3 夏休み


 八月に入ってすぐ、北條の所にいた夏清に草野から電話がかかってきた。
 今そっちにいるから、ヒマなら逢わないかと誘われて、駅前で待ち合わせてファーストフードのドーナツ屋に入る。
「草野さん、焼けたねぇ」
「委員長はかわんないね。ダンナと海とか行かないの?」
「いや、いま出張、っていうか、研修かな。十日ほど。明後日には帰ってくるよ」
 京都、神戸、大阪と駆け足で回った二泊の旅行の数日あと、井名里は研修に行った。教師が毎年みんな受けなくてはならないわけではないらしいが、教師になってから今まで一度も参加していなかったので、今回校長と教育委員会の陰謀により、断ることが出来ない状況が作られてしまって盆まえの土日にならないと帰ってこない。
 最初の二日ほどは、久しぶりに一人で買い物をしたり、自由を満喫した夏清だったが、三日目にはつまらなくて寂しくなってしまい、北條の家に転がり込んだ。ちゃんと自分たちのマンションがあるくせに入り浸っている実冴は、子供たちが離婚した父親のところに行っているのをいいことに『旅に出ます、なんかあったら探してください』という良くわからない手紙を置いてどこかにふらりと出かけてもう五日くらい音信不通だ。北條は忙しく働いているので結局夏清は一人なのだが、誰かの帰りを待ったり、待たれたりすることがとても嬉しい。
「ふーん」
「草野さんは彼氏とどこかいった?」
「新聞屋がくれたチケットで市民プールくらいかな。海は遠いよ……その点委員長はいいねぇ 旅行楽しかった?」
「うん。すごい楽しかった」
 草野は生クリームが思いきり詰まったドーナツばかり三つ、夏清はオーソドックスに揚げただけのドーナツを選んで、二階の禁煙席の端っこに座る。
「ところで、用って?」
「ん? うん、委員長、夏休みの宿題やった?」
「大体終わったけど」
 ヒマを持て余して本当はすべて終わってしまった。今は北條が見本でもらっているという塾のテキストを解いたり、買ってきた問題集にも手を出している。
「写させて」
「イヤ」
 次の言葉が予想できたので、間髪要れずに夏清が答える。
「自分でやらなくちゃダメでしょ?」
「言われると思った。じゃあさ、委員長が空いてる日でいいから、あっちの図書館とかに集まって勉強会は?」
 あっち、とは、学校があるほうの市のことを指しているのだろう。確かにあっちの図書館ほうが広いし蔵書も多くてきれいだから、別段異存はない。
「それなら、構わないけど」
「ま、どっちにしても盆明けかな、できる分はやってから行く、ってことで。委員長、まだ時間いい?」
 草野は夏清の三倍のスピードでドーナツを食べ終えている。
「今日は北條先生早めに帰ってくるから……そうだな、五時くらいまでなら大丈夫だけど」
「よし! 最終バーゲンやってるでしょ? 一緒に行こう!!」
「え? ちょ……バーゲンって……私そんなお金持って来てないよ」
「いいの。見て歩くだけでもいいんだからっほらほら、行くよ」
 慌ててドーナツをアイスコーヒーで押し込み、夏清が立ちあがって草野を追いかける。草野キリカという生き物は、とことんマイペースで考えていることも突飛だが、どうしてか憎めない。
「待って、駅前でお金おろす」
「ふっふっふ。買う気だね、委員長」
「最終バーゲンだもんね」
 
 
 あれがかわいい、これもいい……と、とっかえひっかえ試着をして、バーゲンで安くなっている商品を更に負けさせて、気づいたら夏清まで両手に大量の紙袋をぶら下げていた。草野も似たような状況だ。駅前でまたねと手を振って別れてから、夏清は本当に、何にも考えずに遊んでいた自分に気づく。
 自分の服をこんなにたくさん買ったのは久しぶりで、人の服を選んだのはもっと久しぶりだった。家族以外の人の服を選んだのは、初めてで、なんだかとてもくすぐったいような気分だった。
 無意識に男物を見てしまうのも、彼氏持ちの持病かもしれない。
 北條の家に帰ると、珍しく北條のほうが先に帰っていた。おかえりと出迎えてもらって井名里とはまた違う、安心感に包まれる。
「北條先生、今日早かったんですね。携帯に電話もらったら帰ったのに」
 出かける前に、もしかしたらと夏清は書き置きを残して行っていた。友達と会うと書いた夏清の手紙を見て、きっと北條は遠慮したのだろう。
「でも、北條先生ここのところ全然休んでないから、今日くらい早くないと身が持たないですよ。ご飯、私が作るから先生ちょっとゆっくりしててください」
「ええ、ありがとう。気を使ってくれなくていいのよ」
「別にそんなんじゃないですってば」
 夏清が慌てて荷物を部屋に運ぶ。とはいえそこは夏清の部屋ではなく、実冴が結婚するまで自室として使っていた部屋で、ベッドも机も何でもそろっているので使わせてもらっているだけなのだが。
 夏清が部屋から出ようとしたときリビングから何か音が聞こえた気がした。
「北條先生? どうかした………」
 どうかしたんですか? と言う問いが、空気に融けて消えた。
 フラッシュバックが見える。どこかで見たことがある風景。絶対見ていない光景。それなのに、目の前で倒れている北條と、過去の光景が重なった。庭で倒れていたという祖母の姿が。ぐらり、と視界が傾ぐ。
 夏清は、自分自身の悲鳴を、どこか遠くで聞いたような気がした。
 
 
「夏清?」
 病室のスライドドアが音もなく開いて、井名里が顔を出す。眠っている北條を見るともなしに座っていた夏清が、はじかれたように振り向いて、ほっとしたように笑顔を作った。
「先生……」
「響子さんは?」
 病室に入って、井名里が夏清の隣に腰掛ける。
「うん。夏バテと過労だって言われた。あと、点滴に鎮静剤がはいってるから、朝までは起きないだろうって、病院の先生が。それと精密検査した方がいいから、明日は入院してくれって」
「そうか……」
「……ごめんなさい。私、電話しちゃって。先生遠くにいたのに」
 夏清が真っ先に電話をかけたのは、救急車の119でも実冴でもなく井名里だった。午後の講習が終わって、夕食までの間、同じ県から来ていたほかの受講者と一緒に話していたところに携帯が鳴った。
 どうしようと繰り返す夏清に指示をして、その場にいた人に身内が倒れたので帰ることを伝えてくれるよう頼み、実冴の携帯に連絡を入れて帰ってくるよう伝え、自分も慌てて帰ってきたのだ。車で約四時間。
「そんなこと構わないって。実冴は?」
「実冴さん、今、四国に行ってるらしいの。すぐ帰るって言ってたけど、帰って来れるの、明日になると思……」
「どうした?」
 言葉を途切れさせた夏清に聞き返した井名里の耳にも、迷惑なくらい騒々しい足音が聞こえてきた。音がしないはずの病室のドアが、ばん、と言う擬音がぴったりするような、派手な開き方をする。
「ごめんね、これでも精一杯で帰って来たの。許されて」
 そうだろう、いつも完璧なナチュラルメイクを施している顔はほとんどすっぴんだ。綺麗にまとめている髪もぞんざいにひっつめただけだし、極めつけは足元。どう見ても旅館のスリッパだ。
「お前なぁ……もうちょっと静かに来いよ。それにどうやって帰って来たんだ? 四国にいたんだろ?」
「ん? とりあえず車で松山まで行って、コウちゃんにヘリ出してもらった。それで東京の本社まで行ってココまで送ってもらったの」
「……お前また別れたダンナ使って……」
「いいじゃん。困った時はいつでも呼んでねって、あっちが言ってくれるんだもん」
 にしても、使いすぎだ。自分が遊びたいために子供は預けるわ、ヘリを出させるわ。きっとまた彼は会社で肩身の狭い思いをするに決まっている。
「それは置いといて」
 体の前から何かを横にやるような動作をして実冴が口調を変える。
「ごめんね、夏清ちゃん。あなたがいてくれてほんとに良かった。やっぱりほっといたらどうなってたか分からなかったしね。今日は私がいるしもういいから。帰って休んで? ね?」
 井名里から連絡をもらった実冴は、すぐさま夏清に電話を掛けた。その時にはもう北條は意識を取り戻していて、救急車に乗って病院に行くことを渋る北條に行くように言ったのは実冴だ。
「はい」
 実の娘が帰って来たのなら、夏清がここにいる理由はなくなる。
「アンタも悪かったわね。ありがとう」
「………気持ち悪……」
 謝って、礼を言う実冴を見上げて井名里が素直な感想を述べる。
「あーんーたーねぇ」
「そうそう、そっちの方が落ちつくから。あんまり殊勝なことしないでくれ」
 仁王立ちになる実冴に井名里が笑って続ける。
「悪いけど、俺も研修抜けるとやばいんだ。夏清はまだそっちの家に居させていいか?」
「そんな。いいでしょ今週末で終わるんじゃなかったっけ……?」
 てっきりそのまま居るのだろうと思っていた実冴が驚いて聞き返す。
「抜けたいのはやまやまだけど……一人で講義受けるなら構わないんだが今日からラストまでグループ講習なんだ」
 教員になって五年以内に受ければいい講習だが本来なら、新卒で入ってきた教員用のコースだ。ほとんどの受講者が二十五歳以下の中で、二十七になる井名里は年長組になる。問答無用で受講クラスの責任者にされ、もちろん四人で組むグループ講習はリーダーにされた。こんなことなら最初の年に受けておけば良かったと後悔しても遅い。
 個人的にすっぽかして教育委員会の印象が悪くなるのは構わないが、他人にまで迷惑をかけるわけにはいかないだろう。
「夏清ちゃんは?」
 心細くない? と言った顔をした実冴に夏清が少し考えてから井名里を見て答えた。
「………今日まで平気だったんだし、あと二日だから」
 聞き分けのいい夏清に、実冴が何か言おうとして、結局なにも言わずに口を閉じた。何を言っても仕方がないと思ったのかもしれない。
「悪いな」
 頭をなでられて、夏清が首をすくめる。
「こっちで休みたいんだけど、いいか?」
「北條の家? いいわよ。どうせ誰もいないし。私も朝になったら荷物取りに帰るわ」
 自分たちのマンションまで帰ると、時間的ロスが多い。
「その時またお見舞いに来てもいい?」
「当たり前じゃない」
 おずおずと聞いてきた夏清に、実冴が破顔する。
「何かあったら電話するわ。二人ともほんとにありがとう」


 井名里が、北條の借りている月極め駐車場に車を止める。北條は、駅から徒歩三分ほどの場所にビルを持っている。一階にコンビニが入り、二階が北條の経営する学習塾。三階と四階が自宅になっている。
 もらっている鍵で家に入り、電気をつけてエアコンを入れる。
 病院から帰る途中でテイクアウトした牛丼を食べて、シャワーを浴びて、見るともなしにテレビをつける。ソファに座る井名里の足の間に夏清が挟まっている。井名里が今着ているスウェットは、夏清が今日買ってきたものだ。
「そう言えば」
 不意に喋り出した井名里を、夏清がさかさまに見上げる。
「夏清のおばあさん、夏休みだったっけ? 亡くなったの」
 夏清が頷く。
「いつ?」
 亡くなった日を問う井名里に夏清が首を横に振った。テレビの方に目を向けて、小さな声で、つぶやくように『知らない』と言った夏清に、井名里が驚く。
「知らないの。記憶があいまいでよく覚えてないの」
 夏清が膝を抱えて俯く。
 祖母が亡くなる直前までの記憶も、なんだかあいまいにしか思い出せない。ただはっきりと覚えているのは、いってきますと言った夏清を祖母が笑って送り出してくれた。いつだって、夏清が帰る家は一人暮らしをしていたアパートではなく祖母の居る家だった。だから、あの日もそう言って、夏清は家を出た。
「いってらっしゃい。気をつけてね。夏清」
 最後の言葉になるなんて思わなかった。何気ない言葉。
 何も知らずに夏清はアパートに戻り、昼間はバイトに出ていた。その日もバイトに行こうと支度をして、家を出ようとしたそのとき、電話が鳴ったのだ。
 夏清の住んでいたアパートに引かれた電話番号を知るのは、祖母一人きり。なんだろうと思いながら電話に出た夏清に、掛けてくれた隣のおじいさんが、やっぱり知らないのかと不憫そうにもらした。
 夏清の電話番号は、居間に張ってあったはずだ。けれど親戚は、叔父や叔母達は夏清に連絡をしてくれなかった。通夜にも出てこない夏清のことが心配になった他人が、それを見て電話をくれたのだ。
 庭で倒れて、そのまま亡くなったのだと、これから葬式だと言われて、なにがなんだかわからなくなった。そのまま電車に飛び乗って、それでも二時間半が経って。
 夏清がついたとき、ちょうど出棺するところだった。けれど棺の周りには、叔父がいて従兄がいて、叔母がいた。喪服や制服姿の中で、一人私服だった夏清は、多分目立っていたと思う。
 それから、どうやってアパートに帰ったのか、全く覚えていない。
 ただもくもくと、バイトに行って、参考書を読んで、問題集を解いていたら夏休みが終わっていた。
 新学期が始まって、学校に行けばだれも夏清の身の上に起こったことなど知らなくて、一学期の終業式に別れた時と同じように接してくれるクラスメイトにやっと夏清の日常が帰って来た。夏清は、夏清の現実から、学校の中にある幻想に逃げた。
 夏清自身気付いていなかったけれど、夏清は学校と言う単位でしか、自分で自分を認められるものがなかった。
 だから、なんとしてでも『学校』に行きたかった。
 一人ではないと、思っていたかった。
「夏休み……終わり、くらいだったと思うけど、覚えてないの。私、知らないの。分からないの」
 道理で、連れて行ってとも、行ってくるとも言わなかったわけだ。知らなければ、どうしようもない。何とかして調べろと言うのも酷だ。今もまだ無意識のうちに、夏清は祖母の死を避けている。
「北條先生と、おばあちゃんが重なって、どうしていいか全然分からなくなったの……先生しか思い出せなくて。だから電話……先生に」
「わかったから、もういい。泣いていいから我慢するな」
 座り込んで丸くなった夏清を抱き上げて、抱きしめる。夏清が瞳を大きく見開いて、次の瞬間ぼろぼろと涙がこぼれ出した。
 調べれば分かるだろう。過去の新聞の地方版にあるお悔やみ欄を見れば多分すぐわかるはずだ。夏清が調べることができないのなら、調べて、教えてやるべきだろう。
 そう言えば、自分もあの日まで、母親の命日を知らなかった。亡くなっていたことすら知らなかったのだから当然なのだが。あの時の自分と、今の夏清は全く情況は違う。けれど、死を死と認められない辛さは、良くわかっていたから。
 一学期と同じように微笑んで、クラスメイトと話をしていた夏清しか思い出せなかった。二学期が始まってすぐに行われた県立高校実力考査も、当然のようにダントツでトップだったし、県下すべてを含めたランクもとても高くて、去年いた教頭がえらく興奮していたのを覚えている。井名里の出す問題を少し考えながら、それでも解いて見せた夏清が、その時世界で一番大事な人を亡くしていたなんて、誰が気付いただろう?
 胸で静かに泣いている夏清を抱き寄せて髪をなでる。
 どのくらいそうしていただろう。胸の中の夏清は、いつのまにか眠っていた。
 起こさないようにしながら抱き直して、夏清が使っている部屋に連れていく。床に散らばる大量の紙袋。こりゃまた盛大に買い物をしたなと笑ってから夏清をベッドに寝かせ、体を離そうとして、しっかりとスウェットの上衣の裾がつかまれていることに気付いて苦笑する。
 無理に離させる気にもなれなくて、タオルケットをかけたあとベッドのヘリに座る。
 それで夏清が安心して眠れるのならば、こんな時間も悪くない。むしろ幸せなのかもしれない。
 華奢な手を取って、そっと包む。できることなら、ずっと離したくはない。このまま朝がこなければいいのにと願うのは、自分だけだろうか? 夏清に行かないでと止めてほしかった。自分の都合より人のことを考えて行動しようとする夏清が、そんなわがままを言わないことを知っていながら。
 それでも行かなくてはならないことを分かっていながら。
 この夜がずっと続けばいい。この寝顔をずっと見ていたかった。
 
 
 それでも朝が来て。まだ四時半。けれどすでにほの明るい。
 講義は九時から始まる。間に合わせるためのギリギリの時間まで、井名里は夏清を起こさなかった。
「それじゃあ」
 車に乗り込んだ井名里を、夏清が見送る。
 ウインドウごしに、何度も何度もキスをして。
 井名里のシャツの、肩を掴んだまま、夏清が離さない。
 その心細そうな瞳に、井名里は振り払えない。エンジンはとっくに温まっているのに、足はブレーキを踏んだままだ。
「夏清」
 名前を呼ばれて、夏清が首を横に振る。離すのは嫌だと。
「今日と、明日。明日の晩には迎えに来るから」
 諭すように言われても、手が離せない。体を屈めてすがるようにキスを求めてくる夏清にキスを返しながらその頭をなでた。
「電話するから」
 夏清が頷く。
「もう行かないと」
 泣きそうな顔が左右に動く。やっとの思いで、と言った感じで夏清が口を利く。
「……やだ。先生が困ってるのわかる。でもやだ。行かないで」
 見送るのがこんなに辛いなんて思わなかった。十日ほど前にも研修に行く井名里を見送ったけれど、あの時はこんなに辛くて悲しくなかった。だから平気だと思っていたのに。
「……なら行かない」
 はっと、夏清が顔を上げる。
「……なんてな。分かってるだろう?」
 やさしい瞳でそう言われて、ゆっくりと夏清が手を離した。
「大丈夫、帰ってくるよ。お前のところに」
 頷く夏清にそう言って車を出す。誰も居なくなった駐車場で立ち尽くす夏清を、バックミラーに映しながら、車が遠ざかっていった。
 車内で、井名里が舌打ちをする。
 顔を上げた夏清の表情。
 あそこで嬉しそうにされたら、きっと自分は残っていた。けれど夏清の顔は、複雑にゆがんでいた。少なくとも嬉しそうではなかった。
 行かないでほしいと願いながら、けれど行かなくてはならないことを知っていたから。井名里が自分のわがままに付き合って、立場を悪くすることを夏清が望んでいるわけではない。
 二日なんて時間はきっとあっという間だ。そう自分に言い聞かせながら、井名里はアクセルを踏み込んだ。
 
 
「気になるのは分かるけど、少し落ちついたら?」
 壁の時計を見ながらうろうろと室内を徘徊する夏清に、実冴が苦笑する。北條もすでに退院して、さすがに部屋で休んでいる。
「うん……」
 実冴の子供達はまだ元旦那のところに居るらしく、毎日電話がかかってきているようだが、時間を持て余す時はあのやかましいチビどもが居てくれたらと思ってしまう。
「実冴さん、子供と離れてて平気?」
「全然平気、って訳じゃないけど、あの子達が父親と居たいと思うのなら、私が母親だからって、だめとは言えないでしょう? 夏休みの宿題も夏清ちゃんに見てもらったお蔭でほとんど終わってるわけだしね」
 冷たい麦茶を二人分入れて、ダイニングのテーブルに夏清を座らせて実冴が答える。
「私達は別れて他人になれるけど、子供たちの親は私達しかいないもの。別れたのは私の勝手だしね」
「どうして別れたか、聞いていい?」
「あー 別れた理由? 簡単簡単。私がコウちゃん……旦那の母親と全然合わなかったの。今にして思えばあの人が私のことだって大事にしてくれてたことくらい分かるけど、あの時はダメだったのよ。誰も彼も私の味方はいないような気がして、なんにも信じられなくなって、自分にも自信がなくなって別れちゃったのよ」
 なんでも自分の思いどおりに生きているような実冴が、自嘲気味に笑う。
「先生のとこは、どうなんだろう」
「礼良君? 礼良君のところは……」
 実冴がうーんと唸る。
「先生のお母さんがいないのは、この前の旅行の時聞いたの」
「え!? アレが自分から母親のこと言ったの? マジで!?」
「う、うん……名前の話し、してて」
 夏清が怯えるくらい、実冴が驚いている。
「マーヤさんのこと? 自分で? はー……大した進歩だわ」
「そんな、すごいこと?」
 身を引いている夏清に気付いて、テーブルについて身を乗り出していた実冴がごめんごめんと座りなおす。
「うん。すごいと思う。少なくとも私はヤツの口からマーヤさんの事を聞いたことないから」
 落ちつこうと、実冴が麦茶を飲み干して一息つく。
「ま、構わないんじゃないの? 礼良君は次男だし、家のほうはもう長男が継いでるもの。井名里の家もかなり複雑だけど、それは、私が喋っていいことじゃないしねぇ……マーヤさんのこと言えるくらいになってるなら、きっとそのうち自分で話すでしょ」
 実冴なら教えてくれそうだと思ったけれどその会話はそれで終わった。実冴にそれ以上話す気がないことが分かった夏清はもう触れることはできない。
「あ、来た」
 夏清が立ちあがる。
「え? 分かるの?」
 問い返した実冴に応えず、夏清が走って玄関に行くのと玄関のドアが開くのとがほぼ同じ。
「うわ」
 いきなり夏清にしがみつかれて井名里がたたらを踏む。
「すごー……ぴったり。夏清ちゃんセンサーついてんじゃないの?」
 呆れた様子で実冴が素直な感想を言う。
「待ち構えてたんじゃなくて?」
「さっきまでダイニングで喋ってたよ」
 てっきり待っていたからこのタイミングだと思った井名里が夏清をぶら下げたまま実冴に聞くと、なぜか偉そうにふふんと実冴が笑う。
「夏清ちゃん、荷物これだけ?」
「これだけ」
「これだけってお前ら……」
 玄関には山のように荷物が積まれている。前日より増えているような気がして井名里がうんざりしたような顔をしている。
「今日も買い物行ったもんね」
 二人でねーっと言い合っている。
「病人置いといてどこ行ってんだお前ら」
「だって、お母さんずっと検査だったんだもの。だったら時間は有効に使わないと」
 再びねーっと言っている二人に呆れながらも、井名里が手当たり次第荷物を持つ。
「ほれ、帰るぞ」
「うん。じゃあね、実冴さん」
「またねー」
 笑顔で二人を見送る。目の前でドアがとじるまで。
「まぁびっくり。人間変わる時って変わるのかもねぇ」
 先ほどまでの笑顔は、さっぱりと実冴の顔から消えていた。
 嫌がる彼を無理やり真礼の墓に連れていったのはどのくらい前の話だろう? あの二人が彼女の墓の前に立てる日は、どのくらい先の事だろう?
「そりゃ私も、年取るわけだよ」
 ため息をついて、実冴がつぶやいた。






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