4 故郷


 電話が鳴っている。
 とても遠くで。
「センセー……電話鳴ってるぅ」
 家に引いているものは、井名里の電話だけだ。夏清の連絡先は北條の家になっている。
「センセー……電話ー……」
「あー」
 全く出るつもりがないのか、横に転がっているはずの井名里が動く気配はない。更に何回かコールが鳴って、留守番電話に切り替わった。
『ちょっとアンタ達!! 居留守ぶっこいてんじゃないわよ! でなさい!! 居るの分かってんだからね!!』
 この声は……
「あの女……」
 井名里がつぶやくのと同時に留守電が切れる。再び電話が鳴る。
 仕方がないので夏清が起きあがって電話に出る。なにも着ていないと非常に心もとないので、とりあえず、脱ぎ散らかされたお互いの服を物色して中から井名里のスウェットを選んで羽織る。
「もしもしー」
『うわ。ほんとに居たわね』
「……すいません」
『まあいいわ。夏清ちゃん、昨夜おそくに友達からこっちに電話あったわよ。草野さんって子。携帯電話にかけても繋がらないからって。何か用事があるみたいだから、そっちから電話、かけてあげて。それから、あのバカ今日から仕事じゃないの? この時間に家にいて大丈夫なの?』
「え?」
『カレンダー見なさいよ!! お盆なんかもうとっくに終わったの!』
「いっ!! わー!!」
 居間にあるデジタルカレンダーの表示を見て、夏清が意味不明の悲鳴を上げて、礼もそこそこに電話を切った。
「先生!! 八時だよ八時!! 先生は今日から学校行かなくちゃならないんだよ!!」
 急いでカーテンを開ける。すっかり昇った太陽が部屋の中のけだるい空気を粉砕する。
「なに!?」
 さすがの井名里も飛び起きた。サイドボードの時計を見たあと慌ててベッドから降りる。
「さっとでいいからシャワー浴びて! 髭剃って!! 頭整えて!!」
 服を着ようとした井名里から、シャツを奪い取って夏清が急き立てる。
 風呂場に井名里を入れて、改めてリビングの惨状を見る。
 狭いテーブルの上はもちろん、床までデリバリーの容器が転がっている。北條の家から帰ってからお盆をはさんだ一週間近く、二人でどこにも行かずにずっと家に居た結果がこれだ。
 食欲と、睡眠欲と、性欲。
 お腹が空いたら食べて、眠くなったら寝て、それ以外ほとんど、文字どおりくっついてすごしていた。何か食べられそうなものを探して冷蔵庫を開けても、中のほとんどが賞味期限が切れている。使えそうなものは北條の家からもらってきたお中元らしきジャムくらいか?
 棚をあさるとホットケーキミックスがひと袋。牛乳も卵もないので、水でといて焼く。マーガリンは、賞味期限が長いので無事だった。
 薄く小さく焼いて、皿に乗せていく。五分もかからずに頭まで洗った井名里が裸のままリビングを横切った。
「水だけだからあんまりおいしくないと思うけど時間あったら食べて」
「なくても食う」
 服は全て夏清が机の上に出している。素早く着替えてネクタイをもち、井名里が素手で食べている。この際だから行儀もなにも無視だ。
「ごちそうさん」
「ジャムついてるジャム!」
 立ちあがろうとした井名里の口の端を夏清の指がぬぐう。
「ち、舐めるかと思ったのに」
「なっ!! バカなこといってないでっ!」
 つけていたのは確信犯か?
 早く早くと玄関まで井名里を追いたてる。いつもなら夏清のほうが早く出るので、純粋に仕事に行く井名里を見送るのは初めてだ。
「はい、いってらっしゃい」
 玄関においている時計は、意図的に十分早くしてある。井名里が家を出て車で学校に行くまでの時間だ。その時計が八時半を指している。これ以上かかると本気で遅刻する。
「先生?」
 にもかかわらず動かない井名里に夏清が問う。
 何をしてほしいかが分かって夏清が小さいため息をついた。
 マンションの玄関の三和土(タタキ)は低い。普通に井名里が靴を履いて立っていたのでは夏清は背伸びをして精一杯だ。
 このまま時間が経っていくのは困るので、あきらめて井名里の肩に手を置き、精一杯背伸びをする。
 頬に軽く、触れるだけのキス。
「はい、いってらっ……んっひゃん!! どこ触ってるの!?」
 井名里がそのまま腰に手を回して、あごを捕らえて夏清の唇を舐める。甘いジャムの味がしたあとすぐ、大きな手に尻をなで上げられて夏清が飛びのく。下になにも着ていないのでダイレクトに来た。
「行ってくる」
 とても楽しそうに笑って、井名里が出ていった。
 怒る気にもなれない。リビングに帰って散らかり放題のそこを掃除しようとして、自分のかばんを発掘する。そう言えば、実冴のところに電話があったのだ。草野から。
 携帯電話を取り出すと案の定電池が切れている。一体いつから充電していなかったのか覚えていない。
 井名里と同じ携帯電話なので、同じ充電器が使える。井名里の部屋に行って、挿しっぱなしの充電器にセットして、電源を入れると何件も入った草野からの着信は十八日の十九時二十三分が最後だった。
 そのままリダイヤルをかける。三コールで朝からやっぱり元気な草野がでる。
『いーんちょー……どこの秘境行ってたのー? めちゃめちゃ何回もかけたよー?』
「ごめんごめん。で、用事って?」
『うん、前に言ってたでしょ? 宿題の勉強会。明日どう? もっと早く言うつもりだったんだけど』
「ああ……大丈夫……時間は? うん、わかった」
『あっそうだ。あの服着てきて、一緒に買った白いヤツ!』
「え? アレ……着るの?」
『うん。着たとこ見たいから。絶対着てきてよ。じゃ』
 言いたいことを言って草野は電話を切ってしまった。草野が『あの服』と言ったのは一緒に買い物に行った時買ってしまった、何かにとりつかれたとしか思えないのだが非常に現実味の薄い『お洋服』のことだ。こんなもの買っていつ着るの? 自分…と、あとから自身に突っ込んだ一品。安かったのだが。
 電話をそのまま井名里の机の上において、脱ぎ散らした服とシーツをまとめて持ち出す。洗濯ものを干すには絶好の日和だ。だらだらとした生活を抜くためにも、今日はしゃきしゃき働こうと夏清が顔を上げた。
 
 
「あれ? 先生今日は学校じゃないの?」
「有休」
「………アレだけ休んどいて?」
「あれは盆休み」
 そう言う夏清もお盆の間はバイトが休みだった。北條が倒れたこともあるが、一応塾にも夏休みはある。
「どこか出かけるのか?」
「うん。草野さんやクラスの子達と宿題の勉強会。先生は何か用事?」
「用事っつーか。お前それキャンセルしろキャンセル」
「え? 無理だよ。私が行かなかったら多分みんな集まる理由がなくなる」
「勉強会とか言って、人の宿題写すだけだろうが。自分でやらせとけ」
 確かに。否定は出来ない。おそらく最終的には写すかコピーを取るか、されるだろうとは思っている。
「大事な用が入ったからって断れ。俺の用事は今日しかダメだけど、そっちなら明日でも明後日でも夏休みの間なら構わないだろう?」
「いや、でも……」
「こ・と・わ・れ」
「………わかった」
 どうしてこの人はこんなに強引なんだろう。携帯で草野に連絡をする。平謝りする夏清に、草野がダンナ絡みならしょうがないねと言った。
『それなら、委員長これから空いてる日は? そっちに合わせるから』
「月水金以外なら大丈夫、だと思う…」
『オッケ。こっちでもう一回調整してみる。ま、こっちの人間はみんなヒマに決まってるんだけどね。また電話するわ』
「ほんとにごめんなさい。それじゃ……うん……はー。断ったよ」
 前半は草野に、後半は井名里に。電話を切ってやれやれ、と言った様子で夏清が井名里を見る。
「よし。着替えて出かけるぞ」
「え? 今すぐ?」
「今すぐ。でないと帰りが遅くなるからな」
「分かった……何着てもいいよね? 山登ったりしないよね?」
「しないしない。できるだけ綺麗な格好してこいよ」
 どうせ着るつもりだったのだ。あのふわふわしたのを着てやろう。半分はイヤガラセかもしれない。
 着替えてきた夏清に一瞬言葉に詰まった井名里が、まあいいか、似合ってるし、とつぶやいた。
 レースとリボンがふんだんに使われたタンクトップと、細かいプリーツが大量にはいったロングスカート。絶対普段着にできない服だ。薄いスカートがずるずるして、まず車に乗り込むのに苦労した。座りにくさと、シートから裾が勝手にずり落ちて、ドアを閉めるとき挟んでしまいそうになって夏清が後悔するが、走り出してしまってはどうしようもない。
 見る間に景色が変わっていく。最初はどこに行くのか全く分からなかったが、標識を見たり、線路の横の道路を走ったりするうちにだんだん井名里の行き先が分かってくる。
「先生、もしかして、行くとこって」
 やっと夏清がそうたずねることができたのは、夏清の住んでいた町まであと七キロという道路標識の下をくぐってからだ。
「そんなの、いつの間に?」
「ん? ヒミツ」
 研修の最終日に寄り道をしたのだ。打ち上げに誘ってくれた人たちに断って、研修が終わってすぐ車を飛ばした。
 閉館する直前の、町の図書室に行き、行政広報を閲覧した。八月に亡くなったのなら、九月か十月の広報のお悔やみ欄に名前が出ているはずだ。人口が少ないためか、亡くなった人も月十人くらいで、夏清の祖母の名前はすぐ見つかった。
 名前と命日、住所をメモにとるために、司書の女性に書くものを頼んだら、井名里が開いていたページを見て、渡辺さんの知り合いですか? と逆に聞かれた。夏清ちゃんのこと知りませんか? と。
 あいまいに笑ってごまかして、早々に図書室から逃げてきたが、驚くほど狭い町のことだ。もしかしたら噂になっているかもしれない。
「じゃあ、今日なんだ」
 全てわかったのだろう。夏清がシートに沈む。
「先に家のほう、見てみるか?」
「家まで調べたの?」
「住所だけ。ナビるのいやならいいけど」
 井名里の車には、ちゃんとカーナビがついているが、今日は作動させていない。
「…………行ってみる……二つ目信号左」
 田んぼの中を走る一本道。すぐに二つ目の信号に差し掛かり井名里は言われたとおり曲がる。
 細い路地の手前で車を止めて、少し歩く。
 一年ぶりの自宅。変わらない家。変わらない庭。
 変わっている、表札。
「夏清」
 立ち尽くす夏清に、井名里が声をかける。
 知らない間に、知らない人のものになっている、自分の家だった場所。
「どなた?」
 人の気配を察したのか、庭から現在の家人らしき女性が現れた。夏清がくるりと背を向けて走り去ってしまう。
「おい! ちょっ……待てって」
「あのう、さっきのお嬢さんって」
 追いかけようとした井名里を、庭から出てきた女性が呼びとめた。
「『夏清ちゃん』ですか?」
 井名里の足が、止まった。
 
 
 なにも考えずに、走ってたどり着いたのは自宅だった家の近くにある小さな公園。
 公園と言っても、ブランコとジャングルジム、砂場があるくらいだ。記憶の中と寸分たがわぬ場所。
 けれど、夏清はこの公園で遊んだ記憶がほとんどない。
 日が高くなってきたからだろうか? 夏の日差しを避けるものがないせいか、公園に人影はない。
 誰もいない公園で、スカートが汚れないように気をつけながらブランコに座る。
 ブランコには乗れなかった。夏清より少し年上の、リーダー格の少女が、いつも夏清をはじき出した。
 砂場には近づけなかった。クスクス笑いながら、それとなく砂をかけられるから。
 それでも外で遊ばない夏清に不思議そうな顔をする祖母に心配をかけたくなくて、夏清はいつも、もう少し離れたところにある図書室に通っていた。
 ここには、楽しかった思い出なんか一つもない。なのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう?
「あれ? もしかして、夏清、ちゃん?」
 ため息をついて立ち上がろうとした時、不意に声をかけられて、夏清が振り返った。
「ああ、やっぱり」
 振り返ったことを後悔した。思い出した。そこに立っていたのは、いつも夏清を率先していじめていた少女だ。髪を赤く染めて、体にぴったりと添ったTシャツとミニスカート。
 格好、と言った点では、二人ともどっちもどっち、と言った風だが。
「今どこに居るの? ここら辺の人、みんな夏清ちゃんのこと心配してるよ。どうしてるんだろうって。あ、もしかしてあたし、わかんない?」
 忘れるはずはない。名前だって覚えている。忘れてしまったのはそっちの方だろう。目の前の少女は、夏清をいじめていた過去などすっぱりと捨て去って、何にもなかったように、幼馴染の顔をして笑っている。
「ねえちょっと、なんか言ったら?」
 なにも答えずに黙り込んだままの夏清に、少しいらだったように彼女が語気を強めた。
 何を言ったらいい? 彼女に心配しているとか言われても、全然嬉しくなんかない。自分のことなんて、忘れてくれていた方がマシだった。
「夏清!!」
 夏清が口を開こうとした時、真後ろで井名里の声がした。走ってきたのだろう、前髪が落ちている。
 その声に、夏清の表情が変わっていくのが、近くに立っていた少女には古い映画のコマ送りのように見えた。所在なげな、今にも消えてしまいそうだった夏清の顔がぱっと明るくなって、少女に背を向けて走って行ってしまう。
「どうした?」
 なんの迷いもなく自分の胸に飛び込んできた夏清を抱きとめて、井名里がやさしく聞く。
「なんでもない。けど、すごいな、って思って」
「なにが?」
「先生の顔見たらね、全然平気になったの。幸せだなって思えるの」
「……そうか? じゃあ行くか?」
「うん」
 そっと夏清を降ろして、井名里がさりげなく夏清の肩を抱く。
 寄り添う二人がバカみたいに絵になって、少女は呆然とその光景を見送った。
 まるで、夏の幻を見たような錯覚に陥りながら。
 
 
「あれ、誰? 知り合い?」
「違う。知ってるけど知りあいじゃないよ」
「……難しいな」
 車に帰って井名里に先ほどの少女のことを聞かれ、夏清が微妙な答え方をする。
「ちっちゃいころいじめられてたの」
「なるほど。代りに殴ってきてやろうか?」
「………いいって……言ったでしょ? 私、今幸せなの」
「……そうか」
 夏清が微笑む。
 井名里も笑う。
「ここら辺の花屋ってどこ?」
「んーバックして、あっち。すぐにあるよ。花屋に行くなら、やっぱ殴らなくて正解。さっきの子、花屋の娘だから」
 車を動かしながら、井名里がまた笑った。確かに、殴らなくて良かった。
 夏清が言った通り、花屋は車で二分もかからない場所にあった。こじんまりとした、いかにも田舎の花屋といった雰囲気で、それでもさまざまな花が軒先から店の奥まであふれかえっている。
「好きなやつ選べよ」
 俺は分からないからと、一緒に車から降りた井名里が早々に花選びをギブアップする。
「じゃあ、これと、これ」
 祖母が好きだったリンドウと、名前のわからない白い花。
 リンドウの紫と、コントラストがきれいだったから。
 客の気配に店の奥から女性が出てくる。
「あら、まあまあまあまあ。夏清ちゃん? びっくりしたわ……きれいになって」
 てっきり、自分のことなど分からないだろうと思っていた夏清のほうがびっくりした顔をしている。
「そうかい……もう千恵さんが亡くなって、一年経つんだねぇ……」
 しみじみと感慨深げにそうつぶやいて、花屋のおかみがあれもこれもとオマケをつけて包装紙でくるむ。ほとんど一抱えほどもありそうな花束になったが、あたしからのおそなえだよとタダになってしまう。
「これから墓参りかい? 線香やろうそくは? 持ってない? まってな、今出してあげるから」
 断る間もなく彼女が奥に引っ込んで、持ってきたそれらを店の袋に入れてくれる。
「ありがとう、ございます」
「何言ってんの。ここらの人ねぇ、みんな夏清ちゃんのこと心配してたんだよ? 寄り合いがあったらいっつもどうしてるかねぇって。元気そうだね? 学校行ってるの?」
「はい」
「そう。よかった。ウチの娘みたいなのもいたから、ここにはあんまりいい思い出もなかっただろうけど、たまには帰っておいで? ね? あんたんとこの隣のじーさんなんか、ボケたかと思うくらい夏清ちゃんのことばっかり話してるんだから」
 そう、思い出した。今目の前に居る花屋のおばさんは、いつも夏清に声を掛けてくれていた。夏清は、とてもかわいがってもらっていた。きっとあの子は、母親がよその子をかわいがるのが気に入らなかっただけなのだろう。
「ありがとう」
「ああ。ほら、待ってるよ。行っておいで」
 言われて振り返ると、井名里が車のエンジンをかけて炎天下に立っている。もう一度礼を言って、夏清が慌てて車に戻る。二言三言交わして、夏清が車に乗った。遅れて、井名里がその様子をじっと見ていた女性に会釈をしてから運転席に滑り込む。
 花屋の女性は、静かに走り去っていく車を、見えなくなるまで見送っていた。
 
 
「なんでみんな、覚えてるんだろう。私のこと」
「それだけ地域がせまいってことだろ? ボーっとしてないでナビしろよ。さすがに墓までわからないぞ」
「あ、うん。そこ右」
 民家の間を抜けて、車幅いっぱいの細い路地に入る。さすがにゆっくりと進むと、すぐに立派な門構えのお寺の駐車場についた。
 寺の横の坂道を上がったところに、このあたりの檀家の墓がある。途中でおけに水を汲み、黙って急な坂を登った。
「ここ」
 立派な御影石に『渡辺家』と彫ってある。その横に、亡くなった人たちの名前を刻む石版。四人分の名前が、そこに刻まれている。
 花も立たず、誰かが盆に参った形跡はない。
 もっとも、あの親戚達にそんなことは望んでいなかったが。
 簡単に掃除をして、入るだけ花を入れる。入りきらなかった分は、下にある地蔵の前におくことにして、線香を上げて手を合わせる。
 心の中で、夏清は祖母に謝ることしかできなかった。どうして一度も来なかったのだろう。来ようと思えば、月命日だろうが、普通の日だろうが、ここまでくらいいつでも来れたのに。死んでしまったことは、頭では分かっていたけれど、それでもまだ心のどこかで思っていた。あの家に帰れば祖母が居てくれるような、そんな気がしていた。けれど現実は、いつからなのか、その場所は他人のものになっていて、夏清が居たときと同じ顔をしながら、違うものになってしまっていた。
 長い間目を閉じてそうしていて、顔を上げると同時に井名里も顔を上げた。どちらからともなく笑って、物を持って墓の前を辞した。
 途中にある地蔵の前に、残りの花を供えた後、坂道を下っていると、誰かが上がって来る気配がする。
 何か、悪態をついている若い男と、なだめている年配の女性と男性の声。
 隣を歩いていた、夏清が立ち止まった。井名里の後に隠れるように。
「…………っ!」
 井名里の腕が痛いくらい掴まれる。小さくて華奢な手のどこにこんな力があるのだろう、と言うくらいぎゅっと夏清が井名里の腕を掴む。
「夏清ちゃん」
 驚きながら、なんとかつぶやいたのは女性だけで、中年と若い男はなにも言わずに立っている。
 井名里の後に隠れた夏清に、若い男が、夏清の従兄があざけるように言った。
「見ろよ。別に母さんが心配してやらなくても、うまいこと男見つけて寄生して生きて……」
 井名里が、腕にしがみつく夏清を強引にはがした。
 従兄の言葉は、最後まで聞こえなかった。代りに、鈍い音が聞こえる。砂を吹いた道に、ひっくり返るように転がっている。
「なっ! いきなり何……」
 小柄な叔父も、同じようにセリフを最後まで言えずに地面にはいつくばった。二人の男を殴り飛ばした井名里が、右手をなでながら見下ろしている。
「いってー……なにす……」
 頭を振って起き上がろうとした従兄の胸倉を掴んで、更に、二度、三度と殴りつける。
 手加減なしで何度も殴り続ける。泣きながらやめてくれと懇願されても、井名里は止まらなかった。むしろ、更に力をこめているようにも見える。
「やめ、も……」
 歯が折れているのだろう、口の中が血でまみれていて、声がくぐもっている。
「やめてくれ! 殺す気か!?」
 振り上げられた井名里の手に、叔父がしがみついて止めた。あっけなく、井名里の一振りで叔父はまた地に落ちる。すでにぐったりした様子の従兄を捨てて、井名里がそちらを向くと、情けない声をあげて、這うように逃げようと、懸命に動いている。
「やめっ!!」
 逃げられないと観念したのか、卑小な態度で地面に額を擦りつけて、念仏のようになぐらないでくれ、とつぶやいている叔父を、井名里が見下ろす。氷のような瞳で。
 立ったまま何もしない井名里に、顔を上げた叔父の、媚びるような少し弛んだ安堵の表情が、すぐに固まる。
 上げた顔、額の直前に、井名里の靴底が見えただろう。
「お前らはやめたのか?」
「え?」
「夏清がやめてくれと言った時やめたのか? 違うだろう?」
 井名里の口元が、引きあがる。笑っているわけではない。怒りで、顔の筋肉が引きつっただけだが、かろうじて靴底から外れている叔父の左目には、井名里が凶悪に笑ったようにしか見えなかった。
「あ………あっ」
 恐怖に言葉が続かない叔父に、止めることもできなかった叔母に、その場にいるものに告げるように、井名里が低い声で言った。
「謝るなよ? 本当に悪かったと思うのなら絶対夏清に謝るな。お前らは『謝った』ことで救われるだろうが、夏清は違う。ごめんなさいといわれたところで許せると思うか? 本気で罪を償いたいのなら、一生夏清に恨まれ続けろ。一生許されないでいろ」
 呆けたように口をあけたまま座り込んだ叔父をそのままにして、井名里は夏清の手を引いて坂道を降りた。
 いつもよりずっと、強く握られた手。
 その大きさと、暖かさと、強さ。
 寺から借りていた桶を返して、そこで手を洗っている井名里の後ろで、夏清がこらえきれずに泣き出した。
 車に乗る前に、抱きしめて、キスをする。
「悪かったな。嫌なヤツらに逢わせて」
 再び抱きしめてから、井名里がそう言うと、夏清が首を横に振った。井名里のせいではない。夏清が井名里の手を取る。前に作った傷の下の方に、新しく切れたような傷が幾筋もあった。殴られた彼らも痛かっただろうが、殴った井名里も痛かったはずだ。その傷をなでながら、夏清がごめんなさいとまた泣き出す。
「俺は平気だから。もう泣くな? な?」
 もう一度抱きしめる。
「飯どきだけど、もう一回だけ寄るところがあるから。いいか?」
 今度は頷く。ドアロックを解除して、そっと夏清を助手席に座らせる。隣に止まったファミリータイプのセダンを思い切り蹴りとばして、井名里が車に乗り込む。叔父の車らしきそれに、思いきり靴あとが付いて、さらにへこんでいるのを見て、夏清がやっと少し笑った。
 井名里が向かったのは、夏清の家。だった場所。
「先生、でもここ……」
 庭から入っていく井名里を止める夏清。全く気にする様子もなく、こんにちはと声をかけて、井名里が縁に到着してしまう。
 先ほどの女性が、玄関からきてもらったら良かったのに、と笑って二人を家に上げた。
「どうぞ、って、あなたに言うのは少し変かしら。だってここはあなたの家だもの」
「え……?」
「あっ! 手。ケガしてらっしゃる? 待ってて、今救急箱……」
「置く場所を変えてなかったら、納戸のたんすの上」
「そうそう。ちょっと待っててね」
 どこにあっただろうかと視線をさまよわせる女性に、夏清がそういうと、彼女はばたばたと家の奥に走っていって、見覚えのある救急箱を持ってきた。
 女性は、夏清が手当てはやります、と言うと、そうねと笑って台所にお茶を入れに行ってしまう。
 赤くはれてきた手の甲に、とんとんと消毒薬をつけた綿を走らせる。綿を乗せたとき、しみるのか井名里が小さく声をあげて顔をしかめたので、夏清は思わずぐりぐりとやりたい衝動に駆られたけれど、それをやるとあとで何をされるか分かったものではない。ガーゼを貼るほど深い傷ではないようなので、消毒だけをして薬箱を閉じた。
 家具もほとんどそのままだ。居間のテーブルには、小学生だった夏清が計算をしたあとがそのまま残っている。
 二人に麦茶を出して、懐かしそうにそのあとをなでている夏清を見て女性がまた笑う。
「ここの大家代理さんからね、格安で借りる代りに、二つほど条件を出されたのよ。一つは家具も家も勝手に捨てたり改築したりしないこと。もう一つは、あなたがこの家に帰りたいと言ったら、すぐに明け渡すこと」
 驚く夏清に、更に家人が言う。
「ウチもいろいろあってね……でもいつかあなたが来るんじゃないかって、ずっと思ってたのよ」
 玄関からかしましい声が響いて、女の子ばかり三人、走ってくる。お客がいたことに驚いたようだが、はにかんだようにこんにちはといったあと、少女たちは二階に上がってしまった。
「もし今すぐあなたがここに帰りたいって言うのなら、私達は他を探すわ。ごめんなさいね、またわざわざ来てもらって。それだけ伝えたかったの」
「あ、いえ、いいです。住んでもらってて。誰もいないより、家は嬉しいと思うし……それに、私、ちゃんともう、帰る家はあるんです」
 そう言って、井名里を見上げる。なにも気にしていないそぶりでお茶を飲んでいる彼を。
「良かった……そう言ってもらえると助かる。もしあの時この家が貸家にでてなかったら……ああ、愚痴になりそうだからもうやめましょう。そうだ、ご飯食べていかない? チャーハンくらいしかできないけど」
 そう言って立ちあがる女性に、丁重に断ってまた庭から出る。
「その、もし嫌じゃなかったら……で、いいんだけど、良かったら、また来てね」
 ありがとうと答えて、ばいばい言う声に見上げると、夏清が使っていた部屋から、三人の子供達が顔を出している。手を振って、庭から出た。
 路地まで送ってくれた女性に、この家をよろしくおねがいします、と言って、井名里と一緒に車まで歩く。
「飯食うか」
「うん。すっごいお腹減った」
 いつ乗っても、井名里の車はとても静かで、加速の重力を感じさせない。帰り道は全然違うルートで、遠回りをした。
 海が見えるところまで行って、途中の雑貨屋の軒先にかかった赤札つきの、つばの大きな麦藁帽子が目に入って、慌てて車を戻して買ってもらう。
 海岸沿いのこぎれいなペンションの中にあるレストランで少し遅いお昼を食べて、ほとんど人のいない砂浜で遊んだあと、また海岸線を走った。
 ずっと向こうの水平線が確かに曲がっていて、どうしてこの星は無意味に広くて丸いのだろうと、どうでもいいことで哲学っぽく語りながら長い長いドライブ。
 世界は広くて。人は小さくて。
 だけど、と夏清は思う。
 自分の心は、この星よりもずっとずっと、たくさんのもので満たされているんだと。






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