幸せのありか 8


 学校へ行って、帰って、家族のために家事をして、食べて、寝て、起きて。
 樹理が帰って来たという知らせを聞いて父親が家に飛んで帰って来た。
 少し痩せたかと聞かれて、あいまいに笑った。
 ただいまと、笑うことができた。
 ただ樹理が帰って来たことを喜んでくれる父に。
 父親は、樹理が帰って来たことでまた新しいやる気を起こしたらしく、バリバリと仕事をしている。
 学校へ行って、帰って、家族のために家事をして、食べて、寝て、起きて。
 春休みが来て、新学期が来て、リボンが濃紺から三年生を示す真紅になった。
 あっという間にあわただしい四月が過ぎて明日から連休が始まろうとしている。
「樹理、冬物をクリーニングに出すから、あなたのも持って降りてきて」
 授業を終えて帰ってきた樹理はそう言われてやっと季節が変わろうとしていることに気づいた。
 部屋に帰って、その片隅に置いたまま開けていないスーツケースを引っ張り出す。
 開けると、ろくにたたまずにつめこんだ衣類が皺になって詰まっていた。一つずつ取り出して、クリーニングに出すものと、自宅で洗濯するものを選り分ける。
 服を全て出したあとに残ったのは、手帳とそれにはさまったメモ。
 手帳よりメモの方が大きいので、取り出そうとしたらメモが滑り落ちた。
 開かれたページは、十一月。最後の日が来るその週のところに、メモは全部はさんでいた。
 その日の欄を指でなぞる。文字を書いて、塗りつぶして、消しゴムで消した跡を。
 ここに書いた言葉。
 『来なければいいのに』
 十二月に入ってすぐ、今年用のスケジュールを買って、真っ先にそのページを開いていた。
 あの時は、本当に無意識で。
 書いた時、何を書いてるんだろうと、自分自身に驚いて慌てて塗りつぶした。そして、消してしまった。
 散らばったメモを一枚ずつ拾い上げる。
 番号なんてなくても古い順に。何度も何度も見たから、全部覚えている。
「あ」
 メモの下にあったのは、五センチ×八センチの、薄いプラスティック。
 あの日、手に持っていた、いつのまにかいつもの癖で一緒にしてしまっていた、カードキー。
 メモの束を置いて、手のひらに乗せる。
 ぱた、とそれに落ちた雫に、また自分が泣いていることに気付く。
 体の傷は、この家に帰ったころにはもう消えてなくなっていた。手首を見ても、そこには何もない。一緒に過ごした四ヶ月ほどの時間さえ、夢か幻だったというように、なにもなかった。
 四月に入ってからは、哉の誕生日だと教えてもらったその日を過ぎてからは。それでも思い出して泣くことは少なくなってきていたのに、涙があとからあとからあふれて落ちる。
 残っていた。樹理があの家にいたという証拠。
 逢いたかった。
 これを返しに来たといえば、逢ってくれるだろうか?
「樹理?」
 不意に声をかけられて、顔を上げて振り向くと、母親が部屋の入口にいた。
 泣いていることを見られて、慌てて袖で涙をぬぐう。
「ごめっ……なさ……ちょっと……」
「樹理」
 名前を呼ばれて、肘をひかれて、樹理が立ちあがった。
「行ってらっしゃい」
「………ママ?」
「あなたが行きたい所に、いってらっしゃいな。パパにはママから言っておいてあげるわ。なんにも心配なんかしないで、行ってきなさい」
 やさしい瞳を見つめて、樹理が笑う。母親も、樹理の顔を覗きこむようにしてにっこりと笑ってくれた。
「行ってきます」
 送り出してくれる力に励まされるように、樹理は家を出た。


 いくら制動がいいとは言え、それでも止まればいくらかの重力がかかる。シートに寝ていれば余計それをよく感じる。最近は家で眠れない分を車の中で寝るようになった。心地よい揺れの中ならば、短くても熟睡することができる。
「……篠田?」
 目を開けてさかさまに映ったのは自宅マンションだ。
 視察先から本社に帰って、仕事をする予定だったのに。
「今日はもうお帰りください。ついでに明日からの連休中は本社ビルのメンテナンスがあるので五月七日まで誰も入ることはできません」
「それなら……」
 なおのこと仕事にキリをつけておかなくてはならないではないか。大体なぜ誰もそのことを言わなかったのだ。
 言い募ろうとした哉を車内において篠田が車から降り、ドアを開けた。
「あなたがいると終いが出来ないんですよ。他のもののことも考えてください」
 樹理がいなくなって以後、哉はそれを埋めるものを求めるかのように仕事をしていた。明日の仕事も明後日の仕事も、手当たり次第に。
 以前は人に任せていたことまで自分でやるようになった。ただひたすら、仕事をしつづけている。
 しぶしぶと言った様子で哉が車から降りた。まだ日が高い。先方で昼食を済ませたので十四時を回ったくらいだろうか。
「では、五月七日にお迎えにあがります」
 篠田にそう言いきられてしまった。今日から一週間以上、何をして過ごせと言うのだ?
 がりがりと頭をかいて、まずは散髪からかと少し笑う。一度切ったが、また前髪が伸びすぎている。
 エントランスのセキュリティを抜けた所で管理人に声をかけられた。
「氷川さん?」
 エレベータのボタンを押そうとしていた哉に、通路側の窓から身を乗り出すようにして老人がちょっと待ってと言ったあと体を引っ込めてドアを開けて出てきた。
「これ、氷川さんとこで合ってたかね?」
 そう言って、管理人が掲げたのは、女物のシャツと、長いスカート。
「聞こう聞こうと思ってても、氷川さんいつも帰り遅いから。玄関にかけといて、人のもんだったらいやだろうし、つい渡せなくてもうだいぶ経っちまったんだが」
「ええ、うちのです。すいません、手数かけて」
 受けとって、哉がそう言うと管理人もほっとしたように、じゃあ費用は管理費を落させてもらってる口座からひいておくと、管理人室に帰っていった。


 服を脇に抱えて、カードキーを通す。
 家に帰るのは苦痛だった。できることなら副社長室に寝袋でも置いてそこで生活したかったが、それだけは止めてくれと回りに説得されて断念した。
 週二回、プロのハウスキーパーを頼んでいるので家の中はおそろしく綺麗だ。
 けれどこの部屋に、帰りたいと思わない。
 ドアを開けると、奥からぱたぱたと軽い足音が近づいて。
 『おかえりなさい』と心地よいソプラノで。
 控えめな笑みを浮かべた少女の幻影が、陽光のせいで明るい玄関に映る。
 抱きしめようと手を伸ばしたら、かき消えてしまう幻。
 靴を脱ぎ捨てて、そのままリビングにある和室の障子を開けた。畳の上に、背広のまま転がって、ポケットから、もう何度見たのか知れない、端が少し柔らかくなった、淡い緑の紙を取りだし、開く。
 しばらくそれを眺めて、またそっとしまった。
 クリーニングから帰って来た服を、すがるように抱きしめて、目を閉じる。
 綺麗に洗われて、月日の経ってしまったそれからは、樹理のあのやさしいにおいはしなかったけれど。
 そうすれば、望む夢が見れるような気がした。


 初めてきた時は、道に迷った。
 そのマンションの大きさに、驚いた。
 決して激しくはないけれど、さらさらと降る春の雨のなか立ち尽くして一点を見上げている制服姿の少女を、道行く人たちが怪訝そうに避けて歩く。
 暗くなってもそこにいる樹理に、見かねたコンビニの店員が、誰かを待っているのなら店に入ったらと言ってくれたが、樹理は首を横に振った。二十七階はとても高くて、店に入ったら見えなくなってしまう。
 ため息をついて帰った店員が、今度は売り物らしい透明なビニールの傘を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。でももう、さしても変わらないですから」
 服の中まで濡れてしまっているのでそう言っても、見ているほうがいやだからと開いた傘を押しつけられた。
 その傘をさして、じっと見上げる。
 暗いその部屋を。
 腕時計を見るために、視線を落す。もうすぐ二十二時だと確認して再び顔を上げると、いつのまにか電気が灯っていた。
 エントランスの幾何学模様になった床に水溜りを作りながら、樹理がインターフォンの前に立つ。
 やっぱり指が震えた。
 そっと押す。
 二、七、〇、一。


 雨の音に目を覚ますと、もうすでに真っ暗になっていた。なんだか久しぶりに、この家でゆっくり眠れた。これからは自室のベッドではなく、ここにふとんを敷いて寝てやろうか。
 腕時計のライトをつけてみると二十二時少し前。この時間になると何をやっていても篠田が副社長室に乗りこんできて、勝手に仕事を片付けてしまうので、哉は家に帰るしかない。
 そう言えば、いつもこの時間には家に帰りつけるように会社を出ていた時期もあったなと思いながら、少し皺になった服をソファにかけ、電気をつける。
 咽の乾きに、キッチンに向かう。まるでインテリアのように、樹理が忘れていったグレーのエプロンがスツールにかかったままだ。ハウスキーパーにも、そのままにしておいてくれるように頼んだ。
 冷蔵庫の中は、以前に逆戻りしてビールしかない。水もないので仕方なくいつ作られたか知れない氷を取って水道の水を汲んだ。
 水のまずさに顔をしかめながら、飲んでいると、来客を告げるインターフォンが響く。
 その音に、また樹理を思い出した。
 彼女が来たのも、こんな時間だった。
 全てが柔らかい思い出に変わろうとしていることになぜか切なさを感じながら、哉はドアフォンの受話器を取った。
「はい、氷川ですが?」
 何気なくみたモニタの中に、制服姿の樹理が立っていた。


 目の前のスピーカから、懐かしい声が聞こえた。用意していた言葉『カードキーを返しにきました』それだけ言えたらよかった。息をすって、言おうとした時、叩きつけるような、受話器を置く音が聞こえて、通話が途切れた。
 何も応答しなくなったスピーカを見つめて、しばらく動けなかった。
 雨に濡れて冷たくなった頬に、それとは別の暖かい流れに、樹理は自分が泣いていることにやっと気づく。どうして、自分では泣こうなんて思っていないのに、涙が溢れてくるのだろう。
 分かっていたのに。
 ここを去ったのは自分の意志だったのに。
 そんな自分を、哉が許すはずはないのに。
 カードキーなど、ポストに入れておけばよかったのだ。ここのポストは、ちゃんと電子ロックされているのだから。
 でも、直に渡したかった。
 哉に逢いたかった。声が聞きたかった。
 ふらふらとポストに向かって、キーをいれようとした時、派手に何かを蹴飛ばすような音が奥から聞こえて、樹理はそちらを見た。
 そこに、もどかしそうにセキュリティを解除して、開きかけた自動ドアを無理やり体で開けている哉がいた。
 長い前髪が、顔に落ちてかかっている。
 これが永遠というのかもしれない。そう思えるくらいとても長い沈黙。
「カードキーを、返しにきました。今日まで気付かなくて。ごめんなさい」
 ずっと握り締めていたカードを差し出す。
「それを、返しに来ただけなのか?」
「……はい」
 小さなカードの、端と端。
 やっぱり、哉の指の爪は綺麗だなと、思った。
 その指は触れることなく。離れて行く。
「わざわざ、すいませんでした」
 ぽたぽたと長い髪から雫を落しながらお辞儀をして、背を向けた樹理の腕を、哉が掴んだ。


 あの日止められなかった小さな背中が、また目の前にあった。そばにいてほしいと思う人間に背中を向けられることがこんなに切なくて苦しいことだったのだとやっとわかった。もう一度こっちを向いてほしい。そう思ったら、体が勝手に動いていた。樹理の腕を掴んでから、哉は自分が何をしたのか気付く。けれど、それを離す気にはなれなかった。
 掴んだ腕は、その布を通してもとても冷たかった。一体いつから彼女は雨にぬれていたのだろう。
「あの……」
「そんなに濡れていたら、帰れないだろう」
「でも」
「……せめて風呂に入って服を乾かしてから帰れ。また風邪をひく」
 樹理から受け取ったカードキーでエントランスを抜けて、エレベータに乗る。無言のまま二十七階に到着し、思いきり開け放たれた玄関に樹理を入れる。
 濡れたまま家にあがってもいいものなのか玄関で躊躇する樹理に哉が懇願するように言った。
「なにもしないから、風呂に入ってこい」
 頷いて水のたまった靴を脱ぎ、なるべく大またで、床を濡らさないように脱衣所に向かう樹理を見送る。
「あの」
「なんだ?」
「床……」
「いいからとっとと入れ!!」
 この期に及んでも自分より床がぬれたことを気にしている樹理を一喝すると、身を縮めて樹理がドアを閉めた。
 怒鳴るつもりなどなかったのに、どうしてこんなに巧く行かないのだろう。


 濡れた制服を脱いで、一度洗面台で絞る。すぐ横の家事室に入ってみると、知らない間に洗濯機が洗って濯いで乾燥もできるのがウリの新製品になっている。
「なんで……?」
 前のものだって、充分新しかった。というより樹理が使った時、新品だった。この家にあった電化製品は全部新製品だったなと、改めてそこにある掃除機を見て思い出す。
 その洗濯機のロゴをみて、やっと気付く。この家にある電化製品はすべて氷川の商品なのだ。
 副社長である哉のところにも、つぎつぎと新製品がやってくるのだろう。
 使い方に一度戸惑ったあと、乾燥のコースを選んでふたを閉めた。


 浴室に入ると、そこに樹理が置いていったシャンプーやコンディショナー。それに引っ掛けていた髪ゴムまでそのままだった。
 何度か掃除をされたらしく、位置が微妙に変わっていたけれど。
 頭と体を洗ってシャワーを浴びていると、脱衣所の外からけたたましいノックが聞こえたので、返事をする。
「着替え、置いておくから」
 そう言って哉が出ていった。着替えと言われても、ピンとこない。
 なんのことだろうと思いながら脱衣所に帰るとクリーニングの袋がかかったままのシャツとスカート。その上にタオルと、小さな紙袋。
「この服…」
 もう捨てられたと思っていた。安物で、家で洗濯できる服なので、まさかクリーニングに出されているとは思わなかった。
 紙袋には、樹理の知らない会社の名前の入った名刺のような紙がホチキスで止まっている。洗濯機の中にありましたので、洗っておきました。とだけかかれているそれを開けて、樹理が固まった。
 ここにいたとき、樹理はいつも夕方に洗濯をしていた。なので、あの日も、洗濯ものが残っていたのだ。洗濯機の中に。業者も男性の一人暮しだと言うことは、分かっていたのだろう。だからわざわざ女物の下着だけこうしてくれたのだ。
 紙袋はずっと閉じられたままだったようで、どこにも開けたような形跡がないのを思わず確認してしまった。
 着替えて、廊下に出ると、樹理が濡らした所はちゃんと拭かれていた。とにかく早く脱衣所に行かなくてはと思っていたので脱いだままにしていた濡れた靴を揃えに行ったらちゃんと揃えられていた。樹理の靴も、哉の靴も。
 立てかけようかと思ったけれど、せっかく揃っているのを動かしたくなくてそのままにしておいて、裸足のままぺたぺたと奥へ行くと、リビングのソファに哉がいた。
「あの、すいませんでした。もう、帰ります」
「服は乾いたのか?」
「……多分、でも乾いてなくても大丈夫です。明日からは休みですし」
 頭を下げて行こうとした樹理に、哉の声が届く。
「待って」
 いつもと微妙にニュアンスの違う言葉。『待て』ではなく『待って』と聞こえた気がした。
 そのことに驚いて樹理が振り返ると、じっと見つめる哉の瞳と視線が合った。
「……なにか、作ってくれないか?」
「え?」
「なんでもいいから。お前も食べて帰れ」
 口調はすぐにもとの哉に戻った。
 まじまじと見つめ返すと、ふんと言わんばかりの態度で目を逸らされた。
「……はい。じゃあ、ちょっと待っててください」
 キッチンに入る。
 綺麗に片付いているけど、ほとんど変わっていない。ここにも、忘れたままだったエプロンがちょこんとスツールにかかっていた。まるで樹理の帰りを待っていてくれたように。
 米はまだ充分あった。どうしようか少し考えて、三合洗ってやっぱり新製品になっている炊飯器のスイッチを入れる。冷蔵庫はビルトインだから、変わっていなかった。中を見るとビールしか見えなくて野菜室を開けたら暗いはずの庫内でたまねぎが育っている。これはネギの部分しか使えない。じゃがいもも、しっかり芽がでていたがこちらはなんとか使えそうだ。
 次に冷凍庫を開けると、ミックスベジタブルがひと袋。冷凍のむきエビ。
 棚の中に、出汁昆布。カビが来ていないのを確認して必要な分をキッチンバサミで切る。
 何もかも、そのままで、懐かしくて、また泣きそうになった。


 できましたと言われてダイニングに行くと本当にちゃんとできていた。何かを買いに行った様子もなかったのに。
 白いご飯と、エビのつみれがはいった澄まし汁、ポテトサラダ。
 広いダイニングテーブルに、二人分。
 ここで食事をするのは、本当に久しぶりだった。
 一通り食べて、箸も置かずに顔を覆った。
 ずっと食べたかったのは、これだった。どんなに有名なところで食べる懐石よりも、こっちの方が絶対うまいと思う。
「あの、やっぱりおいしくなかったですか? 材料、ちょっと古かったし……」
 箸を止めたまま動かない哉に、樹理が不安そうに聞いてきた。前にも同じようなことがあったような気がして、苦笑しながら哉が言った。
「美味いよ」
 今まで生きてきた中で、食べてきた中で、これが一番美味いと思う。
 あの時も、こう言えばよかったのだと今更思う。
 そのまま食べつづける。
 顔も上げずに食べている哉に、樹理が微笑んで、食事を再開した。


「送って行こう」
 玄関まで見送ってもらって、ちょっとどうしようかなと思ったけれど仕方がないので濡れた靴を素足に履いた樹理に、哉がそう言った。
「いえ、もういいです。タクシー、つかまえますから」
 これ以上、やさしくされたら誤解しそうだった。
 最初は声が聞けたらいいと思っていた。
 なのに、逢えなくて泣いていた。
 エントランスで出逢えただけで、よかったと思っていた。
 もっといたいと思ってしまった。
 腕を掴まれて、家に上げてもらった。
 前と同じように、ご飯を作って、一緒に食べて。
 初めて、美味いと言ってくれた。
 もう、これ以上望んではいけないのに。
 送ってもらったりしたら、そのままどこか別の所に連れて行ってくれと頼んでしまいそうだった。
「すいません、ありがとうございました。それと、ご馳走様でした」
 制服はもう乾いていた。それ以外の樹理の私物も紙袋をもらって、それにいれてある。
 振り返る。
 きっともう、最後だ。
 樹理には、もうここに来る口実はない。
 いっそなにか忘れて帰れば、また来ることができるだろうか?
 そう、最後だから。
 言ってもいいだろうか?
 そのやさしさに、甘えてみてもいいだろうか?
 どうせ最後なら、困らせてみてもいいだろうか?
「氷川さん」
 名前を呼んで、哉を見る。
「なんだ?」
 名前を呼ばれて、樹理を見た。
「最後だから、言ってもいいですか?」
 その瞳を見つめながら。
 哉の返事を待たずに。
「私、あなたが…」
「言うな。言わない方がいい」
 命令するようなものの言い方は変わらなかったけど、その声が柔らかいと思った。だから、もう一度ちゃんと言った。
「私、あなたが好きです」
 哉が、片手で顔を覆っている。
「………忘れろ、そんな気持ちはきっと、錯覚だ。何も残らない」
 揺れて足場の危ういつり橋の上で出会ったのと同じで、別の動悸を、恋と錯覚しただけだ。特に樹理は、そうだとしか言えない。彼女が哉に恋をする、その理由が哉にはわからない。彼女に好かれるようなことをした覚えは、一つもなかった。
 ずっとふたをしてきた思い。それは嘘だと目を逸らしてきた気持ち。気づいたときには、通りすぎていた地点。ずっと哉は自分に言い聞かせてきた。その思いは錯覚だと。
 けれど心はずっと樹理を求めていた。
 樹理を取り戻したいと願っていた。毎日毎日、もうこれ以上樹理のいない生活をしたくないと思っていた。
 他には何も要らなかった。樹理が手に入るのなら、地位も名誉も何もいらない。全て捨てろと言われるのなら、全て捨てれば彼女が手に入るのなら、迷わず今の生活なんて捨ててしまえる。
 けれど樹理は? 彼女はどうする? 自分がそれでいいからといって、樹理にまでそれを押しつけるのか? また何か理由をつけて、無理やり?
 そんなことはできなかった。したくなかった。彼女が家で、家族と幸せに暮らしているのなら、それでいいだろうと自分に言い聞かせてきた。
「じゃあ」
 樹理のソプラノが、玄関でくるくると舞った。
「錯覚じゃない恋って、あるんですか?」
 顔を上げて、樹理を見ると、ぼろぼろ泣きながら、けれど微笑んでいた。
 十も年下の少女なのに、全てを達観したようなそんな微笑。
「錯覚しつづけたら、だめですか? 何か残らなくちゃ、いけないですか? 私は、あなただけいたらいい」
 その言葉に、哉が観念したような、そんな笑い方をした。
 心の底から、笑ったのは初めてだと思いながら。
 ゆっくりと、手を伸ばす。
 抱きしめた。自分の意志で。やっぱり、その体は小さくて、柔らかくて、当たり前だがずっと求めていた樹理のやさしいにおいがする。
 初めて、心から望んだものを手に入れられた。心の中に今まであったものが全て取り払われたのに、この充実感はなんだろう?
「そうだな。それならいっそ、死ぬまでそうしていようか。錯覚だって、二人分なら本物だ」
 背中に、樹理の腕がしがみつくように回された。
 頬についた、涙のあとをぬぐう。
 唇にふれる、柔らかい感触は、錯覚でも幻でも夢でもなく。
 ただそこにあるものが、真実だと伝えるように暖かかった。

                                       2002.1.14fin.





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