1−0 由紀子(ゆきこ)の場所

 覚えているのは、目がくらむような対向車のライト。そして、タイヤが軋む音。母の悲鳴。
 とても熱くて、息ができなくて、体が動かなかった。
 目が覚めると、白い天井から下がる点滴の黄色。消毒薬のにおい。リズムよく聞こえる電子音。
 すぐに、従姉弟の佐貴(さき)ちゃんと隆(たか)ちゃんと裕(ゆう)ちゃん、美岬(みさき)おばさん、辰巳(たつみ)おじさんと、おばあちゃんがやってきて、みんなに口々によかったねとか、痛くない? とか聞かれて、本当に、私、なんの事だか全然わからなかったの。
 ぼうっとしながらそれでも、お父さんやお母さんや陽太郎(ようたろう)がいなかったから、どうして居ないの? って聞いたんだと思う。
 それに答えてくれたのは佐貴ちゃん。
「あのね、由紀子。由紀子のお父さんと、お母さんと、陽ちゃんはね、もう、居ないの」
 どうして? と聞きかけて、やめた。
 美岬おばさんが佐貴ちゃんになにか、怒ったように言っていた。その時やっと、事故に遭ったんだって、思い出したの。
 運転していたお父さん。
 助手席で弟の陽太郎を抱いていたお母さん。
 運転席の後ろに居た私。佐貴ちゃんがくれたクマのぬいぐるみを抱きながら、半分寝ていていた。
 けれど、私だけが、助かった。
 私が目を覚ましたのは、事故からすでに一ヶ月近くすぎていて、三人のお葬式は、もう終わったあとだった。
 だから本当に、全然実感がなかったけれど。

 対向車と接触。そのまま五メートルほどの崖を車は滑り落ち、炎上したのだと言う。
 私は、車が落ちたとき、そのまま車外に投げ出され、焼け死ぬことを免れた。
 車のガラスで切ったのだろうといわれた、右のこめかみの上の傷は七針縫った。
 クッションになった木の枝で右手の手首付け根の腕から肩にかけて幾筋もえぐるようにできた傷。
 右腎臓も摘出。右足腿の骨は粉砕骨折。腕と足だけで、三回の手術。リハビリの期間もくわえて、私は結局、小学校を一年休学した。
 重なる手術の後遺症で、ほんの少し、右足と左足のバランスが狂って、どうしても庇うように引きずるのが癖になってしまった。水泳はもちろん、マラソンも出られなかった。
 身寄りのなくなった私は、佐貴ちゃんのうち、杉田家に引き取ってもらって、十六歳になる今日まで、ずっと実の娘のように、いいえ、それ以上に、みんなに大事にしてもらって私はとても幸せに暮らしていた。


1−1 引き続き由紀子の場所
「それじゃぁ、行って来ます」
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけてね。せっかく入学式なのに、私かおじさんが行けたらいいんだけど、急な仕事が入っちゃって、お休み取れなくてごめんね。おばあちゃんもどうしてこういう大事な日にぎっくり腰になるのかねぇ」
 新しい制服。新しい靴。新しいかばん。
 中学の時よりも三十分早く出る玄関に、自分の支度半分の美岬おばさんが出てきてくれて、見送ってくれる。
「やっぱ私行く。ほら、他の人には駿が熱だしたって言ったらいいんだし」
「? ぼくおねつないよ?」
 社会人と言うより、母親にあるまじき発言をする佐貴ちゃんを、幼稚園の制服を自分で着ながら、佐貴ちゃんの息子の駿壱(しゅんいち)君が不思議そうに見上げている。
「いいって、佐貴ちゃん。佐貴ちゃんだって仕事忙しいでしょ? 私一人でいいから。待ち合わせ遅れちゃうから、ほんとに行って来ます」
 時計を見て、玄関の戸を開けて今度こそ本当に家を出る。同じ女子高に進学した友達を拾いながら駅まで行かなくちゃいけないのだ。
「ゆきちゃんいってらっしゃい。お母さん、ぼくもようちえんおくれちゃうよ?」
「ぎゃー!! お父さん! 希一(きいち)君!! 用意できた!? 遅刻するわよぅ!!」
 いつも朝食の後片付けをしながら聞いていた佐貴ちゃんの悲鳴が閉めた戸の向うから聞こえるのが、新しい生活を象徴しているようで、クスクス笑いながら、私は家をあとにした。


1−2 道彦(みちひこ)の場所
 思い起こすこと二ヶ月前、二月半ばのくそ寒い日。
「頼む、遠野(とおの)。このとおり」
 そう言いながら第二学食の机に額をこすりつけんばかりにしているのは大学の時の同級生、中島浩司(なかじまこうじ)。
「悪い話じゃないだろ? 一年だけ、今年一年だけでいいから、ウチの学校に来てくれよ。お前も教職とってたよな?」
 そりゃあ、将来何かのたしになるかもしれないので、どうせヒマだったことも手伝って教職の講義も余分に取った。ちゃんと教育実習もした。
「他に居ないのか? 頼めるやつ。高校の化学教諭の資格なら、大勢居たじゃないか」
「あほう。この年になってフラフラしてて、パートで来れるやつなんかお前以外にいるわけねーだろ。正職員で雇うほど、ウチに余裕はない」
 威張って言うな威張って。それに悪かったな。フラフラしてて。一応上場企業からの勧誘を断って……いるとはいえ研究室に残っている僕は、やっぱり仕事についているヤツらより、好きなことをやっているように見えるんだろうか?
「火曜と木曜の週二日。化学があるのは一年と二年だけ。合計で六クラス受け持ったらいいだけなんだって。ウチの学校人数少ないから」
「だからってなぁ」
「女子高だぞ? 女子高!! 若い女の子ばっかりだぞ? いいところだぞぅ 男のロマンがあふれてるだろう?」
 若すぎるわ。
「なんだよその『男のロマン』って。僕はまだ犯罪者になるつもりはないぞ。なんで女子高なんだ。お前のうちの家業」
 中島の家は、女子高を『経営』している。中島の祖父が理事長で、親父が校長。本人はヒラの社会科教師だが、いずれは教頭、校長、理事長になるのだろう。
「俺に聞くなよ。俺が生れる前からあそこは女子高なんだから。とにかくさー この春から来てくれることになってた先生がなんか婦女暴行とかで警察につかまっちゃってさ、急に化学が空席になっちまったんだよ。科学の先生は教えることができないとか言いやがるし、ウチみたいな小さい学校、理科系の教師二人も雇う余力もないからさー 給料も安いし。欠員できちゃって。だからって授業しないわけにもいかないだろう? いつかこの借りかえすからさ、頼むっ! このとーおりっ! 時間作ってくれないか?」
「頼まれてもな、僕だって教授に聞いてみないと。これでも一応助手って肩書きもらってるんだし。即答はできないよ」
「野村教授だろ? 大丈夫だ。野村教授、俺の親父と同期でさ、親父が頼んだら二つ返事で貸しだしオッケーって……」
 それを聞いて面白くなさそうな顔をした僕を、失言でしたか? と言った表情で中島が上目遣いに見ている。なんだよ。ならもう僕に選択の余地なんかないじゃないか。そのレベルで話がついているのなら、中島に頼まれなくても教授命令が下りるだろう。
「一年だけだからな。途中でも他で見つかったら代るから。僕だってもうかれこれ六年以上前に二週間ほど実習しただけだから、ちゃんとできなくても文句言うなよ?」
「ありがとうっ!! 心の友よ!!」
 僕はのび太かい。

 そんなこんなで桜の季節。成人式以来ネクタイを締めて、背広を着る。
 入学式と始業式は、教師の紹介もあるとかで、記念すべき女子高への初登校、ではなくて、初出勤……いや、レンタル開始日は四月九日入学式の日。
「おはようございます」
「おぅ おはよう」
 挨拶をして、三月に一度だけ来た職員室に入ると、きちんと背広を着込んだ中島がにこにこしながら挨拶を返してくる。
「おはようございます。遠野先生」
「あ、えっと」
「現国の結城(ゆうき)です。結城いずみ。よろしくお願いしますね」
 先生、と呼ばれて、どぎまぎしながら挨拶もできない僕を見て、結城先生がにっこりと微笑んでお辞儀をしてくれる。
「中島先生、私、先に講堂に行ってますね」
 するりと僕の脇を通りぬけて、スタスタと行ってしまう。
 ざっと一瞥しただけで、やたらと若い教師が目に付く。
 それを尋ねると、中島は一言ポツリと『何度も聞くなよ、お金ないんだ』とだけつぶやいた。確かに。臨時講師も時間給だしな。年を取った教師はそれなりに単価が上がるものなのだろう。
「うちは家政科だから、そっちの方はすごいぞ。化石みたいな先生がてんこもりだ。俺も怖くて逆らえないのがごろごろいるからな。もう講堂に行ってるけど。あ、お前も講堂行ってくれよ。俺、職員室でお留守番星人だから」
「事務員は?」
「ウチの母親。まだ来てない」
 右に進んですぐだから、というアバウトな説明を受けて、職員室をあとにする。
 廊下には、思春期まっただなかの女の子達がうろうろしている。女子高だからあたりまえだけど。

 言われた通り右に進んで、すぐに『講堂』と書かれた建物に到達する。狭。
 だいたい、一学年三クラス、百人弱だ。つまり全校生徒合わせて三百人くらい。建物も大正時代の学校風景が撮影ができそうなくらい古い。唯一新しいのは、去年から制服のデザインが古風なブレザーからやたらぴらぴらしたのに変わったくらいなところだろう。どうでもいいけど新しい制服、スカート丈短すぎないか?
 こそこそと講堂に入って、教師が並ぶ場所へ向かう。さっき挨拶をした結城先生が、手招きしてくれているのがありがたい。
「すいません。順番とかあるんですか?」
「はい。遠野先生と、体育の湯元(ゆもと)先生が、新しく赴任されてきたじゃないですか、だからあっちです。ブレザー着たあの人の隣、あそこが遠野先生の席。校長に呼ばれたら、壇上に上がってごあいさつしてくださいね」
「え? 挨拶あるんですか?」
「聞いてなかったですか?」
「聞いてなかったです。紹介はあるって聞いたけど」
 聞いてたら来てません。
「大丈夫ですよ。名前と、受持ちの授業と、担任がどのクラスか言うだけです。先に湯元先生がご挨拶されるので、まねしたらいいですよ」
「担任?」
「それも聞いてないんですか?」
「いやだって、僕、臨時講師ですよ?」
「えー? でも黒板に遠野先生の名前ありましたよ。たしか一年華組の副担任。まぁ 分からなかったら言わなくていいんじゃないですか?」
 初耳だ。それは本当に初耳だ。僕は火曜と木曜、週二日だけ出てきたらいい非常勤講師じゃなかったのか?
「あはははは。副担任って言っても、担任がいたらすることないですから、気にすることないですって」
 のほほーんとした結城先生の言葉。自分が高校生だった時ってどうだったっけ? だめだ。行ってた高校、新設の男子校で先生の入れ替わりなんてほとんどなかった気がする。副担任ってのも、覚えがないぞ。
 なるようにしかならないだろう。覚悟を決めて席につく。こんなに大勢の前で話をするなんて、中学の時生徒会長やって以来だなぁ……なんて、のんきなことを考えながら。


1−3 由紀子の場所
 あ。
「どしたの? ゆっこ?」
「え? あ、ううん。なんでもない」
 思わず、声が出ちゃった。だってほら、目の前にいるの、道彦君でしょ。十歳以上離れてる人に『君』づけは失礼かもしれないけど、佐貴ちゃんがそう呼ぶもんだから、私もうつっちゃったのね。だから道彦君。わー先生だって。びっくり。
「なにニヤニヤ笑ってるのよ、気持ち悪いなぁ」
 隣にいる、同じ中学から進学した明神京香(みょうじんきょうか)が、からかうようにそういう。だって、笑えるんだもん。
「キッカ、ゆっこが笑ってんのはいつものことだよぅ」
 振り向いてそう言うのは、やっぱり同じ中学だった西園創子(にしぞのそうこ)。いつもいっしょにいた三人。三人とも同じ女子高に進学。私たちが通ってた中学からは、この三人しか来てないんだけど、なぜか同じクラスになってしまった。
 二人とも家も近所で小学の時、私が転校してきて以来、ずっと友達でいてくれる大事な人たち。
 二人とも、私の傷を見て泣いてくれた人たち。痛かったでしょう? 悲しかったでしょう? って。家族がいないなら、私たちがなってあげると約束してくれた、いつも気を使ってくれる親友達。
 コソコソ話をしていると、多分この学校でも一番年配の、私達一年華組の担任の小石原(こいしはら)先生がこちらに顔を向ける。白髪の怖いおばあちゃんな先生にじろりと睨まれて、私たちはまた黙り込む。
 これは、帰ったら佐貴ちゃんに報告しないといけないわよね。
 楽しいことがあるといいなと思ってた高校で一日目にすごい発見だわ。
 私はそのあとのいろんな人のご挨拶なんか全然聞かずに、どうやって道彦君とコンタクトを取るのか、帰ってなにから話そうかと、そんなことばかり考えていた。


1−4 道彦の場所
 なんとか挨拶も乗りきり、入学式も始業式も一度に済ませてしまう。男性の先生方が講堂に出された椅子を片付けるのを手伝って、ほっと一息ついたのは、すでに昼も回った頃。
「サンキュー遠野。授業始まるの来週からだから、今週はこれでおしまい。お疲れー」
 久しぶりに動いて、どっと疲れて職員室の自分に割り当てられた椅子に座っていると、全ての片づけを終えた中島が、コーヒーを差し出してくれる。
「中島、副担ってなんだ? いつの間に僕はそんなことまでしなくちゃならなくなったんだ?」
「わ、もう気付いた? 大丈夫だよ。一年華組の小石原先生、殺しても死なないタイプだから」
「だれがですか?」
「うわっ」
 飲みかけのコーヒーを吹きこぼさんばかりに驚いた中島が、文字通り飛びあがって横にずれる。中島の向こうに立っていたのは、中島の言う通り、化石寸前ってカンジの女性教師だ。
「いや、うわ……ははははははは」
 乾いた笑いを残しながら、中島がムーンウォークで去って行く。バカだ。コイツほんとにバカだ。
「あ。すいません。今年一年お世話になります。化学担当の遠野です」
「先ほど伺ったのでお名前は存じております。わたくしは被服の小石原です。こちらこそ、よろしく」
 言いたいことを言い終えたのだろう、小石原先生はそのまま自分の席に座ってしまう。
「中島、もう帰るわ」
「おぅ じゃあ来週火曜な、遅刻すんなよ」
 お前じゃあるまいし。僕は毎朝七時半には研究室開けてるんだぞ。今日だってそっちに寄ってからここに出勤してるんだし。
 今年の教科書とそのガイドを手にして、首を回しながら職員室を出る。
 一日目でしかも授業もないのにこんなに疲れてどうする?
「みー……じゃなかった。遠野先生っ!!」
 いきなり、階段の踊り場から、声が降りてくる。まだ一度、全校生徒の前で自己紹介をしただけ。初めてきた学校で、まさか生徒に名前を呼ばれるとは思わなかったので飛びあがるほど驚きながら、振りかえると、階段を降り終えた、色素の薄い茶色い髪をおさげにした少女がにこにこ笑っている。
 誰?
「えーっと」
 わりと人の顔と名前を覚えておくのは得意なほうなのだが、分からない。でも、面と向かって誰? と聞くのも気の毒なくらい無邪気に笑っている。
「へへへ。やっぱ分からないですか?」
「ごめん」
「当然です。最後に会ったの八年前だもん。みちー……じゃなくて、遠野先生の成人式の時」
 えへんと偉そうに胸を張って、少女がそう言う。
 八年前。成人式。この子なら八歳くらいか? それなら会場にいたとは思えない。成人式の時会場以外で行ったのは、大学の友人と行った飲み会と……杉田先輩の家にむりやり挨拶に行かされて……あっ!
「由紀ちゃん?」
「正解です!! 思い出してくれましたか?」
 心底嬉しそうに、少女が笑う。
「………えー……そっか、もう女子高生なんだ」
「そうですよ。今年入学したんです。高校入って、何かいいことないかな、って思ってたら、みっ……遠野先生がいるなんてびっくりです。いつから先生なんですか?」
 今日からだよ、とは、さすがに言えなくて笑ってごまかす。
「なんだか由紀ちゃんに先生なんて呼ばれるとこそばゆくてダメだな」
「私も。つい名前呼んじゃいそうです。遠野先生も私のこと『由紀ちゃん』なんて呼んじゃダメですよ。ちゃんと苗字呼ばないと」
「でも僕、由紀ちゃんの苗字知らないよ? 確か杉田じゃなかったよね?」
「うわ。ひどい。知らなかったんですか?」
「知ってたら、生徒名簿見たときに分かったよ」
「そっか。そうですよね。根岸(ねぎし)です。根岸由紀子。一年華組です」
 うーわー副担のクラスだ。
「それじゃあ。今度の化学の授業、楽しみにしてますね。さようなら」
 ぺこんとお辞儀をすると短いスカートを翻して、由紀ちゃんが生徒用の昇降口へと歩いて行く。知っている人しか気付かないくらいそっと足を庇いながら。
 その後姿が、八歳の頃の彼女と重なった。両親と弟を一度に失って自らも体に傷を負いながら、それでも笑っていた小さな少女と。


1−5 由紀子の場所
「それでね。もうびっくり。だって校長先生に呼ばれて、ステージに出てくるんだもの」
 佐貴ちゃんもその旦那さんの希一(きいち)さんも、いつも帰りが遅い。辰巳おじさんがやってる法律事務所に勤めてて、いつでも仕事がいっぱいあるのだと佐貴ちゃんがげんなりしながらよく愚痴ってる。ちなみに、辰巳おじさんはまだ帰ってきてない。
 なので、今、二人が帰ってきて、ご飯を食べている前で、お風呂から上がった私がずっと一人でしゃべりつづけている。
 佐貴ちゃんたちのうちは、この杉田の家とは百メートルくらい離れたマンション。でも毎日仕事三昧だから、小さい駿君を一人で置いておくわけにもいかないので、幼稚園が終わった駿君はいつも両親が帰ってくるのを杉田の家で待っている。駿君を迎えに来るついでにこっちに寄ってご飯を食べて、朝も出勤前にご飯を食べにくる。車だからってパジャマで来るのよ。
「へー あの道彦君がねぇ」
「でしょう?」
「希一君知ってた?」
 ぼりぼりと漬物を噛み砕きながら、佐貴ちゃんがそう聞くと、希一さんは黙って首を横に振る。もともと寡黙な人だけど、ご飯食べてるときはホントに何もしゃべらないの。
「だよねー最後に会ったのって私らの卒業式だっけ? 今じゃ年賀状くらいだもんね」
 希一さんも、うんうんと頷きながら、同じように漬物を食べている。
「はー おいしかった。ごちそうさまでした」
「はい。おそまつさまでした」
 ご飯の一粒も残さずに食べ終えた佐貴ちゃんが手を合わせるのと同時に、希一さんも箸を置く。つくづくペースの同じ夫婦だわ。だてに小学校から中学、高校、大学に職場までいっしょで、結婚しちゃったわけじゃない。
「……道彦ならいいんじゃないの?」
「なにが?」
 ぼそっとつぶやいた希一さんに佐貴ちゃんが問い返す。
「先生とかでも」
「そう?」
「研究室でカビ生やしてるよりは」
 希一さん、主語述語が全然足りないです……
「それもそうよねー彼、ほっといたらそのまま結婚もしないであのまんまよ。しかし、選りにも選って女子高の先生? 絶対道踏み外すわよ。ああいうまじめなタイプって」
 うわ。ひどい。
「だめよ、由紀子。あんなおじさんに引っかかったら」
 二人のお茶碗を片付けていると、佐貴ちゃんがさらにひどいことを言ってる。
 おじさんって言っても、まだ二十八だよ。それに全然相手にされてない感じだったもん。十二も違えば当たり前かなぁ。

 悔しいなぁ。

 え? あれ? なんで?……………
「なに固まってるの? 由紀子。さーてっと、じゃ、希一君、駿連れて帰ろっか」
 ………………あ、そうか。そうなんだ。うん。私、道彦君のこと好きだったんだ。我ながらすごいなーだって、ほとんどはじめまして、くらい逢ってなかったのに、すごく簡単に、なんていうのかな。うん。初恋だったからかな。佐貴ちゃんが連れてくる、小学生の私からしたらずっとずっと大人な人たちの中で唯一私のことを特別扱いしなくて、でもやさしくしてくれたのは道彦君だけだったから。
 やっぱりね、親がいないとか、ケガしてるとかでみんな私のことどう扱っていいか考えあぐねてるカンジで、よそよそしかったの。初めまして、ってすとんと座って視線を合わせて笑ってくれたのは、彼だけだったから。
 それがうれしくて、もう第一印象からすごくカッコ良いなって思っちゃったのね。
 久しぶりに会った道彦君は、全然変ってなくて、ちゃんとすぐ思い出してくれて、あの時と同じように笑ってくれたから。
 ああ、あの時の憧れは、初恋だったんだなって。多分これから、また私は恋してしまうんだろうなって。
 気持ちがわくわくするの。でも言わない方がいいよね。うん。がんばって仲良くなれるようにしよう。妹みたいに思われるのでもいいから、気にかけてもらえる存在になろう。
 目標ができたらまた楽しい気分。ちょっとがんばってみようかな。


1−6 道彦の場所
 学校を出て、研究室に顔を出し、教授の論文を代筆したものに入った質問に答えて、学生たちの研究状況を確認すればあっという間に午後十時も過ぎている。
 ほか弁で弁当を二つ買って部屋に帰ると、珍しく電気がついていた。
「ただいま……っ!」
「うわぁっと……おかえり。どうだった? 女子高のにおい」
 玄関を開けると化粧っ気のない顔に、洗ったばかりの髪をひっつめにした、一緒に住んでるはずなのに三日ぶりにあう、彼女がちょうど靴を履こうとしていたところだった。
「においって……出かけるの? 仕事?」
「んー急に呼ばれちゃって。今持ってる患者が死にかけてるらしいの。ごめんね」
 彼女の名前は一之宮奈留美(いちのみやなるみ)、年は二つ上でこの間三十になったばかり。仕事は市立病院の外科に勤める女医。
「晩飯食った? 弁当買ってきたけど」
「あら珍しい。何かあったの? シャケ弁? 夜食に食べる。持って行っていい?」
 袋を掲げた僕をしげしげと見つめながら、大げさに驚いてみせる奈留美に、少し憮然としながら自分の分を取って袋ごと渡す。
「僕だってたまには買うよ」
「そうね。いいコトあったときだけね。生徒に好みの子でもいたの?」
 仮にも彼氏に、同棲相手に、三十に手が届こうかという男に、そういうこと聞くか?
「あのねー……」
「じゃあ先生?」
「ちがうって。ちょっと昔の知り合いって言うか……知ってる子に会っただけだよ」
「ふぅん」
「別になんでもないよ。ちょっと懐かしかっただけ。奈留美は学部も全然違ったから知らないだろうけど、法学部の杉田さんって、僕がサークルとかで世話になった人の従妹の子が偶然入学してたんだよ。」
 バカみたいだ。なんでこんな必死になって言い訳してるんだろう。
「知ってるわよ。杉田佐貴子でしょ? いろんな意味で有名だったじゃん。あの頃うちの大学に通ってればモグリでも知ってるでしょ」
 そう、あの人は有名だった。おそらく入学してから卒業するまでずっと大学で一番強かったんじゃないだろうか?
「そう、今はもうずっと付き合ってた斎藤先輩と結婚したから苗字変わってるけど」
「あのヒト付き合ってる男いたんだ? 結婚? 絶対しなさそうだったのに。でもそんな年の離れた従妹がいるの?」
「あーうん。ちょうどさ、その頃その子……根岸由紀子ちゃんって言うんだけど…事故で両親亡くして、杉田先輩のところに引き取られたくらいだったんだよ。大学から近かったし、あの家にはよく行ってたから顔知ってただけ」
 ほんとはさっきも言ったとおり『杉田』じゃないんだけど、それ以外に言いようがない。僕の中ではあの人は、あのころのまま傍若無人な『杉田先輩』だから。
「良くわかったわね」
「僕はわからなかったけど、向こうが気づいたんだよ。それで帰り際に声かけてくれたんだ」
「へぇ、良かったわねぇ若い子と話せて。で、機嫌も悪くないから買ってきてくれた……と」
 刺のあるいい方だな。確かにいつも食事代のほとんど出してもらってますけどね。
「ま、ありがと。行ってきます」
 返事も待たずにばたん、と鉄製のドアが閉まる。
 誰もいない部屋。
 折角二人で食べようと買ってきたのに、一人きりの食事。
 同棲をはじめて気がつけばもう四年。最初の頃のような情熱もいつのまにか消えて、このごろは怠惰な日常が続く。彼女が休みの日は、僕が研究室に詰めてるし、僕がいるときは彼女がこうやって仕事に出てしまう。
 すれ違うことになれたのはいつ頃だっただろう?
 お茶をいれて、一人で割り箸を割る。
 一人で飯を食うことに、慣れてしまったのは、いつだっただろう。






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