幸せのありか 4


 これと言ってなにが変るわけでもなく、クリスマスも大晦日もお正月も、本当に、何があるわけでもなく過ぎて、年が変わり、樹理が哉の家にやってきて二ヶ月近くが過ぎてしまった。
 朝、ご飯を作って。
 夜、哉を出迎えて。
 すれ違う時はいつもメモが置かれる。
 行ってきます、行ってらっしゃい。ただいま、おかえりなさい。そんな最低限の言葉くらいしか交わさない。いや、言っているのは一方的に樹理で、哉はなにも言わない。
 単調な生活の繰り返し。昨日と変らない今日。今日と変らない明日、一週間後、一ヶ月後、最後の日。
 哉にとっての自分は、きっと家事をこなすロボットか何かと同じなのだろう。
 もともと質草なのだ。それが働いているかいないかだけの違いであって哉にとっては全く気にかけることさえ面倒なもの、それが自分。
 風呂だけは先に行くけれど、何度待つなと言われても樹理は哉の帰りを待っていた。せめてそれだけくらいしたかった。
「……っくしゅっ! ……」
 自分のくしゃみで目が覚めた。
 ずずずっと鼻をすすって時計を見上げると午前三時を過ぎている。
「どう、したのかな」
 哉のスケジュールは三ヶ月後くらいまでびっちりと埋まっている。遅くなる日が分かっているので、接待などがあって食事のいらない日は事前にメモが置かれているはずだが、今日はなにもなかった。もちろんこんなに遅いのも初めてだ。ここのところずっと帰ってくるのが遅いけれどそれでも午前一時には帰ってくるのに。
「事故、とかに遭ったのかな……」
 ティッシュをとって鼻をかむ。三日ほど前から風邪をひいたらしく熱っぽくて咽が痛い。この時間まで布団に入っていなかったために冷えたのかぞくぞくと背中を悪寒が走った。
 パジャマで出迎えるのもどうかと思って、樹理は寝る前まで普段着を着ている。
「ちょっと、薄着したかも」
 スゥエードっぽい厚手のシャツとフレアスカート。上からトレーナかセーターを着ておくべきだったと後悔してももう遅い。
 さすがにもう寝ようかと迷っていると、がちゃり、と玄関が開く気配がした。
「あ、あの、お帰り……なさい……?」
 玄関に向かうと、そこに酔っ払った哉がいた。カベで半身を支えるように立っている。
 いつもなら放り出すにしてもちゃんと脱ぐ靴を、かかとを潰すように乱暴に脱ぎ散らかして、やっぱりカベに手をついて体を支えながら哉がいつもの通りなにも応えずに家に入っていく。樹理は脱ぎ散らかされた靴を整えて、かかとを直してからキッチンへ行ってグラスに氷を入れて水を汲んだ。
 リビングに行くと、哉が今まで触りもしなかったローボードの中からよく分からないけれど高そうなお酒のビンを取ってそのままあおっている。そんな飲み方が体にいいわけがない。
「あの、大丈夫ですか? もう飲まないほうが……」
 いいながら差し出したグラスがはじかれた。シャツとスカートに向かって倒れたグラスは割れることなく水の大半を樹理の服に染み込ませたあと氷を振りまきながらリビングの床を転がった。
「すいませんっ!!」
 すぐに雑巾を取りに行こうと立ち上がろうとしてふらついた。目の前が遠くなって、近くなる。一瞬意識が飛んで、帰ってきたら哉にしがみついていた。
「ごめっ……すいません……ちょっと風邪気味で……」
 慌てて体を離して起き上がると、更に酒のビンが倒れて床に流れ出している。樹理がぶつかったせいで落ちたのだろう。
 手近に拭くものがなくてスカートで拭こうとしたら今度は突き飛ばされた。おそらく思いきり。後頭部に鈍い痛が走る。ガラスがはめ込まれたテーブルの脚だ。ステンレスでできた。酔っ払いの力なので普段の樹理ならよろめくことはあっても飛ばされることなどなかっただろうけれど、熱のせいですでに平衡感覚がずれていたこともあってすぐに起き上がれない。
「もううろちょろするな。さっさと寝てしまえ」
 哉が怒ったようにそう言って、また新しい酒に手をつけているのがぼんやりと見えた。
「でも、なにかあったんじゃ……」
 起き上がって近づこうとして、拒絶された。哉が顔をそむけて先ほどよりずっと語気を強めて怒鳴った。
「いいから行ってしまえ!!」
 伸ばしかけた手を引いて樹理は俯いたまま和室の障子を開けて、哉を振り返る。床に直に座って樹理の方、和室の方向に背を向けている哉を。
 哉がお酒を飲んで帰ってくるのは別に今日が初めてではない。接待があるとメモに書いてある日は、大抵飲んで帰ってくる。けれどこんな風に酔っ払って帰って来たのは初めてだ。どうしてそんな風に酒を飲んでいるのかそれさえも樹理には分からない。尋ねたら、怒鳴られた。怒鳴られたのも多分初めてだ。
「ほんとに、お酒、飲みすぎたら体に悪いです。………早めに、休んでください」
 それだけなんとか言って、樹理は障子を閉めた。


 タクシーから降りて上を見上げる。毎日、確認しなくても分かっているのにそこにある灯りを見るために。
 こんなに遅くなってもやっぱりついているその灯りに、今日は本当に、歯軋りしたくなるくらいムカついた。
 防犯を兼ねて二十四時間灯りのついているエントランスを抜けてエレベータで二十七階へ。軽い重力の変化が悪酔いを更に悪化させる。吐きたくなるくらい気分が悪い。
 氷川本社の決算期は七月だ。なので一月は第2四半期の締めくくりにあたる。これまでの更正計画の進捗(しんちょく)状況を報告させるために、子会社協力会社の社長を集めての会議が、今日の午後から行われた。
 中間報告は、軒並み予定よりずっと遅れていた。物事が机上の理論だけで進むと思っているほど哉は理想論者ではないが、目を覆いたくなるくらい酷かった。
 聞いていても仕方がないので早々に切り上げてやろうとしたところ、誰がどこで仕入れたのか、行野プラスティックの話題がのぼった。哉がなにも言わないので誰も聞かなかっただけで、集められた会社の社長だけではなく、本社においてもどうしてそこだけ哉が特別に残したのか、疑問に思う人間は多かったようだ。しかし、再建計画が計画通り動いていると言えるのは行野プラスティックだけだ。再建計画が一番遅れている同じプラスティック工場をもつ社長が皮肉のように何か個人的に思うところがあるのですかと、厭な笑いを浮かべて哉を見て言った。
 何を思おうが相手の勝手だが、実際行野プラスティックの業績改善は目を見張るものがあった。グラフに直されたそれは他をぐんを抜いていて、皮肉げにそう言った者の工場の業績を、たったの二ヶ月足らずで抜いてしまっているのだから。この場で一番足きりの対象になるであろうその人物は噛みつくような勢いで反論した。
 あたりまえだと。今まで自分たちは身を削って骨を切ってさまざまな経費削減の努力をしていたのだ。これ以上どうしようもないくらいに。けれど哉はそれでは許さないと言ったのだ。もっとなんとかなるはずだろうと無理難題を押しつけてくる。今までなにもしていなかったであろう行野プラスティックと同じにしてほしくはない、と。
 見解の相違だ。
 哉は彼の会社の資料をひっくり返して一々改善できる個所を指摘していった。真っ赤だった彼の顔は、徐々に青くなり、結局血の気を失った様子で会議用の固いイスに彼は座らされた。
 哉にしてみれば氷川のプラスティック部門など海外に流してしまってもいいと思っていた。ただ全てを海外に依存した場合、その後起こるかもしれない有事への備えが効かないのでいくつか大きな会社を残すことを決めた。それだけのことだ。他を切ったことによって彼の会社にも、もちろん行野プラスティックにも多くの仕事が流れ込んでいる。淘汰されれば必然的に残ったものが得をするのだから、そこから利益を引出すのは社長の腕だろう。
 無性にイライラした。
 自分の倍以上生きているくせに厭味しかいえない相手に。言い負かされている相手に。
 そして気まぐれで行野プラスティックを残したことに。
 誰かがぼそりとつぶやいた。前副社長なら、そんな風に贔屓をすることなどなかったと。どこか一箇所だけに肩入れすることなくどこのことも平等に考えていてくれた、と。
 その言葉で哉の顔色が変った。
 その場のもの全て、哉の逆鱗に触れたことを知った。
 見まわすと頭をたれる者とそのセリフを言った者をちらちらと見る者、各々態度は違ったがそれを言った男を確認することはできた。
 どうでもいいことだが、哉はこの世で生きている人間の中で一番嫌いなのは兄だ。長男であるというだけの理由で大切にされて、へらへらと笑って暮らしている彼が一番嫌いだ。
 ただ笑っていることしかできない兄とこうやってきっちりと経営を考えて動いている自分を同列のようにして比べられたことにまず腹が立つ。いないものを懐かしむようでは、おそらく彼の会社の命数は尽きかけているといってもいい。
 言いたいことはそれだけですか?
 感情とは正反対のやさしい口調でにっこり笑ってそう問いかけてやった。瞳が全く笑っていないその笑みに、室内の温度が一気に氷点下まで下がったような気がして、背中に汗をかいていたものが身震いしていたがそんなことはどうでもいい。もう誰も何も言う気にならないだろう。
 他に質問はと問うても予想通り意見などひとつもでてこなかった。次の報告会の日時を告げて無意味で無駄な会議はお開きとなった。
 誰もいなくなった……篠田が控えるだけになった会議室で居眠りできないようにと固くて座り辛いイスでふんぞり返る。
 どうして行野プラスティックだけ残したかだと? そんな事を聞いて彼らはどうするつもりだったのだ? 樹理の事を知ったら、娘がいるものは差し出してくるつもりなのだろうか? バカバカしくて考えるのも鬱陶しかった。
 行野プラスティックを存続させるなんて本当になんてことをしてしまったのだろう。
 結果として良い方向に向かっているから何とかなったものの、あの人のよさそうな親父のことだ、どこでコケるだろうと毎週上がって来る報告書の封を開ける時が一番胃に来る。存在自体がイレギュラーなのでここに呼んではいないが、呼ばなくて正解だった。
 なんとなく樹理の顔を見たくなくて、篠田に初めて自宅以外の場所に行くように指示し、そのまま帰してしまった。
 飲み屋を何軒はしごしたのか、四つ目くらいから以降は全然覚えていなかった。最後の店で無理やり家に帰るように言われてタクシーに押しこまれたのは覚えている。
 酔っているせいでスロットルにカードキーが入らずに何度か失敗して、それでもなんとか玄関を開ける。するとすぐぱたぱたと足音が聞こえて、樹理が出てきた。普段着のままで。
 今朝行ってきますといった声が微妙にかすれていた。咳もしていた。風邪をひいているのだろうと思っていたが、樹理はそのまま学校へ行ったので大したことはないだろうと思っていたけれど、今おかえりなさいと言った声はガラガラだったし、熱でもあるのか顔が赤い。
 そんなになってまでも待っている樹理に、本当に腹が立った。
 酔って帰って来た自分を心配そうに茶色の瞳が見上げてくる。振り払うようにその横をすり抜けてリビングに向かい、飾りでしかなかった酒に手をつける。酔っているのに酔えていないような感覚。咽が焼けるくらいキツい酒をあおっても、気分は全く変らない。
 なにも言わなくても冷たい水を用意して差し出す樹理が鬱陶しくて仕方なかった。こんな酔っ払いなどほっておいて、体調が悪いのなら寝てしまえばいいのに。
 無意識で差し出されたグラスを払いのけていた。
 冷たい水がほとんど全部樹理にかかる。ひざの上に落ちてからグラスが残った氷を撒き散らしながら床を転がっていった。
 そうさせたのは哉なのに、樹理が条件反射のように謝罪して立ち上がろうとした。
 冷水をかけられたせいか、ふらりと、立ちくらみを起こしたように樹理が崩れ落ちた。それこそ反射的に抱きとめた。嘘みたいに軽いその体を。
 樹理が使っているフローラル系のシャンプーのにおいが吸いこんだ空気の全てだった。
 状況がわかった樹理がはじかれたように体を離し、また謝って言い訳のように風邪をひいていることを言う。そんなことは哉には分かっているし自覚があるなら寝てしまうべきだろうと思っていると、こぼれた酒を自分のスカートで拭こうとしている樹理が目に入った。
 そんなもの拭かなくてもいい。そう言おうとしてろれつが回らなかった。
 言葉が出なかったので咄嗟に突き飛ばした。酔っていて力の加減など全くできなかった。軽い体は簡単に離れていって、勢い余ってテーブルの脚に樹理があたる鈍い音がする。
 後悔した。
 この苦い気持ちは後悔だ。そして気づく。今まで訳もなく哉を追い詰めていたものに。どうして樹理を身近に置いてしまったのか、それをずっと後悔していた。しかし後悔の理由がわかってもどうして後悔しているのかは依然不明なままだった。
 数瞬のちに頭を押さえながらだけれど起き上がった樹理にまた意味もなくほっとして、けれど出てきた言葉は怒鳴り声だった。
 でも…と泣きそうな顔をして樹理がまた見上げてくる。
 やめてくれと。
 その目で見るなと。
 樹理が視線をそらさないのなら、自分が別の方を見るしかなかった。
 もうこれ以上、樹理を見ていたくなかった。
 ふっと、樹理の気配が遠のいた。障子の開く音がして、やっと哉は息をついて体の力を抜いた。飲みかけのまま転がして手の届かないところまで行ってしまった酒ビンよりも新しいものを出したほうが距離が近くてバリバリと封を開けて、飲む。早く酔って意識を無くしてしまいたかった。なのに感覚はどんどん鋭くなって、真後ろの樹理の視線が背中に痛いくらい刺さるのが分かった。
 しばらく黙ったままそうしていた。哉が何か言おうとした時、背中に樹理の言葉が降りてきた。風邪のせいで引きつれていたけれどとても心地よかった。
 よっぽど重病そうなかすれた声でそれでも哉を労わる言葉を言うと樹理が障子を閉めるのが分かった。
 だからといってどうしようもなくて、けれどもう酒を飲む気にもなれなくて天井を見上げていると和室の奥から途切れることの無い咳が響く。
 むせるように、何か別のものまで出てきそうな勢いで続く咳。
 苦しそうにぜいぜいとあえぐ声がやむとまた咳が続く。
 あまりにも長くて、止まる気配の無い咳に徐々に不安になってくる。
 血でも吐いているかもしれない。
 立ちあがって和室の障子に手をかけて一気に開けると、かひ、と咳をして、びっくりした様子を隠さない樹理が哉を見上げていた。
 畳の上に座りこんで哉を見上げる樹理は、ほとんどなにも着ていなかった。
 服が脱ぎ散らかされて、濡れた体を拭いていたらしくタオルを両手で胸に抱いて固まっている。
 大丈夫かの『だ』で哉の口も止まってしまった。
 何度も咳をしていたせいで涙目になっていて、熱で鎖骨のあたりまでほんのりと赤い。
 謝って出ていくべきだと分かっていても思わず見とれていた。
 哉よりも先に樹理が正常な意識を取り戻したのが、状況を悪化させる原因になった。
 樹理の口をついて出たのは、哉を拒絶する言葉だった。


 苦しくて苦しくて苦しくて。
 咳が全然止まらなかった。いつもなら、ここが樹理の家ならば母がやさしく背中を擦ってくれた。それだけで安心できて、咳なんていつもあっさり止まったのに息さえできないのに咳は全く治まってくれる様子が無かった。
 咽が切れそうなくらい痛いのに、止まらない咳。
 水がかかって冷たくなった服を咳をしながら脱ぐ。襟元から入った水のせいでブラまでびっしょりと冷たくなっていた。
 それもはずして乾いたタオルを取る。乾いていると言うだけで暖かいような気がして咳も治まりかけた時、なんの前触れも無く障子が開いた。薄ぐらい和室と明るいリビング。そのせいで逆光になって哉の表情がわからない。
 びっくりしすぎて本当に咳が止まった。
 でもどうして、哉がそこにいるのだろう?
 いつも樹理がなにをしていようと哉が和室の障子を開けることは一度も無かった。
 だからなんの警戒心も無く服を脱いでいた自分の無防備さに後悔する。今日の哉は、いつもの哉ではなかったのに。
 いつまで経ってもそのまま立っている哉が一体何をしたいのか見当も付かなかった。
 ただじっと、見られていることだけは、視線が動かないことだけは逆光で表情が分からなくても、分かった。
 どう映っているのかなど聞かなくても分かる。
 下着一枚だ。かろうじてタオルを持っているものの全裸同然の。
 見られつづける嫌悪感よりも先に恐怖心が大きくなった。
 何もされないと、勝手に思いこんでいた。
 いつどうなったっておかしくなかったのに。今まで何もされなかった分、気が弛んでいたせいもあって樹理がパニックを起こす。
 寒気ではない何かがせりあがってきた。小さく歯が鳴るのは、風邪のせいではない。
 少しでも距離が取りたくて、体が自然と後退した。
 初めて哉を、怖いと感じた。
「………っや………」
 タオルを抱える腕に力が入りすぎて、肩が震えているのは哉にも分かっただろう。
 俯いて首を振って座ったまま奥に逃げる。お願いだからいつものようになんでもなかったようにして出ていってほしかった。それなのに。
 影が近づく。
 片手でタオルを抱えたまま、もう片方の手をついて樹理が背を向けて本格的に逃げる体勢に入るのと同時に。
「いっ!! やめっ」
 三つ編みにした髪をつかまれて引かれた。痛くて払いのけたくて、伸ばした腕が代りに掴まれた。指が腕に食い込む。新しい痛みに体を捩ってもその拘束は弛むことは無い。更に引っ張られた痛みに耐えかねた樹理が立ちあがる。
 最初に髪を引っ張られた時ゴムが取れたのかゆるめの三つ編みは簡単にほどけて俯いたままの樹理の顔にかかった。
「やだっ……やめて……おねがッ!!」
 明るいリビングまで引っ張り出されて樹理が懇願するようにそう言った。
 顔を上げて、見えたのは哉の背中だった。いつも樹理に向けられた無関心な背中と同じなのに全然違うものに見えた。しぐさで哉がネクタイをはずしているのが分かる。
 リビング全体が酒くさかった。
 なんとか逆らおうとして裸足をフローリングに付けてふんばっても結局腕にかかる力が強くなって、よろめくのは樹理だった。哉がいくら細身でも歴然とした男女の力の差はどうすることも出来ない。
 よろめいた樹理はそのまますくいあげるられようにして厚いガラスの上に仰向けに押しつけられた。
 ガラスの冷たさに全身に鳥肌が立った。
 その冷たさがそのまま今の哉を現しているようで怖くてその顔を見ることができずに顔をそむける。
 近づく哉の気配にめちゃくちゃに腕を振りまわした。
 大した抵抗もできないまま、簡単に樹理の細い両腕が哉の片手で押さえつけられた。それでももがこうとする樹理を見て哉が鼻を鳴らすのが聞こえた。
 その音に、樹理が再びもがく。
「いやっ離してっ!! もうやだっ誰か、助けて……!! パパッママ…」
 助けてと呼んでも誰も来てはくれない。そのまま腕が引き上げられてガラスより冷たいステンレスの脚に縛り付けられた。手加減も何もない、弛めようともがけば、より食いこんでくるような、なんの情けも容赦もない縛り方で。
「いやあぁぁあっ」
 悲鳴が、押し込められたタオルの中で響いた。


 全てが終わって、荒い息をつきながらどうしようもないくらいの虚無感に襲われた。
 引きずり出して、縛り付けて、無理やり組み伏せた。
 拒絶されればされるほど、自分の存在を否定されているようで、わけのわからない衝動だけで動いた。
 主導権は全て自分にあるのにどんどん追い詰められていく心境。余裕なんてどこにも無くて、ただ夢中で飢えた獣のように噛み付くように、犯した。
 抱くなんて言う甘い言葉で済まされる部分はどこにも無いことは、哉自身が一番よく分かっていた。
 口の中が最後に含んだアルコールにざらついた。
 満足な前戯も愛撫もないままで、しかもこんな状況で樹理に受け入れる体勢を整えろと言うのは無理な話で、樹理の体を開いて、ほとんど濡れていないそこに舌を這わせても縛られてからは抵抗らしい抵抗もせず、反応もなくなった体はそのくらいではなんの変化も示さなかった。
 何も感じていないのだと明確な結果がそこにある。
 ゆっくりとしていられるほど、理性など残っていなかった。眼の端に留まったビンを取って中身を口に入れて、そのまま中にいれた。粘膜を刺激するアルコールに樹理がうめいて体を捩るのを押さえつけて、一気に。
 そのあとあったのは本能だけだった。樹理のことなど一欠けらも考えることができずにただ自分を包む熱と、狭さと、アルコールと。
 重いはずのテーブルごと揺れるくらい、ひたすら自分が思うように動いて、そのまま終わった。
 何の満足感も残らなかった。
 いやがる少女を無理やり征服した。
 それに対する思いはこの身におさまりきらないほど、これまで抱えていた後悔を大きく果てしなくしただけだった。
 のろのろと起き上がって手の拘束を解き、口に突っ込んだタオルを取り除く。
「あ……う……や……ごめっごめんなさい……ごめッ……もう、やめ……」
 体を引き上げるとガラスのような瞳を開いたまま、うわごとのようにごめんなさいと樹理が繰り返す。
 ソファの上に脱ぎ散らした背広をかけると怯えで肩がはねあがった。痛めた樹理の咽を通る呼吸の音だけが響く。
 体をこれ以上無いくらい小さくして震えている樹理を見て自分がどれだけ彼女を傷つけたのか、もう分からなかった。
「立てるなら、風呂に行って、体を洗ってこい……」
 しばらくその言葉の意味がわからなかったのか、体が動かなかったのかじっとしていた樹理が小さく頷いて立ちあがり、ぎこちない歩き方で遠ざかっていくのを見送って、哉はソファに崩れ落ちた。
 樹理が出てきたら謝ろう。そして彼女が望むのなら家に帰そうと思った。いや、家に帰ることを望まないわけが無い。帰ったとしても会社の再建計画はたったふた月で軌道に乗っているのだ、手を引く事はしないと約束をして、帰そう、家へ。
 そんなことを考えながら待っていても樹理が風呂から上がる気配が無かった。
 中で泣いているのかもしれないとそれから五分待った。
 立ちあがっていらいらと歩き回りながら更に五分。
 入ってから確実に十五分過ぎた所で哉は脱衣所のドアをノックした。返事はない。
 開けると、風呂の電気はついていた。かすかにシャワーが流れる水音が聞こえるが、すりガラス越しでは中の様子がわからなくて、そのガラスをまた叩く。
 反応が、ない。
「入るぞ」
 返ってくる言葉が無いことを知りながらそう言ってからガラス戸を開けて。
 浴槽にしがみつくようにして倒れこんでいる樹理がいた。
 流れつづけるシャワーに濡れるのも構わずに近づいて抱き起こす。ぐらりと、力なく首がのけぞった。
「おい!!」
 思わず揺さぶると、両方の鼻から血が流れてきた。小さな咳と一緒に唇からも。
 耳からの出血を確かめる。幸いなことにそこからはなにも出ていなかった。抱え上げて脱衣所に戻り、濡れた体を拭く。額は火のように熱いのに、手足が怖いくらい冷たかった。
「……樹理……?」
 名前を呼んで、軽く頬を叩いても樹理はぴくりとも動かない。ただ苦しげに浅い息を繰り返すだけで。
 棚から引っ張り出したバスローブで包む。
 鼻からの出血は止まることは無く、むしろ増えているような気さえしてきた。
 リビングに戻って電話帳をひっくり返す。まだこの番号で通じることを祈りながら震える指でダイヤルをした。
 十二回目のコールで眠そうな声が聞こえた。
「はーい? 神崎診療所ぉー」
「速人っ!!」
「……哉? お前今どこに……」
 電話の向うの旧友は、それだけで相手が誰か分かったのだろう。非常識な時間の電話にも関わらず突然神戸のマンションを引き払って音信不通だった哉にどこにいるのかと聞いてくる。
 現在の住所を伝えるとえらい近所だなと速人がつぶやいた。
「そんなのはどうでもいいから、頼む…助けて、助けてくれ…!!」


 中学生の頃からの腐れ縁、そんな哉に助けてくれと言われた神崎速人(かんざきはやと)が面食らって黙りこんだ。これまで生きてきて、哉に何かを頼まれたことなど一度も無かった。彼の口から助けてなどと援助を求められるとは夢にも思っていなかった。
「……分かったから、とにかく来い。俺がなんとかしてやるから。そこからなら、この時間なら車で十五分もかからない。タクシー呼んで、早く来い」
 何をどう助けてほしいのかは見当もつかなかったけれどすがるような哉の声にそれしか言えなかった。電話を切ると後ろに立っていた妻で、看護師の理右湖(りうこ)に急患だからと言い診療所の電気をつけた。
 程なくして玄関に車が止まる気配がした。観音開きのドアを開けるのと同時に何かを抱いた哉がドアを蹴り破ろうとするかのように脚を振り上げていた。
「やめろ。本気で壊れる」
 ただでさえボロいのだ。
 速人の軽口はそこで途絶えた。白かったはずのカッターの左肩を血まみれにした哉が泣きそうな顔で立っていた。その腕の中、男物のコートに包みこまれているのは人だ。端から茶色いやわらかそうな長い髪が零れ落ちている。
 ただならぬ状態に速人が体をずらして道を空けると哉が土足のまま上がりこんで診察室のベッドにそっと、それを横たえた。
 顔を血で染めているのは、まだ少女だ。状態を知るためにコートとその下のバスローブを解いた速人が息を飲む。
 少しあばらが浮くほど痩せた、細くて白い体。そのあちこちに噛んだ痕や、キスマークと呼ぶにはきつすぎるうっ血した痕。引っかいたような傷。腕には縛られた痕と、哉に掴まれた部分は指の形が赤くはっきり残っている。
 何よりも、内腿にまだ乾かない血が流れて伝っている。
「哉!!! お前……何をしたんだ!?」
 激しい速人の問いに、途切れがちに哉が全てを話す。会社を再建することの条件に樹理を家族から引き離したこと。無理やり犯したこと。その時アルコールをいれたこと。風呂で倒れていたこと。すでに何日か前から風邪気味だったこと。
 最後にすまんと言った哉を、速人は殴り飛ばしていた。謝る相手を間違っている。のしかかってもう何発か殴ろうかと思ったが、なんの抵抗もなくそのまま殴られるつもりらしい哉に、その気が失せる。その後ろで理右湖がせっせと点滴をセットして逆の腕から採血をしている。取った血を検査用のキットにたらしてから奥に行ってありったけの洗浄用液を抱えて帰って来た。
「理右湖さん、膣内洗浄! それから点滴!!」
「もうやってる。速人君、頭のほうお願い」
「……了解」
 待合室に哉を転がしたままで速人が診療室のドアを閉めた。


「哉くーん? 生きてるー?」
 呼びかけられて少しの間眠っていたことに気付いて哉が固い床から身を起こした。傍らに理右湖がしゃがみこんでいる。
「朝よ。そんなナリじゃ帰れないだろうから、風呂と着替え貸してあげるわ」
 起き上がる時ぱりぱりと乾いた音がすると思ったら、カッターがすでに茶色っぽい色に変色して乾いている。
「樹……あの子は?」
 差し出された着替えを受けとって哉が尋ねた。自分の声ではないような、乾いた声で。
「まだ意識は戻らないわ。何かあったら連絡するから、今の住所と電話番号。あとあの子の名前と住所と電話番号も書いて」
 カルテを挟むボードに白い紙とぺン。自宅と携帯電話の番号と住所。更に樹理の名前と住所と電話番号。
「ああ、あと、えーっと樹理ちゃんか、彼女の通ってる学校は? 何日療養しなきゃならないかわかんないから診断書送っておいてあげるわよ」
 尋ねられるままに樹理の通うお嬢様学校の名を告げると理右湖がなんですってと立ちあがった。
「アンタちょっと! 人の後輩になんてことしてくれるのよ!?」
「え? 理右湖さんもあそこ?」
「当たり前でしょう!? アンタの兄貴の元妻とはクラスメイトよ!!」
 言われてああ、と思い出す。妹と元義姉と親友の妻までもがあそこの出身だと聞いてしまうとなんだか希少価値が格段に下がったような気がする。
「アンタ今ろくでもないこと考えたでしょう?」
 理右湖が察し良くそう言って哉を睨んだ。けれどすぐに笑う。
「ほら、早く風呂入っちゃって。ウチのお姫様たちが起きる前に」
 促されるままに哉は診療所から繋がる神崎家へ行って風呂を借りた。
 風呂からあがった哉を見て理右湖が目を点にしていた。なにか? と目で聞くと何も言わずにティッシュを一枚と冷蔵庫にマグネットでくっつけていたバンドエイドをとって流れている血をふき取って哉の左のこめかみに貼りつけた。
「よかったわねぇ切れてて。指輪でもあたったのかしら? そのままだったらうっ血して目が腫れてたわよ」
 そのセリフに哉は自分が怪我をしていたことを知った。
「はい、おしまい」
 ばちんと傷の上から叩かれてやっと痛いと思った。
 少しサイズの大きい速人の服を借りてタクシーで家に帰った。一度も樹理に会わせてもらえなかったが、仕方が無いと思う。出る前に、速人に『彼女が家に帰ると言ったらそのままなにも気にしないで帰っていい』と伝えてくれるように頼んでから。
 冬の日がちょうど昇りかける時間だった。
 樹理以外なにも見ずに出たので、風呂のシャワーはずっと出たままだった。それを止めて脱衣所の隅にあった雑巾を取って、水溜りになった床を拭き、リビングまで続く廊下に落ちた血を拭く。
 電気がついたままのリビングは、今の哉には正視に堪えがたかった。
 転がった酒のビン。普段結ばないところがよれてめちゃくちゃになったネクタイ。床に残った血と体液と酒。
 開いたままの障子の向うに樹理が脱いだ服がそのまま丸まっていた。手に取るとまだ少し濡れている。クリーニングの袋を取り出してたたみなおしてから入れる。管理人に預けておけば出しておいてくれる。
 一通り片付けを終わってぐったりと天井を見ていると不意に電話が鳴った。速人からかと、慌てて起き上がり、机の角に足をぶつけてしまい、片足で跳ぶようにして電話に出る。
「もしもし!?」
「……副社長、お迎えに上がったのですが?」
 電話からは、聞きなれた篠田の声。言われて時計を見るといつもの時間より三分ほど経っている。十分まてと言って電話を切って、身支度を整えるために動き出した。
 家でうだうだとしているよりも、仕事に出たほうが気がまぎれるだろうと思って。






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