1 雨


「あーもう、委員会長引きすぎ! ただでさえ先月は日数少なかったから赤字ギリギリなのに、今月稼げなかったら新学期の授業料払えないじゃない」
 雨とまでは言えなくても、霧よりも早く降る水滴の中、渡辺夏清(わたなべかすみ)は傘もささずに、人ごみを縫うようにわき目もふらず目的地へ向かっている。金銭的理由で二年ほど前から美容院に行っていないため、伸び放題になっている背の半ばまであるストレートの黒髪をなびかせて悪態をつきながら早足に歩く。
 ブラウンの合皮コート。色のあせたジーンズ。くたびれたスニーカー。
 ずり下がるトートバックを肩に掛けなおして大股でずんずんと進んでいく。
「うわ! 信号変わっちゃう」
 慌てて走り出す。意識はすでに、全部交差点の向こうだ。
 突然、壁が現れた錯覚。それはすぐに、交差点わきの地下道から出てきた人だとわかり夏清は反射的に謝りながらぶつかった相手を見た。
「すいませっ…」
 一秒の半分の半分くらいの一瞬、目と目が合ってしまう。
 つまづく直前支えるように差し出された相手の右手に自分がつかまったままであることに気づき、礼も言わずに振りほどいてそのまま走り去る。渡る途中で信号は赤に変わったが、そんなことは知ったことじゃない。逃げるように、振りかえらずに夏清は向こう側の雑踏にまぎれた。
「なんでここに井名里がいるのよー!?」
 泣きそうになりながら、心の中で叫ぶ夏清。
 自宅や学校のある最寄駅から四十分。途中二駅の乗り換えをしないとたどり着けない場所である。
 そこにどうして、数学教師にして夏清のクラス担任である井名里がいるのか?
 それもこんなところに。
 確かにここは、地元では知らないもののいない歓楽街である。駅東こそ体裁の整ったビルが多いが、対するこちら側、駅西と呼ばれる地域は二分も進めばけばけばしいネオンがかがやく風俗街だ。
 いや、うん、普通の成人男子がいても別段悪い場所ではないのだ。問題は自分のほうだ。
 夏清の通う新城東(しんじょうひがし)高校は、進学校と言うわけでもなければ偏差値が極端に低いと言うこともない、ごく平凡な、どこにでもあるような公立高校である。
 そのごく平凡な公立高校の一年A組に在籍する渡辺夏清は、出席番号こそ末尾だが入学式では代表を務め、この一年間他の追随を許さぬ大驀進で学年主席の座をキープしてきた、押しも押されぬ優等生。
 そんな自分が、こんな場所で、おおよそ高校生がすべきではない化粧をして歓楽街にあるバイト先に通う姿を見られていい相手ではない。とはいえ学校では授業を受けるときには、邪魔にならないよう髪は二つに分けて縛るか、三つ編みにしているし、軽い乱視があるのでメガネをつけている。この化粧はバイトをはじめたときに先輩風俗嬢に教えてもらった。まるで別人のように顔が変わるのでとぼけてごまかせば学校での夏清しか知らないはずの井名里に……言葉さえ必要最低限しか交わさないのだ、ばれてはいない……はずだ。
 井名里…………夏清ですら苗字しか知らないクラス担任は、いつも不機嫌そうで、ギスギスした空気をまとった神経質な教師だ。百八十を越えた長身で、さらに教壇に乗った井名里に百六十三の夏清はいつも見下ろすようににらまれている。
 しかも、生徒が付いて来ようが来まいが全く意に介した様子もなく嵐のように授業を進めていくので生徒の間では大変評判がよろしくない。勉強の中で数学が一番得意な夏清がやっとついていけるペースである。
 忘れもしない去年の一学期、はじめての期末テストで満点を取った夏清に答案を返すとき、彼が小さく舌打ちをしたのを夏清ははっきりと見たのだ。生徒を数学嫌いにさせるに違いない行為。
 それに大変ムカついた夏清は、夏休みのほとんどを数学の予習に費やし、二学期以降の授業では、どんなひねくれた問題であろうとも瞬く間に解いてやった。授業とは別の所で冷たい戦争が行われていたのである。


「おはようございまーっす」
 いつものように路地裏から、通用扉を通って夏清が店内に入る。畳とコタツがしつらえられた控え室には、すでに三人、同僚がいた。
「おはようヒカリ」
「おっはよーん。てーんちょーう、ひーちゃん来たよーん」
 この店で働いている風俗嬢は軽く四十人を超える。給料は日払いだし、入れ替わりが激しいので、夏清もこの店で今何人の女性が働いているのか分からない。彼女たちは夏清の本名を知らないし、夏清も彼女たちの源氏名しか知らない。店の最上階の寮で生活しているものから夏清のように通ってくるものまでさまざまだ。
「ヒカリちゃん、君指名して待ってるお客さんいるんだけど、すぐ出られる?」
 ブランド物のスーツに腕時計はロレックス、履いてる靴はいつもピカピカ、男から見たら間違いなくいやな男。夏清の知らない高級そうな香水の匂いをまとった店長が控え室に顔を出す。世の中どんなに不況でも、ココにはあまり影響がないのかもしれない。
「あ、はい、行けます」
 急いで服を脱いで「制服」に着替える。背後に立った店長から送られる、じろじろとした視線がいやな感じだが、ここでノロノロしていてもなにかいい事があるわけでもないので半透明の全く服として機能しているとは言いがたい衣装に着替える。
「じゃ、いつものところに行って」
「はい。ヒカリ入りまーっす」
 店長に促されて、控え室から狭い通路を抜けてカーテンを開ける。
 今日は終電までに、どのくらい稼げるだろう、そんなことばかり考えながら夏清は自分を指名した男に営業用スマイルをキメていた。


 高校時代からの悪友から電話が入ったのが午後六時。
 待ち合わせの場所まで電車ならば四十分、車ならば、渋滞しなければ、という前書きが付くとしても三十分弱でたどり着ける。井名里は迷うことなく車を出して、地下の駐車場に止めるとゆっくり階段を上がって地上に出た。
「まいったな、結構降ってるか」
 出口になった交差点わきで空を見上げるとネオンで薄明るい夜空に霧のような雨が立ちこめている。道行く人は傘をさす人が七割と言ったところか。
 指定された場所は、おそらくここからそう離れてはいないだろうと、歩き出そうとしたそのとき、雨に濡れながら走っていた少女が盛大に突っ込んでくる。
「すいませっ……」
 どこかで聞いたことがあるようなその声におや、と井名里が顔を向けると少女も顔を上げる。
 濃い化粧をしているが、どう見てもまだ十代のはずだ。どこかであっただろうかと問おうとした瞬間、少女が井名里の腕を振り何も言わずに降りきるように交差点へ突っ込んでいった。
 あっという間に人ごみの中に消えた背中を見て、まさか、と言う言葉が井名里の口から漏れる。地下道から上がる決して広くない場所に立ち止まったままの彼を非難がましく何人もの人が避けて歩いていく。
「渡辺……?」
 追いかけるかどうか迷う井名里の、スラックスのポケットから間抜けなメロディーが流れ出す。この着信メロディーは、今日逢う予定の悪友の番号だ。


 やっと邪魔になっていることに気づき、少し避けて携帯を取る。
「もしもし?」
『おっ礼良? おせーよお前、ケイタイつながんないし。今どこ?』
「地下に車止めて上がってきたんだ。それよりお前は今どこにいるんだ?」
『え? 俺? 俺もう店。さっきついた。お前待ってる間に狙ってた子、指名されちゃってるよ』
「って言うかお前、一人で入れるならわざわざ俺呼ばなくてよかったんじゃないのか? 帰っていいか? ……分かったって、泣くなよ。行くから。店は?」
 抗議の声をさりげなく無視して話題を変え、場所と店名を聞いて電話を切る。
「まさかな。あの渡辺がこんなところにいるわけないか」
 錯覚だったのだと自分に言い聞かせて、井名里も少女が走っていった方角へ、青になった信号を渡った。






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