君の声は優しい歌のように  4


 冬の日々を覆っていた薄く張った膜がはじけたように春がやってきた。寒かった昨日がウソのように少し動けば汗ばみそうな春の陽気を感じながら、マチカは一人、今日も空を見上げる。
 青い空に、一筋の白い煙。細長い煙突から昇る煙を、ただじっと見つめる。
 決断からさらに三日後、アユムの臓器は日本全国へと散らばっていった。脳死判定を経て。
 なにがどこへ行ったのかは分からない。けれどその先に、幸せが待っていてくれたらいいと思う。
 ヒカルの葬儀の時は、ただ地面だけを見つめて泣いていた。
 空へと旅立つ間をちゃんと見送ることができなかったヒカルの分まで。
 アユムはきっと幸せだ。そう思うことができる自分は、まだ幸せを感じられなくても、不幸ではないはずだ。
 そんなことを思いながら火葬場の前のロータリーに一人佇んでいるとうっそうと茂る木々の間の細い道を、小さな男の子を連れた、花束を抱えた女性がやってくるのが見えた。
 男の子が駆け出して、女性が何か言う。転ぶから走るなと言っているのだろうが、子供はお構いなしだ。あっという間に女性から離れて、マチカの前までやってきた。
 花束を気にしながらの全力疾走で女性が追ってくる。
「坂下さん、ですか?」
「はい」
「あの、私、皆部優子(みなべゆうこ)といいます、こっちが息子の孝太朗(こうたろう)です」
 深々と頭を下げながら、二人が自己紹介をする。顔も名前も知らない人だ。しかし着ている服は葬儀のためのもの。
「申し訳ありません。坂下さん、この子をかばって亡くなったんです」
 優子が必死になって孝太朗の頭を押さえているが、孝太朗は全く気にならない様子で、マチカを見上げている。
「あの日の朝、私たち、保育園に行くのに坂下さんとは反対側の歩道を歩いてたんです。そしたら突然、この子が道を横切ろうとして……坂下さん、カッターシャツとネクタイの上にグリーンの作業着を着てらいして。いなくなったこの子の父親も、同じような格好をいつもしてたんです。見間違えて。それで……
 謝ってもすまないのはわかってるんです。だけど、だけどごめんなさいっ」
 よく見ると、孝太朗のおでこと手の甲に少し大きな擦り傷の痕がある。
「坂下さんとは別の病院に運ばれてしまって、全然わからなくて。でも昨日、ニュースでみて、絶対この人だって思って、まさか亡くなったなんて思ってなくて。来て……しまったんですけど」
 ほとんど息継ぎもなく一気にそこまで言って、何も応えないマチカに不安を覚えた優子が顔を上げた。
「あっ あの」
 呆然としたように立ち尽くすマチカに優子がかけようとした言葉をさえぎって、孝太朗が小さな声で言った。
「飛び出してごめんなさい。パパと思ったの」
 言い終わるのと同時に、孝太朗は下を向いてしまった。その視線にあわせるために、マチカがしゃがむ。
「パパって、呼んだの?」
 問われて孝太朗がこっくりと頷く。
「おばちゃんたちにもね、男の子がいたの。生きてたら、キミと同じくらいになってたかな。ちっちゃいちっちゃいうちに死んじゃってね」
 知らず、涙がこぼれる。
「言葉がわからないくらい、ちっちゃいうちに死んじゃったから、キミのこと助けたおじさん、パパになったのに、パパって一回も呼んでもらえなかったの。だからとっても、うれしかったと思うよ」
 その光景が、見てきたように思い浮かぶ。不意に耳に飛び込んできた、自分にかけられたその言葉に、アユムはびっくりしただろう。そして、自分だけを見てこちらへ走ってくる男の子に自分も駆け寄ったのだ。
「おばちゃんも、ママって呼んでもらえなかったの?」
「うん、けどね、この中にいるあの子がいつも呼んでくれるわ。だから私は大丈夫なの」
 胸の奥。ずっと前からここにいる。マチカが忘れない限りずっと。
「痛かった?」
 手を取って、傷を見る。
「痛くないよ。へいき」
「そう、よかった」
 マチカに取られた手を恥ずかしそうに引っ込めて、少し照れたように孝太朗が笑う。
「キミが無事で本当によかった。ありがとう」
「いえ、あの、お礼はこちらのほうがっ」
 孝太朗の頭を撫でてから立ち上がったマチカに、優子が花束を差し出す。
 季節を全く無視した、ひまわりの花束。
「不釣合いですみません。でも花屋で見つけて、この子がもう、これ以外ダメだって。見てくださいよこの背中、花屋で転がってダダこねたもんだから、泥だらけ」
 ほら、と回れ右をした孝太朗の背中には本当に泥のあとが広範囲についている。
「いいえ。あの人、ひまわりが一番好きだったんです。菊って辛気臭くてヤダってよく言っていたの。喜んでいると思うわ。ありがとう」
「おじさんも、雲になっちゃうの?」
「そうね。お空に行っちゃうね」
 空を指差して、孝太朗が煙を追おうとしているのか、飛び跳ねている。
「ぼく、まだありがとうって言ってないのに、いなくなっちゃうね、届かないね」
「そんなことないわ。もう届いてるよ」
「ほんと?」
 振り返った孝太朗に、マチカが微笑んだ。
「本当。全部届いてるよ」
 この心の中に。
「あの人、本当にたくさんの命を救ったのね」






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