AFTER DAYS 42a 塩野真由子の視点


 ああもう。何がうれしくて休日出勤。この私が……
 はーっ。
 なんだかまだ体の中にアルコールが残ってるような気がする。ここに来る間、口臭予防のガム噛んでたけど、なんて言うか体から洩れてるような気がするわ。酒くささが。いやな保健医……
 昨日の金曜日。新しくいらっしゃった先生方の歓迎会があって、お酒飲むのも人と喋るのもおいしいものを食べるのもキライじゃないから、ちゃんと出席したんですけど。
 五次会はさすがに断ればよかったわ……結局朝まで飲んでたことになるじゃない。
 棚を開けて、薬を取る。二日酔いに効くやつ。ああ、ここは高校だから二日酔いにも効くやつ、か。さらに言うとまだ二日酔いじゃないかも。あああ、自分が何考えたいのかイマイチよく分らないわ。昔はこのくらい平気だったのに、とか思っちゃうのはやっぱり年を取った証拠かしら。そうよねぇ。この薬と同じで、手を伸ばしたら届くもん。三十路。
 薬を冷蔵庫の中のミネラルウォーターで流し込んで、いざいかん。決戦の場は数学準備室。でも待ち合わせは生徒用昇降口。
 グラウンドに面した廊下をほてほて歩いて昇降口へ向かう。
 校舎よりも階段二十段分低い位置にあるグラウンドでは、陸上部とソフトボール部とサッカー部が、ゴールデンウイーク明けにある春季大会に向けてだと思うんだけど、休日練習中。
 新城東高校のグラウンドは、狭くもなく広くもない。校舎の前が二百メートルトラック。その向こうにサッカーコート。それぞれに外野が重なるかっこうだけど、対角になる位置にソフトボール用と野球用の内野スペース。
 狭くない代わりに専用グラウンドはないのよね。どのクラブも……
「塩野先生っ」
 微妙に薄暗い昇降口で待ってたのは、この春三年生になったばかりの杉本君。ちなみに彼、今日練習風景の見えない野球部のキャプテン。
「おはよう、杉本君」
「こんにち……おはようございます」
 あはははは。杉本君が用意してたらしい挨拶をやめて私に合わせてくれる。その日初めてあった人にする挨拶なんだから、間違ってはいないのよ。もうすぐお昼だろうとも。
「んじゃ、行こうか」
「先生、本気ですか?」
「うん」
 私より頭一つ大きい……とは言っても、私が小さいからなんだけど、そんな杉本君を従えて昇降口の横にある階段をのぼる。
「ほんとに頼むんですか?」
「うん」
「本気でほんとに……」
 何回も聞かないで。だいたいねぇ別に私、いなくてもいいのよ、ここに。キミ一人で頼みに行くべきことなんだから。
「だって他にいないんでしょう? 顧問してくれる先生」
 目的の階層は三階。そして踊場を抜けて奥から二番目の部屋を目指す。
「それは、そうなんですけど」
「人生って言うのはね、ダメでもともと当たって砕けてナンボのもんよ? 早く顧問決めないと、野球部は地区予選にも出られないじゃない。出来たての同好会じゃないんだから、他のクラブと掛け持ちで見ていられるほどヒマなクラブでもないでしょう?」
 例え毎年一回戦負けでなおかつ九回まで試合をしないとしても。点差が野球の試合じゃなくてラグビーみたいだったとしてもよ。一応、高校生男子の花形的部活動でしょうがよ。予選くらいは出ておかなくちゃ、何のための部活動よ。
「それは……そうなんですけどー」
「それに、顧問以外に外部からコーチ呼んだりしてるじゃない。要するに名前だけ貰えたらいいんでしょう?」
「あっそれなんですけど……」
「失礼しまーっす」
 杉本君の言葉を待たずに、目の前の戸を横に滑らせて中を覗くと、ちょうど仕事が終わったらしく片づけをしていた井名里先生発見。
「お仕事ご苦労様ですぅ。お互い休日出勤って大変ですよねー」
「そういう塩野先生は今来たばっかりでしょう。昨日は遅くまでご苦労様でした。ああ、今朝までって言ったほうが正しいですか」
 言い当てないでよ。一次会の半ばでさっさと帰っちゃった人がなんで私のその後の行動まで知ってるのかしら。
 まだ八時前くらいなのに、携帯に何か……多分渡辺さん(旧姓)かららぶらぶコールだったんだろうけど、いそいそ帰ったくせに。
 大体、そこで帰られなかったら、あのあともっと大勢で畳み掛けるようにこの件を頼み込もうと思ってたのよ? それがいなくなっちゃうから、じゃあ誰が言いに行くかってことになって、白羽の矢が私にぶっさり、刺さっちゃったんじゃないの。
 その場にいたほかの数学の先生が、井名里先生なら新学期になってから、毎日五時間近く授業を持ってるせいでできない残務をしに毎週土曜も学校に来てることを聞いて、決戦の場所がココになったわけ。
 どうせ昼間に行くんならって、杉本君にその場で連絡とってあなたのことでしょうって強引にこの場に来させたわけだけど。私だって一人はイヤよ一人は。
「で、ナニか?」
 ああ、忘れるところでした。ほらほら杉本君、隠れてないで出てきなさいよ。男の子でしょうっ
「……珍しい組み合わせですね。どうして塩野先生が杉本と?」
「え? 井名里先生、杉本君知ってるんですか?」
「……生徒の顔と名前くらいは把握してますよ。全員」
 本気か!? 二年と一年はそれまでより一クラス減って六クラスになってるとはいえ、全校生徒七百人はいるのよ? それに今の三年生の文系クラスの子の授業は井名里先生、一度も受け持ったことないはずよ。理数系ならともかく。
 びっくりしてるのは私だけじゃなくて、杉本君もらしい。あっさりと言い放った井名里先生に二の句が継げない私たち。
「三年D組出席番号十一番杉本恒平。野球部キャプテン」
「あ、はい」
「が、塩野先生と二人で何の用か聞かなくても分かりますけどね」
 じゃあ話が早いです。あのですね……
「お断りします」
「まだ何も言ってないじゃないですかっ」
「だから、言わなくても分かりますよ」
「即答で断らなくてもいいじゃないですか。話聞いてからでも」
「聞くだけムダでしょう」
「だからーっ 別にマジメに顧問してくれって言うわけじゃなくてですね、名前だけ。顧問が付かないとクラブとして成立しないんですから」
「やっぱり聞くだけムダですね。名前だけ、なら別に塩野先生でもだれでも構わないでしょう。それこそ掛け持ちの先生でも」
「それはー……そうですけど」
 分かってるわよ、矛盾してることくらい。名前だけなら、別に井名里先生じゃなくてもいいことくらい分かってるの。多分、これまで全然クラブ顧問をしてない井名里先生に、ここぞとばかりにやらせようと思ってるのよ、他の先生方。なんていうか、男性の先生たち、やっぱり井名里先生が渡辺さん(旧姓)とよろしくやっちゃったこと気に食わないらしくて。一番弱いクラブ押し付けようって魂胆らしいの。やりくちみみっちいわよねぇ。
「そういう話ならお断り。名前は貸せません。大体当の杉本や部員は? 本当に指導者がいなくてもいいのか?」
「それは……よくないです。みんなだってやってる限りは、やっぱり勝ちたいっておもってるはずだし、顧問くらいには、マジメにやってほしいって思います。去年の村山先生、ほんとにダメだったから。せめてルールくらい覚えてくれてもよかったのに……」
 村山。今年他の高校に移ったけど、アレは使えない教師だったわ。しかしそこまでとは。
「だろう? なのに今年もお前たちは名前だけの顧問を探すのか? どのクラブも満遍なく弱いとは言えこの十年、公式試合で本当に一度も勝ったことのないクラブは野球部くらいだからな。そりゃなり手もないだろう」
 ……確かに。きっと練習試合もあわせたって負け続けてるわよ……
「今何人だ? 野球部の部員は?」
「え……三十一人、です……三年生が五人と二年が九人、入ってきた一年が十七人」
「一学年一年間半分辞めるのか」
「そんな感じです。やってても、負けるのがわかってきて、それで。自分たちも、入部したときは一勝くらいできるつもりだったのに、全然、いつも負けてて、だんだん負けるのが当たり前みたいになってきて……」
 負け癖がついてるのねぇ。
「負けて泣いたことがあるのか?」
 え?
「ないだろう。負けても別に悲しくもなんともない。当然のように負けてるだろう、お前たちは」
 杉本君もはっとした顔をしてる。確かにこの子達は、自分たちで言うとおり、負けて当たり前だと思ってるから泣いたことなんかないだろう。
「それだとお前たちは一生勝てない。そんなクラブの顧問になって、最下位として自分の名前が残るなんてのはごめんだね」
 結局自分本位ですか……
「それはっ!! 自分だっていやです。せっかくやってるんだから、一回くらい勝ちたい。でも、上手な子はみんなもっと強い高校に進学してて、どっちかって言うとみんなへたくそって言うか……やっても全然……」
「いくら練習しても巧くならない? ホントにお前ら真剣で練習したことあるのか? いつもダラダラ時間だけつぶしてるようにしかみえなかったけど?」
 またずけずけと……さすがの杉本君も泣きかけみたいな顔してるし。顧問やる気もないのに畳み掛けるように傷つけたりしないでくださいよぅ。
「あの、井名里先生、もういいですから……」
「なにが?」
 なにがって……
「顧問はいつも名前だけで、的確な指導をしてくれるコーチもつかない。それなら生徒が伸びないのは当たり前だ。締める人間が誰もいないのに、真剣で練習をするわけもない。十代の子供が自発的に自分たちを追い詰めて強くなるなんてことは、マンガでもあるまいし、普通できるわけがない。だからいつまで経っても巧くはならないし、自分たちでも、自分の全力を尽くしてるわけじゃないって分かってるからどんな結果でも悲しくもない。試合の前からお前たちは負けてるんだよ」
 あああああ。ごめん杉本君、やっぱり私一人できたらよかったかも。
「本当に強くなりたいと思うんなら、そこら辺の草野球の大人でも、誰でも頼めたはずだ。けどお前らはそれをしなかった。どこかでこのままでいいと思っていたからだろう? 努力してまで強くなりたいと思わなかったからだ」
「努力したって、ダメなことはあります」
「ないよ」
 もう、えぐるように痛いところを直撃する井名里先生の畳み掛けに、杉本君がちょっと震える声で反論しても、井名里先生はあっさりと、それを否定した。
「努力した人間は、した分だけ報われる。努力したってダメだと思う人間は、本当に努力したことがないんだよ。初めから諦めてるのと同じだ」
 ああ『努力』なんて言葉、井名里先生の口から聞くとは思いませんでした。
「甲子園でやってるやつら、アレがみんな、本人の才能や運だけでそこに立ってると思うか? 違うだろう。才能も運も要素としては大事だが、やっぱりあいつらはちゃんと努力してきた証拠にあの場所に立てるんだよ。俺が言ってることは間違ってるか?」
 イエ、仰るとおりです。ですけど。
「もういいです。井名里先生が顧問をやる気がないのはわかりましたから。行こう、杉本君」
 そう言って、杉本君の腕を引いたんだけど、杉本君、びくともしないの。もしかして、ひどいこと言われすぎて固まっちゃった?
「……名前だけじゃなかったら、いいんですか?」
 は!?
 いまなんと? 杉本君。
 見上げたら、杉本君が、それまでとは全然違う顔をしていた。その問いかけに、井名里先生がちょっと笑う。
「杉本、世の中本当の意味で思い通りになるのは自分だけだ。でも、動かせるものはある。お前だけその気でも、仕方ないからな」
「分かりました。今からみんな集めて、聞いてきます」
「俺は一旦家に帰って、まだここで仕事が残ってるから、そうだな四時くらいまでなら待っててやるよ」
 元気にハイって返事をして、杉本君が走り去っていく。ええっと、ナニがどうなって、そうなるんでしょうか。イマイチ状況が飲み込めません。
「あの、それは、顧問をしていただけるってことなんでしょうか?」
 確認せずにいられないんですが。
「本気でやるならね」
「………じゃあ最初から、完璧な顧問を求めたらひどいこと言わずに受けてくださったんですか?」
「まさか」
 屁理屈はこねたわけですか……
「でもどうして。これまで誰がどの顧問頼んでも、一度も受けたことなかったのに。それに、仕事なんかもうおわってらっしゃるでしょう?」
 そう、勇気を振り絞っていろんな人たちが井名里先生に顧問を頼んでたのを、何度も見たことあるんですけど、その度に今みたいに畳み掛けるように攻撃して撃退してたくせに。杉本君にはわざわざ待ってやるなんて。どういう風の吹き回しかしら。なにか天変地異でも起こったらどうしよう。それって私たちのせいである可能性が高いわ。
「そりゃあ、杉本がバカじゃなかったからでしょう。ま、他の部員がバカだったらそれまでですよ。それにこれからしばらく何か他のことをしてないとヒマになりそうだし」
「ヒマ!? 新婚さんのクセにどうしてヒマなんですか!? まさかもう渡辺さんに愛想つかされたとか!?」
「どうしてそうなるんですか」
「いやだって、それ以外、ヒマになる理由って、なんで……すか……え?」
 あ、今ものすごくありえそうなこと思いついちゃった。
「言っていいですか?」
 確認したくて堪らないんですが。
「ダメです」

                                        2002.8.12=up.





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