5


 楽しい時間って、どうしてこんなあっという間に終わっちゃうのかしら。
 三日あると思ってたのに、連休なんてあっという間。
 お買物に行って、映画見に行って、ボウリング行って、ご飯食べに行って。
 そんなことやってたら時間なんか全然足らないの。気が付いたら火曜も終わって、学校行って予備校行って、帰宅時間は午後十時。
「ただいまー」
 そしてお休みに遊び倒したせいか寝不足なのか、なんかもう、日常生活に戻ったらどっと疲れが。今日もさくさく寝ちゃおうっと。
「おかえり」
 ん?
 朝出かけるときは普通だったよね? というより不機嫌だった? なんだかんだで昨夜、一緒に寝たけど私、何もさせないで寝ちゃったもんなー。ほんと。ベッドに入った後のこと何にも覚えてないの。気付けば朝。慣れってスゴイ。
「そうか?」
 うん。
 やだなぁ。先生がゴキゲンなときってロクでもないことが多いもん。むしろフキゲンなときの方があっさりしてて好きなことできるんだよ。
 そんなこと考えながら部屋に荷物を置いて、制服着替えようと思ったら。
「なにー?」
 リビングから先生の声。いいからちょっとおいで、みたいな呼び方。来いじゃなくておいで。うう、ますますご機嫌?
 行かなかったら着替えてようがなんだろうがこっちに来るから、上着脱いでリボンタイ解きながら、呼ばれたほうに行く。
「なんなのー?」
 もう、お風呂入ってご飯食べて家のことしたら寝るのよ。私は………
 ……………………………げ。
「ちょっ!! 何でそんなのがここにあるのよ!?」
 隠しといたのに、それはなに!? そのテーブルの上に置いてある、ちょっとしわしわになった紙袋っ!!
「面白いところに入ってたな」
 ぎゃー。買わされたその日にこっそり例の衣装ケースの真ん中に隠してたのに、どうして探し当ててるの?
「な、な、な。なんで、先生がそれのこと知ってるのよ!? あ!! キリカね!? ばらしたのキリカでしょう!?」
 というよりも、キリカ以外だれもいないわよ犯人。
「おう、朝イチで言いにきたぞ」
 ああ、なんかもう、ものすごく浮かれながら先生のとこにチクりに行ってるキリカの姿が見てきたみたいに思い浮かぶわ。覚えてなさいよぅ、今週末からある中間テストのヤマ、嘘おしえてあげるからねー
「せっかく買ったのにそのまま仕舞いこむヤツがあるか」
 もったいない、と続けた後。すでに一度開けられた形跡のある袋から、もったいぶったしぐさで先生が、あの……服を引っ張り出す。
「着て」
「イヤ」
 もうもうもう。怖いくらいの笑顔。満面。怖いからそんなうれしそうに笑わないでよう。
「やだ。買ったのも何かの間違いなんだもん」
「じゃ、何で捨てないんだ?」
「………も、もったいないから」
 どうせ貧乏性だよ。着ないって分かってても新品だもん。捨てられませんでした。もったいないおばけがでちゃうわ。
「買ったのに着ないのももったいなくないか?」
 なくない。
「買ったことがもったいないわ。だって、に、似合わないもん」
 そうよ。似合わないってことにして……
「ほんっと、お前、嘘つくの下手だな」
 むかつくーなんでバレるの?
「……だな」
「え?」
「俺が言ったときコレ着るなら、あそこに入ってた服お前の好きにしていいぞ」
「あそこに入ってた服って、コレ隠してたアレ?」
「そう」
「勝手に処分していい?」
「コレ着たらな」
 うむむむむ。
 すごいぞこの服。
 先生、すごい譲歩してるよ。あの山処分していいって。つまりはアレと引き換えにしてもコレを着せたい、ってことなんだけど。
「それ、そんな気に入った?」
 うーん。わかんない。同じようなのはほかにもあるんだもん。なんでそれに固執するの? 先生。
「まあな。お前が買ったのだし」
 ああ。
 うん。
 そう。
「ほんとにあれ、どうにかしていい?」
「ドウゾ」
 よし。半分は樹理ちゃんに送りつけるとして、もう半分はキリカにしよう。このあいだ紹介してもらったカレシ宛に送ってやる。
「えと、ほら、他にあるやつとかは……」
 脱衣所のたんすに入ってるのとか、先生の部屋のクローゼットの隅にあるやつとか、私のたんすになぜか入れられてるのとか。どっちかって言うと、そっちのほうが使用頻度が高いんですけど。
「ダメ」
 ………ですか。やっぱり。ちっ。
「あんまり待たせると、勝手に脱がして着せるぞ」
 え? って。考え事して俯いてたら不意に影が落ちてきて、見上げたら目の前まで来てるのよ。先生が。
「勝手にボタン外しながら、言う?」
「どうする?」
 ……………………………
「………お風呂、入ってくる」



 昨日、家に帰って、一回着てみて。
 足元がものすごーく、心もとなくて。
 今日一日、授業の内容なんて全然そっちのけで考えた挙句、学校帰りに、無駄な抵抗かもと思いながらも長いソックス買ってみたり。
 氷川さん、夕方に帰国して、会社に寄るから、いつもより遅くなりそうって連絡はあったんだけど。落ち着かなくて何回も何回も何回も、見てるから時間なんか見なくても分るんだけど、また見た時計は全然進んでなくて、まだ二十二時にならない。
「……やっぱり、普通の服に着替えよう……」
 やっぱりだめ。こんなの着て、なんて子だろうって呆れられちゃったら? 嫌われちゃったら? どうしたらいい?
 なんだかもう、考えただけで泣いちゃいそうだよ。
 着替えようって思って、部屋まで行って、思い出す。お風呂入る前も後も、ずっと迷ってて、そう言えば脱衣所に着替えの服、置きっぱなし。
 ため息を吐いて、息を吸って。別に私以外居ないんだから、走ってもいいんだけど、なんとなく、抜き足差し足で。
 リビングから、廊下。一番向こうに玄関、右手に脱衣所。
 廊下に出た、そのとき。
 
 がちゃり。その音に、反射的に玄関を見てしまって。
 
 え?
 
 目と目が合って。
 時間が止まっちゃった。
 
 どのくらい、そうしてたか分らないんだけど、玄関に置かれた時計が、かちり、と二十二時を指す音がスイッチ。
「おかえり、な……さい」
 咽が、からから。声が引っかかって、うまく出ない。
 いつもより、たくさんの何かを振り絞ったのに。いつもなら、何か応えてくれるのに、無言。
 靴を脱いで、ゆっくり。
 こちらに向かって、歩きながら、なにか諦めようとするみたいなため息。頭を振るようにしながら、ネクタイを緩めるしぐさ。
 どうしよう。
 やっぱり。
 するりと、そのまま、一度もこっちを見てくれずに、氷川さんが目の前を過ぎる。
 どうしよう。
 やっぱり、こういうの、ダメなんだ。
 どうしたらいい? なんて言うの? だめ。何を言っても言い訳だもの。買わされたとか、そそのかされたとか、そうじゃなくて、やっぱり、着たのは私自身の意思で。でももう必死で、どうしようもなくて。何を望んで、何を求めて、こんな恰好したのかなんて、きっと死んでも言えないけど。
 ゆっくりと遠ざかる背中。
 待って。行かないで。
「あ、あのっ!! ………っきゃ」
 追いかけようとして走ろうとしたわけじゃないけど、慌てて動いたら。
 くつした。滑っちゃった。もうやだ。思い切り顔からこけて。なのになぜか、打ったのは鼻じゃなくておでこ。どうして? 私、そんな鼻低い? 高いとは思わないんだけど。
 痛いのと悲しいのと切ないのと、もういろいろ混ざって、ほんとに涙出てきちゃった。
「だっ……い、じょうぶ、か?」
 『だ』が、すごく大きな声で、その続きは消えるみたいに小さな声で。廊下にぺたんと座った私に、降りてくる氷川さんの声。
 自分自身びっくりするくらいの反応速度で『だ』の声が聞こえるのと同時に、やっと聞きたかった声が聞けたからそれだけで、顔を上げて。
 顔と顔が合ったのに、なんだか不安定。
 原型がなくなるくらい緩められたネクタイから右手が離れて、差し伸べられるのが、視界の限界に映る。
 ネクタイを緩めるのと同時に無理やり外されたカッターシャツの第一ボタン。その向こうの咽が、動く。音がしたのかもしれないけれど、全部無音だった。
 咽から、顎。唇。頬。そして、瞳。
 瞳を見た瞬間、それまでの不安定感の理由に気付く。
 顔は向かい合っているのに、視線が少しずれていて。
 氷川さんの視線は、ほんの少し、下?
 視線を辿ると、そこに右手があって。
「いっ」
 どうして躓いただけなのに、胸のリボンほどけてるの!?
 と言うより私、どうしてこんな。ぺったりと座り込んで、両手をつくように前かがみで、こんなに胸元が開いてたら……
 片膝をつくようにした氷川さんからの角度なら………
「っやーっ!!!!」
 
 もう、恥ずかしくて死にそう。



 肩からタオル。
 右手には五百ミリリットルのコーヒー牛乳のパック。
 左手は腰。
 足は肩幅。
「はー。やっぱり風呂上りはこれだよねぇ」
 うまー。
「ごまかしてんじゃねぇよ」
 あ。
「ああっ人の風呂上りの至福っ!!」
 ひょいひょいって、コーヒー牛乳とタオルを奪い取られる。え? もちろん着てますよ。あの服。少しでもえろくならないように、無駄な努力とわかっていてもやってしまう私ってかわいいよね?
「ふーん」
 な、なんですか。その笑い。
「次、買うなら赤にしろ赤」
「か、買わないわよ。金輪際っ」
「じゃあ買ってきてやるよ」
 私が飲みかけにしたコーヒー牛乳、まだ半分くらい残ってたのに、三口くらいで飲み干しちゃって、空になったパックをそのまま流しに投げる。どうしても残っちゃう飲み残こしの中身が飛ぶからやめて。掃除するの私なのよ? 知ってる? 牛乳拭いた雑巾って、ものすごくヤな匂いするって。
「いらないってば。こう言うのじゃなくて、普通の服。普通の買って。あ、ジーパンがね新しいの出たの。それがいい」
「いやだ」
「即答!?」
 私のタオル自分の首にかけて、開いた両手……手首が腰………のうしろでクロスして、手のひらはお尻掴んでるし。引き寄せないでってば。体がくっついたら変なモノ当たっちゃうでしょう。とりあえず、間に腕入れて最後の抵抗。
「当たり前だろうが。大体どれもこれも同じようなデザインなのに、あっちでもないこっちでもないあれもいいこれもいい、お前ジーパン一つ選ぶのに何時間かかるか覚えてないだろ?」
 むがー。もう。違うわよ全然。悩むの当たり前じゃない。毎シーズン何枚も買ってられないし。
「それに」
 それに?
「夏清はこっちの方が似合う」
 ……断言しないで。ついでにお尻持ち上げないで。
「………どうせ」
 私の抵抗なんて、節水トイレの弱流水でもあっさり流れちゃうわよ。
 逃れようと思ったら自分から背伸びするしかないんだもん。そうしたらほんの少し、目と目の距離が縮まって、不安定になっちゃうから、むかつくけど首に手を回さないとならない構図。
 うー。やられっぱなし。なんとかしなくちゃ。なんか考えろ、自分。
「う、わっ」
 にやり。
 いつもなら首に回す手を、今日は腰にしてみました。ついでに、やられたことやりかえしてみた。
 そういえば、触られたことはあっても、触ったことははじめてかも。



 ことん。って、目の前に置かれたのは、私がおうちから持ってきたお気に入りのマグカップ。
 続いて、イスを引く音がして、氷川さんが隣に座る。
「落ち着いた?」
「ハイ」
 叫んだあと、もう言葉も出なくて、でもどんどん涙はでてくるし、体勢変えたくても体は動かないし。
 そのまま泣き続けるしかなくて、もう、どうしようってそればっかり。結局私の前に同じように正座するみたいに座った氷川さんが、背広脱いで掛けてくれて、胸元のリボンまで、結んでもらって、リビングまで連れてきてもらって、お茶まで淹れてもらって……
 ああっ!! 私、旅行帰りで疲れてる人、こき使ってる!?
「あの、ごめん……なさい……氷川さん、帰ったばっかりで、私がやらなくちゃいけないのに」
 そう思ったら、やっと止まったのにまた泣きそうになる。
 もう本当に、私、だめだめだわ。
 泣きたくなるのを紛らわせたくて、出してもらったカップを取って、一口。
「あ」
 すごく。
「おいしい」
 飲んだ瞬間、ほっとするの。ミルクがたっぷり。お砂糖が、少し。でもちゃんと、紅茶の味。
 びっくり。
 カップを持ったまま、氷川さんを見たら多分同じの、飲みながら苦笑して。
「淹れるのはできるんだが」
 はい?
「片づけが邪魔くさくて」
 ああ。ミルク。この温度は、ミルクパンでちゃんとゆっくり沸かさないと、できないと思う。そうすると、ふちについたミルクのクレーターみたいなもの、洗うだけじゃ取れなかったりするから、つけおきしたりしなくちゃいけない。
「後片づけを頼めるなら。いつでも」
 こんなおいしいものが飲めるなら、後片付けなんていくらでもします。
「はい」
 応えたら、氷川さんが目を閉じて、なんだか、体中の空気が抜けちゃうくらいものすごく長い息をつく。
「やっと、笑った」
 あ。そうか。うん。ものすごく、緊張してたから、全然、表情まで余裕がなくて。
 でも氷川さんも、帰ってきてやっと、笑ったと思う。
「あ、あの」
 言いたいことはたくさんあるのに、口ばっかりパクパク動くだけで、全然言葉にならない。
「………どうした?」
「その、ごめんなさい……氷川さん、お仕事して帰ってきたのに、こんな、変なかっこう、してて」
「なにかあった? そそのかされたか?」
「ハイ……いえっあの、これは、確かに夏清ちゃんが勝手にっ……でもっ!! 着っ着たのは、私の意思だからっ……って、あれ? えっと、そのっだから」
 あああああっ私っもうなに言ってるのか分からなくなってきたんだけど。
「……こう、いうのは………だめ、ですか?」
 ものすごく、ドキドキしてるの。
 心臓が痛いくらい。
「ほんとは、もっともっと前から聞きたかったんです」
 苦しくて。
 でもこの痛みも苦しみも、本当は、耐えられないものじゃなくて。
「もっともっと、一緒にいたい。もっともっと、近くに居たらだめですか? 今までとこれからを、ずっとずっと変えたくて。でも、分からなくて。そそのかしてもらって、やっと、ちょっと、がんばったんです」
 息を吸って。
「氷川さん、いつも朝早くから晩遅くまで、ずっとお仕事してるから、疲れてるって分かってるのにっ……ひゃ!!」
 息を止めて。
 不意に頬に触れた、長くてきれいな指。
 まっすぐな視線から、逃れられない。
「朝早くから、遅くまで、いろんなことをして疲れてるのは、樹理だろう?」
 固まっちゃった私から、氷川さんがふっと視線をそらす。やっと金縛りから解けてなんとなく、はーって、息が全身から抜けていく。
「えっと、私は、別に。家事、好きだから……平気、です」
 頬を。
 目の下を。
 氷川さんの親指がなぞるようにかすめる。
 たったそれだけで、胸の奥のどこかが締め上げられる。
 どうしてこんなに、苦しいのに心地いいんだろう。
 くらくらする。目を閉じても地球が回ってるのがわかるくらい、ふらふらしちゃう。
「樹理」
 名前を呼ばれただけで。その声で。
 頬にあった手が、一房、髪を取って。
「何かのワナかと思ったよ。思いもよらなくて言葉も無いくらいに」
 手のひらの中の髪を、ゆっくりと持ち上げる。
「玄関を開けた瞬間」
 なんだか、苦い笑いと、甘い笑いを混ぜたような顔で。
「どうしたらいいか分からなくなった」
 髪に口をつけるような位置まで手を上げて。
「しょうがないのかもしれないけれど」
 髪を持ったまま、笑って。その顔が近づいて、耳元で。頬と頬が、触れるように。
 
 だめになっても、いいかもしれない。

                                        2002.6.21=up.





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