空高く。恋晴日和1−1


「……ってな感じでっ 今日のお空はソラと同じく大快晴だよー! ほらほら良い子のみんなー♪ もう朝ごはんは食べたかなー? 早く朝の支度しないと学校や会社に遅れちゃうぞー?」
 五十二インチの薄型液晶の向こうで、春からレギュラー入りしたお天気お姉さんが真っ青な秋晴れの空を背負ってにこにこ笑いながら番組のマスコットキャラクタがくっついたマイクを振り回している。
 朝の番組でよくこの衣装で良識ある(と思い込んでいる)お母様方から苦情が出ないなと思えるほど大胆にスクエアに胸の開いた、体の線に沿ったピンクのニットシャツの胸は、くっきりと線を作るほどの谷間っぷりで揺れている。胸のわりに細い腰から下半身をふわふわと軽くゆれるひだのたくさん入ったミニスカートが覆っているが、アオリでその中が見えないギリギリのひざ上二十センチ。こちらも大胆に超がつくほど短い。ハーフという触れ込みの割りに顔立ちが甘く幼いので誰もが彼女の背は低いと思っているようだが、公称で身長は百六十五センチ。太もものほとんどがあらわになって、すんなりと伸びる長いナマ足に底の高いミュール。
 まっすぐに流れる茶色を通りこした色合いの髪は日に透けてその明るさを増している。
「んではっ! 今日も元気にいってらっしゃーいっ!」
 その台詞で見つめるカメラアングルは日々違っていて、今日は胸がこぼれんばかりに開いているためなのか、カメラが彼女をスパンして一度上へとなめ上げ、彼女いわく「名前と同じ空色」の薄青い瞳がウインクするのをアップにして、引いていき、コマーシャルに入る一瞬上から見下ろすように彼女を捕らえる。
「……バッカバカしい」
 元気よく両手を振る彼女を画面の片隅に納めながら、軽快な音楽を伴った番組のキャッチが終わると同時、洗剤のコマーシャルが始まる直前、ぷちんとリモコンでテレビを切って立ち上がり、佐倉貴巳(さくらたかみ)は読み終わった新聞を片付けて足早に玄関に向かう。彼女に言われなくとも、支度なんか済んでいる。
 と言うより、七時半の彼女を見てからだと貴巳は家から駅まで猛ダッシュしないと電車に乗り遅れる可能性が高いのだ。けれども彼は毎日律儀に、ギリギリ遅刻しないリミットの七時半まで五回、彼女を見てから家を出る。
 なぜなら毎日夕食のとき聞かれるからだ。感想を。
 だって画面の向こうで笑顔を振りまいていたその人は彼の、現在同居中の、一応、義理とはいえ姉なのだから。


 電車で二十分。貴巳が通うのは中高一貫の私立校だ。この秋に人生の半分以上をすごしてきた国から一応の母国へ帰国して、現在は帰国子女クラスに在籍している。
「いょうっ! ぐっもーにー たっかみくーん」
 自分の机に鞄を置いてすぐに、妙な声を出してクラスメイトの丹沢将人(たんざわまさと)が背中を叩く。
「何回も言うがな、オレがいた国は英語圏じゃねぇ 大体ここは日本だ。おはようでいいだろうが」
 とは言え、帰国子女のクラスはその授業の八割が英語で行われる。クラスメイトの編成としては、外国で育った日本人四割、ハーフやクオーターが四割、残りは留学生だ。ただし、近年はアジア圏からの留学生が多いので、韓国人や中国人はぱっと見て日本人との差異はない。逆に完全に混じっていますという濃い目の顔立ちの貴巳のほうがよく目立つ。
「英語だってペラペラしゃべっちゃうくせに。ちょっとばかしトライリンガルだからって。まだまだなじまないだろうと思っての心遣いを無にするなんっ……いてぇっ」
「それを小さな親切大きなお世話って言うのよ、丹沢。ありがた迷惑とかね。何回言われても覚えないみたいだから言ってあげるけど、佐倉君はトライリンガルじゃなくて四ヶ国語以上のマルチリンガル」
 将人の後ろに仁王立ちした相田笑莉(あいだえみり)が分厚い雑誌でその頭を容赦なく殴りつけたのだ。母親がロシア人だという彼女もまた、英語日本語ロシア公用語にアラビア語まで話せる才媛で、顔立ちがはっきりしたよく目立つ美少女だ。この九月からこのクラスに編入してきた三人組で、なんとなく一緒にいることが多い。衝撃に涙を浮かべている彼をびしりと指差して貴巳に代わって抗議している。
 もともと貴巳が生まれたのは英国で、小さいうちはそこで暮らしていた。実の父親が家では『オレ様流』の日本語を使っていたので、そのまま真似た貴巳の日本語はかなり雑だ。ついでに英語も発音はともかく雑な使い方だと自己分析している。両親の離婚後一度日本に帰ってきて、母が再婚し、その後すぐ移り住んだ国はヨーロッパの小国だが、さまざまな人種が存在し、近代に至るまでになんども国境が変わっていたような場所なので、同じ国の中でも地域によって公用語が違っていた。生まれも育ちも日本で、日本人学校を選んで新しい言葉を覚えることを半ば放棄していた姉と違い、貴巳は率先して地元の学校に通っていろいろな地域からやってくる子供たちと友人になっていたのだ。
「くすん。英語だけでもしゃべれたら十分だこんちくしょうめっ! ところで今日もソラちゃんかわいかったねぇ あのきれいな瞳とかたまんねぇし!!」
 将人がそういいながら泣きまねをした後、ころりと態度を反転させ上機嫌でばしばしと貴巳の背中を叩く。そう、彼の本題はそっちのほうだ。
「別に。毎日変わらないだろ」
「うそっ 今日の服もかわいかったじゃん。あれって衣装でしょ? 買い取りとかして家でもあんなカッコされてたらもうオレだめになるかも」
「なってんでしょ、ダメに」
 しなしなと体を揺すっている将人を気持ち悪そうな目つきで見て、聞こえよがしに言う笑莉にその通りと、心の中でつぶやいて、貴巳は家での彼女を思い出す。いくら思い出しても目に痛いくらいのショッキングピンクの上下セットで七百八十円だったと言うデザインがもっさいスエットを着た、スッピンに薄い水色のレンズのめがねをかけた彼女の姿しか浮かばない。
「朝からあの露出度はなにっ!? って、佐倉くんのお姉さんじゃなかったら私、テレビ局に抗議メール送ってるわよ、ホントに」
「別に送ってくれていいけど」
 貴巳が苦笑しながら言う。彼女は以前今と同じようにくねくねしながら将人がソラの話をしたとき、貴巳の前でもこき下ろして将人から姉弟だと聞かされてオロオロしながらフォローしていたくらいだ。
 彼女の父親と貴巳の母親が再婚したのが貴巳が六歳のころで、その時から彼女は貴巳の五つ年上の姉になった。日本国籍を持ち、名前も純粋な日本人を思わせながら、それと裏腹にハーフというには無理があるくらいに全方向的に外見は生粋の外国人っぽい。しかし、十一歳になるまで日本で育った彼女の中身は生粋の日本人だ。佐倉宙(さくらそら)はその名と同じ宇宙と空が大好きで大好きで、宇宙や天文、気象などとにかく大気圏とその向こうのことだけは確かに興味を示していて他の学問よりも知識は深かった。貴巳の知る限り再婚した当初から彼女は父親に嘆願し続けて(おそらくそれよりもっと前から頼んではいたのだろうが)、日本の宇宙工学部への受験の許可を取り単身帰国したのだ。
 どうしてわざわざ日本の大学に進学先を選んだのかというと、ソラが外国語が全く話せなかったためだ。人生の約三分の一をを外国で過ごしていながら、彼女は日本語以外の言語を習得していない。いや、日本語もかなり怪しいのだが、つまり、大学に行きたければ日本に帰国するより他に道がなかったのだ。
 好きこそ物のの例えどおり、日本では高校三年生となる十八歳の九月に帰国し猛勉強の末、家族の誰もが受験に失敗して強制送還だと思っていたのに、奇跡は起きるものなのか、予想を裏切って彼女は大学に合格してしまった。そして大学在学中に気象予報士の資格を取り、海の向こうの家族たちになんの断りも無く、本当に知らない間にテレビに出ていたつわものだ。
 貴巳はそんな彼女を心配したわけではなく、高校から日本の学校に通いたいと言う当初の希望通りこの秋帰国し、この事実を知ってびっくりした一人だ。
「ソラちゃんってさ、あの瞳も髪も自前なんだろ?」
「ああ。小さいときはもっと金髪だったらしいし」
「佐倉君は生まれたときから瞳も髪も黒?」
「そう、真っ黒。母親ががっかりしたって言ってたからな」
 笑莉の問いに答える貴巳に笑いながら将人がまた肩を叩き、貴巳の顔を覗き込む。
「でも貴巳はアレだよね、顔のパーツとかガイジンっぽい。うまいこと姉弟で分け合っちゃってる感じだけど、全然似てねぇよな」
「それこそ大きなお世話だ。男が顔を近づけるな気持ち悪い」
 似てるわけないだろと思いながら、イスに座って一時限目の教科書を出して、顔を覗き込んでいた将人の顔を片手で押しのける。
「こんな悪役似合いそうな弟と似てなくてよかったー ソラちゃんかわいいなぁ もうメロメロだよー」
「まったくもう、二言目にはソラちゃんソラちゃんって」
 しかめっ面の貴巳をみて、またしなしな体をくねらせる将人に、笑莉があきれたような顔をした。
「ねえお願い。一回会わせて」
「い・や・だ」
 ケチーと叫んだ将人の声と、予鈴のチャイムが重なった。


「ひどいっ ひどいよっ! 何で一人勝手にそんなにでっかくなってるのよぅ!」
 八月の頭に飛行機の長旅に少々疲れながらも約八年ぶりに日本に降り立った貴巳をみて、空港に出迎えに来てくれていたソラが開口一番言ったのはお帰りでもお疲れでも久しぶりでもなく、そんなお怒りの言葉だった。
 そんなことを言われても、この一年足らずでぐんぐん背が伸びて服を一通り新調しなくてはならなかった自分のほうがこの伸び率には辟易しているのだが、頭一つ低いところから見上げるソラにとっては前に会ったときには自分より背が低かった弟が再会したらいきなりでっかくなったことが許せないのだろう。
「んじゃ聞くが。ソラの乳はなんでそんなにでかいんだよ」
「貴巳君セクハラ発言デスヨ!! コレは私が大きくしたわけじゃなくて勝手にでっかくなっちゃったんだから仕方ないのっ」
 赤くなりながら自分の胸を押さえて、声のトーンを少し落としてソラが言う。
 初めて会ったときすでに揺れていたソラの胸は、それからもどんどん成長していって、他は華奢なのに胸だけぐんと目立っている。それを彼女がコンプレックスにしてとても気にしているのを離れて暮らしていた貴巳も知っている。
「おんなじだろ、俺の背も」
 キャリーを引いて歩きだした貴巳に、ソラが小走りについてくる。貴巳は普通に歩いているつもりでもリーチが違うのだ。それに気づいて、貴巳は少しだけペースを落とす。
「違うでしょう? 牛乳飲んだりカルシウム取ったりしなきゃそんなにでっかくなれないでしょう?」
「ほっといてもでかくなるやつはなる。だからソラの乳と同じだって言ってるだろ」
「チチチチ言わないでくださいっ」
「じゃなんて言ったらいいんだよ」
「む、むねとか」
「……そんなんおんなじじゃねーか」
 あきれたようにつぶやいて歩調を速めた貴巳におなじじゃないですよーと抗議しながらソラが走ってついてくる。
「あっ 貴巳君おなかすいてませんか?」
「いや、機内食がまだ喉に痞えてるくらいハラいっぱいだけど?」
「ならいいのです。もう遅いから晩御飯いらないですね?」
「ソラは? 食わないの?」
「実は貴巳君待ってる間に食べましたー もう遅いから帰ったら寝ますよーぅ」
 小走りについてきながらそう言うソラに貴巳が怪訝そうな顔をする。確かに夜に日本につく便だったが、まだ七時にもなっていない。家まで特急電車を乗り継いで約一時間半かかるが、駅から歩く時間をさっぴいても九時前には帰宅できるはずなのに。
「ソラ、幼児後退か?」
「違いますよー 実は私、朝のテレビに出ているのです。三時にはタクシーがお迎えに来るのです。だから二時には起きて支度をしなければならないので、いつも八時過ぎにはおやすみなさいなのですよ」
「……ちょっとまて。テレビに出てる?」
「はーい。朝のお天気おねえさんでーっす」
 立ち止まって口をあけたまま二の句が継げなくなった貴巳の代わりに、そばを歩いていたサラリーマンがやっぱりとつぶやいてソラを眺めて去っていき、母親に手を引かれた未就学児と思われる子供が「ソラちゃんだー」と指を指して親がたしなめながらその場を離れて、歩いてきた若いカップルの男のほうが体を不自然に回しながらソラを凝視するのを、女のほうが力ずくで正して引きずっていった。
「初耳だが?」
「えへへー ママにだけは言っといたけど、お父さんや貴巳君に言ったら反対されるかもしれないしぃ 黙ってました。だから貴巳君もお父さんには内緒だよー」
 スキップせんばかりと言った風の足取りで貴巳を追い越して振り向いて笑うソラに貴巳が世界各国で使える携帯電話を取り出す。
 彼らの父親は──貴巳にとっては養父だが、ソラにとっては実父であるその人は──ソラを溺愛している。とにかくソラがかわいくて仕方ない様子で、ソラがほしいといったもので買ってもらえなかった物の方が少ないし、基本お小遣いもやり放題な節があった。しかし、ソラの帰国に最後まで反対したのも彼だったし(母がなだめてすかして『合格を条件にしたら?』と提案して折れたくらいだ。おそらく不合格になると思っていたのだろう)かわいい娘を自慢するが、不特定多数の目に晒すなど到底考えてもいないだろう。
 ソラの目の前で自宅番号を呼び出す。時差などこの際問題ではない。
「今から父さんに報告してやる。覚悟しとけよ」


 金曜の夜は、ソラの帰りは基本的に遅い。理由は合コンに誘われているからだ。もともと女性の少ないお堅い学科に進学していたので合コンなどほとんど誘われなかったらしいのだが(そしてそのことが父の胸を安堵させていたのだが)さすがに現在はテレビでお天気お姉さんをやっているだけあって引く手あまたらしく、貴巳が帰国して二ヵ月経った秋も深まったこの日も、ソラは家の留守電にメッセージを残して遊び歩いている。
「遅い」
 風呂に入って濡れた髪も、部屋の暖房だけ、ドライヤーなしですっかり乾いてしまっている。時計はすでに日付をまたいでいる。そろそろ終電もなくなる頃だ。さすがに貴巳が帰ってきてからは午前様にならないように気をつけていると言っていたが、ぼちぼち手綱が緩んできたのか。
 ソラの携帯電話にかけようと家の電話の受話器を上げた瞬間、貴巳の携帯電話が鳴り始める。
「あ、もしもし貴巳君? 私ですぅ えとあの、遅くなってからゴメンね? 今ねぇ駅まで電車で帰ってきたのですが……」
 駅の構内と言うだけあって、終電前のホームにいるのか背後がやかましい。酔っ払っているのかいつにも増して舌っ足らずの声が聞こえにくいが、何とか現在地を確認する。
「わかった。今から家出て……十分くらいか。どこにも行かないで駅の改札にいろよ? うろうろするなよ?」
「わかりましたですぅ ありがとーう。あの、迎えきてくれるのでいいですから……」
 電話を切る前にそばにいたらしい誰かに向かっていった言葉が聞こえた。
「ナニやってんだあいつは」
 携帯電話をジーンズの後ろポケットに突っ込んで、貴巳は家を出て駆け出した。
 貴巳たちの最寄り駅は、めんどくさいことに一度階段を上がった上に改札がある。ホームにはまたそこから構内の階段を降りなくてはならない造りだ。
 駅の中途半端に低くて一段の幅が広い階段を三段飛ばしで駆け上がる。踊り場に差し掛かったとき、最終電車が出発すると言うアナウンスが響いた。
 残りの階段も一息に駆けて改札に上がって構内を見渡すと、なぜかまだ改札を抜けていないソラと目が合う。
「うろつくなとは言ったけどなんで抜けてないんだ」
 文句を言いながらも終電で帰ってきたのであろう酔っ払いや疲れた顔をしたサラリーマンたちの帰宅する流れに逆らっての改札を目指して歩く。
「貴巳君っ!」
 徐々に減りつつある人ごみの中、ソラが手を振ってぴょこぴょこ跳ねて人が途切れた改札をでてきた。
「なーんだ、ホントに弟? 全然似てないじゃん。ホントは彼氏なんじゃねぇの? ソラちゃん」
 改札の銀色に光る仕切りに手をかけて、茶髪はともかくいまどきロン毛のかなり崩れただらしない格好の男ががっつりと貴巳の腰にしがみついているソラに声をかける。
「貴巳君は弟ですっ! というわけで本宮(もとみや)さん、ちゃんと迎えが来ましたから、どうぞ気にせずこのままお帰りくださいっ!」
 とは言っても、もう終電は行ってしまっている。駅員が早く出てくださいと男を促した。定期をかざして改札を出てきた男が貴巳をじろじろと見て、緩んだ唇の端を上げる。
「ホントのホントに弟ですっ! 名前だって佐倉貴巳君で苗字も一緒ですっ!!」
「ムキになるところがアヤシイんだって。キミ若いねぇ 高校生? ってか、ガキじゃんか。ソラちゃん、オレのほうがいいって絶対。こんなお子様より……っが!」
「弟だっつってんだろうがこの酔っ払いヤロウが!!」
 頼りない足取りながらも近づいてきた男に言い返し、貴巳が男に蹴りこむ。言葉より先に足が出た感はあったが。
 その場に崩れ落ちるようにひざをついた男をそのままにして、貴巳はほとんど抱きかかえるようにソラを掴んで足早に駅を出た。


「で?」
「ごめんなさいなのですよ。あの人しつこくて。いつもは真実ちゃんといって、一緒方向に帰る子とタクシーを使うのですが、今日は彼女来てなくて。同じ方向だからってタクシー相乗りに帰ろうとされて慌てて電車に変えたのです。でも駅でも電車の中でも本当にもうしつこくって。貴巳君が来てくれててほんとによかったですぅ」
 駅前から少し離れた大通りのコンビニの前でソラを下ろして家のある方向へ歩きながら貴巳に不機嫌そうに説明を求められ、ソラがうつむいてもじもじとしながら答える。
「当分夜間外出禁止」
「ええええーっ!? だってだってタダ酒ですよ? タダ飯ですよ? 会費いらないんですよ? ソラは客寄せパンダだから。それを私に放棄しろと言うのですか!? 貴巳君っ」
 知らずに広がりつつあった距離を走ってゼロにしたソラが貴巳の横から見上げるように抗議する。
「あっそう。オレは別にいいけど。ソラが知らないうちに知らない男にホテルに連れ込まれてひどいことされても。その上週刊誌とかに写真と一緒にネタ売られて番組降板になっても。大学辞めて家に帰って来いって父さんに言われても。オレは別に構わないけど?」
「たっ 貴巳君のいじわるぅううぅ」
「いじわるじゃねぇだろ。想定できる範囲内だろ。ってかもうちょっと立場を考えてわきまえろ。オレが日本に帰ってなかったらオマエどうするつもりだったんだよ? 言っとくけどここらへんだって住宅街だけど郊外だからタクシー使ったらすぐだろ、ホテル街……って! 泣くなー!!」
 歩みが止まってしまったらしいソラに気づかず、どこまでも軽々しくいろんなことをナメまくっているとしか思えない言動が目立つ彼女に腹を立てて言い募っていた貴巳が数歩先まで進んで振り返ると、ソラがしゃがみこんで泣いていた。白いサブリナパンツだから良かったようなものの、番組できていたようなスカートだったらダメな姿勢だ。
「いい年してんだから往来で泣くなってば」
 慌ててソラの前まで戻って貴巳がかがみこむ。
「どうせ若くないのですよっ 確かにこないだ二十一になりましたよっ やっと十六の貴巳君からしたらいい年ですよぅ」
「ソラ、論点ずれてるだろ」
「ズレてないですっ なんですかもう! 自分は若いと思って!!」
「二十一は十分若いと思うけど?」
「貴巳君はもっと若いってことじゃないですかぁ!」
 なんだかもう訳がわからない。深夜を過ぎたとはいえ、そばにはコンビニがあり、駅に続く大通りは人通りが無いわけではない。
「ソラ、オマエほんっとのホントはすんげぇ 酔ってるだろ?」
「酔ってないですっ またなんですかっ! 人を酔っ払いみたいにっ まだまだいけますよっ!?」
「じゃあ立て。立って歩け」
「いやですぅううぅう もうソラ、立てませぇん」
 白いパンツが汚れるのも気にせずソラがとうとうアスファルトに座り込んだ。追い抜いたりすれ違ったりする人々が、じろじろと二人を無遠慮に眺めて過ぎていく。
「……わかったから乗れ……」
「え?」
「負ぶってやるからさっさと乗れよ」
 わあいとソラが貴巳の広い背中にもたれかかる。少し肌寒くなってきて、厚みを増した服を通してもその背中に当たるやわらかさはごまかせない。遠慮して体を離そうとか言う配慮をソラに求めてはいけない。
「ったく。マジで飲み歩き禁止だ」
 背中に乗せて数分でその肩に頭を預けて軽く寝息を立て始めたソラの体を揺すり上げて、貴巳がため息混じりにつぶやいた。


「なんでニオイまで甘いんだ」
 ソラを背負ったまま玄関で靴を脱がせて二階のソラの部屋に入る。電気をつけて明るくなった部屋は、カーテンにじゅうたん、ベッドカバーはもちろんのこと、カラーボックスもステレオセットもとにかく何もかもが問答無用でピンク色で、隣の貴巳の部屋やその他とは同じ建物内なのにどこと無く違うにおいがする。
 全く起きる気配の無いソラを背負ったまま、足でかけ布団をはがしたベッドに放り投げて布団を着せる。
 鏡の枠がピンク色の鏡台に置かれた拭くタイプのメイク落としを見つけて、ベッドの端に座ってそっとその顔をぬぐう。コットンが冷たいのか一度しかめるような顔をしただけで、やっぱり起きる気配は無い。
「感謝しろよ、ホントに」
 すっぴんに戻った顔に今度は化粧水を染ませたコットンを当てたあと、ソラの無邪気と言うのが一番ぴったりな寝顔に顔を近づけた貴巳が返事が無いと知りつつもつぶやいて。
 口紅を落としてもなお赤くふっくらとつやめくソラの唇に己の唇で軽く触れて少し離して、無反応の唇をひと舐めする。
「オレが弟でよかったな、ソラ」
 眠り続けるソラに薄い唇の端だけで笑って、部屋の電気を消して貴巳が部屋を出ていた。


「あれ? 早いじゃないか酔っ払い」
 翌朝八時を少し回った時間。決して早い時間とはいえないが、貴巳が階下へ降りると休日はダラダラしていて昼まで起きてこないソラがすでに朝食の準備をしていた。
 ソラは基本的に月曜から金曜までは朝も空けやらぬ午前三時前に迎えに来るタクシーで出かけるし、休みは昼まで寝ているので、ソラと貴巳は朝顔をあわせることが少ない。たまに姿を見ても、あのなんともいえない色合いのスエット姿なのに、今朝は薄く化粧も終えていて袖なしの白のタートルネックにカーディガンを引っ掛けて薄緑色のコットンパンツを履いている。
「あっ 貴巳君おはようございますっ 昨日はごめんなさいでした。なんだかお化粧まで落としてもらっちゃってたみたいで。いっつもそのまま寝ちゃうから朝ガビガビなのに今日は快適ですよー」
「散々自分を年寄りみたいに言ってたわりにアバウトだな……」
「それは貴巳君がいい年してとか言うからですよ」
「日本じゃ二十歳過ぎは成年だろ」
「だって昨日飲んでて話題になってたんだもん、高校生から見たら私たちなんてもうオバサン扱いらしいよって。だから貴巳君も私のことそんな風に思ってるのかなと思ったら悲しくなっちゃったのですよ」
「オバサンだとは思ってねぇよ」
「わかってますよぅ そんなこと。ソラも酔ってたから絡んじゃってごめんね。貴巳君が急いでお迎え来てくれたの、うれしかったですよ。ありがとうね」
 テーブルに置かれた読まれた形跡の無い(チラシは抜かれていたので見たらしい)新聞を開いて、イスに座る貴巳の前に淹れたてのコーヒーが置かれる。
「出かけるのか?」
「今日はちょっと大学に行かなくてはならなくて、帰りは夜になるのですよ。なのでお昼は冷蔵庫の食べてくださいね」
 とは言っても、ソラが作ったものではない。ウイークデーの昼間に通いでやってくる家政婦が週末分まで料理を作っておいてくれるのだ。ソラも貴巳も、掃除炊事洗濯、どれもこれも自分たちではできない人間だ。
「いや、オレも出かけるし」
「どこに?」
「友達と買い物。冬の服とかあんまりねぇから」
 去年着ていた服は背が伸びたため殆ど短くて着られないし、日本の衣類のほうが安いと言うこともあって向こうにおいてきている。
「友達って、カノジョ、とか?」
「女だけど付き合ってねぇよ。いい服売ってる店おしえてくれるっつーから他の友達とも一緒に」
「ふーん」
 じっとりと半眼でソラが貴巳を見ている。探るようなその視線にすこしイラつきながら、貴巳が時計に目を向ける。
「それより、急がないと電車、間に合わなくなるんじゃねぇの?」
 都心に近いソラの大学へは、片道で約一時間。仕事をしているテレビ局は、大学よりの中継点だ。
「あああっ ほんとだっ あ、そうだ、来週は帰りがちょっと遅くなりますですよ。来週末の学会発表のお手伝いなのです。あ、遅いって言っても私、お仕事もあるので八時くらいには向こうをでるので九時には帰ってきますよ? お酒は飲みませんから大丈夫です」
「あっそう」
「じゃあ私、もう行きますねっ」
 時計を見上げて慌てた様子で薄手のコートとバッグを持ってソラが家を出て行く。
 能天気にいってきまぁすと玄関から声が聞こえて、ドアが閉まる音がする。
「全然なんともねぇんでやんの。マジで寝てたのかよ、あいつ」
 珍しく朝早くからゴソゴソ起き出している気配に、もしかしたら、ソラが動揺しているかもしれない。そんなことを思っていた自分が何を期待していたのか心の片隅に答えなど転がっている。
「あーもう、なんだかな」
 それでも何かをごまかすようにあおったカップにはもうコーヒーは残っていなかった。誰も見ていないのに、貴巳は少しだけ笑った。






 ←    → 2


Copyright © 2008 NOV Sachi-Kamuro All rights reserved.
このページに含まれる文章および画像の無断転載・無断使用を固く禁じます
画面の幅600以上推奨 ブラウザはIE推奨(他のものでは見づらい場合があります)