3 家


 歳に合わない派手な化粧をした少女を、大の大人の男が手を引いて歩く光景は、それなりに目立ったらしく道行く人にじろじろ見られて、夏清は本当に消えてしまいたくなった。
 車で来ていると聞いてほっとしたのも束の間で狭い密室に二人きりだと思うと別の意味で怖くなる。
 助手席で借りてきたネコよりおとなしくしている夏清に井名里も何も言わずに車を運転している。夏清にとっては拷問のような三十分弱のドライブは、こぎれいなマンションの地下駐車場で終了した。
「降りろ」
「ここ、どこ?」
「俺の住んでるマンション」
「え……」
 イヤそうな顔をして動かない夏清に、井名里が先に降りて、嫌味な動作で助手席のドアを開ける。
 しぶしぶ降りて、二人でエレベータに乗ると井名里が九階まであるボタンの五を押す。
 あっさりと、エレベータは五階に到着してしまう。さっさと進む井名里から二メートルほど距離を置いて夏清がついていく。
「入れ」
 表札も何もないドアを開けて、夏清を促す井名里。ここまで来たらどうすることもできない。意を決して、夏清が玄関をくぐる。
「おじゃま、します」
「どうぞ」
 井名里をうかがいながら靴を脱ぎ、家に上がる。人気のない部屋は、ひやりと冷たい。井名里と同じようだと思いながら夏清は同じく靴を脱いで家に上がった井名里の後に続く。
「ハラ減ってないか?」
 予想外のセリフに、頭がうまく回転しない。夏清がぶんぶんと頭を横に振ると茶でいいか、と独り言をつぶやいて井名里がやかんをだす。
 激しいくらいあっさりとした室内には、無駄な装飾は何もない。
 冷蔵庫とレンジ、二人がけのテーブル。
 掃除はお世辞にも行き届いていないらしく隅っこに綿ぼこりが溜まっている。
 二人分の湯が沸いて、井名里が器用な手つきでそれを急須に注いで適当なカップをテーブルに置く。
「座ったら?」
 突っ立ったままの夏清に、そう言って自分も座る。乾燥した室内に、お茶の湯気が立ち上る。
 立っていてもしかたないので、言われた通り井名里の前に座る。それを見て、井名里が口を開いた。
「賭けに勝ったのは俺、負けたのは渡辺」
 わざわざ噛んで含めるような言い方。
「俺が勝ったら渡辺は仕事を辞める。そう約束したし、お前はもうあの近辺では働けない。ブラックリストに載っただろうからな」
 そう言われて、夏清は店で井名里が夏清の歳を言った本当の理由を悟る。
 悔しかった。確かに年齢は一回りほど違うだろう。けれど自分は、今日まで自分のことは自分でやって、ちゃんと生きてきたつもりだった。なのに、こんなにあっさりと、否定される。これまで懸命に生きてきた自分が。
「ひどい。どうしてそんなことするの? 先生になんの権利があるの? そりゃあ歳ごまかしたり、ああいう店で働くのは悪い事だってわかってる。でも私は、そうしないと生きていけなかった。自分でお金を稼がないと、誰も助けてくれないもの」
 うつむいて唇をかみ締める。
「親が亡くなったの、何年前だ?」
「ずーっと前。十二年……半……かな。三つになったばかりの頃」
「それからずっとその親戚んとこいたのか?」
 首を横に振る。
「中学までは、おばあちゃんのとこから通ってたの」
 小さい頃に両親を亡くして祖母と暮らしていた夏清は、いつでもどこでも「かわいそうな子」として扱われてきた。かけっこで一番になっても、絵や作文のコンクールで入賞しても、そろばんで誰よりも早く一級を取っても。いつも夏清は「親が居ないのに」がんばってえらいね、と言われていた。
 周りの大人達が、夏清を哀れんで特別扱いをすれば、おのずと子供達も夏清を避けるようになった。みんなが認める「かわいそうな子」の夏清は、こっそりと意地悪をされたことも、数え切れない。「かすみちゃんはダメ」と遊びの仲間に入れてもらえなかった。貧乏ではなかったけれど、裕福だったわけではない。流行のおもちゃの一つも持たない夏清は次第に人の輪から離れていった。祖母はいつもほしいものがあったらなんでも言いなさいと言ってくれた。夏清はおもちゃや人形ではなく、本や参考書をほしがった。
 同じおもちゃを持っていても、彼らが変わらないということを、夏清は知っていた。
 中学二年のとき、クラスメイトの財布や貴重品が紛失する騒ぎが起こった。誰も何も言わなかったけれど、みんなが夏清を疑っていた。それまで必死で精錬潔白に、いい子で生きてきた夏清を、クラスメイトはおろか担任さえ信じてはくれなかった。「先生は渡辺さんのこと信じてる」と言いながら、瞳は「あなたならやっても仕方ないわね」と言っていた。
 結局、学校の近所の無職の男が、こっそり忍び込んで盗んでいたことが判明して夏清の疑いは晴れたが、その後ますますクラスメイト達とは気まずくなった。
 高校は、遠くに行きたいと言った夏清を、担任も祖母も、誰も止めなかった。
 だから、祖母と暮らした家から片道二時間かかる新城東高校を受験した。新城東に決めたのは、叔父の家から通えたからだ。
「高校がこっちになったから、卒業した日に叔父さんとこに……」
 叔父と従兄に暴行を受けたのは、夏清が世話になって三日目、叔母が近所の寄り合いで遅くなった日。
 今になってから思えば、ずっと狙われていたのかもしれない。
 家の外に逃げようとして、顔を殴られた。腹部もけられたと思う。ぐったりした夏清はタオルで作った猿ぐつわをされた上に、リビングの机に縛り上げられ、二人に何度も犯された。
 何度目か、もう数えられなくなったとき、叔母が帰ってきた。行為に夢中だったふたりは、彼女の帰宅に気づかなかった。
 洋服を裂かれ、頬を腫らし、口や下腹部から血を流し、目のふちにあざを作って縛られた夏清を開放してくれたのは叔母だったが、彼女は「夏清がさそったのだ」と「こうするのも夏清が望んだからだ」という自分の夫と息子を信じた。いや、信じたわけではなかったのだろうが、悪いのは夏清だと思いこもうとしていた。
 泣きながら祖母に電話をかけて、すぐに荷物をまとめて祖母の元に帰った。けれど通学するには祖母の家は遠く、祖母はなんとかやりくりをして夏清に今住んでいるアパートを借りてくれた。
「でも、おばあちゃん、去年の夏休みに……」
 庭の手入れをしていて倒れた。一人暮しだったため発見が遅れ、手当てが間に合わなかったのが原因で、あっという間に彼女は帰らぬ人になってしまった。
 葬儀は叔父達が取りしきっていた。夏清は家族としてカウントされておらず、祖母の遺産は知らない間に消えていた。
 去年のうちはどうにかそれでも貯金とコンビニのバイトで食いつなげた。
 しかし、貯金は見る間に底をつき、しかたなく成人向けの雑誌に載っていた今の店で働くようになったのだ。
「お金は、貯めてたけど、そんなの、卒業まで持たない……仕事辞めたら、学校なんて行ってられない……家賃と水道光熱費と食費だけで月どんなに節約しても十万は要るの。でも、普通のバイトで十万稼ごうと思ったら、今度は勉強できなくなるの」
 ぼそぼそと喋る夏清の声を聞いているのかいないのかお茶を飲みながら井名里は相槌すら打たない。
 不安になって、そっと井名里の顔を伺う。
「渡辺は、好きでやってるんじゃないって言ったな?」
 顔を上げた夏清に、静かな声で井名里が聞いてきた。
 その問いに素直に頷く。
 夏清にとってそれは仕事であり、生活の糧を稼ぐための方法でしかない。全然気持ちよくなんかないし、それ以外で同額稼げるのなら何もその仕事に固執することはない。
「払わなくてよかったら働かなくていいだろう?」
「え?」
「家賃、水道光熱費、食費。払わなくてよかったら金も要らない」
 聞き返した夏清に、もう一度井名里が言う。夏清が聞き返したいのは、そう言うことではなくて…
「ここならそんなもんは要らないし、部屋も余ってる」
 聞いて耳を疑う。それこそ問いなおすのも忘れて夏清はしばらく開いた口を閉じることができなかった。
「なに、言ってんのよ……?」
「だからここに……」
「聞こえてるわよ! でもそれどう言うことかって聞いてんの!!」
 根本的な所で食い違う意見を繰り返す井名里に、夏清がばしばしとテーブルを叩きながら大きな声で聞き返す。
「どうもこうも、それ以上でも以下でもない。お前が仕事しなくて済ませるには、それくらいしか方法ないだろう?」
「ちょっと待ってよ! 私の意思は? どうして私が先生と暮らさなきゃならないの?」
 立ちあがる勢いがあまってイスがけたたましい音を立てて転がった。
「決まってるだろ、ここは俺の家で、お前は俺の生徒だ。生徒が道踏み外そうかってのを黙ってみてろって言うのか?」
「その生徒に自分の咥えさせたのはどこの誰よ!?」
 思い出して、夏清の顔が真っ赤になる。一緒に住むと言うことは、つまり、そう言うこともありえるわけだ。実際、もう裸も見られてしまっている。井名里なら、やりかねない。
「それは別に、俺がしろって言ったわけじゃない。賭けだろ? ゲームみたいなもんだ。それともただで住むよりその方がいいのか? そうだな、俺一人相手したら、月収十万だ」
 夏清の考えていることなど全てお見通しなのだろう、夏清には実に不快だが、井名里は楽しそうに笑っている。
「何がおかしいのよ!? この変態教師!! 悪いけどアンタに売るもんなんかないわよ! 帰る!!」
 もうこれ以上、一分一秒たりとも同じ空気を吸っていたくない。かばんをつかんで玄関に向けて歩きだした夏清の腕を、井名里の細くて長い指がしっかりとつかむ。
「まてよ」
「離して!」
「待てって、帰ってどうするんだ? もっと遠くまで稼ぎに行くか? 早かれ遅かれお前は見つかってたし、そうなったら学校どころか、このまちじゃ暮らしていけない」
「じゃあどうしろっていうの!? 言っとくけど、私、先生と暮らすなんて絶対イヤだから。そのくらいなら、ホームレスにでもなんにでもなってやるわ」
「言うじゃないか」
「分かったら離してよ」
「イヤだ」
「離して」
「ほどいてみろよ」
 その言葉と裏腹に、井名里は手に力をこめ己の方へと引く。痛さに顔がゆがむ。堪えきれず、体がかしぐ。
 冷たい床が、背中にある。
 瞬きほどの間に、夏清は全く身動きが取れなくなった。
 のしかかかる、井名里の重さ。実際乗られているわけではなくても、すぐそこにある質量に押される。
 恐怖。
 脳裏にリフレインする光景。
「いや……」
 もやしみたいに貧相な体をした従兄にさえ夏清は腕力でかなわなかった。それよりずっと体格のいい井名里を夏清が振りほどけるはずがない。
「離して……」
 目を閉じると涙が目じりからこめかみに流れた。
 そのまま、ただ声もなく泣くことしかできない。自分の非力さが悲しい。これから起こる事が怖い。これが店だったら、悲鳴を上げれば男の店員が止めに来てくれた。けれどここでは、誰も助けてはくれない。
 ぐずぐずと泣く夏清の頬に井名里の両手が触れた。店のときとちょうど逆の状態で。
 ひくりと息を呑んで、夏清が目を開ける。
 二十センチと離れていないそこに、井名里の顔がある。
 絶対あの手は氷みたいに冷たいんだと思っていた井名里の指は、驚くほど温かかった。
 人差し指が、流れた涙をすくう。
 指もそうだが、目の前の井名里は、ひどくやさしい目をしている気がした。
「怖いか?」
 声も、今まで聞いたことがないくらいやさしかった。怖かった。けれど、頷くことができなかった。首を横に振ることも。
 井名里の手はあくまでもそっと夏清の頬に触れているだけだ。夏清をまたぐように両膝をついていても、無理にはさんだりの押さえたりもしていない。逃れようと思えばできるのに、どういうわけだか体が言うことを聞かない。
 固まったままなんの反応もない夏清に、井名里が苦笑を……そう、困ったときみたいに笑った。
「な、なに?」
「いや、成り行きで押し倒したけど…」
 珍しく、井名里が言いよどむ。もう想像を裏切ることばかりで、夏清の情報処理能力がパンクしそうだ。
「けど?」
「キス、していいか?」
 照れたような、本当に、普段学校で見る彼からは思いもよらない仕種に、夏清の中のどこかが切なくなった。
 ここからが、ほんとに、自分で自分が信じられなくなったのだが。
 夏清は、ゆっくりと、頷いていた。






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