3 歌


「ねえカスミサン」
「なんですか? キリカサン?」
「ちょっと聞いていい?」
「聞くだけなら」
「うわ、聞く前からそれですかい」
「だってキリカが改めて聞くことって変なことばっかりだもん」
「ばっかりって……」
「ちがう?」
「……ちがいませんけどぉ」
 問題集にネコとイヌとウサギを足して二で割ったような奇妙な生物のらくがきをしていた草野がふてくされたように言う。
 時は四捨五入したら十二月、といってもいいくらいすぎた十一月、最終週。場所は井名里家のリビング。
「カスミ、ほんとに勉強してないでしょう? って聞きたかったの」
「してるよ。ほら、今だって。学校以外で一日二時間はやってるよ。おもに復習」
「うっわ。ムカツク。私なんか同じ大学行くのに寝ないで勉強してるってのに」
「それはね、コレまでの積み重ねの量が違うからです」
「わかっててもムカツクのっ! お願いだから志望校変えてよ、もっと難しいとこにっ! なんかもう私だけしんどい目に遭ってるみたいでイヤなのっ!!」
 じたばたと暴れながら草野がわめく。それに応えずに夏清が立ちあがって、冷蔵庫からリンゴジュースを取り出して、二つのグラスに注いでテーブルに置く。
「いやよ。回り……っていうか、学校のほう説得するのにどのくらい時間かかったと思ってるの。最近やっと高橋先生も諦めてくれたみたいなのに」
 時計を見る。そろそろ井名里が帰ってくる時間だ。テーブルに広げた、既に何度も読んで重点にチェックの入っている参考書を閉じて横にやり、ジュースを飲む。
 地元の大学に通いたいと言った夏清に北條は『あなたがそうしたいのなら』とあっさりと許してくれた。公も『行きたい所に行くのが一番いいのかもね』と同意してくれた。一番最後までブツブツ言っていた実冴も夏休みが終わるころには何も言わなくなった。
 二学期が始まって、井名里から学年主任の高橋に夏清の進学希望先が伝えられると、すぐに保護者が呼ばれた。
 忙しい北條に代わってやってきたのは実冴で、自分だって散々反対していたくせに、夏清をよりレベルの高い学校へ入れる事が本人のためであるという大義名分を振りかざして学校側のエゴを丸出しにした高橋と全面対決の末、もの別れの大ゲンカをして帰ってしまった。
 その次は、北條が来る予定だったのだが急な用が入って代りに公が来た。にこにこと笑って、高橋の言うことに頷く公に、言いたいことを言った高橋はこれで大丈夫だと思ったのだろうが、笑って頷いていても公が了解したわけではなかった。結局最後は『でも夏清ちゃんが行きたいとこに行かせてあげるのが一番だと思うんですよねぇ』という振り出しに戻った台詞を吐いて、やっぱりにっこり無意味に笑った。
 氷川公という人物は、その育ちのよさと顔のよさでなぜか相手を安心させることができる不思議な生き物だ。軟弱そうな外見だが、結構頑固で融通が利かない部分が多い。相手がしっかり聞いてくれているものだと延々と喋っていた高橋は、なんにも聞いていなかった公に敗北した。
 そして十月も半ばに入ったころ、やっと北條が学校に来た。この時は、学校側の人間は高橋と井名里だけではなく、応接室に校長と教頭までいた。
 既に説明も三度目で、ややつかれた様子だったがそれでも高橋は懇々説々、これまでで一番まともに話を聞いてくれそうな人物に学校側の意見を述べた。
 とにかく、夏清に考えを改めてくれるよう保護者からも説得してほしいと言う高橋の意見に北條が困ったように微笑んだ。
「私も、彼女にはいい大学を目指してもらえたらとは思います」
 やっと学校側の意志が通じたと高橋の顔に赤みが戻る。
「でも、大人のエゴで子供を振り回すのは、どうかと思うんですよ。彼女が選ぶ道は、必ずしも間違っているとは限りません。別に、何か社会に対して反することを望んでいるわけでもないですから私は彼女の意志を尊重したいと思っています」
 しっかりと学校側のエゴだと言われた高橋が少し怒ったような口調で北條に反論するが夏清が聞いていても、北條の言っていることの方が正しいと思えるくらい、高橋の反論は整合性が取れていなかった。
 血がつながらないからといって、少し放任が過ぎるのではと言った高橋に、夏清が反応した。立ちあがった夏清を制したのは北條だった。なにも知らないくせに、何を言うのだろうこの人は。歯軋りしてイスに戻った夏清に微笑んでから、北條が高橋に向き直った。
 おとなしく座った夏清にお前は黙っていろと言いたげな視線を送ってから、高橋が厭な笑みを作って北條に言った。
「渡辺さんの将来を考えるのならば、現時点で可能な一番よい道を示してやるのが大人の責任ではないですか?」
 この期に及んで『夏清のため』と言い放つ高橋に、北條がため息をつく。
「それが、大人のエゴです。彼女の将来も、確かにとても大切ですけれど、彼女の今だって同じくらい大切なはずです。彼女のことを考えるのならば、私は今すぐにでもこの学校を辞めさせて、他の高校に転校させるか彼女に大検を受けることを勧めますわ」
 キッパリと言いきられて、高橋が何も言い返せなくなる。慌てた教頭が、矛先を井名里に向けた。担任の先生からも何か言ってください、と。
 そう言われて井名里が、気の乗らない様子で口を開いた。
「なにか、といわれても……一番最初に説得に失敗した人間ですから」
 意見を求めないで下さいと言ったあと、ああそうだ、と続ける。
「高橋先生、人の出た大学をクズみたいに言うの、止めていただけませんか? 耳が痛くて」
 本当に耳を触りながらしれっとそう言い放った井名里の台詞に、今度こそ夏清がイスを蹴立てて立ちあがる。
「ウソ!? 先生あの大学でたの!?」
「知ってたら止めたか?」
「…………やっ……止めません!! 絶対意地でも行ってやる!!」
 わなわなと肩を震わせている夏清を見て、視線を高橋と教頭に戻して、井名里が言った。
「すいません。やっぱり失敗しました」
 言葉とは裏腹に悪びれた様子もなく、しかも全くすまなさそうではない態度のままの井名里に、誰もなにも言えなかった。これ以上その大学に行くな、と言える雰囲気ではなくなった。
 校長の盛大なため息が、全ての答えだった。
 話し合いはそこで終わって、忙しい時間を割いて来てくれた北條を井名里と夏清が来客用の玄関まで送った。
 靴を取り出した北條が、堪えきれないといった様子で笑い出す。
「全く、あなたもよくあそこであんなウソが……」
 その言葉に、え? と夏清が井名里を見上げた。
「先生、出た大学って」
「ああ、全然別」
 礼良君の大学はね、と北條が言ったのは都内の、夏清が行こうとする地方大学よりもずっとレベルの高い大学の名前だった。
「なっ! ……先生、バレたらどうするの」
「その時はな『俺と同じ大学なら行きたくないって言うかと思って』って言えばいい」
 つまりそれは、自分と同じ大学だといえば夏清が絶対に行くと言うことを見越してのセリフだったわけである。はめられたのは高橋達だけではなかった。
 握りこぶしを作って言葉をなくしている夏清を北條が笑ってなだめた。とにかく学校側は諦めてくれたのだからと。
 そう言われても釈然としなかった。なんだか喜んでしまった自分が悔しくて。
「変えるか? 志望校」
 上目遣いに自分を見る夏清に井名里がおかしそうに言う。
「変えない! 絶対変えない!!」
 地団駄を踏んでそう叫ぶ以外に、夏清は何も出来なかった。
 思い出したらなんだかハラが立ってきた。結局井名里には敵わないのだ。
 夏清がジュースを飲み干すのと同時に玄関が開いて、井名里が現れる。リビングで当然のようにくつろいでジュースを飲み、今日も学校で顔を合わせていたくせに久しぶりとでも言いたげに片手を挙げて挨拶をしている草野を見て、げんなりといやそうな顔をしたが何も言わずに自室に帰っていく。
「うがっ! ただいまもナシかい!?」
「大丈夫、キリカがいないときはちゃんと言うから、あの人でも」
「あー! もうそうやって人を邪魔モノ扱いするぅ」
「邪魔もの以外の何かだと思ってるのか、お前?」
 かばんを置いて部屋から出てきた井名里にそう言われて、うーんと考えてからやっぱ邪魔かもと納得している。納得したとしてもおそらく草野はここに来つづけるだろうが。
「だってだって!! なんで安月給の公務員で教師のクセにこんな広い家に住んでるのよ!? 私一人くらい混じったって大して負担じゃないよ、この広さ!!」
「悪かったな安月給の公務員で」
 夏休みの終わりのころ、やっと夏清が地元の大学に行くと納得したらしい実冴が、それなら引っ越さないかと言い出した。なんのことはない、井名里が住んでいるこのマンションは実冴のもちものだったのだ。九階にある一番広い部屋が空いてしまったものの、この不景気で入室者が望めずに空いていたのを、五階の部屋と同じ金額という身内価格で借りているのだ。五階の部屋にはもうすでに他人が入っている。
「どうでもいいから早く帰れ。今すぐ帰れ」
「いたいけな私のこと追い出してナニしようってんですかね、この人たち」
 追いたてるようにそう言う井名里に、草野がニヤリと笑う。
「アホか。飯食いに行くんだよ。出かけるだけだ」
「え? 出かけるの?」
 食事を作ろうとしていた夏清が振りかえって井名里に問う。
「ご飯? 実冴さんのとこ!? はいはい私も行きたいです!!」
 元気よく手を振り上げる草野に、誰が連れていくかと井名里が言う。
「草野、お前、本気で大学に行く気があるのか?」
「ううぅ あります」
「ならとっとと帰って勉強しろ勉強っ!! 死ぬ気でやらないとどこの大学も受からないぞお前、今のままだと。俺がかけた情けを無駄にする気か? その分二学期の成績から引いて欲しいか?」
「いやー!! それだけはヤメテクダサイ。わかってること言わないでよぅ……あー……もうっ帰るよ帰りますよぅ」
 ぶつぶつと文句を言いながら荷物をまとめて草野が立ち上がる。別にご飯くらいいいじゃないと、いいよと言おうとした夏清を井名里が止める。
「お邪魔しましたっ!」
「もう来るなよ」
「絶対明日も来てやる」
 ひひひひひ、と言う笑いを残して草野が帰っていく。
「塩撒け塩。あんなの家に上げてんじゃねぇよ、お前も」
「だって、ついて来るんだもん。それにキリカに教えてると確かに復習にはなるよ。うん。それなりに勉強のポイントは押さえようとはしてるみたいだし」
「ウソつけ、足引っ張りに来てるだけだろうがアレは。それより出かけるぞ」
 玄関に向かう井名里を追いかけて、夏清が聞く。
「え? ホントに出かけるの?」
「なんだそりゃ」
「いや、キリカ追い出す口実かと」
「電話あったんだよ実冴から。お前連れてすぐに来いって。用があるからついでにメシ食いに」
「ふーん」
 掛けてあったコートを取って羽織る。
「で、用ってなに?」
「知らん。どうせロクでもない事だろ」
 靴を履く夏清を待ちながら、井名里がそう言う。
「そうかなぁ」
「マトモなことで呼び出されたことあったか?」
「……ない、かも」
 急いで来いと言われて急いで行ったらただおいしい寒ブリが手に入ったとか、カスタードプリンがうまくできたとか、天然のわさびが手に入ったのでそばを打ったとか、大体そんな理由ばかりだ。確かにおいしいものが食べられるので行ってしまう自分たちも自分たちなのだが。
 立ちあがって、待っている井名里にしがみつく。
「でもいいや。ご飯作らなくていいし」
「だな。いくぞ」
 
 
「あれ? 北條先生のうちじゃないの?」
「ああ、響子さんスイスに出張中。さすがに実冴も三週間帰ってこないんじゃ使えないだろ」
 いつもなら直進するはずの道を曲がった井名里に助手席でFMで流れていた曲に合わせて井名里の知らない歌を歌っていた夏清がドコいくのと尋ねる。
「ところでお前さ」
「なに?」
「………歌だけはヘタだよな」
 頭がよくて、足が速くて、絵も上手い。
 なんでも出来そうな夏清だが、唯一、歌だけは……下手というより根本的な所で音程がとれていない、いっそ見事なくらいの変調だ。
 学校で教わる『歌』はそれなりに大丈夫なのだが、ころころと調子の変わる現代のヒット曲は、その変調っぷりが顕著だ。原曲をよく知らないのに、コレは調子が外れているなと言うことがわかるのだから大したものである。
「なっ!! ちょっと自分が上手いからってそんなはっきり言わなくていいじゃない!!」
 それなりに機嫌よく歌っていた夏清がさらりとひどいことを言う井名里に悔しそうに返す。時々音程がはずれることとは、本人も気付いているので違うとは言えない。
「いいじゃないか別に。そのくらい欠点あったほうが人間らしくて」
「ひどっ!! それもっとひどいよ! コレだけはどんなやっても直らないからものすごーっく、気にしてるのにっ!!」
 からかうようにカーステの音量をあげる井名里に、牙があったら噛みついていそうな様子で夏清がひどいひどいと繰り返す。
「もう歌わない。絶対歌わない」
 そう言ってぷいと外を向く。窓に街灯が浮かぶたびにひどく楽しそうに運転している井名里が映る。
「音感ってのは母親の胎内にいるときからついちまうんだってさ。胎教胎教って言って音楽聴いたりするより当の母親が何気なく歌う鼻歌とかのほうが胎児にはよく聞こえるからな、コレはもう遺伝とかじゃなくて、生れる前から母親のリズムに慣らされちまうわけだから、そりゃ子供もそのリズムで歌おうとするだろうよ」
「ああっもうそれ慰めてないでしょう? 絶対、貶(けな)してる。それってなに? じゃあ私の子はやっぱり音痴ってことじゃないのようっ!! そこに先生の遺伝子とかを期待してもムリってことですか!? ねえちょっと聞いてる?」
「大丈夫大丈夫。歌わなかったらいいんだからさ、妊娠中」
「できるわけない!! ってか、それ本当の話? いつものウソ?」
 調理中でも無意識に歌っているのに、どうやって通称十ヶ月、正味なところ九ヶ月くらいだが、歌わずにすごせるのだろうか。ヘタなのは自覚していても、歌うのは好きなのだ。
「さあな、でも俺の母親は、それを聞いて歌は歌わなかったそうだ。夏清の言う通り、実際のところこの話だってホントかどうか知れないのにな」
 信号が、黄色に変わる。いつもなら逆に加速して通りぬけるのに、井名里が静かにブレーキを踏む。
 複雑そうな顔をした夏清を見て、ニヤリと笑って。
「お前は好きなときに好きなだけ歌っとけよ。しょうがないから生れてから矯正してやるよ。俺が」
 信号が再び青に変わる。
「それで直らなかったらお前のせいにしとくから」
 車が再び、走り出す。
「………やっぱり、なんかムカツク」
 けれどそれ以上言葉が見つからなくて、流れていたFM放送を切り、夏清はシートを三段階くらいリクライニングさせて、ふて寝の体勢に入った。
 自分の母は、やっぱり同じように調子の外れたリズムで歌っていたのだろうか?
 井名里は、それでも母親の歌を聞きたかったのだろうか?
 聞いて確かめることのできない問いかけは、頭の中に降り積もる。いつか溶けてなくなるのだろうか? それともずっと、万年雪のようにそこにありつづけるのだろうか?
 着いたぞと言われるまで、夏清のなかにゆっくりと、疑問の雪が積もっていった。
 
 
「って、ここ?」
「そう、ココ」
 来客用らしき駐車スペースに車を入れて、降りてその建物を見上げる。
 白亜の外観。窓のとり方や防火壁の位置から、おそろしくゆとりを持って一つの『家』が形成されている。高級マンションが立ち並ぶこの地域でもひときわ大きくてきれいなマンションだ。しかも、ここはもう『県』ではなく『都』だ。『区』ではなく『市』ではあるのだが。
 北條のビルもそれなりに大きいし、彼女が一人で住むにはあの家はとても広いだろうがその比ではない。バカほどでかい。という表現がぴったりだ。
 口をあけて見上げている夏清に井名里が苦笑する。
「こっちに来るのは初めてか、そう言えば」
「うん。お金持ちだろうなとは思ってたけど、ここまでとは」
 最初のころ、夏清は本当に実冴が何をしているのか全く見当もつかなかった。北條の家に行けばほとんど必ずと言っていいほど入り浸っていて、仕事をしているそぶりもなく、何台も携帯電話を持っていて、よく電話がかかってきては平日だろうが子供を連れて泊りがけで遊びに行ってしまうような人である。
 そのうち書き物というか、コラムや地元の飲食店の紹介などの仕事をしていることを知ったが、それとて遊びの延長のようなもので大した稼ぎになっていないようだった。
 北條が倒れたとき、別れた旦那、つまり公を使ってヘリで四国から帰ってきた、と聞いたあたりから、これは住む世界が違うのかもとは思ったが、去年の今ごろ『ヨリ戻しちゃったわ』と笑って紹介された公は、夏清でも知っている大手商社の副社長だった。
 六月の一件後、夏清がいなくても北條家に……実冴のところに遊びに行っている草野によると実冴の身の回りのものはほとんど全て高級ブランド品なのだそうだ。別段華美ではないが、さりげなくコーディネートされているらしい。
 使っている化粧品のメーカーを聞いた草野が、夏清も知っている有名な女優の名前を出して、あの人とおなじ? と聞き返していた。実冴が笑って、一度いいのを使うと落とせなくてねぇ と言っていた。夏清たちのような普通の女子高校生は、俗に『コンビニコスメ』と呼ばれる三八〇円の化粧品でさえ一つ買うのにどうしようか悩みまくるのに、彼女が使っている化粧品ひとつの値段で、そんなレベルのものなら棚ごと買えてしまうのだろう。
 なれた様子でセキュリティを抜けて、井名里がエレベータの前を通りすぎてしまう。どうしてと聞く前に、エレベータホールの一番奥のドアの前で、先ほどのセキュリティと同じような数字盤を押す。
「ほれ、閉まるぞ」
 言われて慌てて乗り込む。
「これって、もしかしなくても」
「専用機だ専用機。あいつらペントハウスにすんでるからな」
「じゃあやっぱりここも、実冴さんの?」
「モトは公のだ。バブルがはじけたあとすぐくらいはこう言う物件が叩き売りに遭ってたからな。今はさすがにそう言うのはなくなったらしいけど」
 手切れ金と子供の養育費と言う名目で、公の持っていた都内とそのベッドタウンとなる地域の不動産はほとんどが実冴に譲られたのだと言う。それを聞いて、道理で仕事もしなくてもゴージャスに生きていけるわけだと納得する。
「そんなもんなくても充分売るほど金なんかもってるけどな。あの女。前に公が言ってたけど、さかのぼったらどう考えても小学生って歳のころから『財テクなら北條の実冴』って言われてたらしい。カネだけじゃなくて人脈もすごいぞ」
 到着を知らせる軽い音が響き、エレベータのドアが開けばすぐそこが玄関だった。夏清が祖母と暮らしていたあの家より、ずっと広い。
 着いたことは下のエントランスで既に告げているので、そこで待ち構えていた双子達が早く早くと手を引いて中に招き入れてくれる。
「おお、いらっしゃい。今日はね、カニよカニ。松葉ガニ。北陸でとれた本物の近海モノ。やっぱり冷凍より生のほうがおいしいわよ」
 やっぱり食べ物だ。座っててと言われておとなしく待つ。
「……いつも疑問に思うんですけどなんで実冴さん、そんな全国いろんなところからいろんなものが届くんですか?」
 大人が十人は余裕で囲める大きなテーブルの真中に、ハイカロリーのカセットコンロと業務用かもしれない大きさのホットプレートが並んでいる。子供たちはお手伝いなのか、箸や皿を出している。子供となにをしていたのか知らないが、横で公が花札を片付けている。
「別にそんなたくさんないわよ。同じ人がいろんなもの送ってくれるだけだってば」
 ウソだ。絶対ウソだ。果物、野菜、魚介類に肉。乳製品に加工食品、ワイン日本酒ビールから非合法で醸造されたらしいどぶろくと呼ばれる妙な酒まで。食べ物以外のなにかもあるだろう。おそらくこの家に何かが届かない日がないくらいいろんなものがいろんなところから送られているはずだ。
 ただ単にお金持ちだと言うだけでそんなに貢物が来るわけがない。本当にこの人は何者なんだろう。
「実冴さんはね、すごいよ。携帯電話のアドレス、四機目ももうすぐキャパ超えるから。僕なんかよりずっと顔が広いんだよ。実冴さんが『あの会社嫌い』って言ったら、その企業、翌日つぶれるよ。絶対。僕と離婚したとき、実際氷川もやばかったんだから」
 花札を棚にしまいながら公が笑う。いま、さらっとものすごく怖いことを言われた気がするが、聞かなかったことにしておいたほうがいいのだろうか?
「私と離婚したくらいでつぶれるほどヤワい会社じゃないでしょうが。あなたが十年近くかけてダメにした部門くらいよ。私が敵うのなんか。夏清ちゃん信じちゃダメよ?」
 こちらもさらっとひどいことを言いながら実冴が反論している。うわぁ傷ついた、と胸を抑えて机に突っ伏した公の周りに最近夫婦漫才に混ざると面白いと言うことが分かってきたらしい子供たちがお父さん大丈夫だよ、死んじゃってもいっぱい保険入ってるから、と群がっている。
 二人の到着を待つだけだったらしく、フルコースのようなカニづくしの食卓では、そのままほとんど会話もなく黙々とカニを食べつづける。
 『コウちゃん』『実冴さん』とお互いの呼び方で立場の優劣ははっきりしているこの夫婦だが、食事のとき公が席を立つことは絶対にない。実冴がちゃんと用意していることもあるのだろうが、公の茶碗が空になりそうになったらさり気なく実冴が『お代わりは?』と問うのだ。いるときは『いただきます』と出される茶碗をもって、実冴がよそう。する方もしてもらう方も、実に自然に。
 なんだかんだといいながらお互いちゃんと夫婦をしている二人を見て、うらやましいなと思う。
 井名里は勝手に自分でお代わりを入れてしまうし、やるよと言っても断られる。井名里のほうが食べるのが早いので、逆についでになにか取ってもらったり、してもらうことのほうが多い。
「もういいのか?」
 ぼーっとその様子を見ていて箸が止まった夏清に井名里が声をかける。
「もうちょっと食べる。焼いたやつ」
 ハイハイと、夏清の皿にカニの足がいくつかのる。
 皿のカニをじーっとみて、自分もついでにとってほぐしている井名里を見る。
「……食うか?」
 きれいに殻からでたカニの身を差し出して、しょうがないなと言う顔で笑われたので、望んでいたこととは正反対だけれど頷いて食べる。
「うまいだろ?」
 言外に『俺が剥いたから』というニュアンスで言われて、食べながらまた頷く。
「うわっ実冴さん、ちょっと見た?」
「見た見た。あの礼良君が人にエサ与えてる図」
 夏清の皿のカニを剥く井名里が、聞こえるような声でひそひそ話をする二人に嫌そうに言う。
「やかましい。お前らにはしないから安心しろ」
「なんか、愛が足りない感じよね。タダでカニ食べてるんだからそのくらいお返ししてくれてもよさそうなのに。鶴以下?」
「なら呼ぶなよ」
「だって! ああほら忘れかけてた。ものすごく大事な用があったのよ」
「はにのほはに?」
「夏清ちゃん、ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」
 飲み込むよりも速いペースでどんどんカニを食べさせられていた夏清がまぐまぐと口を動かす。飲み込んで、もう一度。
「カニのほかにもなんかあったの?」
「あったの。食べる前に言うとご飯マズくなるような話題が。アンタちょっときなさい」
 立ち上がった実冴に井名里が嫌な顔をする。
「私は、別にいいけど、ここでも」
 含みのある言い方にしぶしぶ井名里が立ち上がる。夏清がなに? と公に視線で聞いてもさあ? と返された。知っていてもいなくてもこの人は同じような反応を返せるから怖い。
 二人がダイニングの隅で会話を交わして三秒後、井名里の怒鳴り声が聞こえる。それに負けず劣らずの音量で、実冴が言い返していた。
「だから!! 私に言ってもしょうがないでしょう!? またとか言わないで」
「じゃなくて、何でお前が知ってんだよ?」
「本人から電話あったんだからしょうがないじゃない。礼良君にすまないって伝えてくれって。私のところに連絡するのが一番速いって分かってたんじゃないの?」
 振り返ってどうしたのと言う顔をした夏清を見て、井名里がため息をついた。実冴に何か言われて、諦めたように頷いている。
 井名里が何も言わずに不機嫌な顔のまま、夏清を手招きで呼ぶ。
 夏清が井名里のところまで行くのと同時に、実冴が何日か前の新聞を手にどこかから帰ってくる。
 フローリングの床に、一面をめくって二、三ページ目が開くようにそれを広げて、しゃがみこむ。夏清もつられてしゃがんで、実冴が指を指した写真を見た。中央に総理大臣。その横に、初老とまでは行かなくても、充分に壮年を過ぎた男性。
「井名里数威。参議院議員よ。大臣とかはしてないからマイナな人だけど、党内ではそれなりに微妙な地位にいるから、それなりにあっちの世界では発言力のある……ハズよ。この人が、父親」
 立ったままの井名里を見上げて、写真を見て、井名里を見る。
「このバカが情報操作してたはずだから、夏清ちゃんは知らなかっただろうけどね、こんな政治家がいることさえ」
 知らなかった。実冴の言うとおり。受験に必要そうな時事情報は新聞を読むより井名里に聞いたほうが速いし、重要なものは教えてくれるので自ら調べるようなことはしていなかった。テレビがないのでニュースを垂れ流しにすることもない。別に興味がある世界でもないと言うことも原因だが。
「井名里数威の後継者は、ちゃんといたのよ。つい五時間ほど前まではね。井名里優希って言って、礼良君の兄。今三十八歳、まだ独身。大学を出てからずっと父親の秘書を続けてて、次の選挙で井名里数威は引退することになってたの。六期勤めりゃ充分でしょうよ。で、回りはみんな優希が継ぐってことで動いてたのよ。くどいようだけど五時間前までは。その優希が、国外逃亡したの」
「国外、とうぼう?」
「そ、どうして逃げたのかもどこに逃げたのかも現在不明。ただ分かってるのは、何もかも投げ出してケツまくって逃げたってコトだけ。何もかも、人に押し付けてね」
 実冴が視線を上げたので、つられて夏清もまた井名里を見た。今まで見た彼の表情の中で、一番困惑していて、一番迷惑そうで、一番怒っている顔だ。
「その伝言まで人に押し付けたのよあの男は……私の番号わかるんなら直接かけたらいいのに」
 ため息混じりにそう言って広げた新聞をたたみ、実冴が立ち上がる。
「多分、今やっと井名里の本家も気づいたくらいじゃないかしら。もしなにか犯罪犯しててもニュースになる前に叩き潰す可能性は高いけど、どっちにしろ優希はもう家には帰らないつもりででたんでしょうね」
「だとしても、俺は関係ない。夏清。帰るぞ」
 立ち上がった夏清の手を取って、出て行こうとする井名里の前に実冴が立つ。
「だからっ! なんでわざわざウチに呼んだと思ってるのよ。今つれて帰ったらどうなるかくらい分からないの? ここでそんな弱味見せたら、そのままあんたたち物理的にも社会的にも二度と逢えないくらいのことされるわよ? 次の参議院選挙まで四年。そしたら礼良君は三十超えるから充分被選挙者だし、そのくらい経てば生徒に手を出した教師の噂なんか消えてなくなってるわよ」
「構うか。それに、先に俺はいらないって言ったのはあっちのほうだろうが。後継者なら他から探せばいい。井名里の血縁なんざ腐るほどいるだろうが」
「前とは状況が全然ちがうでしょう!?」
 上着を掴む実冴を見下ろして、井名里が静かに言った。
「違わないだろう? 俺が、俺である限り。やつらが本気で俺を担ぎ上げるなんて、そんなことは、ない」
 実冴の指が、外れる。
「とりあえず、あの男の手前、声をかけるのは俺から。それだけだ。俺が何をしようが、道を踏み外そうがそこらでのたれ死のうが構わないような連中だってことはお前が一番知ってるはずだろ?」
 それだけ言い捨てて、井名里は夏清の手を引いて、氷川家を出た。
 
 
 車内は無言で。
 ただ静かで。
 痛みを伴うほどの沈黙は、余計に口を重くする。変化の少ない高速道路は、空いていないものの渋滞をしていると言うわけでもなく、窓の向こうには単調な防音壁が延々と続いている。
 聞きたいことはたくさんあった。
 一緒に暮らしだして一年と半年近く経ったけれど、夏清は一度も井名里の家族を見たことがない。盆も正月も、彼は家に帰ることはなかった。
 とても自然に接してくれるから、最初は何の疑問も持っていなかったけれど、北條や実冴は、彼とどんな関係なのかも、夏清は知らない。聞くタイミングを逸したのもあるけれど、誰もその話題には触れない。
 夏清と出会う前の井名里が、どんな風に暮らしていたのか、夏清は知らない。知らなくても怖いと思わなかったから。だから、今日が良ければ良かった。明日も一緒にいられるのなら、何も怖くなかった。
 井名里の家は長男が継いでるから。
 その実冴の言葉に、井名里に兄が、少なくとも一人はいるのだと知ったけれど。
 井名里の実家が、どんな家なのか、知りたくなかったと言えばウソになる。けれど、実冴のことや、北條のことを少しずつ知っていくたびに、どこか、夏清の手の届かない場所にいる井名里にたどり着きそうで。
 そう、怖くなかったわけではなく。
 
 怖かった。
 
 お前なんかが来ていい場所じゃないよと、誰かに言われるのが怖かった。
 だから。聞かなかった。
 だから。聞けない。
 無言のまま、一時間半のドライブ。車は滑らかに、いつもの地下の駐車場へ。
 見慣れない車が止まっていた。黒くて、大きくて。それを見た井名里が、小さく舌打ちをするのが聞こえる。
「夏清」
「え?」
「先、上がってろ」
 こちらの車が止まるのと同時に、何人か、男性が降りているのが分かる。
「話、つけてくるから」
 そう言って、車から降りてしまう。夏清がのろのろとシートベルトを外して、車から出て、エレベータへ向かう。振り返りながら。
 エレベータに乗って、井名里を見る。
 夏清を見つめる井名里が、少し笑った気がした。
 
 
 結局。彼はそのまま、帰ってこなかった。
 
 
 朝まで玄関に座り込んで。
 じっと見詰めていたドアは、開くことはなくて。
 携帯電話は、呼び出し音はするのに、出ない。
 地下の駐車場へ降りて、井名里の車がないのを確認して、実冴に電話をかけた。
 聞き慣れた声を聞いたら泣けてきて、泣きながらいなくなったことを訴えると、とりあえず学校に行ってみなさいと言われて、制服に着替えて走って学校へ向かった。けれどそこにも、井名里の車はなく、職員室で聞いてもまだ来ていないという答えしか返って来なかった。
 途方にくれていると、けたたましくアスファルトの上にゴムの跡をつけて滑りながら真っ赤なスポーツカーが一台、校門を突っ切って入ってきた。乗っていたのは誰あろう実冴で、職員玄関にいた夏清を車に乗せると、暴走車に血相を変えた教師が来る前にまんまと逃げ失せた。
「今日は自主休校」
 それだけつぶやいたあと、インカムのついた携帯電話で誰かと会話を続ける。ずっと電話が繋がりっぱなしらしく、カーステから時折声が聞こえる。
『お待たせ。確定情報。井名里数威は今日は一日東京の屋敷にいるよ。誰かと会うとか、そんな予定も今のところなし』
 ステレオから、男性とも女性とも取れる中性的な声が流れ出る。
「さんきゅ」
『それから、こっちは未確認情報。井名里優希の足取り。シンガポール経由でロンドンに入って、おそらく海峡越えてヨーロッパに入ってる。そこから先はぷちっと切れてるね。こりゃプロの逃がし屋使ってると見て間違いない。パスポート偽造してる可能性も高いね。追跡するかい?』
「そっちはいいわ。別ルート思い出したの。リズ・ランディン。女。確かオーストラリア人。中国系……香港かもしれないけどそっちからの移民だから国籍はもしかしたら違うかも。歳は三十五くらい。十四、五年前日本に留学してたわ。いつ頃から来てたのかはわからない。この人物の現住所。いける?」
『いけますよ。二十……いや十五分待って』
「頼む」
 前を行く車を煽ってパッシング。強引に道を空けさせながら、三十センチの車間に割り込みをかけ、けたたましいクラクションで威嚇している。めまぐるしくギアを入れ替えて、無駄な加速と減速を繰り返して前進する。
「あの、実冴さん、これ、どこに……」
「井名里の実家!! アレが行って、なおかつ帰ってこれないトコなんかそこ以外にないわよ。ったくのこのこ何しに行ったのかしらね、あのバカも!!」
 追突寸前までまくったトラックを追い越して、再び車線を戻し、首都高外環に入る。時間帯のせいかひどく渋滞していて、実冴が小さく失敗したとつぶやく。
『実冴さーん』
「わかった!?」
『はい。井名里がらみでつっこんだらありましたよ。リズ・ランディン。本名っつーか戸籍にある正式名はエリザベス・ファンシャ・ランディン。現在三十四歳。子供が一人。現住所はニュージーランド……』
「まって、夏清ちゃん録音して、赤のボタン」
 言われるままにRECボタンを押す。よどみなく外国の住所が番地まで。
『……近場の空港のリスト押さえてるけど今のところ井名里優希らしき人物は入ってないよ。何かあったらまたこちらから連絡するってことでいいかな?』
「ありがとう。助かったわ」
『いえいえ。また呑みに行きましょ』
「分かった。最優先するわ」
『あ、そうだ、あの旦那連れてきてよ。面白いから』
「はーい。了解です」
 最新機らしきカーナビでリアルタイムの渋滞情報をとり、裏道検索をして、のろのろと流れる有料道路から、強引に降りる。同じところを回っているような錯覚さえ起こりそうな一方通行だらけの路地をぐるぐる走り回り、やっと道が開けたと思ったとき、マンガに出てくるような大きな鉄格子の門の前にドリフトをかましながら停車する。前のバンパーが門に擦れて火花が散るのが見えた。
 門の脇に付いたスピーカから『どちら様ですか』という女性の声が聞こえる。
「どちら様もこちら様もっ! 継森に言いなさい!! 実冴様だってね!!」
 三十秒ほどの間を置いて、門が自動的に内側に向かって開く。開ききるのを待たずにがりがりこじ開けながら実冴が侵入し、玄関の前にこれ以上ないくらい迷惑で強引なとめ方をしてついてきなさいとさっさと車を降りてしまう。
 大きなドアを、思い切り開け放つ。奥から小柄な老人があたふたと走ってやってきた。
「これはこれは……お久しぶりでございます。本日はどのようなご用向きで?」
「どのようなもこのようなもないっつてんでしょうが! 分かっててやってんじゃないわよっ! ウチのバカ親父出しなさい!!」
 慇懃にお辞儀をする老人に実冴が唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴る。
「あいにくと本日旦那様は……」
「いるの分かってんだって言ってるでしょう!? 調べついてのよ。こっちは」
 私の情報網ナメてんじゃないわよと続けた後、玄関から吹き抜けで繋がる二階を見上げて更に大きな声で怒鳴る。
「あんたねぇっ!! いい大人が居留守使おうとしてんじゃないわよ。出て来なさい!!」
 家中に響こうかと言う声で。
「久しぶりに来た娘にも逢えないくらい恥ずかしいことしてんじゃないわよ! 三つ子かあんたはっ!?」
 吠えるような実冴の声が高い天井にこだまする。問い直そうと夏清が口を開くのと同時に、どこかでドアが開く音がした。
 近づく足音にゆっくりと首を向ける。現れた人物は、画像の荒い新聞の写真では、そこまで気づかなかったけれど。
 以前、実冴が言っていた、メガネをかけたらと言う言葉。
 見上げたその人の顔は、深いしわがあってなお確かに、井名里礼良とそっくりだった。
 
 
 言葉もなく立ち尽くす夏清を一瞥し、実冴を見て井名里数威が疲れたような声で言った。
「礼良はここにはいない。帰っていないのか?」
「所在がわかったら誰が来るもんですか、こんな辛気臭い家」
 吐き捨てるように言う実冴に、見下ろす彼が苦笑する。
「言っておくが、別に無理やり連れてきたわけではない。私と話すからと夜遅くに来たのは礼良の意思だ。明け方には話がついた。少なくともこの家からは出て行った」
「な・に・がっ! 話がついたよ!? あんた何したの!? 何にもなく平和に終わってるなら、礼良君がこの子のところに帰ってこないわけないでしょう!?」
 夏清には分からない、実冴の確信。この子という言葉に再び数威が夏清を見る。
「正直に話したら? 何をしたの? 何を言ったの? そっちの返事次第で、もしかしたらあなたの望むものをあげてもいいわよ」
 胸元で腕を組み、足は肩幅。睨みつけるように階上の父親を見上げる実冴に視線を戻して、彼が本当にため息をついている。
「そちらに戻っていないなら一ヶ所しかないだろう。お前が思っているとおりだ。但し、その話を持ち出したのは我々ではなく礼良だ」
「ったり前でしょう? そうでもしなきゃあんたたち礼良君担ぎ上げようとするんだからしょうがないじゃない! 何もかも、あの子のせいじゃないのに、どうしてっ!! ああもうっ!! あなたが何もしなくても、あなたの取り巻きには常識ないのが選り取りみどりでしょうがっ!! 止めなさいよ。全部あんたが悪いくせにっ!!」
 無言の肯定。音が立つほど実冴が歯軋りをした。
「継森ッ!! 車と運転手を貸しなさい!!」
 自分の持っていたキーを老人に投げつけて実冴が言う。継森が主人に問うような視線を投げる。数威が頷くのを見て、彼は何も言わずに奥に引いた。すぐに玄関から車が移動する音が聞こえる。そのまま実冴が夏清の腕を取り、出て行こうときびすを返した。
「実冴。優希はどこだ?」
 静かな問いに、実冴が振り返る。
「こっちもアンタの想像どおりよ。十四、五年前、別れさせた女のところよ」
 住所を録音したMDを二階に投げる。
「大分前から計画してたんじゃないの? 足取り消すのにいろいろ経由してるみたいだから、今先回りしたら間に合うわよ。見つからない自信があるのか女のほうは知らないのか、女の方はまだそこに暮らしてるわ。着服した金も全部、そこに流れてたと見て間違いないわよ」
 受け止めたMDを見ながら、数威が問う。
「お前は、双子の兄が十五年かかって実行したことを、一瞬で壊すのか?」
 行き当たりばったりの衝動で、ここまで完璧に足取りを消すことは不可能だ。十五年は長すぎるが、少なくとも一年以上前から計画していなければ、無理である。
「……壊すのは私じゃない。あなたよ。私たちを、双子でも、兄妹でも無くしたあなたに、今更兄弟愛を問われたくはないわ。でもね」
 逡巡。
「優希と礼良君。どちらかを選べと言われるなら私は礼良君を選ぶわ」
 それだけ言って再び身を返した実冴を、数威が再び呼び止めた。
 実冴は振り返らない。足を止めただけで。そんな実冴を見て、夏清が井名里数威を振り返る。齢(よわい)を重ねたその顔は、何かを諦めたような、けれど、何かを諦めきれない……後悔するような、そんな表情を浮かべている。
「私は、お前を選ぶべきだったな」
 独り言のような彼のセリフに応えずに、実冴は夏清の手を引いて、井名里の家を出た。






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