズクローゼットはひと棚分靴が増えた。増殖具合が低いのは、さすがに黙って注文されたわけではないからだが、なんだかんだでなし崩しのように樹理が予定していた枚数の二乗分くらいになっていたのだが。
 薄い水色の膝丈のワンピースにレースの半そでのボレロ。カバンも買ってもらったばかりの同系色の麦わら編みのもので、靴は……見てから決めよう。
 カバンにいつも持ち歩くものが入っているインナーバッグと携帯電話、財布を突っ込んで玄関横のシューズクローゼットから結局自宅から持ってきたミュールを引っ張り出す。買い物なら歩くだろう。履きなれないものより、慣れたものの方がいい。
 あわただしく支度を整えて、電気の消し忘れを律儀に指差し点検して、樹理は家を出た。


 マンションの前でしばらく待っていると、白いワンボックスカーがウインカーを出して減速し、樹理の前で止まった。スライドドアが開いて、中からぴょんと桜が飛び出してくる。
「樹理ちゃんっ!! 久しぶりーっ!」
「桜ちゃん久しぶり。背が伸びた?」
「うん、伸びてるよー ぐんぐん伸びてるよ」
 ぎゅーっとしがみついた頭が背伸びなしで樹理の肩に乗っている。乗って乗ってと車に押し込まれた。運転席に実冴、助手席に理右湖、三列シートの後ろには逢と桜ともう一人、知らない男の子がちょこんと座っている。
「急にごめんね。忙しかった?」
「いえ。氷川さんも仕事だし、掃除してました」
 バックミラーを覗いて鏡越しに樹理をちらりと見た後、後方確認をして、実冴が車を出す。
「掃除!? ああ、アレは一番苦手だわ」
「ってか、お母さん掃除しないしねー」
「いや、料理やるって決意したのさえ私はびっくりだったもん。あの実冴様が料理っ!? って」
「失礼ねぇ 私はやればできるのよ。やらないだけで」
「樹理ちゃんはやれるしできる人なのね、家事。私はできないなりになんとかごまかしてる人だけど」
 後ろを向いた理右湖に桜がお母さんはごまかしすぎだよと苦笑する。
「それくらいしかできないので……」
「いやいや、それだけでもできたら十分十分。ま、人間必要に迫られたら何とかなるもんみたいだけどね」
「あら、それって私のことかしら?」
「いいえぇ ワタクシのことでございましてよ」
 大きな車なので、運転席と助手席の間は楽に通れるくらい広く開いている。その隙間をはさんで二人、おほほほほほほと意味深に笑っている。
「あ、樹理ちゃん、後ろにいるのね、私の息子。逢の双子のお兄ちゃんで慶って言うの。今日は女ばっかりでお買い物だからついてきても楽しくないわよって言ったのについてきたのよ」
 樹理が後ろを向くと、慶がにっこり笑った。椿を間に挟んでいるが、確かに逢とよく似ている。
「だって、この前もその前も僕だけ除け者だったんだよー? 夏清ちゃんだけじゃなくて礼良君までかわいかったとか言ってるくらいの噂の樹理ちゃんに会ってないの僕だけじゃん」
「公ちゃんもでしょ」
「お父さんは置いといて」
「置いとくのか」
 実冴の突っ込みに身を乗り出して、二列目のヘッドレストに腕を絡ませてあごを乗せた慶が唇を尖らせる。
「それにお父さんと留守番すると絶対インスタントラーメンなんだもん」
「しょうがないよ慶ちゃん。それお父さんの好物だけどお母さんがいたら絶対食べさせてもらえないんだもん。一応お母さんにバレないように気を使ってるつもりみたいだし」
「バレバレだけどね」
 彼らの父親は哉の兄ということだ。樹理は会ったことはないが携帯電話に保存された写真は実冴に見せてもらったことがある。琉伊によく似ていて、びっくりするくらい男前だった。あの人がインスタントラーメンを食べている図というのは、ちょっと想像し難い。
「ウチは土曜日のお昼はいっつもラーメンだよ。今日もお出かけじゃなかったらラーメンだった」
 シートに正座するようにして体ごと三列目シートのほうへ向いた桜がラーメンって誰が作ってもおいしいからいいじゃないと、うんざりしたような顔の慶に言うと、隣の椿が笑いながら追加する。
「そうそう。だからきっと速人くんもラーメンだよ、今日」
「わかんないわよぅ 一人で贅沢してるかも」
 理右湖が顔を後ろに向けて楽しそうに混ぜ返す。
「ないない。速人くんって食べ物にこだわらないもん。食えておなか痛くならなかったらいいみたいな。私らがかなりビミョウだなーって言う感じの味付けのお母さんの料理、フツーの顔で食べるし。それに結構貧乏性だし。絶対ラーメンだよ」
「そうそう。だって中学の頃から土・日のお昼はラーメン作って食べてたって言ってたもんね。寮、休みの日はお昼ご飯でないからって」
「違うよ、速人くんは作ってないって。哉くんが作ったの横取りしてたんだよ。礼良くんといっしょに。哉くんまじめに三分待つからそれまでに取って食べちゃえば文句言われないって」
「それ聞いて、哉くんって待ってる間、正座してそうって言ったらしてたって」
「……それって、作るって言うか、湯を注ぐ、だけ?」
 想像したのかケタケタと笑っている四人に樹理が聞くとそういえばそうだねーと笑いすぎてひいひい言いながらもまだ笑っている。確かに、ちょっとかわいいかもしれない。
「そうよ、あの寮、給湯はあったけど学生が入れる調理場はなかったから。ま、男ばっかりだからあっても使うやついなかっただろうけど」
「見てきたように言うわね」
「見たもーん。隅から隅まで」
「アンタ……寮まで入り込んでたの?」
「一回だけよ、さすがに」
「男子寮でしょうが……」
「男が女子寮に入ったら問題だけど逆なら別にかまわないじゃない」
 あきれたようにつぶやいた理右湖にけろっと実冴が答える。
「いいなー お母さんどうやって?」
「企業秘密デス」
「実冴さん企業秘密多すぎ」
「秘密はいい女の条件よ。ただしここぞって時は情報のチラ見せも必要よ」
 聞いた桜ではなくて樹理を見て、実冴がにっこり笑った。
 その後はそれぞれの学校の話でもりあがり、服の話題のときは、理右湖が思いのほか桜の成長が早いことを嘆いていた。
 車の中は話題と笑いが途切れることがなく、いまいち乗り切れていなかった樹理も自然に笑って相槌が打てるようになり、気がついたら目的地だったらしいとても有名な百貨店の駐車場ゲートをくぐっていたが、すでに一時間近く経っていた。
 土曜ということもあるのか、駐車場はほぼいっぱいだ。どうやって車を止めるのだろうと思っていたら、駐車場最上階の入り口付近で黒いスーツの男性が手を振っている。何の躊躇もなくその誘導にしたがって、実冴が車を止める。
「いらっしゃいませ氷川様。お待ちしておりました」
 ぞろぞろと車から降りると、四十代くらいのその男性が最敬礼で実冴に頭を下げている。
「ごめんね急に。早速だけど案内してもらえる?」
 謝っているが態度は偉そうだ。何が入っているのか大きな白い紙袋を渡している。
「あの人は?」
「お母さん担当の外商の人。基本ほしいもの家に持ってきてくれるのが仕事だけど、こうやって来たときもいつもついてくれるよ。車を止めるとこも確保してくれるし」
 誘われるままエレベータの前まで歩きながら近くにいた逢に小さな声で尋ねるとこともなげにさらりと返された。
 まもなくついたエレベータで二階分降りる。みんな慣れた様子で男性について歩いていくが、何度かここを訪れたことのある樹理も、この階は来た事がない。というか、寝具などがメインの階に用がなかった。
「下のものもこちらに運ばせましたので、どうぞごゆっくりご覧になってください」
 何を買うのだろうと思いながらついていくと、奥の一角が呉服売り場であることがわかった。ますますご縁のない売り場だ。こんな場所があったことさえ樹理は知らなかった。
 きれいな着物や帯がずらずらとかけられている。時代劇の呉服屋のように、丸められた反物も棚の中にたくさん置かれている。
「着物買うんですか?」
「着物は売るほどあるから今のところ買う予定はないわよ。今日はこっち」
 そう言って実冴が指差した先は、仕立て上がりの浴衣がかかった棚だ。桜と椿、そして逢がすでにめぼしいものを取り出してお互い首元にあてている。
「あ、これかわいい、樹理ちゃん来てー」
 水色の生地にピンクと紫のなでしこの柄の浴衣を持って桜が呼んでいる。
「こっちは? かわいいと思うんだけど」
 逢が持っているのは薄い黄色地に薄緑で月とウサギがプリントされている。
「ああ、これ私ほしい」
 赤い地に大小の水玉が白く抜かれた幾何学模様の浴衣を持った椿に、理右湖がまだその柄はアンタには早いとその手から取って棚に返す。きゃあきゃあと自分の着たい柄行を品定めを始めた娘たちに、実冴があきれたように声をかけた。
「あんたたち、今日のメインは樹理ちゃんの選びに来たんでしょうが」
「え? 私の?」
 娘たちを苦笑しながら見ていた理右湖がつぶやいた言葉に、樹理が不思議そうに理右湖を見て問い返す。樹理の顔を見て、おどけたようにしまった、口が滑った……と口元を押さえて笑って実冴に視線を移す。
「そ。お誕生日でしょ、今日」
 理右湖に目を向けられて、実冴が仕方ないかと笑った。
「なんで、それを?」
「さあ? なんででしょう?」
 樹理がびっくりして聞き返すのを質問で返す。その横で理右湖がくすくす笑っている。
「ごめんごめん。ほら、前に樹理ちゃんウチに来たことあったでしょう? あの時保険請求するのにおうちに電話かけて保険証のコピーをファックスで送ってもらったのよ。だから知ってたの、樹理ちゃんの誕生日」
「哉くんに言ってないでしょう? 今日誕生日だって。哉くんならそこで仕事をとらないだろうし。だからね、まあ、どうせだから驚かせちゃおうかと。樹理ちゃんって実は華やかなのが似合うと思うのよ。背はそんなに高くないけど顔が負けてないから大柄でも大丈夫」
「そうそう、こっちは? あ、これプリントじゃなくて織りだ。いいものねぇ」
 細かいたて皺が加工された、バックが白と藤色で大きな格子柄になり、袖と裾に一体何色の糸が使われているかわからないくらい色合い細かく赤系統やピンク系統の糸でたくさんの薔薇が咲き乱れる様子が浮き上がるように織られている。
「いいわねぇ じゃあ帯はこんな感じかな。色あわせに着てみたら?」
 浴衣と同じく薔薇の織り模様が浮いたピンク地と紫地がリバーシブルになった半幅帯と、和装用の下着を差し出されて、とっさに受け取ってしまう。
「は?」
「私も一つ買おうかなぁ」
「お母さん、私コレがいい」
「かわいいじゃない。いいわよ。逢も着る?」
「うん。行こう樹理ちゃん、着付けあっちだよ」
 落ち着いた色と柄が揃った棚の浴衣に手をかけていた実冴のところに、先ほどとは違う浴衣とちゃっかりと帯まで持って逢が現れ、有無を言わせず手を取られて奥へひっぱって連れて行かれる。
「え? ええっ? あの」
「だーいじょうぶ。桜ちゃんや椿ちゃんたちも買ってもらって着るから。樹理ちゃんだけじゃないよ」
 一段高くなった畳の前でミュールを脱いでふすまの奥へ進むと、ちょっとした宴会くらいできそうな広さの和室になっていた。部屋の端に先ほど実冴が男性に渡していた紙袋が置かれており、逢がごそごそと中を漁っている。
 わらわらと制服姿の店員がやってきて、ビニール袋に入った和装用下着をてきぱき取り出している。
「できればブラははずしてくださいね。これ羽織ってはずせば私たちにはみえませんよ。大丈夫ですから」
 年配の女性がいかにも慣れたふうに微笑んでそう言って、樹理に背を向け、浴衣や帯からタグをはずしている。
「ほらほらっ 観念して着替えてっ 早くしないと二人が追加されてやかましくなるよぅ」
 そう言う逢は服の上から浴衣を羽織っている。
「あの、逢ちゃんも着るんじゃないの?」
「私のは肩とかちょっと上げをしてもらわなくちゃならないからあわせてからなの。あ、私もあっち向いてるね」
「いや、そう言うわけじゃ……」
 くるりと背を向けてしまった逢に店員が何か話しかけながら肩の生地をつまんでピンで留めている。ボレロとワンピースを脱いで言われたとおり白い木綿でできた前あわせの下着を羽織り、ブラをはずす。
「これでいいですか?」
「はいはい、結構ですよ」
 慣れた手つきで腰や鎖骨の横に脱脂綿をちぎりながらくっつけて、腰の部分はさらにうすでの白いタオルで覆う。
「若いお嬢さんはスタイルがよくてたくさん補正しなくちゃいけないから」
 次に幅が十五センチないくらいの薄い帯のようなもので、まず胸を締めて背中でクロスさせるように次は腰を締める。
「これは伊達締め。補正とこの伊達締めををしておくと着崩れも少なくなるし、腰紐が直接食い込まないから楽ですよ。浴衣もそうですけれど、着物は寸胴なくらいがきれいにみえますからね」
 他の店員が襟の中に白い襟芯を入れた浴衣を持って樹理の後ろに回った。促されるとおり袖を通すと、前にいた女性が裾を合わせてあっという間に紐で結んでキレイにおはしおりを整える。また今度は先ほどよりは少し幅の狭い薄い帯のようなもので一度締めて余分な皺を取り、見る間に帯まで結んでしまう。浴衣の半幅帯なのに、どこから出したものなのか白い帯締めまで結ばれた。鏡で後ろを見ると、複雑な花のような形になっていた。浴衣の帯と言えば蝶のような形に結ぶものと思っていた。
「すごい。こんなキレイなのにあっという間」
「そりゃあもう、プロですからねぇ でもやっぱり、若いお嬢さんに着てもらうのが楽しくていいですねぇ 今度はお着物もどうですか? 似合いそうないい柄のものがたくさんございますから是非またどうぞ」
 着物までアピールするのは確かにプロだなぁと曖昧に笑うだけにとどめて、出ようとふすまを開けると、桜と椿だけでなく実冴と理右湖まで着付け室に入ってきた。
「ちょっと待っててね あ、慶は本屋に行っちゃったからいないのよ。中にいる? あ、そうだ。そのバッグかわいいしまぁ何とか合わないわけじゃないけど浴衣用の小物入れのほうが雰囲気出るよね。それから下駄も、好きなの選んでて」
 濃紺の浴衣を手に実冴がひらひらと手を振りながら中に消えた。
 好きなのをといわれてもどうすればいいのだろうと迷っている樹理を、先ほどの外商員の男性が小物を置いたエリアに案内してくれる。どうしたものかと選びきれないでいると、先に着替えてやってきたのは子供用の上げが必要ない桜だった。続いて実冴と理右湖も出てくる。二人で色違いのお揃いだ。
「コレかわいいよね。浴衣と合うし」
「桜ちゃんはどれにするの?」
「私は持ってきてるからいらないの。ほら下駄も。お母さんも多分最初から自分のも買うつもりだったんだよ。だからほら、持ってるカバンも履いてるのも和洋いけそうなヤツでしょ?」
 きっとあの紙袋に入っていたのだろう、桜の足もとはすでに下駄だ。
「言ってくれたらもうちょっと、私もカバンくらい考えたのに」
 浴衣を持ってきていないので、さすがに下駄はないがバッグはもう少し和風テイストのものも持っている。
「いいのいいの。実冴さんのオゴリだから」
 結局桜に勧められたバッグと、最近は下駄ではなくこういうのも流行ですよと並べられた花柄の布がアクリルで固められた飾りのついたミュールを選んだ。理由は下駄より安かったからだ。どさくさにまぎれて浴衣や帯の値段を見ていない。二人が選んだ浴衣もかなり高級そうなものだし、その二人が『いいもの』と断言したこの浴衣が安いわけがないとは思うのだが。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。ホントは誂えたらよかったんだけどね。まあ、今はプレタでもいいもの揃ってるから許して。じゃあ順に下に降りようか。途中で慶も拾わなくちゃ」
 え? まだ買うの? と言う顔をした樹理に、みんな決定事項ですよという顔でにやりと笑う。
「せっかくきたんだもん、ぐるっと回らなきゃね」


 ぐるぐると外商員の案内で買い物をして、途中の階の本屋で立ち読みをしていた慶を拾って一旦最上階のレストランモールで食事をして、再び一階までぐるぐるお買い物をする実冴について回る。あれ、これというと外商員がそれらを店員に預ける。全くお金は使わない。最後の仕上げといいながら、高級ブランドの化粧品売り場でメイクまでしてもらって、髪もアップにまとめてもらった。
「デパ地下食い倒れツアーはまた今度ってコトで、次いくよー」
 一体どれくらい買い物をしたのか知れないが、外商員ににこやかにまたどうぞご来店くださいと見送られ上機嫌な実冴の運転で浴衣のまままたどこかへ向かうらしい。
「私、もうそろそろ帰らないと。氷川さんが帰ってくるし……」
 楽しい時間は矢のように過ぎる。すでに五時を過ぎている。日が長いのでまだまだ明るいが、哉が夕方といっていたので、おそらく七時までには帰ってくるだろう。
「なぁに? 哉くん? だぁいじょうぶ。今日は遅くなるよ。ええっと、多分」
 登録済みだったらしい次の行き先ルートをナビが伝える。どうしてそんなことまでと聞き返そうとした樹理の電話が鳴った。誰からか見なくても、このメロディは哉からだ。
「もしもし」
『ああ、どこか出かけてるのか?』
「ハイ。実冴さんや理右湖さんと一緒です」
『……そうか。なかなか向こうから連絡が返ってこない。帰るのは少し遅れそうだ。また電話する』
「そうですか……わかりました」
 じゃあと短い電話は切れた。
「樹理ちゃん……まだ敬語なの……?」
 やり取りを聞いていた桜があきれたように言う。
「なんか、もうクセで」
「なーんか。樹理ちゃんって結婚しても哉くんのこと苗字で呼んでそう」
 大げさに肩をすくめてやれやれと桜がため息をつく。
 そう言われても、さん付けもなんか微妙だし、年上目上の人には敬語でとしつけられて育った樹理は、十歳近く年上の哉を彼女たちのようにくん付けで呼べない。最近こそ慣れてきたが、最初はちょっと引き気味だった。
「いいんじゃないの、好きなように呼べば」
「実冴は好きに呼びすぎでしょう」
 年下とは言え公のことをちゃん付けで呼ぶ実冴に桜と同じような口調で理右湖がつぶやく。
「それこそ今更だもん。初期設定は消去できないのよ、ね、樹理ちゃん。ってなわけで樹理ちゃんも次行くよー」
 なにが「てなわけ」なのかはわからないが、うやむやのうちに車は次の目的地目指して走り続けた。
 やっぱりわいわいとみんなよくこれだけしゃべることができると感心するくらいおしゃべりが止まらなかった。
 また小一時間走り続けて、空がうっすらと青を濃くし、地平がオレンジ色になってきた頃、右左道なりと進行方向を伝えていたナビが『目的地近くです』と連呼してその義務を放棄した。
 周りは見上げても見上げきれないような高いビジネスビルが聳え立っている。休日のビジネス街なのに、車が進んだり止まったりの渋滞だ。
「やっぱりもうちょっと早めに来たほうがよかったかしら」
「あんまり早くても待ち時間長くてヒマだって言ったの自分でしょう」
「わかってるわよ。あ、こっちだ」
 ウインカーを出して左折する。どう見ても一般道ではなく、地下の駐車場へ入るための導入路だ。段差はないが、急に下り坂になったゆれをかすかに感じただけで、車はするするとひときわ大きなビルの地下に入っていく。もちろん誰でも入れるわけではなく、出入り口には警備員がいて、有料駐車場によくあるバーが進入を拒むように横たわっていた。
 手馴れた様子でバイザーのスリットにはさんでいた無地のカードを券売機のような機械に差し込む。軽い電子音がしてカードが吐き出され、バーが上がる。
「お、よかった。カード生きてて」
「あの、ここ、どこですか? っていうか、なにかあるんですか?」
 車も多かったが歩いている人も多かった。
「ココは氷川の本社。で、今日は近くの河口で花火が上がるの」
「はっ!? ええっ!? あの、本社って。ええええええっ!?」
 外の混雑が嘘のようにガラガラに空いた駐車場の一角に車を止めて降りながら実冴がこともなげに答えた。
「一般の人が入っていいんですか?」
「今日だけはね。なんていうの? 家族サービスの日って言うか、子供や友達連れてきていいのよ。で、子供に自分のデスクみせたりもできるのね。お父さんはココでしごとしてるんだーみたいな。花火大会のスポンサーだしね、氷川が。九階の食堂が結構お祭り仕様になってるのよ。ちなみにさっきのカードは公ちゃんの。使えなかったらどうしようかと思ったけどさすがに勝手に作ったコピーが残ってるとは思わなかったみたいね」
 甘い甘いと邪悪に笑いながら、一個連帯引き連れてエレベータでロビーに昇ると、実冴が言った通りで子供の手を引いた男性など、親子連れが玄関から出入りしている。浴衣を着た女性も少なくない。
「んじゃ、私たち先に九階に行ってるから」
「あいよー すぐ行く」
 実冴につられて樹理は降りたが、残りの五人はそのままエレベータから降りずに、ロビーから乗ってきたほかの人たちと一緒に上に上がって行った。
「ちょっとついてきて」
 そう言って、エレベータの正面にすえられた受付カウンタへ向かう実冴にくっついて歩く。その中の三人の女性も普段の制服ではなく浴衣姿だ。何の迷いもない足取りでカウンタの前に立った実冴に端の一人が気づいて、ようこそとにっこり笑って迎えてくれる。
「副社長の氷川哉、呼んでくれる?」
 何も置かれていないカウンタにひじをつけて体を寄りかけ、受付嬢に負けないくらいにっこり微笑んでそう告げる。言われた受付嬢が笑顔のまま固まった。その向こうにいる二人も、今何を言われたかわからないというような顔を向けている。
「ひ、か、わ、さ、い。知ってんでしょ、あなたも。呼んで」
「は……あの、どちら様で……あ、失礼ですがお名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「実冴様」
 あごを上げて態度も声も上から落とすようにそう言う実冴に戸惑うような笑顔を貼り付けたまま、端の受付嬢が真ん中の一番年上らしい受付嬢に目配せしている。その彼女が何か思い出したような顔をしてどこかへ電話を掛けている。
「その、しばらくお待ちください」
 待たせるのは受話器の向こうの人物らしい。繋がったままの受話器を実冴に差し出している。
「あら、お久しぶりね、三島部長。ご昇進おめでとう。お元気そうで何よりねぇ ええ、わかったわ。でもとっととこないといなくなっちゃうわよ」
 笑いを含んだ語尾の余韻そのままに、受話器を受付嬢に返す。本当にすぐ、一分とかからずに電話の相手はロビーに現れた。かなりさびしい感じの胡麻塩頭にトドのような体。エレベータのドアの向こうから、その巨体をねじ込むようにしながらでてきて、贅肉を揺らしながら、おそらく全速力で走っているのだろうが、いかんせんその体型のせいか、その動きはよたよた鈍い。その動きはまさに陸(おか)に上げられて芸を強要されている海獣さながらだ。
「こ、これはこれは、実冴様。いらっしゃいませ」
 手をこすり合わせて低姿勢を装っているが、引きつった笑顔を張り付かせた顔にはどうやってアンタが入ってきたんだ、なんでここにいるのだと書いてある。ありありと。
「また少し体格がよろしくなったんじゃなくて? 苦労の種が消えて楽になったのかしら」
「いえいえ、こう見えてちょっとばかりやせましたよ。今日は花火ですか?」
「そ。ココから見るのが一番楽だからね。私らは今年は九階でいいんだけど、彼女は上にお願いできないかしら」
 彼女、と言いながら、樹理の背中を押す。
「は? あの、失礼ですがこちらのお嬢様は……?」
 腰を折っているせいか、なんとなく上目遣いで三島が樹理を見る。
「哉くんの彼女。樹理ちゃん」
 さらっと言い放った実冴に、三島が口をあけたままぽかんと樹理を見ている。後ろで状況をちらちらと窺っていた受付嬢たちも唖然とした顔で見つめている。ただし、樹理も彼らに負けないくらいびっくりした顔をしていたが。
「ちょっとアンタたち。呆けてないでこんどこそ上に連絡してよね」
「はっ はいっ! 少々お待ちくださいっ!!」


「はぁ?」
 受話器を取り落としそうになった上にめったにかけない副社長秘書室の番号を間違えたらしく小さく悲鳴を上げながら、受付嬢たちがわたわたとかけた内線をとったのは、まんじりともせず他の秘書たちと海外からの電話を待っていた瀬崎だった。
 社内はまるでお祭り騒ぎだが、この部屋は違った。とにかく向こうの状況を確認できる……もう大丈夫だと確信できる内容の電話がかかってこないことには、打つ手を打ちつくした現在何もすることがないのだが、部屋を出て九階でやっている模擬店のような屋台へ出かけることもままならない。
 電話の着信にピリピリしていた彼は、なる前、着信を知らせる赤いランプがついた瞬間受話器を上げて、そのすばやさにちょっと戸惑った間の後聞こえてきた受付ですという相手の言葉に一度がっくり肩を落とし、すぐさまぴしぃっと体を伸ばして素っ頓狂な声を上げて手持ち無沙汰にファイルを並べなおしていたほかの女性秘書二人をびっくりさせた。
「え? 本当に? ハイ、あの、今すぐ降ります。ハイっ!」
「何? 瀬崎さんどうかしたんですか?」
「ええと、あの、ちょっと降ります。すぐもどるんでっ」
 受話器を置くのももどかしげに席を立った瀬崎に、ファイルを抱えたままの若い方の秘書、鈴谷が問いかけるが、明らかに慌てた様子で詳しいことは何も言わずに部屋をでていく。
 役員専用のエレベータは一基だが、社員用のエレベータも上で呼べば無人のものが優先的に昇って来る。すぐにやってきたエレベータに乗り込んで、解除キーを打ち込んでロビー直通に切り替える。そうすればロビーに降りて自動的に設定がもどるまで誰も途中で乗ることはできなくなる。
「あ、副社長に言うの忘れたっ でもカタリだったらやばいもんなぁ うん、確認してからでいいや」
 一気に下降する箱の中で、自分の落ち度に気づき、そして行動を肯定する。ゴールデンウイークの一件後、瞬く間に樹理の名前は社内を駆け巡った。名前を知らない社員はいない、と思う。今日と言う日に便乗して誰かが樹理をかたっている可能性もなくはない。
「いや、でも本物だったらどうしよう……」
 つぶやきは、軽い電子音に重なった。


 先ほど三島を待ったときよりもさらに長かったと思うが、せいぜい二分ほどだ。事の顛末を見たいのか、用はないから行っていいわよと実冴に言われたにもかかわらず、所在無げにまだいる三島がゆらゆら体を揺すっている。
 どのエレベータも昇り降りとも結構な人が乗っているのに、どうもたった一人だった瀬崎がエレベータから飛び出してきた。一度自分の足で躓いてこけかけてその勢いもつけて走ってやってくる。
「うわあ、どうしよう、本物の樹理さんだ」
「あ、ご無沙汰しております」
 深々と瀬崎にお辞儀をする樹理に、慌てて瀬崎も頭を下げる。
「あの、どうしてここに? もしかして副社長に呼ばれたとか?」
「いえ、呼ばれたのではなくて……なんていうかその……」
「だましうちね」
「そうですね……じゃなくて。連れてきてもらったんです」
 後ろでぼそりとつぶやいた実冴に同意しかけて、樹理が慌てて言い直す。
「あはははは。んじゃ 樹理ちゃんまたねぇ 哉くんによろしく言っといて。三島、ついでだから案内しなさい」
 片手を上げた実冴が逃げそびれた三島を従えてエレベータのほうへ去っていく。
「あ、ご案内します。こっちです」
 乗り込んだエレベータの扉が閉まるまで手を振っていた実冴と、その隣で苦虫を潰したような顔をしている三島を見送って、なんだか手間を取らせてしまった受付にも一礼して先に行く瀬崎を追って樹理はその場を後にしたので、その後受付嬢がつぶやいた言葉は樹理に届かなかった。
「なにあれ、反則じゃない。若いし。学生?」
「噂って尾ひれつくから実際たいしたことないんじゃないって思ってたけど……」
「はいはい。いいから笑顔笑顔。受付がシケた顔してちゃだめでしょう」
 瀬崎と何か会話を交わしながら役員用のエレベータの到着を待っている樹理をちらちらと眺めながらため息混じりに上を仰ぐ後輩たちを、真ん中の受付嬢がたしなめるように笑いながら言った。
 
「いや、よく入れましたね。一応入り口で招待券をだすか社員と一緒じゃないとダメなのに」
 役員用のエレベータは、降りるのは自由なのでどの階にもドアはあるが、地下とロビーと役員専用階以外は途中十階刻みにしか乗り込めない。エレベータを止める為のカードスロットがないのだ。カードを差し込むのがボタンを押すのと同義だ。
 社員用とは少し違う内装のエレベータ内で瀬崎が偽りなく感心した様子でつぶやく。
「地下に車で入ったんです」
「あああ。なるほど。で、あの人誰ですか?」
「え? 瀬崎さんはご存じないんですか? 氷川さんのお兄さんの奥様です……っていうか、だった人、って言うか」
「えっ? あの人がっ!?」
「ハイ」
「うわあ。実物は初めてです。噂はいろいろ聞いたことがありますよ。なんか炸裂してるって言うか。去年とか、夜中にヘリで乗り付ける騒動起こしてすごかったみたいですよ」
 ヘリ。とは、ヘリコプターだろう。これだけ高いビルなら、屋上にヘリポートの一つや二つありそうだ。
「すごいなぁ 噂にたがわないって言うか。あの横柄なのが取り得みたいな三島部長がヘコヘコしてるのも初めて見ましたよ。あ、ココです」
 エレベータを降りて廊下を少し歩き、大きなドアを開ける。
「まず秘書室があって、その向こうが副社長の執務室です」
 説明しながら入った瀬崎に、どこいってたのと中から鈴谷が抗議する。
「さっき電話ありましたよ。たまたま室長がいてくれたからよかったけど、瀬崎さん勝手に抜けたのばれたらしかられますよ。副社長なんか、お祭り興味ないみたいだから、帰りたいのガマンしてるっぽかったのに……あれ?」
 畳み掛けるようにそう言った鈴谷が、瀬崎の影に立っていた樹理に気づいて言葉を切り、瀬崎を見上げて表情だけで誰を連れてきたのかと問いかける。
「えーっと、こちらは僕と同じ副社長付きの秘書の鈴谷さん、奥にいるのが同じく増本さんです。で、こちらが……」
 室内がよく見えるよう体をずらして、樹理に中の人間を紹介する。
「こんばんは。はじめまして、行野樹理です。お仕事中にすいません」
 そして、瀬崎に紹介される前に自己紹介して頭を下げた樹理を、たっぷり三秒凝視して、鈴谷が叫びかけるのを後ろから増本が止める。
「こちらこそ初めまして。副社長の秘書をしております、増本でございます。お噂はかねがねそちらの瀬崎さんから聞いておりましたの。お会いできてうれしいですわ」
 一分の隙もなく完璧にメイクされ、きっちりと塗られた口紅もつややかな唇を笑みの形に緩め、青いマスカラがついた目を細めて増本が歩み寄り、礼をする。
「あ、同じく秘書の鈴谷ですっ 初対面でこんなお願いするのはとっても失礼だとは思うんですけどっ その、写真、いいですか? えと、あの、一緒に」
 地味なスーツのポケットから小さなデジカメを取り出し、じろりと増本ににらまれてもひるむことなく鈴谷がにこりと笑って首を傾げている。
「いい、ですけど。いつも持ってらっしゃるんですか? カメラ」
「ハイ。趣味で。あ、大丈夫ですよ、勝手にネットとかに載せたりはしませんから。すみません増本さん、シャッターお願いできますか? 押したら写ります」
 お願いと言いながら、決定事項のように鈴谷は増本にデジカメを手渡す。
「ハイハイ。じゃあどうぞ、並んで。あ、ダメね、そこだと後ろにファイルが入るからドアの方行って。何枚取るの? 二枚でいい?」
 言いながらシャッターを切っているのか、何度かフラッシュが瞬く。写した写真をすぐに確認して、うれしそうに笑いながら鈴谷が樹理と増本に礼を言っていると、奥のドアが突然開けられた。
「おや」
 奥のドアから出てきた篠田がその場にいた樹理を見て立ち止まる。
「こんばんは。この間はありがとうございました」
「いえ。楽しんでいただけましたか?」
「はい、とても」
 にっこりと笑う樹理につられたのか、篠田も少し笑う。
「奥へどうぞ。副社長、お客様です」
 軽いノックをして、返事を待たずに篠田がドアを開けて樹理を促した。


 小さくお辞儀をしてから、開けられたドアを通ると、手前に応接セットが置かれ、その奥に大きな机と両方の壁にキャビネットが置かれ、そのさらに奥は大きな窓ガラスが暮れかけた街と瞬きだした夜景を映していた。
「すみません、勝手に来てしまって」
 後ろで静かにドアが閉まる音を聞きながら、さすがにびっくりした顔をしている哉に先に謝った。
「……一体どうやって……?」
 すぐに立ち直ったらしい哉に、今までの状況をかいつまんで説明すると、かなりわざとらしく大きなため息をついた。
「そうか。まあ、あの人ならやりかねないな。それで、その格好は?」
「……あ、浴衣は実冴さんがプレゼントだって買ってくれて。でもまさか花火大会があるとか、そう言うのは本当に知らなくて私もびっくりしていると言うか……その……へん、ですか?」
 説明している間じーっと、殆ど瞬きもせずに哉に見つめられ続けた樹理のことばが尻すぼみに小さくなっていく。
「いや」
 立ち尽くす樹理のところにすたすたと歩み寄って、哉がその浴衣の袖を手に取る。その手触りを確かめて小さなため息をついた。
「俺もそんなに詳しくはないが、かなり値打ちものだろう」
「……すみません、値段、確認できませんでした……」
「それはかまわない。でもどうして。祭りにつれてくるだけでこんなものを」
「えーっと、それは……その。あの……」
 明らかに挙動不審な様子でおどおどしたあと、覚悟を決めたように息を一度大きく吸って、吐く。
「……実は、その、私、誕生日……なんです、今日。でもなんか、自分で言うのはどうにもなんていうか……なにか催促してるみたいで言いにくくて……」
 覚悟を決めた割にはまたしどろもどろになって、徐々に声が小さくなる。最後は本当にか細い声だったが、室内が静かなこともあってそれでも哉には聞こえた。
「今朝何か言いかけてやめてたのはそのこと?」
「はい……ごめんなさい。本当は少し前から言おうかどうしようか迷ってて。誕生日だからとか、そう言うので一緒にいてくださいって言うのはさすがにわがままかなとか、でも先に言っておけば休んでくれるかなとか、約束してたのにやっぱり仕事が入っちゃったら悲しいなぁとか、いろいろ考えちゃって。そのうちとうとう今日になってしまって。でも祝日だし氷川さんお休みとれそうだから言おうって思ったらお仕事の電話がかかってきちゃって、もう仕事なら仕方ないなぁって。そう思ってもやっぱり寂しい気持ちになっちゃって、言っておけばよかったって後悔したりもしたけど」
 伏目がちにゆっくりと、言葉を選ぶようにそう言って、樹理が顔を上げる。
「でも、今ここにいて、会えてるからやっぱりよかったのかも」
 いつも微笑んでいる印象だが、色素の薄い大きな瞳が、いつもに増して潤んでいて、口元が自然にほころび、飾り気のない執務室の中に、花が咲いたような錯覚を起こさせるようなそんな笑みを湛えて。
 その笑顔につられるように、哉も少し笑って、引かれるように顔を近づける。
 唇が触れた瞬間。
「副社長、失礼しまっ……うおあえおっ!! すみませんっ! 買出し行って来たんで置いときますっ!!」
 いつもの調子でノックと同時にドアを開けた瀬崎が微妙な立ち位置の二人を見てよくわからない悲鳴を上げ、ほとんど放るように数個の白いビニール袋を投げ出して、ドアを勢いよく閉める。分厚いドアを隔てているのでほとんど音は漏れてこないが、瀬崎が女性陣に叱られている気配がした。
 思わず樹理と顔を見合わせる。びっくりしたのだろう、目を見開いて、固まっている。見ていてわかるくらいぼんっと一気に耳まで真っ赤にして哉を見上げている。
 瀬崎が放り出した袋を開けると、おそらく下の食堂で出されている屋台で買ってきたと思しきファストフードが山のように詰まっている。
 一つの袋にはたこやき、はしまき、焼き鳥、から揚げ、焼きそばにお好み焼き、イカ焼きにフランクフルト、もう一つにはアニメのキャラクターが描かれた紙袋。中身はカステラ焼きか。さらに大判焼きとたいやき。到底食べきれる量ではない。最後の袋には水滴がついたままの缶ビールとペットボトル入りのウーロン茶とオレンジジュース。
 それらの袋を応接セットの机において、秘書室と繋がるドアを開けると、同じようなものを机の上に広げている瀬崎と、なにやらパソコンに向かっている鈴谷がまだ言い争いをしていたらしいが、ドアの開く音に、同時にうわあとうめき声を上げてびくんと飛び上がり、増本が二人を睨んでいる。
「すまない、花火は何時から?」
「ええええっとっ たしか、八時半……?」
 自信なさ気に瀬崎が増本を見る。彼女が何も言わないところを見ると、それで正解なのだろう。
「そうか」
 聞くことを聞いて、ドアを閉めかけてまた開けて再び哉が顔を出す。こういうフェイントのような動作を哉はあまりしない。というより、初めてだ。何も言われなくてほっと動きを再開しかけた瀬崎が、できれば声を掛けられません様にというように、顔を上げない。
「ああ、そうだ、瀬崎」
 案の定呼ばれて、顔にうへえという文字を書いたような表情を浮かべて瀬崎が返事をしようと哉の顔をみて固まった。
「……すみません。次は無いと肝に銘じてます、ハイ」
 背中に汗が一筋流れるくらいの時間、何も動かなかった。鈴谷など息さえ止めていた。無言でにっこり笑って凄まれた瀬崎が、観念して、絞り出すような声でそう言うと笑みを解除して哉が執務室に消えた。
「ひぃー」
 その態度が大げさすぎないくらい、本気で脱力して瀬崎が椅子に沈み込む。
「……笑顔が怖いって、凄いですよね?」
 沈黙が支配する秘書室の空気を何度かすってはいた鈴谷が、少しかすれた声で増本に同意を求めた。
「アンタ、今やってることばれたら同じ目に遭うわよ?」
「ええー 増本さんも同罪ですよ。ってか、いいじゃないですか、目の前の人のせいってことにしといたら。副社長の彼女がすんごい美少女だって言いふらしたのは瀬崎さんだし」
「まあね、美人じゃなくて美少女って言っちゃったのが運のつきかしらね」
「……どんだけ僕が『すんごいかわいい人だった』って言ってもその部分について半信半疑だった人たちが言うなー ってか、僕がこの部屋であなたたちに問い詰められて白状して三時間後には社内に知れ渡ってたのはキミのせいでしょ 鈴谷さん」
「さーあ? しりませーん」
 聞こえなーいと言いながら鈴谷は忙しくマウスを動かした。


 九階の社員食堂は、いつもの数倍の喧騒で、人がごった返していた。この食堂の東側の窓が全てガラス張りなのは、この日のための設計だと言うのは社員の間では有名な話だ。
 花火を見るための特等席。ちょうど花火会場方向の角になった場所に窓に向いて設置されたテーブルにひじをついて理右湖としゃべっていた実冴が、傍らにやってきた人物を見てにやりと笑った。
「あらどうも。会うのは初めてかしら?」
「ええ、初めましてですね」
 実冴が空いた椅子を勧めると理右湖に軽く会釈して座ったのは篠田。
「お子様方は?」
「さあ? あっちのほうで遊んでるんじゃないかしら」
 屋内屋台は食べ物や飲み物だけではなく、子供たちのための店もある。金魚すくいや射的、おもちゃが当たるくじ引きなどだ。
 白いテーブルの上に、篠田がカードを置いて指先で実冴のほうへ滑らせる。
「どうぞ。おそらく今日使ったものはもう使えなくなると思うので」
「あら、気が利くわね」
 篠田が言うとおり、役員用の駐車場へ制限なく入れたあのカードの識別コードは、三島の指示で本社セキュリティの情報から削除されているだろう。
「公ちゃんにもあなたくらいのがついててくれたらよかったのにねぇ ま、あんまりかわらなかっただろうけど、アレの場合は」
 カードをカバンに仕舞って、足元においていた誰でも知っているデザインの紙袋を篠田に差し出す。
「これ、樹理ちゃんの。帰りにでも渡してあげてくれる?」
「承知しました」
「ビールでも飲む? おごるわよ。三島が」
「いえ、お二人を送らなくてはならないので。こちらこそ差し入れましょうか?」
「いいわ。私も運転手だから」
 ウーロン茶の入った紙コップを振って、実冴が答える。
 そんな実冴に小さく頭を下げるような動作をして紙袋を手に、では、と残して篠田が立ち上がって去っていく。
「だれ、今の」
 二人のやり取りを聞きながらも全く口を挟まなかった理右湖が人ごみに消えていく背中を見ながら実冴に聞く。
「哉くんの秘書。ついでに今回の共犯者」
「共犯って」
「だって。哉くんもさすがに花火大会のことくらい知ってるだろうけど、朝仕事の電話をした時、樹理ちゃんの話が出なかったから多分あの朴念仁、樹理ちゃんの誕生日知らないだろうって。んで、どうにか樹理ちゃん連れてきてもらえないかって持ちかけてきたのあっちだもん。面白そうだから乗っちゃった」
「なるほど、急に来たのはそのせいか」
「そゆこと。ま、タダで飲み食いして花火見られるんだからいいにしといてよ。それにあの二人見てるとこっちがなにかしてあげないと何にも進展しなさそうだからさ」
「要するにちょっかいかけたいのね、とにかく自分ペースで」
「そうとも言う」
 悪びれる様子もなく実冴が笑ってほとんど暮れなずんだ空を見ながらウーロン茶を飲む。
「あの部屋から見下ろす花火もなかなかだけど、こっちのほうが方角的には見やすくていいわねぇ」


 青から紺、そして街並みにかすんだ遥か遠くにオレンジの残滓が消えて空が漆黒に染まる。このビルと同じくらい高いビルの角に、赤い光が瞬いている。
「きれい」
 窓ガラスに額をくっつけんばかりに身を近づけて、樹理が眼下を見下ろしている。足がすくむほどの高さなのに、怖さよりも美しさのほうが勝る。
 瀬崎が差し入れたものは案の定大半が残っている。
 秘書室に持っていこうかと思案していたとき、控えめにドアがノックされ、鈴谷の声がする。
「失礼します」
 どうぞと声をかけると、心持ち頭を下げるような姿勢で鈴谷が入ってきた。
「食後にアイスはいかがかなと思って。といっても、食堂の自販機で売ってる系列会社のなんですが。わりとおいしいんですよ」
 右手にプラスティックのスプーン、左手にアイスのカップが二つ重ねて乗っている。
「ありがとうございます」
 アイスの引力か。窓に張り付いていた樹理がいつの間にか鈴谷のところに行ってアイスを受け取っている。
「食べきれないんだが、そっちは?」
「あ、こっちも余ってるんですよ。よかったら持って帰ってください。今みんな部屋にはいないし。もうすぐ花火が始まるから、見える窓があるところに移動しちゃって」
「篠田も?」
「あ、そう言えば室長の姿はだいぶ前からないです。奥様がお見えみたいで」
 それではと部屋を辞する鈴谷が、明かりないほうがきれいにみれますよとドアの横のスイッチを切ってくれた。一礼を残してドアを閉めた鈴谷を見送って、ならば篠田はさらに上の最上階かと天井をちらりと一瞥する。
「氷川さん、イチゴとチョコ、どっちがいいですか?」
 スタンダードにバニラを選ばない辺りが鈴谷らしい。右手にピンク、左手に茶色のカップを持った樹理が近づいてくる。迷うことなく左手のカップを取る。
「そっちだと、花火が見えないと思うが?」
 律儀に応接セットに座ってアイスを食べようとふたを開けている樹理に声をかけるのと同時に、窓の外が一瞬明るく光る。
「やっぱりな。花火は河口の方で上がるから、この部屋からだと窓際じゃないと見づらい」
 立って食べるわけには行かないと思ったのだろう、律儀にアイスを置いて立とうとした樹理にそのまま持ってくるよう言って、執務用の肘掛がついた椅子を窓のほうへ回す。
「ありがとうございます」
 アイスを持ってやってきて、素直に樹理が椅子に座る。その後ろで執務机に腰掛けて、アイスのふたを開けて、黙って右斜め下で瞬いて消えていく光を見下ろす。
「私、こんな風に花火を見下ろしたの初めてです」
 分厚いガラスに阻まれて、音はほとんど聞こえない。けれども花火は途切れることなく打ちあがっている。上からだと、煙が流れる方向も気にならないらしい。いつだったか見た映画を思い出す。あれは花火が横から見ても打ち上げ正面の花火会場から見たときと同じように丸いかと少年たちが、横から見られる場所へ確かめに行く内容だった。
 思いだしながら花火を見る。時折土星のような環がかかったものや、ハートやスマイルの形の正面から見ないとわかりづらいものもあるが、おおむね花火は全方向に火薬が散らばるので前後左右、上下、どこから見ても丸いのが通常だ。
 もう完全に手を止めて花火を見下ろしている樹理の顔を絶え間なく上がる花火が断続的に照らす。
 その横顔を見つめていたら、視線に気づいたのか樹理が哉の方に顔を向ける。
 問いかけるような樹理に、もう空になった自分のアイスのカップをみせるように振ると、あっと気づいて手の中のカップを覗き込んでいる。大半溶けたそれをスプーンでぐるぐるかき混ぜて、直接カップに口をつけて、ちらりと一度哉を見て照れたように笑ってから、シェイクドリンクのようになったアイスを飲んでいる。
 空のカップを机において、降りると、樹理には大きすぎる椅子の背もたれに手をかける。上から覗き込むと、またちらりと上目遣いに見上げて、いたずらをした後のような顔で唇の端を舐める。
「えっとあの、ときどきは、こういうのも見逃してほしいなって言うか。溶けかけ、こうして飲むの好きって言うか……母には怒られるんですけど」
 自分の一連の行動がすこしばかりお上品ではなかったことを自覚して、樹理が首をすくめるような動作をする。おそらく何の計算も衒いもない仕草。
 ドドドドドっと途切れることのない音が低く小さく聞こえてくる。クライマックスがちかいのか、先ほどまでより勢いよくどんどん花火が上がっている。ただ黙ってみていたが、空調が利いた室内でアイスが溶けるほどの時間が経過していたのだ。
 はじける光の絨毯。地面の隙間もないほどに重なり合う色とりどりの花火。
「わぁ」
 その景色に樹理が椅子から身を乗り出すようにして感嘆の声を上げる。たしかに、圧巻だ。
 瞬きをする間も惜しいほど連続で上がって、一帯を埋め尽くす。打ちあがっているのは全て同じ花火なのか、真っ白な光の尾の残像が消え、それに照らされていた白い煙の残滓も夜空にまぎれて、辺りがまた静けさを取り戻す。
 視界が暗くなったのは、花火が終わったせいだけではなく。
 いつになく唇が甘いのも、触れる唇が熱いのも、きっと唇の端に残ったアイスのせいだけではなくて。
 最後の白い花火の余韻がまだ、閉じたまぶたの後ろにあるような気がした。
 ゆっくりと離れる唇。いつもより長い口づけ。なのにその熱が遠ざかるのが名残惜しいのはきっとこんな場所だからだろう。
 樹理が持ったままだったアイスのカップとスプーンを取って、まだ少しだけ残った、もう完全に溶けて液体になったそれを哉が飲む。
「……甘いな」
 ぬるくなったそれは、冷えていたとき以上に甘い。
 少し顔をしかめた哉をみて、楽しそうに小さく声を立てて樹理が笑う。
「明日は、どこかへ出かけようか」
 哉を見上げていた樹理が、頬を緩めてうれしそうに頷いて、また笑った。


 週があけた月曜日。祝日が土曜だとなんだか損をした気分になるのは自分だけだろうかと思いながら、瀬崎は書類を小脇に挟んで社員用のエレベータが役員階に上がってくるのを待っていた。来年からは祝日に関する新しい法律が施行され、海の日は第三月曜日になるらしい。
「よう」
「あれ、高遠先輩」
 奥から現れたのは瀬崎より二歳年上の同じく幹部候補生でもあり、その中でもダントツの出世頭の情報管理課長の高遠由柾(たかとうよりまさ)だ。この間の副社長辞職事件のときも慌てず騒がず踊らず、静観していたので出世街道についてコケなかった一人だ。
 秘書課勤務でない限り課長クラスとは言え一般社員が上がってこれる場所ではない。現に高遠の隣には、三島の秘書がついている。役員階は出るにも入るにも専用のIDが必要だからだ。。秘書の瀬崎はレベル2のIDを持っているので最上階以外入室は可能だが、高遠のものは情報管理部までのレベル4だ。情報管理部の入室制限は最近設けられたものでエレベータではなく、そのフロアへの入り口ドアがオートロックのセキュリティに守られている。
「もうここで。彼にあけてもらうので」
 すらりと細身で背が高く二枚目な高遠ににっこりと笑いかけられて、若い秘書が頬を赤らめる。が、一緒にいられる時間を阻害された為だろうか、彼女は一瞬瀬崎に鋭い一瞥をくれて去っていった。
「お呼び出しですか?」
「ああ、セキュリティの件でな。全く、早く仕事をしろというのなら、わざわざ呼んでネチネチ言うなと言いたいんだが。用件を電話かメールで寄越せば十分だ」
 役員階の数階下が彼が席を置く情報管理部だが、ここまでわざわざやってくるのはめずらしい。
「先輩って多分『潰したい若手ナンバーワン』だからなぁ 三島部長の。ああ、もしかして役員駐車場の?」
「なんだ、知ってるのか」
「いえ、突破してきた人を偶然見たんで。先輩は見たことあります? 前の副社長の奥さん」
「なるほど。あの人ならやりかねないな。今回使われたのは不正コピーされたカードだった。全く、ウチのカードには簡単にコピーはできないように細工してあったんだが、やられたよ」
 役員専用のエレベータは使用中で、他の社員用も空いたエレベータがないのか、なかなか上がってこない。
「美少女だったな、お前が言ってた通り」
 沈黙がたゆたう寸前に高遠がにやりと笑って瀬崎を見る。その端麗な顔は、ゆがめるように笑っても崩れることはない。
「だからー めちゃめちゃかわいいって言ったじゃないですか。ホント、誰も信じてくれないし。いっときますけど実物のほうがもっともっとかわいいですよ」
「そうか、まあちょっと見たかったがな。受付たちが騒いでたよ。お前がいくら言っても証拠がなかったんだ。写真の一枚手に入れられない自分が悪いんだ、仕方ないだろ」
 花火大会の夜のうちに、樹理の写真は社内メールで数名のところに届けられた。そしてそのメールは倍倍ゲームよろしく爆発的にコピーされ、あっという間にほとんどの社員のパソコンに保存された。
 犯人は鈴谷だ。そして彼女の言うとおり増本も共犯だ。なにせ、写真はしっかり樹理一人をバストアップで捉えたものだったからだ。何か加工して鈴谷を消したのではなく。一度でも手が加わった写真なら、どこだって修正可能ということだ。敢えて何も手を加えないことをアピールするのが狙いだろう。だから場所が特定されそうなファイルが背景に入るのもこだわったのだ。
「しかし、なかなかやるね、君の同僚」
「……まあとにかく、これで俺、誇張してるとか言われなくて済む……」
「感謝しないとな」
「イヤですよ、写真については俺、なんも手を下してないのになんか、俺が主犯みたいに言われてるんですよ?」
 そう、鈴谷はどうやったのか瀬崎の社内メールアドレスを使って写真をばら撒いてくれたのだ。情報管理が主な仕事である高遠はそれが偽装だと見破ったようだが、普通の社員は発信者が偽られているとは思わないだろう。その上、樹理の噂については紛れもない自分が元凶だ。
「いいじゃないか、人の彼女を自分のみたいに自慢して歩いていたバチが当たったと思え」
「だから、俺が言いふらしたわけじゃないですってば! なんかもう、みんな誤解してますけどっ」
「聞かれたら誰彼となくペラペラしゃべって答えてただろうが。十分だ」
 やっとやってきたエレベータに乗り込んで、高遠がボタンを押す。
「人のことより自分だろう。小木野あたりに合コン頼めば?」
「自分はどうなんっスか?」
「俺か? 俺は当分今の子で楽しめそうだから」
「うわあぁあ なんで顔だけがとりえみたいなバツ一で軽く鬼畜な高遠先輩に彼女ができて俺にはいないんだろう」
「……お前一回埋めるぞ」
「うへぇ 俺って正直なだけがとりえですから。埋めるのはご勘弁。先輩が言うと冗談に聞こえません」
 じろりと冷たい視線で刺された瀬崎がおどけた口調でかわす。
「あーあ、ほんとにもう、なんで俺彼女できないんだろ」
「それはな」
 高遠の降りる階に着いた箱が、電子音とともに止まり、ドアが開く。
「お前が正直すぎるからだ」
 高遠のゼロ円スマイルと捨て台詞が一緒に、瀬崎が乗ったままの箱の中に取り残された。
「ちっくしょー いいなぁ 誰も彼も楽しそうで幸せそうでー」
 運行ロックがかかっているので誰も乗ってこない箱の中で瀬崎が地団太を踏んだのちしゃがみこんでつぶやいた。
                              2008.12.08fin.






幸せのありかシリーズ 目次    あとがき



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