1 交錯


 コレといってなにが変わるわけでもなく。
 年は明けて、年度末が過ぎて、滞りなく二年から三年へ進級すれば、選択コースを変えない限り、新城東高校ではクラス換えは行われない。よって、二年のときと同じメンバーと、同じ担任。まったりとした空気のまま時間はいつの間にか過ぎていて、気が付けば衣替えさえ済んでしまっている。
 三年生になり、クラスメイト達もほとんどがいけるかいけないかは別にしても、自分の進学先を決定している。当然夏清も、一年生の時と変わらない進路調査書を、進級した直後に提出したのだが。
 その大学に本当は行きたくないと言ったら、井名里や北條はなんと言うのだろう。言い出したくても言えなくて、ここのところ気が付いたら井名里を避けている。
 今日も今日とて。夏清の様子がおかしいことくらい気づいていて、話し掛けようとした井名里に急いでるからと言って、走って家を出てしまった。夏清にも言いたいことがあるのに、タイミングが掴めない。
「委員長ってば!!」
「はい!?」
 大声で呼ばれて、別のことを考えていた夏清が驚いて返事をする。目の前に、エプロン姿の草野。
「な、なに?」
「ナニ? じゃなくてね、それ、バターになるよ。そろそろやめないと」
 言われて、抱えていたボウルを見る。白い液体だったはずのクリームは、なんだか黄色になって分離して微妙に固まっている。
 月曜の四時限目の調理実習。そう言えば、草野にハイと渡されて、どのくらいの時間かきまわしていただろう。
「え? うわ、ごめん」
 今まで家で使ってきたのが植物性のホイップなので、すっかりそのつもりで動物性の生クリームを同じように力の限り攪拌しつづけていた夏清が慌てて謝る。ホイップならばどこまで泡立てても平気だが、生クリームは凝固しにくい加工が施されているにしても、やりすぎると分離してしまう。
「いいけどさ、まだ泡立ててないところと混ぜるし」
 そんなことをしてもどうしようもないと思うのだが、犯人がそんなことを言うのも悪い気がして夏清が再び謝る。
「ごめん……」
「どしたの? カレシとケンカした?」
 しゅんと俯いていた夏清があたっているような、違っているような問いに複雑に感情が入り組んだ顔をして草野を見る。
「だってさ、委員長、アナタそれ以外になんの悩みがあるの?」
 三年生になって、夏清は『委員長』ではなくなった。草野の号令のもと夏清には受験勉強に専念していただき、ぜひとも東大現役合格を目指していただこうと言う、なにをどう略したのか知らないが『馬の脚』という会が作られ、クラス委員は別の女子がやっている。にもかかわらず、やはり夏清の呼び方はそのまま残っている。便宜上付けられた名前はよほどのことがない限り変わらない。呼びやすければなおさらだ。
「……あるよ、色々……」
 進路とか、と言う言葉を飲みこむ。なぜか回りの人間は、夏清が当然のようにこの国の国民が国内の最高学府と思っている大学を受験してさらに合格するものだと決めつけてくれている。それに流されてしまっている自分が情けない。彼らが言うほど簡単に合格できるのなら、日本国民みんな東大をめざしているだろうと思うが、それは思っておくだけにする。きっと反感を買うだろう。
 クラスメイトも、井名里も北條達も。
 四面楚歌というのはこう言う状況を言うのだろうか?
「まぁ そうナーバスになりなさんなって」
 草野が笑って夏清が無意味に泡だて器で叩いているクリームを奪い取る。これ以上されたら本当に使えなくなってしまう。
「疲れたでしょ、ちょっと座って休んでたら? あとはやっとくから」
「ん。ありがとう」
 去って行く草野を見送って、調理実習室のパイプイスに座る。
 ため息。なんだか回り中から、寄ってたかって邪魔されているような気がする。その筆頭が相手なのだから、もう救われない。
 盛りあがる回りには悪いが、夏清は絶対地元の大学に行きたいと思っている。そしてそれが自分のわがままで、おそらく回りのほうが正しいのだと言うことも判っているから夏清にはしっかりと説得することが出来なかった。
 
 東京大学。
 
 そんなもの一番最初に調べた。ここから通えるかどうか。そして、まず基礎教養を受けるための学舎まで最短距離の通学路で、三時間半。とてもではないが通えたものではないことを知ってあっさり却下してしまった。
 通えないと言うことは、通うためにはやはり一人暮しをすることになるだろう。大学進学の費用は北條が全て見てくれる。なんの心配もしないでいいと言われたが、お金もそうだが夏清はもう一人で暮らそうとは思わない。
 またため息をついて、頬杖をつく。
 井名里は平気なんだろうか。離れても。
 構わないのだろうか。
 夏清のためだからとそのくらい我慢できてしまうのだろうか?
 やっぱり自分が一番わがままを言っているだけだと分かって、そのまま机につぶれる。
 どうして自分の人生なのに自分の思い通りに出来ないのだろうか?
 分かっている。みんな夏清の将来を考えて、いい学校に行きなさいと言ってくれている。それは間違っていない。
 悩みは尽きない。終わらない。
 
 
 三年生になって、バイトはやめなさいと言われて、今はもう手伝わせてもらえない。
 なにがどうなって『その代わり』なのか分らないのだが予備校に行くように言われて、知らない間に手続きをされていた。なので毎日北條が住む市まで予備校に通い、帰りに寄って実冴のくれる料理を受け取り、帰る。
 何度目か知れないため息をついて、夏清がかばんを肩にかけなおしたとき、中で携帯電話が鳴り出した。発信者は草野。
「もしもしー?」
『あ、委員長今ドコ?』
「いま? 駅。コレから家に帰るとこ」
『ホント? よかった。今ね、そっち着いたとこ』
「は!?」
『今日泊めて』
「え!?」
『カレシのとこ行こうと思ったら研究押してるから大学にに泊まり込むとか言うのあのバカ!! だから当初のアリバイ通り委員長のとこ泊めてもらおうと思って。だめ?』
「アリバイ通りって……」
『あ、ごめん、いつも使ってる』
「そう……別にいいけど」
『それで、ダメかな?』
 しばらく考える。多分、帰ってもまたなにも言わずに俯いたままご飯を食べて、部屋に帰って、勉強なんか手につかなくて、メビウスの輪のように終わりのない堂々巡りの思考にとらわれるだけだ。それならいつも無意味に明るい草野といたほうがいくらかマシな気分だろう。
「いいよ。駅前の……東改札の前にいるから」
『サンキュ』
 電話を切って、考えてから先に実冴に電話をかける。友達を連れていくからそっちに行って、二人とも泊まっていいかと聞くといいんじゃないのとあっさりOKされた。
 次に、井名里に。
 二コールで繋がる。
『どうした?』
「あ、あのね。今日、北條先生の所に泊まるから」
『なんで?』
 一気に声のトーンが『機嫌激悪』モードに落ちたのがわかる。その不機嫌さを隠さない声に、夏清の声のトーンも変わる。
「ちょっと、色々……あ、来ちゃったよ。ごめんあの……」
『お前、ここんとこなんかおかしいぞ。帰って来い。今どこにいる? ホントに響子さんとこ泊まるのか?』
 その言葉に、夏清のなにかがばちんと音をたてて切れた。
「疑いたかったらそうやって疑ってれば!? 私がドコで寝ようが先生には関係ないでしょう!?」
 やばい。わけがわからないけど泣きそうだ。そう思いながら、けれど指は勝手に動いて通話を切ってしまい、なんの迷いもなく電源を落としてしまう。
「ごめん、委員長?」
 電話を涙目で睨みつけたまま立っている夏清に草野が声をかけてきた。
「もしかして、ケンカしてた? 原因やっぱり私? もしアレなら、私……別探すけど……」
「ううん。いい。あんなバカもう知らない。行こう」
 絶対に断れないような空気を撒き散らして夏清が駅を出て行く。その後姿に草野は自分がなにかとんでもない失敗をしたことに気付く。
 気付いたところでどうするわけにも行かない上に、今夜の寝床の確保は草野にとって第一重要案件だ。ここのところ様子のおかしかった夏清の愚痴を聞くつもりが返って問題を増やしたことは分かっても、もうあとには引けない。
 見たこともない夏清のカレシとやらに、ごめんなさいと心の中で手を合わせた後、草野はどんどん先に行ってしまう夏清の背中を小股で走って追いかけた。
 
 
「オイコラ待てお前ッ!! ……切りやがった」
 慌ててかけなおしても、『電波の届かない地域にいるか電源が入っていないため、かかりません』という音声ガイドに繋がるだけだ。もちろん草野の合掌がここまで届いているわけもない。夏清も井名里も、留守電サービスには入っていない。舌打ちのあと北條の家に電話をかけてみる。
『はいもしもーっし、えーっと、あ、北條です』
「夏清は?」
『夏清ちゃん? 夏清ちゃんならさっき来てすぐ帰ったと思うけど、どうかした?』
 のほほーんとした公の返事に、あっそう、とだけ応えて電話を切ってしまう。
「あんの、バカが」
 何度かけても結果は同じ。携帯は電源が切られたままだ。
 ここ二週間ほど、ずっと様子がおかしかった。こうなってみてよく思い出してみると新学期に入ったころから時々なにか考え込んではいたが、ひどくなったのは六月に入ってからだ。
 何か考えているようなのだが、聞こうとしたら逃げる。勉強をするといわれてしまえば、無理に自分の部屋に引っ張り込むわけにも行かずにふらふらと部屋に帰っていく後姿を見送るしかできない。
 空気が抜けたような状態で、朝からぷすぷすため息ばかりつかれたら、一緒にいるほうがまいってしまう。今日こそはと思っていたら、いきなり帰らないと電話をかけてくる。夏清が一体何を言いたいのか、本当にわからない。
 再び舌打ちをして、井名里は車のカギを取って立ちあがった。
 
 
「……ただいま」
 玄関を開けてそう言うと、奥からお帰りという実冴の声が聞こえる。草野を促して家に入る。
「あれ? 夏清ちゃん帰ったんじゃなかったっけ? 礼良君とケンカでも……」
 もらっていた料理をこっそり返すためにダイニングに入ってきた夏清に、子供達とオセロをしていた公が問う。言いきる前にがつ、と実冴が殴りつけているが、名前が聞こえたらしい草野が、アキラアキラアキラ……と、ドコかで聞いたことあるなぁ という顔で記憶の中を探している。
「ま、まぁ ほら、よくある名前だしね。ところでご飯まだでしょう? よかったら一緒に食べて」
 もう本当に、黙ってなさいと公を見て実冴が話題を変える。
「あ、でも、いいですか?」
「いいよ。私も食べてないもの。実冴さんのご飯おいしいから、食べよう」
 去年の秋頃ヨリが戻ったらしいこの夫婦は、それ以前と全く変わらない様子で北條家に入り浸っている。実冴同様公も仕事をしている様子はない。生活は成り立っているのだが、それで子供達に大人とはなんなのか教えられるのだろうか?
「へー アナタが草野さん?」
 料理を出しながら草野の自己紹介を聞いた実冴が聞き返す。
「時々電話かかってくるわよ。お母さんから」
「げ」
 あの人は……と草野が割り箸の先を噛んでいる。
「面白い人ねぇ このあいだなんか一時間くらい世間話しちゃったわよ」
「すいません、変な人で」
「アナタもせめてアリバイで使うなら夏清ちゃんくらいには言っとかないと。危うく知りませんって言うとこだったわよ」
「まさか確認の電話かけてるとは、思ってなかったです。携帯持ってるし」
 口裏を合わせてくれていた実冴にありがとうございますと草野が頭を下げる。
「だめよ。お母さんにあんまり心配かけたら」
「それ、実冴さんが言うと説得力ないね」
 人生の先輩風を吹かせた実冴に、ぼそりと公が突っ込む。
「あー!!! なんてことするの!?」
 二人が食事をしている横で子供相手のオセロに真剣になっていた公が叫ぶ。ほとんど公の陣だったものが、実冴の一手で完全にひっくり返っている。
「子供相手にムキになってんじゃないの。コウちゃんいくつになったの? アンタ?」
「今の実冴さんよりは少なくとも五歳は若いですよ」
 四月に誕生日がきた実冴と、九月が来ないと歳を取らない公がそっちこそ何ムキになってるのと切り返す。当然のように手が出てきて、鈍い音とうめき声が聞こえる。
「ねぇ この人たちっていつもこんな感じ?」
「概ね。だいたい。こんなだよ。公さん殴られてない日ないと思う」
 と言うより、自ら殴られる為に失言しているのではないかと思えるくらい公は思ったことをすぐ口に出す。一人で思考しているつもりでぶつぶつ声に出しているような人だ。生きているだけでその育ちのよさっぷりを駄々漏れにしている。土台はかなりいい線をいっているので引き締めれば賢そうに見えるのに、どうにもいつもへらっと笑っていてバカっぽい。
「じゃあ委員長、毎日こんな面白いもん見てるの?」
「………」
 うらやましいと言わんばかりに草野が笑っている。確かに、見ていて飽きない人たちではある。
 つられて笑っていた夏清の笑顔が引きつった。
「公さん!! 玄関っ!!」
「え? あ、うん」
 夏清が叫ぶのと同時に条件反射のように公が立ち上がってわけも分からずに玄関へ向かう。
「どうしたの?」
 草野が怪訝そうに聞いても夏清は答えない。草野をどこに隠そうかと思っているうちに、玄関の押し問答が徐々に近づく。やはり実冴に頼むべきだったと後悔してももう遅い。
「いや、だから、居るけど今はだめなんだってば」
 誰かを必死で止めている様子の公の声と、やかましいというどこかで聞いたことがあるような声。廊下から続くドアが盛大に開かれて。
「あ、礼良くんだー」
 五秒ほどの空白をはさんで、子供たちが無邪気に、少年と少女のかわいらしいハーモニーを持って、公を押しきって入ってきた井名里の名を呼んだ。
 
 
 五人くらいの大人が余裕でかけることができるL字型のソファの長い部分に、夏清が制服のままうつぶせに転がっている。夏清の居る部分に向かい合った一人がけのソファに草野。短い部分で井名里が背もたれに身を投げ出して天井を仰いでいる。隣のダイニングからは実冴と公の言い争いが聞こえるが、五対一くらいの割合で実冴の声のほうが多い。
「で、え? もしかしてずっと前から? もしかしなくても委員長、駅で会ったとき向こうに帰るところだった、とか?」
 さすがの草野も、入ってきた井名里を見て一瞬固まった。そのあと立ち上がって指を指して『イナリアキラだ!!』と叫んで、人を指さして呼ぶんじゃねぇと井名里に怒鳴り返されていた。
 アキラと言う名前はどこかで聞いたことがある気がしたが思い出せなかった。それはそのはずで、草野は自分の通知表の表紙に入った担任の名前を覚えていただけだったのだ。聞いたわけではないので記憶の回線がうまく繋がらなかったらしい。
「じゃあさ、委員長が修学旅行のときいなくなったのって?」
 無言。二人とも応える気がないらしく、何も言わないことで肯定するつもりなのだろう。
「二年の総合評価になっても委員長の数IIの成績が九だったのも? 去年の夏に旅行に行ったのも? 秋の地区高合同体育祭のとき委員長が行方不明になったのも、スキー合宿で遭難したのも、この春の遠足のとき、あっ! あの時二人とも規定時間内に帰ってこなかったよね!?」
「……なんでお前、人のことそんなイチイチ覚えてんだよ」
 すらすらと学校行事での悪事を数え上げられて井名里がうんざりしたように言う。
「だって私、委員長のコト観察してるもん」
「するなそんなこと」
「まあいやだ。独り占めするつもり?」
「バカかお前は」
「バカはどっちよ!?」
 がばりと夏清が起き上がって噛み付くように井名里に言う。
「お前な、ちゃんと誰がいるか言えよ先に」
「言おうとしたら勝手に誤解したくせに! それになんで来るのよ!?」
「電話通じないからだろうが!! 電源切りやがったくせに。仕方ないからこっちに掛けたら公がもう帰ったとか言うし。でもいざこっちに来たらここ以外思いつかなかったんだよ悪かったな!」
「もうなによ。そんな信用できない? ここにいなかったら良かった? もう絶対帰らないから!! 好きにしたら!?」
 泣きそうな顔をして怒って、ソファを乗り越えて部屋に行ってしまう夏清に、井名里もさすがに言い返せなくて黙り込む。沈黙になる一歩手前で、草野が手を上げる。
「ハイ。質問。このこと黙ってたら数学、三つくらい成績あがりますか?」
 至極真顔でそう言った草野に、井名里が怒鳴り返す。
「元はといえばお前が今回の騒ぎの原因だろうがっ! バラしたら地を這ってる成績がマイナスになると思っとけよ!? ったく」
「あら。帰るの?」
「悪いか?」
 立ち上がった井名里に、公との口争いに飽きたらしい実冴が問う。
「ちょっと実冴さん、まだ終わってない! 大体ね、人の資産勝手に移動させるってどういう了見かって聞いてるでしょう!?」
「あーもう、即日で戻したでしょう!? バカほど持ってんだからあんな小銭でがたがた言わないで」
「小銭じゃないでしょ!? 億動いてるんだから。僕のメインバンクあそこだって知ってるでしょう!? 鎌倉のイトイのじいさまとか、章藍の旦那とか、桐生さんとかっ! 他にもごっそり。みんなその日にいきなり資産引き上げてるのキミの仕業でしょう!? 藤原頭取から泣きの電話かかって来て僕が気づかなかったらそのままにしてたでしょう!?」
 なんだかケンカの内容が井名里のことから離れているが、どうにも次元が違う気がして草野は黙って聞いているだけだ。
「あーもう、うるさ。ちょっとあるところに恩売っただけよ」
「じゃあ自分の動かしたらいいでしょ!? あるところってどうして僕のお金が哉の為に動かされなきゃならないんだ!?」
「いやよ。だって私、コウちゃんの実家キライだからあそこに預金なんて一円もないんだもん。ある人使わなきゃ。それにあんなトコ使わなくても資産運用完璧だもーん。コウちゃん、弟がピンチなのに助けてあげないの? アナタそれでも兄?」
「僕のだって全部計算してある!! 大体あっちが僕のこと兄だって思ってないじゃないか!」
「しなおしたってば。外貨運用間違ってたよアレ。外貨は時事に合わせてこまめに動かさないと痛い目見るよ? プランナー任せでしょ?
 あ、こら、勝手に帰るな。
 コウちゃん、思われたいならもうちょっと兄らしいコトしなさい。ちょっと手伝ってあげたんだから感謝しといて。アレは恩売っといて損にならない物件だもの。売れるときに売っとかないと。
 待てってば」
 終わらない言い争いにうんざりした様子で帰ろうとした井名里を実冴が二度止める。
「今回はアンタが悪いよ。よく思い出してみたら? 夏清ちゃんアンタにウソとかついたことある?」
 真顔の実冴にそう言われて、井名里が複雑そうな顔をした後、何も答えずに出て行ってしまった。
 
 
「いーいーんーちょーうー」
 ごんごんごんごんごん。言いながら言葉の数だけドアを叩いた草野に、前にも同じようなことがあったなぁと思いながら、夏清が室内からどうぞと返事をする。
「帰っちゃったよ? 実冴さんたちも。あと北條さん帰ってきてる」
 絨毯がひかれた床の上に、制服のままで膝を抱えて座っている夏清に、草野が言う。
「ん」
 膝の上に顎をのせて、夏清が草野にごめんねと謝る。
「いや、謝るのはこっちだよ。急だったし。なんかさ、委員長ホントに最近変だから、ちょっと話したいなと思ってたの」
 草野が夏清の前にぺたんと座る。
「最近の私、そんなに変だった?」
「すっげー 変だった」
 キッパリと言い切った草野に、夏清が苦笑する。同じことを少し前に井名里にも言われた。自分ではいつもと変わらないつもりだったのに。
「私が聞いてどうなることでもないだろうけどさ、言ったらすっきりすることもあるかもしれないよ。この際だからばーっと言ってみなよ。コレでもわりと口は堅いよ。少なくとも誰にも、この春委員長のブラのサイズがDになったことは言ってないから」
「ホントに目ざといよね」
「でもコレは全然、ホントに気づかなかったよ。ヤラレタってカンジ? で。委員長の悩みってアレのこと?」
 草野が笑う。つられて笑って、夏清が首を横に振ってつぶやくように言った。
「ほんとはね、私、地元の大学に行きたいの。草野さんが行くって言ってるとこ」
「え?」
 草野が志望している大学は、一応国立だが地方大学に類するマイナな大学だ。当然都内にある大学より数ランク落ちる。草野にしてみれば合格ラインギリギリの危険なレベルの大学だが、夏清なら全く危うげなくどの学科だろうが合格できてしまうだろう。
「みんな、東大東大って言うけど、私、別に行きたいと思わないの。そうなったら、また一人暮らししなきゃならないし。あ、えっとね、私、ここに住んでないんだ。先生と一緒なの。さっき草野さんが言ったとおり。あの時あっちに帰る途中だったんだ。私ね、いろいろあって一年のときは、一人で暮らしてた。でももう一人は嫌なの。一緒に居たいの。でもみんな、私のためだからって、いい大学行きなさいって。先生も、みんなそう言うの。
 それにね。みんなさ、簡単に行けるって言うけど、予備校行って分かったの。私より頭のいい子は大勢いるし、その子たちでも一日学校以外で十時間勉強するって言うのよ? 浪人してる人なんか、この一年全部受験に時間がかけられるんだよ? 東大行くのにみんな、当たり前だけど本当に勉強してるの。でも私は嫌。勉強だけなんてしたくない。せっかく、やっと楽しくなってきたのに、こんな大事な今を勉強だけに取られたくないよ」
 一年生のころは、そんな風に思っていなかった。勉強さえできればいいと思っていた。でも、井名里に出会って、自分は変わったと思う。自分だけのものだった時間は、誰かと共有できるようになって、夏清が持っている世界はものすごく広がった。
 もちろん、勉強は好きだ。何かを覚えることは楽しい。けれど学校で与えられる知識だけではなくて、北條や実冴、目の前にいる草野、そして井名里が考えていること。それを知ったり教えられたりすることも、とても楽しいことだと知った。
 要らない知識はないと思う。勉強して無駄なこともないと思う。けれどいろいろな人と接して、夏清は自分が実は世界のことなんてほんの一握りしか知らなかったことを知った。たくさんの常識と非常識。世界はもっとたくさんの分からないことが満ちていて、学校で教えられること以外のことだって、たくさん覚えなくてはならないことはあるのだと知った。
「私は、いまやりたいことがしたい。今知りたいことを、知らないままで居たくない」
「それ、誰かにちゃんと言った?」
 草野に聞かれて、夏清が首を横に振る。自分のわがままだとわかっているから、少なくとも井名里も北條も、夏清のためを思って言ってくれていることが分かるから言えなかった。今だって上手く思っていることが伝えられたかどうか分からないのに。
「……それさ、ちゃんと言わないとダメだよ。委員長以外の人間……例えば私がそんなこと言うと絶対頭ごなしに『バカなこと言ってないで勉強しろ』って言われるだろうけど、委員長なら大丈夫なんじゃないかな。自分はこうしたい、って思うんなら、言っていいと思うよ。言わなきゃ伝わらないんじゃないかな」
 珍しく、まじめな顔をしながら草野が続ける。
「委員長、先生と付き合いだして一年とちょっとくらい?」
 頷く。
「なんかさ、空気、まったりしてない? なんていうかこう、コミュニケーションの濃度が下がったって言うか」
 再び頷く。言われて気づく。確かに会話が減った。単語どころか、アレとかコレで通じてしまう。お互いの行動パターンに慣れてしまって、言わなくても『こうかな』という予測で動く。期待したものと少々ずれていたとしても、指摘をするほどのことでもないかとそれで満足してしまう。
「慣れてきて、うん。お互いにね、相手のこと知ろうって気持ちが怠慢になってきてるって言うか、同じこと考えてるだろうなってので動くの。でもさ、それじゃダメなんだよね。
 私もさ、高一のときそうだったの。年は離れてるけど私がちっちゃいころから一緒にいるのが当たり前で、やっとスキって言えて恋人同士になれたのに、もともと知ってることもあってあっという間にお互い恋愛に怠慢になっちゃったの。結局私が大爆発しちゃって。あっちのほうが一枚も二枚も上手でさ、今にして思えば巧いこと転がされた気もするけど、今は前より……なんていうか、相手のこと考えられるようになったと思うよ。それまで見えてなかった相手のいやな部分もいい部分も、多分そういうことがあってやっとちゃんと見えるようになったと思う」
 徐々に出来ていくすれ違いが、重なって大きくなる。何も言わなくても分かってよと、無理なことを望みだす。どうして自分が思うとおりに相手が動いてくれないんだろうと、思いはじめる。どんなによく知っていても、他人なのだから全て同じことを考えているわけではないのに。
 そんなことで、気持ちが繋がるわけがないのに。
「思ってること先生に言っちゃいなよ。明日学校でさ。絶対逢うんだから」
 ね、と言われて、夏清が頷く。うんうんと何度も頷く夏清の頭をなでて、草野が私も人のことは言えないんだけどさと笑う。
「だからもう寝ちゃおう。ちゃんと寝て、明日は万全の体勢で戦いに挑まなきゃ」
 
 
「むーかーつーくぅーっ!!」
 跳ねかえるほどの勢いで、草野が職員室のドアを閉める。廊下にいた生徒が、無条件で道を開けるほど草野が怒っている。
 身長が百七十を越える草野が不機嫌さを隠さずに肩で風を切って歩けば、そこらの下級生は問答無用で壁や窓に張り付いている。その後ろを『どうしてあんな頭のいい人がこの学校に来ているのだろう』という前置きでうわさが始まるくらい、存在そのものがほとんど伝説のような夏清がちょこんとくっついて歩いている。いろんな意味で有名な二人がこのところいつも一緒に校内を歩き回っていることを知らない人間はいない。
 井名里を追いかけて今日で三日目。
 授業を終えたら夏清を見もせずにあっという間にいなくなる。職員室も数学準備室も教員用のトイレも学食も。校内どこにもいないのだ。昨日までは捜索時間は昼休みと放課後だったものを、今日から十分間の休みも探しまわっているが、やっぱり午前中に井名里を発見することは出来なかった。
 携帯電話は全く繋がらない。家にかけても留守電にもなっていない。メールを送っても返事がない。
「どこ行ったのよ。コソコソ逃げ回って」
 教室に戻って購買で買った菓子パンの袋を破りながら草野が小さくつぶやく。前に座る夏清は、いつもは草野と同じく学食かパンだが、今日は実冴の作ってくれた弁当だ。
 クリームがはさまったフランスパンを噛み千切るようにしながら草野がコレからどこを探すか校内の探していない場所をぶつぶつつぶやいている。
「委員長。ちゃんと食べなさいって」
 ほとんど残したまま弁当のふたを閉じてしまった夏清に、こちらはほとんど一瞬でパンを食べ尽くした草野が言う。
「んー……今はいいや。お腹空いてないし」
 へらっと笑って夏清が答える。嘘つけと思うのだが本人は全く食べる気がないらしくちゃっちゃと包んで片付けてしまっている。
 ため息をひとつ。無意識だろうが顔をしかめて眉間に深いしわを寄せ、こめかみを人差し指で揉み解す夏清を見て、草野は予定を変更することにした。
「委員長。保健室行くよ。保健室」
 全く、コレは絶対夜もあまり寝ていないのだろう。それでも授業中は居眠りの一つもしないのだからたいしたものだが。
 
 
「あら、二人とも久しぶり」
 ドアを開けると、書類を整理していた塩野が二人を見てにっこり笑う。
「今日のご用は?」
「うん。委員長に頭痛薬と、ベッド空いてる? 一つでいいんだけど」
「開いてるわよ全部。今日は会議にでるから午後のサボリさんみんな出しちゃった。昼休みの間なら使っていいわよ」
 言われるままにベッドに座って、薬と水を受け取り、飲んでカーテンを閉める。なかでごそごそとふとんにもぐりこむ音を聞いて、草野がため息をつく。
「二人とも二年にあがったくらいから全然来なくなっちゃったから、忘れられたのかと思ってたわ」
「おかげさまで、どうもお互いそのくらいにストレスから解放されたみたいなんで」
 からかうように塩野にそう言われて草野が自嘲を含むような笑い方で応える。もっとも、昼休みしか保健室にいない夏清と、昼休みが終わってから午後の授業をサボるためにここに来ていた草野は、せいぜい戸口ですれ違うくらいでしかなかったので、夏清は草野のことを全く覚えていないようなのだが。
「あら、じゃあ今回は渡辺さんもストレス?」
 再び書類を片付け始めた塩野の背中に、草野が丸いすに座ってくるくる回りながら、固有名詞を出さずにストレスの原因である井名里に対してコレでもかと罵詈雑言を並べ立てる。
「あーもう。ハラ立つわ」
 リノリウムの床は上履きでじたばたしても大して音が出ない。それが更にストレスを生む。壁に叩きつけた湯のみが陶器から強化プラスチック製に変わっていて、割れなかったときの星野監督ってこのストレスをどう発散させてたっけとどうでもいいことで気を静めようとしていた草野に塩野が背を向けたまま答える。
「そんなこと言わないであげたら? 彼もねぇ ここに赴任してきてから一度も保健室なんか来た事ない人だったのに、ここ何日か毎日来てるのよ。胃薬とりに」
「そんなの、絶対委員長の方が重症だよ」
 胃でも腸でも心臓でも、穴あけちゃえと言わんばかりに吠えてから、草野がアレ? と気づく。会話が、成り立っていないか?
「しおやん、なんで知ってんの?」
「え?」
 驚いて立ち上がって更に草野が聞こうとしたとき、カーテンの向こうでベッドがきしむほど勢いよく夏清が寝返りを打つような音が聞こえる。二秒後、ノックも何もなくドアが開く。
「あ、井名里先生、今日も胃薬ですか?」
 草野が叫ぶ前に、塩野がいつもの調子でにっこり笑って書庫を閉め、薬の棚を開けている。
 草野を見た瞬間、顔をしかめたものの、夏清の姿が見えないせいか井名里が何も言わずに入ってくる。言いたいことなど山ほどあったのにいざ本人を目の前にすると何も言えなくなって、とにかく怒っているぞと態度で示す草野の前を通って、井名里が薬を受け取ろうと手を出す。
「井名里先生、ストレスは原因から取り除かないとダメですよ。薬ばっかり頼ってないで」
 出した薬を渡さないで塩野が言う。
「先生はともかく、もう一人の方が重症みたいですよ」
 塩野の視線がカーテンの閉まったベッドの方に動く。井名里がつられてそちらを向き、草野を見る。
「ち、違うっ 私なんにも言ってない!!」
 バラしたな、お前。と、そのまま刺さりそうな眼力で睨まれて、草野が首を振る。
「ってか! この人もっと前から知ってたよ! 絶対!!」
 必死で私じゃないよと言う草野から、まさかと塩野を見る。
「すいません、修学旅行のとき、病院で立ち聞きをしてしまいました」
 笑いながらそう言い放つ塩野に、返す言葉が見つからなくて、開いた口も閉じられずに呆然とした様子で立つ井名里。
「……しおやん、もしかしてあの時、この二人帰したのって……」
「おせっかいでしたか?」
 草野の問いに、やっぱり笑顔のまま塩野が答える。彼女は一年近く本人たちにも誰にも言わずに黙っていたのだ。社会的には問題かも知れないけれど、個人的には構わないと思ったんですと別段たいしたことでもなさそうに言う塩野に脱力した井名里が息を吐く。
「渡辺さんってしっかりしてそうですけど、ものすごく繊細ですよねぇ ……だめですよ、ひどいことしたら」
 さらさらと夏清の在室届を書いて草野に渡す塩野。トートバックの中をみて、よしとつぶやいてから今度はポケットから鍵の束を出し、小さな鍵を一つ外す。
「私、今日は午後から教育委員会の方で保健医の会議に出るんです。帰ってくるのは多分六時限終わってからだと思うんで、鍵は職員室のキーボックスにでも入れておいてください。ほら、草野さん、五時限始まるよ」
 井名里の手に、胃薬ではなく鍵を置いて、自分より頭一つ背の高い草野を引っ張ってあっという間に塩野が出て行ってしまう。
 ごゆっくり、と言う言葉とともに、ご丁寧に外から鍵までかけられた。
 手のひらの鍵に苦笑して、ポケットにしまう。ベッドに近づいてカーテンを開けると、ただ脱いでおいただけのベストとスカートが脱衣籠に入っている。慌てて被ったらしい薄い掛けふとん。くるんと体を丸めているのが、浮き上がった形で分かる。空いた部分に座って、一房だけはみ出している長い髪をとる。
 もう片方の手をついて、覆い被さるように屈んで顔を近づけて。
 いつもと違う香りのする髪に口付けて、囁くように。
「なぁ 俺が悪かったから、帰って来いよ」






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