君の声は優しい歌のように  2


 見上げた空を雲が忙しそうに流れてゆく。
 事故の翌日から降り続いた雨がようやく止んで、遠くに何ヶ所か、灰色の空にぽっかりと開いた隙間から、まだ浅い春の日が天からの通路のように差し込んでいるのが見えた。
 ため息を一つ。
 先ほど、マチカはICUで園生医師と会って、これからどうするのかと問う彼女に向かって、静かにしていなくてはならない室内で、大声で叫んでしまった。
 園生にしてみれば、大金の掛かる治療をいつまで続けるつもりなのか、ただ聞きたかっただけなのかもしれないが、マチカにとってすれば、その言葉はとても残酷に響いた。
 どうして私ばかり、こんなつらい決断ばかり迫られなくてはならないの?
 要約すればそれだけのことを、周りのことも考えられずに何度も何度もぶつけて、己の行いに気づき、目をそらしたまま、ごめんなさい、もう少し時間を下さいと言い捨てて、逃げるようにICUをあとにした。
 事故から三日。
 他人からすれば、きっと十分な時間だっただろう。けれどマチカはまだ答えを出せないでいた。
 相談することができる人が近くにいたらよかったのかも知れないが、マチカにもアユムにもすでに親はいない。環境を変えるために引っ越してきたばかりのこの街にはまだ、専業主婦のマチカには友達もいなかった。以前からの友人たちには、アユムの事故を知らせただけで、脳死のことも移植のことも言い出せなかった。
「わかっているの。承諾したほうがいいってことくらい、私だって……」
 手すりにすがりつくようにもたれかかり、ため息の回数と同じくらい、何度も何度もつぶやいた言葉。けれど、まだ自分を納得させることができない。
 どうして? と言う、誰に対してなのかも分からない疑問の言葉と一緒にまた、涙が溢れてくる。
 きっとこんな顔を見たら、アユムは笑うだろう。そしてどうしたの? と聞いてくれる。まとまらない自分の思いのすべて、何もかもを彼に言えることができれば、どんなに楽だろうか。
 また、空を見上げる。涙が行く筋も通った頬に風が冷たい。
 いつもアユムがいたから生きていられた。
 男手一つでマチカを育ててくれた父のガンが分かり、あっという間に亡くなったときも、そばにアユムがいてくれたから、その悲しみに飲み込まれずに済んだ。
 父が生きている間は父に、そのあとはアユムに。今までマチカはアユムに頼って生きていたのだと、分かれば分かるほど、これから自分がどうすればいいのか分からなくなる。
 アユムのことを考えないようにすれば、思い出すのは三年前に死んでしまった息子、ヒカルのことだけだ。
 結婚して六年目に、やっとできたわが子には、心臓に先天性の疾患があった。
 生まれた病院から、すぐに循環器を専門にする大きな病院へ転院した。
 最初は、信じられず、もうだめだと思った。
 しかしその不安はすぐになくなった。産婦人科の医者も、心臓疾患は、生まれてくる子供の百人に一人くらいの割合であることで、そのほとんどがそのまま治ったり、手術で治ったりするのだと説明してくれたから。
 どんなに悪くても手術をすれば助かると思っていた。小さいヒカルに手術はとてもかわいそうだけれど、手術さえすれば治る病気だと思っていた。命まで奪われるような病気だとは考えもしていなかった。
 切迫早産を繰り返して、1ヶ月早く生まれて来たけれど、その頃のヒカルは他の子供と比べても何も違わないように見えたから。
 けれど、いろいろな検査をした結果を聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
 次に目を開いたとき、狭いベッドに寝かされて、傍らにアユムがいた。そのくらい、意識が飛んでいた。

 予後不良。

 言葉の意味が分からなかった。隣にいたアユムが医師にいろいろと質問をしているのをただ呆然としながら聞いていた。
 ヒカルの心臓は手術をしても治らないのだと言う。
 唯一、心臓を移植すれば助かる道が開けるが、現在の日本の移植事情ではこんな小さな乳児には、提供される心臓がない。
 海外へ行けば、可能性はゼロではないが、諸費用を合わせると一億を超えるお金が必要になる。そして、移植が成功する確率がとても低いことも説明された。
 ただ、医師の短い言葉だけが頭の中で響いた。
「余命は半年、長くても一年持たないでしょう」
 悲しくて悲しくて、どうしていいのか分からないまま泣き暮らすマチカたちのところに、どこから聞いたのか、ボランティアと称する男たちがやってきた。
 海外で移植をしなくては助からない病の人々とその家族をサポートし、募金活動などを手伝うことを目的とした団体を運営すると言う彼らに、熱心に心臓移植手術と受けることを勧められた。
 がんばれば、一生懸命お願いすれば一億の募金もすぐに集まるからと。そして移植手術を受けることができれば、ヒカルの命は助かるのだからと。
 心が揺れた。
 アユムと毎日何時間も話し合って、ヒカルの主治医に移植の道はないのかと聞いた。
 彼は、二人になるべく分かりやすい言葉を選んで、もう一度その可能性がとても低いことを説明してくれた。渡航、とりわけ飛行機での気圧変化によるによる外因的ストレスによる容態の急変が考えられること。上手く行っても半年は移植まで待たなくてはならないこと。もしかしたら、一年以上待機することも考えられること。小さなヒカルの体力が、手術に耐えられるかどうか分からないこと。
 でもどうしても諦められなかった。一度見えた希望の光はとてもまぶしくて、諦める事はできなかった。
 40代後半くらいの年齢の主治医は、アメリカで移植医療にも携わっていた人で、その伝手も頼った。
 しかし、数日後、彼が静かに、そしてとても悲しそうに言った。
 アメリカの病院で小児移植に関わっている知り合いの医師にヒカルのカルテを見てもらったが、そちらの見解も、移植は無理だろうと言う答えだった、と。
 冷たい言葉だったけれど、なぜだかすんなりと体の中に入ってきた。とても真摯な主治医の態度と、数日間落ち着いて現状を考えることが出来たからかもしれない。
 小さな体にたくさんの管や電極をつけてそれでも二人の気配に目を開いて笑ってくれたヒカルの姿を見ながら、アユムと二人、それならば一分一秒でも長くこの子とともに生きようと決めた。
 移植を諦めることを告げると、ボランティアのはずの男たちからひどくなじられた。
 子供がかわいそうだ。子供がかわいくないのか。愛していないのか。自分たちが街頭で、見知らぬ人たちに頭を下げるのがいやなだけだろう。子供は苦しんでいるのに、生きたがっているのに、親の勝手で諦めるなんてあなたたちはおかしい人たちだとまで言われた。
 つばを飛ばさんばかりに怒鳴る彼らに、アユムが静かに言ったのだ。
 今ここで死んで、自分の心臓をあの子に与えられるのなら、そのくらいどうと言うことはない。けれど、それでは助からないのだ。どうがんばっても、誰が死んでも、何をしてもヒカルを助けることは現代の医療ではできないのだ。
 納得しない彼らは、医者の言うことを鵜呑みにするな、自分たちが信頼できる医者を紹介するとまで言ってきた。
 正直、マチカは心が揺れなかったわけではなかった。もしかしたら、違う医者にもう一度みてもらえれば違う診断が下るかもしれないと思った。
 けれど、アユムは違った。
 もう、ヒカルに、過剰な負担をかけたくはない。
 人は皆死ぬものだ。
 ヒカルの命はとても短いけれど、自分たちは長さではなく、中身を考えることにしたと、彼らを追い払った。
 世の中には、いろんな人がいるものだねと、アユムはいつもと同じ顔で、だけど少し、憂いを含んだ笑顔で言った。
 幼い頃に両親を亡くして、他人と生きてきた彼にとって、やっとできた、たった一人の血縁者。大切な大切なわが子。ヒカルの誕生を誰よりも喜んでくれた人。ヒカルの病気に、生まれて間もないヒカルが直面する死に、誰よりも深く悩んだ人。昨日今日ヒカルのことを知った彼らに、アユムがなじられることなど何もない。
 私たちは、恥ずかしいことなんて何一つしていない。
 いい勉強をしたねと二人で少し笑って、それからはずっとヒカルを中心にした生活が始まった。
 会社に出勤するアユムとともに、マチカも病院へ向かう。
 一日のほとんどを眠って過ごすヒカル。
 ほんの少し起きている間に、たくさんの絵本を読んだ。
 抱きしめる事は何日かに一度だけだったけれど、毎日手足をなでて、語りかけた。
 仕事が終わったアユムが病院へやってきて、面会時間をすこし、時々とても越えるまで。病室で三人で過ごした。
 病状は悪くはなく、けれども良くもならずに、日々はゆっくりと穏やかに過ぎて行った。
 主治医に奇跡みたいだと言われた、一歳の誕生日。
 いつもの病室だったけれど、看護士たちが忙しい合間に飾りを作ってくれていた。
 主治医が、ヒカルの力でも持ち上げられるくらいの、小さいかわいらしい羊のぬいぐるみをくれた。
 アユムが買ってきた大きなケーキに一本のロウソク。
 みんなで歌ってもらったハッピーバースデーの歌に合わせて、小さな手を叩いていたヒカル。
 ロウソクの火を一生懸命吹いて、消えたときに本当にうれしそうな顔をしたヒカル。
 どうしてだろう。
 あんなにつらくて悲しかった毎日なのに、ヒカルの顔を思い出せばどれもこれも楽しかったことばかりだ。

 笑っていた。

 機嫌も体調もいいときは、本当に楽しそうに声を上げて笑っていた。
 かすかな音を立てて病室のドアが開き、そこからアユムが顔を出すと、必ずそちらを見てにっこりと笑っていたヒカル。
 それを見て、マチカも一緒に笑っていた。
 注射が痛くてそのたびにか細い声で泣いていたことも覚えているのに、そのたびに代わってあげたいくらいに辛かったことも覚えているのに、そういったことはどこかに追いやられて、思い出すのは笑顔と静かな寝顔だけだ。
 誕生日からひと月ほどたったある日、マチカの指を小さな手で握って眠って、そのまま目を覚まさなかったヒカル。
 アユムと言葉もなく頷きあって、その人工呼吸器をはずしてもらったあの日。
 呼吸が止まり、心臓が止まっても、それまでと同じように眠っているだけのような穏やかな顔。その細い手足を二人でさすり続けた。泣きながら良くがんばったねと声をかけて。
 そんなことをたくさん思い出しながら、マチカはふと気づいた。
 あの日からも毎日、枯れるほど流した涙。やっと止まったのに、また流れ出した涙が、いつの間にか止まっていた。
 雲の切れ間がやってきて、暖かい春の光が屋上に降り注ぐ。
 遠くから見るとここも、さっき見たように、空への道のように見えるだろう。
 この空の向こうに旅立って行ったヒカル。
 そして、旅立とうとするアユム。
 アユムが逆の立場だったなら、彼ならどうするだろう。
 一も二もなく、同意しただろうか。
 私の意思だからと、同意しただろうか。
 それとも、私と同じように悩んでくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。
 去るものはなにも言えない。
 残されたものは、残されるがゆえに、自分がかわいそうだから泣くのかもしれない。
 どうしていいのか分からずに、迷うから泣くのかもしれない。
 導いてくれた暖かい手だけを見てきた今まで。大事な決断を、人に委ねてきた今まで。
 ヒカルの最期を決断したのは二人。けれど、その意思を主治医に伝えたのはアユムだった。マチカはただ、泣いていた。
 あれは誰のための涙だったのだろう。
 このまま、今までと同じように死んでしまったアユムに何もかもを押し付けて泣いていればいいのだろうか?
 いつまでもそばにいると言ったのにと、嘘吐きと責めていればいいのだろうか?
 泣いていたマチカを慰めるために、アユムは言ったのだ。
 いつまでもいつまでも僕が一緒にいるよ、と。マチカが一番ほしがっている言葉だと分かっていたから。
 突然、その言葉は嘘になってしまったけれど、あの時からアユムは、すぐにぐずぐずと後ろ向きになるマチカをなだめたりすかしたり、持ち上げたり、時には叱ったりしながら一緒に生きていてくれていた。
 自分は、今、本当に、一人なのだろうか?
 アユムは、今まで、マチカに嘘をついたことがあっただろうか?


 空へ逝った、逝く人。
 地面に残された人。
 どちらが幸せなのだろう。
 分からなかったけれど、分かったこともあった。
 今、マチカは、やっと分かった気がした。
 自分が今も、今までと同じように支えられて生きているということに。
 これからも同じように、あの笑顔も声も、ちゃんと思い出して、微笑むことができることに。






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