4 過去


 あちこちぶつけてぼこぼこになっていた赤い車はどこかに移動されて、開けた玄関の前には深い紺のセダンが止まっていた。当然のように開けられた後部シートへのドアをくぐって乗り込んだ実冴に続いて乗ると、やはり当然のように外に立った男性がドアを閉める。
「出して。とりあえず外環」
 運転手にそれだけ言って、実冴が携帯電話を取る。かけた相手は公で、やはり井名里が帰っていないことを確認すると、有名すぎて拍子抜けするほどメジャーな避暑地を行き先に指定した。
「あー!! がっ!」
 電話を切って実冴が意味不明のうめき声をあげ、柔らかいシートに沈み込む。
「もう、もうもうもうもうもうっ! バカばっかり!!」
 整えた髪が乱れるの構わずに頭をかきながらそう言って、実冴がため息をついた。
「………ごめんねぇ黙ってて。って言うか、私が言っちゃうのは反則なんだわホントに。礼良君もそろそろ全部言うつもりだって、ウチのお母さんには言ってたんだけど夏清ちゃんの受験終わってからの方がいいかなって話になっちゃってたから……」
 やっぱりまだ聞いてないわよねと、実冴が苦笑する。
「兄弟、だったんですか?」
 やっとそれだけ言えた夏清に、実冴が両手を合わせて再びゴメンナサイという。
「だったって言うか、うん。一応片親繋がってるの。優希ってのは私の兄。双子のね」
 どーしようもない人なんだけどと付け加えて実冴がため息をつく。
「いろいろめんどくさい家なのよ。北條も井名里も」
 それだけ言って両手を上げる。降参とでも言いたげに。
「ごめん。私から聞くより礼良君から聞かなきゃいけないことばっかりだもの。だから聞かないで」
 ため息をひとつ。そして車内は静寂に包まれた。
 
 
「夏清ちゃん? 大丈夫?」
 静かで乗り心地のいい車内で、昨夜一睡も出来ていなかった夏清はいつのまにか眠っていた。声が届いて、揺り起こされる。目を開けると景色が全て入れ替わっていて、一瞬どこにいるのか分からない。
 遠くの山にはすでにしっかりと雪が積もっていて、道路こそないものの、路肩にもうっすらとよごれた雪が溜まっていた。それを見ただけで、気温など変わらない車内にいるのに寒くなったような錯覚をおこして夏清の体が反射的に小さく震えた。
「ああ、もうすぐ。あと三十分くらいで第一候補につくわよ」
 目を覚ました夏清に気付いた実冴がお茶のペットボトルを差し出しながら言う。
「起こしてごめんね。なんか、ヤな夢見てそうで」
「いえ……」
 目がさめた瞬間忘れてしまったけれど、とても嫌な夢だった。目がさめた瞬間、夢でよかったと心の底から安堵した。
 サービスエリアに止まって買ったらしいお茶も少しぬるくなっていた。けれど確かにとても喉が渇いていて、空っぽだった胃に香味を含んだ液体がはいっていくのが分かる。
「四ヶ所くらいあるのよ。行きそうな場所。一番いそうなところから回るけど、いなかったらごめんね」
 高速を降りてから、実冴が指示する通りに車が走る。絵に描いたような別荘地を抜けて、写真でしか見たことのない外国のような木立の続く道を。
 不意に、続いていた木立が途切れる。意図的に切り開かれた、一面に雪の残った閑散とした駐車場。引かれた轍の向こうに一台だけ止まった車。
「ちょっ……!! 待ちなさいって」
 まだ走りつづける車内から、それ以外何も見えなくなった夏清が叫んでドアに手をかけるのを実冴が慌てて止める。その様子に運転手が急ブレーキをかけたものの、車が止まりきる寸前で、体を捩って実冴の拘束を外して夏清が飛び出してしまう。
「ぎゃー もうっ!! 怖いからやめてそう言うことは!! あっ! ちょっと待ちなさいって! ココめちゃめちゃ広いのよっ 案内がないと迷子になるから……って………本気で全然聞いてないわね」
 開けっ放しになったドアの向こうへ夏清の背中がどんどん小さくなっていく。あわてて車から降りて白い地面を見れば、ゆっくりと歩いた歩幅の大きな靴跡と、それを二つ半飛び越えるような勢いで続く、真新しい小さな靴跡。
「……とりあえず、これなら迷わないわね」
 
 
 何も考えずに、足跡を辿ってただ走って。どこをどう曲がるとか、そんなことも覚えていないほど。
 みんな同じに見える墓石の間を縫うように求める人の姿を探して、ただ感覚だけがとても鋭くて。
「先生!!」
 言葉といっしょに涙が出てきた。
 ここがどこなのか、考えなくても分かったから。
 力の限り叫んだのに、呼んだのに、喉からはかすれた声しか出てこなかった。生まれてから一番の全力疾走。涙に伴ってやってくる嗚咽と、上がった息が重なって、喉が鳴る。
 やっと見つけたのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
 四角く区画された墓地を囲う背の低い御影石に座って空を見上げていた井名里が本気で驚いて立ち上がって近づいてくるのが、涙の向こうに見える。
 伸ばされた腕が触れる寸前、一歩下がって、見上げる。
 本当はそのまましがみついてしまいたいのに、体はなぜか距離を保とうとする。
 嗚咽で体が震えるたびにぼろぼろ涙が落ちていく。どうしてこんなに悲しいのだろう。今までだって、もっと長い時間はなれていたことも、言葉を交わさないこともあったのに、たった一晩、ほんの一瞬。大切なものを見失うだけで人はこんなに不安になるのだろうか。
 こんなに疲れた顔をした井名里を見たのは初めてだ。こんなに、辛そうな顔をした彼を見たのは、きっと初めてだ。ずっとずっと一緒にいたのに。
 目を閉じる。目から入る情報が、もっともっと不安にさせる。
 息を吸う。体中の全部、入れ替えるように。
「私じゃ、先生のこと幸せにできない?」
 言葉にしてやっと、夏清はこの漠然とした不安が何なのか気付く。
 今まで一度も不安に思ったことはなかった。自分が幸せなら、自分を幸せにしてくれる人も、同じように幸せでいてくれると信じていた。けれどそれはみんな夏清一人の思い込みだったのだとしたら? ずっと井名里が、一人だけで、何かに苦しめられていたのなら? いつだって与えられるばかりで、何も返していない自分を見つけてしまった。
 痛いくらいの沈黙。どこまでも続く一瞬。
「夏清」
 初めて名前を呼ばれたときよりも強く、心がずきりと音をたてる。何度も呼ばれたことがあるのに、今日は全然違って聞こえる。
 長く、吐く息が白くにごるほど寒い屋外にいたせいで、ひどく冷たくなった井名里の指が熱った夏清の頬をすべる。その温度差に夏清が息を飲んで目を開けた。
「お前以外誰がいるんだよ?」
 冷たい手のひらに両頬がはさまれる。
「ならなんで」
 見上げれば、やさしく微笑む顔がある。
「なんで一人でどっか行っちゃうの? そりゃあ私なんか、全然たよりにならないだろうけど、先生のこと何にも知らないけど、でも先生がどっかで、一人で、そんな悲しい顔してるのは、やだよ。何にもできないけど、やっぱり一緒にいたい」
 頬に当たる大きな手に、手のひらを重ねる。こんな風に何かの感情を殺しながら微笑む顔は、初めて見る。なぜか見ていられなくて、顔をうつむける。大きな手は、それを止めることなくそのまま。
「そういうの、先生には邪魔かもしれないけど……」
「わかったから、もう何にも考えるなよ。んなことあるわけないだろ?」
 うつむいた顔を覗き込むように、身をかがめた井名里がため息のような息をつく。
「惚れた女に情けないとこみられたくないだろうがよ」
 ふわりと、触れるだけのキス。
 一人になりたくて車を走らせたらここまで来ていた。一人でここにいても、考えているのは夏清のことばかりで、どうしているだろう、心配してくれているだろうかとか、どう言い訳をして帰ろうかとか、そんなことをうだうだと。
「でもホントは一番逢いたかった」
 顔を見た瞬間、これまでバカみたいに考えていたことが全部どこかに流れて消えた。
 もう一度キスをして、その暖かさを確かめながら手を頬から耳へ。髪を触って、抱きしめる。
「最高だよ、お前」
 
 
「あ、もしもし? コウちゃん? うん。居た居た。あっちはほっといて私は帰るわ。井名里の家に寄って車とってからだから、四時間……五時間くらいかかるかしら。うん。土産、なんかいる? 漬物? もっとなにかかわいらしいもの……分かったわよ。そうね。確かに私、いつも帰ったらお茶漬け食べるけど」
 区画された墓地の中を、電話をかけながら実冴が車に戻る。
「あの二人? さぁ……適当に帰ってくるんじゃないの? え? 学校に連絡……しといてくれたの? 珍しく気が利いてるわね。……ああそう、お母さんにするように言われたわけね。だと思ったわ」
 一瞬でも褒めて損をしたとでも言いたげな実冴の口調に、電話の向こうの公が抗議するのを電話を離してやり過ごす。
「え? なに?」
 トーンが変わった公の声に、あわてて実冴が電話を耳元へ戻す。
「…………なに言ってんの。平気。泣いてるわけないでしょ」
 なにバカなこと言ってるのと言いながらそれでも目盛りひとつ気持ちの温度が上がったような、そんな心地よさ。自分さえ気付かなかった気持ちの揺らぎを見つけて、実冴が一つため息をつく。
「うん、なるべく早く帰る。子供よろしくね。はいはい大丈夫だってば、井名里の家の運転手つきだから。ん、じゃあね」
 会話の終わりの言葉。
「あ、コウちゃん。ありがとうね」
 公からの返事をさえぎるように、実冴が言葉を続けて、電話を切る。
「しっかし」
 苦笑して広大な墓地を振り返る。わざと新しい雪を踏む。きしりと立つ音を楽しみながら。
「よくもまぁ都合よく、雪なんか降ったもんだわ」
 おそらく一度も迷わずに、たどり着いたのだろう。何度も来たことのある実冴でさえ、迷いそうになりながらでないとたどり着けないあの場所へ。どんよりと鉛色の雲を流しながら沈黙を守りつづける空に向かってつぶやく。
「誰の差し金か知らないけど」
 
 
 井名里の背中に回った小さな手が、存在を確かめるように、そっとなでるように何度も往復する。何度か毛先を整えるために少し切っているものの、すでに腰まで届く黒い髪が目の前にある。いつもの甘い薫り、手触り。洗うのも乾かすのも大変だから、何度か切りたいというのを自分のわがままで切らせていない髪。
 肩から覆うように抱きしめて、片手を腰に絡めて、もう片方の手でその長い髪を梳く。いつもちゃんと梳かされているのに、ところどころ絡んでいる髪を、そっと解く。そんなことにさえ気を配れないほど、夏清の余裕を無くさせていたのは自分だ。ほとんど衝動で、気づけばこちらに車を向けていた。誰も来ないこの場所は、一人でぐずぐずと反省するにはもってこいなのだ。
 夏清のおかげで思い出すたびに心が錆びつくような感情は無くなったと思っていた。
 あんなにも簡単に母親のことを話せる自分など、ずっと年をとっても、死んでもやってこないと思っていた。
 だから平気だと思ってしまったのだ。けれど結局、自分はこうして逃げ出している。
 そして周りを振り回して、一番大切な人に要らない心配をさせて、不安がらせた。
「すまなかったな」
 小さな頭がふるふると揺れる。
 そして何かを思い出したようにゆっくりと顔を上げた。
「あのね、私、ちゃんとご挨拶してないの」
 とうの昔に死んだ人間なのに、なぜか丁寧な言葉遣いになっている夏清に苦笑して、井名里が拘束をはずすと夏清がそっと体を離す。
 井名里真礼の墓は、本人の希望で本家ではなくその一生、ほとんどすべて暮らしたこの避暑地のこの場所に作られた。
 ひっそりと。ほとんど参る人間もない場所に。
 黙って目を閉じて手を合わせる夏清と、墓石。たっぷりとそうした後その瞳を開けて、そこに刻まれた数字を見て、はっとした顔で夏清が井名里に振り返る。
 何も言えずにそのまままた見詰め合う。
 
 
 そこに刻まれた二つの年の差は、たったの十九年で。
 彼女の命日は、そのまま彼の誕生日だった。
 
 
「ハラ減ってないか?」
 唐突にそう問われて、夏清がきょとんとした顔をした後、笑い出す。どこかで聞いたことがあるせりふだと思ったら、初めて井名里の家に行った時、彼が最初に夏清にかけた言葉だ。言った本人も、夏清が笑ったことで思い出したのか、覚えていてわざと使ったからなのか笑っている。
「もし私があの時おなか空いたって言ったら、先生なにか作ってくれた?」
「そうだな」
「でもそれでおなかよくなってたら、私、あんなふうに怒って出て行こうとしなかったかも。ごちそうさま、って。脳みそに栄養のある血が通って、いろいろ考えることができただろうからそのまま自分でなんとかしますって、帰っちゃってたかも」
「まさか。帰すかよ」
「そう?」
「あたりまえだろ。ハラ減ってないならちょっと付き合え」
 言いながら井名里が手を伸ばす。
「教えてやるよ。全部」
「うん」
 伸ばされた腕ではなく、無防備になった腰に夏清がしがみつく。伸ばした手を無意味に握ったり開いたりしてから井名里が苦笑して細い腰を抱いた。
 
 
 車で移動すること三十分。別荘帯を抜けてたどり着いたのは、日本のどこにでもありそうな市街地のなかにある、最近建て替えられたらしいこぎれいな児童施設。低い門の前に車を止める。
「ここ?」
「そう。まずはここ」
 午後一時を少し過ぎたばかりで、昼休みなのか小さな子供たちが広い園内で声をあげながら走り回っている。
 大人の腰ほどの高さの塀。誰が作ったのか、小さな雪だるまが塀の上に並んでいる。広い庭の向こうにある三階建ての建物は壁にパステル調のモザイクタイルが施されていて、ふんわりと柔らかくて暖かだ。
「ここが……」
 井名里が何か言いかけたとき、奥の建物から年配の女性があわてた様子で出てきて、少し小走りになりながら二人のもとまで来る。
「来られるのでしたら、ご連絡いただけたらちゃんとお待ちしましたのに」
 驚いた様子で門を開けようとする彼女に、井名里が苦笑する。
「いえ。ちょっと寄っただけです。構わないで下さい。すぐに帰りますから。気にしないで仕事に戻ってください」
「でも……」
 何か言おうとした彼女の後ろから、火のついたような子供の泣き声と、彼女を呼んでいるほかの子供の声が聞こえる。
「本当に、構いませんから」
 さらにそう言った井名里の顔と、転んで泣いている子供を交互に見て、彼女は少し身をかがめるようにお辞儀をしてそちらに走っていった。
 再び二人きりになって、井名里は不意に手を握った夏清を見る。建物を見つめたままただぎゅっと手を繋いでいるだけ。ただ自分がいることだけを伝えるように、ぎゅっと。
 そっと握り返す。
「ここが、井名里真礼が八歳まで育った場所。今は井名里の家が寄付をしたりしてるからきれいなところだけど、四十年ほど前のここは、経営もシビアで小さかっただろうな」
 繋いだ手を引いて車に帰る。そこに居続けるとまた中から誰かが出てきそうな気配があったからだ。
 井名里が話しながらゆっくりと車を出す。
 今から四十年ほど前、大臣職まで歴任した、井名里から見れば祖父に当たる人物が病床に臥した。死に向かう床の上で、彼は五人の息子に告げた。
 最後に愛した女性を探してほしいと。死ぬ前に、彼女に逢いたいのだと。そして、その孫ほど年の離れた女性を見つけたものに、己のすべてを譲ると。
 芸術家肌の政治に興味を示さなかった四男を除いた四人は、文字通り血眼になって彼の言う女性を探した。手がかりはほとんどなく、誰も彼女を見つけられないまま時間だけが過ぎていく。確実に衰弱していく老人。
 誰もがもうだめだと思ったとき。
 井名里数威が一人の少女を連れてきた。
 女性を探しても無駄だったのだ。彼女はもう死んでいて、施設に一人、娘が居ただけ。
 はにかみながら『こんにちは』と言った真礼を見て、老人は笑って息を引き取ったのだと言う。
 そして、家督から一番遠いと思われていた、五男の数威がその全てを継いだ。彼だけが最後まで諦めずに、わずかな可能性をたどって、そして真礼にたどり着いた。
「で、次はここ」
 モルタル作りの、少しくすんだ白い建物の前、玄関に一番近い駐車スペースの車止めをはずして、井名里が慣れた様子でそこに車を入れる。先に夏清を降ろして、助手席の前のダッシュボードから見たこともない複雑な形の鍵が混じった、キーホルダーを出して井名里も降りる。
 正面玄関のパネルには、聞いたことのない病名が横文字で綴られている。その下にその病気の研究施設であることも書かれてある。
「ジェダマン氏病。ものすごくマイナーな病気で、実際のところ今もまだ原因不明の難病だ。特効薬もない。特効薬はないけれど症状を緩和する薬は、昔から他の病気の薬で代用されてる。今は栄養状態も環境もいいし、昔みたいに二十歳まで生きられないとか、そう言うことは少なくなったらしいけど日本でも毎年この病気を発症する子供は何人かいて、ここに入院する子供の数は減らない。増えない代わりに」
 二重扉になった玄関を抜けて説明をしながら井名里が慣れた様子でそのまま夏清の手を引いて奥へと向かう。
「発病するのは三歳までの乳幼児で、それ以上の歳の子供がなった例は今までには世界中でもないらしい。発病したら最後、死ぬまで薬漬けだ。治すためじゃなく、延命のためだけに」
 ひと気のない、ひっそりとした長い廊下の最奥のドア。大量に下がった鍵の束から、井名里は迷うことなく一本を取り出して差し込む。開錠される乾いた音がドアの向こうで響いた。
 ゆっくりと向こう側へ木製のドアが開いていく。換気が良くないのか、少し空気の匂いが違う。狭いわけではなく、けれど無駄に広くもないそのスペースには、上に昇る階段と、いつから動いていないのか分からない、見たこともないくらい古い、アンティークなほどこしのあるエレベータのドア。
「井名里真礼は、この病気にかかってたんだ。この施設も病院も、もともと彼女のためだけに造られた。死んだあともこの病気の、国内唯一の専門機関として井名里家の遠縁が財団を作って出資をしてる。金の出所は井名里家だけど一応政治家だからな、表立ってはやってない。経営してるのは北條の家。響子さんってやたらと忙しい人だろう?」
 うっすらと埃の積もった階段を一歩ずつ上がる。狭い踊場につけられた位置の高い窓から差し込む光に、舞い上がる埃がキラキラと反射する。
「普通に塾の講師だけしてるんなら、あんなに忙しくはない。北條の家は幾つも学校や病院やこういう研究施設を持ってるんだ。
 響子さんとウチの親父が出会ったのも、これがあったかららしい。北條の家は響子さんの兄が継ぐことになってたし、もともとビジネスで繋がってたから、今後より強く繋がれるようにって両家の親族同士が結婚を進めたんだ」
 勧めたのではなく。
 実冴たちが三つのとき、北條の家を継ぐはずだった諒也(りょうや)が事故で亡くなった。結婚したときと同じように、家同士の話し合いで二人は別れた。井名里には優希が、北條は実冴が。
「北條の家で実冴がどう暮らしたのか、俺も良くは知らない。俺が初めて逢った時、もう今と変わらない調子だったからな。昔はホントにすごかったらしい。殺しても治らないだろうってくらい、性格歪んでたそうだ。でも、実冴は変わった」
 ある日突然。変わるきっかけにつまづいたのだと実冴は笑っていた。だからあなたもつまづきなさいと。
 高校生になった実冴が、北條の家を継がないと言った事がきっかけで、北條響子は家を捨てた。とはいえ簡単に行くわけはなく、居を現在のビルに移し、少しずつ係わり合いを絶とうとした。
「実冴が公と……氷川の長男と結婚して、北條の家の連中もやっと実冴が本気で北條の家を継がないって事が分かって、今じゃかなり分家に振ったり分裂させたりしてるから、響子さんの方にかかる負担は減ってるんだろうけど、もともとあの人がやってる塾はアンテナショップみたいなもんで、代表者は違う人間だけどあの学習塾を実質統括してるのは北條の家で、仕切ってるのは響子さんだ。現場に携わらないと分からないことが多いからって無理してやってんだよ。他にもこことか、手放せない部分があるからあの人はまだバカみたいに忙しいんだ」
 三階分の階段を上る途中には、一度もどこかへ通じるドアはなかった。だた一箇所、三階の、今目の前にあるドアの向こうに行くためだけの通路。階段。エレベータ。
 鍵の束から、井名里が細いおもちゃのような鍵を選んで、鍵穴に差し込む。やっぱり内向きに開いたドアに井名里が背をつけて、夏清の手をひく。
 室内は、少しだけ色あせていたけれど、壁もドアも何もかも、おそらくもとはピンク色だったのだろう。夏清が知っている、病院の普通のものとは違う、御伽噺に出てきそうな天蓋をかけることができる広いベッド。そこにあったはずの布は、もうすでにないけれど。
 少し擦り切れたようなカーテンをそっとひいて、井名里がその向こうの窓を開ける。北向で、直射日光は入らないけれどその向こうにはとてもきれいな景色が広がっている。窓と向かいになった壁に飾られた、やっぱりすこし色の落ちた風景画と同じ景色が。
「今でこそ、病名さえ分かればこうやって専門の機関があって、金持ちが出資してくれるおかげで親も大した負担もせずに子供に適切な治療をしてやることができる。薬漬けで生活に一定の節制は必要だけど、それでも第二次成長期さえ乗り切ったら、大抵の人間はそれなりに生きつづけることができる」
 窓から離れて、井名里が分厚いマットレスの上に座る。反動で、廊下で見たものよりも可視的には少ないけれど白い埃がふわりと空気の中に浮く。
「でも井名里真礼は違った。八歳の時まで片田舎の小さな施設で、病名は分かってもほとんど認知されてなかったから大した治療も投薬も受けられずに成長して、医者からは最初十歳まで生きられないだろうって言われてたらしい。その頃だって、この病気に効く薬はあったんだ。ただまだ難病指定にもなってなくて、使う薬は保険の適用がなかった」
 容態が悪くなったら入院して、落ち着いたら退院をする。医者にかかること自体には孤児の彼女は無料だったはずだが、それも保険の適用内の話である。
「井名里真礼の、井名里の家に引き取られてからの十年近く、そのほとんど全部の時間が、ここでの投薬と試行錯誤の治療で終わったんだ」
 その甲斐があってか、真礼の病状は持ち直し、その命の期限も少しずつ延びていった。
 井名里数威が、二十歳以上年の離れた妹の真礼を溺愛していたことは、当時彼の周りにいたもので知らないものはいないくらい有名な話だった。確かに彼女がいなければ五男だった井名里数威が父の跡を継ぐことはなかったし、彼女の境遇は同情を誘う。
 けれど。
「井名里真礼は、ここで死んだんだ」
 俯いたまま、埃がつくのも構わずに井名里がその手でマットレスの上を撫でる。
 何も言えないまま、夏清がそっと井名里の頭を胸の中に抱き寄せる。いつものようにふざけたようなしぐさは一つもなくて、ただすがるように、しがみつくように彼の両手が夏清の腰に回る。
「実の兄の子供を。俺を、産むのと引換に」






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