1 友人


「あ、やっぱり」
 それを一瞥したあとの草野のセリフは、ため息に似ていた。
「十点、十点、九点、十点、十点、十点……?」
 季節の変わり目、番組編成の合間によくあるモノマネ番組で、左から出演者へのコビとも取れるような甘い得点が発表されているような感じ。
「いや、声に出して言わなくても……」
 七月の頭に市内を走る路線バスが今時珍しくストライキで二日休業したため、新城東高校は、祝日が重なって連休になっていたこともあり、世間一般の高校より、四日遅れで終業式が行われた。
 草野に読み上げられた夏清の通知表は、一教科以外すべて十。
 出席番号一番から順に、学期末恒例、成績表の配布があった。出席番号が一番最後の夏清まで通知表を渡し終え、さっさと教室を出ようとしていた井名里の後姿を、夏清がきっと睨みつけるのを草野は見逃さなかった。
 井名里が去ったあと、速攻で夏清のところにやってきて『通知表、見せて』と正攻法で攻めてみると、夏清はあっさりと草野に自分の成績表を手渡した。
「すげぇ数IIだけ九だよ」
 数IIは井名里が担当する教科だ。
 新城東高校は、数年前から上位何割を十、下位何割を一、と言った状態で評価する『相対評価システム』から教師がよくできたと思えばクラス全員十にすることも可能な『絶対評価システム』に変わっている。極端な話、気に入らない生徒には一とつけることも可能だ、だからといって何をつけてもいいわけではないのだが。
「委員長が九なら、誰も十もらってないな、こりゃ。でも委員長、井名里になんかしたの?」
 通知表を返しながら草野が夏清に聞いてくる。
 他の教師が担当している数学Bはしっかり十がついているのだし、期末試験でも夏清がトップだったことは周知の事実。
「ただ単にいやがらせって方にプリクラ一回」
「じゃあ私も、そっちにマックナゲット」
「んー 要らないトレカあるから、あたしもそっちに賭けようかな」
「みんな……賭けになってないよ」
 周りに集まっていたクラスの女子たちが、口々に賭けを始めるが、みんな同じ方に賭けるので、全く成立する様子がない。
 いくら賭けたところで、井名里に真相を聞ける人間は、表向きはいないのだ。脱力したような誰かのツッコミに賭けが流れる。
「それよりキリカ、明日駅前九時でいいんだよね?」
「うん。女子はこっちで集まっていこうと思うから。男子は十時までに勝手に現地集合。委員長もオッケ?」
「大丈夫だけど、現地でいいかな? こっちに回ると逆走だから」
 一応、夏清は二駅離れた場所から通っていることになっているのだ。みんなが九時に駅に集まるつもりならば、もっと早い時間に出かけておかないといけない。
 いいだしっぺが草野で、クラスのメンバーで夏休み初日にどこかに遊びに行こうという話になり、電車で三十分ほど離れた場所にあるゲームパークに行くことを聞いたのが、つい一週間ほど前。
 当然のように誘われて、私も行ってもいいの? とマヌケな顔で問い返した夏清に、草野が、委員長来なかったら全然面白くないから絶対来てよと爆笑した。
 それがすごく嬉しくて、多分浮かれていたと思う。その晩帰ってすぐ、井名里に遊びに行きたいと言うと、その時はすんなり行ってこいよと言っていたのに、日を追うごとに、どう見ても、機嫌が悪くなっているのが分かる。だからと言って、行くのをやめようとは思わないが。
 夏清も、この成績はいやがらせだと思う。大学に進学する際はこれが五段階評価に変わり、十も九も同じ『五』としてカウントされるが、精神的なものが違ってくる。
「それじゃあ、私、バイトがあるから、先に帰るね」
 手を振って出ていく夏清を、草野と他の女子が見送ってすぐ、入れ違いに滝本が入ってきた。
「あれ? まだ帰ってなかったの?」
「滝本君こそ、あ、そうか、クラブだ」
 生徒数もそこそこ、グラウンドはお世辞にも広いとは言えないが、それなりの体育施設が整っているにもかかわらず、クラブ活動、特に運動系はそこまで活発ではない。滝本がいるサッカー部も例外ではなく、県下有数の弱小チームだが、それなりに楽しんでやっているらしい。
「そうだ。滝本君明日空いてない?」
「明日? 明日は模試があるんだけど……そう言えばなんかやるって言ってたな」
「そう。今クラス半分くらいかな、参加するの。委員長……渡辺さんも行くんだけど」
 そうか、滝本君はダメか、と草野がつぶやくのと同時に、滝本が即答する。
「行くよ。何時? どこ?」
 場所と時間を聞いたあと、滝本が絶対行くから、と念を押すように言って教室を出ていく。
「キリカ……アンタ……大体委員長はカレシいるでしょ」
「だってさ、滝本君が来るのと来ないのとじゃ、女子の集まりがちがうじゃん」
 実際、参加者の四分の三が男子という現状だ。そのほとんどが夏清が行くと聞いて行くことを決めたような節がある。
「桜エビより伊勢エビで釣ったほうが、魚はよく釣れるのよ」
 ニヤリと笑って、まき餌た〜っぷり、群がるサカナ♪ ぶっこめ針を、エサつけてー♪ と変な節をつけながら歌い、草野が片手で器用に携帯を操り、メールを送っている。この分だと参加者が当初の倍になりそうだと、他のメンバーがため息をついた。
 
 
「あれ? 滝本君、早いね」
 待ち合わせ時間を間違えたのだろうかと、携帯電話で時間を確認しようとした滝本に、背後から聞き覚えのある声が届く。
「私が一番乗りだと思ったんだけどな」
 振りかえって、そこに立っている夏清を見た滝本が固まった。別になにかポーズを取っているわけではないだろうが、予想外だとでもいいたげに少し傾けられた首の角度の絶妙さ。
 夏清の服装は、別段奇抜でもなければかわいらしくもない、少し厚手の丈が短めのTシャツに、洗いざらしのジーンズ、スニーカー。長い髪はサイドにシャギーが入って、背中に流れる髪はパーマをかけたのか、緩やかに波打っている。黒板を見るために掛けているメガネも今日は外してきた。
 二年生になってからの夏清は、髪をおろしていることが多くなったが、上の方をバレッタかカチューシャで留めている。メガネを掛けている夏清しか見ていない滝本にしてみれば、何を話したらいいのか分からなくなるくらいの衝撃を与えられたような気がした。
「? どうかした? やっぱり髪型似あってない? 変? 昨日美容院連れてってもらったんだけどパーマかけられちゃって。夏休みが終わるころには取れてるくらい緩いんだけど……」
「あ、いや……似合ってる」
 やっとの思いでそう言った滝本に、夏清が安心したように微笑む。
「良かった」
 昨日、二年くらい美容院に行っていないという夏清の髪をみて、実冴は自分がいつも行っている美容院に連行した。閉店後、若手の練習台になった夏清は、毛先を整えてもらうだけのつもりだったのに、パーマの練習もさせてくださいと言われて断りきれずにこうなった。
 終わったのは二十三時を回っていて、途中で連絡を入れたものの、実冴に送られて帰ると、井名里がかなりイライラした様子で新聞を読みながら待っていた。
 機嫌が悪そうな井名里に、新しい髪型のことを聞くことが出来なくて、ただいまだけを言って風呂に入ってオヤスミナサイしてしまったのだ。実冴やお店の人たちは似合うと言ってくれたけれど、一番言ってほしい人になにも言ってもらえなくて、実は似合っていないのではないかと結構落ち込んでいた。
 他人に似合うと言ってもらえて、やっとほっとする。
「体動かすゲームもあるって聞いたから動きやすい格好してきたんだけど、髪、まとめてきた方が良かったかな」
 滝本に聞くでもなく、夏清が独り言のようにつぶやく。
「そのままのほうがいい、と……思う、けど」
「ほんと? よかった。せっかく初めてパーマかけたし、まとめたくなかったの。よかった、変じゃなくて」
 そこで会話が途切れる。夏清はにこにこと上機嫌でカットしたばかりできれいな毛先を手にとって眺めている。草野が男子の待ち合わせに指定したのは、ゲームパークが入っている総合商業施設の入口だ。全館開店するのは午前十時だが、一階にあるファーストフード店はもう開いていて、ゲームパークの開店まで十分以上あるが、すでに大勢の若者が集まってきている。
「あのさ、渡辺……」
「あ、いたいた! 委員長! 滝本君」
 滝本が、なんとなく背中がむずむずするような気まずさを感じて声をかけようとした時を見計らったように草野達女子と、同じ電車に乗ってきたのであろう男子がやってくる。
「きゃー! 委員長かわいい!! パーマかけたの? 似合ってるー それどこでしたの?」
 一瞬の内に夏清の回りに女の子バリケードが作成される。男子は近づきたくても近づけない。女の子に触れないと言うより、その回りの空気からすでに違うものに変わるからだ。
 きゃぴきゃぴと矢継ぎ早に質問するクラスメイトに、夏清が照れながら説明しているのを、草野が心の中で『委員長さすが!!』とガッツポーズを作っていた。草野の中では夏清はこうあってくれないといけないらしい。
「くーさーのー……お前、待ち合わせ時間……」
 ぶんぶんと手を振ってやってきた草野のリュックを引っ張って、滝本が小声で抗議する。
「間違ってないよ」
「それなら草野達が遅れたってことか?」
「それも違う。だってさ、絶対委員長早く来るでしょ、こんなとこにあの人一人で置いといたら誰かに拉致られるって」
「俺は虫除けか」
 実際、ナンパ目的と思える男性グループがそこここにいる。この状態で夏清をおいておいたら、あっという間に回りにナンパが集(たか)るだろう。
「わかってんじゃん」
 草野がいつもの顔で笑う。はめられたとは思っても、他の男子より先に夏清を見ることが出来て、なおかつ話まで出来たので、まあ、良しとしておこう。
 夏清の回りの女子と、遠巻きにしている男子に向かって、草野が号令を下す。
「おっしゃ! 今日は遊び倒すよぅ」
 
 
 途中、昼食の休憩を取る以外は、ほとんど動き回って遊びまわった。入場するのにお金の要るゲームセンターに最初こそ戸惑った夏清だが、同世代の人たちとぎゃあぎゃあ騒ぐのが、こんなに楽しいことだとは思わなかった。
「どうする? どっかでなんか食べてから、カラオケ行かない?」
 ほとんど全てのアトラクションを終えて、同じ施設の中にあるいろんな店を見て歩いているうちに、あっという間に時刻は七時になろうとしている。日が長くなってきたので、時刻の感覚が少しずれていた。カラオケは別施設になるので数時間ぶりに外に出る。
「うーん……ちょっと電話していい?」
 異論があるのは夏清だけのようだ。かばんをごそごそとかきまわして、携帯を取り出したその時、夏清の携帯がよく分からない音楽を奏で出す。初めて聞くそれに、夏清の動きが携帯を握ったまま止まった。
「すごい! 委員長!! それどこからダウンロードしてきたの!?」
「……知らない」
 また勝手に着メロが変わっている。夏清が使っていた『トッカータとフーガ』は、すでに井名里の手によって削除されてしまい、彼の気の向くまま、知らないうちに着メロが変わっているのだ。
「もしもし?」
 夏清のうしろで草野が、彼女たちが生れる前に放映されていたアニメのオープニングであり、非常に面白い番組だったことを力説しているが、草野以外のだれもそれを知らないところを見ると、恐ろしくマニアックなものなのだろう。
『あ、夏清ちゃん?』
「実冴さん? どうしたんですか? それってせー……の電話ですよね?」
『そうそう、「せ」の携帯』
 慌ててごまかした夏清に、実冴が面白そうに肯定する。
『少し前から何回か電話かけたんだけど、圏外だったみたいね。今ねぇ、もう目の前』
「は?」
 顔を上げると、確かに目の前に昨日乗ったワンボックスカーがウインカーを出して止まっている。
「やっほー!」
 助手席のウインドウが開いて、実冴が顔を出す。車は彼女のものだが、運転しているのは井名里だろう。
「こっちに来てるって聞いたから、どうせだしみんなでご飯食べようと思って。迎えに来てしまったのよ」
 携帯を持ったまま駆け寄ってくる夏清に、実冴が笑う。思った通り、運転席には色の濃いサングラスをかけた井名里がいる。
 草野が近づく姿に、あ、さすがにヤバイ、とつぶやいて実冴がウインドウを閉じた。
「ごめんなさい。やっぱり私、抜けてもいいかな?」
「ってか、この状態でダメって言っても無理でしょ?」
 言われて夏清が苦笑する。スライドドアが開いて、実冴のところのチビ二人が早く早くと夏清を急かす。
「いってらっしゃーい。委員長、また電話する」
「ほんとにごめんね。じゃあ」
 夏清が乗りこみ、すぱんとドアが閉まる。
 手を振る草野に双子も手を振っている。
 彼女たちが見えなくなってから、井名里がイライラした様子でかけていた濃いサングラスをはずす。
「はずしちゃうの? もったいない。ホンモノのヤクザみたいで似合ってたのに」
 貸していたサングラスを邪険に放られて、実冴が嫌味を言う。
「見えねーんだよ! もう薄暗いだろうが!!」
「視力落ちたのならメガネ掛けたら?」
「イ・ヤ・だ」
 何故か井名里はメガネを掛けることをかたくなに拒む。今年の誕生日に免許の切り替えがあったらしいのだが、視力検査はカンで乗りきったというくらい、実は目が悪い。
「いいんだよ。大体見えたら」
「メガネ掛けたら井名里の親父殿とそっくりになるからやなんでしょ? うわ! 怖い。にらまないでよ、前向いて。もう言わないから。しょうがない、帰りは運転代ってあげるわ」
「………行きも運転しろよ。なんでいきなりワンボックスに替えるんだ?」
「替えたわけじゃなくてちょっと衝動買い。前のもちゃんとあるわよ、あれもおきにいりだもの。それにいいわよ広いし子供も自由に転がれるでしょう? あんたこそあんなおっさんみたいな車やめてこう言うのにしなさいよ」
「だれがするか。こんな車にしたら、顧問でもない部活の遠征に使われるだろうが」
 それを聞いて、思い出すと、確かに体育会系のクラブ顧問はほとんどワンボックスに乗っていることに思い至る。と言うより、電車通勤と車通勤が半々の新城東高校の男性教師の中で、セダン系は校長と井名里くらいかもしれない。
「ガタガタ言ったらぶつけるぞ」
「やってみなさいよ。請求書はアンタにまわすから」
「誰が払うか」
 前で漫才が繰り広げられている。後ろのシートは夏清が座っている場所を含めてフルフラットにして子供たちが少々乱暴な井名里の運転に、歓声を上げながらごろごろ転がっている。
「こっちにね、おいしいイタリアンのお店があるのよ。今度地元の情報誌にコメント載せることになってるから、どうせ食べるなら大勢のほうがいいと思って電話したら夏清ちゃんこっちに来てるって言うし、これはもうカミサマのおぼし召しでしょう?」
 実冴は、何社かの雑誌と契約を結んでいるライターのような仕事をしている。それだけでどうやって生活しているのか甚だ疑問だが、他に仕事らしい仕事をしているわけでもない。
「安心しなさい。私のおごりだから」
「当たり前だ」
 後部シートを振りかえって夏清に対してにっこり笑った実冴に、前を見たままの井名里が憮然とした様子を崩さずに言うと、笑ったまま実冴が言い放つ。
「アンタ以外」
 あーハイハイそうですか、と言いながら、井名里が目的地らしきレストランの駐車場に車を止めた。
 
 
 結局、全員実冴におごってもらった。井名里が大量にアルコールを摂取していたのは、帰りは彼女の運転と言うことと、最終的には実冴がおごってくれることを見越しての事だったらしい。
「先生……重い……」
 マンションのエントランスから部屋まで、酔って覆い被さる井名里から離れようと、夏清が足を速めるが、ずっとコバンザメのように井名里がついている。いや、大きさから言って夏清のほうが付属品のような印象だ。
 リビングに着いた時、夏清の携帯電話が鳴り出す。着信設定でメロディを変えているのは井名里と北條、実冴の電話だけだ。色気のないぴろぴろという電子音はその他から。
「あ、草野さんだ」
 修学旅行の一件のあと、クラスのほとんどの女子と携帯の番号と、アドレスを交換している。その後、こちらから返事を出さなくても、誰かから他愛のないメールが毎日入ってくる。
「もしもし? あれ?」
 井名里をくっつけたまま夏清が電話に出ても、いつものようにやかましい草野の声が聞こえない。代りに、カラオケボックスの中なのだろう、ざわついた気配が音になって伝わる。押し間違いかと思って切ろうとした時、名前を呼ばれて再び携帯電話を耳に当てる。
「……滝本君?」
『あ、わかった?』
「でもコレ、草野さんのだよね?」
『渡辺の番号教えてくれって言っても渡辺に聞いてからじゃないとって。ばんごう』
「え? 携帯の? 〇九……うわっちょっ……返してっ いやー」
 うしろから井名里に電話を取り上げられて、夏清が悲鳴を上げる。なにも言わずに井名里が電話を切って、さらに電源も切り、そばにあった冷蔵庫の上に放り投げる。
「なっ!!」
 抗議しようと夏清が体を離し、向き直って井名里を見ると、なんだかものすごく、怒っている。顔が怖い。
「お前なぁ 俺の前で男に番号教えるか?」
「お、男って、滝本君はクラスメイトでしょう? 別にそんなんじゃないわ。用がなかったらかかってこないだろうし……同じクラス委員だから何か緊急の連絡だってあるかもしれないでしょ?」
「お前はアホか?」
「なんかその言い方ムカツク。アホはどっちよ!? 勝手に手怪我して、つい先週まで傷ふさがらなくてっ! その間、誰が頭洗ってたと思ってるのよ!?」
「夏清」
「それにっ! 私が残してたプリン勝手に食べたし!!」
「いつの話しだ!?」
 修学旅行の次の週の月曜日、朝早く登校した夏清が教室に入ると、いつも遅刻ギリギリの草野以下クラスの女子がすでに来ていた。
 どうしたのと聞いた夏清に、草野が渡してくれたのは、緑色の小さな紙袋。
 これ、女子みんなからのおみやげ。と。
 中身は『神戸プリン』でさしあたり高価な物ではなかったけれど、先に帰った夏清にとみんなでお小遣いを出し合って買ってくれたのだ。
 ありがとうの一言しか言えなかった。胸がいっぱいになって、泣きそうなのをこらえるので精一杯だった。そう言えば中学の時は、全く行かなかったのに、誰もこんな風にしてくれなかった。
 感動で言葉の出ない夏清に、クラスの女子たちの質問が矢のように降り注ぐ。電話をしていた相手のことを聞いてもはぐらかす夏清に、彼女たちは早々にその話題を諦めて、夏清を連れて帰った井名里の話になる。
 大丈夫だった? なんかされなかった? と聞かれてやっぱりあいまいに笑って否定する。さすがに服を買ってもらって自分からキスしましたとは言えない。
 そう言えばやっぱりこの時も『夏清を連れて帰ったのは井名里の嫌がらせ』説が流れた。あとで井名里に聞くと保健医の塩野に頼まれたからだと言っていた。断る理由がないどころか、ありがたい申し出だったので、少し考えるフリをして、承諾したのだそうだ。
 一日早く帰って来た二人に、と言うより井名里に、修学旅行は一生の思い出になるもんでしょうが! それをアンタの都合で連れて帰ってくるなんて。と実冴がまたえらく怒っていたが、北條は元気そうな夏清を見て、なにも言わずにお帰りと言ってくれた。
 一方的に責められ続けている井名里がだんだん気の毒に見えてきた夏清が井名里だけのせいじゃないと助け舟を出そうとしたら、実冴が、コイツはね、自分が飛行機乗りたくないから帰って来たに決まってんのよと井名里を指差して言いきった。バツが悪そうに明後日の方を見ていたところを見ると、本当に飛行機が苦手なのだろうということがわかって、夏清は久しぶりに声を上げて笑ってしまった。
 そんなこんなで。四つあるプリンのうち、一つは夏清の意思で井名里の胃袋に収まった。残りの三つはちゃっかり自分ひとりで食べるつもりだったのに、どうして二つも食べられなくてはいけないのだ? 夏清のなのに。
 夏清に涙目で見上げられて、さすがに勝手に食べたことは悪かったと思っている井名里が黙り込む。そのまま三秒。
「わかった。明後日好きなだけ買ってやるから」
「ほんと!?」
 諦めたようなため息をついて、井名里が折れる。すると、先ほど確かに浮かんでいた涙を完全にひっこめて、夏清が嬉しそうに笑っている。
 修学旅行後の一ヶ月あまり、三日と空けずにものすごく些細なことで口論をしている。七対三の割合で夏清が折れることのほうが多いが、泣き落せば井名里が折れることを学習したらしく、絶対に引きたくない時夏清は泣きマネをするようになった。
「いい度胸だな?」
「いひゃい、やめへ」
 ほっぺたをつままれて夏清が抗議する。
 そのまま笑って、顔が近づき、キスをする。
 井名里の唇に残ったアルコールの苦味が、夏清に伝わった。
 
 
「……教え……え? どうかし…………」
 夏清の悲鳴が遠ざかったと同時に、電話が切れてしまう。反射的にリダイヤルしようとした滝本から、草野が携帯を奪い返した。
「反則だよ」
 リダイヤルすれば、夏清の電話番号が出てしまう。チャンスは一度だと言ったはずだ。
「だって、なんか変な切れかたしたぞ?」
「ダンナと一緒だったんでしょ」
「はぁ?」
 さらっと言い放った草野に、滝本が驚いた顔をしている。
「言ってなかったっけ? 委員長、カレシいるよ」
 もちろん言っていないことなど覚えているが、そんなことはどうでもいい。
 普通、恋人と一緒にいて、他の男から電話がかかってきて気分がいい男はいないと草野は思う。女も同じだからだ。ましてや電話番号を教えていない相手から、聞き出すために電話がかかってきたとわかれば、問答無用で切られるだろう。
 呆然としている滝本に、草野がたたみかける。
「しかもすごい独占欲強いのが。委員長の携帯、男の番号一つもないよ。ここに来てる男子もみんな知らないと思うし、突然教えてもいない人間から携帯に電話かかってきたら、不愉快じゃない?」
「渡辺、カレシ、いるのか?」
「うん。多分ね、二年になってからだと思うけど。どんどん綺麗になってるでしょ? 恋をしたら女の子は可愛くなるからねぇ 委員長はもとが悪くないのに地味だったから」
 草野が頷いて、オヤジのようなコメントを付ける。
「明日から旅行行くらしいよ。修学旅行で行けなかった分カレシと行くんだって」
「旅行……って……泊りで? 二人だけでっ!?」
 つまり、美容院に行って髪を整えたのも、その旅行のためなのだと、滝本でさえ気づいた。
「神戸に日帰りはキツイでしょ? それにいちゃいちゃしにいく旅行にどーして他の人連れてくの。二人で! に決まってんじゃん」
 ワザと「二人で」の所を強調して言っておいて、ご愁傷様、と言わんばかりに草野が哀れみいっぱいの視線を滝本に向ける。
「滝本君さ、一年の時も委員長と同じクラスだったんでしょ? もっと早くツバ付けとかないとダメだって。今日来た男どもも、綺麗になってからじゃ遅いんだよ。まあキミタチにそこら辺、分かれって言っても無理ですな。まだまだお子様だし」
 魂が半分どこかに行ってしまったような様子の滝本の背中を、草野が力の限り何度も叩く。
「ほらほら! 通夜みたいな顔してないで。ぱーっと歌えぱーっと! 終電までまだ三十分ある! 大丈夫だ!!」
 回ってきた本を滝本に押し付けて、無意味に明るく草野が笑った。






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