secret zone


 翌日から、高校生活最後の夏休み。変わり栄えのない通知表は、配布されたあといつも通り回収された。本人に見せた後に、直接父兄に手渡されるからだ。
 どうせ終業式だけで、何がいるわけでもない。クラブ活動のあるもの以外、ほとんどの生徒が手ぶらか、空に近いカバンを手に、三々五々、校門に向かっていく様子を、屋上から見下ろす。
 そろいのシャツをきた学生の群れを見ながら、咥えたままだったタバコに火をつけるのと同時に、足元でフェンスに背をあずけて文庫本に目を落としていた氷川哉が、風上を探して移動する。
「ああ、悪い」
 ページを繰る以外に微動だにしなかった哉が動く気配に振り返り、謝りながら、けれど指に挟んだタバコの火を消すこともなく言った井名里礼良に、新しいポジションについた哉が無言のまま首を横に振る。
「ソレ、おもしろい?」
 今度は下を見ていることに飽きたのか、そのままフェンスにもたれかかって、給水塔の影に入って本を読みつづける哉に礼良が尋ねる。
「読み終わったら貸して」
 必要最低限の動きでページをめくって、一度だけ頷く哉に、少し笑ってからまた、だまってタバコを吸う。
 青い空。白い雲。白い煙。
 空にとける煙を追って、見上げた空が目に痛い。
 そのまましずかに、一本吸い終わった時、給水塔の横、屋上へ出入りをするための唯一の通用口の向こうからかかとを踏んだ校内履きの音を響かせて、誰かが勢いよく上がってくる。
「あーっ!! 礼良も哉もっ二人ともやっぱりこっちに居た」
「居たら悪いのか?」
「居るのは悪くない。けどタバコは校内ではやめろって」
 柔らかいネコっ毛に、さらに寝癖を混ぜた頭を掻いて、おそらく全力で走ってきたのだろう、間髪入れずにそう切り替えしたあと、少し上がった息を整えながら、真宮真吾が右手を出す。
「ちっ」
 差し出された手の上に、舌打ちをしながらでもすんなりと礼良がポケットに入れていたライターを手渡す。火がなければ、他に誰も吸う者が居ないので、必然的にタバコを持っていても吸えなくなる。フィルターを噛み潰すくらいの自由ならあるだろうと、お互いの譲歩の結果だ。
「哉も、嫌なら嫌って言えよ」
 礼良がタバコさえ吸っていなければ、哉は大抵その足元か横に居る。煙害がもうないと分って、また定位置に戻ってきた哉に真吾が呆れたように声をかける。
 井名里礼良が喫煙をしていることは、おそらく校内でも知らないものは居ない。教師達もみんな知っているはずだが、ここにいる真吾以外、誰も面と向かって彼の喫煙を咎める人間は、居ない。言うまでもなく怖いからだ。実のところ、折り合いさえつけてこちらが譲歩すれば注意は受け入れられるのだが、今のところその折り合いをつけることができるのは真吾だけらしい。
「とにかく、学校ではやめろって」
 目の前の彼が、教師どころか社会全体の大人と呼ばれる人種のほとんどを自分よりバカな生き物だと認識していて、なおかつ確かに、一部を除いてその大人たちは彼に太刀打ちできないから、より一層彼の性質(たち)が悪くなる。
「一応、禁煙とされる区域は守ってるんだがな」
「それはあたりまえ。それより……」
 それ以前に未成年だろう、という言葉を飲み込んで、真吾が自分がここまで急いできた理由を思い出して、言おうとしたとき。
「お前らまたこんなトコで『会議』かよ」
 開け放ったままの通用口から、もう一人、現れる。
「あっちー」
 シャツのボタンを適当に外して、すそもズボンの上にだして、服と肌の間にぱたぱたと空気を入れるようにシャツを動かしながら白いコンクリートに照り返す光に、一歩屋上に踏み出した神崎速人が目を細める。
「学校史上最小最強最悪の元執行部員で悪巧みか?」
「オレも来たとこだよ。それにサイアクって言うな、ワルダクミも」
「サイアクだっただろうがよ。だれも逆らえない執行部」
「逆らえなかったのは礼良一人。オレたちはなにもしてないから。な、哉」
 この学校の生徒自治は食堂のメニューの設定から、各クラブ活動へ振り分けられる予算まで、全て『執行部』の部員に任されている。その執行部は、部長のみが前任者からの指名制で、指名された側は絶対に断れない。副部長や書記、会計などをこなす人間を、部長の一存で人選を行うことになっている。
 部員という格好で、十二人までなら執行部に登録できるが、速人が言ったとおり、井名里礼良が部長を務めた昨年は、この三人だけしかいなかった。つまり、部長と副部長兼会計、同じく兼書記のみだったのだ。
 系列大学への進学の場合、内申書に執行部員と記載されているだけで優遇を受けることが出来るため、自分を売り込みに行ったバカも少なくはない。そしてその全てが礼良によって完膚なきまでに叩きのめされて追い返されていた。
 実際、礼良は指示と提案のみ、哉は何もしなかったので、真吾が一人でそれらの実行、運営に走り回っていた。ちなみに真吾の仕事の中で一番多くて、一番大変だったのが方々(ほうぼう)から寄せられる苦情処理だったことも言うまでもない。
 もともと、部長は毎年一風変わった二年生に任されるので、古くからのしきたりなどひとつもなく、毎年運営方針も変われば、規定規約も変わる。要するに、部長が法律なのだ。国が定めた法律に抵触することなどお構いなしの部分も多々ある。今のところ警察などのお世話になるようなことは表向き起こっていないことになっている。部長権限で、どんなに活躍著しい部だろうが、気に入らないからの一言で、予算は勝手にカットされる。慣例という文字は、そこにない。
 そんな歴史も理念もなにもない、めちゃくちゃな部だが、おそらく、今後語り継がれるであろう位『史上最小最強最悪』に、礼良はこの部で好き放題やらかした。
 礼良が指名した、現在の執行部長もいいかげん変人だが、礼良の傍若無人振りを知る人間からすればそれさえかわいく思えてしまうのだから、その所業は推して知るべしだろう。
 生徒の自治にゆだねるといえば聞こえがいいが、よく言えば頭が良く、個性があり、その大半が良家のご子息だが、悪く言えばずる賢くて世渡りが巧く、クセというよりアクが強い人格と、経済的にも政治的にも多少のムリは通せるバックがついている手のつけられない生徒を生徒にまとめさせようという教師の思惑から生まれた部だ。発足当時から変わらないのは、教師が全く執行部運営に口も手も足も出せないということだけだろう。
「それよりそこの二人。お前ら異星人か? ちっとは汗かけよ」
 ちいさな日陰に入っているとはいえ、真夏の真昼間、暑いことに変わりはない。時折風は吹くものの、その風とて、冷たいものではない場所だ。走ってきた真吾はすでに汗だくなのに、それより前からいたはずの二人は、汗ひとつかかずに涼しげにしている。
「速人、心頭滅却火もまた凉って有名なことばがあるだろ」
「やかましいわ。お前ら新陳代謝悪すぎ。絶対内臓病んでるぞ。診てやろうか? 今ならタダだ」
「死にかけてもオマエにだけは掛からないから」
「安心しろ。そのときは痛くも痒くも証拠もないように、トドメ刺してやるよ。それより礼良」
「なんだ?」
「お前、進路希望だしたんだってな。やっと」
「おう。早く決めろってやかましいからな」
「そう! 俺がここに来たのもそのことっ!!」
 漫才を聞いていた真吾が、会話への参加表明なのか、手と声を上げる。
「礼良、教師になるってマジ?」
「マジマジ。本気」
「そんなこといつ決めたんだ?」
「ついさっき」
 哉が座った左側をよけて、前と右から来る質問に、すこぶる機嫌もよさそうに礼良が答える。いつまでも進路を決めない礼良に頼むから方向だけでも決めてくれと懇願していた教師は、彼の答えに一瞬固まったのち、思い切り慌てていた。目の前の教師に向かって『アンタでも教師になれるなら、俺なら今すぐでも楽勝』と言い放ったのだ。
「……人のためを思うならやめといたほうがいいと思う」
「お前に教わる生徒がかわいそうだろうが」
「ほう、じゃあお前らはこれから一切俺に授業で分からなかったこととか、聞くなよ。教えないから」
 異口同音で心底イヤそうな顔をした真吾と速人に、にやりと笑って切り返す。
「どうしてそうなる。トモダチだろうオレたち」
「じゃあ親しき仲にも礼儀アリってことで一問千円でどうだ?」
「友達から金取るなよ!! な、哉もなんか言えって。礼良には世界で一番似合わない職だろ!?」
 棒読みのような速人のトモダチ発言に切り替えした礼良に、真吾が吠えてだまったままの哉に振る。
 三人の会話にまったく興味を示さずに本を読んでいた哉が、話を振られたことに気づいたのか、三人分の視線を感じたのか、表情の薄い顔に、親しい人間だけわかるくらいわずかに怪訝そうな変化を載せて、本から顔を上げる。
「…………………」
「ダメだ。コイツなんも聞いてねぇよ」
 無言のままじーっとしている哉に、速人が笑って肩をすくめる。
「さいーっ」
 じたばたと動きながら、速人の言葉を機にあげていた顔を降ろしてしまった哉に真吾がまた吠えた。
「気にするな。お前はしたいことしてていいから」
 全くマイペースさを崩さない哉に、礼良が苦笑する。
 了解を伝える最低限の動きとも言える、首を縦に振るというきわめてシンプルな動作の後、また何もなかったように哉が指を挟んで閉じていた本を開く。
「大体な、速人みたいな人間が医者になれるような間違った世の中だぞ? 俺が教師になって何が悪いんだ?」
「失敬だなお前。俺はウチの兄貴みたいに裏口からじゃなくこのまま系列の大学にある医学部に上がれるだけの学力はある」
「だから、性格だろう? 俺だってなんにでもなろうと思ったらなれるぞ?」
「何を言う。俺は礼良や哉に比べたら、全然普通だ」
「比べる対象がおかしいって。だから、礼良。なんにでもなれるのに、よりによって……」
「だから、一番似合わなさそうなの選んだんだろうがよ。ほれ、なんつーか、人間自分の限界は知らなきゃいかんだろ」
 再び始まった礼良と速人の漫才に今度は混じりこんだ真吾に、しれっと礼良が言い放つ。それを聞いて、真吾が大げさにため息をついた。
「『どうしてここで礼良を止めなかったか』って、何か事件事故があったら後悔しそうだからな。お前の限界探索に付き合わされる人々に申し訳なく思わなくていいように、未来の自分の苦労をひとつ摘み取ろうかと。一応止めたことは記憶に残しといてくれ。オレは止めた。お前が聞かなかった」
 アンダスタン? といった調子で、真吾が苦笑する。どうせ自分たちが止めろといったところで、礼良が決めたことを覆せるとは思っていない。それは速人も同じらしく、こちらもそのとおりと笑っている。
「職員室、先生たちすげー困ってたな」
「だろうな、系列の大学、教育学部ねぇもん。外部受けるの?」
「あいつらのことなんか知るか。俺は俺のしたいようにする。ま、ドコでもいいんだけどな。近場で探す」
「真吾は? 政経?」
「ああ。哉もだよな?」
 おそらく、条件反射なのだろう。本を読んでいる哉が頷く。みると右手のほうがかなり厚くなってきている。佳境なのか、本当に何も聞いていない様子だ。今なら何を聞いても頷くだろう。
「あーあ。六年前は卒業なんてホントにするのかと思ってたけど、気がついたら高三の夏休みか。速人は? 実家、今日帰るの?」
「そ。さっき学割証明取ってきた。礼良と真吾は?」
 哉は、帰らないことを誰もが知っているので聞かない。聞いたとしても適当に頷かれて終わりだろう。
「俺は盆だけ。親戚がやかましいからな。正月ほどじゃないけど臨時収入稼ぎに帰る」
 井名里の実家は他県にあるが、そこまで帰らなくても東京にある屋敷で盆の期間寝起きすれば、やってくる大人たちが小遣いを落として行ってくれる。断る理由はない。速人が家に帰るのも、似たような理由もあるのだ。七人いる兄弟のなかで五歳の妹の次に父親に気に入られていることを知っているので、帰ってからももちろん、親の金で遊び倒す。
「オレは、夏コミまでこっちにいるわ」
「でたよ、オタク発言」
「悪かったな。コピー本ならギリギリまでかかれるんだよ。家に帰ったら絶対できないから、こっちで詰める」
 ここに揃った四人とも、来るべき大学進学というイベントに向けての勉強を、この夏しようとなどとはカケラも思っていない。
「そこまで趣味に時間を割く真吾がどうして俺より成績いいのか疑問でしかたねぇ」
「速人は夜遊びしすぎなんだよ。夜寝ないから授業中に寝てるお前に比べたら、まじめに授業受けてるぞ、オレ」
「嘘つけ、じゃあなんで借りたノートの横、えらい凝った四コマ描いてるヒマあるんだよ」
 そしてこの四人は、テスト前だろうがなんだろうが、寮へ教科書その他を持って帰っていない。ノートを見るのは学校の、しかも授業中だけだ。必然的にそのノートに記されたラクガキにいたるまで、授業中にされたものしかない。哉は、教科書にメモを取るだけで、ノートさえ持っていない。
「アレか? 授業の要点まとめようとしたらなんとなく起承転結で四コマになるんだよな」
「ヘンなヤツ……」
 速人のため息交じりの言葉を最後に会話が途切れたすこしあと、哉が本を読み終わって、ぱたんとそれを閉じる音が静かに響く。哉が無言のまま読み終わった本を礼良に差し出し、曲げていた足を伸ばして、柔軟のつもりなのかそのままべったりと前屈をしている。受け取った本を本当に読んでいるのかという、驚異的な速さで礼良が読み進む。
「なぁ」
 フェンスを両手で掴んで反るように空を見上げていた真吾が、なんとなく、誰もしゃべらなくなった柔らかい沈黙を破っておもむろに口を開く。
「五年後……十年後って、オレたち何してると思う?」
 本を閉じ、顔を上げる。けれど礼良は何も答えない。哉も反応を示しているが、同じく黙ったままだ。
「そりゃ、若くてキレイな看護婦さんばっかり集めてヒダリウチワで医者してるよ、俺は」
 分かりきったこと聞くな、というような顔で、速人が言う。
「速人なら五人や十人ガキいそうだよな、そのころ」
「バカ言うなよ。そんなヘマするか。真吾は国家公務員だろ?」
「うん。第一種で三十までに課長の予定。一番庶民的だろ?」
「そうなのか?」
「ある意味な。税金で飯を食うってのが一番安定してる。今のところ」
 哉の家が大会社。速人の家は病院経営。そして礼良の家が政治家。対する真吾の家は、父親は普通の地方公務員だ。このメンツで庶民を名乗れるのは真吾だけだろう。
「で、礼良はそのころもう教師やめて、別のことしてる、と。十年後はまだ二十八だから、親父さんの跡はまだ継げないのか」
「勝手に決めるなよ。無職になっても政治家にはならねぇよ、俺は」
 ニヤニヤと笑いながら言った速人に、礼良がイヤそうな顔をする。続けているかどうかについて、父親の跡を継がないと言ったときのようにキッパリと否定しないのは、本人もその仕事を続けているかどうか、予想が立たないせいだろう。
「哉はー……どうしてたい?」
 真吾の質問に、再び、三人分の視線が哉に向けられる。今度は本を読んでいなかったこともあってちゃんと会話を聞いていたらしく、反応が、人より三倍遅くても、さっきよりは十倍早かった。
「……普通の、人」
 台本なら、真っ白な間が、哉のセリフの後に数ページ続くような、そんな、良く分からない空間を感じた後、速人がやれやれと肩をすくめる。
「あのな、哉。それは、ここに居る礼良がおとなしくてよいこの『井名里君』に戻るより、ムリだと思うぞ」
 今の時点で十年後の目標が普通の人、ということは、現在本人自身『普通』の定義から自分が外れているらしいことは自覚しているということだろう。
「……とりあえず、その目標を達成したいなら、もうちょっと他人とコミュニケーション取ろう、な、哉」
 諭すように真吾に言われて、哉が微妙に神妙そうな表情で頷いている。
「速人、決め付けるなって。なれるかも知れんだろうが」
 言いながら、そんなことはこれっぽっちも心にないといった顔で礼良が笑う。
「だな。わかんねーよ、十年後なんて。それより俺は今日帰る特急の席が確保できるかどうかのほうが心配だ」
「何時のヤツに乗るんだ?」
「三時」
 真吾に聞かれて、速人が腕の時計を見る。ちょうど一時を回ったところで、屋上から日陰が消える時間帯だ。このままここにい続けると日射病になりかねない。
「じゃ、メシ食いに行こう。寮によって、速人の荷物取ってから、駅ウラの飯屋行こう飯屋。速人のおごりで」
「バカか、言いだしっぺがおごるに決まってるだろうが」
 寮では朝夕は食事が出るが、昼は何も出ない。これは休日も同じことで、夏休みに残る人間は、昼飯が食べたければカップ麺に湯を注ぐか、コンビニで弁当を買うか、どこかに食べに行くかしかない。
 そしてなぜか、ここの生徒たちは金持ちのクセに駅ウラにある大衆食堂がお気に入りらしく、いつ行ってもさほど広くない店内にこの学校の生徒が誰かいる。
「庶民にたかるなよ、金持ちのぼんぼんのくせに」
「誰がカネモチだよ。俺の財布には学割使ってギリの旅費しかのこってねーの」
「速人ー……お前、オレのオヤジの月給より仕送り多いのに、どうしてそこまで使えるんだ?」
「しょうがないだろ、一ヵ月半逢えない子達とちょっといつもより派手目に遊んだら、あっという間にそんなもんなくなった」
「遊びすぎだお前……ここんとこ帰ってきてないと思ったら……」
 寮の規則にはちゃんと門限もあれば無断外泊を禁止する一文もある。六年間生活して、破ったことのない人間はいないだろうが、速人は破りすぎである。
「カネがないのは自業自得。乗る列車、鈍行に変えたら浮いた金で全員におごれる。哉も行くぞ」
 そう言って礼良が、座り込んだ哉の頭にぽこんと文庫本を置く。
「このバカどもっ!! 鈍行だと五時間かかるんだぞ」
 本を乗せたままゆっくりと立ち上がる哉を待って、四人でぞろぞろと屋上をあとにする。屋内に入っただけで、ほんの少し、涼しいような気がして、速人が熱がこもってしまった服の中に、新しい空気を送り込みながら言う。
「知ってる。去年行ったから」
「ああそれもっ!! お前ら来るならせめて前日に連絡よこせよ。いきなり『いま駅にいる』じゃ、今年は迎えに行かないからな。着替えも用意して来いよ」
「仕方ないじゃん。日帰りの予定だったんだから。そしたらさ、着いてみたら東京に帰る電車、もう一本もないなんてなー」
 あはははははは。と笑いながら真吾が踊り場までの三段の階段を飛ぶ。
「特急ならあっただろうがっ! ほんと、大半金持ちのくせに、どうしてお前ら18キップなんか使うんだ!?」
「突然思い立ったから、学割申請できなかったんだよな」
「思いつきで押しかけられる身にもなれ」
「じゃあ今年は、出かける前に電話する」
「もう来るな」
「速人のトコの若いお母さんのから揚げは美味かったな」
「そうそう、男ばっかり突然来たもんだから、手っ取り早く焼肉したら哉が野菜しか食ってないもんだから。トリしか食えないって聞いて聡子(さとこ)さんが作ってくれたのに、どう見ても哉はほとんど食ってなかったアレだよな」
「速人の母ちゃんは怖かったし。肉ばっかり食ってたら、問答無用で野菜皿にぶち込まれたよ、オレ」
「苑重(そのえ)サンのほう? アレに逆らったらあの家で生きてけないからな」
 速人の父親には四人妻がいる。法的な妻は一人目だけだが、二人目の妻が速人の母親の苑重で、四人目が聡子だ。その四人がなぜかやたらと仲がよく、それぞれ同じ市内に居を構え、行ったり来たりしている。現在父親の世話をしているのが、一番若い聡子で、当然家のことは全て彼女が仕切っているが、人手が足りないときは苑重のように呼べば手伝いにきてしまう。愛人に至っては父親本人でさえ何人いるのか把握していないだろうと苑重が笑って言っていた。ちなみに愛人と妻の差は、子供がいるかどうか、ただそれだけらしい。
 その話を聞いて、親元を離れた瞬間から遊び歩いていた速人の行動は、絶対に父親からの遺伝だと納得した。
「焼肉でうまいこと肉ばっかり、人一倍食ってたのに、から揚げも礼良がほとんど食ってた」
「人聞きが悪いな。それなりにバランスよく野菜もとって、そのままだと野菜も取らない哉にまわしてたんだろうが。から揚げも、哉が食うと思ってとっといたら、食わなかったから俺が食ったんだよ」
「モノは言いよう」
 全てを哉にあわせた礼良の言い訳のようなセリフに速人が笑う。
「哉、おごってもらえよ。で、ついでに俺らもおごってもらうから」
 後ろ向きに廊下を歩きながら同意して笑っている真吾に、礼良がケリを入れる。
「哉はともかく、なんでお前らまでおごらなきゃならないんだ」
「ほんとにさ。礼良って哉だけ特別だよな」
 だけ、と言う部分を強調しながら真吾が蹴られても当たらない距離を保ってから言う。
 わずか三十分足らずの間に全く生徒の姿がなくなった廊下に、三人分の声と足音が響く。
 一人分少ないのは、軽い文庫本を頭に乗せたままなのに、意識してバランスを取る様子もなく、哉がやかましい三人のあとを足音も立てずについて歩いているからだ。
 小学校を卒業するまでに、考えつく限りとも思える習い事をしていたらしい哉は、ピアノ、書道、武道といったポピュラーなものから果ては日舞まで習っていたのだ。日舞については物心つく前から通っていたらしく、怖いくらい姿勢がいい。正座も何時間させてもじっとしていられるのだ。
 一体どのくらい習い事をしていたのか小学六年生の時の一週間×二十四時間のタイムスケジュールを書かせてみたら、睡眠時間以外自由な時間全くなくて、休日も朝から晩までお稽古事が詰まっていた。
 ただもくもくと機械的にとはいえ、これらの習い事をこなしながら、哉はこの学校の入試をクリアしたことになる。おそらく、この学校に入ることがこれらの習い事が免除される材料だったのだろうが、本人が何も言わないので実際のところはわからない。
「だって、ほんとに哉だけ特別じゃん」
 本が頭に乗っていなくても、ひたすらマイペースな哉は、歩調も人に合わせようとしない。歩きながら会話をしないので、一人遅れても平気なのだ。いつの間にか遅れた哉を、昇降口の手前で止まって待つ。
「まあな、お前らと哉は別だな」
「あら。聞きました? カンザキサン」
「聞きましたわよ。やっぱりこの二人、そういうカンケイなんだわ」
「アホみたいなことアホみたいな口調で言ってんじゃねぇ。グダグダ言ってるとケリ込むぞお前ら」
 急ぐわけでもなく、さりとて待たせることを当然と思っているわけではないのだろうが、哉がやっと三人のところにたどり着く。その頭の上から本を取って、礼良が言より早く二人にがつがつとケリを入れている。
「いっ! 言う前に足が動いてたぞ今っ!! 本気で蹴っただろう!? 冗談なのに」
 涙目になりながら真吾が悲鳴をあげる。避け損ねて急所にヒットしたらしい速人は、それさえも出来ずに蹴られたところを押さえて蹲っている。ルールにとらわれず相手を倒すことだけを目的にした武術を習っていた人間は、存在だけで凶器だ。礼良にやられた場合、体格のよさも手伝って、軽く触れられただけのように見えて、青あざどころかそれを通り越して黄色に変色するくらいひどく痛めている事がある。今夜は絶対、寝返りを打つのさえ痛いはずだ。
「哉、ほっといて行くぞ、おごってやる。何食う?」
「………たまご」
「じゃ親子丼定食」
 外履きに履き替えながら、本当に動けないでいる二人を放置して、先に礼良が校舎を出る。手に持った本をひさしのようにして日差しをさえぎり、ハレーションを起こしたような屋外に比べてひどく暗い屋内に、声をかける。
「二人とも、俺が食い終わるより先に飯屋につけたら哉と同じもんおごってやるぞ」
「意地でも行く……」
 当分動けないことを知っていてそう言っているが、ダラダラと歩いても五分かからない場所だ。通過点にある寮に寄っても、おそらく間に合う。つまり遠まわしにおごってやると言っているのだ。
「はじめからおごる気ならこんなことすんじゃねぇ! 死ぬかと思ったぞ!!」
 何とか立ち上がって、速人がかすれた声でつぶやた言葉が届いたのかニヤリと笑ったあと、がんばれよと口だけ動かして、礼良が背を向けた。

                                        2002.7.26=up.





→ そしてあとがき


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