恋におちたら 4


 連休後半も穏やかに日々が過ぎていった。ただし哉はところかまわず転がって何時間でも本を読んでいた。樹理に部屋を明るくして座って、適度に目を休めるように言われていたが、あまり守っていた様子はない。
 最後の一日だけ水族館に行っただけでほぼ自宅で過ごした。
 さすがにその一日は、哉は家の中で樹理と二人きりでいるのが気詰まりだったのだ。
 理由は、その前々日に届けられた衣装の山だ。
 届くのはドレスだけだと、それだけならやっぱりきれいなドレスはうれしかったので、礼を言おうとしたのだが、あれもこれもそれもとずらずらと出てくる服、服、服である。そんなにたくさん頼んだ覚えはない。喜ぶどころか一着あるワンピースとボレロだって着る機会があまりなさそうでもったいないと思ったのに、これは何たることなのか。
 さらに、それにあわせた靴やアクセサリーもてんこ盛り付いてきた。ほとんど空だったシューズクローゼットがあっという間に半分埋まったし、何も入っていなかった和室のクローゼットにある引き出しにはキラキラと光るネックレスやイヤリング、ブレスレットに装飾品として価値の高そうな腕時計がずらりと並んだ。しかも結局服は和室の小さなクローゼットに入りきらず、使っていない洋室のクローゼットまで占拠した。
 そして哉は、喜ぶと思ったのに、どんどん曇っていく樹理の顔をみて、勝手に買ったことを素直に謝った。樹理は特大のため息をつくことで応えて、和室にこもってしまった。
 それでも、ちゃんとご飯は作ったのだから樹理も大したものだが、下を向いてもくもくと食べ、哉を見ようともしなかったのだ。
 片づけが終わると、また何も言わずに和室に入ってしまった。翌日も同じで、いつも自分から声をかけてくれる樹理が本当に全くしゃべらない。
 最終日の朝も哉が起きるとテーブルに朝食が用意されていたが、樹理の姿がない。中にいないときは空いている和室の障子がぴっちりと閉まっている。
「樹理、入っていいか?」
 和室の障子越しに声をかけて、返事はなかったがそっとあけると、真ん中でこちらに背を向け、樹理がちょこんと座っていた。
「悪かったから、もう機嫌を直して何かしゃべってくれ」
 柔らかい髪が左右とも上下とも取れるようにふわふわと揺れる。
「もう絶対、ダメです。もったいないです。だって第一あんなに買ってもらっても、そんなにお出かけもしないし、いつ着たらいいんですか」
 どれもこれもとてもかわいいが実用的ではない。正真正銘お出かけの為に服で、汚れたらクリーニング直行の服では、普段着にはならないし、第一に家事ができない。
 しかし哉はそうはとらなかった。ドレスのときと同じ解釈をした。つまり、着ていく場所があればいいのだと。
 いい加減、この状況に気詰まりを感じていた哉にとっては、出かけるのは好都合だった。じゃあ今から出かければいい。どこでも好きなところへ。
 というわけで、行き先が水族館になり、樹理は買ってもらった中からクリーム色のすそがふわふわしたワンピースを着て出かけた。
 みやげ物を扱う売店で素振りができそうなサイズのシャチのぬいぐるみを購入した頃にはご機嫌が回復しており、哉は小さく安堵の息をついたのだ。
 古今東西、恋人に対して何かしら失敗した男性のとる行動はほぼ同じで、さらに女性も許してくれるものらしい。とりあえず当分は、忘れないようにせっせと樹理を外に連れ出す必要がありそうだ。
 樹理にそんな計算ができるとは思わなかったけれど、なんだか結局樹理の思うままに動いてしまったような気がする。
 けれど、こんな一日も悪くはない。久しぶりにただふよふよと漂っているだけの海の生き物を見て、なんだか気分が晴れたのは哉も同じだった。
 そんな休みも終わり今日から普段どおりの仕事や学校が始まる。今朝も長かった休みが嘘のようにいつもどおりの顔で篠田が迎えにやってくる。
「おはようございます」
 ドアを開けて待っていた篠田に小さくうなずいて応え、車に乗る。
「休日は何を?」
「読書。散髪……それから水族館だ」
「は?」
「天上会議は予定通りか?」
 ほんの少し唇を笑みの形にまげて、哉が問う。それをバックミラーで確認して、篠田も少し笑う。
「はい。今月は皆様おそろいのはずです。いつもどおり九時から四十七階大会議室で行われます」
「わかった」
 各地の各グループに分かれている一族の人間がほぼ一堂に会する集まりが、月頭にある定例役員会だ。一般の社員は、その場が設けられることは知っていても、足を踏み入れることはできない会議で、決して生きてはいけないところという皮肉を込めて「天上会議」と呼んでいる。普段は会社に来ることのない会長である祖父はもちろん、最高顧問という肩書きの曽祖父も、この日は出社する。顧問の顔を拝めたら出世が早くなるとか、それ以外でも何かいいことが起こるなど、眉唾なうわさは事欠かない。ただ、社報に顔写真が載るのは会長までなので、平の社員で顧問の顔を知っている人間は少ないのだが。
 哉はまだ参加し始めて六回目。会社での地位は副社長でも、ついこの間からその立場にはまった哉は、まだ年少チームなので一番末席だ。
 外を見ながら少し楽しげな様子の哉に、篠田は長い休みが明けたばかりだが、年休がまだたくさん残っていたなと考えていた。


 本社の最上階で開かれる会議の参加者は、四十名を下らない。それだけの重役が集まれば、同じ数の秘書も集まる。篠田は如才なくそれらの人々に挨拶をしてから、副社長秘書室に入った。
「おはようございます、篠田室長。今日の予定の確認なんですが……」
「予定は全てキャンセルだ。私もしばらく出社しない。君たちで何とかするように」
 すでに臨戦体勢ですとばかりに出てきた瀬崎に、篠田が静かに言った。
 意味が理解できなかった瀬崎が目と口を開けたまま止まっている。
 篠田はすたすたと動かない瀬崎の前を通り、公用車のキーをキーボックスにしまい、また瀬崎の前を通って、悠然と部屋から出て行った。
「へ? 予定キャンセルって、室長の?」
 机についている女性秘書につぶやくように答えを求めて問いかけたが、彼女も何がなんだかわからないという顔で、首を振った。


 会議の前に私語はない。小学校の教室より大きな部屋に、生徒より多い数の人間が座っているが、椅子の音さえ聞こえない。
 そんな中をゆっくりと杖をつきながら小柄な老人が最後にやってくる。その姿を見て少なくない人数が姿勢を正す衣擦れの音がしんとした空間にいやによく聞こえる。
「それでは、定例役員会を開催いたします。はじめに……」
 以前ニュースキャスターをしていた司会の女性のよく通る声が、会議の開会を告げ、いつものようにまず会長に挨拶を振ろうとしたとき、末席の一人が立ち上がったのに気づき言葉を止める。
 細長いOの形の机には、中に入ってプロジェクタを調節したり、追加の資料を配る為の入り口が末席近くに作られている。
 哉は迷うことなくそこから中に入り、一直線に正面中央に座る小さな老人のところに進んだ。
 徐(おもむろ)に白い封筒をポケットから取り出して、置く。
「大おじいさま、職を辞させていただきます」
 しんとした中に、大きくないはずの哉の声がしみるように広がった。
 小さな老人は小さな目を哉に向けて、仕方ないなと肩をすくめた。その仕草を了承と受け取って、哉はきびすを返す。
 みんながあっけにとられている中で、真っ先に立ち直ったのは社長である父ではなく、会長の祖父だった。言葉に人を切る力があったら対象人物を真っ二つにしかねないほど鋭い声で、哉を呼び止めたのだ。
 しかし、哉は声のしたほうにちらりと視線を向けて会釈を返しただけで止まろうとしなかった。
 最後に同じ末席にいた同年代のいとこやはとこたちの中でも親しかった数人にだけわかる笑みを向けて、哉は部屋から出て行った。
「何をしているっ! 誰か連れ戻せ!! あれをつれてきてワシにわかるように説明させろ!」
 怒気もあらわに立ち上がり、会長が叫ぶ。椅子にいた幾人かが立ち上がり、壁に控えた秘書がドアを開けようと動く。
「無理じゃ あれはすこぶる頑固だからな。育てたお前が一番知っているだろう。追うな、好きにさせておけ。これはワシが預かろう。保留じゃ さ、続けようかの」
 体は小さいが、よく通る声だった。隣に座る顧問の言葉に、会長が震える拳を机について椅子に座った。会長を挟んで反対に座った本社社長は、してやられたという顔をしている。そばの秘書を動かそうにも、顧問が言外に部屋から誰も出るなと言っているので、なにもできない。現役を退いてからの時間のほうが長いくらいの余生を送っている老人は、今でもここで一番の権力者なのだ。
 ちらりと小さな老人を覗うと、楽しい遊びが一つ増えたといわんばかりの笑顔で見返してくる。嘆息ひとつ分の時間の後、司会の女性が何事もなかったかのようにもう一度会議の開催を告げた。


 哉が部屋を出ると、篠田が役員専用のエレベータの中で扉を開けて待っていた。
「ばれていたのか」
「この会社の中では五本に入る有能な秘書だと自負しているので」
 ドアが閉まり、小さな箱が降下を始める。
「連休中入れないというのは嘘だっただろう?」
「ばれていましたか」
 哉の問いかけに、悪びれる様子もなく篠田が言う。考える暇を与えずに急き立てて家に帰したのも、問われてうまく嘘をつき続けることができないと踏んだからだ。
 どんなに大きなビルでも……いや大きなビルだからこそ、全ての階を一度に点検することなどできないのだ。いくつかの階層に分けて立ち入りが制限される日があっただろうが、終日出入り禁止と言うのは、少し考えればおかしい事に気づく。
 哉は自分より少し背の高い篠田を横目で見上げ、少しだけ口元を緩める。
「公用車は使えませんが、どうされますか? 今日ならハイヤーが何台か地下にあるはずですが」
 今朝方大勢の役員を運んできた黒塗りの高級車が役員専用駐車場にずらりと並んでいた。遠方からの役員のために借り上げられたハイヤーもその中にあるのを思い出しながら、哉は地上一階ロビーのボタンを押す。
「久しぶりに歩いて電車に乗る。お前は?」
「途中までお供しますよ」
 高速で降下していた箱に緩やかな制動がかかり、一階でドアが開く。ホールには大勢の社員がいたが、今日天上会議が行われていることはほぼ全員の社員が知っている。本社でも赤丸急上昇株で会議に出席しているはずの副社長が秘書を連れてこれまた普段は地下の役員専用駐車場と四十五階以上の役員専用フロア以外にいること事態がめずらしいのに玄関ホールを歩いているのを受付嬢がぽかんと口を開けたまま、見送っていた。
「付いてきても何もでないぞ」
「残るよりはましでしょうからね」
 前を行く哉を追いながら、篠田が本社を見上げる。
「瀬崎には荷が重いだろう」
「なに、あれで結構やれますよ」
 篠田は少し意地悪そうに笑って、きっともうすぐ瀬崎からの泣き言がくるだろう携帯電話の電源を切った。


 悪い子達ではない。むしろとてもいい子達なのだが、付き合うとどっと疲れが出るのはなぜだろう。
 連休中日にいただいたお弁当はとてもおいしくて豪華だった。お礼にその翌日手製のお菓子を暇にあかしてこそこそと作っていたはぎれと厚紙で作った箱に入れて渡したら、そのお礼にとお茶会に呼ばれてしまったのだ。
「おばあ様がぜひ、お菓子のレシピと箱の作り方を教わりたいって。それに、自分の作ったお菓子も食べていただきたいようなんです。授業が終わってからうちに寄っていただけませんか?」
 にっこりと、それでいて有無を言わせない真里菜に、よろこんでおじゃましますと応えてしまった。もともと自分は流されやすいのだと思うが、彼女の百二十%笑顔全開のお願いを断れる人間がいるならつれてきてほしい。
 案内された庭は低い木立に囲まれた案外こじんまりとした空間だった。きれいに刈り込まれた芝生と、そこに幾何学模様に配置された素焼きタイル。白いテーブルセットに白いパラソルが立ち、想像するくらいしかなかった英国スタイルのお茶会と呼ぶにぴったりだ。
 真里菜の祖母はテレビで見るより華奢だったが、機械を通してはわからない存在感が実物にはあって、何より若々しかった。
 先にひとしきりほめられてしまった樹理も、最近発行された料理本を持っていることと、そこに記載されたレシピと味について心のそこから思ったとおりの賛辞を述べた。
 樹理が箱の作り方の説明に行き詰って、後日改めて一緒に作りましょうと次の予定を決められたとき、庭の片隅、建物の影からふらりと一人の男性が紫色の風呂敷包みを大工のように右肩において歩いてくる。
 顔よりも、着ているTシャツに書かれた文字に目が行った。流麗な筆文字で『まんごうさいこう』と書いてある。もちろん全部ひらがなだ。
「ありー めずらしい。お客様だ」
 そしてその顔を見て、さすがに樹理も失礼と思いつつ目が離せなかった。そのくらいものすごい整った顔だったのだ。
 茶色い髪を後ろで無造作に縛った二十代後半と見られる青年に、二人の少女がにこやかに笑いながら手を振って招いている。
「あ、とーるちゃんいらっしゃい」
「一緒に食べる? 乾きものメインだけど」
「えー 乾き物しかないの? お茶かけてふやかして食べよっかな。隣、いい?」
 風呂敷包みをテーブルにおいて、少し離れたところにある陶器の丸い椅子をさっさと自分で転がして樹理の横に陣取る。良いも悪いも応えようのない早さだ。
「そろそろ来る頃だと思いましたよ。あなた用に用意してあるからお客様の前で行儀の悪いことは言わないで頂戴」
 建物のそばに控えている家政婦に目配せをしながら、真里菜の祖母が男性に言う。
「うん、これ、ウチの母から美礼サンに。頼まれてたものだって」
 風呂敷ごと持ってきたものをテーブルの上をずりずり向こう側へ押す。しかし、その大きな黒茶の目は開け放たれている建物とテラスを結ぶ大きなガラス扉の方だ。
 つられて樹理がそちらを見ると、先ほどの家政婦がワゴンを押してこちらにやってくる。その上には、顔が洗えそうなくらい大きなガラスの容器……見間違いでなければ巨大な金魚鉢に……黄色がかったオレンジ色の物体が揺れている。
「マンゴープリン!!」
 大きな目が、さらに大きく見開かれ、きらきらと輝いている。Tシャツにあるとおり、好物なのだと聞かなくてもわかる。
 二人がかりでテーブルに置かれた金魚鉢に、これまた大きなスプーンを突っ込んで、こんなに開けてあごがはずれないのかとあきれるくらい口をあけて、樹理の五口分くらいを一気に飲み込んで、彼は幸せそうにため息をついている。
「おいしー これはみやざきの太陽の味ー」
 続いて、高級フルーツ専門店の名前も挙げて美礼ににっこり笑いかけた後、ものすごい勢いで食べ始めた。
「あ、お姉さま、この人は私の父で」
「つぐのー とーるです」
 流し込むようにマンゴープリンをむさぼりながらも、何とか自己紹介をする。
「で、こちらが行野樹理お姉さま」
「……真里菜さんのお父様……?」
 よろしくと挨拶も忘れて、樹理がつぶやく。そう言われたら確かに真里菜にそっくりだが、どう見ても二十五、六にしか見えない青年が、父? 兄ではなく?
 このメンバーで、一番理性的と思える真里菜の祖母の美礼に目で本当ですかと問う。
「ええ、うちの娘とは結婚していませんけどね、真里菜の父ですよ。これが」
「うわー ひどい。コレ扱い」
 美礼は澄ましたまま紅茶を飲んでいる。都織は非難しながらも笑っている。信じられないが、あれだけあったプリンがない。彼の前になめたようにきれいになった空の特大金魚鉢があるから、幻ではなかったはずだ。
「まあまあ、おばあ様もとーるちゃんのこと好きなのよ。でなきゃこんなの作らないから」
 気楽に笑いながら真里菜が言う。そうだろう、これだけの量をつくるのは、結構大変だ。体力以外にお金も。少々の出費、あんまり気にしなさそうな家だけれど。
「うん。おいしかったです。ごちそうさまでした」
 そう言って都織が席を立つ。
「もう帰っちゃうの?」
「うん。届け物に来ただけだから。これから好葉ちゃんとデートなのさ」
「ああっ ずるい。私も行きたい」
「ダメー 大人のデートだからお子様はついてきてはいけないのです」
 両手を体の前で大きくバツの形に合わせてそう言うと、ひらひらと手を振ってもと来たとおり、建物の影に消えていく。
「いつもいつも。本当に風みたいに」
 指示を待つまでもなく、巨大な金魚鉢が片付けられていくのを見て、美礼がため息をつく。しかしその口元は笑っている。
「樹理さん、申し訳ないわね。ああいうのが親な上に、翠さんと一緒だとこの娘たちは台風みたいでしょう?」
「ハイ、あ、いえ……」
 思わずうなずきかけて慌てて否定するが、言葉が続かない。
「いいのよ。まじめに付き合うと疲れるだけだから、適当に断ってやって」
「おばあ様、私、別にお姉さまに無理をお願いしたりしてません。あくまでもおしとやかに。さりげなく、思ってることの半分も……」
「そうね、言葉遣いは目上の方に対しては合格だわ。私に対してもそんな口の聞き方、したこともないのにがんばっているわ。でもね、真里菜」
 言葉を切って、孫娘の目をじっと見つめながら、美礼が続ける。
「あなたの半分は普通の人の倍だと思いなさい。思っていることの十のうち一つで十分よ」
「そんなのちっとも面白くないっ」
「あなたを面白がさせる為に樹理さんがいるわけではないのよ」
「……そんなのわかってるもん」
 ちいさな赤い唇が、つんととがっている。すねてもかわいい。先ほどまでとは口調が明らかに変わっている。こちらのほうが地なのだろう。隣にいる翠も同じような顔だ。彼女もこの人には頭が上がらないらしい。
「お姉さま、ご迷惑ですか?」
「私たちとは一緒にいたくないですか?」
 じっと見つめるように、上目遣いで大きな瞳が迫ってくる。
「真里菜、翠さん。それがダメなの。そんなこといわれて、樹理さんが迷惑だなんておっしゃるわけがないでしょう」
 先ほどとは違って、美礼は困りきったような顔でため息をつき、樹理を見た。どうやらこのお茶会は、この二人の少女たちにクギを刺すためのものだったらしいと樹理も理解した。
「真里菜さん、翠さん、あなたたちはそんなふうに言われて楽しい?」
 樹理の言葉に、二人がきょとんとした顔になる。そしてお互いの顔をみて、シンクロするように首を横に振ってしょぼんとうなだれる。
「そうよね、あんまり楽しくないわよね。私、ずっと違和感があったの。できれば、ただ一緒に遊ばない? って言ってほしかったんだわ。二人ともなんだか他人行儀な誘い方で、線を引かれてるような感じで……その……迷惑ではないけど一緒にいてもちょっと寂かったわ。ただ仲良くなりたいだけですって言われても、イマイチ信用しきれなかったのはそのせいかも」
 ますます二人がうなだれている。つむじの天辺まで見えそうな角度だ。
「二人がもしよかったらなんだけど、明日は第一学食でお昼をしましょう。真里菜さんのおばあ様のお弁当もおいしかったけど、あそこのパスタもおいしいから」
 二つの頭がぱぱっとあがってくる。
「それと、言葉遣いも、堅苦しいのはもうたくさん」
 樹理が笑ってそう言うと、二人も笑う。
「よかったー ホントは舌噛みそうでどうしようかと思ってて。私の一人称も言い馴れなくて気持ち悪いし。いっつもボクなのに」
 翠がそう言うと真里菜もそうそうとうなずく。
「リナも気持ち悪かったー お嬢コトバで攻めようって決めたけど、翠がワタシって言うたびに『ひぃ』って感じ。あごの運動にはなるけどねー お姉さまがいつ気持ち悪いからやめてって言ってくれるか待ってたの」
「待ってたの? 私はもう、あなたたちはいつもそう言う言葉遣いなのかと思ってあわせるのに必死だったのに」
 くすくすと笑う少女たちに、美礼があきれたようにつぶやいた。
「全く、世話の焼ける子達だこと」


「じゃあ、そのときに私を見かけて?」
「だって、お姉さま、一人で裏方の仕事を黙々とされてたでしょう?」
「リナも翠も、それからほかの子達も、気になって気になって。どうしてこんなきれいな人が裏方なのかしらって」
 場所はまだ庭のテーブルだ。美礼は仕事があるからと席を立って、少女たちが三人、紅茶の茶碗を片手に座っている。
 三人が話しているのは、三月の始めに行われた中等部三年生たちの高等部見学日のことだ。
 中等部から春に高等部へやってくる生徒を、同じく春には三年になる樹理たちがもてなすのだ。中等部の生徒と直接話をする係りが一番人気なのだが、それは生徒の互選で同級生の中でも美人で社交的な人たちが選ばれる。樹理は誰でもなれる一番地味な裏方に立候補して、そんな誰に見せるでもない裏方など端からやる気のない同級生たちに代わってせっせと働いた。とはいえ、茶菓子とお茶を用意するくらいなのだが。
 地味な役なので、そんなにじっくり観察されていたとは思っても見なかった。
「入学式でも、やっぱり一番貧乏くじを引いてるのが見えて、リナ達の面倒を見てくれるのはこの人しかいないと思って」
「高等部になると、ボクもリナもとっても有名人だから、さすがに上級生が放っておいてくれなくなるだろうから、早いうちに保護者を決めておこうかと」
「……今のを聞くと、私、ものすごく損な役を引き受けたように聞こえるんだけど?」
 樹理がそうつぶやくと、二人はそのとおりと高らかに、声を立てて笑っている。
「だって、リナ達が付きまとうようになってから結構当てこすりとかあったと思うんだけど、お姉さま全然そんなこと私たちに言わないでくれたでしょう?」
「そうそう、さすがにみんな、お姉さまになってあげるわよなんて言ってこないけど、ボク達にそう呼ばれたいって顔に書いてあるもんね」
「……あのねぇ じゃあ私に迷惑だとかいやだとか言われたらどうするつもりだったの?」
「えー だって」
 真里菜がニコニコ笑いながら翠に顔を向ける。
「断られるなんて思ってなかったもの。お姉さまなら絶対、迷惑に思っても私たちのこと邪険にしたりしないはずだもん」
 ねーっとうなずきあいながら二人、あっけらかんと笑っている。つまり、人のよさそうなところを買われたということなのか。
「でも、さすがにさっきは」
「あせったわ。おばあ様ったら怖いんだもん。でもよかった。お姉さまがやさしくて」
 にっこりと向けられるのは花のような笑顔だ。
「だから、リナ達もお返しをしようと思うの」
 ずいっと真里菜が笑顔のまま顔を近づけてくる。
「ええ、前からこれだとは思ってたんです」
「な、なにかしら?」
 再び改まった口調の二人の笑顔に思わず体をそらしながら樹理が問う。
「「来月の学園祭のミスコンでは絶対優勝してもらいますから!!」」
 二人が威勢良く立ち上がってお互いのほうの腕……昔流行った女性デュオのポーズのように真里菜の左手と翠の右手を、手のひらを合わせながらぴんと上げて高らかに宣言した。
 開校以来百有余年。戦中戦後も毎年行われていたという、文字通り学校で一番美人を選ぶためのコンテストだ。特に決められているわけではないが暗黙の了解なのか、出場するのは最終学年である三年生のみ。つまり、この二人は出ることはない。
 確か、樹理のクラスにミスコンの最有力候補がいる。母親が中東出身というハーフで、顔の目鼻立ちも体のメリハリはっきりしたと背の高い美人。父親が多額の寄付をしていて、多少のわがままも許されているので本人はかなりの女王様だ。
 あの人とは戦いたくない。というか、いつも背中に大輪のバラを背負っているようなあの派手さと自分の地味さを比較したら、知名度から考えても始まる前から負けていると思う。
「お姉さま、いつもリナ達と自分は格が違うとか思ってるでしょう?」
 真里菜の黒い瞳がきらりと光って始まる前から逃げ腰の樹理を捕らえる。
 ごくりとつばを飲み込みながらこくんとうなずいた。
「お姉さまはちゃんとした人だし、そんなこと考えなくていいと思うし、そもそもそこら辺の認識がおかしいとは思うんだけど、お姉さまはきっと人にただそう言われた位じゃ考え方を改めないと思うのでっ! それならば同格になればいいだけのこと。手っ取り早いのはみんなが認める学園一になることよね」
「や、え? 私が? あれに出るの? そんな、私なんか……」
「ぴぴーっ ダメです。これからは『私なんか』は言っちゃダメ」
 真里菜が笛を吹くまねをして、さらにレッドカードでも持っているかのような仕草で樹理に右腕を突き出した。
「お姉さまなら絶対大丈夫。足らないのは自信だけだから」
 ものすごく自信を持って、翠が言い切った。
 そんな自信、どこから出せというのだろうか。
 やっぱり、迷惑だからと断ればよかったと、自分の人の良さと流されやすさに樹理が頭を抱えているそばで、二人がああでもない、こうでもないと作戦を練る声が聞こえてくる。
「あっ そうだ。お姉さま、番号教えて番号っ」
「え? なんの?」
「なんのって、番号って言ったらケータイのっ」
 言いながら、真里菜がポケットから赤い携帯電話を出している。表面は大小さまざまな大量のクリスタルが張られてキラキラゴツゴツしたすごい状態だ。
「ボクもー ついでにメルアドも」
 翠が出したのは、名前にあわせたのか薄緑色の携帯電話だ。こちらはゴテゴテしていないが、どうも同じ機種らしい。
「あの、持ってないの」
「へ?」
「携帯電話。私、持ってないのよ」
「なんで!? どうしてっ!? ケータイは女子高生のマストアイテムでしょう!?」
 間の抜けた声を出した二人に、重ねて同じことを告げると、今度は猛然と返された。そう言われても樹理には今まで携帯電話で頻繁に連絡を取らなくてはならない友人もいなかったし、なくても十分生活できたのだ。
「信じられなーい。夜道でコワイ人にさらわれたらどうするんですかっ! 今すぐ買って!! ご家族の方が反対してるとか? いまどき携帯電話ひとつくらいで不良にはなれませんって私から言ってあげる。なんなら料金リナ持ちでもいいからっ」
「え、ダメよ。パ……両親は勧めてくれたんだけど、私がいらないって断ったの。だから頼めば電話くらい持たせてもらえるから……」
「じゃあもう絶対。買ったら教えてね。って言うか、ボクたち、買うとき一緒に行くから」
「そうそう。お姉さまって安さに負けて絶対最新機種選ばなさそうだもん。品定め隊は必要よね」
 何でそんなことまでわかるのと心の中で反論はしたものの、あっという間に土曜日に一緒に街に出て携帯を選ぶという目的に遊ぶ事を約束させられた。


 なんだかどっとと疲れた。明日の昼学食で会う約束で真里菜の家を辞したが、学校を休むのはだめかしらと思ってしまうくらい後ろ向きだ。
 それでも今日の晩御飯の食材を買い込んで、樹理はマンションに帰りドアを開ける。
 広い玄関に、靴がある。ぽいっと投げ出されて転がった哉の靴が。
 今日から仕事に行っているはずで、以前一緒に暮らしていたときのことを思い出しても、こんな時間に哉がいたことはない。仕事ならまだ帰ってきてはいないはずの時間なのに。
 奥に進むとテレビの音が聞こえる。夕方のニュースはちょうど天気予報の時間帯だ。キッチンに食材を置いて、和室に向かうため通るリビングは一見して誰もいないように見えた。
 ソファにごろんと横になって、哉が寝ている。頭の下には先日買ったばかりのシャチが枕代わりに使われていて、ネクタイをはずした白いワイシャツの胸元に重そうな洋書が開いたまま乗っている。
 起こしてもいいものか、声をかけようか樹理が迷っていると、突然哉の目が開いた。
「ひゃ」
 まじまじと見つめていた樹理が、びっくりして小さな声を上げる。哉のほうも、そこに樹理が立っていることを理解するまで数秒かかったらしく、ゆっくり瞬きをして身を起こす。
「た、ただいま、かえりました」
「……ああ」
 だるそうに首を回して本を閉じ、テレビを切る。
「もうこんな時間か」
 七時になろうとしている時計を見てそうつぶやいて、猫のように伸びをして。
「今日はちょっと遅い?」
 連休の中日の帰宅時間よりかなり遅い。
「今日はえっと、その、お友達の家に寄っていたので。すぐご飯作ります」
 ぱたぱたと走って、樹理が学校の荷物を和室においてキッチンへ向かう。
 長い休みの後だしきっと帰りが遅くなるだろうと予想していたのに、早い。というか、早すぎる。
「あの、氷川さん、会社は……?」
 ふと、疑問に思って樹理が聞くと、哉はなんでもないようにさらりと応えた。
「ああ、辞めてきた」






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