2 対話


「だったら……」
 勢いよくふとんを下げて、その手で夏清が井名里のスーツの襟を掴む。
「だったら……なんで、電話かけてもかかんないし、メール送っても返事くれないの!? 私、メールでいっぱい謝ったのに、全部無視されて……もう……だめかもって……」
 屈んだ井名里の鎖骨のあたりにしがみつくようにして、夏清が小さな声で言う。顔は見えなくても、震える声で泣いているのがわかって、片手で抱きしめて不自然な体勢から抱き起こす。
「悪い。壊したんだ。携帯」
 謝ろうとしてその晩何度か電話をかけたが夏清の携帯電話は電源が切れたままだった。明け方になっても状況は変わらなくて、イライラして二つ折りのそれを開いたまま投げたら結合部分が割れてしまったのだ。
「じゃあなんで逃げるの? すごい探したのに、先生どこにもいなかった。ずっと話したいことあって、やっと話そうと思ったのに、全然いなくて、避けられてて、すごい悲しかったんだよ?」
「悪かったって。最初に逃げたらなんか気まずくてだめだったんだよ。それに、見つかったら絶対お前から謝られそうでイヤだったからほとんど屋上でタバコ吸ってた」
「屋上でタバコって……」
 新城東高校の屋上は、どの校舎も上がることは出来ない。非常階段も最上階までしかない。
 泣きながら、呆れたように見上げる夏清に本校舎の屋上だけはコツをつかみさえすればあがることができるのだと、教師のクセに高校生のようなことをしていた井名里が苦笑する。
「今回は、本気で、俺が悪かったと思ってるから」
 濡れた頬を親指でなぞる。触れるだけのキスをして、井名里がもう一度肩を抱いた。
「お前いないと生きたまま死にそうだわ」
 夏清と暮らしだして、タバコはほとんど吸わなくなった。アルコールの量もおそらくそれまでとは比較にならないほど減った。そんなものに頼らなくてはならない無駄な時間はなくなったし、夜はぐっすり眠れるようになった。
「じゃあ、なんで先生、私のこと通えないくらい……離れ離れになっちゃうくらい遠くの学校行かせようとするの? 私なんかいなくても、先生、ヘイキなんじゃないの?」
 夏清が身じろきをして体を離す。俯いた顔からまたぼろぼろ涙が落ちている。
「お前、一人で出て行こうって考えてたのか?」
 井名里が両手で夏清の顔をはさんであげさせる。目を閉じたまま泣いている夏清の顔を見て、歎息する。
「この出来のいい脳みそでもうちょっと考えろよ。別にお前が一人で出て行かなくても俺ごと引っ越したらいいだろうがよ、中間とって。ってか俺はそのつもりだぞ?」
 言われて気づく。そんな選択肢、全然思いつかなかった。井名里の住んでいる家はここにあって、当然彼はここに住みつづけると思っていた。
 平気なわけあるかバカと言われて、夏清が気が抜けたような顔で笑う。本当だ。ちゃんと言えばちゃんと分かる。そのまま笑いつづける夏清に、井名里が呆れたように言った。
「拗ねてた理由はそれかよ」
「ううん。うん。それもあるけど……違うの」
 息を吸う。当分止まりそうにないと思っていた涙が、もう全然出ない。
「私ね、多分東大は受からない。だってもうこれ以上、受験勉強しないもの」
「お前なぁ……」
 本気で呆れているのだろう、井名里の言葉が続かない。
「だって私、受験の勉強して東大行くより、先生と話したりくっついてる方がいいもん」
 細い腕が背中に回って、まだ涙で湿った頬が胸に当たる。
「あとから行っときゃよかったって後悔するなよ?」
「するよそんなの」
 肩と腰に手を回して抱きしめながら井名里が言うと、間髪いれずに夏清が答える。
「でも、行っても絶対後悔するよ。なんであの時べたべたしとかなかったんだろうって。だったらね、私は、今、私がやりたいことをしたい」
 どうせ後悔するのなら、やりたいことをして後悔したい。そう言い切られて井名里がため息をつく。どちらかと言うと回りに流されやすくて、みんなが望むのならと妥協している節のあった夏清が自分で考えて決めたことなら、井名里にはもう何も言うべきことはない。
 抱いていた手を肩に移して体を離す。何の迷いもない瞳をして、にっこりと見上げられてしまえば、つられて笑うしかない。
「なら俺も、やりたいことしていいか?」
 横になるためにリボンタイを取って第二ボタンまで外されたシャツの胸元に指をかけて引く。浮き上がった鎖骨から、滑らかな胸元に淡いピンクのブラ。プラチナの鎖と黒い皮ひもに通された小さなリング。
「……ヤダって言ってもするくせに」
 おかしそうに笑う夏清の顎を捉えてキスをしながらボタンを外す。あっという間にシャツもブラも取り去って、更にふとんをはがそうと井名里が体を浮かせて体を離す。
「にが……」
 タバコの味がするキスに、夏清が顔をしかめる。それまでしっかりとかけふとんを握ってた手でざらつく唇をぬぐうのを見て井名里がふとんを反対側に投げてベッドにあがりこむ。知らないうちにひょいと転がされて、抗議の声もあげられないまま、井名里が黙々とスーツを脱いでネクタイを解き、カッターのボタンをいくつか外すのを見る。
「先生? ちょっ!!」
「ナニ?」
 声をかけると、ベルトを外していた手を止めて、先に夏清の最後の一枚に手をかける。
 胸を隠していた手を伸ばしても、すぐに届かないところまでおろされていた。そのままあっさり引き抜き、再び自分の服を脱ぎだす井名里に、夏清が笑う。
「もしかして、溜まってる?」
 腕で体を隠しながら、いつになく直線的な動きをする井名里に聞く。
「……そう言うお前はえらい余裕だな? もしかして一人でやってたのか?」
「なっ! してないっ!!」
「ふーん」
「してないってば! ……自分こそどうなのよ?」
 ニヤリと笑う井名里に、夏清が顔を真っ赤にして言い返す。大声をあげかけて、ここがどこか気付いて声をひそめる。
「したよ。自分で」
「うわっ汚っ!!」
「こら、逃げるなお前っ」
 またいでいる井名里の下から這い出そうとした夏清の腰を掴んで引く。
「いやーん触らないでよう」
 言葉で拒否しても、夏清は楽しそうに笑っている。
「ホントにお前、してないの?」
「してないっ! ……ぁっ……したことないもん」
 また声をあげかけて、わたわたとあわててトーンを落とす。
「ホントに? 全然? 一回も?」
「してないってば。もうホント、その疑り深い性格直してよ」
「疑ってんじゃなくて確認だ確認」
 なんの確認よと、それでも笑っている夏清の右手を取る。
「じゃ、自分でココ触ったことない?」
 細い指にキスをして、腰を引かれたことで体勢が崩れて少し開いた足の間に導く。
「やっ……! それは……ある、よ」
「洗ったりとかじゃなくて?」
「………」
 目の回りを真っ赤にして、夏清が言いにくそうに口を動かす。
「修……学旅行のとき。取るのに、一回だけ」
 その時の感覚を思い出して、また今、そこに自分の手があることに。恥ずかしくてくらくらする。
「取るだけ、って思ったのに、なんか、変なカンジになってきて、だから、自分で、取れなくて……んっ」
「変なカンジって?」
 自分の指に添えられた井名里の指が動く。動かしているのは自分ではなくても、そこを触っている感覚が指とその場所から二重に伝わる。体が震える。
「や……だ」
「してみろよ。見ててやるから」
「やっぁん……でき、ないってば」
 手をはずそうとしても、しっかりと押さえられて、柔らかい場所でしか動かせない。
 徐々に、緩やかに湧き上がってくる快感。ほとんど毎日のように与えられた感覚に体が反応する。そう言えば、いつからして無かったっけと意識を逸らそうとしてもうまく行かない。
「ん、ふ……」
 されるままだったものが、じれったさに耐えかねて、自分で動かし出す。おずおずと、探るように、気持ちのいい場所に指を這わす。
 小さくあえぎながら、指を動かす夏清を見ながら井名里がベルトをはずす。
 呼吸とあえぎに合わせて、胸が上下する。柔らかく、自然に目を閉じて、唇は少し開いて。シーツをつかんだ左手と、忙しなく動く濡れた右手。控えめに響く音。
「巧いな」
 内腿をなで上げられて、夏清の体がびくりと跳ねる。
「ちがっ……だって、全部、先生の、真似……してるだけだも……んんっ! あ……やだ」
 脚を開くように、またいでいた井名里が体を割り込ませる。膝を抱えられて、夏清が体を捩る。
 最初は上から擦るようにしていた指は、いつのまにか中に入れられて、人差し指が第二関節まで埋まっている。それを見られて、夏清が急いで引きぬこうとする。
 井名里の手が腕を掴んでそれを阻止する。
「やっ……見ないで」
 恥ずかしくて、目じりに涙が浮かぶ。
「見ててやるから、最後までいけよ」
「あ、ヤダ……だめ」
 腕にあった井名里の手が、夏清の手に重なる。押さえるように動かされて、敏感な部分が自分の手のひらの下でぐりぐりと刺激される。細くても指が入った所から、空気が含まれた水音が耳に届く。
 自分がナニをしているのかわからなくなる。井名里の手が離れたのはわかったのに、促された動きが止められない。荒くなった自分の息が聞こえる。指を動かすと、反応するように少しずれて同じリズムでぴちゃぴちゃという音が聞こえる。
「ん、はぁっ! どう、しよう……ダメなのに」
「ダメじゃないって」
 シーツの上の手を取られて、左の胸に。どくどくと心臓が動く。無意識に、その振動に手のひらで覆うように、胸の上で手を動かす。空いた右の胸は、井名里が触っている。
「やっもう……んっ……!!」
 背中が反る。腰が震えて、腕が止まる。うっとりと閉じられていたまぶたは、わきあがる快感にきつく力が入って、眉間に一本皺ができるほど細いまゆが寄せられる。
 息が上がって、胸と肩が上下する。胸元まできれいな薄紅に染まって、双丘の間の小さな指輪が揺れる。そのまま一枚の絵のように。
 夏清の息が少し治まるまで眺めてから、井名里が聞く。
「気持ちよかったか?」
 声を聞いてやっとそこに井名里がいたことを思い出したように、夏清が目を開ける。とけたような目を彷徨わせたあと、小さく頷く。
 その素直な様子がもう堪らなくて、うっすらと汗ばんだ額の髪を払ってキスをする。
 額と鼻と唇。触れるだけのキスをしたあと体を上げて、その場所を隠すように覆う右手を取って、べったりとついた蜜を舐める。
「……んっヤダ……そんなの、汚いよ……やめ、て……はぁっ……ん」
 指の間を這う舌に、夏清の声が上ずる。余韻の中にいた夏清が、また乱れた息をつく。
「くせになりそう?」
 小指に舌をからめていた井名里が聞くと夏清が首を横に振る。
「ならない。気持ち、よかったけど……」
 はぁ、と息をついて。
「やっぱり、先生のほうが巧いよ」
 左手を伸ばして、井名里の頬に触れる。ふわりと笑って。
「先生とするほうが、私は好き」
 ダメになってよと言わんばかりに。
「そうか?」
 目を閉じて頷く夏清の耳元まで顔を近づけて、ささやく。
「俺も夏清とする方がいいよ」
 首筋にキスをして、おさまらない鼓動に震える胸を愛撫して、手のひらで覆うように細い腰をなでる。その全ての動きに夏清の体が反応する。
 潤んだままの場所にたどり着いて、そのまま指を滑り込ませる。最初から二本。
「んあっ!!」
 びくりと腰を浮かせて、夏清が小さな悲鳴を飲み込む。ここが学校で、しかも今は五時限の授業中だ。保健室は教室のある校舎から離れた場所にあるけれど、いつ誰が訪れるかわからない。
「あっあぁっや、ダメ……も……触っちゃやだ」
 自分の控えめな動きとは、全然違う井名里の指の動きに、腰の奥から溶けそうだ。
「ダメ……また……どうしっ! いやぁ」
 敏感な首筋と耳のまわりを井名里の舌が蹂躙していく。自然と浮きあがる体を支えようと、両手を井名里の脇から肩に回して、カッターを掴む。
「ひっ! んんっやぁっ!!」
 中を擦るように動く指に合わせて、腰が勝手に動き出す。責められて、がくがくと体を震わせて、再び夏清は、自分でやったときとは全然違う位置にある場所まで昇り詰める。
「あっあ!! あっんっ」
 先ほどの比ではないほど、乱れた息をついて夏清の体がシーツに沈む。ぜいぜいと荒い息。
 熱く溶けながら、しっかりと締めつけるそこから指を引きぬいて、カッターの裾でぬぐい、スラックスのポケットから財布を取り出す。目的のものだけ出して、背広やふとんを投げた方にそれも放る。
 己を取り出して、コンドームをつけて、何も言わずに井名里が一気に中に侵入する。
「んっ!! ふあっ! くぅんっ!!」
 夏清が体を丸めるように上にいるはずの井名里の体を探して腕を伸ばす。その体を抱き寄せて、腰を掴んでさらに奥へ。
「あっ! も……めちゃめちゃになりそ……」
 うっすらと目を開けて、井名里を見て夏清がそれだけ言うと、キスを求めるように目を閉じた。腰から下は別の命令系統を使っていて、勝手に動いているのだと思っていたのに唇はちゃんとそれに呼応して、むさぼるようにキスをしている。キスで悲鳴を殺すように夏清がうめくように吐息を漏らしながら角度を変えて何度も井名里の唇を探す。
 がつがつと腰を振って、時折かき回すように動きを緩やかに。強弱はそのままそこからあふれ出す音になって、体の中と外からほんの少しズレながら響きあう。
「……んっいっ……は。ッく……あん」
 内側から追い詰められていく。
「ね、変だよ。何回もいったのに、もうがまんできないっ! ぁん」
 ため息とも吐息ともつかない息を何度もはさんで、夏清が言う。痙攣するようにビクビクと細い体が震えて、ナカの温度が上昇したような気がする。
「俺なんか、もうとっくに限界超えてるよ」
 早まる動きと、高まる擦れ合う音。静かに休むことだけを目的にしていたベッドが、悲鳴をあげているように派手に軋む。もしかしたら、誰かに聞かれているかもしれない。そう思ってももう止まらない。
「めちゃめちゃになるのは、こっちのほうだ」
 最初から最後まで、ずっと密度の高いその場所に、その圧迫感に脳髄が締めつけられる。キスの合間に夏清がうめく微かな振動さえ薄い膜をモノともせずに伝わって、重力さえ無視させる。
 短くうめいて、井名里の動きが止まる。井名里の動きに揺すられていた夏清の肩を抱いて、二人で息がおさまるまで抱き合った。
 
 
「やっぱり」
 ほうっと息をついて、夏清がつぶやく。
「先生とするのが、一番いいや」
 言ってから恥ずかしくなって、照れたように笑う夏清に井名里が体を離し、笑ってため息をつく。
「支給品、もうひとつ入れときゃよかった」
「しきゅう?」
 試供、ではなく? と見上げる夏清に井名里がニヤリと笑う。それで大体わかった。
 五月の連休前に、男女に別れてはいたものの性教育があったのだ。それはちゃんと、女子にも配られて、夏清が受け取った分はその晩のうちに使ってしまっていたのだが。
「余ったやつ置いてないかな」
「ほんと、先生って、高校生とかわんないよね」
「お前なぁ……」
 くすくす笑っていた夏清が井名里のカッターを引く。人差し指を自分の唇にあてるしぐさ。
 数瞬あと、保健室のドアをがたがたと揺する音。
「やっぱりしおやんいないよ。どうする?」
「んー……しょうがない、職員室行こう。湿布くらいだれか持ってるんじゃない?」
 短い会話のあと遠ざかる足音。
「ってか、先生、六時限ウチのクラスの授業でしょ?」
 言われて腕時計を見ると、あと五分ほどで五時限が終わる時間だ。
「……そんなもん草野がなんとかするだろ」
 再び覆い被さろうとした井名里を両手で止める。
「さっきの子たちが職員室でカギ借りて開けたら?」
 鍵の閉まった保健医のいない保健室。
 密室で教師と生徒が二人きり。
 ちっと舌打ちをして井名里が体を離す。先にベッドから降りて夏清のシャツとブラを渡す。
「先生」
「なんだ?」
 背を向けてネクタイを締めている井名里に夏清が少し怒ったような声をかける。
「なんだ? じゃなくて!! 下着っ!! どさくさでポケットにいれたやつ返してよ!!」
 振りかえるとちゃんとスカートまで穿いた夏清がベッドの上で膝立ちになって右手を出している。
 ばれてたのかと、また舌を打って、井名里がスラックスのポケットに手を突っ込んだ。
 
 
 五時限の終了を告げるチャイムが鳴る少し前にこっそりと夏清が、その少しあとに井名里が出て、鍵をかけた。
 職員室に帰る井名里と、他の教師に連れられた体操服姿の生徒二人とすれ違う。確かにそのままいたら三面記事に載ったかもしれない。
 先に校舎をつなぐ渡り廊下を渡り終えていた夏清がほらやっぱりと顔を出しているのを見て、わかったから早く教室にもどれと苦笑する。
 共犯者の微笑を残して走っていく夏清を見送って、どうしたもんかなと頭をかく。
「クセになるのはこっちのほうだな」
 学校での夏清のガードは恐ろしく高い。声をかけても受け答えはかっちりと敬語で必要事項以外何も言わない。いつか何か理由をつけて二人きりになってやろうと思っていても彼女には呼び出されるような理由がまったくない。
 夏清と暮らすよりずっと以前、一人彼女を視線で追いかけていたころから抱いていた妄想どおり、そのうち数学準備室にでも連れこもうと井名里がよからぬことを考えていることなど夏清が知るはずもなく。
 チャイムとともにドアを開けて入ってきた夏清を見て草野がニヤリと笑った。きっと全部見透かされるだろうと覚悟していた夏清が諦めたようにへらっと笑う。
「うわ、この人、体力使ってきたくせに全然元気になってるよ」
 明らかに血色のよくなった夏清の頬を両側からつまんで、草野が夏清にだけ聞こえる音量で言う。
「もう大丈夫?」
「うん、ご迷惑おかけしました」
 ふざけたような夏清の答えに草野が笑う。
「全くもう、六時間目、絶対自習だと思ってたのに。引きとめといてくれるのが正しいクラスメイトのありかたでしょう?」
「何それ」
 ひそひそと楽しげに笑う二人を見て他の女子たちがまたキリカだけ委員長と遊んでてずるいと群がってくる。
 大丈夫だった? と聞かれて応えている夏清のお腹が、ぐう、としっかり人に聞こえるレベルで鳴る。一瞬会話が止まって、爆笑して、ご飯食べていい? と言って席に戻って弁当を広げた夏清の周りから、人垣がなくなったのはチャイムが鳴って井名里が教室に現れたからだった。箸を咥えたままの夏清に、ナニしてんだお前、といった顔をしたあと近づいて弁当を覗きこむ。まだ半分くらいしか食べていないそれを見て、呆れたようにため息をつく。
 恨めしそうに井名里を見上げながら弁当のふたを閉じる夏清。まだ……まだ食べたいのにと目が訴えている。
 しぶしぶ包んで、ちいさい巾着に入れられたそれを井名里が取り上げる。
 あー!! と言う顔をした夏清に、井名里が意地悪く笑う。
「返してほしかったら放課後数学準備室に来るように」
 ニヤリ、と笑う井名里の顔に、よくわからない不吉なモノを感じながら夏清が諦めたようにハイと答えた。






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