空高く。恋晴日和2−1


 照明は壁際のダウンライト。ソファの前のローテーブルの上には食べかけのホールケーキ。クリームが溶けているのは、暖房のせいだけだろうか。
「んっ まっ……て、貴巳く……」
 甘いクリームの味がする舌が、ソラの舌を絡め取る。その味よりも甘い甘い口づけ。
「ダメ。もう待てない。していいって言ったの、ソラだし」
 柔らかいソファの上に押し倒されて、薄手のセーターの裾から貴巳の大きな手が忍び込み、肌をなぞる。
「……ったけどっ! あの、もうあんなするのナシでっ ほんとにもう、土日でお仕事オヤスミだったからよかったけど、ソラ、体中痛くて動けなかったのですよ!? 覚えてますか? 貴巳君?」
「特に一部分、が?」
 抗議するソラに、貴巳がにやりと笑う。確かにそれはそうなのだけど。いや実際、初めて他人と触れ合ってこすれあった場所はあとになってから腫れて痛かった。初めて受け入れたナカはその存在がなくてもまだ何かが入っているような異物感。
 内側の感覚は多分何度したところでそんなに変わらなかったと思うが、外側の痛みは絶対やりすぎたせいだ。ナカが痛くないから大丈夫じゃなかった。それを思い知ったのは、土曜の昼を過ぎてからだけれど。
「覚えてるって。下僕のように人を使っといて。フツー切らす? 毎月使うもん切らす?」
 両手を貴巳の肩について抵抗を試みるが、あんまり効果はない。
「切れてたのは夜用ですっ きたら買おうと思ってたのっ ごめんねヘンなもの買わせてっ! 頼むほうだってはずかしかったのですよっ!? それもこれもみーいぃいーんなっ! 貴巳君のせいじゃないですかーっ! ソラ、明日も仕事ですからほんと、お手柔らかにお願いしたいのですっ」
 それより数日後に来る予定だった生理が、やりすぎたせいなのかなんなのか、初めての出血などとうに止まっているはずの、目覚めたあと、もう何回目かも知れない行為の途中でやってきてしまったのだ。しかも思い出しても恥ずかしいのはすっかり快感に慣れた体に酔っていて、気づいたときには大出血。もともと洗濯行きだったとは言え、シーツが目も当てられない状況になってしまい、その洗濯や、起き上がれないソラに代わってブツを買いに行ったり、軽食を部屋まで運んだりととにかく貴巳は大忙しだったのだ。土日は通いの家政婦さんは休みだ。いても頼めないけれど。
 アレが来なかったらもっとヤられてたかも知れないと思うと自分の体、アリガトウな気分だ。貴巳にからかわれたとおり、一番痛かったのはソコだったけれど、体中関節が痛くて腰がダル重くてとにかくもう起きるのもイヤだった。犯人は貴巳なので、そのくらい使われるがいいわと思いながら翌日の夕方までアレやってコレとってと貴巳を使い倒した。
「えー 四日もガマンしたのに」
「しょーがないのです。きちゃったんだもんんんっ」
 ソラが一生懸命抗議している間に、セーターが胸の上までたくし上げられて、ブラは下に引き下ろされている。その頂を両手の親指の腹でこすられて、唇は勝手に甘い声を漏らす。
 その刺激に反応し、ゆっくりと勃ちあがってきたそこに、かわるがわる唇が落ちてくる。ざらりとした舌の刺激に、ひくひくと体が勝手に反応する。反った背中に大きな手が回って、ブラのホックがはずされた。
「だっ……て、まだ、お風呂……」
 肌をなぞるその手が、唇が心地よくて流されていく。確かに、まだちょっと完全に終わったとはいいがたく、残ってるかもと思いながらもお預けの犬のようにしている貴巳を見ていてちょっとかわいそうになったので、いいよと言ったのは自分だけれど。いや、そんなことは絶対言わないけれど、どちらかというと、またしたかったので期待はしていたのだけれど、こんなに性急に求められるとは思ってなくて。
 あっという間に服を脱がされて、かろうじて身に着けているのは腰にまとわりつくように捲れあがったヒラヒラの薄い素材のスカートくらいだ。
「ん、ふ。貴巳くぅん……」
 シャツを脱いでいる貴巳を見て、もうこのまま流されちゃおうと広い背中に腕を回したとき、ソラの携帯電話が鳴った。
 突然の音にびくりと反応するソラの体を貴巳がソファに押し付ける。
「貴巳く、電話……」
「出たらダメ」
 暫くすると留守電サービスに切り替わったのか電話が止まる。その直後、今度は貴巳の携帯電話が鳴り響く。
「貴巳君の、だよ?」
「いいから」
 言いながらも気にするそぶりのソラに貴巳の手も止まる。そして貴巳の電話も切れて──
 最後は家の電話が鳴った。この三連コンボはもしかして。
 しぶしぶといった様子で貴巳が立ち上がって電話を取ると、受話器から懐かしくもやかましい声が漏れ聞こえてきた。
『ヤッホー タカミィー ママだよー』
 ソプラノボイスで一区切りごとの語尾にハートマークが飛んでいるようなはじけたしゃべり方は、使う言語が変わっても変わらない。
 貴巳が耳から少し離した受話器から、メリークリスマースと聞こえてくる。その大音響は受話器からはみ出ている。
「……あーハイハイ。んでなに? 電話なんて珍しいな」
『ナニって。今空港なのデスヨ。ナリタ。マサノブもいるよー 帰ってきマシター』
「はあ!?」
『ご飯は食べてからそっち帰りマスから。イキナリ玄関開けるのはかわいそうかなーっていうオヤゴコロ。ありがたく受け取りなサイ』
 んじゃあとでねーっと言う言葉を残して、がちゃんと電話が切れる。
 受話器を見つめたまま動かない貴巳のそばに、服を胸元に抱えたソラがやってくる。
「ママ? なんて? わざわざクリスマスコール?」
「……親父と母さん、帰ってきたって。成田からかけてきた」
 ちくしょーと小さな声でつぶやきながら貴巳が抱きついてくる。服が落ちちゃうなぁと思いながらも手を背中に回そうとしたとき、がばりと貴巳が体を離す。そしてものすごくまじめな顔をして。
「ソッコーで風呂入ってしていい? マジで一回だけ」


「っらっしゃいませー」
 暖簾をくぐって細い格子の引き戸をカラカラと開けると中から威勢のよい複数の声が出迎える。
「ごめーん。遅くなっちゃったのです」
「すみません。誘っていただいたのに遅れてしまって」
 いつもの通りご陽気な調子のソラに続いて、本当に恐縮したような様子で真実が入ってくる。
 狭い店内にはカウンター席しかない。十もないその席の半分を埋めているのは両親と貴巳、そしてその友人。ほとんどが知っている顔だ。
「うわっ 生ソラちゃんだっ」
 そう言いながら立ち上がった少年は初めて見る顔だ。貴巳が言っていた学校の友人か。貴巳が後ろでナマって言うなとか抗議しているが、聞いている様子はない。
「はーいっ ナマソラだよー えーっと、キミは将人君?」
「どうしよう貴巳っ! ソラちゃんが俺の名前知ってるよ!!」
「そりゃ知ってるだろ、お、れ、が。教えたから」
 コートを脱ぎながらソラがそう答えると、座っていた貴巳が向こうを向いたままあきれたようにつぶやく。
「すげー もう、握手してもらっていいですかっ あ、あと写メもっ!!」
「いいよー 今?」
 にこにこと愛想良く笑うソラに近づいた将人が不意に足を止めた。
「……ソラちゃんって、意外と背が高い?」
「あははははー よく言われるソレ。テレビで見てるより背が高いねって。ソラ、そんなチビに見えるかなぁ」
 かかとがわずか五センチ程度のブーツを履いたソラに見間違いがない感じで見下ろされて、いろんな意味でショックだったらしい将人をさらに確定的になみだ目にさせたのは、隣に座ったソラとの目線が座高では、完全に逆転していたからだ。


 カウンターの軽く斜めに折れたところを挟んで、真ん中にソラと将人、ソラの隣が真実、その隣が父で、反対側の将人の隣に貴巳、その向こうに母が座っている。
 もういくつも寝なくてもお正月が来るような年末。さすがにこんな日に寿司を食べに来るような人間はあまりいないのだろうか。父が以前日本に住んでいた頃ひいきにしていた店で、一応予約をしていたが、他に客は来る気配はない。
 ほぼ貸切の店内で、しゃべっているのはほとんどソラだ。ソラは食べながら、なおかつ口の中に何も入っていない状態でしゃべるという摩訶不思議なスキルを持っている。いつ食べているのか分からないくらいしゃべっているのに、次から次へと注文して一番寿司を食べているのもソラだ。
 クリスマスイブに突然帰ってきた両親は、そのまま正月も日本に居座って、貴巳の学校が始まる前日に向こうへ帰るつもりらしい。
 確かに事業が安定してきたここ近年、年末年始はクリスマス休暇をとってあっちこっちとバカンスに繰り出すのがこの夫婦の通年行事だが、貴巳もソラも日本にやってくるとは思ってもいなかった。ただし、向こうの雑貨を日本に輸出するのが仕事の二人、今回は遊び半分仕事半分だったらしく、日本の取引業者が年末休業に入るまでは一応仕事をしていたらしい。
 一応というのは、夜までいろいろパーティーだ飲み会だと接待みたいなことを繰り返していて、それに貴巳もソラもつき合わされていた。特にウケがよかったのはソラだが。
 そんな両親がソラと貴巳の友達に会いたいと突然言い出して、電話した結果都合がついたのが将人と真実の二人だった。将人は両親の実家も都内なので、里帰りするようなこともない。
 一方のソラの友人たちはと言うと、帰省するのは数人だったが残る人間のほとんどが年末年始もアルバイトが忙しいらしく余りに突然で時間が合わなかったらしい。今日来た真実もアルバイトを早抜けして来てくれたのだ。
「たいしょー トロお代わり下さいっ トロ!」
「ソラちゃん、すっごい食べるね」
「うん、もうおなかぺっこぺこだったの」
 隣の将人がその食欲に引き気味なのもおかまいなしに、3Dネイルアートでこってこてできっらきらの指先でつまんだ握りたてのトロを口に放り込む。
「んー おいしー とろけるーっ」
「じゃあワタシもソラと同じのクダサイ」
 負けていないペースで食べているのは母だ。こちらは食べるほうが忙しいらしく子供たちの会話に適当に相槌を打っている。
「ソラちゃんって、お母さん似?」
「んー よく言われる」
 いくら軍艦を頼んだソラがにっこり笑って将人のほうを向く。
 貴巳の母、リーゼロッテは北欧系の血が混じったドイツ人だ。もともとブルーグレーの目にブルーのコンタクトを入れ、明るい栗色の髪を金色に染めている。外見を変えてやってきた母に、何でそんなことをするのか尋ねたら、この方が日本人ウケがいいかららしい。
「貴巳君はどっちにも似てないのね」
 隣に座るソラの父と日本酒片手に話しこんでいた真実がにっこり冷たい突っ込みをする。
「確かにっ なんていうか貴巳って、ものすごく濃くいろいろ混ざってるよな。多国籍顔っていうか」
「悪かったな、何人かわかんなくて」
「そこまで言ってないよー それより貴巳のお母さん、日本語うまいですねぇ しゃべり方もソラちゃんに似てるし」
「そう? アリガト。だってねぇ 家でソラが日本語しかしゃべれないのよ? いやでも上手くなっちゃうしかないのデスヨ。しゃべり方は伝染(うつ)っちゃうし」
 そこまで言って、母が不自然にならないギリギリの視線を貴巳と夫に向ける。貴巳から将人はソラと貴巳が義理の姉弟だということを知らないから話を合わせるように言われていたのを思い出したらしい。
 しかし、笑っている母の失言に将人は気づいていない様子だった。隣のソラも同様に気づいていないのだが。
「えー テレビで『日本語しかしゃべれない』って言ってるの、ホントなの?」
「ホントだよー ソラ、日本語以外しゃっべれませーん。あいきゃのっとすぴーくいんぐりーっしゅ」
 いつの間にかいくら軍艦をぺろりと平らげて、そう言うと、ソレを食べる前に注文していたらしいうに軍艦に食らいついている。
「ホント、どうやって試験突破したのか謎なのよねぇ 一年のときの基礎教科の英語と必須の第二語学で取った中国語、どっちもぶっちぎり赤点でお情けで単位もらったんだよね。話せない・書けない・読めないの三重苦だよ、この子は。せめて日常会話レベルしゃべれたら将来の職業選択の自由も増えるのに、ハナっからやる気ないもんね」
「いいのですー ソラはもう将来設計もバッチリなのですからっ」
 視線をめぐらせる貴巳に意味深な笑みを返して、真実が話題を変える方向に乗ってくれる。こき下ろす真実にソラが言い返していて、それをみて将人が笑っている。
「そう言う将人は漢字書けねぇし読めねぇじゃん、日本人なのに」
「うわっ ひどい。なんだよー 自分だけ漢検四級受かったからってー」
「自慢にならねぇよ、四級なんて。相田なんて二級だぞ、二級」
「笑莉はおかしいんだよ。頭よすぎ」
「だぁれ? エミリちゃんって」
 二人の会話を笑って聞いていたソラが、軍艦巻きを一口で食べて首を向ける。
「あーっと。同じときに帰国子女クラスに入ってきた女の子で、結構三人で一緒にいるって言うか、なんとなく」
「じゃあ誘ったらよかったのに」
 イクラお代わりー と手を上げて、ソラがちらりと貴巳を見る。
「いや、あいつ二学期終わってすぐモスクワのおばあさんとこ行ったから。向こうのクリスマスが終わるまでいるっつってたけど」
「そうそう、お母さんがロシア人でお父さんが日本人だっけ? いろんな国にいたことがあるらしくて四ヶ国語くらいペラペラなの。成績もトップだし。そう言えば笑莉ってなんで帰国子女クラス? 笑莉なら普通進学クラスでも十分授業ついて行けたんじゃね?」
「俺に聞くなよ。そう言えばそうだよな。俺や将人は漢字あんまり読めないから英語の授業のほうが楽だけど、アイツなら別に普通の教科書も読めるだろうなぁ 案外春からクラス変わってたりしてな。あ、ついでに言っとくけど将人、俺は次の春は無理でも三年の進級のときは普通進学クラスに変わるつもりだから」
「えええええー 一緒にいようよ、帰国子女にー 大学進学だって系列なら楽だよ? こっちのが」
「うるさい。郷に入れば郷に従っていくのが俺のマイルールなの。大体、常用漢字くらい読み書きできないと日本の大学進むならキツくね?」
「……キツいかも……」
「そっかー 将人君も帰国子女クラスなんだ? あそこって独特なんだよね、雰囲気が」
「ソラちゃんもっ?」
「あははー ソラは英語しゃべれないのではじめから普通クラスでしたー 外見がこれだから、そっちとよく間違われて話しかけられたけど、あいきゃのっとすぴーくいんぐりっしゅだからねぇ」
 再びのっぺりしたジャパニーズな発音を聞いた貴巳がため息をつく。
「だから、どうにかしろ、その発音」
「いいのです。通じるし。英語しゃべれなくても死にません。日本に暮らす限りはっ」
「まあ確かに、ニホンはいい国デス お寿司おいしいし」
「でしょうママっ? あ、サンマといわし下さい」
「久しぶりに来ていろいろ変わっててびっくりしマシタけど。これまではソラが来てくれてたけど、仕事してるから無理でしょう? でも来てよかったデス ワタシもサンマいただける?」
「まあね、どっちが動くにしても成人が二人だから、僕たちが会いにくるのもこの子達が帰ってくるのも変わらないからなぁ」
 真実とともに日本酒を飲みながら大学のことを彼女に聞いていたらしい父が、初めて中央戦線に絡んできた。
「でもソラ、アンタ将来設計とか言ってるけど、あの番組のお天気お姉さんって一年だよね? 来年の春で終わりでしょ?」
 サンマー イワシーと言いながら握りをほおばっていたソラが、真実の問いにきょとんとした顔をする。
 ソラの出ている朝の情報番組は、通例のようにお天気お姉さんは一年で番組を卒業する。そのあとタレントに転向したり、メディアからいなくなったり、行く末はさまざまだが。
「あああー ソレなのですけど……継続の話が出てまして。自分で言うのもなんだけど、結構人気あるらしくて。ソラのお天気コーナー」
 そう言って寿司を食べるソラを、父が無言で見詰めている。彼の脳裏には、帰国翌日クリスマス当日、朝の早くからサンタのコスプレで大型液晶の向こうにいた娘の姿がフラッシュバックしていた。普通のミニスカートならおそらくまだ許せたと思う。百歩どころか一万歩くらい譲って。しかし、出てきた娘はどこで売ってるのか問いだたしたくなるような、体にピッタリしたチューブトップのサンタ衣装だったのだ。しかもセパレートの。胸元と裾に白いファーがあしらわれたが、アレはサンタじゃない。父はその手に持っていたコーヒーカップが傾いで、中のまだ熱い液体が膝にこぼれていたことにすら数瞬気づけなかった。
「断りなさい」
 唸るような父の声に、ソラが即答する。
「イヤ。この仕事、あと一年って決めてるもん。あ、一応報告です。ソラ、内定決まりました。大学卒業したら就職します」
 就職先は大手民間気象予報会社だ。さすがにまだ正式に発表されるのは先なのだが、ソラは筆記試験と一次面接で内定をいただいてしまった。それもこれも、テレビに出ているおかげである。
「え? このまま芸能界に残らないの!?」
 なにやらとっても残念そうな将人のトーンなど気にせずににこにことソラが続ける。
「はい。元々一年のつもりでしたし、まあ、アルバイト感覚というか、楽しそうだからやってみたというか」
 もともと、就職に有利な資格として気象予報士の試験を受けたのだが、会場で言葉を交わした女性が、資格を取ったらテレビのお天気コーナーに出演するべくオーディションを受けると言っていたのを聞いて、なんとなく応募したのがきっかけなのだ。あれよあれよと最終選考まで残ってしまって、良くわからないうちに所属するエージェントまで決まっていた。ちなみに、ソラにそんな話をした女性はオーディション会場には来ていなかったので、気象予報士資格か、書類選考で落ちたのだろう。
「局や就職内定先にはもう伝えてありますし、来年度一年なら、就職にも響かないし、一応ソラ、エージェントと契約してますからねぇ そちらからお話いただいて、バイト続行ってな感じで。写真集のお話もあるですし」
「写真集!?」
 しれっといわしの握りを口に運んでそういったソラに、その場にいた全員の声がハモって問い返した。
「んぐ。ずーっと前から話はあって、目立つ衣装の日はついでに撮ったりしてたのですよ。継続の話が本決まりになったので、発売予定を延ばして沖縄行って水着の写真も撮ることになってるのです」
 周りのあまりの食いつきに、寿司を飲み込んでソラが言う。
「だっ!!」
「いいんじゃないデスカー? 若くてきれいなうちに体の線が出るような写真はバンバンとっとかないとダメデス。記念になってお金がもらえていいこと尽くしっ できたらママに送ってクダサイね」
 ダメだと立ち上がりかけた父の出鼻を母が挫く。夫婦の距離は遠いが、母に笑顔で凄まれて、父が言葉の続きを出せないでいる。
「はーい。できたら一番にママに送るね。あ、将人君にもあげるよ。サインつける?」
「もちろんっ うわー 家宝にするっ」
 そんな親の雰囲気など全く意に介さずにソラが将人ににっこり笑いかけている。
「いいなー 沖縄かー また行きたいなぁ」
「え? 真実ちゃんも一緒に行く? 事務所の人に聞いてみるけど」
「わー 俺も行きたいっ」
「お前はダメだろ」
「ダメだと思うー」
 調子に乗って将人が手を上げ、貴巳とソラに同時に突っ込まれてやっぱりダメかとカウンターに突っ伏した。


「ん。ちょっと、ダメだってば貴巳君」
 階段の影から伸びてきた手にひっぱられて、ソラがそこに隠れていた貴巳の胸につかまる。抗議しようと顔を上げたら、予期せぬ近さにあった貴巳の唇に捉えられる。
 精一杯の力で胸を押してもびくともしない。父と母のいるダイニングは、廊下を挟んでドアのすぐ向こう。聞こえたらどうしようと思ったらうなり声を上げられない。静かでささやかな抵抗はむなしく終わる。
 たっぷりと時間をかけて咥内を蹂躙され、その間大きな手が胸や腰やお尻をなでている。鼻から漏れる熱のこもった吐息や、一瞬唇が離れるときの音が向こうまで聞こえてしまったらどうしようかと思ったら、心臓がいつもよりばくばく鳴っている。響くインターフォンの音にやっと、唇が開放された。
「んもう。もうちょっとのガマンでしょう?」
 イキナリこんなことをして怒ってますよとソラが唇を尖らせて貴巳を睨むが、貴巳はそんな様子のソラに少しふてくされたような顔をして階段を上っていってしまう。
「ソラー お寿司届いたよー」
「はーい。今出るよー」
 居間の受信機で応答したらしい母の声に応えて、財布片手に玄関を開けに行く。
 大晦日から元日にかけて、除夜の鐘を撞きに行ったり初詣に行ったりとばたばた忙しい日々が続き、三が日があけた土日は泊りがけで温泉旅行だ。あちこち連れまわされて食傷気味な様子の貴巳と違い、ソラは十分楽しんでいた。
 旅行から帰宅して、出前を取ろうという話になり、ソラのリクエストによって結局また寿司になった。父がいるときに特上寿司を向こう一年食べなくていいくらい食べるというのが今のソラの最大重要事項なのである。
「ほらほら、貴巳君もっ そんなトコですねてないで。お寿司食べよ?」
 階段の踊り場手前の段に座って膝にひじをつき、顎を手に乗せている貴巳を見上げる。なんだかいろいろ不満そうな顔をしている弟に、ちょっと待っててねと言い置いて、ダイニングにいる両親に寿司を届けて戻ってくる。
「食わなくていいの?」
「ん、ソラの分食べちゃダメって言っといたから大丈夫。それよりソラは貴巳君のが大事だよ?」
 貴巳より一段高い段に座って貴巳の顔を覗き込むと、目が合う一瞬前にぷいと反らされる。
 あっちを向いてしまった頬の輪郭がちょっとだけ赤いのがかわいいなと思いながら、ねえねえとその頬をつつく。
 貴巳が不機嫌な理由は多分一泊旅行だ。この家の中なら、さっきのように両親の目を盗んでいちゃいちゃできるが、旅行の間は宿泊の部屋も一緒なら、移動も四六時中一緒だったのだ。両親が来るまでは好きなときにべたべたできたのができない欲求不満とも言うのだろうか。
 父には面と向かって貴巳君とラブラブですとは言えないが、母には一応メールで伝えていた。多分、父も分かっているのだと思う。だから、こんなときは邪魔は入らないのをソラは知っている。貴巳には言わないけれど。
「……ソラも結構いろいろガマンしたりしてるのですよ?」
「……ウソつけ。ダメダメ言うくせにっ イブなんかホントに一回しかさせてくれなかったしっ」
「アレはっ 貴巳君が一回だけっていったのですよー? 約束は守らないとダメなのです。それにダメダメ言わないと貴巳君止まらないんだもん。でもコッソリするのっていつもよりどきどきするからやっぱりダメダメってなっちゃうのっ」
「なにそれ、訳わかんね」
「んー ソラもわかんないけど、ほら、例えばこーんな風にしてるときお父さん来たらどう?」
「うっわ!!」
 意図的に。こーんな風と言いながら貴巳の頭を捕まえて横から胸の谷間に引き寄せると、ものすごい勢いで貴巳が体を離す。
「ほらねー イキナリされるとそんな感じでしょー?」
 顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせながら、階段の壁に背中をくっつけている貴巳を見てソラがくすくす笑う。
「やったな。ソラのくせに」
「わ、ダメッ」
「ダメ言うなってば」
 わしっと胸を掴まれて挑発するような目で見上げられ、下唇を軽く噛まれる。
「明後日覚えてろよ?」
 明後日夕方に成田を発つ便で両親は向こうに帰る予定だ。
「わすれちゃいまぁす」
 立ち上がって貴巳の頭をなでて、先に階段を下り、手を差し伸べる。
「ほら、早く食べにいこ?」


「ナニしてたの? タカミ」
「なんにも」
 まだちょっと、なんだか不機嫌さを残した顔の貴巳に母がにやりと笑う。
「あーっ ママッ! ソラの分ちゃんと残しといてっていったのにー」
 テーブルに置かれた寿司桶のなかは、めぼしいネタがほぼ全て食べつくされている。
「ダイジョブよ、もう一個あるから。そっち二人で食べなサイ」
 そう言って母がキッチンシンクの上を指差す。確かに同じような寿司桶が乗っている。
「よかったですー 貴巳君食べよ? 持って来てー」
「あー ハイハイ」
 言いながらちゃっかり椅子に腰掛ける。立っている者を使うのは佐倉家の基本……というか、ソラの基本だ。当然のように貴巳を使うソラに母が苦笑している。
 寿司桶を取って、ため息をついて貴巳がイスに座るのと同時に、ソラが猛烈な勢いで寿司を食べて行く。同じペースでとにかく食べたいものから食べて行かなくては確実に食いっぱぐれるので、貴巳も黙々と食べ進める。
「うあー おいしかった。もう当分はお寿司いいや。あ、そうだ、お父さん、昔のアルバムって納戸だっけ?」
「あ? ああ、多分。マンションから持ってきたものは大抵入ってる」
「ちょっと見てこよ」
「どうした?」
「うん。こないだ言ってた写真集にね、子供の頃の写真とか何枚か載せたいから持って来てって言われてたの。明日エージェントからマネジメントしてくれてる常盤さんがくるからついでに渡そうと思って」
 写真集と聞いて父の眉間に皺が寄ったが、気づかない振りをして納戸に向かう。ほぼ物置と化したその部屋で、いくつかダンボール箱をあけて中身をチェックし、何とか目的のアルバムを三冊見つけてダイニングに戻る。
「ママにもみせてー あら、この人がソラのお母さん? そっくりねぇ」
「うん。いろんな人にレプリカみたいってよく言われた」
 分厚いアルバムの一ページ目。ソラがもう少し年齢を重ねたらこんなふうかなという感じのソラの実母がピンク色のベビー服を着たソラを抱いている。
「うわ、双子?」
 ソラが食べない種類の寿司をやっとゆっくり食べていた貴巳も、お手拭で手を拭きながらアルバムを覗き込む。
「ソラ、ほんとにド金髪」
「でしょう? 小さい頃とか、お母さんと二人だけでいたらね、周りの人が声をかけてこないの。みんな日本語通じないと思って」
 パラパラとページをめくりながらソラが笑う。
「本当に。二人とも日本語しかしゃべれないのになぁ」
 小さい頃のソラの写真を見て気が和んだのか、別のアルバムをめくっていた父も笑う。
 写真の中には、貴巳と母はいない。けれど母が積極的にこのときは何? とか、これかわいいねとか、声をかけている。
「あ、お宝写真。懐かしいなぁ これって横浜のマンションのベランダだよな? モノ少なー スペース広ー」
 ソラが生まれて育った横浜のマンション。再婚してしばらくは、貴巳と母もそこに住んでいた。そのあと暫くして、家族で引っ越したのだ。現在両親が事業をしている国へ。
「どれどれ? あー そうそう。三歳くらいかなぁ これ持って行こうっと」
 広いベランダに子供用の小さなプール。人工芝を敷き詰めた上に置かれたその中に、ショッキングピンクのセパレートの水着を着た小さなソラが座っている。
「そういえば、ソラのお母さんってどこの国の人? 聞いてないよね、忘れてないなら」
 母が見ているのはうんと小さいうちのソラの写真が収められているアルバム。その中にはソラの実母の姿もたくさんある。
「えーっと。ナニジンだったっけ?」
「知らないのか!?」
「うん。あんまり気にしてなかった」
 父のほうに首をめぐらすソラに、マジかよと貴巳ががっくりしている。
 父の口から出た国名に、三人ともその国が地球上のどこの辺りにあるのか考える。漠然とあのあたりかなと想像するが、はっきりとは分からない。
「ミシェルが……ソラのお母さんがいた頃はまだあの国はソビエト連邦の一部だったよ。もともと病気の治療のために五歳か六歳の頃来日したんだ。当時は原因不明の難病で、あちらでは治療のしようがなかったんだ。日本に世界でも屈指の専門医療機関があってね。父さんの妹も、同じ病気で同じ病院に入院しててな。年が近くて仲がよかったんだよ」
 アルバムに目を落としたまま、父がポツリポツリと話し出す。
 ソラの母、ミシェルにとって幸運だったのは、彼女の両親はかなりの富裕層で、国内でも一流の病院にかかることができたのだ。当時では珍しく西側の国に留学の経験のあった主治医が専門でなかったにしろその病気についての知識があって、なおかつ日本の医療機関へのコネがあった。ミシェルの両親は、娘を一人外国に病気療養に出すことなどなんでもないくらいの財産があったのだ。
「薬さえ飲めば症状は抑えられるんだ。ミシェルは症状自体は軽かったし、病気のことだけならいつでも退院できた。でも……今でもそうなんだが、薬って言うものはなかなか国外に出せない。あちらの国ではまだ未承認で、その上あの頃は西だ東だといがみ合っていて、国に帰れば薬が飲めなくなるから、ミシェルは帰るに帰れなかったんだよ」
「ソラのお母さん、そんなに長い間病気だったの?」
「ああ、今でも治らない病気だよ。なんていうか、そう言う風に組み込まれた遺伝子を持った人はね。ああ、でも大丈夫。今までの事例では親から子へは遺伝しない。遺伝子は受け継いでも、組み合わせが変わるから発症しないんだろうと説明は受けたよ。兄弟で同じ病気にかかることも殆どないらしい。現に妹は病気だったけど、僕は全然健康体だったしね」
 母も貴巳も、父の先の妻、ソラの母が病気で亡くなったことは再婚したときに話していたが、具体的な病状まで詳しく伝えていたわけではない。
 それどころか、ソラも実母がどんな病気だったのか知らない。聞いたかもしれないけれど、難しすぎて覚えていない。けれど物心ついたあと、記憶の中の母はいつも病室にいた。小学校からの帰り道にあった大きな総合病院。その白い病室にその壁紙よりも白い肌、細い腕をしていた実母。ソラは帰っていた。実母が亡くなるその日まで。
「ミシェルたちがかかっていた病院は研究施設を兼ねた一応、子供病院でね、十八になったら退院か転院が余儀なくされて。妹は症状が……いや、薬が合わなくて転院したんだが、ミシェルは退院してウチにいたんだよ。未成年の病気の女の子を一人暮らしさせるわけにはいかないし、国へも帰せない……薬のこともだが、独立への動きも出てきていて、政情が不安定になっていたこともあって、ミシェルの両親も帰国に反対だったしね」
 アルバムをめくる。みしり、と長く開いていなかったためか写真を押さえるビニールシートが密着していて、はがれる音だけがやけに大きく聞こえた。
「そうこうしているうちに妹の容態がどんどん悪化してね、あっという間だったよ。姉妹みたいに仲がよかった僕の妹が死んで、ミシェルは出て行くと言ったんだが、僕の母が許さなくてね。娘を亡くした上にミシェルまでいなくなるのが耐えられなかったらしい。けど、それから何年か経って、僕がミシェルと結婚したいと言った時は猛反対だよ。母は母なりに、ミシェルを愛していたと思うよ。だが、結構な財産があって、大きな家があって、早くに父を亡くして女手一人で守ってきた佐倉の跡取りがほしかったんだろう。子供を生める望みが薄いミシェルより、他の女性と結婚してほしいって何度も言われて、結局、反対を押し切って結婚して、僕たちはこの家を出てしまった」
「でも、ソラが生まれたんでしょう?」
「……ああ。でもそのときにはもう、僕の母も亡くなっていたから」
「そうなの……あ、ミシェルのご両親は? 兄弟とか」
 母の言葉に見るともなく写真に視線を落としていた父がはっと顔を上げ、どんな顔をしたらいいのか一瞬迷うようにして、曖昧に笑う。
「結婚したときも、向こうが独立したてで国交が樹立してなくて、何カ国もある経由国や手続きが煩雑でね、行き来が無理で手紙が来ただけだったよ。ミシェルももう成人していたし、日本での暮らしも長かったし、病気療養ということもあって書面で向こうの了承を得て結婚を機に帰化申請をだしたんだ。何年か経ってソラが生まれた頃が内戦が一番ひどいときで、ミシェルの両親もどこかに亡命することはできたらしいんだが、連絡が取れなくなってね。とは言っても、ミシェルはもうほとんど母国語を忘れていたし、読み書きがおぼつかないうちに日本に来たわけだから、それこそ手紙を書こうにもどうしようもなかったんだ。
 自分が自分の生まれた国の言葉を忘れてしまったからだろうなぁ ミシェルが口癖みたいに、ソラに『日本語だけ覚えてたらいいのですよ。忘れたらダメなのですよ』って言ってたのは」
「そう言う意味だったのですかっ!?」
「ソラは違う意味に取ってたみたいだけど、僕はそれでもいいと思ったからね。おかげでソラは日本語だけしかしゃべらないから忘れたくても無理だろうし。結果的にはミシェルの思いは通じてると思うよ」
「ソラはてっきり外国語は覚えなくていいってコトだと……ソラ、見た目外国人だったから学校でもよく『ガイジン英語話せー』とかからかわれたのです。意地悪されるのがイヤで見返したくてお母さんに英語習いたいって頼んだら、ソラは日本語だけ話せたらいいから他の言葉は覚えなくて言いのですよって慰めてくれたのです。だからソラは……」
 母の言葉を頑なに信じて守ってきたのだ。その結果がこの語学オンチなのだが。
「ソラのお母さんはいい人だったんだね」
 母がよしよしとソラの頭をなでる。
「ハイ。やさしくてとってもいいお母さんだったのです。いっつも病院にいたけど、外見のことで意地悪されて学校の帰りに泣きながら病室に行ったら、いっつも『ソラは日本人なんだから、そのままでいいのですよ』って今ママがしてくれるみたいに頭をなでてくれて……」
 ゆっくりと髪を梳く暖かい手に暫く身をゆだねて。
 目頭が熱いのに不思議と涙がこぼれない。
「ときどき、思うのです。お母さんは私のことを生まなかったら、もっと元気で長生きできたのかなとか」
「そんなことはない。何度も言っただろう? ソラがミシェルの生き甲斐だったんだよ。ソラがいたからミシェルは最期まで生き抜いたんだ。お前のために一日でも長く生きたいと、いつも言ってたよ」
 語気も強くそう言い切った父をみる。その目はしっかりとソラを見ていて、力強くて、なんだかとてもほっとした。
「………そうなのかな」
「そうだよ。ソラが生まれていてもいなくても、ミシェルの寿命は変わらなかった。いや、ソラがいたからあの病気にかかった同世代に比べても長く生きた方なんだよ、他の人から見たら、短い人生だっただろうけれど、ソラがいて、笑ってくれていたからきっと最後まで実のある充実した人生が送れたんだ。それは間違いない」
「うん、充実してたね」
 思い出はキラキラ綺麗なものばかり。
「最期の頃、お母さんはいっつも、自分がいなくなっても大丈夫、すぐに次の幸せがやってくるからって笑ってたのです。未来が見えたわけじゃないのだろうけれど、それから三年くらい後に、お父さんが再婚したいって言って、ホテルのレストランで貴巳と母に初めてあった日に、ほんとに次の幸せがやってきたんだって。ママに会ったとき、ソラは本当によかったなって思ったのです。すっごい元気な人だったし」
 実母はいつも、細く細くなった腕を上げて、ゆるくなった指輪をつけた手でソラの頭を撫でながら、呪文のように繰り返していた。悲しみはいつか引いて、次の幸せがやってくると。
「あたりまえよ。ワタシ、まだまだ死なないから」
 顔を上げてごまかすように笑うソラを抱きしめてくれる腕。この腕があることが、今心からうれしいと思う。実母のことをどう読んでいたのか、あまり上手くない日本語で尋ねてくれて、お母さんと呼んでいたというと「じゃあママってヨンデ? ニッポンの子はそう呼ぶんでショ?」と、義理の娘になるソラに笑いかけてくれた。
 そう言えばあのときから、母はやさしかったなと思いながら、その手の優しさにうっとり目を閉じて。このまま眠ってしまえたら幸せな夢が見られそうだなと考えて。
 目を開く。時計を見る。
「あああああっ! 十時っ! じゅうじっ!!」
「ソラ?」
 いきなり立ち上がった娘に、母が小首を傾げている。
「もう寝なくてはっ 今すぐ寝るのですっ! 明日は常盤さんが来るのにっ 寝不足の顔だと叱られるのですー カミナリが落ちるのですぅーっ!!」
 ピックアップした写真を手に取り、あわただしく立ち上がる。ダイニングを出る前に振り返っておやすみなさいと叫んで、部屋までマッハダッシュだ。今日はしんみりした話になったので涙目になっているので、寝不足は危険だ。
 あわただしくパジャマ代わりのスエットに着替えて目覚まし時計を二つと、携帯電話のアラームをセットして布団をかぶるが寝なくてはと思えば思うほど寝られない。
 それでも目を開けているより閉じていたほうがいいので、呪文のように「私は眠い」と頭の中で繰り返していると、そっとドアが開く気配がしたので、慌てて頭まで布団をかぶる。
「ソラ、寝てないだろ」
「もう寝るのです。ソラは眠いのです」
「ウソつけ。いろいろ昔のこと話したからいろいろ考えてたくせに。照れ隠しのつもりで逃げたんだろうけど、んなのみんなお見通しだっつーの」
 ぎしりとベッドがきしむ。
「なぁ、ソラの本当のお母さんの瞳の色って、ソラより深いよな?」
「ん。よく、ソラはお昼の色で、お父さんが夜の色で、お母さんはその間の色だねって昔家族ではなしてました」
 青より澄んでいるのに、深い深い藍(あお)い瞳。一番星をキラキラと浮かべた、ずっと少女のようだった実母を思い出す。
 そろりと布団を下げる。
 ヘッドボードの十ワット豆電球が、ベッドの端に腰掛けた貴巳の、唇の端をきゅっと上げるような笑いを浮かべた顔をかすかに照らす。ゆっくりと頭を撫でて髪を梳くその手が心地いい。
「病室から夕日が見えて、だんだん沈んでお日様が消えた後、ほんの少しだけの間の色に似てました。お母さんは「お父さんとソラをつなぐ色だよ」って。今、朝早い仕事をしてて、真っ暗な空がだんだん明るくなってきて、さあお日様が昇るぞってまでの数分間だけど、子供の頃見た同じ色が見られるのです。毎朝じゃないけど、お母さんとおはようって挨拶してるみたいで、この仕事、しててよかったなーって思うのです」
「そっか」
「それが、どうかしたのですか?」
「んー いや、別に」
 薄暗いのでその表情の細部までは分からないけれど、自分を見下ろす貴巳の顔を見ていると落ち着かなくて再び布団を頭の上までかぶる。
「泣いてないか?」
「泣いてません。泣いたら明日の仕事ができませんっ」
「そうか」
「……なんか貴巳君がやさしくて泣きそうだけど。泣かないのです」
「じゃ、俺いないほうがいい?」
「ダメッ」
 言うと同時に立ち上がる気配がして、慌てて手を伸ばす。シャツの袖を捕まえて逃がさないようにぎゅっと掴んで。
「だめ。もうちょっと、ここにいて。っていうか、何にもしないでただぎゅーってして一緒に寝てとか言うソラはひどい女なのでしょうか?」
「しゃあねぇなぁ ひでぇって自分で分かってんならいいよ、ソラが寝るまでそうしてやるよ。その代わり」
 するりとその長身な体をベッドに滑り込ませて、長い腕がソラの体を抱きしめてくれる。が、なんとなくイヤなところでセリフを切った貴巳を見ると、なんとも意地悪そうな顔でソラを見詰めている。
「キッチリ払ってもらうから。体で思い知っていただこう。溜め込んどいてやるから覚えとけよ?」
 ちゅっと音を立てておでこに軽くキスをされる。
「……忘れますです」
「大丈夫。思い出させてやるから」
 ニヤリと笑う貴巳につられて笑って、瞳を閉じる。先ほどまで寝なくてはとあせっていたのがウソのように、自然にまぶたが下りていく。居心地がいいなぁと思いながら、その胸に擦り寄って瞳を閉じた。






 ←    → 2


Copyright © 2009 FEB Sachi-Kamuro All rights reserved.
このページに含まれる文章および画像の無断転載・無断使用を固く禁じます
画面の幅600以上推奨 動作確認:IE FF