2 苺


「おっかっえりーっ」
 お帰りの言葉に合わせてスキップともツーステップともつかない足取りで、リビングから両手に色違いのマジックペンを握り締めたちいが玄関に走ってくる。
「ただいまー」
 玄関からの短い廊下とリビングの壁には、百二十センチほどの高さまで色とりどりのペンやクレヨンで書かれた落書きが所狭しとひしめいている。チューリップなどの絵から、丸とバツで行うゲーム、割り算や掛け算をした数字のほかに唱歌の歌詞が左端から延々とひらがなだけでつづいている。
 壁に落書きを始めたのは健太だが、今の主犯はちいだ。今年に入って三回壁を写真に残して落書きしやすいクラフトの壁紙を張り替えている。四月に入ってすぐ張り替えたのだが半ばもたたず白いスペースがないくらいいろいろなものが描かれている。
「ストップ」
 そのままタックルをかましに入ったちいを、夏清が止める。
「落書きしていいのは?」
「おうちのかべだけ」
「そのままだと?」
「お母さんに色がついちゃう」
 ぶつかる前に止まったちいの手をとってペンが視界に入るように上げる。
「じゃあペン片付けてきて。ぎゅーはそれからね」
「はーい」
 ぺたぺたとはだしの足音をたててちいが走り去っていく。あれだけ元気に走っているところを見ると、うるさく言う人間がいないことはわかっているのだが、ペンを片付けて改めてしがみつきにやってきた娘に父親と兄の所在を確かめる。
「ちい、お父さんとお兄ちゃんは?」
「お父さんとお兄ちゃんはね、さるしに公園行っちゃったの」
「フットサル?」
「うん。さる」
 マンションから自転車で五分ほどの公園のフットサル場にこの春ナイター設備の付いたので、ほとんど毎日二人そろって通いつめ、午後八時を過ぎるまで遊んでいる。
「ちいは行かなかったの?」
 買ってきた食材を冷蔵庫に入れていた夏清が後ろからのしかかるちいをそのまま背中に負って立ち上がる。
「うん。お母さん帰ってきたとき一人かわいそうだから」
 両手両足を使って絡みつくようにべったりくっつくちいのおしりに手をあててずり下がりそうになる小さい体を上に押し上げながら夏清が笑う。
 行かなかった理由はそれもあるのだろうけれど、行けば自分も混ざりたくなって見真似ではしゃいでまた叱られるのがいやだったのだろう。人が楽しそうに動き回る姿を見て、動きたがりのちいがじっとしていられるわけがない。それより家で一人歌って踊りながら落書きをしていた方が楽しいのだ。
 放っておいたらオペラほど高尚ではないが、何気ない日常でもすばらしいことのように子供という生き物は歌い上げてくれる。
「ちいね、お父さんよりお母さんの方がすき」
「そう? ありがとう。お母さんもちいのこと好きよ」
 礼良がいちいち小言を言ってくれるので、夏清は何も言わなくてもいいような状況だ。もちろん叱ることはあるけれど、回数は断然、夏清の方が少ない。
「買ってきたいちご、二人に内緒で先に少し食べちゃおうか?」
 井名里家の表向きの鉄則として、食べるものはなんでも四人平等に分ける、と言うことがあるのだが、裏ではよくこのような事が行われる。
 どうせあの二人もこっそり缶ジュースなどを飲んでいるはずなので、このくらいは許されていいだろう。
「じゃあちいがいちごとってあげる」
 ずるずると背中を滑り降りてちいが冷蔵庫に走る。下から二番目の野菜室からさっき入れたばかりのいちごを取り出す。
「えっとね、先に七個食べてもだいじょうぶなの」
 粒のそろったいちごがならぶパックの中を覗き込んで少し考えていたちいがそう言って笑う。
 上段に十五個と、下段に八個。合計二十三個なので先に七つ食べたら残りが十六個になって、四人で分けられる。別に三つでも十一個でもよさそうだが、先に食べる量が少ないのは不服だし、多すぎたらばれてしまう。
「ふたりで三個と半分こね」
「ちいが四つ食べてもいいよ」
「ほんと?」
 先に食べる分を取り出したパックをまた冷蔵庫に入れていたちいがうれしそうに振り返る。
「うん、お母さん大きいの選ぶから」
「だめ。ちいが選ぶのよ」
「はいはい。じゃあ台持ってきて、いちご洗ってくれる?」
「はーい」
 よいこのお返事のあと、ちいが落書きの範囲を広げるために廊下に出していた小さな台をとりに行く。
「さて。ただいまの前におなかすいたの人たちになに食べさせようかしら。ちいに聞いても同じものしか食べたがらないし」
 大人にとっては小さな台でも、子供にとっては大きな道具だ。それを両手で抱えてやってくるちいを見て、またスパゲッティーにしてしまおうかと考えて、さすがに思いとどまる。
「ちい、マカロニサラダ食べたくない?」
「食べたい!」
 流水でいちごを洗って選びながら二つの皿に分けていたちいが元気に答える。
「あとはお肉焼こうか。お味噌汁はジャガイモにしよう」
「じゃがいもー」
「うわ。危ないから台の上で飛ばないでっ」
 転げ落ちそうになったちいを抱きしめて一息つく。
「昨日も落ちて泣いたでしょう?」
「ごめんなさい」
 昨日もお手伝いをすると同じように夏清の隣でこの台に乗ったままはしゃいで飛んで転げ落ちた。夏清は包丁を持っていたせいでとっさに動けなかったので、ちいは引力に引かれるまま床にしりもちをついた後テーブルの脚で後頭部を打ってわんわん泣いていたのだ。
 このそそっかしさは絶対自分に似たのだと思うので、礼良が叱るから、と言う理由だけでなくなんとなく叱れない。自分が昔どうだったかと思い出しても、祖母はそういう時怒ったりせずにぶつけたところをなでて慰めてくれた。
「おっきな怪我しなかったから謝らなくていいけど、転んで打ったら痛いし、血が出たりしたら怖いでしょう? ちい?」
「お母さん、やーらかくてすき」
 胸にしがみついて離れないちいに笑って夏清が言う。
「ちい、早くいちご食べないと、お父さんたち帰ってきちゃうよ?」
「ほんと!?」
 ぱっと顔を上げてちいがあせったような顔で夏清から離れ、もう一度台に上っていちごを乗せた皿を取る。
「ほんとほんと。ほら、食べてご飯作ろう」
「うん」
 両手に皿を持ったまま、どうやって降りようか考えている様子にまた笑って、夏清が三個いちごの乗った皿をその手から取ってやる。ひとつのお皿を両手で持てば、なんとか一人で降りることができる。皿を二つとも持ってやればもっと簡単に早く降りることができるけれど、それは本人が嫌がるのでだまってそーっと降りる様子を見守るしかない。
 コロコロ動くいちごに気を使いながらなんとか地面に降り立つことに成功して黙ってすごいでしょうと言う顔を向けたちいをみて、ついつい甘い言葉が口から漏れる。
「練乳もかけちゃおうか」
「うんっ!」






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