幸せのありか 7


 続く日常。
 以前と変わったことといえば、用事のない日は夕食を一緒に食べることと、さすがに仕事が押して二十三時を過ぎる時はかかって来るようになった哉の電話。
 お互いにできた傷から目をそらして、溝をはさんだ会話。
 遠くもなく、近くもない距離。日常と言う広範囲なものに包まれた関係。
 その日は、朝からいつもの『日常』と少し違っていた。
 いつも哉が起きてくるまで待っている樹理がいなかった。
 朝食が用意されたテーブルの上に、モスグリーンの手のひらほどの大きさのメモが一枚。
『今週は週番なので、早く出ます』
 いつか見たスケジュール帳にあったのと同じ、丁寧だが丸みを帯びて、女子高校生特有の、同じ日本語という文字なのになぜか甘ったるい雰囲気の漂う樹理の字。
 そう言えば、樹理がメモを残したのは今日が初めてだ。いつも彼女は言葉で伝えようとする。昨日の日曜は一日接待に出ていたので、他人と同じ歩幅で歩くことにさえ疲れてしまっていた哉は、樹理がなにか言っていた気がしても思い出せなかった。そんな哉を見て、彼女はわざわざメモを残したのだろう。
 なぜかそれを捨てることができなくて、二つに折ってスーツのポケットに入れた。
 食事をしていつもの時間にエントランスを抜けると、車がいつも来る篠田のものでないことに気付く。哉を見て慌てて出てきたのは瀬崎だった。
「どうした? 篠田は?」
「おはようございます。篠田室長は今日は所用でお迎えに上がれない旨の連絡があったので自分が」
「そうか」
 開けられたドアに、それだけ答えて乗り込む。
 毎日篠田が迎えに来て、送っていたが、別に彼が行わなくてはならないことでもないのだ。別段気にも留めることはなく哉はシートに身を預けた。


 目地の整った青い畳の上を、L2版の写真を吐き出しながら篠田の膝もとへ、茶色の封筒が滑りこむ。
 広い和室で篠田と向き合うのは、氷川本社社長、氷川越(ひかわえつ)だ。
 深い、人に命令をすることに慣れたその声で、知っていたのかと問われれば、篠田は頭を垂れるしかない。
 知っていたといえば知っていた。けれど、あの少女のことはなにも知らない。哉がなぜか再建グループに残した企業の血縁者だろうとは察していたが、本人からそれを聞いたわけではない。
 どうして残したのかも。
 写真の中に写っているのは、哉と樹理。そしてどこかの興信所を使って調べた物をそっくりコピーしたと思われる、書類の束、アルファベットで綴られた口座名と、数字の並んだ口座番号が書かれた、白い紙。
 なにも言わずにただ頭を下げている篠田を一瞥したのち、越がその封筒の上にカードキーを投げた。
 どうするべきなのかは、分かるだろうとそれだけでなにも言わず、立ちあがる気配に篠田が一層身を低くした。


 樹理が、いつものように、けれど週番の仕事をしていた為いつもより少し遅く二十七階に降り立つと、目の前のドアが開いていた。その横に、一度だけ逢ったことのある男が静かに立っている。
「あの、この間はお世話になりました」
 樹理が頭を下げると篠田が軽く会釈をする。
「えっと、氷川さんに、ご用事ですか?」
 一体どうして彼がそこに居るのかが分からなくて、首をかしげて樹理が問うと、篠田が脇に持っていた封筒を差し出す。
「いいえ、あなたに、です」
 かばんと、買い物をした袋を足元において樹理が両手で封筒を受け取る。開けていいですかと篠田を見ると、どうぞと促された。
 分厚い封筒の中から、紙の束を引出す。
 一番上にあった写真は、覚えている。ほんの二日前、買い忘れたものがあったため遅くなってからマンション前のコンビニに行って、エントランスでたまたま哉と一緒になった。別々に帰るのも変な気がして、同じエレベータで上がってきて、一緒に家に入った時のものだ。
 その次の写真は、それよりまた少し前。学校に行こうとしたものの、カードキーを忘れたことをエレベータの中で思いだして取りに帰って来た樹理と、それを出迎えるような哉。
 またその次の写真は、どうしてもほしいものがあって買い物に出ようとした樹理と帰宅した哉が玄関で鉢合わせたところだ。そのあと樹理は買い物に出かけたが、この写真をみるだけなら、まるで待ちわびた人を出迎えるような、恋人同士のような、そんな構図。
 意図的に切り取られた日常が、意図的に収められた写真。
 さらに、学校に通う樹理の、どこで撮られたのか知れない大量のスナップ写真。一枚として、カメラを向いた写真はない。こんな写真を撮られていたことすら、気付かなかった。
 写真のあとには、コピーされた樹理の資料。
 ざっと見て、樹理は無言のままそれらを封筒に戻し、篠田に返した。
「今朝、氷川の社長宅のポストに投函されていたものです」
 篠田が、静かに言う。
「あなたがこのまま自宅に帰るのなら、副社長が独断で決定したことではありますが、あなたのお父上の会社との取引はこのまま継続してもよいと、社長から承っております」
 短い沈黙。
 俯いたままの樹理が、顔を上げた。
「わかりました。荷物を、まとめてきます。しばらく待って頂けますか?」
 頷いた篠田の横を、樹理はすり抜けて、家に入った。
 買って来た食材をどうするか一瞬考える。作っている時間などないに決まっている。そしてそれらを置いておいたところで、食べられることがないことも分かっている。
 日持ちのしそうなものだけ残して、二、三日の内に賞味期限が切れてしまうようなものはゴミ袋に入れてダストシュートの中に滑らせた。そのあとすぐ和室に行って、学校のものをかばんに詰めた。
 クロゼットを開けて、スーツケースを引っ張り出す。開けて、まず入れたのはメモを挟んだ手帳。その他の服は、どうせ最初から多くなかったし増えていないので、荷造りなどすぐに終わってしまう。あの日の服がない分、スーツケースには少し余裕があるような気がした。
 あっけないほどにあっさりと終わってしまった。
 お金の入った封筒をどうするか少し悩んだあと篠田に渡そうと手に持って、樹理は和室を出た。


 仕事をしている時間より、待たされている時間のほうが多い。絶対気のせいではない。今日何回目に聞いたのか分からない『申し訳ありません今調べております』と言うセリフに飽き飽きしながら、哉は頬杖をついていた。この部屋に来てこんなに退屈なのは初めてだ。改めて篠田の重要さを認識させられる思いだった。今まで一人で突っ走ってきたなどとは言い切るつもりはないが、ほとんど猪突猛進状態で全力疾走をしていた。それも彼のサポートがあったからこそできたのだ。
 余計な時間ができれば、余計なことを考えてしまうのが人間だろう。最初は空いた時間はほぼ無意識のまま樹理のことを考えていた。そしてそれが尽きたら、次は篠田という男を分析してみる。すぐに篠田がどうして来ないのか、嫌な予感と言うより確信に近いものへたどり着く。
「すいませんっ! 今……」
 いきなり顔色を変えて副社長秘書室に現れた哉をみた瀬崎が、飛びあがるほど驚いて振り返った。
「もういい。帰るぞ」
「え? しかし……まだ五時を……」
 回ったばかりですがと問い返した瀬崎に応えず、哉はさっさと秘書室を抜けてしまっている。そのあとを瀬崎が、社用車のカギを握り締めて、走って追った。
 定時で帰ったのはこれが初めてだ。
 出来るだけ急げと命令を受けた瀬崎が、危険な運転を繰り広げた結果は、それでも普段とあまり変わらなかった。
 自分で車を降りて、自宅へ向かう。なにか聞きたそうにしていた瀬崎に、もう帰るように言って。
 エレベータを降り、そこに立つ篠田を見る。ドアは開け放たれていて、いつもちゃんとそろえられている樹理の靴が、脱いだままそこにあった。
 踵をふんで靴を脱ぎ、室内に入る。リビングにたどり着いた時、ちょうど制服姿の樹理が和室から出てくるところだった。スーツケースの上に他の荷物をのせて。
 目があって。
 樹理の瞳が見開かれた。
 先に目を逸らしたのは、樹理だった。
「荷物を置け」
 樹理が首を横に振る。
「帰るのか?」
 今度は、縦に。
「父親の会社は?」
 その質問には、曖昧に首を振って、やっと樹理が顔を上げた。
「それは……」
 言いよどんで、また目を逸らされた。
「玄関に居た方に、聞きました。社長さんも父の会社との取引続行は、約束してくれるって……それからこれ、お返しします」
 そう言って樹理が差し出したのは、水色の封筒。氷川系列の銀行のロゴが入ったそれは、少しくたびれていたものの、厚さはほとんど変っていないように見えた。
「やるよ」
「いりません」
「持って帰ればいい。そのくらい働いただろう」
「いりません! 私は、こんなもののためにここにいたわけじゃない!!」
 差し出したままの手が振り上げられた。哉に向かって投げるように。拍子にコインがまず遠心力にしたがって出て、その次は紙幣が。帯封がかかったままの分はそのまま床に落ちたが、バラされていた分の紙幣が、二人の間に散らばった。
 ならば、なぜここにいたのかと、問いかけて哉が唇をかんだ。
 何度も何度も考えた。
 何度も何度も同じ答えが出た。
 樹理は、父親の会社のためにここにいるのだと。
「もう、帰ります。たくさん、ご迷惑おかけして、ごめんなさい。さようなら」
 瞳を合わそうとはせずに、ぎりぎりの微笑みで言うと樹理は哉を迂回するように、リビングを大回りして玄関へ向かってしまった。それに合わせて哉が首をめぐらせた。小さな背中がさらに遠くなるのを止めようと腕を動かしかけたのに、思ったように動けなかった。ただ、ぎゅっと手を握り締めただけで。爪が食いこむほどに。
 父親の会社さえよければどうでもいいのかと怒鳴りたかった。
 自分のいうことは信じられなくても逢ったこともない、人づての社長の言葉なら……社長と言うだけで信用できるというのか。哉に言わせれば、あの男が世界で一番信用できない人間なのに。
 哉は聞くことが出来ない。樹理は、答えることが出来ない。
 ぱたん。
 そんなささやかな音だけを残して。
 幻のような日常は、幕を下ろした。


「樹理!!」
 あの時の、哉が迎えに来てくれた時と同じ車で、樹理は自宅まで送られた。今度は躊躇することなく自分でドアを開ける。それでも荷物を下ろすために篠田もトランクを開けてから車を降りた。
 庭に居たらしい母親がエプロンで手を拭きながら走って出てくるのが見える。
「それでは」
「ありがとうございました」
 母親が来る前に、篠田は車に乗ってしまった。外で聞いても、車のエンジンの音はとても静かですべるように発進するとあっという間に見えなくなった。
「どうしたの!? もういいの?」
 家の前で立ったままの樹理の前に回って母親が嬉しそうにそう聞いてきた。
「うん。もういいって。パパの会社のことも気にしなくていいからって」
 母親の顔を見た瞬間、涙があふれた。
 やっと帰ってくることが出来たという思いではなく、引き離されたことがとても悲しかった。荷物を置くように言ってくれたことに心がなにかに握りつぶされるような、悲鳴を上げた。帰るなと言ってくれたなら、うなずいてしまっていたかもしれない。そのくらい、嬉しかった。でも、樹理は帰ることを選択した。もうこれ以上、迷惑を掛けるわけにはいかない。
 あんなに仕事が好きな人なのに、自分ごときのために、その未来が閉じられるのは嫌だった。
 そんな事をさせる自分が許せなくなるだろう。
 でも言いたかった。
 ここに居たい。
 そう言いたかった。
 哉のもとへ行くことを決めたのは樹理自身だった。
 家に帰ることを選んだのも樹理自身だ。
 相手の迷惑を考えない行動が、恋だからと許されないことをわきまえてしまう自分が嫌だった。なにも考えず、何にもとらわれずに全てをぶつけたかった。けれどそうすることで全てが壊れるのが怖かった。哉のためだと思いながら、彼のためだとごまかしながら自分にかかる責任から逃れてしまった。
 その後悔に、ただ静かに泣きつづける娘の肩を母親が抱きしめた。


 帰りに事故渋滞に巻き込まれた篠田がマンションに着いたころには、日が長くなってきたとは言えすでに電気無しでは薄闇に包まれてしまう時間だった。開いたままの玄関を形ばかりノックして初めて篠田は哉の家に足を踏み入れた。哉の脱ぎ散らかした靴は、きちんとかかとが直されて、揃えられていた。樹理が最後にここを出るときに、苦笑して、とてもいとおしそうにそれを手にとっている姿が焼きついて離れない。
 スペースが無駄にならない限界を計算されて設計されたその部屋を、より広く見せているのは天井の高さだろう。
 手探りで灯りのスイッチを探し、リビングの電気をつけると背広を着たままの哉がそのままソファに仰向けに転がっていた。
 黙ったまま、篠田が封筒を差し出すとゆっくり起きあがった哉が受けとってさかさまにし、全てをすでに紙幣の散らばった床に中身を撒いた。
 裏になり表になり、写真が紙幣に重なる。調査書と、一言の脅迫内容もなくただ二行、口座名義と番号、銀行名の記号があるだけの紙が最後に宙を舞って音もなく着地した。
 それを手に取り、哉が笑ったような気がした。
「実家へ行くぞ。車を出せ」
「はい」
 いつも見ていた、背筋が伸びた背中に篠田が返事をした。


 哉が自宅に来たことを聞いた母親が真っ先に出てきた。そのすぐあとに珍しいものでも見に来たという風で妹の琉伊(るい)が出てきたが、何も言わずに顔だけ見てどこかに行ってしまった。
 言いたいことをきちんとまとめてから言葉にしないで、思いついたことを喋りつづけるため同じことを何度も繰り返す母親から父親の居場所を聞き出す。
 濡れ縁で続いた離れの和室へ、足音も消さずに、むしろその音で気付けと言わんばかりにしながら哉が向かう。立ったまま、声も掛けずにすぱんという小気味いい音を立たせて障子戸をすべらせ、中に入る。それを閉めるのは、当然ついてきている篠田の仕事だ。脇に手あぶりを置いて、床の間の前に座り文机でなにかの礼状を書いていたらしい父親の、氷川越の手元にぞんざいに折りたたんだ紙を投げる。
 それに視線を走らせてから、顔を上げた父親に、哉が口を開いた。
「ドイツ語のスペルが間違ってますよ。そんな名前の銀行は、ない」
 再び紙を見た父親が口の端を上げた。確かに、間違っていた。社外の敵を匂わせるつもりだったのだろうが、ことを急いだ父親側の焦りが見える。
「あの娘はなんだ? お前は女子高校生を囲っていたのか?」
 話題をそらされたことは分かっていた。
「それがあの会社を残した理由か?」
「そうだとしたら?」
 さらに問い重ねられ、逆に聞き返す。
「分かっているだろう」
 しばらくの無言。
 冷たい沈黙。性質の悪いにらみ合い。
「お前も公(こう)のように私を失望させるのか?」
 それを破ったのは父親だった。そのセリフを哉が鼻で笑う。
「…何も望んでなどいないでしょう?」
 実家の玄関をくぐったのは、十五年ぶりだった。中学は通えたにもかかわらず哉は寮に入ることを望み、休みは一度も家に帰らなかった。六年間自宅に帰らなかったのは自分くらいだっただろう。
 大学生になり、一人暮しを始めた。
 社会人になり、彼は神戸で暮らしていた。
 十五年、ほとんど顔も合わせなかったのに、この時初めてやはり親子なのかもしれないと感じた。
 望まなければ、失うことはない。
 無関心であれば、心を痛めることはない。
 そうやって最初から、失うときの痛みを和らげないと生きていけないところは、そっくりだった。
 おそらく本当に、目の前の男は、少なからず兄に何かを期待していた。そして、失望していた。勝手に望んで、思い通りにならなかったら勝手に裏切られたと思う。それは相手のことを考えているわけではなく、全て自分の都合だ。人に命令をすることに慣れた、世界を自分中心に回す人間特有の、傲慢に似た感情。けれど、自分の都合通りに物事が運ぶことのほうが世の中、稀(まれ)なのだ。裏切られつづけたという思いから、自分を守るためには、無関心になることが一番手っ取り早い。
 心を動かさなければ、傷つけられることはない。
 全てを望むからこそ、すべてに無関心でいなくてはならない。
 今までずっと、その背中を追ってきたことに、哉は初めて気付いた。
 その背中を追っているうちは、追い越せないことも。
「構いませんよ。少し前から家に帰そうと思っていたんです。ちょうど良かったくらいだ」
 それは本心だ。
 あのことがあってからずっと、樹理を家に帰さなくてはと思っていた。
 けれど一度手に入れた居心地のいい場所を手放すことが出来なかった。
「俺も、あなたに望むものはなにもない。だけど一つだけ」
 息を吸う。
 意識して呼吸しないと、体内の酸素がとても不足しているような、そんな気がして。
「彼女の父親の会社はすでに軌道に乗り出しています。手出しをしたら、俺は全力であなたに刃向かう」
 これは、宣戦布告だ。
 先に手を出したのは父親だ。ならば、応戦の用意があることだけは明確に伝えておかなくてはならない。
 それだけ言うと哉は踵(きびす)を返した。
 篠田の開けた戸を当たり前のように出ていこうとした哉に越が声をかけた。
「どうして私がこの件に気付いたのか、聞かないのか?」
 哉が足を止めて、振りかえる。
「少なくとも俺は、自分の部下を信用していますよ」
 密告者は自分の足元にいるかもしれないといわれても哉は全く動じなかった。
 それが篠田ならば、もっと早くに知られていたはずだ。
 原因はおそらく、会社にかかってきた速人の電話だろう。写真はあの時以後のものばかりだった。
 哉にかかる電話全てを記録するのは無理だが、私用のものだけチェックすればいい。その後時々自宅にいる樹理に会社から電話を掛けていた。その事実だけで充分だっただろう。
 そして篠田が一度だけ越に礼をして、哉に続いて出ていった。それは、篠田が哉に付いたことを意味している。
 充分に間を置いて、誰もいなくなった和室に低い笑い声が響く。
 笑いながら越が、目の前に置かれたままの紙切れをすぐ横の炉にくべた。


「ここは、俺の家ではないですから」
 一人で住むのがいやならばいつでも家に帰って来てと言う母親に、それだけ告げて哉は家を出た。
 篠田の運転する車の後部シートに寝転がる。
 哉がそんな事をするのはこれで二度目だ。
「…連れ戻しに行きますか?」
 車を出した篠田にそう聞かれて哉が頭を上げる。ルームミラーごしに見た篠田の顔がひどくまじめなままだったので哉のほうが苦笑した。そしてまた柔らかい皮ばりのシートに沈みこむ。
「いや。やめておく。どうせ、また泣かせるだけだ」
 両手を顔の上でクロスさせて哉がつぶやくように言った。
 こんな日がいつか来るはずだった。
 本当ならもっと早く来るはずだった。
 自分でピリオドを打つことが出来なかっただけで。
 これで良かったのだと、自分に言い聞かせて。
 そのまま黙って動かなくなった哉をそのまままっすぐ家に帰すことができなくて篠田は少し遠回りをした。
 マンションに着いた時、明かりの灯った部屋を見て哉がいつも、ほっとしたような顔をしていたことを篠田は知っていた。そしてそのあと決まって、その部屋で待つ人がまだ寝ていないことに腹を立てたように怒ったような顔になることも。
 はっきりと、樹理がいつからあの部屋に居たのかは覚えていない。
 けれどいつからか、哉がとても楽そうに息をしていることに気付いた。
 時々大きく、深呼吸をしないと息も吸えないほど自分を追い詰めて仕事をしていた哉が。
 彼がこの激務の中で倒れることがなかったのも、樹理がいたおかげだろう。でなければ、とっくにどこか内臓を壊している。
 篠田は哉のために、樹理を連れ戻したいと思っていた。
「……人はもろいな。篠田」
 どう応えればいいのか分からず返事をしない篠田に、哉が続ける。
「拒絶されたら、俺は俺でいられなくなる。過ぎた望みは、人を壊す」
 だからこれでいいのだと。
 元に戻っただけなのだと。
 最初から、何かを間違えていたのだ。
 初めて樹理を見たときの既視感。どこかで逢ったわけではないのに、見覚えがあるように感じた錯覚。
 多分その時から、一目見たときから、哉は樹理を手に入れたいと思っていたのだ。けれどそんな気持ちは今まで一度も経験したことがなくて、もう既にその時点で、どんな人物なのかも何も知らない少女に恋をしていたことに、哉は気付けなかった。色々と理由をつけて、そばにおいて、無意識で大切だと思っていたから、手も出なかった。一緒にいて、樹理を知るたびに哉の心はどんどん勝手にその恋を進めていた。目隠しをされたまま、恋心は膨らんでいたのだ。ずっと溜めていたフラストレーションは、箍(たが)が外れた時、最悪の形で現れた。速人に忠告された時は、もう遅かったのかもしれない。あるいは、最初からそのつもりだったのなら、無くすことはなかったのだろうか?
 表面だけの人付き合いで終わらずに、今までの人生の中で知り合った人たちともっと深くかかわることをしていたら、だれか、こんな下らなくて、けれど当人にしたら本当に大事なことを相談できる人間がそばにいたのなら、客観的なアドバイスを受けることができていたなら……結末は変わってただろうか?
 例えば、今、本気で樹理を連れ戻そうかと言ってくれた篠田に。彼は気付いていたのだろう。哉の変化に。
 無くせばもう、二度と手に入らない。どんなに後悔しても遅い。
「もういい。まっすぐ家に向かってくれ。明日はお前が迎えに来い」
「分かりました」
 篠田が回り道をしてしていることは、景色を見なくても分かった。以前ならそんな気遣いにイライラしただろう。けれど、今は違う。全てが許せる気がした。
 ウインカーを左に出して、篠田はルートを変更した。






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