AFTER DAYS 42c 草野キリカの視点


 会場になってる居酒屋まではもちろん一緒に行くし、そこまで送ってもらうのも当然、井名里先生の車。
 予定してた時間きっかりにマンションに着いて、エレベーターのボタンを押したらちょうど井名里先生が地下から乗ってるやつだった。
「あれ? いなりんどこか行ってたの?」
 そしてなんだか、慌てて帰ってきたっぽいわ。
「こんな恰好で行くとこなら、学校? もしかして仕事? なんでそんなチカラいっぱい脱力してるの?」
「お前なぁ……その呼び方やめろ」
「ああ、ごめん。キミが家でずっとそう呼んでるから感染(うつ)っちゃった」
 私の呪いが効いたのか、なんとキミもシロも一年A組。しっかり井名里先生のクラス。
 今の女子高生って怖いもの知らないよねー 井名里先生のこと、入学式のその日から『いなりん』呼ばわりだもん。天音さんが呆れて『まさか先生にまで言ってないわよね』って聞いたら、何の罪悪感もなさそうにキッパリ言いきったもんね『呼んでるよ』って。確かにさ、私も塩野先生のことは『しおやん』って呼んでたけど、呼ぶ相手は選んでたよ。さすがに。
「イヤならやめさせたらいいのに」
「止めてやめるのか」
 やめないと思う。
「でも止めないといつまでもやるよ? 実際呼びやすいし。井名里先生よりいなりんのほうが。短くて」
 エレベーターから降りて、マンションの通路を新婚宅へ。新婚っつっても変わってないんだけど。これまでと全然。
「お前らには目上の者に対する敬意がないのか」
「えー。だって、ほら、卒業式の日にその会場から生徒とカケオチするような先生に払う敬意ってどんなよ?」
 きしししし。間髪いれずに切り返したら、井名里先生が嫌そうな顔して黙り込んだ。勝ったわ!! なんだか今日の私ってば絶好調?
「キリカ? 何してるの?」
 親指と人差し指をL字にして、顎の下に構えて笑ってたら、前を歩いていた井名里先生の影からカスミの声。
「ナンデモナイデス。……あ!!」
「うわ。大声出さないでよ。びっくりするじゃない」
 だってだってだってだってっ!!
「スカートはいてるんだもん。びっくり。どうしたの?」
 ミニじゃないのが惜しいけど。膝よりしたまであるAラインのワンピース。
「うん、まあ。いろいろ。どうぞ」
 オジャマシマス。
 ただいまとおかえり。当たり前の挨拶を当たり前に交わして、着替えてくる、って井名里先生がすたすた中に入っていくのを、どうせすぐに出かけるから、入るか聞かれたけど断ってすでに準備ができていたらしいカスミと二人で立ち話。
「先生も友達と会うんだって」
 送ってくれるだけならそのままの恰好でいいのにって思ってたら、顔に出てたらしくてカスミが説明してくれる。
「え!? いなりんトモダチいるの!?」
「……キリカ……いなりんってナニ……?」
 あ、しまった。でも呼び方の説明はあとからにして。自己弁護が先よ。
「だって、先生って人に頼らなくても自分でさくさくやっちゃってさ、トモダチなんか煩わしいとか思ってそうだと思ってたんだもん」
 思わず叫んでから自分の暴言&失言に気付いたわ。
 ゴメン、想像つかないわ。
 びっくりーって顔してる私に、カスミがちょっと笑う。
「いるって。先月クラス会に連れて行ってもらったけど、すごく仲よかったよ。中高の時の友達の人」
「へー……男? 女?」
「男子校だったから男の人ばっかり」
「男ばっかりのところに行ってたの? クラス会」
「ううん。何人か女の人も来てたよ。樹理ちゃんもいたし」
「樹理ちゃんも来てたの!?」
 いいなー また逢いたいなー 目の保養に。そう言えば前に先生の同級生の彼女って紹介してもらったんだわ。
「うん。アレくれたの」
 アレ、と指差された向こうにはバカでっかいウエディングくまさん。玄関からすとんと繋がってリビングへ曲がる角に二体仲良く座ってた。
「それから、ミカさんも来てたよ」
「ああ、だってあの人、先生と同級生なんでしょ? え? アレ? ハイ? 男子校で同級生? ……luxuryの店長? だよね? 女の人じゃ……な……」
 自分の目が泳いでるのが分る。くるくる。記憶を呼び戻したり、考えたり。利き手と同じ方を見てたら記憶を思い出してて、反対方向だったらウソ考えてるとか……アレ? 逆だったっけ?
「え? キリカ……もしかして女の人だと思ってた? 天音さんが知ってるから、キリカもてっきり知ってると思ってたよ」
 だーまーさーれーたっ! 天音さんのあほー。最初のころもしかしたらって思って聞いたのに、あの人ウソ教えてくれたのね。
「くー。身近にいる唯一の私より背の高い女の人だと思ってたのに……」
「だねー。ミカさんほんときれいだから、言われないとわからないもん。外見も内面も完璧に女の人だから、きっと昔どうだろうと、女の人でいいのかなって思うよ」
 ……たしかに、私なんかより、よっぽど歩き方とかしぐさ、色気あるもん。どっちかって言うと私のほうがオトコっぽいかもしれない。ちょっとしょっくぅ。
「夏清」
「はーい。ごめん、ちょっと待ってて」
 井名里先生に呼ばれて、カスミがリビングのほうへ歩いていく。
「なにー?」
「ナニってお前、ほんとに行くのか?」
「うん。大丈夫だよ。キリカもいるし。平気」
「そっちもだけど」
「うん。分ってます。大丈夫だってば。病気じゃないんだし」
「なんかあったら電話しろよ」
「はいはい。いいってば。電車で行けば先生も飲めるのに、ごめんね。あんまりゆっくりしてると、先生遅れちゃうよ。早く行こう」
 奥から聞こえる声を聞きながら、ウエディングくまさんを見てるとなんだかぬいぐるみが話してるみたいな錯覚。ほらほらって井名里先生の腕を引っ張りながら、本物たちが出てきた。
「カスミ、もしかして体調悪い?」
「ううん。そんなことないけど、どうして?」
「なんとなく、病気どうこうって聞こえて。そう言えば顔色よくないかなーって。
 体調よりも気分? あんまり行きたくなさそうだもんね。今からでも急用入れる?」
「いいってば。前にも言ったけど、行かなかったら何言われるかわからないもん。あの頃も影では散々言われてたから」
 つーかも、それって怖いよ。
「じゃ、さくさく行って帰ってこよう」
「うん」
「あ、そうだ草野」
 先に靴を履いたカスミと腕組んで部屋を出たとき後ろから呼ばれた。
「ナンですか?」
 答えながら振り返ったら、にやりと笑われた。うわ。イヤな予感。
「お前、トモダチや知り合い多いよな? 俺と違って」
 うが。最後強調したわね。さっきの失言きこえたの? ごめんなさいね悪かったと思ってるの。これでも悪意はなかったのよ。
「いますよ。そりゃもう大勢」
 なんて。思いながら言葉はウラハラっつーか。えっへんってカンジ。
「ソレからお前、ソフトと野球やってたんだよな?」
 なんでそれを。あ。カスミか。いいけど別に。
「ソレが、なにか?」
 どう繋がるの、トモダチ多いのとソフトや野球が。もしかしてチーム作るとか? あはははは。ないか、そんなこと。
「やってなくてもルールくらいは覚えてるよな?」
「ルール? そりゃあ、普通の女の子よりは詳しいと思うけど」
 私後ろ向き、カスミ前向き。右腕同士で腕を絡めて通路を歩いてエレベーターを待つ。
「お前、大学でクラブやサークルに入ってないんだよな?」
「だから、それが、なにか?」
 今、物色中なの。明らかにナンパ系なのはノーサンキューだし、ひたすらクラブに明け暮れるってのもどうかなと思うし、いてもいなくてもどうでもいいようなトコに入っても仕方がない。なんて考えてたら、新歓の時期も終わりかけ。カスミは、捕まっては足を止めてたけど、端からそう言うのに入るつもりはなかったみたい。ボランティアサークルとか入るかなと思ってたんだけど。
「ヒマだな?」
 決め付けるなー!!
「だからっなんなの!? 言っとくけど私、できないからね。すごく長い間投げてないから。ルールだって細かいところ変わってるはずだもの」
 左手では。
 お箸も鉛筆もハサミも全部右手だけど、投げるのと打つのだけは左。踏み切りの足も左。高飛びは人と逆から。高校一年のときは体育をするのもイヤだったから体調不良ってことで授業はほとんどサボってたけど、二年からはやってたよ。右手で。確かに利きは左だったけど、普段使ってるのは右手だから、人並みくらいのことは右手でもできちゃうの。右のバッターサークルに入ってグリップは左の握り方だったりなんてこともヘイキでやってたけどさ。
「別にお前に試合に出ろとかいわねーよ」
「じゃあなんなのよー」
 やってきたエレベーターに三人で乗り込む。エレベーターの中で向かい合った時、カスミが笑い出す。
「先生ね、野球部の顧問するんだって」
 
 は?
 
 えーっと。
 ハイ?
 体がぐらってなったの、エレベーターが止まるときの重力変化のせいじゃないよ。今、視界が二時の方向に傾いてるのも、地球のほうがナナメになってるんだと思う。
 なんていうんだろう。受験勉強でやった気がする。うーんと、ああ、セイテンノヘキレキ。もう漢字で書けないけど。
「キリカ、降りないと上がっちゃうよ?」
 エレベーターの中の手すりに、後ろ手にすがりついたまま動けないでいたら、降りてから開くのボタンを押しているカスミが笑う。
 すごいなぁ。膝に来るような一撃、久しぶりよ。
「いや、ちょっと。うん、なんだろうね」
 自分でもなに言ってるのかよく分らないんだけど。
「あー……なんか今、地軸の傾斜が変わらなかった?」
 くらくらする頭を両手で支えながら両足を交互に前に出す作業。
「うん。私もね、お昼に先生から聞いて、しばらくそんな感じだったよ」
 ナナメに体を傾けてカスミが私と対照のポーズ。
 そのうしろに、地下なのに大した音も響かせず、すいっと井名里先生の車がそばまでやってくる。カスミが助手席、私が後部席。ああなんだか、このシートにそのまま転がりたい衝動。
「でね、先生ひとりでするのも大変だし、誰か手伝ってくれないかなーって、思って。そう言えばキリカがいろいろやってたって言ってたから、どうかなって」
 どうかなって……私に選択の余地があるような言い方してるけど。
「断ってもいいぞ草野。そのかわりお前に上乗せした分の成績、男草野とプチ草野、あのタマゴコンビから引いてやるから。もちろん、どうして自分たちの成績が不当に低いかの理由も本人に言って」
「ぎゃーもう。やっぱり脅迫じゃん。シロは構わないけどキミはやめてよぅ。あの子の脳みそ私と変わらないのに。マイナスついちゃう」
 それにその『男草野とプチ草野』ってのもっ! シロなんかさ、通いだして一週間目くらいのころ『リカちゃん学校でナニしてたの?』とか聞いてくるのよ。なんでも行く先々で『ああ、あの草野先輩の……』って言われるんだって。アノってナニ? アノって!! 私なんか今目の前にいる人たちにくらべたら、何にもしてないに等しくてよ。覚えてなさいよ後輩たち。
 それでもって、私とシロは顔がよく似てて、逆にキミは外見小動物系って言うか、ちまっとコンパクト。全然似てないわけ。現状呼ばれ方に卒業した私を反映するってのは、一体どういう了見かしら。ホント、私、お姉ちゃんと違う学校選んでよかったわ。
「キマリだな」
「キマリだね」
「あああああああっ! そこっ! 勝手にハモって納得しないでっ!! 大体、カスミだってヒマでしょー? ルールなんかすぐ覚えちゃうだろうし。どーして私を引きずり込もうとするのよぅ」
「ごめん、私は当分ヒマじゃなくなるから」
「ナニ? バイトでも始めるの?」
「もっと忙しいこと」
 運転席と助手席の間からカスミが顔を出して、笑う。運転してるから前を向いたままの井名里先生の腕つついて、なんか合図送ってるの。くー。なんですか、らぶらぶですか? 二人のために世界が回ってるのね。宇宙の中心は自分たち。
「言っていい?」
「どうせバレるだろ」
「うん」
 短いやり取りのあとカスミがまたこっちを向いて、今度はさっきより、なんて言うかこう、照れたみたいな、でもすごいうれしそうな顔して笑いながら。
「あのね」
「うん」
「あかちゃんできたの」
「う………っえ!?」
「今日病院行ってちゃんと確認してきたの」
「ウソ嘘うそっ! マジでホントに? いつっ!?」
「わかんない」
「はっきり何日って分らなくても今何ヶ月か分かればいつ頃生まれてくるかわかるでしょうっ!!」
「あ、そっちか。えっとね、十一月のおわりくらい。だと思う」
 ………そっちって……それ以外ナニ? どっち? あのねぇ、誰が仕込んだ日なんか聞くのよ。
 年内? 子供って生まれてくるのに十月十日(とつきとおか)ってことは在学中!? でもあれぇ? 一月の時たしか生理来てたよなぁ……あのあとか? そう言えばあの時、カスミって結構恐いこといってたよなぁ。
「あ、なんか混乱してるみたいだから言っとくけど、人間の妊娠期間って数えるのは大体二百八十日だから」
 え?
「妊娠の月数ってね、二十八日で一ヶ月って数えるの。妊娠十ヶ月って言うのは、実際は、ひと月を三十日と考えたら九ヶ月と十日。最後に生理があった最初の日をゼロ日にして、そこから数えていくから、排卵なんかのことを考えると、本当は二週目で妊娠ってことになるの。だから子供がおなかにいる時間って言うのは二百六十日くらいなわけ。私の場合は今ちょうど妊娠二ヶ月目」
 ごめん、もっと混乱してきた。
「あー……? とりあえず言いたいのは、在学中は無罪だったてコト?」
「んー……微妙……かな」
「……なんかさ、分かったんだけど。ぶっちゃけた話、カスミのコレがあって、そっちに費やす体力があまるから顧問受けたんでしょ」
 ほんとにさー。カスミの彼氏が井名里先生だって知らないころから思ってて、こうなってからさらによく分かったんだけどこの人たちの日常、濃いよ。すげーよ。井名里先生はともかく、カスミもよく体力もってるよなと思うもん。カスミって結構、自分のことはベラベラ喋るから。というより、ヒトに聞いて欲しいんだけど、やっぱり今まで大っぴらに喋るわけにもいかなかったし。で、事情がわかる私にひたすら喋りつづけるわけ。大半のろけ。
「じゃあ別にいいじゃん。素直にオメデトウってことで。やるよ、やりますよ。ご祝儀ってことで野球部のほうも手伝わせてイタダキマス」
 なんだかもう、考えるのもバカバカしー。そう言うことはどうせ自分のときに考えたらいいんだから、もう難しいことはいいや。それに部活の方だって、井名里先生はもう新城東に五年以上いるはずだし、この間はあんなことだったし、今年度で移動かかるだろうから、一年付き合えばいいでしょ。
 後部座席の真ん中に陣取って、両手をシートの上部にかけて、反り返って足を組む。なんだかもう、目の前で幸せそうに笑ってられたらそれ以外ないじゃん。
「えへへ。ありがとう」
「それなら、やっぱり今日は顔出したら帰ろうよ」
 だってほら、めちゃめちゃ母体の精神衛生上よくなさそうでしょ。今日の集まり。私の言葉にカスミがもう一度アリガトウと言って笑う。
「それって誰かにもう言った?」
「ううん。まだ。キリカが一番だよ。なんかほら、わざわざ電話かけて言うのってちょっと。他の人には逢ったときに話そうと思ってるから……って、キリカ?」
 ふーん。
 カスミの答えを聞く前に、カバンから携帯取り出してリダイヤルの中からひとつ選んで発信。
 ちくってやる。
「あ、もしもし。実冴さん? うん、キリカです。今大丈夫ですか? あのねーもうちょっと聞いてほしいんですけどー」
「ぎゃーっちょっとキリカ!! だめだよコレは自分で言うんだからっ!!」
 助手席に膝をついて完全に後ろ向きになったカスミが両手を伸ばして阻止しようとしてくるのを避けて、実冴さんにちょっと待っててくださいとオネガイしてから。
「わかった、んじゃアレだけ。巻き込まれるんだからこのくらい許されるがいいとおもうわ」
 うひひ、われながらヘンな日本語。でも意味はちゃんと通じたらしくて、ヘッドレストにあごを乗せたカスミがしぶしぶ頷いた。
「あ、ゴメンナサイ、でね、聞いてほしいんです」
『うん、ナニ? 面白いこと?』
「そりゃもう」
 私が十五秒かけて伝えた事実を黙って聞いていた実冴さんが、三秒の沈黙の後。
『うっそー!? ほんとに? 今そこにヤツはいるの!?』
「いますー 運転してるけど。スピーカーに切り替えてるから聞こえてるよ」
 私の携帯、簡易カラオケシステムってのがついてるから切り替えひとつで声の拡張ができるのさ。フルコーラス、歌詞動画付きの着メロをダウンロードしたらオッケー。しかも音はステレオ。この春のお花見のときフル活用で予備のバッテリがゼロになるまで歌ったもんね。
『アンタちょっとっ! 野球なんて世界で一番キライだったんじゃなかったの!? アンタが珍しく親父殿に頼んでまでやめたスポーツだってことを私が知らないとでも思ってるの!?』
「……いつの話だ」
「ウソ!? 先生野球してたの!?」
「似っあわねー……」
 携帯落としそうになったわ。
 井名里先生ってなんていうか、汗と無縁と言うか。
『どうしてまた。野球部なんて……大体野球部の顧問ってわりと部活のなかでもやりたい人が多いんじゃないの?』
「……ウチの野球部、死ぬほど弱いんですよ。結構押し付け合いですよ」
 そういえば前の顧問、学校移動したんだっけ。
 ちなみにこのカラオケ機能。向こうの声と、電話を持った人間の声は拡張しても、回りの声までは拾わないから、井名里先生の言葉は実冴さんには伝わってないと思う。
『そんなことしようなんて、なんかあったわねアンタたち。何があったの? 言いなさい』
 うわーするどいなー。でもコレは言っちゃダメなんだよね。向こうの声は聞こえてるカスミが、替わってって手を出すからカラオケ機能を切って携帯を渡す。
「えっと、あのね。うーん、明日時間ありますか? うん。電話じゃなくて逢って話したいから。うん、午後? じゃなくて正午? お昼ごはん、うん食べます。え? 樹理ちゃん来てるんですか? 料理してるって……樹理ちゃんお客さんじゃないんですか? いっしょにやってた? でもどうして樹理ちゃんが……ああ、氷川さん先生と逢うんだもんね。うん。わかりました。ハイ。じゃあ明日………ってことで、いい?」
 電話を切ってから、カスミがへらっと笑いながら井名里先生に事後確認。前を向いたまま仕方ないなって頷いてるの。否も応もないってば。そんな報告に一緒に行かなかったら、あとからナニされるかわかんないもん。
「あ、いなー……り、先生このあたりでいいや。ココから先、路駐多いから止めにくいよ」
 またいなりんって言いかけたわ。毒されてるなぁ。
 車から降りて、たっぷり三分くらいお別れのアイサツ。演説じゃないんだから、そんなにいろんなこと話せないからおんなじこと繰り返し言ってるだけ。通常なら一分経過時点でカスミの首根っこ掴んで引き剥がすんだけど、妊婦って分ったから手荒なことは出来ないから、仕方なく店の場所をもう一度検索してみたり。見なくても知ってるんだけど。このあたりはあの頃のホームグラウンドだから。実は今日集まる店も、私がアオタニ君におしえたところだもん。一年位前までこっそりバイトしてた店。ナイショだけど。
「お待たせ。ごめんね」
「うん。待った。待った。んじゃ行こう。あ、そうだ」
「ナニ?」
「携帯かして」
「うん?」
 頂戴、って手を出したら、カスミが素直に自分の携帯電話を乗せたから、そのまま奪い取ってポケットにつっこむ。
「カスミは携帯持ってないってことで」
 言いたくなくても押されたら教えそうだもん。この子は。
「同窓会なんて口実だけのコンパだからね。聞かれてもナイって言うんだよ」
「ハイ」
 今回のは特に。あのあとアオタニ君にいろいろ聞いたら、中学だけじゃなくて高校や、カスミみたいに全然別のトモダチ連れてくる人も何人かいるらしい。どんどん参加者が膨れ上がってしまって三十人近い大所帯。
「あー。ココ。三階」
 狭いエレベーターに乗り込んで。
「……そんな辛気臭い顔してないで笑え」
「あうっ」
 右頬をうにっとつまんで、だんだん俯いていく顔を上げさせる。
「『私は世界で一番幸せ』って。いつもみたいに笑いなさい」
「……私、いつもそんな顔してる?」
 私がつまんだ頬を撫でながら、カスミがそう言う。そうか、あの顔は無自覚か。
「うん。してる。それにね、私が知ってる世界の中で、アナタが一番幸せモノだから。大丈夫だよ」
 カスミが、到着を知らせるチャイムと同じくらいの硬さの残るぎこちない笑顔を浮かべるのを見て、思わずため息が漏れた。

 おもしろくねぇ。
 何もかも。
 なんていうの? 必要最低限? みたいな?
 ああ。自分の脳内語り口調もむかつくわ。半疑問形は止めよう。
 会場入りしたカスミに、ほんっとに、挨拶だけ。特に女子。挨拶すらしなかった子もいたよ。そして男子のほうは、こっちはこっちでカスミのほうが必要最低限というよりそれ以下の対応しかしないもんだから、アオタニ君、いつもより多く喋ってます、ってカンジ。
 一番面白くないのは、なんだかこそこそ喋ってるところ。言いたいことがあるなら言えばいいじゃん。なんでそこでこっちちらちら見ながらささやきあってるわけ?
 あー。むかつく。そのせいか飲み物が進んで進んで。始まって十五分経ってないのに二杯目がそろそろ底つきそうだわ。
「おかわりしてくる。カスミ、なんかいる?」
 ジョッキ持って、立ち上がる前に隣りでちびちびウーロン茶飲んでるカスミに聞く。
「ううん。私はいいや。けどお手洗い行くから」
 ハイハイ。あー……もしかして一人になりたくないんだろうなと勝手に解釈して、二人で立ち上がって、人を避けながら会場をでる。会場、って言っても居酒屋の三階のフツウの座敷なんだけどね。
「おーい。おかわりちょうだーい」
 スタッフが待機してる部屋は出入り口のすぐとなり。
 紺色の暖簾の向こうに声をかけると、奥から威勢のいい返事。
「ハイよ。って。なーんだ。リカじゃん。ナニしてるのこんなところで。手伝いにきたの?」
「誰が。今日は客! って言うか、虹子さんこそ何でまだいるの? 相変わらず屋上で暮らしてるの?」
 出てきた女性が笑う。私のいたころすでに古株だったはずの虹子(にじこ)さんが、変わんないカンジで、くわえてた楊枝左手に持って立ってた。タバコは灰が落ちるからって、店にいるときは自主禁煙って笑ってたけど、今も変わってないんだな。
「屋上? コンテナハウスのこと? アレ去年の台風で半壊してさ、今はあんたたちが宴会してるとこで寝てる」
 相変わらず住所不定有職状態ですか。私がここで働き出したときにはもうこの人ココに住んでたもん。最初、店長のアイジンだとかビルオーナーの隠し子だとか、いろいろうわさは聞いた。全部ウソだったけど。虹子って名前も本名かどうか怪しいもん。
 どうしてそのうわさがウソだって分かったかって言うと、虹子さんって異性より同性のほうが好きな人だったから。ちなみにワタシは虹子さんの好みの範疇を大きくはみ出てたらしくて、範疇内にいた小さくてかわいい女の子の言うようなコワイ目に遭う事はなかったんだけど。
「あら、彼女連れ? コンバンワ」
「こんばんは」
 にっこり笑って私の斜め後ろにいたカスミだけ見てるし、この人は。
「あ、この人ね、虹子サン。見ての通りの人。高一から高二の終わりまで私ココでバイトしてたの。飲み屋のバイトはさすがの新城東もNGだからさ。こっそり」
「誰がこっそり、よ。客と飲み比べやったりしたくせに。居酒屋からキャバレーに業種変更かと思ったわよ。あんたがいたときは」
 そんなこと何度もしてないってば!!
 忙しそうに動き回るほかのスタッフをよそに、虹子さん余裕でダベリ。ココでこの人に逆らえる人は多分いない。やっぱり顔見知りのスタッフもまだ何人かいて、挨拶だけ何度か交わす。
「あの、お手洗い、あっちですか?」
「そう、エレベーターより向こう。狭いよ」
 その正反対にエレベータとお手洗い。
 答えようとした虹子さんをさえぎって私が言う。
 ちょっと行ってくる。ってカスミがほんとに行ってしまう。
「ナニあんた。客なら客らしく首つっこまないでよ」
「目の前のお客様はお友達を守ってるだけデス」
 私が持った空ジョッキを取り上げて流しに突っ込み、新しいジョッキを出しながら虹子さん。
「ふーん。じゃ、大事なお客様に虹子スペシャルチューハイ入れてあげよう」
「アレ?」
「おう。虹子スペシャル。巨峰とブルーハワイとマスカットとオレンジだろ。それからパインとピーチとカシスでどうだ? オマケでカルピスもいれてやるよ」
「色も味もたしかに虹子さんの性格反映してるステキチューハイだけど、不味いからやめて」
 比重がちがうカクテルじゃないから、混ぜたらドドメ色じゃんか。
「さっきの彼女がアレ? 片思いの相手」
「にーじこちゃーん」
 思わずルパン口調。
 手際よくジョッキにピンクと白い液体を分量入れて、氷をぶち込んでサーバからチューハイを注いでいる虹子さん。
「周りがみんな自分と同じ趣味だと思わないでよ」
「あらん? リカは仲間でしょ?」
「ちがう!! 断じて!! もう、ほんとに。虹子さん樹希のこと知ってんじゃんかっ!!」
 ちゅーする? とか、冗談では言うけど、ホントに違うから。しないし。オンナノコとはっ!! そして虹子さんのソレも冗談だって分かってるんだけど、なんかだムキになってしまうわ。
「ハイよ」
 楽しそうに笑って虹子さんが新しいチューハイを渡してくれた。薄ピンク。隠しメニューのカルピスピーチ。
「あ、ありがとう。覚えててくれた?」
 私が好きなチューハイ。
「当たり前でしょう。何百回作らされたと思ってるのよ」
 うわ。その言い方。なんだか私が何百回もココでただ酒飲んでるみたいじゃん。そうなんだけど。
「だって、虹子さんの作ってくれたのが一番美味いんだもん」
「この子はねぇ。素で人のことおだててどうするのよ。で、彼女とは仲良くなれたのね。よかったじゃない」
「うん」
「あはは。今思い出しても笑えるわー リカが珍しくまじめな顔してるからたっちゃんと別れたのかと思ったらナニ? 『虹子さん、親友ってどうやってなるの?』だもん。なんじゃそりゃって思ったわよ」
 ヤメテクダサイ。人の恥ずかしい過去笑いながら巻き戻してスロー再生するの。そのときホントにマジだったから、なおさら恥ずかしいわ。
 ちなみにそのときの虹子さんの答えは、とりあえず人気のないところで押し倒してみたら? だった。違うってばって猛烈抗議したら、虹子さんが笑うのを止めて怖いくらい真顔で『そんなの私が知りたいよ』って言ったから、私は重ねて教えてとはいえなかった。
「中にもどらないの? 邪魔なんだけど」
「うーん。なんていうか、この場所からそろそろ帰ろうかなとか。オモッテマス。カスミがトイレからでてくるまでって思ってたんだけど遅いなぁ」
「遅いわねぇ。なんか顔色悪かったし。見てきてあげたら? それ、私が飲んでおいてあげるから」
 …………
 ここで手渡したら、本当に飲まれてしまう。でも気になるし。ええい。渡しちゃえっ。
「行ってくる」
 冷たいジョッキを虹子さんに押し付けて、勝手に盛り上がってる会場の前を抜けて、トイレのドアに手をかけようとしたとき。
 中からの会話に、その手が止まった。
 
「……だよねー? 何で来てるの? ってカンジー?」
「そーそー。来るかも知んない、ってのはきいたけどー? それになにー? 全然知らない子連れてきて? その子としか話さないしぃ」
 頭が悪そうな、語尾が上がった会話。
「昔と同じでさぁぜんっぜん笑わないよねぇあの子。あたしらのことばかにしてるって言うかーお高くとまっててさーナニサマー? ってカンジ?」
 がちゃがちゃと、化粧品か何かを漁る音。
「ウンウン。で、みた? 左手の薬指に指輪だよ? さむっ カレシいるのか? ほんとに」
 カスミが一人であの中に帰ってるとは思えない。ってことはやっぱり、あの子はこの奥にいるんだ。
「見た見た。カレシいたって左手の薬指ってなんか違うくない? 誰か教えて………」
 そこまで考えて、やっと体が動いた。今来たばっかり、って顔は、さすがにできなかった。中にいたバカ三人が、わたしの顔を見て、黙り込んだまま目も合わせずに逃げるように出て行く。
 安物の鏡の中の私。
 一度深く息を吸って、吐いて。
 冷たくなった顔を、固まった筋肉をほぐして。
「カスミ。もう大丈夫だから」
 閉ざされたままのドアをノックすると、かちりと軽い音が響いて、ゆっくりとドアが向こう側に開いていく。
「ごめん、一緒にいたらよかった」
「ううん。だいじょうぶ。慣れてる。平気」
 全然、ヘイキじゃないでしょ。どうして笑うの? 泣けばいいのに。笑えっていったけど、それはこんな顔じゃなくて。だから。
「外の空気吸ってくる」
「あ、じゃあ虹子さんに言ったらいいよ。四階、後ろ側がベランダだから。下に降りるより早い。私に聞いたって言ったら、あけてくれると思う。少ししたら、私も行くから」
「ん。ありがとう」
 するりと、カスミが横をすり抜けて行ってしまう。
 あああああっ。
「……っくしょー……結局、たよらなくちゃならなきゃならないのー?」
 ポケットから、カスミの携帯を取り出して、発信履歴に羅列された同じ番号。同じだからどれを選んでもいいんだけど、なんとなく一番上を選んで、発信をした。
 たすけてって。
 
「カスミー?」
「キリカ? こっちこっち。虹子さんがね、イロイロ持ってきてくれたの」
 どこから取り出したのか、レジャー用の青いプラスチック製のテーブルセットが出されて、その上におつまみと飲み物。
「特等席」
 そして、仕事しないで座ってる虹子さん。
「ナニしてるんですか、あなたは」
「見て分からないなら聞いても分からないよ」
「ハイハイ。休憩ね。あ! タバコダメ」
「いいよ。煙当たらないようにしてくれてるんだから。休憩だもんね」
 くわえタバコの虹子さんからタバコを奪おうとした私をカスミが笑って止める。でもーっ。
「さっきさ、樹理ちゃんから電話あったよ。なんか、実冴さんに教えてもらった『井名里先生野球部顧問』情報が信じられないらしくてさ。テキトーに答えといたけど」
「ほんとに? どうしてみんな一度で信じてくれないのかしら」
 そりゃ。なんとなく、でしょ……信じろってほうがムリ。
「それより、ごめんね。覚えてなくて」
「は?」
「入試のときのこと。虹子さんに聞いて、やっと思い出したの。校門の前で顔面からコケてたの、キリカだったんだね」
「なっ! 虹子さん反則!! ナニ話してるのよぅっ!!」
「えー? だってほら、人間落ち込んでるときは愛の言葉がききたいもんでしょ? だから私が知ってる、カスミちゃんが愛されてるお話をだなー……」
 しれーっとした表情でグラスにカルピスピーチのチューハイ作ってるそこの人ー……
「ホントにゴメン。全然分からなかったの。髪形も変わってたし、そのときはもっと大きな子って印象があって」
「んー……まあ。髪は、変だったし」
 

 そのときすでに私、百六十五センチ超えてたもん。カスミは多分、高校に入って背が伸びたんだと思うから、百五十センチ台だったのかな。
 入試の日。珍しく雪が降って、いつもと寒さのカンジが少し違ったのを今でも覚えてる。私は全然高校に行くつもりなかったから、朝早く一緒に行こうって迎えに来てくれた中学の同級生たちの誘いを断って、遅刻ギリギリくらいの時間に家をでて、たらたら高校までの道をいつ引き帰そうかって思いながら歩いてた。
 頭も、寝癖付いたままで。ソフトボールをしていた頃は、耳が出るくらいのショートにしていた髪は、たった半年ですごい勢いで伸びて、かっこよく言えばウルフカットみたいなんだけど、なにせ手入れもしてなかったからボサボサのバサバサ。
 両手をコートのポケットに入れて、それでも右足と左足を交互に前に出し続ければ目的地の場所さえ意図的に変えなければ、着いてしまう場所は決まっている。
 校門の前で、やっぱり引き帰そうって回れ右をした瞬間。
 大勢の生徒のクツの後ろで踏みつけられた雪の上。
 あ。
 って、もう地面が顔面。
 しかも、手をポケットに入れてたせいで、本当にキレイに顔面から行ってしまった。
 痛いし情けないし恥ずかしいし。
 周りにいた同じ受験生たちは、滑ってこけた私のこと、縁起悪いもん見たってカンジで避けていっちゃうし。
 ちくしょう、このままココに倒れててやろうかしら。
 なんて思いながらも、立ち上がろうとしたとき、とても近い場所からおりてきた言葉。
『大丈夫?』
 誰だろうって顔を上げたら、見たことのないセーラー服の上にダッフルコートを羽織った女の子が絶対冷たいはずなのに、雪の上に膝を付いて私の肩に手を入れて、起こそうとしてくれているところだった。
 はっきりいっていろんなところが痛かったし、全然大丈夫じゃなかったんだけど、自分がコケたみたいに痛そうな顔してるその子に、なんでか笑って『大丈夫大丈夫』っていいながら起きちゃったんだよねぇ。
『よかった。でも顔、ちょっとすりむいてるよ。ハンカチある?』
 当然。そんなもの持ってるわけないし。
『私、二枚持ってるから。校舎の中に手洗い場があるだろうし、そこでぬらして拭こう』
 誘われるみたいに、自然と新城東高校の校門、すんなりと通り抜けてしまった。昇降口から入ってすぐに、ちゃんと大きな手洗いがあって、スカートのポケットから出した綿のハンカチを濡らしてくれた。割れてない鏡を覗き込みながら顔を拭いたとき、濡れたハンカチはすごく冷たかった。多分、水はもっと冷たかったと思う。
『早く行かないと試験始まっちゃうよ。私も道に迷いそうになったり、雪で歩きにくかったりで遅くなっちゃって』
 言われて、周りにほとんど人影がないことに気がついた。それはつまり、その子も早くしないと試験に遅れちゃうってことだ。
『ごめんねぇ。なんか、縁起悪いもん転がってて』
 けれど、その子は、立ち止まって、しゃがみこんで、声をかけてくれたのだ。きっと急いでいたはずなのに、ダラダラと歩く私をせかすわけでもなく、その後まで付き合って。いやな顔もせず、にっこり笑って。
『転んだこと? 大丈夫だよ。きっとね、校門の前で厄が全部でちゃって、それでこけたんだよ。もう大丈夫。もう悪いことは起こらない。合格するよ。絶対』
 自分だって、同じ受験生なのに、人のこと励ましてるの。何か答えようとしたとき、先生がやってきて、なにしてるんだって試験がある教室に追い立てられた。私はちゃんとありがとうって言えないままで、コレは本当に合格してもう一回あって言わなくてはって。ハンカチも借りっぱなしだったし。
 そして本当に、私はなぜか、合格してしまったのだ。
 入学式の日、初めて私はその子の名前を知った。
 新入生代表で、その子は壇上にいた。
 その姿を見て、そりゃあ余裕があったわけだと妙に、納得してしまった。
 すぐに話したかったけれど、あいにくクラスは別。しかも校舎まで違ってて、なんとかコンタクトを取ろうにも、入試のときのあの子と、渡辺夏清という女の子は、なんだか雰囲気ががらりと変わっていて、どうしても話しかけることができなかった。
 結局私は一年間、すごく気になりながら近づけなかった。
「それでね、他にも思い出したの。一年の終わりの頃に、保健室の前で逢ったの、キリカだよね?」
「そう。そんなことも覚えてたんだ?」
「ううん。忘れてた。あの頃は……そうだなぁ 私、浮かれてたから」
 浮かれてたって……
「それより一週間前の私なら、絶対、他人にやさしくなんか、できてなかったと思う」
「……ふーん……」
 
 何とか高校にもぐりこめた私だったけれど、さすがに立ち直ったわけじゃなくて、夜はあまり眠れないことが多くて、ここらへんでバイトして、それが終わると朝まで遊んだりしてた。
 当然睡眠時間が短くて、私は保健室の住人と言ってもいい状態。お昼ごはんを食べた後が一番眠れるから、昼休みが終わる頃にいつも保健室に寝に行っていた。
 その日はたまたま寝不足と生理痛が重なって耐えられなくて昼ごはんもソコソコに保健室へ行ったんだけど、あいにく塩やんが不在の保健室はしっかりと鍵がかかっていた。職員室に行けば開けてもらえるんだけど、そこへいくといらない小言まで聞かなくちゃならないから、その日、たしか、一年三学期最後の出ないと単位が落ちるって言われた英語の授業を捨てて帰って寝ようと引き返しかけたとき。
 やっぱりそこに、カスミがいたのだ。
『大丈夫? 顔色悪いよ。私鍵借りてきたから、入って横になったら?』
 私を見てそう言うと慌てた様子で鍵を開けて、保健室にある薬が入った棚まであけようとして、さすがにそっちにも鍵がかかっていて、小さくため息をついて振り返った。
 
「あの時の薬、効いた?」
「効いた効いた。特にあの緑色の透明なヤツ。あと、カスミが英語の椎山先生に伝言してくれてたのも効いたよ。お陰でなんとか補習してもらえたから」
 学校にあるものより効かないかもって言いながら、休もうとしてた私にカスミがでかいピルケースごと薬をくれた。この中から、飲んだことがないヤツ飲んでみてって水を汲んでくれて、わざわざ私の次の授業を受け持つ先生に私のことを話してくれたのだ。
「すっごい量の薬。アレ全部飲んでたの? イキオイでもらっちゃったけど、よかったの?」
「うん。もう捨てようと思ってたの。あの時ね、ちょうど先生と一緒にいるようになって、頭が痛くなることも眠れないこともなくなって。あの日保健室の鍵借りたのはね、塩野先生に借りた本返すためだったんだけど、それ以外にも、職員室に行ったら先生がいるかなって、それでわざわざ鍵借りに行って、あそこに居たんだよ。ついでに英語の椎山先生に伝言したのも、あの時椎山先生の席、近かったから、先生と」
 くすりと笑ってカスミが続けた。
「あれ、いらなくなったものだったの」
「げ。廃品だったの? それになに、アナタの行動全部井名里先生が中心だったわけ? 喜んじゃったのに。私」
 ちょっと膨れた顔をして見せたらカスミがごめんごめんとくりかえして、でも笑ってた。
「あーあ。じゃあ、カスミが入試の頃のカスミに戻ったのも、やっぱり先生の力なのー?」
「うん。そうだと思う」
「うわ。否定しないし」
「だってホントのことだもーん。食べる?」
 食べやすい大きさに箸で切った揚げだし豆腐を上手にはさんでこっちに出しながらカスミが言う。
「やっぱりあげない」
 うが!! 口あけて待ってたのにっ!
「あはははは。リカ、かわいかったよ、今の顔。バカみたいで」
 静かにタバコを吸っていた虹子さんがじたばたしながら楽しそうに笑うし。
「だーっ! もう。そんなにらぶなくせにどーして写真の一枚も、持って歩かないの? 持ってたらさっきだって見せびらかせたのに」
「やだよ、写真なんて。恥ずかしすぎ」
「プリクラとかもないの? 電話に貼ったりしてない?」
「してないよー。だいたいね、先生がプリクラって怖いでしょ」
 たしかに。
 あーあ。
 ほんと。
 井名里先生の話題振ると、ちゃんと笑うんだよね、この子は。
 くやしいけどさ。
「あ。電話鳴ってる」
 ポケットの中で確かにカスミの携帯が震えていた。発信者は井名里先生だ。
「すごいね。音が鳴ってないのにわかったの?」
 全く同意見よ。虹子さん。私なんか震えてても気づかなかったわ。
「バイブレータの音ってするでしょう?」
「聞こえないよーそんな音」
 私も聞こえないとは思ったけど、勝手に話している二人を置いて、内緒話をするためにその場を離れる。
「もしもーっし」
『………またお前か』
「悪かったね。私で。もう着いたの? お店の前?」
 前の電話で店の名前を言ったら、ナビで探したんだろうけど場所はすぐに分かったみたいだったし。
『ああ、相変わらず路上駐車が多いな。このあたり。ちょっとはなれたところに止めてるからお前らが店出てくるのと同じくらいに……』
「だめ。ここまで迎えに来て」
『何だそれは』
「来てよ。ここまで。三階だから。よろしくー」
 返事を聞く前にぶちっと切っちゃう。抗議無視。
 見せびらかすために呼んだのに、来てくれなきゃ意味ないじゃん。
「カスミー戻るよー帰る支度しよう」
「え?」
「ほらほら、早くっ それから虹子さーんキリカちゃんのオネガイ聞いて?」
「高いよ」
「今度体で払うから。分割で」
「ハイハイ。で、なに?」
 ごしょごしょと虹子さんの耳元でささやく。
「できる?」
「なんちゅーことを」
 私のオネガイに、虹子さんが苦笑する。
「だって、そっちのほうがカッコいいでしょ?」
 いや、イヤガラセも半分なんだけど。
「分かったよ」
 付けたばかりのタバコを消して虹子さんが私の頼んだことをするために出て行く。
「ほら、カスミも。カバンはあそこに置きっぱなしでしょ。とりにいくよ」
「う、うん」
 行きたくなさそうだなぁ。あたりまえだけど。
「大丈夫」
 ナニが大丈夫なのかまだ言えないけど、大丈夫だから。
「うん」
 
「よかったー帰っちゃったのかと思ったよー」
 会場に戻ると、入り口付近の席にいるアオタニ君が心底ほっとした表情で大げさに息をついた。
「うん、でももう帰るから」
「え!? もう? まだはじまったばっかりなのに」
「ばっかりって。三十分は経ってるでしょ」
 充分だってば。
 カバンを置いた場所までに、あの三人がいて、カスミは入り口で置物みたいになってしまって動けない。仕方ないから私がクツ脱いで荷物をとりに上がりこむ。
 通り過ぎるとき自然と睨むような顔になったのは、まあ、無意識。無意識の識が人間の感情の中で一番正直なのだけど。
「な……によ」
「べつに」
 怯んだようににじり下がりながらのそのセリフに答えたとき、笑ってしまったのも無意識。なんとなく、思わず。
 カバンを取って引き返そうとしたとき、突然さっき口を利いた子が立ち上がって、その場に聞こえるくらい大きな声で叫ぶように言った。
「い、言いたいことがあったら言ったらいいじゃないっ! なによ。コソコソどこかに行ったりして」
「……コソコソしてたのはそっちのほうでしょ。別に今まで、私たちはあんたたちみたいに、誰かの悪口を聞こえないところで言ってたわけじゃないよ。自分たちがそうだからって、人まで同じだと思わないで。カスミはね、絶対、人の悪口、陰で言ったりしない子だよ」
「なっ……」
 自分でもびっくりするくらい、すらすらと冷静に言葉が出てくる。逆に向こうは、耳まで真っ赤にしながら、何も言えずに口を引き結んでいる。
「聞きたかったら聞けばいいじゃない。指輪のコトだって、聞かれればこたえるよ。それをバカみたいな憶測を飛ばして、あんなふうに人をバカにしたみたいに言う権利はあんたたちにはない」
 ひとかけらさえ。
「聞けばいいなんて簡単に言わないでよ。全然話しかけられるそぶりもしてなかったじゃない。外見ちょっとくらいきれいになったって、ヒト見下したような態度、中学の頃と全然変わってないじゃん。自分以外みんなバカにしてて」
「カスミは、誰のことも見下したりしてないよ。現に私は、高校で成績は学年でもしっぽだったけど、この子はそんなこと全然気にせずに、私と付き合ってくれてたし、勉強も教えてくれたよ。あんたたちが勝手にひがんでねたんで被害妄想炸裂させてるだけでしょ。カスミは、私たちなんかよりずっと頭がいいし、なんでも器用にこなす。なんでもできるカスミがうらやましいなら、そういえばいいんじゃない。でもあんたたちは違ってた。認められなかったんでしょ? 何をしても敵わないから、そうやって些細なことでカスミを貶めて、自分たちの低いプライド維持して、楽しかった?」
「あんな子うらやましいわけないじゃない!! 親いなくて貧乏でっ!! 私たちのほうがなんでもずっとずっと恵まれてて幸せだもの、全然っなんかカンチガイしてるんじゃないの?」
「勘違いをしてるのはそっちだろう」
 言おうとしたせりふが、全然別の方向から聞こえてきた。
 視線を向けると、三階分の階段を走って上ってきたんだろう、なぜか前髪に手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃにしながら、そう言ったのは。たぶん、カスミが一番、ここにいてほしいと思ってる人。
「その手の中にあるものの中で、自分で、手に入れたものがあるのか? 努力して勝ち取ったものがあるのか? 親も家も、今の生活全て、ただ与えられているだけのくせに」
 崩れた前髪を右手で押さえて、タダでさえ背が高くて威圧的なのに、なおさら強調するように見下ろしながらそう続けたのは。井名里先生。
「そんなことを、夏清がうらやましがるとでも思うのか? ……うわっ お前なんで泣いてんだ!?」
 ぎゃー ホントだっ!!
「え? あ。あははははは……ごめ、なんか。なんでだろ、先生の……顔見たら、ほっとしちゃって」
 カスミがへらーっと笑いながらぼろぼろ泣いてるの。
「昔は、あの頃の私は、学校では泣かないし、笑わないし、怒らない。感情をめったに表に出すことなかった。だって、目立てば絶対うわさになるし、ムキになれば笑われたもの。どうしてなのかわからないままそんな風にされるのは、すごく怖かった。普通に楽しそうにしてるみんなのことは、あの頃はうらやましかったよ」
 井名里先生が出したハンカチで涙をふいたあと、鼻に当てて、カスミが話しつづける。
「自分で自分が人と違ってることはよくわかってた。でも、人と違う自分を分かってもらおうって言う努力を私はしなかった。ただうらやましがってただけだった」
 一度目を閉じて、深呼吸をするような、間。
「私にも原因はあったと思ってるから、もう、それはいいの。それに、みんなが知ってる私は、この中で一番、みんなのモノサシを使うと恵まれてもいなかったし、幸せでもなかったかもしれない。けど」
 ちらりと、カスミが私のほうを見て、そして井名里先生を見る。
「今は幸せ。すっごく幸せ。それに、幸せって、他人のものと比べたりするものじゃないって分かったから。私はもう、誰のこともうらやましいとは思わないよ」
 永遠ってくらいの刹那、視線がからんで二人だけの世界。それをぶちこわしたのは、アオタニ君の無粋なセリフ。
「もしかして、まさか。ウチの大学に入った子で、高校の先生と結婚した子がいるって……もしかして、渡辺さん? ……とか?」
「うん。だからもう、私の名前は、渡辺じゃないんだ。コレは結婚指輪。この三年間、いろんなことがあったよ。人には言えないことも、言えることも。でもね」
 顔半分を隠していた男物のハンカチを握り締めるようにしながら外して、ほんの少し泣いたあとが残る顔を、カスミがゆっくりと上げた。
「それが全部今のためならムダじゃなかった。今日ここに来るのはホントに怖かったし、いやだったの。やっぱり思ったとおりで、来たことすごく後悔してた。さっきまで。でも今は違うの。きてよかったと思う。そんな風に思わせてくれたのは、キリカだよ。ありがとう」
 微笑の形の瞳が、私を見つめる。そんな風に見つめられたら動悸がっ。
 どきどきする。変な意味じゃなく、すごく自然に、やっぱり私、カスミのこと好きなんだわと納得できちゃうような鼓動の速さ。
「……帰るぞ」
 いやーん、らぶらぶ。とか思ってたら、それを断ち切る低い井名里先生の声。
「待って! 私も帰るから!! あ、アオタニ君、会費あとからでいい? じゃ、大学でっ」
 ジャンプして自分の脱いだクツまで三歩。アオタニ君の返事を待ってたら置いていかれちゃう。振り向くのも面倒だから、前だけ向いて行こう。
「待ってってばっ 置いてくなっ」
 エレベーターの前にいた二人に追いついたとき、小さな箱が到着。
「うわ。狭っ」
「三人とも標準より大きいもんね」
「いや、気分的にすごく威圧されてて。ダンナ、もしかして焼いてますか?」
 きひひひひって笑いながら井名里先生を見たら、心底怒ってらっしゃる顔だったから笑ったまま顔固まっちゃった。
「…………歩いて帰るか?」
「ごめんなさい、もう言いません。無理やり呼びつけたのもゴメンナサイ」
「さっきエレベーターに故障中の張り紙があったのもお前の仕業か?」
「何で分かったの!? あ」
 カマかけられた。
「だって、息切らして走ってやってきたほうがカッコいいでしょ? 先生は王子様っていうより、大魔王って感じ、だけど……」
 ハイ。重ね重ね失言でゴメンナサイ。
「やっぱりお前だけ歩いて帰れ。手持ちの現金も没収しろ夏清」
「はいはーいっ なんてウソだよ。さっきキリカが来るまでに話してたんだけど、先生、車パーキング入れてきてるんだって。だからどこかでご飯食べようかって。キリカこのあたり詳しいでしょう? おいしいトコ連れてって」
 おお、それなら任せて。
「んー……何系が食べたい? 和洋中なんでもあるよ」
「ご飯食べたいかな。先生は?」
「なんでもいい、食えたら」
 乱れまくった前髪がまだ気になるらしい井名里先生が、いじりながら気のない返事。食えたらいいならカエルとか出すトコ連れてくぞ。あ、だめだ。妊婦がいる。ゲテモノ系は却下しなきゃ。
「じゃあ和食」
「和食? じゃあね、もう少し歩かなくちゃいけないけど、有機野菜とか使ってて、玄米ご飯食べさせてくれる定食屋さんあるよ」
「玄米ご飯? 食べてみたい」
「オッケー。店に電話してみる」
 電話をかけている私の横で、二人が何か会話をして、同じタイミングで笑う。
 ………忙しいって言ってたけど、明日乗り込もう、樹希のトコ。べたべたしに行こうっと。
「おーい。席取っておいてくれるって」
「すごい、キリカこのあたりのお店の人みんな知ってるんじゃないの?」
 んなことないって。
「あのね、キリカ」
「なにー?」
「本当にね、キリカがいてくれてよかった。先生呼んでくれてありがとう。私、来てほしいって思ってたけど、先生トモダチと逢うの、結構いつもたのしそうだから、戻ってきてって言えなくて。それと、まだね、言えない事とかあるけど、でもいつかキリカに言える日が来ると思うから、もうちょっとこのまま待っててよ」
 しょうがないなぁ。
「いいよ。どうせだから『言える日』どっちかが墓に入る直前にしようよ。それまで絶対、親友やめられないように」
 カスミの目が、あんなに聞きたがってたのにどうして? ってカタチ。
「だって、それまで、毎日起こったことだけで絶対語りつくせないよ? だから前のことを思い出すのは、何にもできなくなったときでいいかなって」
「ありがとう」
 そう言って笑った顔がもう、どうしようもなくて。
「………草野………」
「………キリカ………」
 あ。同じタイミングで苗字と名前呼ばれちゃった。気がついたら腕の中にカスミが。
「あは。ゴメン、本能で生きてて」
 無意識なんだってば。
「ほんっとに、ゴメンナサイ。もう邪魔しません」
「お前の存在自体が俺にとっては邪魔なんだけどな」
「ひ、ひどっ」
「大丈夫だよ、キリカ。先生はね、気に入らないヒトには嫌味も言わないから」
 …………
 くすくす笑いながらのそのセリフに、私と井名里先生の動きが止まる。カスミが、私なんか変な事言った? って顔して私と井名里先生と交互に見ている。
 この中で、ダレが一番天然かなんて、そりゃあ考えなくても分かるんだけど。
「喜ぶポイントですか? これはやっぱり」
「喜んでんじゃねぇよ」
 そう? でもね。
 ちょっとうれしかったり。
 なんて言ったらきっとまた何か言われるから、黙っておこう。この気持ちも、墓場まで持って行こうかな。

                                        2002.10.15=up.





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