8 真実


「あーごめんキリカ、アレ持ってる?」
 昼休み、ざわめく教室の中で他の女子と最後の追い込みと言わんばかりに無駄にあがいて問題集を解いている草野に、夏清が小さな声で聞く。
「アレですか。持ってるよ」
「頂戴」
「フツーのでいい?」
「いい」
 言いながら草野が立ち上がって、教室の前の廊下にあるロッカーへ行く。その後ろを憂鬱そうな顔をした夏清がくっついて歩く。
「明日試験なのに、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。生理痛とか、全然ないし」
「カスミが切らしてるなんてめずらしいね」
 ロッカーの扉とお互いの体でナニを出しているのか外から見えないようにしながら目的のものを夏清がポケットに滑り込ませる。
「うん。今月来ないかと思ってたから」
「は?」
「ううん。こっちの話。ありがと」
 礼を言ってふらふらとトイレの方向に向かう夏清を見送りながら草野が苦笑いをする。
「なんか計画的にヤバいことしてるな、あの人たちは」
 
 
 ため息をついてトイレからでたとき、ブレザーの内ポケットに入れた携帯電話ががたがたと震えだす。新城東高校では、禁止はされていないが音は鳴らさないようにという甘い指導だ。なので持っていない生徒を探す方が難しい。
 取り出してみると、発信者は実冴だった。待っていた返事だと直感が告げる。くるりと体を翻してトイレの中に逆戻りして、空いている個室に入る。
「もしもし?」
『あ、夏清ちゃん? 私。今昼休みだよね?』
「うん。大丈夫」
『さっき届いたよ。中身は予想通り。ウチは今夜でもいいけど、どうする? 明日センター試験でしょ?』
「行く」
『……即答したわねアナタ。分ったわ。んじゃこっちでお母さんと親父殿拉致してくるから、そっちも無理やり連れてきなさい』
「オッケーです」
『時間は……八時でいいかしら?』
「大丈夫、うん。今日はさすがに補習もなかったはずだから」
 十二月に入ってから、月曜日から土曜日まで毎日大学入試用の補講が組まれている。草野などは、毎日それに出た後予備校に通うという素敵な受験生ライフにどっぷり漬かった状態だ。補講を受ければ絶対こき使われることが分っていた夏清は出ていない。それどころか予備校さえ模試を受けに行くだけだ。端から見ればどう考えても受験を放棄しているのかという態度だがこの間受けた最終の模試の結果は余裕で合格ラインのはるか上空を行っていた。誰にも何も文句は言わせない。
「いろいろ迷惑かけてごめんなさい」
『いいわよ私は。忙しいといえば忙しいような、ヒマかって聞かれたらヒマって感じだから。今週末もコウちゃんとチビどもはスキーだかスノボだか滑りに行くらしいから今日の夕方から追い出すわ。それよりこの件の片棒担いで結果夏清ちゃんが大学落ちたりしたら、各方面から袋叩きに遭いそうでいやねぇ、それは』
「落ちません。不吉なこと言わないで下さい。あ、予鈴だ。それじゃ、私、先生にメールも入れなきゃならないんで切ります」
 どうしてなのか、夏清の周りの人間達は平気で『落ちる』とか『滑る』とか言い放つ。その筆頭は今会話中の実冴で、彼女については確信犯的にその言葉を選んでいる節がある。次点は公で、彼の場合はただ単に気にしているのだが無意識で使っているのだろう。どっちにしろ抗議しても直らない。
『ハイハイ。じゃあ今夜ね。家族だけにするから、心置きなくやりなさい』
 電話を切って、本鈴が鳴る前に教室へもどる。自分の席についてから、どうメールを入れるか考て、結局『早く帰ってきてね』の後に携帯電話間で使える絵文字を入れるだけにして、送信した。
 
 
「もうとにかくものすごく大事なことなの」
「……お前の受験以上に今大事なことっつーのは何だって聞いてるだろう」
「だからっ! 今日やっとかないと、私、明日普通に試験受けてられないの」
 十九時少し前に帰ってきた井名里を玄関で待ち伏せていた制服姿の夏清が、おかえりあのねと切り出したのは、今すぐ実冴の家に連れて行ってというお願いだった。じたばたと落ち着かない様子で足を踏み鳴らして怪訝そうな顔をする井名里を拝み倒す。
「お願いっ!!」
「……なんか、企んでるだろ」
「………」
 嘆息する井名里を上目遣いで見上げて、夏清が口をへの字に曲げる。
 今週に入ってから、夏清はやたらと機嫌がいい。少し前まで手を伸ばしたら引っかかれそうなくらいイライラした様子で、そのくせがっちりとしがみついて離れなかったり、どう見ても泣いていたとしか思えない顔で夜遅く帰ってきたりしていた。一緒にいても何か別のことを考えているのかボーっとしていることも多かった。
 訳を聞いても決まって『なんでもない。終わったらちゃんと話す』と黙り込んでしまう。後はもうどうやっても何も言わないのだ。実冴が一枚噛んでいるのも分かっていたが、そっちに聞いてもニヤニヤ笑って『知らなーい』とはぐらかされる。なにか企んでいるなと思っても、二人のガードが固いので、何も分からない。
「分かったって、連れてってやるよ」
 今日のコレで今までの夏清の変な行動の意味が分かるのなら、連れて行くしかないだろうと井名里が苦笑した。
 
 
「謀ったな?」
 氷川家のダイニングに入った瞬間、その中にいた人物を見て、ゆっくりとドアを閉じ、振り返った井名里が後ろからついてきた夏清に低い声を落とす。
 三秒無言で過ぎて、玄関へ向かおうとした井名里を夏清が両手を広げて阻止しようとする。
「だめ。みんないなくちゃダメなの。バラバラじゃだめなの。三十分くらいで済むの」
 広げた両手でそのまま夏清が井名里にしがみついて顔を上げる。
「ぐずぐずしてんじゃないわよ。終わらないでしょう。親父殿がレンタルできるの二時間しかないんだからさっさと来なさい」
 顔を出したものの中々入ってこない二人に業を煮やした実冴がドアを開けて腕を伸ばし、井名里のコートを引っ張って引きずり込む。
「観念して座りなさいって」
 実冴に引っ張られて夏清に押されて、仕方なく室内に井名里が入ってくるが、最大譲歩だと言わんばかりの態度で二人を振り切って奥のリビングのソファに行ってしまう。
「アンタほんと、後悔しなさいよ。その態度」
 背中を向けて座った後姿。しっかりと保たれたその距離に、呆れたようにため息をついた実冴が大きめのバッグからA4サイズの封筒を取り出す。
「預かってたものも全部入ってるから」
「ありがとう」
 大切そうに封筒を胸に抱いて、夏清が笑う。動かない井名里を見て、実冴と苦笑を交わした後、ダイニングのテーブルに着く井名里数威と北條響子をみる。全く表情を変えない数威がいま何を考えているのかは夏清には分からなかったけれど、北條は一緒に苦笑している。
「お忙しいのに、急に呼んでごめんなさい」
 座る二人に夏清がぺこりとお辞儀をする。
「夏清」
「なに!?」
「呼んで、じゃなくて、お呼びたてして」
 井名里に呼ばれてぱっとうれしそうな顔をして夏清がそちらを向く。相変わらず背中を向けたまま、井名里がどうでもいいようなことをつっこむ。
 とたんに表情を百八十度変えて、夏清が言い直す。
「いいのよ。気にしなくても。礼良君も、本題に入るのを伸ばそうとしてるだけなんだから。今日は本当に何があって呼ばれたのか私もこの人も知らないのよ。悪いことだったらどうしようかと思ってたけれど、夏清ちゃんを見る限りそうでもなさそうだから、どんなことかしらって早く教えてほしくてどうしようもないのだけど?」
 出ばなをくじかれて、しゅんとしてしまった夏清に北條がフォローを入れる。飲み物を入れなおしていた実冴が近くにいたら、きっと井名里は殴られていただろう。
「はい」
 やさしく催促をされて、夏清の顔に笑みが戻る。ごそごそと封筒のなかからさらに二通の白い封筒と、端がこげて、反り返ってぼろぼろになったノートを取り出す。
「どっちを先に見せたらいいか、ずっと考えてたんです。でも、分からなくなったから一緒に出します。白いほうは、真礼さんから、お二人それぞれに。ノートは、そのころあの児童園で園長をされていた方のものです」
 初めて、井名里数威の表情が動く。彼の視線を受けて、夏清がまっすぐに見つめ返す。
「……最初は、先生に……子供に、真礼さんが何か遺してくれてると思って探したんです。私の母は、自分が事故で死んでしまうことなんか思ってもなかったはずなのに、私に手紙を遺してくれていたから。だからきっと、もっと死が身近にあったはずの真礼さんなら、絶対なにか、遺してくれてるんじゃないかって」
「あの時の騒ぎは、これのためだったのね」
 表に『北條響子様』と書かれた封筒を取って、北條がため息を吐くようにそう言った。
「はい。あの時はご迷惑おかけしました」
 井名里家の血縁か、北條しか入ることができないあの部屋に入れろ入れないの押し問答をしたのは研究所の所長と実冴だ。結局、時差も考えずにスイスにいた北條に電話をかけて、北條が身元を保証してくれたので実冴の勝利に終わったのだが、所長は最後まで釈然としない顔をしていた。
「でもこんなもの、あの部屋のどこに? あの子のものは私が全部引き取ったのよ」
「絵の裏に。取るのに、了解なしに裏に張ってあった布を切っちゃいました」
 またごめんなさいと頭を下げて、夏清が言う。
「すごかったよ。部屋に入って真っ先にこの絵、壁から取って、振って、次の瞬間『あった!』って叫んでたもの」
「ウチのおばあちゃん、早くに死んじゃったおじいちゃんからもらった手紙、全部おじいちゃんの遺影の後ろに入れてたの。だからもう、これしか見えなくって」
 その時のスピードを思い出して笑う実冴に夏清が苦笑する。自分の行動は、とっさのものもそうでないものも、全部誰かが以前やっていたことばかりで、それが当たっているだけだ。
 封筒に手を伸ばした北條とは逆に、井名里数威はノートを手にとって、ポストイットがつけられたページを開いている。
「先生宛の手紙がなくて、正直がっかりしたのは本当です。どうしようか考えて、申し訳ないなって思ったけど、手紙、覗いてしまいました。だから、そのノートを探したんです」
 ページを繰る井名里数威の手が震えだす。ゆっくりと一言一句読み落とすことがないように、そんな速度でノートの文字を彼の目が追っている。読み終わると同時に彼が深呼吸のように吸った息をため息にして吐いた。
 自分宛の手紙を読んで、泣きそうな顔で微笑んでいた北條に、井名里数威が無言のままノートを渡す。
 ノートに目を通した北條が、立ち上がる。
「どうして、もっと早くっ……!!」
 本人さえ気づかない涙が、薬剤で処理されてごつごつとした手触りのノートの上で音を立てる。
「……そうすれば、誰もっ」
 開かれたページ。動けない北條。
「気になるなら意地張ってないで来なさい」
 そう実冴に言われて、それを待っていたようなタイミングで井名里が立ち上がって夏清の隣に来る。
 北條に断って、実冴がノートを取って井名里に手渡す。
「これが、真実。大人が目を逸らしてきた向こう側にあった、夏清ちゃんが見つけてくれた真実よ」
 黄ばんだノートは、普通に閉じていられないほどがさがさと膨らんでいた。うっすらとこげた表紙は下手に触ると壊れそうだ。
「肝心のページがね、のり付けされてたの。だから知り合いに頼んで読めるようにはがしてもらったのよ」
 インクが、薬剤のために薄くなって、向かい合うページの文字がさかさまに写っている部分もあったが、ちゃんと読めた。
 そこに綴られていたのは、懺悔の言葉だった。
 
 
 井名里の家が、井名里数威が、袱紗(ふくさ)を持った十歳程度の子供を捜していることを知って、真礼がそうであると連絡を入れたのは自分であると。病気を理由に親に捨てられた真礼を。お金さえあれば、生き延びることができる真礼を。
 孤児。ただそれだけの理由で適切な治療が受けられない真礼をただ救いたかったのだと。
 入退院を繰り返して、徐々に死へ向かうことを受け入れて、にっこりと笑って、眠る前におやすみなさいではなく、ばいばいと言う少女に未来を与えたかった。
 だから、真礼と同じ時期に引き取ってすぐに死んでしまった男の子が持っていたそれを、彼女のものだと偽って。
 必要な書類は、全て偽造した。その行為が法に触れることを知りながら。いつか真実が知れる時を恐れながら。
 何も知らずに、ただ現れた肉親に喜ぶ真礼に、何も言うことができなかった。自分と同じに、真礼に嘘を吐かせることができなかった。自分ひとりが黙っていれば誰にも分からないことだから。
 そう思ってきたのに、真礼が子供を生んだことを聞いたのだ。誰の子供なのか。真偽は確かめられない。けれど残酷なうわさに上る父親の名は井名里数威。
 自分が真実を言えば、もしもそのうわさが本当だったとき、その罪は雪がれる。けれど、今真実を言って、井名里家から莫大な寄付をもらってやっと子供たちに満足な環境を整えることができたのに、それが全て嘘だったと伝えたら。
 そして、自分は自分の益のために口を噤んだ。
 死ぬまで誰にも言わないつもりだった。
 けれど、もしも自分が死んだとき、この世の誰もこの真実を知る人間が消えたとき。
 自分の吐いた嘘が、真実になったとき。
 それさえも怖くて、文字に残したのに、何度も捨てようとした。燃やそうともした。けれど、消すことができなかった。
 最後に震える文字でただ詫びる言葉と、自分に代わって燃やしてくれるように。それだけ書かれてノートは真っ白になっていた。
「……ここんとこお前が休みの度にどこかに行ってたのは、コレ捜すためだったのか?」
「うん」
 問う声は低かったけれど、見上げた井名里の顔が笑っていたので、夏清がやっと安心したような顔になる。
 北條に宛てられた手紙にはただ、優しくしてもらった礼と、もしも無事に子供が生まれてきたのなら、その子にも自分にしてくれたのと同じように、優しくしてほしいという願いが、それだけが綴られていた。
 そして井名里数威に宛てられた手紙には、自分が知っていたことを、井名里の家の子供ではないことを、成長するにつれて思い出したのだと。
 自分には確かに両親がいて、病気を理由に病院に置き去りにされたことを思い出したのだと。
 それを読んで、夏清は探したのだ。
 真礼のほかにいたはずの、その真実を知る人物を。けれどその人はもう亡くなっていた。その人の家族に頼んで、蔵に整理もされずにつっこまれていた遺品の中を、捜した。
「絶対にね、あると思ったから」
「別に、今じゃなくてもよかっただろう」
 ノートをおいて、井名里が大きな手で夏清の頭をぐしゃぐしゃにする。
「それがねぇ、春に家を建て替えるとかで、雪がなくなったら蔵もそのままつぶすから要らないものつっこんであるって言われちゃって」
 今しかなかったのよねと実冴が苦笑する。
「でもね、それがなくても多分私、捜してたよ。いいことはね、絶対絶対、早いほうがいいもん。だからあの日あの後こっそり実冴さんに電話して、色々手伝ってもらったの次の週にもう一回病院に行って、そしたらすごいことが分かって」
「でもこの手紙は親父殿宛てのラブレターだったからねぇ。思い込みってこともあるからって、決定的な証拠を捜したわけ。捜したのは夏清ちゃんだけだけど」
「最初はね、先生はちゃんと必要とされて生まれてきたんだよって、だってそうじゃなきゃ、子供を産んだら絶対死んじゃうって分かってるのに、産めないよ? でも真礼さんは先生のこと産みたかったんだもの、そういうの、伝わる何かがあったらいいなって、そう言うのだけだったの。でも、捜したらもっともっと、最初からきっと幸せになれることがあったんだもの。もう、ずーっと言いたくて言えなくて、ほら、そんな気持ちじゃ絶対試験なんか受けられないでしょう?」
 放っておいたら髪の毛をめちゃくちゃにされそうで夏清が両手を挙げて井名里の手を取って一気にそう言う。
 夏清の言葉が終わると同時に室内に無機質な携帯電話の着信音が響く。背広の内ポケットから電話を取り出した井名里数威は短い会話の後、無言のまま立ち上がった。
「あら、もう時間?」
「ああ」
「送っていきましょうか?」
「いや。下まで迎えが来ている」
「そう。まあでも、下までくらいなら送るわよ」
「あ、私も」
 立ち上がる実冴に、夏清があわててついていくことを宣言する。
 今日はずっと座っていたし、前に逢ったときは距離と高さがあったせいで分からなかったが、井名里数威もとても背が高かった。複雑な表情で向かい合って数秒の無言。そのまま何も言わずに、差し出される井名里数威の右手には、手紙。
「……返しに来るのはいつでもいい。そのときには、私の方の整理もついているだろう」
「いいのか?」
「……ああ。ノートも、見つけ出した人間が持っているべきだろう。本当ならもっと早く、こんな誤解は解けていた。あの絵を、真礼が私にくれるといったあの絵を、自分の罪を思い出すことが怖くてそのままにした私のせいだ」
 真実がいつも人に優しいわけではない。むしろいつも、真実は人に厳しい。だからといって、目を逸らしてはいけなかったのだ。
 それだけを言ってコートを羽織り、出て行く井名里数威の後ろを実冴と夏清が追いかける。
「こっちも、読むといいわ」
 手紙を持ったまま、誰もいなくなった玄関の方を見ていた井名里に、北條が自分宛の手紙を渡す。
「……一度だけ、あの子が、真礼が泣いたのを見たのはたった一度だけだったのよ。どんなに苦しくても痛くても、いつも大丈夫、平気だって笑ってる子だったの。病気だからという理由だけで大切にされていることを知ってる子だったから、自分が泣けば私たちは何でも言うことを聞いてくれるだろうって知ってる子だったから、わがままを言ったのは一回きり」
 小さく微笑む北條の頬に、涙が伝う。
「あなたを産みたい、数威さんの子供がほしい。あのときだけ。あの子はきっと、私たちがこんなに長い間苦しむなんて思ってもいなかったんだわ。自分が死ねば、この手紙が見つかって、誰の罪も雪がれるって信じてたんだわ」
 井名里の手を取って、手紙を重ねる。
「夏清ちゃんの言うとおりね。あなたは本当に、必要とされてたのよ。あなたとあの子が一緒にすごせたのは、たったの八ヶ月くらいだったけれど、きっとその八ヶ月は、あの子にとって一番大切な時間だったんだと思うわ。あなたが生まれるずっと前から、いつもあの子はあなたの名前を呼んでいたもの。アキラなら、女の子でも男の子でも大丈夫でしょうって。歌うみたいにずっと、あなたの名前を呼んでたのよ。自分のお腹に向かって。絶対に産んであげるからって」
 手に、手紙に、涙が落ちる。
「どうしてこんなに大切なことを、もっと早くあなたに言えなかったのかしら。あの子が数威さんのことを本当にずっとずっと好きだったことも、あの人が真礼のことをを本当にずっとずっと好きだったことも私は知っていたのよ。知っていて結婚したの。結婚も離婚も家同士が決めたことだったけれど、やっぱり私自身が、あの人のことが好きだったからそうしたのよ。私は、あの人も、あの子も、あなたも……みんな好きなのに、やっぱりどこかに蟠(わだかま)りがあったのかもしれない。やっとこうやって、言えたのは……」
「もういいですから、なんにも言わないで泣いて下さいよ」
 そっと、腕を伸ばす。昔のようにその肩に。小さかったころはとても大きく感じたのに、北條の肩はいつのまにかとても小さくなっていた。
 
 
 手紙は、ごめんなさいという小さな文字ではじまっていた。
 わがままを言ってごめんなさい。苦しめてごめんなさい。本当のことが言えなくてごめんなさい。
 でも私は、あなたが好きでした。
 はじめて逢ったときからずっと。
 少し書いてはやめたのだろう。二行も同じ文字が続けば、その次の行は書いた日付が違うのか、同じ人物の文字でも少し違う。
 徐々に、少しずつ、少しずつ読みにくくなっていく文字。それでも必死に綴られる言葉。その中に滲み出す、真礼の想い。
 来年の同じ季節を思うたびに、その風景の中に自分がいないかもしれない不安。
 風に揺れて散っていく桜を見ながら。
 若葉に太陽の光が反射するのを見ながら。
 色づいていく山を見ながら。
 そしてその山が白く姿を変える、そんな当たり前の風景。
 大人たちは簡単に言う。
 『次も同じ桜を見ましょうね』
 きっと慰めてくれている。それは分かるけれど、その言葉はとても悲しかった。その言葉の裏側には、もしかしたら、もう見ることができないかも知れないけれどという言葉が隠れている。
 絶対に治らない病気。体の調子は歳を重ねるごとに悪くなっていく。今朝、今までの朝と同じように瞳を開けることができるだけでも、もしかしたら奇跡なのかもしれないと、確実に近づく死におびえながら真礼は毎日をすごしていた。
 そんな緩慢な日常に現れた人物。にっこりと笑って、ずっと捜していたと抱きしめてくれた井名里数威に、君は私の妹だよと言ってくれた人に。出逢ったその瞬間に。真礼は恋をしていた。
 彼の妹だと言うことがただうれしかった。その後すぐ彼は北條と結婚してしまったけれど、北條もとてもやさしくて、そうやって増えた義姉と言う存在は、とても頼もしくて、真礼は北條が世界で二番目に好きな人になった。
 自分のための病院。病気を治すための研修施設。どれもすばらしかった。ただひっそりと死んでいくはずだった自分と言う存在が、同じ病気の人間たちに希望を与えられるのなら、笑っていることも苦痛ではなかった。
 はじめは、ただ本当に、井名里数威と言う人の妹だと言うことがうれしかった。
 けれど想いは変わっていって、それは家族に対する愛情と一線を画しだす。同じころに、思い出したのだ。
 自分が、本当は病気を理由に両親に捨てられたと言うことを。
 三歳か四歳くらいのころだった。時々見舞ってくれた父と母がぱたりと病院に姿を見せなくなったのは。
 医者や看護婦が慌てていたことも、真礼が置き去りにされたことが分かって途方に暮れていたことも思い出した。
 そう、自分には確かに、両親がいたことを。
 そのことを思い出せば、恋する心が迷走を始めた。
 言ってしまえば想いは届く。けれど、血のつながりがないと知れれば、妹でない自分は、彼にとって何の価値もなくなってしまうだろう。
 言いたい。言えない。
 一進一退にみえる病気の進行。
 治療を受けられなかったころに比べるとその速度はとても緩くなっていたけれどおしまいは確実に見えてくる。
 長い長い廊下の向こうにある、天国の見える窓が、近づいてくる。
 このまま何もできないまま、やっぱり自分は死んでいくのだ。
 そう思うと、本当に死んでしまえば何も残らないのだと気づく。
 何もできない自分に、たくさん優しくしてくれた人に、なにも残せないまま、死んでしまう自分。
 なにも持っていないのなら、作ればいい。
 だから、必死で頼んだのだ。
 子供がほしい。子供を産みたい。
 当然のように、嵐のように周りからは反対された。
 原因不明の難病だからこそ、明日画期的な治療法が見つかるかもしれない。
 そんな魔法が可能なのだと、バカなことを考えるのはやめなさいという周囲の説得に真礼は頷かなかった。
 子供を産めば、真礼も、その子供も死んでしまうかもしれないと諭すように言っても聞かなかった。
 これまで十年。十年待って、何も変わらなかった。
 けれど、自分はあと十年、生きることはできない。自分の体だからこそ、そんなことは誰に聞かなくても分かった。
 その願いが聞き届けられないのならば今すぐにでも死んでやる。
 そう脅した真礼に、井名里数威も、北條も、折れるしかなかった。
 
 
「じゃね」
 マンションの前に来ていたのは、いつかのときに実冴と乗った紺色の車だった。
 あけられたドアの前で、しばらく考えるように止まったまま、動かなかった井名里数威が、ゆっくりと振り返る。
「あーハイハイ。先に上がらせていただきますわよ」
 夏清を見て、何か言いたい様子でため息を吐いた彼に、実冴が笑って帰っていく。
 その実冴がいなくなってからもさらに三十秒ほど。吹く風の中で立ち尽くす。
 やばい、くしゃみでそう、と夏清がハナに手を持っていったのをきっかけにして、やっと井名里数威が口を開く。
「……ありがとう」
「は?」
 ハナがむずむずと動いていたのも忘れた。小さな声が風の中に消えていく。油断した瞬間、夏清が盛大にくしゃみを連発した。
「ごめんなさい。雰囲気ぶちこわして」
 鼻水を啜り上げて、夏清が照れたように笑って謝る。打算のない油断だらけのその顔に、井名里数威が笑う。
「笑い方、そっくり。よく舌打ちとか、しませんか?」
 くすくすと、そのまま笑い続けながら夏清が言う。
「舌打ちか。響子さんがよく数えていたな」
「私も数えますよ。先生の舌打ち。なんかあったらすぐするの」
 『ちっ』って。と夏清が真似をする。
 その姿に、井名里数威がまた笑った。
「……君くらいの少女というのは、本当に、強いのだろうね」
 口元を引き締めて、井名里数威がつぶやく。
「真礼が、子供を産みたいと言い出したとき、私はとても慌てたよ。いつの間に、どこで、私が、私だけのために鳥かごのような病室に……飼うように閉じ込めていた少女が、自分の命を賭(と)してまで子供を産みたいと思うほどの男に逢ったのだろうと」
 だから反対した。けれど、真礼は絶対に諦めるとは言わなかった。
 仕事さえ手につかないほどの葛藤の末に、妥協して許したフリをした。そうすれば、彼女が想う相手が知れる。その男と、二度と逢えないようにするために、あの時の自分は彼女をだますために許したのだ。
 それが嫉妬だと言うことも、自覚していた。
「だが、真礼の口から出てきたのは、私の名だった」
 閉塞した世界しか与えなかったのは自分だった。
 もっとほかに、たくさんのものがこの世界にあることを教えてやれば、見せてやれば、自分の半分も生きていない少女が、自ら道を踏みはずそうなどとはしなかったのに。そう思い至って、押し寄せてきたのは後悔だった。
 言葉を切って、井名里数威が空を見上げる。雲ひとつないのにかすんだ都会の冬の空に心細く、広い空で迷子になった星を探すように。
「私は真礼が自分の妹だと言うことに何の疑いも持っていなかった。だから、真礼もそうだと思い込んでいた。そんな倫理観を無視させたのは私だ。一番多感な時期を、奪ったのも私だ」
 真礼に罪を犯させるのは自分で、それを決意させたのも自分だ。
「けれど私は、真礼の口から自分自身の名がでたとき、心のそこからよろこんでしまったんだ」
 その想いを隠して。彼女が望むからと言う理由を盾に。仕方のないことなのだと自分と周りに嘘をついた。
「真礼に何も与えなかったのは私だ。もっと他に希望を与えてやらなかったのも私だ」
 体外受精の技術など、まだほとんど確立されていなかった。当然、行われる行為に、そこにある背徳感に。望んでも手に入らないと諦めていたものに。酔っていたのは自分だ。
 あの時伝えればよかったのだ。ごめんなさいと泣きながら自分を受け入れる彼女に。
 好きだと。愛していると。妹でなくても、自分は彼女を求めただろうと。
 だから苦しむことはないと。どうして言えなかったのだろう。
 たった一人の少女に、三十年近くもたったのに、探すことが出来たのに、どうしてそうしなかったのだろう。
 ほんの少し勇気を出せば、ほんの少し努力をすれば手に入ったかもしれない至上の場所。
 手紙の中に謝り続ける真礼がいた。
 何も言えなくてごめんなさい、苦しめてごめんなさい。
 できれば私がいなくなって、この手紙をすぐに見つけてくれるように。この絵をあなたに。ありがとう。さようなら。たくさん迷惑をかけたけれど、私はとても、幸せでしたと。震える文字で。
「あの絵は。持って帰ることが出来なかった。見ていることが……出来なかった」
 だからあそこに残してきた。そしてその後、一度も行くことが出来なかった。
 妊娠して、産むまでの間、副作用の出る薬を一つも使えずに、体中が痛かったはずなのに、いつの間にこんなものを、遺していたのだろう。
 切迫流産。考えている暇などなかった。ほっておけば母体も子供も死ぬといわれて、井名里数威が選んだのは子供だった。何かあったら子供を。確かにそれは彼女の意思であったけれど、真礼を殺してしまったのは自分だ。
 帝王切開の麻酔が切れる前に、息を引き取った真礼に。
 一度も子供に逢うことなく、抱くこともなく、静かに死んでいった彼女に。
 井名里数威もまた、ずっと心の中で謝り続けていた。
「ありがとう。やっと、私の中の真礼が笑ったような気がする」
 吐く息がかすかに白くにごる。
 言い終わると同時に車に乗ろうとした後姿に、夏清が言う。
「私じゃないですよ。これは、いろんなものを遺してくれた人たちのおかげです。私は、見つけただけ」
「見つけただけ、か……見つけられなかった我々よりは、ずっとすばらしいことだ。残っているかどうかは分らないが、こちらでももう一度資料を洗いなおすつもりだ」
 最後にもう一度、ありがとうと井名里数威が笑って、車に乗り込んだ。
 静かにドアが閉まり、去っていく車が見えなくなるまで、夏清は手を振り続けた。
 
 
 食事を終えた後、北條と真剣な様子で一問一答を繰り広げている夏清から少し離れた場所で手紙を読んでいた井名里の隣に、コーヒーを淹れた実冴が座る。
「簡単そうに言ってるけど、このノート見つけるの、いろんなことがあったみたいよ。昨日お礼に行ったらね、向こうの人から、捜しに来てた子に謝ってくれって言われちゃったわ」
 毎週末やってきては、蔵の中を物色して帰る少女。たいしたものがないとはいえ、その少女を家に一人にしておくわけにもいかず、忙しい年末年始、家人はほとんど一日を拘束されていたのだ。嫌味のひとつも出てこなければおかしいだろう。年末にもう諦めてくれと言ったとき。
「土下座されちゃったんだって。絶対にあるから、見つかるまで捜させてくださいって」
 紙が多いので、蔵の中では火の気は使えない。白い息を吐きながら、埃まみれになって捜し続ける夏清の姿は見ているほうが痛々しく感じてしまって、手伝おうかという家人の申し出を断って、それでも一人で捜していたのだという。
「あのばりばりになったノート。アレを見つけた時の夏清ちゃんの顔は忘れられないだろうって」
 泣きながら笑って、ぐしゃぐしゃの顔でありがとうございましたと繰り返し、いまさら借りてもいいかと問う夏清に、家人が苦笑してあなたのものでしょうと言った。
 肝心のページはのりでくっついていたけれど、透かして見れば書いてあることは分かった。工業用の溶剤を専門に研究している機関に依頼して、字が読めるようにのりを剥がしてもらえたのが今日。
「何が言いたいかって言うと、あんな子粗末にしたら罰が当たるわよってこと」
 にやりと笑う実冴に井名里が嘆息する。
「だれがするか」
 
 
 車の中で寝ていても、家が近くなると目が覚めるのはなぜだろう。
「む?」
 寝起きで現在地が把握できていない夏清が、むくりと体を起こして辺りを見回す。
「お前、ほんとにいいタイミングで起きるよな?」
 地下の駐車場に車を入れて、井名里が苦笑する。
「だって、目が覚めない?」
「というより、俺は人の運転する車で寝たことないからな。自分で運転するより前に乗せてもらったのも家の車と実冴くらいだし」
「うーん。確かに……実冴さんの運転する横では絶対眠れないよね……」
「だろう? そのまま起きられないかもしれないと思ったら絶対無理だ。初めて実冴の運転する車に乗せられたのが十四の時、あの墓まで連れて行かれたんだ。途中何回か死を覚悟したぞ」
 苦虫を噛み潰したような、渋い顔をして井名里がそういいながらシートベルトをはずして車から降りる。
「私もっ! 先生がいなくなったあの日、キレまくった実冴さんの車に乗ったんだけどどんな絶叫マシンより怖かったよ」
 シートを戻して夏清が笑いながら降りる。
「死ぬかと思った。でもねぇ、先生の横なら眠りながら死んじゃうのもいいかもしれないね。って言うか、死ぬならやっぱり隣がいいな」
 井名里の腰にくっついて、夏清がぐりぐりとより密着度が増すようにアタマをこすりつける。
「………なんでお前はそんないい女なんだ」
 応えるように頭をかき回して、抱きしめる。
「え? なんでかなんてカンタンだよ。先生のせい。先生だけ。先生がね、そうさせるんだよ。私のこといい女にできるのも、いい女だって思うのも、先生だけでいいんだよ」
 エレベータに乗り込んで、笑ってキスをして、また抱きしめて。そのまま抱き上げて家に入る。
「私を変えるのは、先生だけだから」
 腕の中で幸せそうに笑っている、その額にキスをして。
「俺を変えるのも、お前だけだよ」
 リボンタイを解いて、当然のようにシャツのボタンを外そうとする井名里を夏清が止める。
「ごめん、今日の昼間オキャクサン来ちゃいました」
 えへっと笑う夏清に、井名里も笑うしかない。
「ま、明日……もう今日か。人生決める試験もあることだし、そのまま寝るか」
「え? 一人で寝ないとだめですか?」
「一人で寝る気なのか?」
 聞き返されて、夏清が首を横に振る。
「いっしょがいい」






7 恋心 ←    → 9 卒業


Copyright © 2002 MAR Sachi-Kamuro All rights reserved.
このページに含まれる文章および画像の無断転載・無断使用を固く禁じます
画面の幅600以上推奨