7 晴


 朝の清涼な空気の中、お世辞にもきれいとは言いがたい小さなアパートの前に、少々不釣合いかもしれない、マイナだが一応「高級」な部類に入る国産車が止まる。
「じゃあ、学校で」
「うん」
 交互にシャワーを浴びて、井名里が作った、と言うか、暖めた冷凍チャーハンと、夏清が湯を注いだタマゴスープを食べたあと、二人なにもせずに同じベッドで一時間ほど仮眠をとって、現在七時を少し回った時間である。
 結局井名里は予定していた分の仕事が全て終わらず、このまま学校に出勤して続きをやるらしい。
 降りようとして、ドアに手をかけて、開かないドアに夏清が戸惑う。
「ああ、すまん」
 がちゃり、集中ドアロックを解除する音が車内に響く。
「忘れものは?」
「んーない、と思う」
 トートバックを覗きこんで夏清が顔を上げた時、ぐいっと腕を引かれる。
「?」
 なに? と問う前に唇が唇でふさがれる。離そうとしてもがっちりと押さえられて動けない。
「誰かが通ったらどうするの!?」
 時間にして一分もなかっただろう。けれどとても長く感じた不意打ちのキスに、夏清が真っ赤になって抗議する。
「大丈夫。誰も見てない」
「そうじゃなくてっ!」
「見られてた方が良かったか?」
「違うー!!! もういい」
「悪かったって。しょうがないだろ、キスしたかったんだ、から……」
 怒って乱暴に車から降りる夏清に井名里が素直に謝る。
 助手席のウインドウを降ろして、身を乗り出してそう言った井名里の言葉が途切れる。
 目を丸くした井名里の顔から、夏清の顔が離れた。
「あいたっ」
 無理に顔を車内に突っ込んでいた夏清が、鈍い音をさせて後頭部を車の屋根にぶつける。
 ラストがうまく決まらなかったのが大変不満だが、井名里を驚かせることができたのだからいいにしておく。
「引越し、日曜でいいんだよね?」
「明日からでも俺はいいんだがなぁ」
「無理です」
 色気もなしにキッパリ夏清が言いきる。
「ほらほら、早く行かないと仕事する時間なくなったらどうするのっ!」
「ハイハイ、お前も遅刻するなよ」
「しませんよ。一年無遅刻無欠席無早退ですよ? 終業式に表彰されるつもりですから」
 えへんと胸を反らせている夏清に苦笑で応えて、車を出す。
 バックミラーに見えなくなるまで夏清が手を振っていた。


 ローチェストの上に、祖母が微笑む写真がある。
「ただいま、おばあちゃん」
 この半年、毎日帰ってきたら独り言のように祖母の写真に話しかけるのが日課になっていた。
 井名里の部屋も何もなかったけれど、自分の部屋も似たようなものだ。広いか狭いか、それだけの差。
「あのね、ここ、おばあちゃんがせっかく借りてくれたけど、いっしょに暮らそう、って言ってくれる人がいるの」
 いいながら、制服に着替えるために服を脱ぐ。シャワーを浴びたときは気づかなかったうっすらと紅い痕が、体中についている。瞬時に今日の時間割を思い出す。大丈夫だ。体育はない。
 と言うより、今日の一時限目は数学だ。どんな顔をして逢えばいいのだろう。なんだかとてもおかしくて、一人で笑う。笑いながら、涙が出てくる。
「私ね、もう一人はいや」
 すぅ、と息を吸う。
「いつまでいっしょにいられるのかはわからないけど、今はいっしょにいたい。いいよね?」
 祖母の写真が、また微笑を深くしたような気がしたのは、乱視用のめがねのせいだろうか。
 着替えを終えて、立ちあがり全身が移る姿見の前に立つ。少し考えた後、背の半ばまである髪を、いつものように二つに分けてしばる。
「じゃあ、おばあちゃん、いってきます」
 そう言って外に出ると、昨日の雨でほこりがきれいに洗い流された青い空が広がっていた。


 そして、日常が戻ってきた。

                                       2001.10.30=fin.





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