恋におちたら 5


「えっ? ええっー!?」
 色素の薄い茶色い瞳がこぼれそうなくらい見開かれている。ねぎを取り落としたのにも気づいていない様子だ。
「………辞めた?」
 やっとのことで搾り出しましたというような、かすれた声が小さく聞こえた。
「ああ」
「仕事を、辞めた?」
 信じられないのか、哉の返事も聞いていない様子でつぶやいている。どこか一点を見つめていた瞳がゆらりと揺れて、下を見ている。
「どうした?」
 しばらくじっとうつむいたままの樹理に、カウンター越しに哉が声をかける。
「……それって、私がここにいるからですか?」
 小さな声だったけれど、静かな室内に響いたように感じる。
「そうだとも、違うとも言える」
 否定しない哉の言葉に、樹理がはっと顔を上げる。
「誤解するな。樹理はただのきっかけだ。他にすることがなかった、だから仕事をしていただけで、別にいつ辞めても、続けてもよかったんだ。でもまあ、煩わしいことは避けたい。樹理のせいで辞めたわけじゃない。俺は自分の決断を誰かにゆだねることはきらいだから」
 誰かがこういったから、ああしたからと、人生の、主に悪く転がった方の転機を誰かのせいにするのは昔からいやだった。人のせいにしたからといってこれまでの出来事がなくなるわけではない。選択が無効になって、やり直せるわけでもない。そんな無駄なことをするくらいなら、全て自分の責任で切り開く方がいくらかましだ。これまで生きてきて一度も後悔をしなかったわけではないが、しかたが問題だと考えている。
「それに、今までどおり仕事をしていたら……家にいる時間が減るだろう」
「……家にいる、時間?」
「ああ、まだ読めてない本が山積みなんだ」


 ちょっぴり期待しそうになった自分がちょっとだけ憎い。そして本に負けたような気がしてかなりへこんだ。
 この休みの間知ったのだが、哉は大変な読書家だ。そして本を読むスピードも早い。日本語のタイトルでさえ漢字が六つ以上続いていたら樹理にはちんぷんかんぷんなのに、洋書になると何の本なのか想像も付かない。
 そんなことを思っていたら、小口切りにするはずのねぎがぶつ切りになっていた。
 ダメだ。野菜にあたるなんて。もったいない。
 樹理が何とか気を取り直して作った夕食を、なんだかしゃべりづらくて黙々と食べる。
「ああそうだ。今週末だから」
「は?」
「前に言っていたパーティー」
「ええええええ!?」
 別に突拍子もないことを言ったつもりがなかった哉が、樹理の反応にびっくりしている。
「今週末、土曜ですか? 日曜ですか?」
「土曜。午後六時開場だったから……そうだな、四時半くらいに出るか」
「じゃあ約束どうしようかな……」
「約束?」
 ぴたりと哉の箸が止まった。
「はい。今日一緒だった子達……同じ学校の一年の方達なんですけど、一緒に出かける約束をしてしまって。あ! 家に電話するの忘れてたっ」
 約束と言う言葉に反応した哉に、樹理が言い訳のように応え、そして思い出して声を上げた。
「家?」
「あ、あの、携帯電話を買ってもらおうと思って。私、持ってなくて……その……今までそんな必要としてなかったらよかったんですけど、なんだか、持ってないとダメって感じで」
「別に親に頼まなくても、樹理の携帯電話くらい俺が買う。どんなのがいいんだ?」
「え、ええっと。どんなのでもいいんですけど、それを買いに土曜に出かけようって話になってて……」
「ふぅん」
 気のない返事を哉が返す。なんだかヘソを曲げてしまったみたいだが、何が気に入らないのかわからない。
 以前一緒に食事をしていたときは絶対にしなかったのに、なんだか無意味に食事をつついている哉を見て、樹理がどうしてなのかと考えて、そして答えを見つけた。
 今日は上の空で料理をしていたから、きっとおいしくないのだと。


「本当にごめんなさい。三時には帰ります」
 結局、予定を前倒しするからと押し切られ、断りきれなくて土曜は朝早くからばたばたと用意して樹理は慌てて家をでた。
 哉がなんとなく怒っていたような気がするけれど、不機嫌そうなのはいつものことなので気のせいと言うことにして、樹理は待ち合わせの場所に急ぐ。電車がいつも通り遅れていたら……それに乗れば多分間に合う。
 着ていく服に散々悩み、あの二人に会うのだから、哉に買ってもらった服を着ていけば外れないだろうと今日はシンプルなデザインのシャツと膝丈のシフォンスカートを選んだ。選ぶのに時間をかけすぎてこの急ぎっぷりだ。
 大急ぎで駅構内を走り、階段を駆け上がってホームにまだ停車していた電車に飛び乗る。いつもと反対側に向かう電車は、見慣れない町並みの中を規則正しくゆれながら進んでいく。そして、待ち合わせの駅に付く頃には動悸も息切れもなかったことにできた。改札の向こうにいた目立つ二人連れが樹理に気づいてキャーキャー言いながら手を振っている。道行く人々が目を見張りながら彼女達の横を通り過ぎていくが、本人達は周りの注目を集めていることなど全く気にしていない。
「かわいい! 似合ってる!!」
 そう言う真里菜はお尻がかろうじて隠れるくらい短い桜の花柄のワンピースの下に、ひざ小僧が見えるくらいの長さの桜色のスパッツをはいている。絶対彼女のほうがかわいい。
「ボクもほしかったんだけどさすがに三枚目だしあきらめたスカートだぁ」
 ブランドをいいあててうらやましそうに言う翠は、少年のような細い体にぴったりと沿ったヘソが見えそうな丈のTシャツにこれまた細身のジーンズをはいている。
 足元は二人とも素足にかかともつま先もものすごい高さがあるミュールだ。ローヒールに近い樹理が一番背が低くなっている。
「んじゃまぁ とにかく。ケータイ選びれっつらごーで」
 待ち合わせた駅はその建物がそのまま総合商業施設になっている。三階から七階までがすべて有名家電量販店で、その上にこれまた有名洋服ブランドの店が入り、最上階に書店がある。
 契約に必要な書類は予め哉が全部調えてくれているので、後は機種を選ぶだけだ。ご機嫌斜めでもちゃんといろいろしてくれる。その上、出がけにぽんとカードまで渡された。これで携帯本体の支払いをするようにと。
 携帯電話を扱う売り場は、入ってすぐの一番目に付く場所にあった。その隣にパソコンがずらりと並んでいる。
 ピラミッドのようになったひな壇に、携帯電話がこれでもかと並んでいる。真里菜と翠は一つ一つ手にとって、あれでもないこれでもないと品定めに夢中だ。
「リナこれがいい」
「ええー 丸すぎ。こっちくらいのがいいよ」
「この前は翠のいいって言ったのにしたんだから今度はリナの番だもん」
「「お姉さま、どっちがいい!?」」
 ステレオの問いかけと同時に、二つの携帯電話が差し出される。どちらも大手メーカーの最新夏モデルだ。価格は同じ。新規なら一万二千円台。
「え。別に……こっちでも……」
 言いながら、隅にちまっと収まっているものを指す。新規ゼロ円。どっちでも電話がかけられてメールができればそれでいいではないか。
「ダメダメダメダメーっ だって、ボク達もおそろいに替えるんだもん」
「液晶とか、文字がガタガタしてなくて滑らかとか、ボタンが押しやすいとか音がクリアとか音楽がきれいとかっ とにかくそれとこれとじゃぜんぜん違うの。型遅れの安物はダメですよ、安物はっ」
 さあどっち!? と、さらにずいっと携帯電話が寄ってくる。どっちでもいいとはいえない雰囲気だ。二人の持っているものを見比べる。翠の言うとおり、真里菜の持っている携帯電話はコロコロ丸い。代わって翠の持っている携帯電話は、カクカク四角い。
「……どんな色があるか、見てから決めていい?」
 三人で同じ機種を持つなら、色違いがいいだろう。ざっと見ても色も同じ赤でも機種によってワインレッドから絵の具の赤色までいろいろだ。
 結局色のバリエーションで翠の持っている機種を契約することにした。二人は言っていた通り、今までの携帯電話から新しいものに替えている。しかも、前に替えてから半年も経っていないらしく、二万円を超える出費だ。ものともしていない様子だが。
 データの移し変えもすぐに済み、樹理のほうも先に契約書を作っていたこともあってすぐに電話が手元にやってくる。樹理が空色、真里菜が桜色、そして翠はやぱり緑色だ。今度のは深緑。
 一階のコーヒーショップでお互いの番号を交換し、樹理の携帯のメールアドレスをわかりやすいものに直し、それも交換する。やれやれと一息つくまもなく、早々にキャラメルラテを飲み終えた真里菜が気合を入れて立ち上がる。
「いよーっし。お姉さまの買い物終了っ じゃあ今度はリナにお付き合いねがいまーっス」
 駅ビルを出て真里菜が指差したのは、駅前スクランブル交差点の向こうに建つしゃれたビルだ。訳もわからないままほぼ連行されるように樹理が付いていく。着いてから、そこがどこだかわかった。
「ここって……エステサロン?」
「そうでっす。あ、お金は大丈夫。私、身内だから。私のお友達からお金を取るような人は身内にはいないし。」
 及び腰になった樹理の両手を、二人が両側から逃げられないようにがっちりつないだまま、エレベーターで七階へ上がる。着いた先は先ほどまでより明らかに豪華さが違うじゅうたんが敷かれ、ところどころに配置された大きな花瓶にはきれいな花が飾られている。
 正面のドアを元気よく開けて、真里菜が人を呼んだ。
「かーおるちゃーん。リナの一生のお願い聞いてー?」
 部屋の中には、白いソファの来客セットと、その奥に白地に金で装飾された大きな机があり、黒い髪を結い上げた美人がそこに座っていた。
「リナ。今年何回目かしらね、あなたのそのお願い」
「十回は超えてると思う」
 美人の問いかけに、真里菜がさらりと応える。
「今日はなぁに?」
 苦笑しながら、美人がめがねをはずした。
「リナのお姉さまをぴっかぴかにしてくださいな」
 そう言われて、美女はいつもより一人人数が多いことに気づいたらしい。
「あら、お姉さま?」
「はい。行野樹理お姉さま」
 ニコニコと笑っている真里菜に対して、樹理は引きつった笑みを何とかゆがまないようにするのに必死だった。目の前の美人、見たことがある人だと思ったら、そうだ、このサロンの社長だ。名前は確か。
「こんにちは、樹理さん。真里菜と親しくしてくださってありがとう。私は次能香織(つぐのうかおる)と申します。真里菜の祖母よ」
 見えません。と言う言葉が口をついてでてきそうだ。目の前の美女はどう見ても三十代半ば……どう年上に見積もっても四十代だ。次能と言う姓ならば、あの美青年の母か。だとしたらどんなに若くても四十代後半以上のはずなのに、絶対見えない。真里菜の母ですと言われてもそうですかと納得するだろう。
「は、はじめまして。行野樹理です。こちらこそ、真里菜さんにはお世話になりっぱなしで……こんなところまで来てしまって。すいません」
 ぺこりとお辞儀をする樹理に、香織はにっこり微笑んだ。
「よかったわ。常識がありそうで。リナにいろいろ教えてやってくださらない? 私が言うのもなんだけど、本当に枠に収まらない孫なのよ」
「はあ」
「あなた達はどうするの?」
 どう応えていいものか間の抜けた返事をした樹理の左右の少女達に香織が問う。
「私達、今日は顔だけー そんなに気合入れない感じでお願いしまーっす」
「そう、じゃあ隣で待っていて。樹理さんは全身ぴっかぴかでいいのね?」
「もう、これ以上ないってくらいに」
 いってらっしゃーいと見送られて樹理は香織に促されるまま別の部屋に通された。
「あなた、だまされてつれてこられたんでしょう」
 くすくすと笑いながら香織に問われて、樹理がうなずく。今日は携帯を買った後は別の買い物に付き合ってほしいと頼まれていたのだ。
「えっと、あの、したふりっていうか、私、エステとかは別に……」
「ダメよ。ふりなんてできるわけないでしょう。使用前使用後。ビフォーアフターでどうなるか、体験してみなさい」
 なんだか自信たっぷりにそう言われて、差し出されたピンク色のガウンを受け取ってしまった樹理だった。


 一皮向けるとはこういうことを言うのか。あるいは、一回り縮まると言うのか。
 顎が細くなったとか、肌の色が良くなったとか、ぱっと見てわかる以外にも、体が軽くなったのだ。二時間ほどの間に。体験しろと言った香織が自信たっぷりだったのもうなずける。
 エステが終わってみんなすっぴんで帰るわけにはいかないのだろう、美容室のようなところもあって、夕方からの予定を伝えると「じゃあちょっと気合入れちゃおうかな」と、着ていく服や場所を詳しく聞いてくれて、どこをどうと言わなくても髪はかわいく結われて生花に特別な加工をした小さな薔薇まで飾ってもらった。
 髪を整えて高そうな化粧品を使って化粧もしてもらったら、鏡の中に自分がいるとはちょっと信じられない気分だ。生まれて初めてまつげを上げる妙な器具を見たと言う樹理にメイクを施してくれたきれいなお姉さんがびっくりしていた。
 パーティーに連れて行かれると聞いて、頭や顔をどうしようかと思っていたので、これは素直にうれしかった。
「やっぱり! 磨いたら輝いたわ!!」
 真里菜が目をキラキラさせ、両手を祈るように組んでうれしそうに笑っている。
「絶対きれい。なんとなく自信がわいてこない!? 体の奥からガガーっと」
 その隣で、何かを押し出すように両手を下から上に持ち上げるジェスチャーつきで翠が言う。
 ねっ! と微笑みかける二人も別れたときよりきれいになっているのだ。そう言われても素直に自信がつきましたとは言えない。曖昧に笑ってごまかす。
「香織ちゃんが感想も聞きたいからお昼おごってくれるって」
「わーい、ご馳走だ」
 真里菜がれっつらごーと右手を上げている。タダでこれだけのことをやってもらったのだ、感想は述べねばならないだろう。それにお礼も。おごってもらうのは申し訳ないような気がするが、断れない。
 どんどん深みにはまっていくような、逃げにくくなっているような気がしながら、抗うタイミングが取れずに流されていく自分に諦めるようにと言い聞かせるように、ため息をひとつついた。
 哉と約束した時間までに帰ることができるのだろうか。


 結局間に合わなかった。仕方なく買ったばかりの携帯電話で哉に電話を掛けて、四時までに帰ると伝えた。それには何とか間に合った。それさえ間に合わないかとどきどきはしたが、息が上がっていないのは香織が車を出してくれたからだ。食後お茶を飲みながら話しているくらいからそわそわと時計を気にしだした樹理に、予定を聞いてくれて買い物がまだだとダダをこねだした孫達をなだめて、大急ぎで買い物をするならと、電車より早いからと会社から車を呼んでくれた。
 また来てねと言われ、試供品らしき化粧品を紙袋いっぱいにもらってしまった。自分で支払いができる歳になるには、まだまだ時間がかかりそうで、この借りにはものすごい利息がつきそうだ。
「帰りました」
 居間に行くと、よほど頭の置き心地がいいのかシャチを枕に哉がフローリングの床に寝転がって本を読んでいた。樹理が出て行ったときのまま、白いシャツにジーンズ姿。これと言って何か準備している様子もない。
 転がったまま哉がさかさまに樹理を見上げている。出て行ったときと様子が違うことにさすがに気づいたような顔だ。
「あの、えっと。買い物の約束だったんですけど、エステサロンに連れて行かれちゃって。あ、ご身内だからとかでタダでしてもらってしまったんですけど、ついでにお昼をご馳走になったり買い物をしたり、それで送ってもらったりもしたんですけど、その、あの……遅くなってすいません……」
 じっと見つめられて、どんどん言っていることがわからなくなって、立ったまま見下ろすのも良くないように思えてシャチぎりぎりにひざを着いて座って、もうすでに何を言っているのかわからないままとりあえず謝ってしまう。
 ここに再び戻ってきてからは、哉はちゃんと一言だけでも応えてくれるようになった。ふうんとか、ああとか。それだけでもちゃんと言っていることを聞いてくれている反応があるのは、コミュニケーションとしては上々だ。なのに今日は何も返ってこない。樹理が何とか会話をつなげようとあわあわと次の言葉を探している間に哉が頭の下からシャチを引き抜いた。
 よっこいしょ。
 哉の動きを表現するならそんな仕草で。
 気がついたら頭がひざに乗っていた。
 突然縮まった距離に樹理がびっくりした顔で固まった。哉の右手がまとめずに残した両方のこめかみ付近の縦ロールに巻いていつもよりくるくると垂らした髪に触れ、軽く引っ張ってつまんだ毛先を唇に寄せる。
 一瞬が永遠よりも長かった。息を止めていたけれどそれが苦痛でなかったと言うことは、多分本当に短い時間。けれど何時間もそうしていたような錯覚が起こるのは、存在が近かったからだろうか。
 樹理が身じろぐよりもほんの少しだけ早く哉が起き上がってそのまま立つ。
「着替えてくる」
 哉の動作をなぞって顔を上げた樹理に一言残して、哉が自分の部屋に消えた。


 四時三十分。予定の時間きっかりにマンションのエントランスを抜けると、ハイヤーがハザードランプを点滅させながら二人を待っていた。
 車は緩やかに都心に向かう。徐々に日が長くなってきて、まだまだ夕暮れには早い時間だ。
 一時間以上のドライブの後に、低い木立と植え込みの間を抜けたエントランスの屋根の下、するりと近づいてきたドアボーイがドアを開けて恭しくお辞儀をしている。すわり心地の良いシートから離れて降り立った先は、最近できたばかりのマスコミにも取り上げられていた高級ホテルだ。
 哉にくっついてなるべくきょろきょろしないように気をつけながら、でも見るものの珍しさに落ち着かない様子で樹理が歩く。優雅な曲線を描く大きな階段を上がってすぐの扉をくぐると、きらめく大空間が広がっていた。
 入ってすぐに誰かが哉に声をかけて陽気に挨拶している。ほんの少し進めばまた誰かが哉を呼び止める。樹理は同じような服を着たほんの少しだけ違う顔をした人々を紹介されて会釈することを繰り返した。四人目と挨拶を交わしたところで、最初の一人が記憶から追い出されるようだ。樹理が見る限り、大文字のI(アイ)と小文字のl(エル)と数字の1(いち)くらいしか違わないパーティーの出席者達だが、樹理が知らないだけで、多分みんな有名人なのだと言うことはなんとなく雰囲気が教えてくれる。
 哉の後ろにくっついて、とにかくニコニコ笑って精一杯楽しそうな顔をする。哉に声をかけてくるのは、樹理より少し年上の女性を連れた人々が多い。相手もとってつけたような笑顔で哉の隣にいる樹理に歯の浮くようなお世辞を雨あられと降らせてくれる。一生分の美麗字句を聞いたような気分だ。
「あら、あなた……? 行野さんではなくて?」
 歩き回って立ちっぱなしでなんだか足が痛いなぁと下を向いたとき、つむじの上から高圧的な声が振り下ろされた。
 聞き覚えのある良く通るその声に顔を上げると、目の前に樹理の知っている人物が立っていた。彼女は優雅な夜会用のドレスに身を包み、ばっちりと化粧をして、艶のある長い黒髪はきらきらと輝く何かをつけて優雅に縦に巻かれている。その姿は実に様になっていて、この場にしっくりとなじんでいる。実際の年齢よりずっと大人びた姿のクラスメイトの藤原呉緒(ふじわらくれお)が立っている。
「でもあなたみたいな方がどうしてこんなところにいらっしゃるの? まさかあなたみたいな人まで氷川商事の副社長がいらっしゃるって聞いてきたの?」
 怒涛のように言いながら呉緒が、濃いアイシャドーを引いてマスカラで重そうなまつげを乗せた黒い瞳で、頭のてっぺんからつま先まで無遠慮に、何度も往復しながらじろじろと樹理を値踏みしたあと、つんとあごをそびやかして、にらむように樹理を見ている。
「は?」
 呉緒が言った言葉が引っかって、樹理が思わず聞き返した。誰が誰に会うために来たと? 思わず隣の哉を振り向いたら気づいていないのか、こちらに背中を向けて誰かと話している。
 突然の事態に先ほどまで何とか綱渡りで維持してきた体面が崩れそうになったとき、呉緒の後ろから大柄な初老と言ってもいいくらいの年配の年齢の男性がやってきた。
「呉緒、一人でうろうろしてはいけないと言ってあっただろう」
「だってお父様ってば、いつまで経ってもおじさんたちばかりと挨拶してるんだもの。いい加減飽き飽きだわ。氷川さんにお会いできるってお父様が言うからついてきたのに……」
 グロスがたっぷりつけられ、つやつやと光るふっくらした唇を少し尖らせて、呉緒が後ろから来た父親に文句を言っている。その父親は、ふくれっ面の娘をなだめるように笑いかけて、タイミングよく会話を終えて樹理の方へ向き直った哉を見つけて少しだけ驚いたような顔をした。
「お久しぶりです、藤原頭取。こちらは確か……新年互礼会にも来られていた方ですね?」
「ああ、末の娘でね。そうか、正月以来だったかな、久しぶり。何しろこの人出だろう? このパーティーには毎年来ているがいつもより出席者が多いみたいだ。君に会えないかと思ったよ。ぜひもう一度ゆっくり話をしたいと思っていたんだが、いやいい機会があってよかったよ」
「互礼会のときはご一緒できてとても楽しかったですわ。なんだか前よりずっと素敵になられててびっくり。それに、私なんかを覚えていていただいてうれしいですわ」
 先ほどまでの不機嫌さをどこにおいたのか、呉緒がにこやかに微笑んで優雅に礼をする。指先まで洗練されていて、同性の樹理でさえその美しさにため息が出そうなくらい完璧だ。
「彼はすばらしく有能な跡継ぎでね、いろいろな事情で氷川商事が切り捨てようかとも考えていた部門をたったの半年ほどでかなり業績を回復させたんだよ。氷川の家の人間はさすがだね。そういった才能が脈々と受け継がれていてうらやましい限りだ」
「まあ、すごい」
 最初からあったせりふのようによどみなく哉をほめた父親の言葉に、呉緒が先ほどの笑みにほんの少しの親近感を混ぜた表情で哉を見ている。
「確か、上のお子様達は僕と同じくらいの年齢だったと記憶しているんですが、こんなに若いお嬢さんが頭取にいらっしゃったとは存じ上げませんでした」
「いやいや、お恥ずかしい。先の妻と別れた後長く欧州の支店を転々としていてね。フランスにいたときそっちに留学してきていたこれの母親と知り合って。かなり歳をとってからできた娘で。妻に似て美人になってしまってありがたいような心配事が多くて困るような、父親というのは複雑ですよ。
 かわいい末っ子で家族みんなから甘やかされて育ちましたからちょっとわがままなところもあるんですが、いい子なんですよ」
 豪快に笑いながら長々と娘自慢をした後、やっと気づいたのか樹理を見ている。さすが親子だ。視線の使い方が同じだ。後ろに下がって哉に隠れなかったのは、動じなかったからではなく同じ体勢で立っていたせいで足の痛くて動けなかっただけだ。
「ああ、紹介が遅れてすみません。彼女は今僕とお付き合いしている行野樹理さんです」
「行野樹理です。はじめまして」
 ぺこりと頭を下げる。呉緒の優雅な礼には遠く及ばない。育ちの原点が違うのだ。ああするのが美しいと分かっていても、体はそう簡単には動かない。二人の視線が痛いのは気のせいだろうか?
「………こんなかわいらしいお嬢さんとお付き合いされていたとは。いや、知りませんでした。お若い方ですな」
 樹理の挨拶からいくぶんかのタイムラグの後、藤原が哉に話しかける。そろそろと視線を上げたら、呉緒がものすごい形相でにらんでいた。
「ええ、お若くてよ、お父様。行野さんは私のクラスメイトですもの。ね、行野さん?」
「え、ええ……」
「私も知らなかったわ。行野さんみたいな人がこんな方とお付き合いされていたなんて」
 目が怖い。どうしてこんなににらまれなくてはならないのか。確かにクラスメイトだが、挨拶すら交わしたことがないのだ。呉緒は言ってみれば女王さまだ。
 今年の校内のミスコンは彼女で決まりとうわさされているような人物は、樹理にとっては十分近寄りがたい有名人だ。
 樹理のことなど王宮からはるか離れた場所に住む最下層の住人と認識し、挨拶をする対象としてみていない。彼女の周りにはいつも取り巻きが大勢いて華やかで、樹理はなにか連絡事項があっても彼女に声をかける度胸はない。取り巻きに伝えるのがせいぜいだ。逆に彼女が自分の名前を知っていることにびっくりしたくらいだ。向こうは目立つ女王でもこちらはいつも控えめな一般市民。おそらく真里菜や翠のことがあるから覚えているのだろうが。
「お父様、少し行野さんとお話したいんですけど、いいかしら?」
「ああ、いいとも、仲がいいのか?」
「ええ。とっても」
 よくもまあ、そんな満面の笑顔でさらりと嘘がつけるものだと感心してみていた樹理の腕をつかんで、呉緒が二人から少し離れたところまで樹理を引っ張っていく。女性にしては大きな手の長い指ががっちりと締め付けて痛いくらいだ。
「もう一度聞くわ。どうしてあなたみたいな三流階級の人間がこんなところに紛れ込んでいるの? 氷川副社長とお付き合いしているとか聞こえたのだけど、聞き間違いよね」
 小さいが先ほどまでとは三オクターブくらい低くて、ありていに言えばドスの効いた声色で呉緒が言いながら樹理の顔を覗き込む。
「もしかして頼まれて恋人役をしているの? 父から彼はとても仕事熱心であまり恋愛は得意そうじゃないって聞いていたからこういった場所の虫除けに雇われたの?
 まあね、私も驚いたけれど馬子にも衣装かしら。それなりには見えてよ。でも私はあなたが何者か知っているんだから、だまされたりはしなくてよ? いくらで引き受けたのかしら。それにお姫様気分も味わえるものねぇ 魅力的だったんでしょう? 本当に、お金のない方って節操がなくて困るわ……」
「そんなのじゃないですっ!」
 下を向いたまま言われるがままだった樹理の小さな反撃は、呉緒と目が合った瞬間失敗に終わった。呉緒の黒くて意志の強いその瞳から先に逃げたのは樹理だ。大きな茶色い瞳がせわしなく足元を見回す。
「じゃあなあに? まさかその貧弱な体を使った色仕掛けで落としたとでも? 笑わせないで頂戴。あなたみたいな何のとりえもない後ろ盾もない子を氷川商事の副社長レベルの男性が選ぶわけがないでしょう?
 何を勘違いしているのかわからないけれど、早いうちに離れたほうが身のためよ?
 私、身分差のある結婚をした方たちを大勢知ってるけど、そうね、みんな三年と持たなくてよ。この階級に上がってきたけれどなにせ育ちが違うでしょう? 皆様とのお付き合いも大切な妻の仕事なのに、全然勤まらないのだもの。他にもいろいろと価値観も違うものでしょう? 万事が万事、些細なことから大きなことまで相容れないのに、そんな二人が一緒にいて幸せになれるわけがないじゃない? 夢や理想だけじゃ続かないのよ。
 バカみたい。わかる? 身の丈に合わないものを欲張ったらそう言う目に遭うのよ。あなたなんてきっとすぐに捨てられるわ。今のうちはちやほやしてくれるでしょうけれど、すぐに彼も気がつくわよ。客のもてなし方も知らないような女じゃ使い物にならないって。
 あなた、挨拶もろくにできてないじゃない。隣にいる女がそんなだと、恥をかくのは男性のほうなのよ? あなたがバカでないなら、きっと途中で大きな間違いを犯していることに気づけるだろうけれど、クラスメイトのよしみで今教えておいて上げるわ。ふさわしい世界に帰りなさい」
 うつむいたまま小さく震えている樹理を見下ろして呉緒が満足そうに笑う。
「じゃ、ごきげんよう」
 人をバカにしたような笑いを含んだ短い挨拶をして、呉緒が離れていく。顔を上げないと涙がこぼれそうだけれど、泣いている顔をさらしていい場所ではない。哉はすでに大勢の人に自分を紹介しているのだ。樹理は覚えていなくても、向こうは樹理を覚えているだろう。
 呉緒の言ったことはひどいことばかりだったけれど、邪推ばかりで的外れな前半はそれでも言い返すだけの何かが樹理にはあった。けれど後半の部分は抱えているコンプレックスをざくざくと突かれるようで、そして漠然とした不安を言い当てられているようで一言も返せなかった。
「樹理? どうかしたのか?」
 立ち尽くしたまま動かない樹理のほうへ哉がきてくれる。その靴の先を見て必死で涙を飲み込んだ。
「あー いたいた。哉くんめっけ」
 樹理が哉に返事をしようと顔を上げるのと重なるように、後ろから声をかけられた。しかし、今度の声は女性で、今までにないくらいめちゃくちゃに馴れ馴れしい。そんな態度に涙もびっくりしたのか引っ込んでしまった。
 斜めに見上げた哉の顔が、嫌な人に見つかったと無言のまま言っている。眉間がほんの少しだけ距離を縮めている。
 そーっと振り向くと、すらりと背の高い三十代半ばの女性が、小学生くらいの女の子を連れて立っていた。
「久しぶり。うっわー そんな顔して歓迎しなくてもいいじゃない。哉くんが来るって聞いたからわざわざ来たのよ」
 哉が不機嫌な態度なのがわかったらしい彼女がますます上機嫌にニコニコ笑う。
「はじめまして。氷川実冴です。こっちは娘の逢。あ、ワタシ、哉くんのお姉さまね。よろしく、樹理ちゃん」
「あ、初めまして」
 どうして名前を知っているのだろうと思ったら、樹理の顔を見て実冴が笑う。
「私、理右湖と友達なのよ」
 差し出された右手をとって、実冴を見て、哉を見ると、諦めたようにため息をついた。哉にとっては藤原親子よりこっちのほうが強敵らしい。
 哉には兄がいることは(そしてその兄が会社を辞めたので哉がやってきたことは)父親からちらりと聞いたことがあったが、姉がいるとは聞いていなかった。しかも理右湖の友達とは。
「義理の」
 哉のつぶやくような追加の言葉に納得する。兄嫁だ。
「今日は若い人が多いみたいですけど、この子は若すぎでしょう?」
 実冴の傍らに立つ逢を見て、哉が嘆息する。
「そりゃそうでしょ。こんなパーティーは重要な顔見せ会だもの。慌てて寄付して無理矢理潜り込んだ親子も多いと思うよー あなたが来るんだから年頃の娘がいる輩はみんな気合入れてきてるんじゃない? 氷川商事の未来のエースだと思ってるんだからさ。ま、隣に樹理ちゃんがいるんだから、当てが外れてご愁傷様って所だけど。若い子が多いって分かってるからこの子にしたの。それともコウちゃんのほうがよかった? 連れてくるの。
 あー ゴメン、もう言わないから」
 その名前を聞いた瞬間、冷たい顔でにらまれて、実冴がすばやく謝って、気を取り直そうと横を向いて咳をした。
「お母さん」
「なぁに?」
 大人の会話を見上げていた逢が実冴の手をとって引いている。
「ちょっとお手洗い行っていい?」
「えーっと」
 実冴が、逢を見て、哉を見てどうしようか考える顔をした。ホテル内とはいえ子供を一人で行かせるのは躊躇しつつ、せっかく捕まえた哉を逃がすのは惜しいらしい。
 そんな様子を見て、一度この場から離れたかった樹理が逢に声をかける。
「私も一緒に行っていい?」
「うん。お母さん、樹理ちゃんと行ってくる」
「わかったわ。これ持って行って。ありがとう樹理ちゃん、ゴメンね」
 逢に大きなバッグを渡してその場を離れる二人を実冴がニコニコ見送った。


 招待客の間を泳ぐように動き回るウェイターの盆から哉がグラスを二つ取って、ひとつを実冴に渡す。
「やぁねぇ ホントに。理右湖がかわいいかわいいっていうから樹理ちゃん見に来ただけよ。正真正銘何にも企んでません。今回は。確かにめちゃくちゃかわいいわねぇ アコギな方法で手篭めにしたってほんと? あ、ゴメン、ホントのこととはいえまた失言」
 用があるなら早く済ませてくれと言わんばかりの哉に、実冴が苦笑する。
「でも辞表はちょっとやり過ぎじゃない? なんか、天地ひっくり返ってるみたいよ、本社。まあひっくり返ってもアレが返り咲くことだけはないけどね」
 哉が何も答えないことなどわかりきっていたので、返事を待つと言うよりその喉を潤す為にグラスに口をつける。よく冷えた飲み物が喉に心地いい。
「それと、いきなりこんな舞台じゃ樹理ちゃんがかわいそうだよ。あの子、自分を値踏みされるのに慣れてないでしょう? 見せびらかしたいのは分かるけど、もうちょっと手順踏まないと。かなり無理してるよ。樹理ちゃんは確かにお世辞抜きでかわいいから最後のアレ以外はさすがにおとなしく引き下がってたけどさっきの、泣きかけてたよ」
 哉を斜めに見つめて実冴が反論は? とでも言いた気に言葉を切る。泣いているかもしれないと連れ出そうとしたところにタイミングを見計らったように現れた実冴に言われたくはない。
「わりとあなたの周りの人間がそうだからって、誰も彼も自分と同じ鉄の心臓だと思わないことね。あの子たちが帰ってきたらもう出たら?」
 空のグラスをウェイターの盆に返して、新しいグラスを取る。
「そうだ、礼良くんとは連絡取ってる?」
「……何回か電話だけ」
「ふーん。樹理ちゃんのこと教えた?」
 その問いの真意を探ろうと顔を向けた哉に実冴が心底意地の悪そうな笑顔を見せた。
「高三だよね、彼女」
 ニヤリと笑って、樹理の学年を確認し、黙り込む。それ以上は教えるつもりがないらしい。
「私に会ったこと匂わせたら意思の疎通が図れるかもよ。キミタチ一応親友だしね」
 笑顔がどんどん邪悪さを増していく。言い終わった後イヒヒヒヒと小さく声を出して笑っているのでかなり上機嫌だ。先ほどまで年上気取りで説教していた人と同一人物とは思えない。
「それはどうも」
 哉が言い終わるかどうか。そのくらいのタイミングでさほど遠くないところから、キンキンとよく響く女性の声が聞こえてきて、実冴の顔が一転して苦々しい表情に変わる。一方の声の主も、哉の傍らに立つ実冴の姿に気づいたのだろう、三拍分くらい音が休止した。
 今ここでこの場を離れたら負けるとでも思ったのか、実冴が心持ち……足を肩幅よりも少し狭いくらい開いて臨戦体勢を整えたのと同時に細い体にキラキラゴテゴテと装飾品を巻きつけた、哉の母が現れた。


 用を済ませて個室を出ると、化粧ブースの椅子の上で逢が足をプラプラさせながら待っていた。
「ごめんなさい。着てるものに慣れなくて時間がかかっちゃった」
 ビーズバッグからハンカチを出して手を拭きながら椅子からぴょこんと降り立った逢に、樹理が謝る。
「ううん。いいよ。それより座って座って」
「え?」
 今しがた自分が座っていた椅子を樹理に勧めて、並んで置かれた隣の椅子に置いていた母親から渡されたバッグをごそごそと漁って逢が直径も高さも三センチほどの筒型の物を取り出した。
「ハイ、ファンデーション。ちょっと上向いてパフパフしたらいいやつだよ。マスカラは大丈夫みたいだけど、目の下がちょっと崩れてる。鼻の頭もしといたほうがいいかも。他のは多分無理。お母さんのだと樹理ちゃんに合う色がないや」
「あ……ありがとう。やだなぁ 個室出る前見たのに」
 目の下に言われたとおりトントンと何度か当てて鏡を見る。なにかキラキラと輝くものでも入っているのか、赤くなった目じりが目立たなくなった。
「終わったら座って座ってっ 樹理ちゃん靴脱いで。足、痛いでしょ?」
 言いながら強引に樹理を座らる。
 化粧を直しているうちに同じようなポーチを三つ出して、逢がかがんで樹理の足からハイヒールのエナメル靴を奪い取る。
「あー やっぱり。親指とその付け根のとこ、マメになってやぶれてるよ」
 白いポーチから絆創膏と脱脂綿と塗り薬、それから医療用テープ。黒いポーチからはさみ。ブルーのポーチからはどうしてそんなものまで入っているのか靴の中敷が登場した。
「ダメダメ。座ってて。こんなドレス着て足上げて樹理ちゃんが自分で薬塗るなんて言うのは、逢のビジュアル的に許せないから」
 樹理が拒否するまもなく、再びしゃがみこんでマメに薬を塗って絆創膏をぺたぺた貼る。
 それから樹理の靴をみて、脱脂綿をはさみで切って靴の中につっこみ、医療用テープで止めて、その上からはさみで切って靴の形に合わせた中敷を押し込んだ。
「ハイ、どうぞ」
 靴をそろえて樹理の前において、逢がにっこりと笑っている。いろんなものが詰め込まれた靴を恐る恐る履いてみると、土踏まずが押し上げられてつま先にかかる負担がほとんどなくなった。立っているだけでも痛かった先ほどまでとはうって代わってとても楽だ。
「お母さんがね、ハイヒールは慣れなんだって言ってたよ。始めはみんなマメ作りながら履くものなんだって」
「もしかして私の為に、逢ちゃんお手洗いに行きたいって言ったの?」
「うーん、まあそれもあるし、ホントにトイレは行きたかったし。お母さんってアレなんだよね。割と突っ走っちゃう人。今日のも三時くらいに誰かと電話で話した後、いきなり『行くぞー』って。大慌てでしたくしたのよ。トイレなんか行っとく時間なしだよ。それにこのドレスも去年のなんだよ。短いし、もう。こんな大きなパーティーに来るなら新しいのほしかったなぁ」
 ピラリとスカートのひだを一枚持ち上げて少し不満げにほほを膨らませている。
「でもすごく似合っててかわいいよ、そのドレス。ひまわりだよね。しゃがんで汚れてない?」
 明るいオレンジから黄色まで何段階か薄い布がグラデーションするように幾重にも重なって、膝小僧をちらちらと見せながら踊っている。
「えー でも子供っぽいでしょう? 私も樹理ちゃんみたいなのがいいなぁ お姫様みたいで」
「じゃあ私が着られなくなったら逢ちゃん着てくれる?」
「着る着るっ! 絶対約束っ 指切り指切りっ!!」
 会場に向かう廊下で逢がぴょこぴょこ跳ねながら、樹理の知らない拍子をとって指切りをする。絡まっていた小さな小指が、指切った! と、離れていった。
 逢と手をつないで会場にはいる。人々の間を縫って、母親と別れた場所を覚えているらしい逢が先に歩いていく。
「逢」
 不意に呼び止められて、逢が足を止めて周りを見上げる。一緒になって周りを見ると、ほっそりとした体に青いチャイナドレスを着た女性が手招きしている。
「琉伊(るい)ちゃん」
「あっちには行かないほうがいいわよ」
 歩みよる逢にささやくようにそう言って二人を壁際の椅子の並ぶ場所に誘い、ウェイターを呼び止めてオレンジジュースを三つオーダーした。
「琉伊ちゃんがいるってことは、もしかして大魔神様御降臨? 電話かけてきたのは琉伊ちゃん?」
「もしかしなくてもよ。なだめてすかして何とか南の島にバカンスに連れ出したんだけど正午過ぎかしら、どこのマヌケか知らないけれどあの人の携帯に哉のことをチクってくれた馬鹿がいてね。でもよかったわ、離れててくれて」
 グラスに注がれたオレンジジュースを持ってきてくれたウェイターに礼を言って琉伊が自分の分をとる。
「あああー だからお母さん、慌てて来たんだ。あ、樹理ちゃん、この人、哉くんの妹の琉伊ちゃん」
「え、あ、あの、行野樹理ですっ えっと、あの、初めまして」
 話しかけるきっかけが見当たらず、自分のオレンジジュースを少しずつ飲んでいた樹理が突然の紹介にぴょんと椅子から立ち上がる。
「初めまして。氷川琉伊よ。よろしくね。なんとなく似てるでしょう? でもあの人はほぼ能面だからね」
 ほっそりとした顔。薄い唇をちょっと皮肉っぽくゆがめて笑う顔でも好印象なのは目が笑っているからだろうか。
「写真よりかわいいのね。ああ、ごめんなさい。母がそれはもう、呪うためにしても無駄だろうってくらい大量にあなたの写真を持っているものだから。ほとんど隠し撮りみたいだけどね。それからあなたに関する資料も。斜め読みだけれど家族構成はもちろん幼稚園から現在に至るまでの学校、果ては生まれた産院まで知ってるわよ、私」
 ぽかんとした表情の樹理に、くすくすと笑いながら琉伊が続ける。
「母は兄の嫁選びで大失敗したと思っているからそれはもう念入りに哉の嫁を探していたのよ。そこにあなたでしょう? 一度完全に切れたのに誰も知らないうちに突然関係が復活したと思えば、色恋なんて絶対なさそうな哉があなたのために辞表まで出しちゃうんだから、そりゃあとんびに油揚げさらわれちゃったようなものでしょう? それもまあ、氷川と同格の企業のお嬢様ならともかく、協力工場の娘じゃあの人にとってはあなたは大事な大事なお魚を銜えて逃げた泥棒ネコってとこかしら」
「琉伊ちゃん、それちょっと言いすぎ」
「あら、現実は早めに把握しておかないと、知らずに過ぎたら後で痛い目にあうでしょう? 申し訳ないんだけど、ちょっと込み入った話をしたいから、逢は敵情視察をお願いしていいかしら?」
「あーあ。琉伊ちゃんも逢だけ仲間はずれにするんだ」
 半分残ったジュースを琉伊に押し付けて、逢が椅子から降りて、文句とは裏腹に何かを含むような顔で笑いながら敬礼して去っていく。
「持つべきものは物分りのいい姪っ子ね」
 せわしなく会場を流しているウェイターにグラスを渡して今度はアルコールらしいグラスを手に再び琉伊が樹理の隣に腰掛ける。
「私はね、哉にはあなたみたいに普通の家庭で普通に愛されて育った、当たり前に何の打算もなく誰かを好きになれるような子じゃないと間違いなく今度こそ哉はダメになると思うんだけどね。世の中そう考えてない人がうじゃうじゃいるんだよ、掃いて捨てたいね。全く」
 スリットが抜けるのも気にせずに細い足を組んで、琉伊が人が大勢いる会場に見るともなしに目を向ける。
「私が話したって哉にも内緒よ」
 グラスの中の泡を見て独り言のようにつぶやく。なんだかその横顔は、少し悲しげだ。
「私ね、小さい頃、自分の兄は長兄の……実冴さんと結婚したヤツただ一人だと思っていたの。その間にもう一人いたなんて、十歳のお正月まで知らなかったのよ。物心ついた頃から哉のことは知ってたけれど、まさか血の繋がった兄だとは思ってもいなかったわ。
 哉は十二になるまでずーっと、本宅のおじい様のところにいたの。私たちはそこから車で十分くらい離れた別棟。もちろん行事ごとに本宅には行っていたから年に何回かは会ってたけれど私、哉はどこかから引き取られてきた遠縁の子だと思ってたの。母は長兄さえいたらいいような感じっていうか、母はいつも本宅の哉に負けちゃだめって長兄に言ってたわ。家でももう一人子供がいるなんて話は一言も出てこなかった」
 一口飲んで、長いため息をひとつ。
「事実を知って、母に尋ねたんだけど、あの人が言うには、哉を産んだ時、母は産後の肥立ちが悪くて子供だけ先に家に帰して、本人は三ヵ月近く病院にいたんですって。で、何とか身の回りのことができるようになって家に帰ってみたら、産んだ子がいなかった。と。
 それだけ経ってたら母乳も出ないし、おじい様にお前は要らないみたいに言われたらしくてね。母が言うには泣く泣く手放したってことらしいわ。あの人の言うことだから、真相はわからないけど。だって、あの人は時々哉と会っても声をかけたりもしなかったもの。その気になれば、多分哉が小さい頃から母は会っていたはずだもの、おじい様の目を盗んで取り返すくらいいくらでもできたはずなのにね。そうしなかったのは多分、おじい様が怖かったからよ。楯突いたら実家に帰されるかも知れないと思ったのかも。あの人は自分の立場を守る為に哉を犠牲にしたのよ。
 そんなわけで私は哉のことをぜんぜん知らなかったし、今でも正直言って兄って言う認識が薄いわね。そうそう、哉ってものすごい偏食家でしょう? アレはおじい様の影響。
 で、そのあと何年かして、父が社長になるって決まって、私たちが本宅に移って、一緒に暮らしだしたの。って言っても哉は中高一貫の進学校に合格して寮に入ることが決まってたから、一緒にいたのは二週間足らずだわね」
 しゃべりながら両手でグラスをゆっくりと振って、立ち上る泡を見つめながらまた小さくため息をつく。
「私の家族もまぁ……あなたの常識の範囲内にある家族とは違うものだったけれど、それでもやっぱり、家族がいたのよ、私には。でも、哉には物心つく前から家族なんていなかった。いたのは戦前の常識が今も通用すると思ってるおじい様と、言われたことだけこなしていたらいいと思ってる家政婦と、知識だけ詰め込んでくれる家庭教師だけ。あの感情が出ない顔なんか、おじい様の教育の賜物なんでしょうけれど。
 なんていうか、なんだろう、そんな環境で育ったから、哉の心は人間らしい大事な感情が……ないって。きっと哉は恋なんてしないって誰もそう信じ込んでたのね。だからみんなびっくりしたのよ。
 多分おじい様も母も、哉の伴侶なんか自分たちの思い通りになると信じて疑ってなかったわね。私から見たら、かなり遅れてきた反抗期ってところだけど」
 ゆっくりと視線を樹理に向けて、琉伊がほんの少し笑う。
「なに考えてるかわかんない人だけど、やっぱり私は哉のことが好きなんだわ。だって、幸せになってほしいもの」
 人差し指を唇に当てて、ほとんど聞こえない声で琉伊がささやく。
 誰にも内緒だからね。と。
「だから、哉を普通に幸せにしてあげて。それ以上でも以下でもなくて、ただありのままに。この選択が正しかったことを証明して。
 ほらっ もっと背筋を伸ばして、顔を上げて。哉が選んだあなたなら大丈夫って思わせて。情けない顔してたら私が承知しないんだからねっ」
 ごちんっ! と額がぶつかる。突然の琉伊の行動に、樹理は面食らってのけぞった。
「目が覚めた? 夢の中の昔話はおしまいっ ちょっと見てくるわ。逢ってば、いくらなんでも遅すぎ」
 逢が残していった実冴のかばんを持って立ち上がった琉伊を、樹理が慌てて呼び止めた。
「あのっ ありがと……うぎゃ」
 琉伊が振り向いて、つかつかと樹理の前に立って、樹理の両ほほを細い指でつまみ上げる。
「口角が下がってるよ。若いうちから重力に負けてどうするの。意識して上げなさい。毎晩十分間、割り箸を歯で噛んで、割り箸に唇がつかないようにしながら『イー』の練習すること。いい?」
「ひゃい」
「立つときはつむじの後ろから糸で上に引っ張られてるイメージ。あんまり胸を張りすぎるのは良くないけど猫背なんか論外。顔は上げてもあごを引く」
「ハイ」
 ようやく開放されたほっぺたをさすりながらいわれたとおり姿勢を正して返事をする樹理に琉伊がにっこり微笑んだ。
「できなかったら『渡鬼』みたいな小姑になるからそのつもりでいなさいよ」
 そう言って満足そうに去っていく琉伊を見ながら、樹理が心の中で謝った。そのドラマは見ていないのでどんな小姑かわからなくてごめんなさい、と。


 一触即発。いや、触れ合わなくてもすでに戦いは始まっているのか。
「あら、オカアサマ。お久しぶり」
 あくまでも高圧的に上から目線で実冴が先に挨拶をする。
「あなたもお変わりないようね」
 そして対する側も更なる高みから見下ろそうとするかのようにあごを上げて返す。
「いいえー 変わりましたとも。い・ろ・い・ろ・と。やっぱり両親がそろっていると子供達も楽しいみたいで。毎日それはもう退屈しませんわ。オカアサマはなんだか歳をとられまして? 構う相手がいないからおさびしいでしょうねぇ」
 ほほほほほと実冴が笑う。一人の男に関して言うのならば、この場は実冴の勝ちだ。なんといってもその男本人がこれからの人生を共にする相手として実母ではなく元妻を選んだのだから。
「残念ですけど今日は彼、所用があっていっしょにはきてないんです」
 これは嘘だ。哉が来ることを知らない彼は、行きたいとダダをこねていた。華やかな場所が大好きなのだ。さっさと仕度を整えた実冴は、男チームはお留守番よろしくと、慶(けい)に店屋物のパンフレットを渡して家を出てきた。
 哉の母は勝ち誇る実冴をにらみつけた後、くるりと背を向けるようにして哉に向き直った。
「哉さん、今日はお一人?」
「いいえ。お連れがいましたけど、さっき逢と一緒に行ってしまったの。ほんっとうに残念なことに。オカアサマにもぜひ会っていただきたいくらいかわいらしいお嬢さんで。哉くんの隣にいるとほんっとうに、二人よく似合っててもう」
 哉が答える前に実冴がしゃしゃり出て喋りまくる。
「ほかの誰でもない哉くんがこの人と思ってそばにいるんですものねぇ 親とはいえ他の人が何か言ってどうなるってわけでもないですわ」
「何がかわいらしかったりするものですかっ! 哉に似合うわけがありません。全く、家柄も歳もなにもかも、つりあうところがないわ」
 わなわなと握りこぶしを震わせて後ろから茶々を入れてくる実冴に一息にそこまで言った後、がらりと変わった口調で哉に詰め寄る。
「ねぇ 哉さん、あなたまでつまらない女に引っかかって仕事を辞めるなんて。そんなことあっていいわけがないわ」
「嘘泣きだからね、それ」
 バッグから出した白いハンカチを顔に当てている仕草を見て、実冴が一言でばっさりと切り捨てる。
 さすがにこれ以上我慢できなかったらしい。実冴に一言言おうと振り返った哉の母に、どこからともなく現れた逢がポツリと言い返した。
「おばあちゃま、つまらない女一号はお母さんのこと?」
 息子の元嫁は大嫌いでも、孫娘はそれなりにかわいがっていた。孫娘との関係はお小遣いでの買収が主だが、逢も大したもので母と敵対するとは知っていても、大スポンサーとも言うべき祖母にもきちんとコビを売るのは忘れていない。なので、彼女は自分に都合よく、逢には好かれていると思っている。世の中、自分の母を悪し様に言うような人間のことを好くような子供などいないのだが。
 なんの衒い(てらい)もなさそうな顔で不思議そうに小首をかしげた逢にそう言われ、うっと言葉に詰まる。
「そうそう、つまらない女らしいわね」
「うーん。でもなんで詰まらないのに引っかかっちゃうの? 詰まらなかったら流れていくものじゃないの?」
 本気で悩んでいる風には見えない逢に、実冴が笑ってそう言う意味ではないと説明してやる。
「そっかー でもお父さん、また引っかかっちゃったね。お母さんに」
「ほんとにねー やっぱり女はいくつになっても魅力的に生きなきゃダメよ、逢。あなたもいい男にメロメロにつくしてもらう人生送りたかったらね」
「はーい」
 にこにこと笑う母子に完全に蚊帳の外に置かれて初速を削がれてしばし呆然とした後、それでも何とかもう一度アクセルを踏みなおしたように哉の母がしゃべりだす。
「一人で暮らすのが寂しいのならお家に帰ってきたらいいのよ。あなたのお部屋はずっとそのままあるのよ? 何もあんな娘じゃなくても、いいお嬢さんは大勢いらっしゃるでしょう? ほら、今さっきご挨拶したのだけれど、藤原頭取のお嬢様なんか上品でおまけに美人で素敵な方だわ。あの子ならお家の格もいいし、歳だってあなたと五つも離れてないでしょうし……」
「ざーんねん、あの子、樹理ちゃんと同い年。フケて見えるけどねー オマケに顔はちょっとクドいし性格も悪そうだし」
 性懲りもなく口を挟む実冴を振り返ってにらみつける。実冴は全く動じた風もなくその視線にニヤっと笑って応えた。
「……とにかく! そんなに性急にお付き合いする相手を選ばなくてもいいんじゃなくて? お仕事のことだって大おじい様のお計らいで保留していただいてるのよ?」
 実冴は嘘泣きと断言したが、なかなかどうして演技派だ。でなければ自分に酔っているのか。とにかくその目じりには確かに光る涙の粒が浮いている。
「変な女に惑わされないで、ね? お父様には私からも口ぞえするわ。仕事のことは大丈夫よ。それどころかあなたがいないと回らないって大騒ぎだそうよ。ねぇ 本当に哉さんのことを必要としているところに帰ってきて頂戴?」
 自分の意見に哉が同意して帰ってくると確信したような表情で見上げる母に、哉が小さくため息をついた。
「仕事のことは確かに樹理のことがきっかけにはなりましたが彼女のことが根本の理由ではないのです。僕が一般の社員と同じように会社に入りたいと希望したのも、本社だの跡取りだのという問題に首を突っ込みたくなかったからです。こんなところに祭り上げられて、いつ辞めようかと思っていたくらいですよ、副社長なんて肩書きは僕にはまだ早すぎる。僕と同じくらい仕事ができる人間なんか、社内にごろごろいるでしょう。何のために幹部候補生育成コースがあるんですか。血縁だからという理由だけでポストをあてがうのが正しいやり方かどうかということを問う意味も込めてこの決断を下したんですよ。
 それから。別に一人で暮らすのが寂しいから彼女と一緒にいるわけではありません。僕にはあなた達と一緒に暮らすということのほうが荒唐無稽な提案だと感じます。あそこはあなた達の家かもしれないが僕の家ではない。いつまでもあの部屋を取っておく必要もありません。あそこにあるものは要らないので全部捨ててください。
 何度も言うつもりはないので良く聞いてください。僕は兄の代替品でもなんでもない。僕は僕であり、誰のものでもありません。そしてこんなことを言うつもりは今までありませんでしたが、言わないと伝わらないようなのであえて言わせてもらえば、僕はあなたが母親だと思ったことは、一度もない。そしてこれからも、そうあってほしいと願うこともないです。だからもう、あの頃のように放っておいてもらえませんか?」
 終始とても静かな口調で哉がとうとうと語るようにしゃべっている。そして言い終わると、どっと疲れた顔をした。
 哉の前に立つ母は、固く爪がめり込むほどに握り締めたハンカチよりもその指の関節を白くさせ、小さく震えている。さすがの実冴もその仕草に嘘泣きだと茶化すことはできない。
 ざわざわと人いきれのする会場の中にぽっかりと空いたエアポケットのような無言の空間。
「お母様、帰りましょう?」
 足音も気配もなく現れた琉伊が、実冴にバッグを渡した後、母親の肩を抱くようにしてささやいた。哉の言葉がよほど衝撃的だったのか、促されるまま歩き出す。
「……哉くん、最後のは言いすぎだったと思う。子供でもわかるくらいには」
 後姿を見送りながら逢がぽつりと言う。
「でもしばらくすれば復活するんじゃない? あの人、都合の悪いことは一晩寝たらなかったことにできるから」
「そんな、冬眠明けのムーミン谷の住人じゃあるまいし」
 横から挟まった口は誰のものかと見てみると、次能都織が立っていた。逢にムーミンって知ってる? カバじゃなくて妖精なんだよ。などと言っている。
「ムーミン谷の住人がいつでも幸せなのはいやなことは忘れるから。いいよねぇ 妖精さんは気楽で。もうホントに、ボク怖くて近づけなかったよさっき。哉ちゃんがすんごい長せりふしゃべってるんだもん。これはきっと忘れられないシーンだね」
 いろんな皮肉が込められた軽口に実冴が少し相好を崩す。
「ところでアンタ。いつからいたの」
「ついさっき。あーでも哉ちゃんの声ってボソボソしてたから聞こえなかったです、ええ、ぜんぜん。うん。ね、二人とも」
 都織の後ろにいた二人の少女もうんうんと彼に倣って頷いている。
「ねぇねぇ 翠、こういうのなんていうんだっけ。君子危うきに近づかず?」
「なんか違うと思うよ、リナ。ボク達もうすでに思いっきり近づいてるし。あっ」
「えっ?」
「ああっ!!」
「「「なんでこんなところにいるの!?」」」
 琉伊に遅れてやってきた樹理を見つけた二人と、そして樹理自身と。三人分の声がきれいに重なる。
「あ、あの、氷川さん、この子達、今日一緒だった学校のお友達で……氷川さん?」
 びっくり眼で三人見詰め合った後、樹理が言いながら哉を振り返る。そして、その顔を見るなり駆け寄った。
「どうしたんですか、氷川さん。顔、真っ青です」
 見上げるように哉の顔を覗き込んだ樹理を、何も言わずに哉が抱きしめた。
「……哉くんの顔色、違ってる?」
「……あんまり……いや全然いつもと変わんないと思う。表情も」
 ひそひそと実冴と都織がささやきあう。実冴には、パーティーで一番に声を交わしたときと取り立てて顔色が変化したようには見えなかったし、都織にも以前美容室で出会ったときと変わりなく見えた。
「愛なのかしらね」
「そうかもね。なんか目立ってきたから出ませんか?」
 微動だにせずくっついている二人をどうやって会場から運び出そうかと思案しながら、都織がそう提案した。


 都織の連れてくる「友人」達は大抵変人が多かった。
 真里菜の中で、氷川哉という人物はその筆頭に挙げて言いと思えるほど良くわからない生き物だ。
 大抵四人でやってくるグループに哉はいた。
 一人はこの中で一番顔がいい男だったが、子供心にコイツは女タラシだとわかった。いつ会っても『あと十年は待たないとさすがになぁ』とかしきりにぼやきながらまだ三つかそこらの頃から真里菜にかわいいと声をかけてきたのだから。
 一番背の高い一人はしりとりとなぞなぞが得意だった。しりとりではオトナ気なくいつも『り』で終わる言葉を使ってきて真里菜が負かされた。おかげで鍛えられてほかの人とやるときは負け知らずだったが。なぞなぞはいまだに旅館に泊まった三人の話はどうして百円あまるのか答えがわからないままだ。
 一番背の低い一人はやたらとアニメや漫画に詳しかった。今思えばただのオタクだったんだなとわかるが、小さかった真里菜と一番遊んでくれた面白いお兄ちゃんだった。
 そして最後が哉だ。
 何にもしゃべらないのだ。かといってつまらなさそうでもない。彼との思い出はそのメンバーで綾取りをしたくらいか。ただ黙々としていた。哉の次にとる背の低い男はいつもその複雑さに文句を言っていた気がする。そしてそのときも全く言葉を聴かなかった気がする。
 その氷川哉が、どうして、樹理と一緒にいるのか。
 しかも。
 しかも会場を出ようと言った都織の言葉にいったん体を離したものの、ホテルのロビーに歩いてくるあいだ、そして椅子にかけた後、飲み物が運ばれてきて今なお、手をつないだままだ。つないでいないとエネルギーが尽きてしまうとでも言うのだろうか。
「……わからない……」
 低くうめいた真里菜に翠がどうしたのと声をかけている。
「ううん、後で言う」
 さすがに本人の前でこの疑問は口にできない。傍若無人がウリのこの私が人に遠慮するなんてと、なんだか上がりたくもない大人の階段を一歩上ったような気がして真里菜の気持ちはさらに滅入った。
 樹理を振り回してたっぷり遊んだと大満足で帰路につこうとしたそのとき、真里菜の携帯電話に都織から着信が入った。ごめぇんと間延びした言葉で始まった電話は、哉の彼女を見るためにパーティーの時間と場所を誤って記憶していたという内容で、二人とも大急ぎで未来の店に行き、ヘアメイクもばっちり決めてかなり遅れて会場に入ったのだ。
 もうあらかたの客たちは挨拶も済んで小さなコロニーを作りながら会話を弾ませていた。都織が「哉は存在感が薄いから見つけにくい」とぐちぐち言いながら会場をうろついて、やっとそれらしき後姿を見つけたら修羅場だったのだ。都織がどれくらい会話の内容を聞きつけたのかはわからないが、実際のところ、真里菜と翠にはほとんど聞こえなかった。
 哉の隣には怖そうなオバさんが立っていた。さすがにこの人じゃないよなぁと思っていたら、なんと樹理が現れて、自分たちを哉に紹介するではないか。
「哉ちゃんって、すんごい面食いだったんだ……どおりでそこら辺の女なんか箸にも棒にもって態度だったわけだねぇ」
 都織が感心していたが、絶対それだけじゃないと真里菜は思う。
 そう思っても、この二人に接点が見出せない。ジャジャーンと始まって、役者が全部出揃っているのに、一時間半過ぎても事件解決のための糸口が全くない二時間サスペンスみたいだ。
 真里菜が一人悶々と考えている横で、翠がしきりに樹理のドレスがいいなぁと言っている。
 こうなれば当たって砕けるしかない。質問を本人にレッツトライ。
「お姉さま、つかぬ事を伺いますが、いつから? どうしてこの方とお付き合いされてるんですかっ!?」
「……リナちゃん……言葉遣いが前に戻ってて怖いんだけど……」
「あー まだあるんだ、お姉さま制度」
 どう応えたらいいものか哉の顔を窺っている樹理に実冴が助け舟を出す。といっても、面白がっていそうだが。
「私らの頃もあったよー ああもう十年近く前になるのか、女学生時代。遠い彼方だなぁ 正門のところにある先代の学園長の銅像の右眉にヤクザ傷入れたの私だもの」
「あれって最初からじゃなくて!? おー……姉さまが?」
「小娘。いまオバサンって言いかけたでしょう? いいこと? このオバカちゃんの娘でも次にやったら情け容赦しないわよ? 私のことは実冴さんと呼びなさい。あと、卒業名簿で捜すのも禁止ね」
「もーぉう。オネエサマったら十のケタがひとつ違ってるってー 学生時代回想するにわぶっ!」
 ホテルのラウンジでコーヒーをすすっていた都織が裏拳を受けて情けない悲鳴を上げる。それを見て逢が小さな声で「お父さんと同類がいた」と独り言をつぶやいた。
「………お知り合い、ですか?」
 目の前のティーカップに手をつけず、哉に手をつながれたままの樹理が何とか会話の糸口を探そうとおずおずと実冴に尋ねた。
「うん。まあ。どっちかって言うとコイツの父親とね。コウちゃんと結婚するまでかなりしつこく遺産やるからヨメに来いって言ってたジジイよ。死んだって聞かないけど生きてるの?」
「齢八十を過ぎて人生これからってカンジっすよ。百二十くらいまで生きるんじゃないですかねぇ 氷川の大親分と夜な夜な遊び歩いてますよ」
「あー いたねぇ 哉ちゃんちの大おじい様。玄孫(やしゃご)がいても炸裂してんのが」
「あちらはまだ一人に絞るからかわいいほうですよ。ボクとしてはもうこれ以上異母兄弟は要らないんだけど。まだまだヤれそう。しっかし、実冴さんにまで言い寄ってたのかぁ あの人もいい加減悪食だなー」
 言い終わるかいなかのところで再び鉄拳制裁を食らってふごっと悲鳴を上げながら都織が沈む。
「実冴さん、できれば顔面やめて…… 都織ちゃん、とりえは顔だけなんだから」
「減らず口とね」
「言えてるー」
 容赦なくやられる都織を笑いつつ、彼におしぼりを渡しながら真里菜が言う。実冴の応えに翠まで笑っている。
 ハイソなホテルの空間で、ケタケタと騒がしい一団にホテルマンが近づいてきた。とがめられるかと思ったら、頼んでいたハイヤーが着いたことを知らせに来ただけだった。まあ、遠まわしなとっとと帰れとも聞こえなくはなかったが。
「じゃあお姉さま、月曜に学校で。ごきげんよう」
 ハイヤーに乗り込むと真里菜と翠が上機嫌で挨拶をしてくれた。逢も見えなくなるまでバイバイと手を振ってくれていた。
 緊張から開放されてため息をついてしまいそうだ。柔らかいシートと心地よい振動。なんだかやっとひと心地ついた気がする。片手が塞がっていてうまく乗り込めず、体勢を立て直す為に空いていた手でひざにおいていたビーズバッグを座席に置いて、座りなおす。
 するりと、空いたひざに哉の頭が落ちてきた。そして、長い長いため息の音が聞こえた。
 唇も目も、全てが笑っているのに、なんだかとてもつらそうな顔だった。
「疲れたか?」
 反射的に首を横に振る。哉のほうがよっぽど疲れた顔をしている。会場で再び会ったとき、別れたときと明らかに哉は違っていた。そしてそれから哉は一言もしゃべらなかった。このハイヤーも、実冴が手配してくれたものだ。
「えっと、最後は楽しかったし」
「そうか」
 そっと髪をなでる。お日様の下で寝ていたネコのような手触りだ。
「氷川さんは、大丈夫ですか?」
「ああ」
 言葉は柄のない刃のようだ。強く相手を切りつければ、自分もまた大きな痛手を負う。
 だからいつも、できるだけ言葉に感情を乗せないようにしてきたのだ。ビジネスの話は必要なことを伝えればいいだけなのでとても楽だが、自分の思いを伝えるのは疲れる。そしてとても疲れるのに、どんなにあがいても自分の中にあるものをありのままに表現する言葉は見つからない。言葉にしてしまうとどこか違うのだ。
 逢に言われなくても言い過ぎたことはわかっている。けれど、言わずにはいられなかった。
「帰ったらお茶漬け食べましょう。氷川さんは知らないかもしれないけど、普通のおうちではご馳走を食べたり、贅沢して帰ったときはさらさらーってお茶漬け食べてシメるんですよ」
 そんなことをするのは樹理のうちだけかもしれない。でも、調べ上げられたデータの中にはないことも、自分を作り上げてくれた大切な一部だ。
 意識をして。口角を上げる。どうか、笑っているように見えますようにと。






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