君の声は優しい歌のように  1


 まだ、信じられなかった。
 朝、いつもと同じように家を出たあの人が。
 今はもう、何も言ってくれないなんて。


「植物人間、ですか?」
「いいえ。脳死状態です」
 広いカンファレンスルーム。壁の奥の蛍光灯の光に透かされて見える、夫、アユムの脳の断面図をぼんやりと見ていた坂下マチカの、つぶやくような質問は、三人在席した医師の中でただ一人の園生佳子(そのうよしこ)という女医に短く否定された。
「植物人間……植物状態というのは、脳の脳幹という部分の機能が残っていて、自発呼吸があり、蘇生する可能性がある状態のことを言います。脳死状態と言うのは、脳のすべての機能が失われて、人工呼吸器をはずせば呼吸が止まり、心臓も停止する状態のことで、混同されがちですが、全く違う状態です。ご主人は、現在脳死の状態と言えます」
 ゆっくりと、丁寧に、落ち着いた声で説明されるが、同じ速度で体を通り過ぎているようだ。まるで実感がない。
「……それで……」
 そこまで、淀みがなかった園生の言葉が少し鈍る。
「ご主人が、ドナーカードを持っていることをご存知ですね?」
「ええ、私も持ってます」
 知っているも何も、二人で書いたのだ。そしてカードの家族署名欄にお互いに署名した。
「亡くなられた方の意思は尊重すべきですが、あなたには、拒否する権利もあります。今すぐに決めろとは言いません。けれど、できるだけ速やかに意思を決定してください」
 きわめて事務的な言葉に、どう答えたのかも覚えていないままカンファレンスルームを後にし、マチカはアユムが入っているICUにやってきた。
 朝、いってきますと出ていった後姿。あの背中が最後になるなんて。
 午後七時。たった十二時間も経たない間に、アユムは何も言わないまま横たわるだけになってしまった。
 危篤患者の家族の前を横切って、看護士に了解を得て、エプロンなどをつけてICUの中に入る。
 人工呼吸器が入っているためか、少しそった頤(おとがい)。ただ眠るように閉じられたまぶた。
 いつもマチカの小さい手を握ってくれた大きな暖かいその手をとっても、何の反応もない。
 右手でアユムの手を覆い、己の左手を包むようにそっと曲げる。
「……言ったのに」
 その手を重ねたまま、顔をうずめる。
「あの子がいなくなった後、僕がいつまでも一緒にいてあげるって、言ったのに」
 小さく静かに、けれど心のすべてを込めて伝えた言葉にも、アユムは何も応えてくれなかった。






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