1−2´(ダッシュ) 駿壱の場合


 ビールの追加オーダーを受けて、勝手知ったるとなりの親戚、由紀さんに一声かけてキッチンにお邪魔して、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを持ってリビングに戻ると、華菜を核にした肉団子がリビングの真ん中に出来ている。
 いい年した大人が嬉しそうにぎゅうぎゅう子供を押しつぶさんばかりにくっつく様は春まだ浅いとは言え暑苦しい事この上ない。
「何やってんですか、あんたらは」
 まずウチの母、続いて父を剥がせば、華菜の両親は自然と力を抜くのでほっておく。
 大袈裟に息を吸ったり吐いたりしながら華菜が笑う。
「華菜も、大人を挑発しない。この人たちは見境ないからね」
 もちろんこの人達とはウチの両親の事だ。普段から息子と華菜を取り替えるための作戦を練ってるような人たちだからスキあらば華菜にくっつこうとする。今も由紀さんや道彦さんに真顔で交換しようと言い出したので華菜は離すまいとする両親によって再び潰されてしまう。
 慌てて彼らを制止し、ここにおいておいたら華菜がまた大人の毒牙にかかってしまうので文句を言うウチの母を無視して華菜を連れて部屋をでる。
 両家の共有スペースである庭に出るとさすがにまだ少し息が白い。外に出したのはいいけどこれじゃ風邪を引きそうだ。
「華菜、こっちおいで。ココア飲むだろ?」
 深呼吸するように息を吸って、吐いて、という動作を繰り返しながら楽しそうに空を見上げていた華菜に声をかけると元気のいい返事。庭履きのつっかけの音をウッドタイルに響かせて華菜がこちらの家の濡れ縁から上がってくる。
 本当はミルクパンで温めた牛乳でするのが美味しいけど、後片付けが面倒なので電子レンジ。文明の利器も使わなくてはただの箱。といっても、ウチのキッチンにある文明の利器のうち、毎日使われているのはレンジくらいなもんだけど。電気ポットも通電しているが、俺が水を足さないと大人たちは給水しないので、気づいたら湯がないなんていつものことで。ちなみに冷蔵庫には牛乳とアルコールとつまみしか入っていない。
 俺の母は、料理音痴だ。それに気づいたのは小学校で初めての運動会の時だっただろうか。
 春の遠足の時は、由紀さんがお弁当を作ってくれたのだが、運動会の時は生後三ヶ月になった華菜が熱を出して由紀さんは、それどころじゃなかったんだろう。
 一応食材は用意されていたのだろう、母が弁当を作ってくれたのだが。
 子供心に、これを食ったら死ぬだろうな、と蓋を開けた瞬間思った。でも朝早くからなべやフライパンを壊しながら三時間以上かけて作ってくれていたことを思い出し、やっぱり食べないと悪いとも思ったのだ。そう、子供心に。
 結局、小学一年生に午後の競技がなかったからよかったようなものの、直後腹痛に見舞われて、運動会が終了するまで保健室で脂汗をかきながら寝ていた。
 連絡を受けた両親が迎えにきて帰るときには消化されたのか体が慣れたのかなんとか立ち上がるまでに回復していたものの、それ以来、母は弁当を作らない。というより、料理そのものを作らない。斎藤家の胃袋は、お隣の由紀さんによって賄われているのである。
 本当に死ぬかと思ったけど、必死で謝る母に大丈夫だよ、とか言ってしまった。きっとそのくらいの頃すでに、俺の優等生人生が始まっていたのだろう。
 ああ。イヤな事思い出した。
 およそ生活感のないダイニングの椅子に座って足をぷらぷらさせている華菜に砂糖が大量に入ったココアを渡して、自分はソファを背に絨毯の上に直接座る。
 変な事を思い出したせいでなんだか疲れたように感じてついいつもの癖で髪をかきあげて溜め息を付くと猫舌でまだココアを持っているだけの華菜がじーっとこっちを見ている。何かまた良からぬことを考えてるな、コイツは。
「おーにぃちゃーん」
 ビンゴだ。
 華菜がこう言いながら近付いてくるときは要注意。
 こぼしたら困るので、自分用に入れた少な目のココアを飲み干し、ガラスのローテーブルに置いておく。
 当然のように膝の上に座る華菜。俺は座椅子ですかい?
 とはいえ椅子だろうがソファだろうが、華菜は人の膝の上に乗るのが好きらしい。だからそれを見越して一番安定のいい床の上に座って、何かあってもすぐ対処できるようにココアを飲んで両手を開けてる俺も、つくづく華菜には甘いんだと思う。これじゃあの大人達のことも偉そうには言えないな。
「ねえねえ、華菜、まだお兄ちゃんからお祝いもらってないもん」
 その言葉に、Gジャンのポケットに入れた紙切れが反応した。
 ちょっと卑怯な手段でクラスメイトの女の子から巻き上げた遊園地の招待券。
 幸せそうにココアを飲む華菜。
「んー じゃあそのココアがお祝い」
「いやぁー そんなんなら返すぅ」
 冗談で言うと、本気で泣きながらココアのカップを押し付けてくる。
「ごめんごめん、冗談だって。でなにがいいの?」
 しぐさが全部かわいかったので、つい口が滑った。ダメだ。絶対アレを出してくる。
「えっとね、大人のー……」
「ストップ。前に言ったのはナシ。それ以外ならオッケー」
 どこで誰に教わったのか、単に何かで読んだのか、華菜はこの半年ほどの間、何かにつけて俺に「大人のキス」をせがむようになった。
 さすがに親たちには頼めないことだと判っているのだろう。この「お願い」は二人きりになった時に繰り出される。
 しかし一体何を持って華菜は「大人のキス」にこだわるのか?
 ぶぶーっとほっぺたを膨らませてなんとか「大人のキス」とやらに近づこうと考え込んでいる華菜。
 ちょいちょい、とおでこをつつくと、幼い顔に似合わない眉間にしわの寄った華菜が無防備に見上げてきた。
 さらさらの前髪を両手でかき分ける。
 手をかざされた華菜が瞳を瞑る。
 狭くて形のいい額。
 もうこれで許してくれないかね、お姫様。
「ちがーう。華菜がほしいのはこんな子供のキスじゃなくて、もっと大人のキスがいいの!!」
 あ、やっぱり?
 でもねぇ、俺これ以上ダメかも。
「こんなのお父さんやお母さんや佐貴子さんやおじさんとするのと変わらないもん。いいじゃん。減るもんじゃないしぃ」
 減る。絶対減る。何がって俺の中の抑止力が。
 華菜にキスするのはそりゃもう数えきれないくらいある。
 生れたての時からほぼ毎日のようにちゅーちゅー繰り返されてきた日常。
 華菜の言う「大人のキス」が果たしてどのレベルのものを指すのかは怖くて本人に聞けないが、華菜が望むのは日常から離脱したキス。
「減らなくてもダメ。それに華菜はまだ大人じゃないでしょこれで我慢しなさいって」
 そう。我慢しろ、俺。
「なんで? 春から中学生だよ? 小学校卒業したよ? もう大人だもん」
 よかった。条祥受かったらキスするとか言わなくて。ありがとう、過去の俺。そしてがんばれ今の俺。なんで家で、家族でくつろごうかと言う時に意図してワンサイズ小さいジーパンをはかなくてはならないかなど十二の少女に分かってくれとは言えない。
 それは男のプライドにかけて。
 ハナシをはぐらかそう。
 今こそ、矛先を変えるためにポケットの中の最終兵器を取り出すのだ。
「……そっか、華菜はもう大人なんだな。じゃあこれはいらないかな……せっかく遊園地のペアフリーパス券があるけど、大人ならもう行かないよな……うがッ!!」
 亜光速の頭突き。
 いつもならひらりとかわせるところなのに、ダメだ。おでこにしたキスだけで動揺が腰から下に来てるかもしれない。
 自分も泣きかけながら、華菜が力の限り謝ってくれている。
 ダメだ。そろそろリミッター限界。痛みから気が逸れたのは一瞬。
「いや、お子様の華菜にこんな状態で遊園地の券を見せた俺が悪かった。華菜は悪くないよ」
 俺の顎で打ったらしき赤い額をそっとなでる。
「ディズニーランドじゃなくて後楽園だけど行きたい?」
 そう尋ねると大きな瞳をキラキラさせて頷く華菜。
「明日! 明日行こう」
 言われて、時計を見ると、すでに日付は変わっている。もっと後にしようと言っても、華菜は全く聞き入れる様子もない。
「しょうがないな、じゃあ明日。時間は……十時でいいか?玄関で待ち合わせしよう」
 やったーと叫んで、華菜がドサクサにまぎれてしがみついてきた。ふわりと、長い髪から薫る花の匂い。押しつけられた肩が、甘くささやく。
 そのまま抱きしめてキスをすれば、華菜のお願いも叶えられるし、自分の欲求も…………ッ!!!
 だー!!!!!
「こら、ドサクサにまぎれてくっつくなって。ほら、早く寝ろよ。寝坊するなよ」
 あー ヤバかった。時間にしてせいぜいコンマ五秒意識がどこかに行きかけたぞ。なんとか平静を装いながらそっと華菜の体を離す。カミングアウト寸前だったんじゃないか? 理性と社会圧力が欲望に勝った。でもそろそろ本気で抑制効かなくなってるな……
「はーい」
 華菜は全く気付く様子もなく、うれしそうに返事をするとほくほく自宅に帰っていった。
 ぐ……
 前かがみになろうとする自分が憎い。
 このところずっと繰り返される自問自答。
 俺はロリコンか? 自分に単刀直入に問う。
 華菜はかわいい。
 華菜は大事だ。
 華菜が本当に、好きだ。
 しかし。
 華菜は小学生だ(卒業したけど)
 華菜はまだ十二歳だ(しかもなったばかりだ)
 華菜はまだ小さい(中身もな)
 ふっ
 華菜以外はどうか?
 モーニン○娘の子供たち。
 全然萌えん(当たり前だ)
 悪いけど全然こない(なにが?)
 頭空っぽそうな、脳みそに行くべき栄養の全てが胸に集まったような、グラビアクイーン。
 あ、大丈夫だ。これは来る。でも華菜のことを考えている時より手応えはない。
 ……………
 じゃあなんで、華菜なのか?
 ……………
 やっぱり、俺はロリなのか?
 華菜を「そう言った」対象として見ていることに気付いたのは中学に入ってすぐのこと。いかに条祥が進学校であろうとも、中高一貫教育であることから、部活も当然トップはいい男っぷりの高校三年生だ。男子剣道部も、言うまでもなくつい昨日までランドセルをしょっていたような自分たちとは全く違う人種だった。
 ゴールデンウィークの新入生歓迎合宿という伝統行事では、夜は当然のように誰かが持ってきたアダルトビデオ鑑賞会が行われ、いたいけな獲物である新入生たちは、大抵が火を吹きそうな顔をして前かがみで部屋を出て行く。それを、上級生が囃したてるのだ。
 その中で、俺だけが赤面したり、体をゆする程度で物理的衝動に駆られることもなく、ハタから見れば平然と、していた。女優たちは美人の部類に入っていたし、その行為自体に興味が全くなかったわけでもない。しかしなぜか、体が反応しない。
 でもその時不意に、考えてしまったのだ。
 華菜なら?
 小学二年生になったばかりの華菜の顔が、脳裏に浮かんだ瞬間、体内の血が一気に一点に集まって、貧血のように目の前が暗くなって頭がくらくらした。
 もうダメだと思った。隣にいた主将のからかいを含んだ「どうしたんだ? 斎藤」と言う呼びかけに飛んだ意識が戻ってきた。目の前の画面であえぐAV女優の姿に、高揚した気持ちも体も一気に萎えた。
 唖然とした。脂汗とも冷や汗ともつかないものが、体中を流れるのを感じた。
 こんな気持ちには気付いてはいけなかったんだ。
 そして誰にも、この気持ちには気付かれてはいけないのだ。
 圧し掛かる煩悩から離れようと、他の事にかまけ倒した中学、高校時代。その副産物として他人から賞賛されるべき地位を手に入れなんとか自分をごまかした青い春。もうダメかもしれない……
 ぐったりしながら庭に出て、隣に行くと今時の若者はやらないであろうけしかけ方で親父と道彦さんがビールをあおいでいる。
 いいなあ。大人は悩みなさそうで。
「おう、駿、飲むか?」
 がはははは、と近所迷惑レベルで笑って親父が缶ビールを投げてよこす。
「ん、俺寝るわ」
 ビールを受け取り、リビングを後にする。
「連れないねぇ」
「いやぁねぇ、一人だけ大人ぶってぇ」
「駿って親よりできがいいから。ホントにいい子に育ったねぇ」
「全然手ぇかけなかったのにね」
「いやいや、だからかも知れないよ。僕らが下手に手をかけたらだめだったかも」
「それもそうねーっ ささ、飲もう!」
 ……全く、好きなこといってくれるなあ。
「あ、駿くん、明日は華菜がお世話になるんですってね」
 一応来る時は玄関から入ってきたので、そこでくつをはいていると鼻歌を歌いながら二階から由紀さんが降りてくる。
「ええ、友達にタダ券もらったんですよ」
「あの子本当に楽しみにしてるみたい。お弁当作るから思う存分遊んでやってね。ホント、駿君がいてくれてよかったわ。駿君も早く寝てね。じゃあ」
 すいません由紀さん、そのセリフ、近いうちに後悔する日が来るかもしれません。
 家の人間は誰も、きっと華菜でさえ心の奥では俺のことは「よくできたお兄ちゃん」だと思っているはずだ。
 優等生が身についた俺はまだ彼らの期待を裏切ることはできない。
 自分を全て曝け出すのが怖い。
 外面の全てが欺瞞と偽善だったとしても、それなりの努力の末に手に入れた「環境」を捨てるわけにはいかない。
 ビールのプルタブを開けて、アルコールと炭酸ガスを咽に押し込んだ。
 見上げた星が、きれいだった。


ケース2−1 駿壱の場合
ケース1−2 さらに華菜の場合
------------この節と同じ時間経過です
------------飛ばしてもストーリは続きます

ケース1−1 華菜の場合
ケース1−2 さらに華菜の場合



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