恋におちたら 7


 学校を出てタクシーを拾う為、大通りまで少し歩いている間、ほぼずっと哉が手をつないだままだった。ちらりとすぐそばを歩く母を見ると、仕方ないわねという表情でなんだか笑っていた。そしてタクシーに乗ってからも、その状況は変わらなかった。別のタクシーで帰るという母に、哉が渡したいものがあるので家に寄ってくれと頼んだので、母は助手席に座っている。
 マンション前にタクシーを待たせて母と一緒に入ったリビングのテーブルの上に黒地に金で虎が印刷された紙袋が乗ったままだった。中の箱にはやたらと重いようかんが三本入っている。
「こんな高いもの、いただいていいの?」
「もらい物ですよ、どうぞ。僕はあまり好きではないので。樹理が食べたいなら一本置いてもらえばいい」
「そうね、うちも三本は多いわ。一本置いとく?」
「うん。リナちゃんたちと食べるよ。学校に持っていこうかな」
「……こんな重いのを?」
 本当に、見た目を裏切る重さを揶揄して樹理の父は延棒ようかんとか言っているくらいだ。
「このくらい大丈夫。だって私、この一週間教科書とか辞書まで全部持ち歩いてたから。もうそれもしなくていいみたいだし」
 包装を解いて一本を冷蔵庫に、残りの二本を再び紙袋に入れる。
「あ、見送りついでに買い物済ませてもいい? ゴメンお母さん、ちょっと待ってて着替えてくる」
 鞄を持って樹理が和室に消える。
「……他に空いている部屋もあるんですけどね」
 そう言われて無意識に哉を見ていたことに気づく。非難がましくなかったかとひやりとしながら取り繕うように咳払いを一つ。
「……まあ、明らかにあなたの部屋とわかる場所に着替えに入られるよりはマシかしらね……」
 こんなリビングの隅っこの和室にいついてないで、空いている部屋があるのならもらっておけと心の中で娘の欲のなさを嘆きながら、思わず思っていることをそのまま言葉にしてしまった。
 わざとらしく咳払いを一つした後、ため息混じりに樹理の母がつぶやいた。
「これからもいろいろ、煩わしいことがあるのかしらね」
「……あるでしょうね。いろいろと」
「否定しないの?」
「困難は乗り越えればいいだけですよ」
 こともなげに言い切る哉を、樹理の母が片眉だけ器用に上げながら見る。
「……そうね。一人じゃ無理でも二人なら何とかなるかもしれないし、二人で無理なら私たちもいるわ。あまり頼りにはならないかもしれないけれど」
「おまたせー」
 哉が何か応えようとしたとき、樹理が出てくる。
「じゃあ、ちょっと出てきます」
「ああ」
「今日はどうもありがとうございました。遠慮なくいただいて帰るわ。それでは」
 玄関で母が哉に挨拶をして、二人でエレベータに乗る。
「パパが好きなヤツだよね、これ」
 一階のボタンを押して下り始めた箱の中で樹理が紙袋を指差す。
「どこからもらったか大体わかるけれど……返さなくていいのかしらね?」
「……返されても困るんじゃない?」
 別に誰がいるわけでもないのに、なんとなく母娘でひそひそと会話を交わす。
「……ちょっと忘れかけてたけど……氷川さんってやっぱり怖い人ねぇ 要らないものには容赦がないというか」
 しみじみとつぶやいた母に、樹理は誤魔化すように笑った。
 帰りのタクシーの中で哉はどこかに電話を掛けてから、まるでなにがどうなって呉緒の転校という話になったのか皆目わからない二人に、今回のカラクリを教えてくれた。
 確かにいじめられるのはつらかったが、喉もと過ぎればなんとやらで、何もそこまでとそれこそ喉から出そうだった。飲み込んだけれど。
 ポーンと軽い電子音が目的階に到着したことを告げる。エントランスを抜けて、ウインカーを瞬かせて待つタクシーに乗った母を見送った。
 買い物を終えて部屋に帰ると、リビングのソファの上でもう見慣れてしまったシャチを枕に寝転ぶ体勢で哉が本を読んでいた。
「氷川さん、そんな格好で本を読んだら目が悪くなるからダメです」
 とりあえずいつもどおり注意して、冷蔵庫から食材を出し入れし、夕食の支度を始めた。


 調理を終えてダイニングを整え、リビングを見ると明かりもつけないで同じような体勢で哉が転がって本を読んでいる。
「もうすぐご飯です。起きてください」
 声をかけても動かない。物語が佳境に入っていたり、キリの良い場面ではないときはこんな感じだ。つまり、大体いつも一度で体を起こすことはない。
「せめて暗くなる前に電気つけないとダメですってば」
 すでに室内は薄暗くなってくる時間だが、哉はお構いなしで本を読んでいる。
 樹理が家にいる間ほとんど一緒にいるわけで、そのつもりがなくてもなんと言うか、行動を観察できてしまう。家にいる哉を一言で表せばモノグサだ。本当にほとんど動かない。そしてしゃべらない。
 外でだったり、樹理以外の人にだったりすると、それなりに会話をしているのに、家では……言わなくてもわかるならいいと思っているのか、ミもフタもなく表現するならサボっている……というのがぴったりな態度だ。
「そんな風にしてたらシャチも曲がっててかわいそうです」
 頭の重みとソファの柔らかさが手伝って、シャチの胴が沈んで、キュッキュと頭と尻尾が上に向かって反りあがっている。
 明かりをつけて哉を見ているとソファの背の向こうから手が伸び上がって、おいでおいでをするようにヒラヒラ動いている。
「なんですか?」
 なんだろうと近くへ行くと、起き上がって先ほど自分の頭があったあたりをぽんぽんと叩いている。
「ここに?」
 座れということなのだろうと理解して、促されるままソファの端に座ると、あっという間に頭がひざに乗っていた。読んでいた本は斜めになったしおりを挟んで床に置かれている。樹理はなんだか脱力して笑ってしまう。
「……同じだと思うんですけど?」
 見下ろすと、目を閉じてタヌキ寝入りの状態だ。動く気がなさそうな哉に、樹理が笑ったまま息をつく。そのまましばらくじっとしていて、なんだか手持ち無沙汰なのでとりあえずひざから少しこぼれている髪をなでてみる。
「あの、氷川さん……」
 柔らかい髪をなでながら、名前を呼んでみたものの、このあとをどう切り出そうかほんの少し悩んで、結局思っていた通り聞いてみる。
「……ホントにもう、仕事、辞めちゃうんですか?」
 室内は、とても静かだ。アナログの時計がないので、秒針が動く規則正しい音さえない。
「私、今の感じもいいと思ってます。帰ったら氷川さんがいて、普通の家庭が晩御飯を食べてるくらいの時間にご飯を食べて、ゆっくり一緒にいられる時間が長いのって、とても幸せなことだと思うんです」
 聞こえているのかいないのか、ひざの上で目を閉じたまま、哉は身じろきすらしない。
「前、一緒にいたときは、氷川さん働き過ぎって言うか、ホントに急がしそうで、こんなにたくさん仕事しなくちゃいけないの、大変そうだなって。休みの日もお付き合いとかあって自分の時間なんかないみたいだったし、疲れがたまるばっかりだろうし、もうちょっとゆっくり休んでもいいんじゃないかなって、思ってたから、こうやって好きな本を読みたいだけ読んでるのも、必要なことだと思います。けど……」
 そっと指を髪に絡めて梳く。
「氷川さん、ホントは仕事好きなんじゃないですか? だから家まで来る職場の人だって追い返さないでちゃんと持ってこられた仕事に指示とか出して、用事を済ませてあげてるんじゃないですか? 
 私っ あの、余計なお世話かもしれないんですけど、だけど。仕事をしてる氷川さんのことも好きです。前に、自分のことを決めるのは自分だって氷川さんは言ってたけど、辞める気になったきっかけが私なら、もう一回やる気になるきっかけも私じゃだめですか?」
 哉が目を開けて、少しだけ困ったような顔をしながら起き上がる。
「……瀬崎か」
「ハイッ! いや、え、あの、確かにあの人にも言われたんですけど、ずっと思ってたんです。なんて言うか、それはきっかけにはなったんですけど、言おうと思ったのは、やっぱり、自分の思ってたことだからで、えっと……その、つまりー 今日チラッと見てやっぱり仕事してる氷川さんはかっこいいなぁとか、いろいろ思ったのです。ハイ」
 ポツリとつぶやいた哉に、樹理が身を乗り出して勢い良く応えた後、耳まで赤くして弁解しようとしてしどろもどろになってた樹理を見て、哉が少しだけ笑った。
「わっ 笑いましたね!? 確かにもう自分でも何がなんだかわかんないんですけどっ でもっ だから、うん、私、がんばっておいしいご飯とか作りますよ? あれ?」
 言っているうちにどんどん主線から離れていっているのを自分でも気づいたようで、言いたいことはそうじゃないのにと顔に出ている。
「……考えてみよう。とりあえず飯を食おうか」
 床に置いた本を取って哉が立ち上がった。


 白いご飯と味噌汁。サバの煮付けにごぼうサラダ、たまねぎとサトイモの炊き合わせの上にはさやえんどう。
 いただきますと箸を運び始めてすぐ、インターフォンが来客を告げる。今日はやけに客が多いなと哉が受話器を上げて、モニタの中の老人の姿を見て二秒くらい固まった。
「上がっても良いかのう。イヤだと言われてもほれ、これがあるぞ? 返してほしくないか?」
 にこにこと上機嫌な様子でカードキーをヒラヒラさせている小柄な老人に、頷いてエントランスの鍵を開ける。
「え? お客様ですか? わ、どうしよう、ちょっと片付けましょうか?」
 樹理に言われて考える。そのままでもいいが、簡単に追い返せる相手ではない。何せ自分より六十年近く多く生きている人物だ。一筋縄どころか、縄が五・六本あってもどうこうできるとは思えない。だが、そんなに長居していただくつもりもない。
「いや、そのままで。長くなりそうなら片付けて」
 やがて玄関のチャイムが鳴り、呵々(かか)と笑いながら老人が家に上がってきた。
「ハコモノだがなかなかどうして、良い住まいだの。おお、いいにおいがする。晩飯の最中だったか。良いサバだのう、うまそうだのう」
 案内されていないダイニングに勝手に入り込んで舌なめずりをせんばかりの表情でテーブルに並んだ皿を見ている。
「そう言えばワシもなにやら腹が減ってきたのう……」
 ここまで言われたら、追い返すわけにも行かなくなる。
「……あの、良ければ召し上がりますか?」
「ありがたいのぅ いや、悪いな。催促したみたいだの」
 みたいじゃなくてしているのだ。その自覚があってなお、飄々とそんなことをいえる口なら何でも食べるだろう。
「ほれ、哉。せっかくの料理が冷めてしまうではないか。頂こうぞ、座れ」
 テーブルにもう一人分の食事が並べられると、さっさと椅子について立ったままの哉を促している。もともと食事を中断させられたのは老人の襲来が原因なのに、これではどちらが家主なのかわからない。
 しぶしぶ哉が椅子につくと同時に、老人が合掌して猛烈な勢いで食べ始める。
「あの、もう少しゆっくり食べないと、体に悪いんじゃないですか?」
「なに。慣れじゃ。気にするな。しかしうまいのう。ウチの小夜子さんは美人なんだが料理はからきしでなぁ 料理長から厨房出入り禁止になってのう。このサバのお代わりはあるのか?」
「……あ、あります」
 樹理の返事に満足そうに頷いて、老人が食べ進める。
「小夜子さんってどなたですか?」
「この人の連れ合いだ。五人目かな」
 美味い美味いと言いながら箸を進める老人の横でひそひそと聞いた樹理に哉が応える。そう、確か五人目。それまでの四人いずれの妻とも死別していて、送る度にもう嫁などもらわないと言うのだが、半年もしないうちに新しい妻を娶ってしまうのだ。小夜子はまだ五十台なので、さすがに多分、もう次はないだろう。
 あっけに取られていた時間もあったが、樹理と哉がいつもどおり食事を終える頃には老人は軽く二.五人分くらい平らげていた。
「ああ食った食った。腹いっぱいじゃ。家庭料理というのは良いのう、お代わりもし放題。うちの料理長は腕はいいのだが融通が利かんでいかんわ。あああれはカロリーが高いの、プリンがどうのとか、これは高脂肪だの、食べすぎはよくないだの。食べることこそ楽しみとしておるのにそんなことばかりでは生きておってもつまらんわ」
 食後に熱い茶をすすりながら老人が満足そうにぼやき、食後のデザートに出てきたようかんをほぼ二口で食べつくす。
 樹理は片付けにキッチンに行ってしまったので、老人のぼやきを聞くのは哉だ。
「それはあなたに長生きしてほしいからでしょう。それも健康に」
「わかっておるわ。わかっておってもなお抗いたいものくらいワシの歳になってもたくさんあるのだ」
 湯飲みを置いて口をへの字に曲げている。ご機嫌斜めのフリをしているだけだが、そう言う表情だと偏屈そうに見える。
「ところで哉、休みは有意義だったかの?」
「ええ、まあ先ほどまで」
「ふん、お前のことだからどっこにも行かんと家でゴロゴロ本ばかり読んでおったのだろう? ワシは今週頭から今日まで温泉旅行だったのじゃ! ええ湯だったぞ。お肌もつやつやだろうが」
 肌つや血色がいいのはいつものことのような気がしたが逆らってもいいことはないのでええそうですねと頷いておく。
「そうとも! 余暇があって仕事に打ち込めるというものぞ。忙しすぎるのはいかんがあんまりダレておったら脳みそも体も溶けてなくなってしまうわ。それでこれだがのう」
 老人が大会社の顧問とは思えないようなよれよれの背広の内ポケットから少ししわの入った白い封筒を取り出す。
「どうぞ、大おじい様のお好きなようにしてください。氷川に就職するときにも言いましたが、僕は今のまま前時代的に代表職を世襲することに疑問を感じています。今はまだグループ企業としての体制もうまく保てていますがはっきり言ってこんなことではいつか破綻すると思っています。僕と同じくらい仕事ができる人間などいくらでもいるじゃないですか」
「フン。別にの、世襲せねばならん理由などないわ。現にお前の兄は一族から捨てられただろうが。血縁だからと無能なものを上にすえるほどワシとて甘くないわ。現状に不満があるからこそ自分で変えようとは思わんのか、お前は。せっかくのチャンスを棒に振るのか? 僕には関係ありませんとでも言えると思っておるのか。お前はの、もう担ぎ上げられてしもうた人間じゃ。歯車は取替えが効くが軸はおいそれと変えることはできん。己(おのれ)があるのは己一人の所業と思わんことだ。
 ワシの好きにしてよいならこれは返してやらんことにしたわ。ワシが死ぬまで預かっておいてやるからの、もう同じもん出してもこっちが本物じゃ。偽物は無効じゃからそのつもりでな。書斎机の一番上の引き出しにしまっといてやるから葬式のとき取りに来るがええぞ」
 ニヤリと笑ってそれをまた懐にしまう。
「なぁに、月曜に何食わん顔で出りゃあええ。篠田が迎えに来るからの」
「篠田をご存知で?」
「ご存知も何も、篠田は小夜子さんの義理の弟だろうが。篠田もよう働くからの、連休もあってなかったらしくてな、まとまって休めるから夫婦で温泉に行こうと誘ってくれたのはあっちだぞえ?」
 だろうがと言われてもそんなことは聞いていない。と言うか、篠田が妻帯者であることすら知らなかったのだ。いかな義理の姉夫婦とはいえ、こんな妖怪が入った老人と温泉旅行を楽しもうという篠田の気が知れない。
「おうおう、忘れるところだったわ。篠田からお前にぷれぜんとを預かっとったのだ」
 そう言ってごそごそと手当たりしだいポケットをまさぐる。最後に胸ポケットに手を突っ込んで、今度は薄紅の、やっぱり端が撚れた封筒を取り出す。
「お前がどっこも行ってない事なんぞ篠田もお見通しだわ。そんで月曜からはしばらく休みなんぞないこともわかっておるのだな。ワシらが行っとった宿の宿泊券じゃ。明日の限定だからの、使え」
 封筒をテーブルに置いて、よっこいしょと老人が立ち上がる。
「さて、使いも終わったし帰るかの。お嬢さんや」
 片付けはもうとうの昔に終わっていたが、なんとなく出辛くてキッチンでシンクを磨いていた樹理に老人が声をかける。
「はい?」
「見送りはやっぱり女の子がええからのう、ちょっと借りて行くぞ、哉」
 手を洗ってエプロンで拭きながら出てきた樹理の手をとって、有無を言わせずすたすたと、老人は雪駄を履いて玄関を出た。


 一階に止まっていたエレベータを呼ぶ。
「ワシものう、小夜子さんとのことは親戚一同大反対だったんじゃ。息子より若い嫁じゃて歳も離れておったし、小夜子さんの仕事ものう、小さいバーの雇われママでなそんな女にたぶらかされてと散々じゃったよ」
 ポーンと電子音が鳴り、ドアが開く。独り言のようにつぶやく老人に、黙って樹理がついていく。
「なによりの、小夜子さん本人がもう頑として頷いてくれなんでな。結局老い先短いジジイの最後の願いじゃと頼んで頼んで拝み倒して」
 そこで言葉を切り、思い出し笑いのような笑みを浮かべて続ける。
「それでもうんと言ってもらえんで。仕方ないのでな、死にかけの芝居をして後生だとだまし討ちで婚姻届にサインと判を押させたんじゃ」
「………怒られたんじゃないですか? 小夜子さんに……」
 だまし討ちにもほどがある。しかも、あまり疑えないだまし討ちだ。
「おおともよ。それはもうご立腹だったがの、今までどおり店も続けてよいし、時々ワシの面倒を見てくれたらいいってことでな、引き受けてくれたんじゃよ。こうやって突然でも店を閉めて温泉に行ってくれたりもするしのう。やっぱりワシの女を見る目はまだまだ曇っておらんと思ったのう」
 見る目は曇っていなくても、行動はかなり怪しい。
「ワシはの、美味い酒や美味い飯を作ってくれる女にハズレはないと思っとる。お嬢さんは要らん災厄を被るかもしれんが、あれとおってやってもらえんかな。ワシものう、十二でなんとか外に出してやれたんだが、もうちいと早ぅあれを何とかしてやれたらよかったと今でもちぃっとだけだが、悔いておるのよ。明日も知れんジジイの心残りを何とかしてやってくれんか? いやだと言われたらまた死んだフリせねばならんのだがの」
 断られるなんて微塵も思っていないのだろう。にこにこと冗談まで言って、一階に止まったエレベータから降りる。
「ここまででええよ。あれに言っといてくれ。コレはニセもんじゃ。鍵は早ぅ変えたほうがええぞとな」
 そう言って何もプリントされていないカードを樹理に渡し、エントランスの自動ドアを抜けていく。
「あの、ありがとうございました。今度来るときはご連絡いただけたらうれしいです。あと、食べたいものも教えてくださいね」
 自動ドアが閉まる前に、樹理が慌てて言う。老人はその言葉に振り返って、やっぱりにこにこと上機嫌に笑い、背を向けて歩いていった。


「面白いおじい様でしたね」
 部屋に帰ってきた樹理が笑いながらそう言うのを聞いて、哉はソファにつぶれながら頷きかけて止める。
「あと、いい人でしたよ」
 エプロンをはずして、二人分のお茶を持って樹理がリビングにやってくる。
「半分くらいはな」
 氷川家の口八丁手八丁のお手本のような人物だ。樹理が笑っているのできっとなにかの美談でも作り上げて語ってみせたのだろう。ある程度つじつまをあいまいにして即席で嘘をつくというのは特技でもなんでもない。ほぼ日常があの調子だ。あの老人にかかれば、樹理くらいなら赤子の手をひねるよりも簡単に丸め込まれてしまうだろう。
「半分、くらいですか……」
 お茶を置いて樹理が哉の前に座る。
「……確かに、なんだかいろいろタイミングが良すぎますよね?」
「そうだな」
 薄紅の封筒の中には、ご丁寧に宿泊券と最寄り駅からの特急券まで二人分入っていた。それをリビングのローテーブルに広げてどうしたものかと思案する。
「あ、ここ、この前テレビでやってたトコだ。各客室に露天風呂があるらしいですよ。予約も二年待ちとか。よくそんなとこ取れましたねぇ」
 樹理がパンフレットを見てすごいなぁとつぶやいている。これは、半分どころか四分の一かそのまた半分か。
 けれど、なんだかとても楽しそうに樹理がパンフレットを眺めている。食事の前の樹理の話で気持ちはかなり復職に向かっていて、そうなるとまた忙しくなるのだから、その前にどこかへ行ってもいいかと思っていた哉が小さくつぶやいた。
「まあ……仕組まれてみるのもたまにはいいか」

                                       2008.10.06fin.





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