幸せのありか 3


 今度はスムーズに車から降りた樹理が、開いたトランクに回ってスーツケースとかばんが二つ、どうやって運ぼうかと考えたその時、哉が腕を伸ばしてスーツケースを取り出した。
「あの、そっち、重いので…」
 持ちますと言う言葉を飲みこんだ。
 また睨まれた。何も言えなくなってかばんを取ると、哉ががつんとトランクを閉めてスーツケースを転がして行ってしまう。あっけに取られているうちに置いていかれそうになって、樹理は走ってその背を追いかけた。
 先ほど来たときは気付かなかったが、彼が住んでいる二十七階は、一つしかドアが無かった。だからと言ってワンフロア全てが彼のスペースと言うわけではないらしい。おそらく二十六階の住居が上階と続けて使われているのだろう。
 家は、出たときとそのまま変らなかった。電気もエアコンもつけっぱなしで、哉はカードキーをさしこんでスタスタとあがってしまった。
 背中を壁に預けて、屈まずに足の方を上げてぞんざいに靴を脱ぐと、広くもない玄関に投げ落としている。
 哉が脱ぎ散らかした靴までそろえてそっとリビングまで行くと、その一角にある障子を音をたてて開けて哉が和室に消えていく。
 そーっと覗くと押入れからふとんを引っ張り出している哉が見えた。
 畳の上に敷き布団と掛け布団。どう見ても最高級の羽毛布団が無造作にぶちまけられていく。
 ごそごそと奥に腕を突っ込んでやっと見つけたシーツをその上に放り投げる。
「あのう」
「ここを使え」
 遠慮がちに声をかけた樹理に、振りかえって哉がそういい、問い直す間も与えてくれずに樹理の横を通って奥の部屋に行ってしまった。
 十二枚の畳がひかれた、自宅の樹理の部屋よりもずっと広い和室。リビングに面した二面が障子で仕切られていて、一面が収納、押入れの横にクロゼット、残りの一面が飾りのような床の間と円い飾り窓になっている。
 リビングに置き去りにされていたスーツケースを持ってきてクロゼットにそのまま入れる。とりあえず出せばいいだろうといった雰囲気でそこにある布団をひきなおして、袋に入ったままのシーツを広げ、その上に座りこんで考える。
 結局、奥の部屋に入ってしまった哉は、そのあと一度も出て来ることは無かった。


「あ、あの、おはようございます」
 午前七時まであと五分。目覚まし時計より五分早く目が覚めた哉がダイニングに顔を出すと、なんとなくいつもと違ういい匂いがして、そう声をかけられる。
 首をめぐらせると制服の上にグレーのエプロンをつけた樹理が立っている。誰だろうと一瞬考えたあと、夕べのことを思い出す。
 そう言えば、昨日拾ったのだ。
 家に帰ると死ぬほど眠かった。アルコールを入れた後に車を運転したことで、普段使わない神経まで消耗したような気がしてとりあえず彼女が寝るスペースだけ確保して部屋に帰ったたらそのまま意識がなくなった。
 ナニをしようがそれならぱっと見、分かるわけもないので、部屋に連れ込もうが構わないかとも思ったが、過去の経験から誰かと一緒に寝ると絶対に安眠できないことを思い出して止めた。
 性欲がないわけではないと思う。けれど今例えば無理やり押し倒して処理しなくてはならないほどかというと、そうでもない。
 人間の欲のなかで寝ることと食うことは必要最低限というより、なければ生きていけないが性欲は別になくても平気だと哉は思う。というより、それでしか欲望を満たせないような生活はごめんだ。性欲として処理する以外にも、人の欲を満足させるものはこの世の中ゴロゴロ転がっている。娯楽が増えることで、人はセックスをしなくなり、結果として子供の数が減っているのだと言うのは極論だが、それとて一理あるはずだ。
 では今の自分の欲を満たしているのはなんだろうと考えて、仕事以外に思いつかなかった。それでもその仕事に人生をかけての情熱を持って没頭しているかと言うと、それは絶対にないと言い切れてしまうのだが。
 自分の生活を侵害しない程度に彼女がここで生きてくれたら、それ以上も以下も望まないことに決めた。今さっき。
「朝ご飯、良くわからなかったので和食にしたんですけど……あの、要らなかったらそのままにしておいてください」
 声が聞こえづらくなったと思ったら、樹理が背中を向けている。そこでやっと、自分がいつも通り、バスローブを引っ掛けたまま寝室から出てきたことに気付いた。気付いてもどうこう慌てるのも何か違う気がして、けれどそのままにしておいていいと言うわけでもなく、手に持っていた紐で縛る。
 広いテーブルに、ポテトサラダとベーコンエッグ。耳まで赤くしながら哉から目をそらして、それでも白いご飯を盛って、味噌汁をよそう。
 一連の動きが終わると、エプロンをはずして逃げるように和室に行ってしまい、すぐにかばんを持って出てきた。
「あの、ここからだと、多分一時間半くらいかかってしまうので、もう出ます」
「待て」
 ぶんと音がするくらい頭を下げて、そのまま出て行こうとした樹理を呼びとめると、面白いくらいびくぅっと跳ねてから恐る恐ると言った様子で振りかえって、返事をした。
「は、はい?」
「これは? 家にはなにもなかっただろうが」
「え? あ、向かいのコンビニで……なのであんまりできなかったんですけど……あっ! すいません、玄関にあったカギ……勝手にお借りしました……」
「金は?」
 米とて要る分だけ量り売りしてくれるわけではない。買おうと思えばそれなりの量があり、それなりに金が要るはずだ。
「出るとき、母が、少し渡してくれたので……あの、ほんとに、要らなかったら、置いておいて下さい……」
 再びぺこりと頭を下げて電車の乗り継ぎも良くわからないので、もしかしたら本当に遅刻するかもしれないと思った樹理は玄関に向かう。
「待て」
 また呼びとめられた。しかも今度はそのまま哉がどこかに行ってしまった。行くなといわれるのだろうか? 学校くらいは行かせてやるといったのは、父や母の手前だったからだろうか? 昨夜はただ疲れていただけで、これからどうにかされてしまうのだろうか? 一人で放り出されると、考えることはどんどんマイナスの方向に動いてしまう。
 程なくして、哉が奥の部屋から出てきた。鬱陶しそうに顔にかかる前髪をかき上げてから、樹理に右手を差し出す。
「持っていけ。予備のカードだ。無くすなよ」
 親指の爪が綺麗な形だな、と全然どうでもいいことを思いながら樹理がカードキーを受け取る。
「あり、がとう……ございます」
 三度目、頭を下げた。靴を履いて、行ってきますというべきか考えてから、誰もいない廊下しか見えなくて、きっと言っても無駄だろうなと思ったけれど樹理は小さな声で『行ってきます』と言って家を出た。
 やっぱり、氷川哉という人物が何を考えているのか、樹理にはさっぱり分からなかった。ひどいことをされることを望んでいるわけではない。それは絶対にないけれど、樹理はこの何時間かの間にその覚悟を何度しただろうか。そしてことごとく、バカかお前は、とでも言いたげな哉の視線を感じる。
 多分自分はバカなのだろうと思いながら、樹理はやってきたエレベータに乗った。


 少し考えたけれど、二人分夕食の材料を買って哉のマンションに帰って来た。もらったキーでエントランスのセキュリティを抜けて二十七階へ。いつ帰ってくるのかわからないけれど家政婦として必要とされているのならば応えるべきだろうと思って、これからやる家事の段取りを考えてダイニングに行くとちゃんとからっぽになったご飯と味噌汁の茶碗と、なぜかきれいに残されているベーコン。
 箸の下にメモを見つけて手に取る。
 白いなんの変哲もないハガキサイズのメモには鶏肉以外の肉は食べられないことと、魚も赤身はキライなこと、それだけが癖のない綺麗な文字で綴られていた。
「習字か何か、やってたのかな」
 お手本のような、けれど機械が出したものとは違うその文字をじっと見る。以前母親が言っていたのだ。文字を見たら大体その人がどんな人か分かるものよ、と。
「だめだ。全然わからない」
 ため息をついて、メモを折ろうとして止まる。
 メモを見た、と相手に伝える一番手っ取り早い方法はそれを捨ててしまうことだ。けれどなんだか捨てることができなくて着替えるために開けたクロゼットの、引出しに、それをしまった。


 玄関のドアが開く音が聞こえて、樹理は自分が寝ていたことに気付く。時計を見ると午前一時を少し回ったところだ。哉を待ちながらダイニングのテーブルで予習をしているうちに寝てしまったらしい。片付けてそれらを和室に突っ込み、玄関に走る。
「あ、えっと。おかえりなさい。メモ、見ました。これから気をつけます」
 カベに手をついて靴を脱いでいる哉に、そう言う。いつも家族にしているのと同じように。
 けれど哉はなにも応えずに樹理などまるでいないかのようにしてそのまま奥へ行ってしまう。昨日と同じく無造作に投げられて転がった靴をそろえてから、追いかけていくとダイニングに立ちどまってネクタイに指をかけて弛めている哉に追いついた。
「食ってないのか?」
 二人分が用意されて、なおかつなにも手をつけていない様子のテーブルを見た哉が怒ったようにそう言った。
「あの……」
「俺は一人で食う。先に食え」
「………すいません……」
 言われて気付く。当たり前だ。彼と自分は同等ではない。一緒に食べるなんて、哉には考えられないことなのかもしれない。
 樹理の家は、一緒に食べられる日はみんなで食べることが原則だった。最近は父が帰ってくる日のほうが少なかったが、それでもどんなに遅くなっても、父が帰ってくる日は待ってみんなで食べたから。先に一人で食べると言うことなんて、樹理には全然思いつきもしなかった。
 昔から母も会社を手伝いに行くことが多くて、必然的に家のことは家にいる人間がやることになっていた。中学二年までは祖母が生きていたのでいつも一緒にご飯を作ったり、洗濯物をたたんだりしていた。一人になってからもそれは変らなくて、疲れて帰って来た両親がおいしいと言ってご飯を食べてくれるのを見たくて樹理はいつも食べずに待っていた。だから、この時間までだってヘイキで待てるのだ。待てといわれるのならば。
 でも待つなといわれた。
「風呂は?」
「えっと、はい、沸いてます」
 ぽつんと広いダイニングに残された樹理はそれだけ言って奥に消えていく哉の背中を見送った。
 自分のご飯を盆にのせてキッチンに帰る。家事を座ってできるように、ここのシステムキッチンにはガス圧で上下するスツールがある。それにちょこんと座って、一人でいただきますと手を合わせて、樹理は自分で作った料理を食べた。
 味見の時は確かに味があったのに食べてみると全然味がしなくて、なんだか泣きたくなったけれど、良く噛まずに飲みこんだご飯と一緒に涙も飲みこんだ。


 会社の車から降りて見上げると、部屋に電気がついていた。確かに健全な高校生なら起きていても不思議でない時間だが、樹理は少なくとも今朝六時くらいには起きていたはずだ。気にせずに寝ていればいいものを。
 その灯りに理由のわからない苛立ちを覚えながら家に帰ると、奥から走ってくる足音と、おかえりなさいという声。
 哉は行ったことがない、けれどとても有名なカジュアルウエアショップ製と思われるフリースのくるぶしまであろうかと言う長さのワンピースとその下に薄手のトレーナ。長い髪を二つに分けたゆるい三つ編み。
 時間など大量にあったはずなのに、風呂にも入っていない様子の樹理が、懸命にコミュニケーションを取ろうとする姿に、苛立ちが重なって哉は応えることもなく靴を脱いで家に上がる。
 ダイニングに、二人分の食事。
 こんな時間まで食事さえ摂らずにいた樹理に、哉の中のよく分からない部分がついに動いた。口をついて出た言葉に気付く。自分が怒っていることに。
 それに気付くと気持ちがまたすとんと落ちついた。何をこんなにいらついているのだろう。怒りという感情など、どこからやってきたのか分からなかった。誰かに対してこんなに気持ちが、正にしろ負にしろ、動いたことなど、いつからぶりのことだろうか?
 しかし哉は思い通りに動かない樹理に確かに苛立って、そして怒っていた。
 その思いも一瞬の内に呆れに似た感情に塗りつぶされる。
 そのまま自室に戻って、コートと背広を脱いで、背広のポケットに突っ込んでいたものに気付く。
 それを持ってダイニングに行くと一人分の食事を残したまま樹理がいなくなっていた。カウンター越しのキッチンで、食事をしている樹理がいた。ダイニングで食べればいいのにどうしてそんなほうに引っ込んでしまったのか分からなかったが、会話をすることが面倒でそのことを問うのはやめた。
「おい」
 樹理に対してどう声をかけるか考えたあと結局それしか出てこなかったが、どうせ家の中には二人しかいないのだ。どう呼ぼうが、哉が呼ぶ人間は樹理しかいないので分かったのだろう。びくりと振り向いて、慌てて立ちあがる。ごくん、と食べていたものを急いで飲みこんだのか、細くて白い咽が大きく上下する。
「あの、なんですか?」
 警戒心を半分ほど携えた様子で樹理が哉の前に立った。別になにをするつもりもないけれど。
「手」
「え?」
 手といわれて反射的に出された樹理の両手に、ぽいと封筒を渡す。
「……? ………っあの、これ」
 銀行のロゴが入った青い封筒の中身を見た樹理が驚きを隠せない声をあげた。
「生活費だ。足らなくなったら言え。それと風呂も待たなくていい。先に行け」
 見たこともない大金を渡されて呆然と立ちすくむ樹理にそれだけ言い捨てて、哉は風呂に行ってしまった。


 手の中の封筒は……いや、その中身は、ずしりと重い。一体どのくらい入っているのだろう。昔…小学校に上がる前、バブルがはじける前、父が、百万の新札で高さが大体1センチだといっていた。手の中の札束は新札ではないけれど、絶対2センチ以上ある。
 改めて哉と自分との金銭感覚に深くて高くて広くて果てしない差があることを思い知らされた。夕食の買い物の前に寄った本屋で、哉が乗っている車がなんなのか、なんとなく知りたくなって一度も行ったことのない車関係の本が並ぶ棚の前まで行って、外国車専門誌をぱらぱらとめくったら、ちゃんと哉が乗っている車も載っていた。そこに書いてあった値段を見て、樹理はそのまま合掌をするように本を閉じてしまった。
「一年分、なのかな」
 だとしても多分使いきれないだろう。どうがんばっても。大体使う材料として高価な牛肉や赤身の魚が食べられないのだから。鶏肉と野菜くらいでは、下手をしたら一食単価一人分、五百円以内でおさまってしまうかもしれない。
「いいか、使えなかったら返したらいいんだもの」
 樹理はため息をついて、お金をどうするか考え、とりあえずメモをしまった引出しに入れることにした。
 この家のセキュリティなら、家に置いておくのが一番安全そうだったから。
 哉が風呂から上がる前に料理を温めなおそうと、樹理はまたキッチンに帰った。


 久しぶりに湯船に浸かってゆっくりと風呂に入った哉がダイニングに行くと、帰って来た時感じたよりもっといいにおいがしていて、ちゃんと暖めなおされた食事がテーブルに置いてある。
「…………」
「あ、すいません、いらない、ですか? ビールとかの方が……」
 なにも言わずにそれを見ている哉にお茶を運んでいた樹理がくるりと方向転換をしてキッチンに戻ろうとする。
「ビールはいい。こっちを食うから」
 座ると樹理がほっとしたようにしながら、ことんと湯のみを置く。
 なんのことはない、朝食と同じく白いご飯と、こちらは具の違う味噌汁。白身の魚と根菜類の煮つけ、鳥のささみが入っている酢の物。
 全体的に色素の薄く、どう見ても、見た目今時の女子高生な樹理から想像のつかない純和風。
「あの、ご飯とか、お代わりありますから、言ってもらったら……」
「構うな。とっとと風呂に入って寝ろ」
「……はい」
 ぺこんと樹理が頭を下げてキッチンに盆を返しに行き、すぐに和室に戻り、着替えを持って今度は風呂場に走っていく。
 黙々と箸を動かす。夕食は会社で済ませていたけれど、こっちの方が美味かった。少なくとも哉がキライなものが出て来ることはないはずだ。
 食べながら何気なく室内を見渡す。全体的に微妙に明るい。床も埃一つなかった。そう言えば廊下の獣道も消えていた。
 ふと、今着ているバスローブの衿をつかんで匂いを嗅ぐ。ちゃんと洗って乾燥機にでも入れたのか、かすかに石けんの匂いがした。
 倒産寸前の会社がどう持ちなおすのかが見たくて、ちょっとしたゲームのつもりではじめたけれど、なかなかどうして、樹理はそれなりにちゃんと働く。
 味噌汁をすすると今朝と全然味が違うことに驚く。
 おそらくだし汁まで変えたのだ。朝はカツオか何かを使っていたのだろうけれど、魚の好みを聞いて昆布でとることにしたらしい。
 コレは本当に、渡りに船でいいものを拾ったかもしれない。
 そしてなぜか笑えてきた。


 服を脱いで風呂場に入ってから、しまったと気付く。
 シャンプーなどは、全部哉のものだ。当たり前だけれど。
「気付かなかった……」
 今日のところはボディーソープだけ借りて、お湯に浸かるだけにしておこう。明日また買出しの時に買って来たらいい。まだ母からもらったお金も残っている。
 三つ編みにした髪をピンで留めて、体を洗ったあと肩まで湯に浸かる。
 樹理一人くらい、軽々寝転がることができそうな大きな浴槽。というより、洗い場を含めた風呂自体、一戸建てであるはずの樹理の家のそれよりずっと広い。
「こういうのをお金持ちって言うのよねぇ……うわっ」
 自分の家ならすでに浴槽のヘリに足がついているところがまだ水中だった。目算を誤って思いきり湯の中に滑りこみそうになって、慌てて手をつく。広いのも考えものかもしれない。人の家だけれど。
「もうあがろう……」
 そして寝よう。転寝(うたたね)をしたけれど朝起きることができなかったら困る。部屋が離れているので平気かもしれないけれど万が一めざましをかけて彼の貴重な睡眠時間を妨げるのもいやだった。自力で起きるより他にない。
 浴槽から出て脱衣所との間のすりガラスのドアを樹理が開けたのと同時に。
 廊下側のドアが開いて、哉が入ってきた。
「いっぎゃっ……!!!」
「ああ、歯、磨くから中にいろ」
 二秒ほどそのまま固まって、かろうじて悲鳴を飲み込んだ樹理が思いきりドアを閉めた。ドアの取っ手をつかんだままさらに五秒ほど動けなくて、目の前がすりガラスであることに、奥で動く哉の姿をみてやっと気付いて体をずらす。
 心臓が寿命を縮めようかという勢いで動いている。風呂に入ったこととは違う理由で体が熱い。
 ぐるぐる目が回る。心の悲鳴はどもったままで、ずっと『どうしよう』の『ど』から進まない。
 カベに貼りついて息をするのも忘れてパニックを起こしている樹理のことなどお構いなしで、歯を磨き終わったらしい哉が出ていった。
「終わったぞ」
 言われなくてもドアが開く音が聞こえて人の気配がなくなった。それでも消えない緊張の中で樹理がドアを開ける。
 足拭き用のマットの上にそのままぺたんと座りこむ。
 言われた通り、これからは先にお風呂を使ってしまおう。彼が平気でも自分の身が持たない気がした。






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