幸せのありか 6


「樹理ちゃーん? 桜! 椿っ! 朝よ!! 起きなさい」
 名前を呼ばれてうーんと体を伸ばすと、足元と頭の上に伸ばした腕にふにゃりとした異物感。起き上がると、樹理の足の方には椿が、頭の方には桜が転がっていた。一瞬自分が寝ている間に九十度回ってしまったのかと思ったが、そうではなくて二人の方が移動していたことを確認してほっと息をつく。
 昨夜は遅くまで三人でテレビゲームをした。もちろん一番得点が低かったのは樹理だった。コントローラを操ってていると左右から別々の指令が飛んできてパニックになったのが主な原因だったのだが。
 そのあと勝った方が樹理といっしょに寝ると言うことで、桜と椿の一騎打ちになり、最初三回勝負だったのが五回になって、七回になって十一回になったとき理右湖が『じゃあみんなでここで寝たら』とふとんを敷いてくれた。
 いろいろな物に溢れていて、狭い居間に敷きふとんを二枚、掛けふとんが三枚、結局二人の話を聞いているうちに真中にいた樹理のほうにずりずり寄ってくるものだから三人でくっつくようにして、桜と椿がわれ先にと学校のことや家の事、テレビ番組のことにアイドルのこと、マシンガンのようにしゃべり尽くして弾切れになって突然静かになったと思ったら二人同時に寝ていた。
 物心ついた頃には自分の部屋があった一人っ子の樹理には誰かと一緒に寝るなんて中学の修学旅行以来で、しかもこんなにくっついて寝るのは初めてで、ひどくどきどきしたけれど規則正しい寝息を聞いているうちにいつのまにか夢も見ずに寝ていた。哉の家に行ってからはちゃんと起きなくてはと気負っていたので明け方はいつも眠りが浅いのに今日は声をかけてもらうまでしっかりと寝ていた。
「おはよう、ございます」
「はい、おはよう。寝起きのいい子は好きよ。全くこの子達はっ! 誰に似たのかしらこの寝起きの悪さ!!」
 ばりばりと掛けふとんをはぎながら理右湖が呆れたように言うと寝ぼけたような声で椿が『お母さんじゃないことは確かですぅ』桜が『じゃあ、はやとくーん』と応えていた。
 母親の理右湖が『速人君』と呼ぶのを真似して、この二人は彼のことを同じように名前で呼んでいた。風呂上りの彼にサッカーから帰ってきたばかりの泥だらけの椿がタックルをかましてえらい剣幕で怒られていたが平気な顔をしてごめんなさーいと言葉だけ謝って走って風呂場に逃げていた。彼が父親ではないことは二人とも知っているのに、なんだか本当の親子よりコミュニケーションの濃度が高いような気がするのは気のせいだろうか? 少なくとも樹理は、小学校高学年くらいから父に触れることはなくなっていた。嫌いではなかったし、同級生たちが言う『臭い』とか『汚い』とも思わなかったけれど。
「もう本当に!! 学校遅刻するでしょう!?」
 クルクルと丸くなってまだ寝ようとしていた二人の敷きふとんまでめくりあげた理右湖が子供たちをそのまま冷たい廊下に蹴りだす。そこまでされてやっとフラフラと起き上がっている。
「速人君だってもう起きてるわよ。あんたたちのはねぇ速人君の低血圧と違って、ただの夜更かし!! さっさと顔洗って服着替えて目ぇ覚ましてきなさい!!」
「いやぁー横暴ー」
「なんでお母さん速人君にだけ甘いのー?」
「うるさい!!」
 理右湖に怒鳴られて『きゃーお母さんが怒ったー』と笑いながらばたばたと、二人がそろって駆けて行った。
「あーもう、朝から体力消耗させるんじゃないわよ全く」
 ふとんをたたみながら理右湖がため息をついている。
「楽しそうですね」
 自分の使っていたふとんからシーツを取ってふとんをたたみながら樹理が素直な感想を述べると理右湖が心底いやそうな顔をして応えた。
「あの二人、あなたのオプションにして哉くんとこに連れてっていいわよ」
 それはちょっと、遠慮したかった。


 桜と椿が学校に行くまで、朝食の場は慌しくてやかましかった。二人がいなくなってやっとゆっくりすると思ったところに表からがんがんと容赦なくドアを殴る音が聞こえてきた。
 しばらく無視していたけれど鳴り止まないそれについに速人が立ちあがった。
「あのバカは……」
 時間は、八時少し前。
 冬休みの間いつも七時半に家を出る哉を見送った。なので多分、出勤途中だ。
 少ししてから速人が紙袋を下げて帰って来た。
「着替え。靴はあっちの玄関にあるから」
「あ、ありがとうございます」
「着替えが終わったら私が連れていくから」
 それまで哉の相手をしていろと理右湖に言われて速人がげんなりした顔をしながら、それでも文句を言わずにまた診療所の方へと帰って行った。


 すぐにでも樹理をつれて帰るつもりだったのに、目の前に速人が立ちふさがるようにしていた。
 座っていろと言われて仕方なく患者用の丸いすに腰掛けて、目の前にいる不機嫌そうな速人を見ていることができなくて背を向けて診察室の壁や、待合室に繋がるドアにべたべたと貼ってあるポスターを眺める。
「……お前、自分が何をしているか分かってるのか?」
 冷やりとした速人の問いに、首を横に振った。
「まぁ……分かってたら来ないだろうけどよ」
 呆れたような、速人の言葉。
「あの子も、お前のところに帰るなんて、なに考えてるんだか」
 それは、わかる。
 いくら口で構わないと言われても、父親の会社のことが頭から離れないのだろう。
 取引中止を知らせたその日にやってきた樹理。必死になってその身を差し出してでもその決定を取り下げてほしいと頼んできた樹理が、そんな口約束が本当に果たされるとは思っていないのだ。最初からひどいことばかりしてきた。信用しろと言う方が無理だろう。
 ならば……と。その思いにつけこんで、それならば引きとめようとここに自分は来たのだ。
 頷くことが出来なくて、そのまま会話が途切れたところに、待合室のドアが開いた。
「あ、あの。お待たせして、すいませんでした」
 目が合って三秒ほどの間を置いてから、樹理がそう言って頭を下げた。
 どう応えていいのか分からなくて、哉が黙ったまま立ちあがる。
「哉!!」
 その背中に速人が少し声を荒げた。
「お前は何も言うことがないのか?」
 それはそのまま、お前、本当はなにをしたのか覚えていないだろうと言う意味だ。
 覚えていた。
 ずっと逢ったらまず謝ろうと思っていた。ずっと謝りたかった。
 なのに顔をみたら、もうそれだけで何も言えなくなった。
 促されてやっと、唇が潤滑油を注されたような気がした。
「悪かったな。帰るぞ」
 それだけ言って立ったままの樹理の横をすり抜ける。後ろで速人がものすごい剣幕で怒鳴り散らしていたけれど哉は全く聞いていなかった。
「はい」
 樹理のその返事だけが聞けたら、それだけで良かった。


 古きよき下町の雰囲気がそっくりそのまま残ったような場所に、おおよそ不釣合いな黒のセダン。
 診療所から出た哉に運転手が黙ってドアを開けている。
 礼も言わずに乗り込む哉に、ああやっぱりこの人は自分とは全然違う世界に住んでいるんだなと思い知らされる。どうぞと言われて何とか哉のあとに続いて乗る。
 哉の車とはまた違うのだが、起き上がるのに苦労しそうだ。身が沈むかと言うほどシートが柔らかい。いつ走り出したのかも分からないくらい制動が良かった。
 ちらりと哉の方を見たら、腕を組んだまま外を見ていて、頬の輪郭しか見えなかった。
 それさえもじっと見ていることが出来なくて慌てて顔を戻す。ルームミラーに映る、自分の父よりも少し若いくらいの運転手と目が合って、さらに慌てて俯いた。
 何も言われなくても、行き先は分かっていたのだろう。車内は無言のままで、車は見慣れたマンションの前に止まった。
 どうするべきなのだろう。開けてもらうまで待つべきか、自分だけ降りるべきか。
 逡巡している間に運転手が降りてドアを開けてくれた。
 お金持ちイコール外車、と言うイメージしかなかったが、この車は国産車だ。なので篠田は車道側から回ってドアを開けに来たのだから、逡巡どころかかなりの時間、樹理は迷っていた。目は哉をみて、どうしたらいいですかと聞いているのに哉は全く気づいていない様子で、篠田は苦笑した後、降りてドアを開けた。哉は乗るときは開けさせてくれるが、降りるときは勝手に降りてしまう。
「すいません、ありがとうございました」
 わたわたと車から降りた樹理が顔を赤くしながらぺこりと頭を下げる。
 哉はそのまま会社に行ってしまうものだと思っていた樹理が声をかけようと車に向き直るとちょうど哉が降りるところだった。
「あの、仕事は?」
 おずおずと聞いた樹理に哉が歎息した。
「キーを持っていないだろう。篠田、すぐ戻る」
 運転手の、篠田の返事を聞いて哉がすたすたと行ってしまう。
「えっと、すいません。ご迷惑おかけしました」
 再びぺこんとお辞儀をして、樹理が駆け足で哉を追いかける姿を篠田が複雑な心境で見送った。


 密室に二人きりだと息苦しいのはなぜだろう。
 狭いエレベータの中で、ネクタイを緩めたい衝動に駆られながら哉は何度目か分からないため息に似た息をついて、意識して空気を吸った。
 ポーンという柔らかい音を響かせてエレベータが止まり、ドアが開いた瞬間逃げるような速さで降りる。
 実際、逃げているのかもしれない。
 キーを差し込んでドアを開ける。開けたドアに背を乗せて樹理が体をあてることなく充分通ることができるように幅を開けて。
 哉の前を、樹理が俯き加減で通った。
 長くて柔らかい髪が、ふわりとなびく。
 いつもと違う甘い香り。
 けれどそれは、間違いなく樹理で。
 靴を脱いで、しゃがんでそろえている姿を見下ろす。
 靴を持っていくことなど全く頭になかったが、迎えに行こうと家を出るとき脱ぎ散らした自分の靴のとなりにきちんとそろえられた小さな靴を見てそのまま持って出た。
「あの」
 それを見届けて、背を浮かせた哉に控えめな声が届く。
「ほんとに、ご迷惑おかけして、すいませんでした」
「………お前が謝ることじゃないだろう」
 謝るのは自分の方で、それが許されることではないことも分かっているのに、どうして樹理が謝るのか哉には分からない。
「でも、こうやって時間をとってもらってます。ただでさえ父の会社のことでご迷惑掛けてるのに……あなたを忙しくさせているのは私だから」
 ゆっくりと樹理が首を横に振った。その言葉に、やはり彼女は父親の会社を気に掛けてここに帰ってきたのだと、確信に似た思いに目を閉じる。
「晩御飯、どうされますか?」
 聞かれて、スケジュールを思い出す。何もなかったけれど、この二日ほとんど仕事らしい仕事をしていなかったので、おそらく今日はそのツケが回って忙しいだろう。
「……いつも通りに帰る」
「じゃあ、作っておきますね」
 ドアから背を離す、ただそれだけの動作にとても気力がいるのはなぜだろう。
「いってらっしゃい」
 樹理がその背中に、彼女が休みの日は欠かさず掛ける言葉を、前と変わらない心地よいソプラノで。
 返事をしようと振り返るのと同時に、ドアが閉まってしまう。
 しばらくそのドアを見つめたあと、哉はエレベータに向かった。


 音もなく閉まったドアを見て、樹理は盛大にため息をついた。立っていられなくてしゃがみこんで、両手で顔を覆う。
「いってらっしゃい」
 たったそれだけ、けれどいつも通り言えたことに安堵しながら。
 そしていつものように何も言わずにそのドアの向こうに消えた哉に。
 ここでいつも通りにできなかったら、この先ずっと、以前のようには出来ない。そんな思いのなかで、必死だった。
 そのまま、かなりの時間を要した後、やっと立ち上がる。キッチンはあの日のまま。ダイニングには食べたままの食器。
 何もなかったように綺麗に片付いたリビング。
 和室には、敷きっぱなしになっているふとん。水がかかってしまった服はなかった。その足で脱衣所の隣にある家事室の洗濯機を覗いてもなにもなかったので、やっぱり捨てられてしまったのかなと思うと、すこし悲しくなった。
 でも、哉は来てくれた。それも朝一番に。仕事しかしていない人なのに、わざわざ出社時間を遅らせてまで。そんな風にされたら、もしかしたら自分も必要とされているのかもしれないと思ってしまう。
「そんなことないのにね」
 独り言をつぶやいて、掃除機を取り出す。
 とりあえず、できることをやっていればいいのだと、自分に言い聞かせながら。


 いつも定時に出社する副社長が、出社が遅れるという連絡がきたので、ここ数日の彼の様子を見ていた副社長秘書室の面々は、今日はとうとうダメかもしれないと、時計を見ながら彼を待っていた。
 ひどく憔悴した様子で、どこかでケンカでもしてきたのか、こめかみに傷を作っていた彼を見て、誰かが『普通の人間っぽい』とつぶやいていたが、それはここにいる人間みんな同じ意見だったようだ。若いけれども仕事が出来て、若いからこそ無理をしていると感じていたのだ。そろそろ充電が切れてもおかしくないだろう。
 そう誰もが思っていたのに、十時を回ってから出社した副社長は、以前よりもっとがつがつ仕事をこなしている。遅れた分などあっという間に片付いてしまいそうな勢いで、次々に出される質問、命令、確認。逆に回りが付いていくことが出来ずもともと人数の少なかったこともあって、メンバーはいつもの三倍くらい働かされている。
 前にもましてエンジン全開の哉を見て、副社長秘書室の中でも最も若手の瀬崎に、何かあったんですかと聞かれたが、プライベートまでは関知していないからと篠田は曖昧に笑ってごまかした。
『篠田』
 スピーカになった内線から簡潔な哉の声。
 今日一日、と言うよりまだ哉が出社してから六時間ちょっとの間に、篠田は一体何度自分が呼ばれたのか覚えていない。秘書室に引いても、五分と間を置かずに呼ばれるからだ。
 返事の代わりにノックをしてドアを開ければ、社長室ほどはないにしろ、おそらくそこ以外の、この社屋内で個人が使うスペースとしては最大級の室内いっぱいに書類が並んでいる。
 哉は仕事の優先順位をつけない。入ってきたものから処理していく。もちろん相手があることなのでその場で即決することばかりではないが、とりあえずこちらからアクションを起こして、反応が返ってくるまではまた別のことをはじめてしまう。床まで侵食した書類たちは、つまりまだ返事待ちで未済のまま放置されていることを示している。
「右足の先にあるヤツを取ってくれ。それからこの内容で計画書を作ってそれを誰か他のヤツでいいから英語とドイツ語に訳させて提出。期限は来週の月曜。鉄鋼と車輌からの返事があったらそっちで聞いておいてくれ」
 言われた書類を取ってデスクまでの獣道をとおり、交換で文字は綺麗だが殴り書きの箇条書きがメモされた紙を受け取る。
「わかりました。これらはファイルにまわしてよろしいですか?」
 渡された書類に何かを書き込んですでに溢れている処理済の箱に無理やり押し込んでいる姿を見て、篠田がそう言うと哉は顔も上げずに頼むとだけ言って、かかってきた電話を取っている。
 用は済んだことを察してそのまま篠田は哉の前を辞した。


『あの、カンザキさまとおっしゃる方からお電話がかかっておりますが…お取次ぎいたしますか?』
 電話を取ると、なにやら怯えた様子の電話交換嬢の声が聞こえた。
 おそらく彼女がどういったご用件でしょうか? とか、ご関係は? とかいらないことを聞いて怒鳴り返されたのだろう。しかし、携帯電話の番号も教えてあるのにどうして会社に掛けてくるのだろう。
「ああ、繋いでくれ」
『かしこまりました』
 軽い電子音のあと、予想通りの罵声が届く。ひとしきり怒鳴ったあとでないと、速人は哉の言うことなど聞かない。
「………ただでさえ声がでかいんだ。笑うことの次に怒鳴ることがカロリーを消費する。無駄なエネルギーだな」
『悪かったな燃費が悪くて。世の中の人間がお前みたいに必要最低限で済んでると思うなよ』
「そうだな」
『てめー否定しろよ。ったく、なにやってんだ?』
「仕事」
『あの子は!?』
「家に置いてきた」
 あっさりとそう答えると、電話の向こうがしばし無言になる。ああこれは、何か怒っているなとは思ったが、何も言わずに無言で返す。
『まあ、お前が、どこか壊れてるのは今に始まった話じゃないからな。それより何で携帯繋がらないんだ? おかげでマニュアル人形と禅問答したぞ?』
「持ってるぞ。電源も入ってる」
『……哉、お前今どこにいる?』
「会社」
『だからなー!!』
「副社長室。地上四十六階」
『お前アホだろ? 起伏のない場所だと携帯電話の電波指向性が弱まるから地上三百メートルが限界だボケ』
 言われて取り出した携帯電話は、圏外の表示はないものの確かにアンテナが立っていない。
「よく知ってるな」
 本当に感心してそう言ったのに、やっぱり返ってきたのはアホバカボケの三連発だった。
「悪いが用がないなら切るぞ? 仕事が立て込んでるんだ」
 できることなら溜めた分、全て今日中に目処(めど)を立ててしまいたかったので、こうやって漫才をしている時間さえ惜しい。いつも通りに帰ろうと思えば、つまりいつもの三倍働かなくてはならないことになる。
『ちょっと待て。聞きたいことがあるんだ』
「なんだ?」
『あの子にちゃんと飯食わしてるのか?』
「…………食べてるだろう。朝も晩もちゃんと作ってるぞ」
 速人が何を言いたいのか分からずに、哉が答えると、電話の向こうからわざとらしいため息が聞こえた。
『一緒に食ってないのか?』
「食えるわけないだろう? 俺はいつも帰りが二十二時を回るんだ。それまで待たせるのか?」
『じゃあ今日帰ったら彼女に聞け。食べてるかどうか。あと今週は学校を休ませるように。家に帰したって言ってもまだ病人だからな。本人にも休むように言ってあるけどあれは行きかねん。お前からも言っとけ』
「………わかった」
『それだけだ。じゃあな、悪かったな、手ぇ止めさせて』
「いや。こっちこそいろいろ世話になった」
『すげぇ請求書送りつけてやるから待ってろよ』
 最後に冗談とも本気とも取れるようなことを言った速人に苦笑して電話を切ろうとしてちょっと待ったと止められた。
『お前なぁ気付いてないだろうから親友の誼(よしみ)で教えておいてやるけど、無くしたくないもんはもっと大事にしろよ。でないと、本当に何もなくなるぞ』
 それだけ言うと、電話は切れた。それを待っていたように秘書室から内線が入る。受話器を上げたまま、哉は内線ボタンを押した。


 きっかり二十二時。
 いつものように音もなく、車が静かにマンションの前につく。止まると同時に、哉はなにも言わずに車を降りた。見上げると、部屋に電気が灯っている。よく分からない安堵感に疲れたような表情をしていた哉の頬が一瞬弛むのを見たのは篠田だけで、本人は全く気付いていない。
 その背中がエントランスに入るのを見届けて篠田は再び車を走らせた。


 人気のないエントランスを抜けて、三機あるエレベータの真ん中に乗る。そうすれば、扉が開けば数歩先が玄関だ。
 なにも言わなくても、玄関の開く音を聞きつけて樹理が出てくる。
「おかえりなさい」
 前と変らず。前よりも自然に。
「ああ」
 ただいま。それだけの言葉が、自然に出てこない自分がいる。そんなふうに家に迎え入れてもらった記憶は、ない。樹理以外の迎えてくれる人を探すだけ無駄だと知っている。
 靴を脱いで樹理の横を通りすぎれば、哉が転がした靴をしゃがんでそろえる。
 毎日。
 上着を脱ぐために奥の寝室に向かおうとした哉の足が、ダイニングで止まった。
 いつもの通り、哉の分が用意された広い食卓。
「あ、あの、すぐ用意できます。ちょっと待っててくだ……」
「お前は?」
「さ……ぃ、え?」
 足を止めた哉を見て樹理がキッチンに入ろうとしたのを、呼びとめる。
「あ、私は、先に、えっと、味見って言うか……その……」
「食べたのか?」
「……食べた、って言うか……」
 歯切れの悪い樹理の返事にこれは絶対食べていないと確信した。
「……食うぞ、つきあえ」
 いつから彼女がちゃんと食事を摂っていないのか、それさえわからなかった。自分の分はきちんと作られていて、だから樹理も食べているものだと思っていた。
 それだけ言って、今度こそ服を脱ぐために部屋に帰る。その背中に本当に嬉しそうに樹理が微笑んだ。
「はい」


 カレイの煮付け、ほうれん草とちりめんじゃこのおひたし、鳥ごぼうご飯、かぼちゃの味噌汁。
 それを見た瞬間、哉がなんだか複雑そうな顔をした。
「あの、理右湖さんに聞いて……その、氷川さんの好きなもの……おみかんも買ってきました」
 昨日の昼食の片づけを手伝っていたら、理右湖が教えてくれたのだ。以前無理やり遊びに来させた時に好きなものを作ってあげるからと言ったら哉のリクエストはこれだったらしい。もっともその日は桜と椿にしこたま遊ばれたそうなので、好物に釣られて行ったモトが取れているかどうかはあやしいのだが。
 みかんの方の情報源は速人だ。なんでも冬場は寮の部屋に箱で買ってきて置いて、毎日毎日食べていたらしい。金などいくらでも持っているのだからメロンかナニか買って来いよと言ったら、メロンはきらいだからとそっけなく言われたそうだ。金銭感覚はおかしいのに、なぜか舌だけ庶民感覚を忘れないのは、絶対どこか回路が変なのだと速人が力説していた。みかんについては勝手に食べても怒らなかったそうなので、箱で買っても半分は誰かに集(たか)られていたらしい。
「あの……嫌いなものとか、ありましたか?」
 あの理右湖が嘘を言うことはないだろうがそれから後に嫌いになったものがあったかもしれない。眉を動かしただけの哉に樹理はだんだん不安になってくる。
 無言の否定で哉がそのまま席につくのを見て樹理がほっと息をついて哉の前の席につく。
「いただきます」
 きちんと両手を合わせてそう言った樹理に目を向ける。自然と哉の視界に樹理の前の食事が映った。
 哉のぶんに盛られた量の三分の一ほどしか入っていない。
「どうしてそれだけしかいれないんだ」
「え? あ、えっと、私、先に、少しいただいて………」
 じっと哉に睨まれて、樹理の弁解が途切れて、正直に白状した。
「……すいません。どうせ私、食べないから、あんまりたくさん作ってなかったんです」
 作りすぎてももったいないからとほとんど毎日哉の分に少し足しただけしか作っていなかった。カレイの煮付けは失敗したら困るから、予備にと二切れ作ったのだが。
 しゅんと俯いてそう言った樹理に、哉がため息をついた音と立ちあがる音が聞こえた。
 次の瞬間、量の少ないご飯茶碗に、がつ、とご飯が入れられる。
 見上げるとわざわざ立って……立たないと届かないのだから仕方がないのだが……立って、樹理の茶碗に自分の分を半分、入れ終わって座りかけた哉が見えた。
「あ、の……?」
「いいから食え。でないと俺がまた速人に殴られる。明日からはちゃんと二人分用意しておけ」
 再びイスに掛け直して、目をそらしたまま哉がそう言って、そのあとはもうなにも喋る気がないとでも言うようなそぶりで箸を動かしている。
「……はい」
 この気遣いが誰かに強制されたものだとしても、嬉しかった。ずっと、哉とこうして食べたかったのだと、気付いてまた切なくなった。


 仕事以外で誰かと食事を摂るのは、とても久しぶりだった。食器の音。箸の動く音。樹理の食べ方はとても静かでおとなしいけれど一人で食べていたら分からない音が柔らかく室内に響く。
 ゆっくりとご飯を食べて、カレイとおひたしの間でどちらを食べようか少し考えているらしい間。
 自分とペースの違うものと一緒に居ることは今まで苦痛でしかなかったのに、リズムがばらばらでも全く気にならない。
 改めて樹理を見る。確かに、ここに来た時より痩せている。太っていたわけではなかったが、それでも以前はもっと少女らしい丸みがあった。
 無理やり押さえつけた体はとても薄くて、あばらが浮いていた気がする。初めてここに来て、泣きそうになりながら服を脱いでいた時は、そんなふうには見えなかったのに。体力には全く自信のない哉にも、意識がなかったはずのその体は軽く感じられた。
「おいしく、ないですか? 味とか……私、いつも薄いって言われて……」
 思い出して、箸を止めていたら、正面から不安そうな声が聞こえた。
 確かにいつも味は薄めだが、それが嫌なら自分で調味料を足せばいいわけだからそれについては全く異存はない。
 言われて味を確かめると今日は少し味が濃いような気がしたが、人間疲れているときは濃い味付けになる。濃いといっても外食から比べれば全く普通レベルだ。許容の範囲内だろう。
「……まずくはない」
 どう言っていいのか分からなくて、けれど応えなくてはいけない気がして、言葉を探して見つかったのはこれだけだった。
 なのに、こんな言葉に目の前の樹理が嬉しそうに笑った。
 その微笑につられて笑いそうになって、哉は箸を持つ手で口元を押さえた。
「よかった。いつもどうかな、って思ってたんです」
 そう言ってまた食事を再開している樹理を見る。哉のほうは、樹理に分けたせいもあるがもうほとんど食事を終えていた。
 どうして彼女はこんなふうに笑ってくれるのだろう。
 自分でも……張本人だからこそ、ひどいことをしたと分かっている。
 目の前の樹理は、なにもなかったように同じように食事を作って、風呂を沸かして、家を掃除して、明かりをつけて哉の帰りを待っていてくれる。おかえりなさいと微笑んでくれる。
 どうして? と己の中に答えを探す。
 そして、その答えはすぐに見つかった。
 樹理がここにいるのは、哉自身が彼女に科した義務なのだと。
 居たくなくても居なくてはならない状況を作っているのは自分なのだと。
 この家に来てから、おそらく彼女は家族とも連絡をとっていないはずだ。気にならないはずはないのに。帰りたいはずなのに。こんな所にはいたくないはずなのに。哉と伴に居たいはずはないのに。
 迎えに来られたら、ここに帰らなくてはならないと思うだろう。
 だから、樹理はここにいるのだ。以前の通りしていなくては、ならないと思っているのだ。
 最初からずっと、彼女に信用されるようなことをしていない。今更会社の事を気にするなといっても、そんなもの、自分が帰ったらすぐに覆されてもおかしくない口約束だ。信用して帰れと言うほうが無理だろう、実際、帰ってもいいと言っておきながら、哉は樹理を連れ戻しに行ってしまったのだから。
 前と同じように。
 そこまで考えて、すとんと心のどこかにスペースが開いた。そこからじわじわと、得体の知れない寒さが広がる。
 ここに樹理がいるのは、彼女の意思ではないのだということなど、ずっと前から知っていたのに、どうしてそれを再認識して、こんなに動揺しているのだろう?
 急に黙りこんで、残ったものを食べ、怒ったような顔で立ちあがった哉になにか気に障ることをしただろうかと樹理がおろおろしているのが分かって、また訳もわからずイライラする。
「風呂に入る。もう寝ろ」
 今これ以上樹理を見ていられなかった。原因が自分なのに、彼女に向かってどうしてお前はこんな所に居るのだと言ってしまいそうで。
 はっきりと、樹理の口から自分の考えを肯定されるのが怖くて、哉はそこから逃げるように離れた。


 翌日、やっぱりと言うか案の定と言うか、速人の言うことは正しかった。ちゃんと休むように言わなかった哉が悪かったのだが、しっかり制服を着て学校へ行こうといた樹理にその週は休めとだけ言って、仕事に行って帰れば、この関係は新しい日常を連れて、曖昧なまま続いた。






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