君の声は優しい歌のように  5


 青い空、青い芝生。
 緩やかな丘の上。アユムが好きだった場所。
 二人で何度も来た場所。
 一人で何度も来た場所。
 ただ何もせず、そこにいるだけで心が安らぐ場所。
 一人、心の中に語りかける場所。
 ゆっくりと深呼吸を一つする間、目を閉じて、開くと、下から一人、誰かがこちらへやってくる影が見えた。
 近づくにつれて、その人が少女の域をやっと超えたばかりといった感じの女性だということが分かる。
 マチカが気づいたことに、女性も気づき、ほんの少し、唇がほころぶような笑顔になる。
 黙ってマチカの前までやってきた女性が小さな声で言った。
「はじめまして。私、御木本千陽(みきもとちはる)といいます」
 細くて白い手を胸に当てて、千陽がマチカを見る。澄んだ瞳は涙に潤んでいる。
「こちらこそ、はじめまして。坂下マチカです。お手紙ありがとう。返事ができなくて、ごめんなさい」
 マチカが手を差し出すと、千陽も胸に当てた手で、その手を取った。
「私も、遅くなってごめんなさい。三年もかかっちゃった」
 移植コーディネータを介して、千陽から手紙が届いたのは、移植から半年ほど過ぎた秋の日だった。
「毎年『今日』待っていたら、きっとあなたに逢えると思ってたわ」
 丁寧な文字で感謝と、これからやりたいこと、自分のことがたくさん書かれていた。その手紙の最後にあったメッセージ。名前も住所もなにも伝えられないその中にあった一文。
『いつか元気になったら、あの丘に行こうと思います』
 この丘は、別に観光地でもなんでもない。地元の人間だけが知っているような、こじんまりとした公園とも言えないような丘陵地だ。
 マチカたちのことを何も知らない少女が、知っている場所ではないのに、彼女がこの場所のことを言っているのだと、マチカにはわかった。
「ずーっと。とても。ここに来たかった」
 言いながら、マチカの手を握ったまま、自らの左胸に乗せる。
「手術、する前はすっごく怖かった。だって、私に心臓をくれる人は、死んでしまうもの。きっと、死にたくないのに、突然死んでしまったんだもの。そんな人の心臓が、私を生かしてくれるのか、本当に分からなくて、怖かった。でも、終わったら、大丈夫って思えたの。だって、心臓の音、とてもやさしかったから。
 あの日からずっと、この景色を見たかった。見たこともないのに懐かしい景色が、手術が終わったらずっとここから流れてくるんの。
 ああ、これはこの心臓の記憶なんだなって。この心臓が、私の目を通してしか見られないけど、この景色をまた見たがってるんだなって。ウソみたいだけどそうとしか思えなくて、ずっとずっとここに来たいと思っていたんです。やっと、遠出の許可が下りて、ここにきたら、あなたがいた。
 来る前からドキドキしてた心臓が、一瞬止まったかと思った。一目で、あなただって分かった。
 この心臓が、本当に逢いたかった人。こんなに呼んでるの、あなたのこと。でも私、あなたに逢うのも怖かった。私、あなたにもしも逢えたら、ごめんなさいって、言わなくちゃって……でも、怒ってたらどうしようって、返してって言われたら、どうしようかって、すごく……そんなのばっかり、自分のことばっかりで、でも来て良かったって。
 逢えてよかった。ありがとう、ごめんなさい、ごめ……」
 柔らかい胸の奥で、力強い鼓動が繰り返す。重ねた手に、零れ落ちた涙が暖かく広がる。
「謝らないで。きっと、あの人、ここがとても好きだったから、この景色を、あなたにも見てほしかったんだと思うわ。来てくれてありがとう。元気になってくれて、ありがとう。それだけで、いいんだから」
 アユムとは似ても似つかない細い肩を抱きしめる。
「でもね、私も、もしもあなたに逢えたら、ひとつだけ聞きたいことがあったの」


 あなたはいま、しあわせ?








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