5 想い


 シーズンが中途半端なのか、平日のためか、ひと気のない別荘地の中でもひときわ大きな建物。
 ここも、この立派な建物も井名里真礼という少女一人のためのもの。夏の一瞬だけ体調の良くなる彼女の為に作られた別荘なのだという。いつも同じ場所では退屈だろうから。たったそれだけの理由で、井名里数威が建てた建物。そして今は、その名義が井名里礼良になっている建物。
 真礼のための部屋と数威自身のための部屋と、看護婦や家政婦が詰める部屋。元はどうあったものであれ、今はその面影を薄くするように改築されている。眠るための部屋は幾つもあったけれど、井名里はどの部屋にも行かずに暖炉のあるこの場所に引っ張り出してきた絨毯を敷いて、着いたらすぐべったりと転がってしまった。
 管理人に渡された荷物の中にあったレトルトの食事をだまったまま摂ったあと別々に風呂に入った。管理人がくれたものの中にはバスタオルはあってもさすがに着替えはなくて、夏清も井名里同様バスタオル一枚でぺたぺたとここまで帰ってきた。またしてもどこかから出してきたらしい毛布をかぶって、やっぱり力尽きたように転がっている井名里のとなりに。
 ぺたんと、座り込んで、全然動かないのを無理やり頭を持ち上げて膝に乗せた。少し驚いたような顔をした後、井名里が苦笑する。
「なぁ」
 大きな手が頬に触れる。なにと応える代わりにその顔を覗き込むようにすると、目を閉じた井名里が夏清に問う。
「夏清の、一番古い記憶ってなんだ?」
 目を閉じて、探す。自分の一番古い記憶はなんだろうと。
「……お葬式。多分両親の。みんな黒い服を着てて、泣いてるの。私は何のことか全然わからなくて、でもおばあちゃんとか伯母さんとか、みんなが泣いてるから、理由もわからないまま一緒に泣いてたのは覚えて……」
 大勢の大人がいた。みんなが小さな夏清に『かわいそうに』と言っていた。当の夏清はなにがどうかわいそうなのか全然理解できてなかったけれど。
「悪い、変なこと思い出させた」
 目を閉じたまま、淡々と語る夏清の言葉をさえぎるように井名里が謝る。少し考えれば分かったことなのに。
 曖昧な子供の記憶の中にしっかりと残るといえば、日常あまり起こらないことだろう。物心つくかつかないか、そんなころに両親と死に別れた夏清ならば、それは彼らが死んだときか、その葬式か、とにかく夏清にとってはマイナスの記憶でしかないものが出てくることなど。
「ううん。わりと平気。ぼんやりとだけど覚えてる。こんなこと、両親のことなんて私、覚えてないと思ってたのに」
 一番古い記憶から辿(たど)る。大勢の人が一度に亡くなるような大きな事故に巻き込まれたのだ。今でもその事故があった季節になるとどこかのニュースで話題になるような、そんな事故。
 葬式をしたのは亡くなったのよりもずっと後になってからだった。すでに火葬されてしまって遺体はなくて、家に届いたのは小さな白い箱が二つ。だから余計、それが両親だといいう実感が薄かった。
 夏清が生まれてから初めて、二人で旅行に行ったのだ。一泊二日。祖母と一緒に見送った。
「あ! 違う。うん。それじゃなくてね、もうちょっと前のこと思い出した。見送ったの行ってらっしゃい、ばいばいって」
 ぱっと夏清の顔が明るくなる。
「顔とかは……やっぱりちゃんと思い出せないけど、うん、私、旅行に行く二人のことばいばい、って手を振って見送ったの。でもね、そのあとなんでかものすごく悲しくて寂しくなって、すごい泣いたの。ずっと後に……小学生になってからおばあちゃんがその話してくれた時は、私思い出せなかったのに、すごい。ちゃんと覚えてるよ」
 うれしそうにそう言った夏清が瞳を開いてはっとその笑みを引き戻す。記憶の中にはいないと思っていた二人が、ちゃんと自分の中で微笑んでいることがうれしかった。だから無意識に笑ってしまって、そして、そんな自分を見て微笑む井名里を見ていまはそんなことで笑っている場合ではなかったと気づく。
「笑ってろよ」
 そう言われて笑おうとしても無理だった。涙が落ちそうで。口元は笑みを作れても、すとんと落ちてしまった気持ちを瞳が裏切れない。浮かび上がった反動で、さっきまでよりもっと切なくなる。水滴が落ちないようにそっと目を閉じて身をかがめる。
「先生は?」
 吐息がかかるほど近くに。
 まだぬれた髪が両肩からこぼれて落ちる。外の世界を遮断するように。二人きりになれるように。
「俺は、二歳の夏……が終わったころだな」
 そう、季節まではっきりと覚えている。一番深く刻まれていて、忘れることができないもの。自分の記憶として認識する中で、一番鮮明なもの。夏休みの間ずっとどこかに行っていた兄が帰ってきたと聞いて、それがただうれしくて階段を上がる兄を追いかけた。兄の部屋は二階に、小さかった井名里の部屋は一階にあって、足早に階上へ向かう兄を呼びながら。
 階段の中腹で立ち止まっていた兄に、這うようにして階段を上って追いついて、数日前に北條からもらったおもちゃを見せて一緒に遊んでと言おうとしたとき、怒鳴られた。
『うるさい!! ついてくるなっ!!』
 その言葉と同時に、体が浮いたのも全部覚えている。頭が大きくてバランスの悪い子供の体は、確実に頭から落ちる。突き落とされたと分かったのは、体が地面に当たってからだった。
 火がついたように泣く子供の声に、使用人たちが現れて、すぐに救急車で病院に運ばれた。床も階段もじゅうたんが張られていたおかげで大事には至らなかったけれど、その日から井名里は兄が怖くなった。
 それ以前のことははっきりと覚えているわけではないけれど、少なくともわけも分からないまま弟を突き飛ばすようなことはなかった。それからは顔をあわせるたびににらまれているようで、それまで優しくはなくても意地悪ではなかった兄がどうしてそんな風に変わってしまったのか、その理由が小さかった井名里にはまったくわからなくて、ただ怖かった。
 彼が中学に進学して寮に入ってしまってからも春と夏と冬、兄が帰ってくるころになるととたんにおとなしくなってしまう弟。
 兄が帰ってきたことを知ると部屋からほとんど出なくなる弟に継森がいつも気を使ってくれて、なるべく逢わないように仕向けてくれていた。
 けれどその日は、兄が帰って来ているとは知らなかった。知らないまま、北條がやってきたことを知らされて玄関まで北條を迎えに走った。
「……その日までずーっと、ずっと俺は響子さんが自分の母親だと思ってたんだ」
 月に一度、来るか来ないか。けれどいつも来るときはおもちゃやぬいぐるみやお菓子を持ってきてくれる北條が、小さかった井名里は本当に好きだった。会わなかった、それまであった出来事を一生懸命しゃべるのをいつも退屈そうにすることなく笑って聞いてくれた。お母さんと呼べば、優しく微笑んでなあにと応えてくれた。
 だからその日も、井名里はお母さんと呼びながら北條のところに駆けていった。元気だった? 怪我や病気をしてない? そう聞いてもらえるのがとてもうれしかった。
 北條にべったりとしがみついたとき、二階から優希の声が聞こえた。
 離れろと。その人はお前の母親ではないと。
 その人は、お前ではなく自分の、自分だけの母親だと。汚い手で触るなと。
 一瞬で一階に降りてきた優希に、強引にはがされた。そのまま突き飛ばすように。訳が分からなくて座り込んだまま言葉の出ない井名里に、優希が言った言葉を今でも全て思い出せる。
『お前は父と、その妹との間にできた要らない子供だ。生まれてきただけでお前なんか汚れてるんだよ。お前なんか生まれてこなければ良かったのに!』
 言われた言葉は全て理解できた。時折父親に連れて行かれた政治家たちの集まりで交わされる言質の取れない会話よりもそのストレートな言葉はずっとよく分かった。
「今は立派に普通だから、信じなくていいけど、俺が三歳くらいのころに誰かにどっかに連れて行かれてな、そこでテスト受けさせられたんだ。IQの。その結果がすげぇ高かったらしくて、家にもどこかの偉い学者だとか、教授だとかが来てイロイロ変な質問するんだよ。ちゃんと答えられたらみんな褒めてくれるし、より高度なものを求めてくるから、最初のころはそれが面白くていろんな公式を覚えたり、文章を暗記したりして遊んでたんだ」
 そうだ。小さかった井名里にはその全てが遊びの延長線上にあった。小さな子供が難解な漢字を読み、その意味もしっかり理解しているのだ。大人でさえよほどの数学好きでないかぎり解けない数学の問いをものの一分とかからず解いてしまう。しかも公式が全部頭の中に入っているのだから、紙に書いて計算することなく暗算だ。父親が読んでいる経済誌を読みふけり、六十を超えた大物政治家相手に政治経済について語ることができる子供。五つになるころには彼はさまざまな場所で『天才児』と呼ばれてもてはやされた。
「そのころの愛読書教えてやろうか? 広辞苑だよ広辞苑。アレが一番面白かったんだ。読んでて」
 井名里の家にあった広辞苑は第一版だった。今でもその広辞苑の何ページに、調べたい言葉が載っているのか知っている。丸々一冊頭の中に入っているので、辞書は今でもいらない。
 だから知っていた。
 兄妹の間の子供、と言うものがどういうことなのか。
 逆字引のように四文字の単語が出てきて、それは世間では一般にタブーとされていることだと言うことも理解していた。その意味を理解していても、自分がそうなのだと認識することはできなかった。けれど自分を見つめる優希の目は、嘘をついていなかった。
 そのことよりもずっと心が痛かったのは北條が母親ではないと知ったからだと思う。北條が自分の母ではないと、本当は……うすうすは感じていたのだ。けれど気づかないフリをしていた。他の大人たちのように自分の事を興味本位でつつかないで、自分を五歳の子供として扱ってくれる北條のそばに居たかったから。
 高い音が響いて、見上げると兄が北條に頬を叩かれた直後だった。あんなに怒っていて、そして泣きそうな顔をした北條と、それまで自分に向かって燃えるような憎悪をたたえていた兄の瞳もまた、とても傷ついていて、涙がうかんでいたのが脳裏に焼きついている。
 走って二階にある自室に逃げていく兄を見送った。北條がとても大きく息をつく音がはっきりと聞こえた。いろんなものを押し殺しながらそれでも彼女は微笑んで、気にしないでと手を差し伸べてくれたのだ。
 それを振り払ったのは自分だ。兄と同じように、その場から逃げるようにして部屋に帰った。泣いているところを誰かに見られるのがイヤで、ありったけのぬいぐるみをクロゼットの隅につっこんで、その中で埋まるようにして、暗くて狭い空間で一人で泣いた。
 以前から途切れ途切れに、使用人たちが話している会話を耳にはしていた。彼らは影で、遠慮なく無責任に噂話に花を咲かせる。時々テストと称してやってくる大人から逃げて、井名里は広い屋敷の中で一人でかくれんぼをしていた。彼らが帰る前に見つかると井名里の負け。隠れ続ければ勝ち。そうやっていろんな隙間に入り込んでは遊んでいたので、掃除や点検でうろうろしていたり、仕事をサボっている使用人たちが話していることは内緒話なので全ては聞き取れなかったけれど、そこで交わされる嘘のような本当の話。それが自分のことだとは、思わないようにしてきた。
 居なくなった次男を探して庭の池まで捜索された。夜遅くなってやっと、クロゼットの中で高熱を出してぐったりしているのを発見された。
 三日間、本当にこのまま目を覚まさなかったら覚悟してくれと言われるくらい原因不明の高熱が続いたのだそうだ。
 目を覚ました気配に隣に居た北條がほっとした顔をして自分の顔を覗き込んだ。そして、彼女の顔色が変わることで気づいた。自分が変わったことに。姿かたちではなく、心が。
 それまで確かにあった、暖かい場所は、幻だと気づいた。
「でも多分、そのとき俺は笑ったと思う。ほっとした顔の後泣きそうになった響子さんに『大丈夫です』って」
 それまで天才だ神童だと、特別だと言われることがとてもいいことだと思っていた。
 すごいすごいともてはやされて、誉められることは気分が良かった。
 本当に、自分が他の子供とは違う生まれ方をしたのだと知って自分が異質なのだと気づいた。自分が人と違う理由がそこにあるような気がした。
 それからはずっと、普通のフリをすることにした。そうしていくうちに自分は普通なのだと、何も他と変わったところはないのだと思い込もうとしていた。拒絶されるのが怖かった。全てを拒絶しながら生きてきた。要らないと言われないように、自分を殺して周りに合わせて。
 いつも無理やり笑っていた。人に頼られるのは鬱陶しいと思いながら、断ったときどうなるのかが怖くていつも愛想のいいフリをして生きていた。
「自分でどうすることもできない時点で他と違うってのは、ホントにどうしようもないんだけど、でもやっぱり、俺は普通で居たかったんだ」
 学校という組織の中では厄介ごとばかり押し付けられていたけれど、うまく立ち回れば処理しきれない量でもなかった。適当に己の力をセーブして、決して自己主張せず、周りに合わせて。突出しない程度に優等生をやって、時折わざと間違えて。そうやってうまく生きていた。実冴に出会うまで。
「あの女、最初姉だともなんとも言わないで俺の前に現れたんだ。中二、十四のとき初めて逢ったんだけど聞いて驚けよ。教師だ教師。中学の地理の教師。しかも新任早々担任」
 とにかくめちゃくちゃだった。いい子の優等生な外側の井名里の限界に挑戦するかのような無理難題を吹っかけて引きずりまわす。
 授業の時間は世間話をして、変ななぞなぞを出して時間をつぶす。攻撃対象はいつも井名里で正解が分かっても誰かが答えるだろうと答えを言わなかったりするとすぐに殴られた。考えているフリをしてもなぜかばれて、分かったならすぐに答えろと手かモノが飛んでくるのだ。数秒で解いて答えを言うと、今度はもうちょっと考えなさいよとやっぱり殴られる。とてつもなく理不尽だったが、とりあえず一年我慢すれば、三年になれば社会科の教科は変わるのでとにかく耐えた。
「どんなにネコかぶって笑ってても、その頃裏側には今と同じ俺がいたから、内心本気で殺してやろうかと思ったけど、それでも一学期の間はわりかし耐えたと思う。我ながら」
 無個性な優等生を演じつづけていた井名里も、一学期の終わりにとうとうキレた。
「ったく。人の成績なんだと思ってんだか知らないけど、全部イチにされたんだ。全部。ゼロの付け忘れじゃなくて、全角のイチ」
 一年生のときオール十だった井名里の成績表。中間試験も期末試験も実冴の教科以外全て主席だったにもかかわらず。
「それって、先生が私にやってるのとあんまりかわんないと思う。この学期末も九付ける気でしょ?」
 おとなしく聞いていた夏清が、苦笑する。
「全然違うだろうがよ。いくら俺でも他の教科までいじるか。まあとにかくその時は、その頃の俺には学校でもらう評価しか自分の価値を出すもんがなかったから、あれはもう」
 場所が教室であることすら忘れて、怒鳴り散らした。
「………あの時は本気で。何の恨みがあってこんなことしやがるんだって思ったら、思わず素がでてた」
 温厚で人当たりがよく、誰にでも愛想が良くて笑顔を絶やさない優等生。頼まれたことはにっこり笑って引き受けて、誰の期待も裏切らない。誰かの悪口も陰口も叩かない聖人君子のような井名里礼良が景気良く、彼女の悪事を最初からついさっきのことまで古い方から順に一つも欠けることなく一気にまくし立てた。
 彼女が言った冗談の、一言一句さえ間違えずに。
 クラスメイトたちがその驚異的な記憶力に目を点にしていることさえ気付かずに、酸欠で肩で息をしながらナニサマのつもりだと聞いたら、あっさりと。
『実冴サマに決まってんじゃん。合格合格。やったらできるじゃない。言いたいことは言わないとダメよ。人の顔色ばっかり見てないで。別に私、あんたがどんなだろうが気に入ってるの。いつ爆発するかなと思ってたんだけど、大した忍耐力ねぇ。ハイ本物のあんたに本物の通知表』
 もう一つの通知表を差し出して呆然としていた中学生の井名里の頭を撫でて、うれしくて仕方ないといった顔で実冴が笑ったのだ。
『こっちのあんたのほうがいいと思うわよ。そのままで行ったら? どうせほら、みんな怯えてるし』
 しれっと言い放つ実冴に、苦い何かを噛み潰した気分で誰のせいだと言い返せば、心底楽しそうに笑われた。
『そりゃ今まで隠れてたあんたのせいでしょう。一回や二回裏切ったり裏切られたりしただけで離れていくような人間、こっちから蹴りだしなさいよ。あんたが立派な犯罪者になっても私は味方でいてあげるから』
 どうしてそんな風に無条件で、そんなことを言いえるのだろう。胡散臭そうな顔をした井名里に、実冴がニヤリと笑ってトドメを刺した。
『あんたホントに気付かないの? ホントに? 北條って聞いたことあるな、くらい思わなかった?』
 その邪悪ささえ漂うような笑みは記憶の中の北條響子とは、全く似ても似つかなかったけれど。まじまじと見詰めればやっぱり顔の造作はよく似通っていた。『あ』のカタチのまま動かせない唇と、条件反射のように実冴に向けて立てた人差し指が震えた。
『改めて初めまして。北條実冴です』
 それだけならよかったのだが。
『オネーサマって呼んでいいわよ』
 もちろん、返した言葉は『誰が呼ぶかクソババァ』で、更に付け加えるとその後殴る蹴るの暴行をうけた。
「すげぇだろ? あの女、俺に会うためだけに教師になって学校にもぐりこんだんだぜ?」
 思い出して笑いながらそう言って、井名里がまた口元を引き結ぶ。
「なんでそんなことするんだって聞いたらな、俺がそう言う風になったのは自分のせいだから、ってさ」
 無個性な微笑みで、集団の中に埋没しようとする表側と、それでも『個』の集まりの中で『孤』になってしまう裏側。
 表側の自分があがけばあがくほど、より広がる他人との距離。人は忘れることが普通なのだと頭でわかっていても、全てを覚えている自分と、都合の悪いことは都合よく忘れてしまう他人。
 それでも誰も気付いていないと思っていた。こいつら本当に脳に血が通ってるんだろうかと思いながら、完全な笑顔で問いには応じた。誰も知らない本当の自分と誰もが知っているにせものの自分。
 表側の自分があがけばあがくほど、より広がる裏側の自分との距離。
 固いけれどもろい仮面。いつか砕けたとき、周りだけではなくて自分さえ傷つける、分厚い仮面。
「何も知らなかった優希に、俺のことを教えたのは自分だからって。ありったけの悪意と一緒に。母親を、響子さんを取られておもしろくなかったのは優希だけじゃなかったんだよ。むしろ実冴のほうがひどかったらしい。北條の人間達は意図的に響子さんと実冴を引き離してたそうだから」
 将来、北條一族の看板になる子供に、分家の人間達は己たちの都合のいい大人になってもらおうとしていた。北條響子も気になっていたものの分家が一塊になれば逆に自分たちが潰される。首の挿げ替えはいくらでも可能なのだ。分家に逆らってまで実冴に執着するよりも、彼女には手近なところに、代用品があったのだから。仕事が忙しいことを言い訳にして、彼女は実冴と距離を置いていた。
 本来ならば自分に、あたりまえに注がれるはずの愛情は、別の人間がさらっていった。何も知らずに無邪気に笑っていた井名里が。
 顔も知らない弟を、実冴はずっと憎んでいた。絶対に自分より幸せになんてなって欲しくないと思っていた。
「ナニが実冴を変えたのか、俺は本当に知らない。なんでわざわざって聞いた俺にこう言ったんだよ」
 
 
 誰かの不幸を望んでるうちは、自分が幸せになれないもの。自分の不幸を人のせいにしてるうちは、出口は見つからないの。
 
 
「手始めに俺だったらしい。五年くらい計画練ってたっつーんだから相当だろ? でも俺の場合は本当に……どこにも出口なんかないんだよ」
 顔も見たことがない母親のせいにすればいいのだろうか?
 言葉も交わさなくなった父親のせいにしたら楽になれただろうか?
「誰のせいにしようが、俺はこうして生まれてきたし生きてる」
 そう言って、泣きそうな顔をしたまま黙って聞いていた夏清の髪を触って、井名里が起き上がる。
 長い髪の暖炉の側は、その熱で乾いてぱさついているのに、反対側の髪はもうすっかり冷たくなっていた。
「でも、夏清に逢って、一緒に暮らして、そんなこともうどうでもよくなってたんだ。全然思い出すこともなくなって、平気になったと思ってた」
 剥き出しの腕も肩も。片方は炎にあぶられて熱いのに、もう片方は体温を失って痛いほど冷たかった。
「………寒かっただろ?」
 その冷たい肩を抱いて聞くと、そんなことないよと小さな声がかえってくる。
 預けるように寄りかかる細い体を抱きなおして毛布をかける。
「こうしてれば明日の朝には、また何でもなくなるから」
 触れ合う肌と肌から、伝わる熱があれば。
「夏清とこうしてられるなら」
 何も言わなくても、ただ息をしているだけでも。
「何も要らない」
 他のものでは、絶対に合わない、対等な半分。
「だからできるだけ、このまま」
 
 
 ぱちん。
 聞きなれない音に目が覚める。
 天井を見上げて、しばらくぼんやりとして、ここがどこだったかを思い出す。
 そっと抱きしめられて、ちょうどいい体温に包まれて、いつのまにか眠っていた。
 指が埋まるほど長くて柔らかい絨毯に手をついて、起き上がる。そっと、隣で眠ったままの井名里を起こさないように。一緒に包まっていた、やっぱりとても柔らかい毛布をそっと掛けなおす。
 何も着ないで何もしないで、ただべったりとくっついていたことなど、これが初めてだ。なんだか初めてのことばっかりで、なぜか笑いがこみ上げてくる。どうしていいのか分からないくらい混乱すると、笑ってしまうものなのかもしれない。
 そして気付く。井名里がしっかりと寝入っているところを見るのも、初めてだと。朝布団から出てくるのは確かに夏清よりずっと遅いけれど意識を覚醒させるのは夏清よりも先だ。大抵ぐずぐずとしているけれど熟睡しているところは見たことがなかった。
 疲れきったような顔で。あたりまえだ。おそらく彼も、昨日は一睡もしていないのだ。その上長距離を運転して、晴れていたとはいえ夏清に逢うまでずっと屋外にいたのだろう。
 それだけではない。彼をここまで疲れさせたのは、多分自分だと夏清は思う。あの告白には大量の気力が必要だったに決まっている。そして、返す言葉の見つからない自分がここにいる。彼の過去を、ただ黙って聞いていることしかできない自分が。病院と同じように、場所が変わっても夏清は井名里を抱きしめることしかできなかった。頭の中でぐるぐると回る言葉は一つも音にならなかった。
 熟睡している井名里を見ながら、ゆっくりと今日のことを思い出す。ひとつずつ追いかけて整理して、そして井名里が起きたら、ちゃんと笑っておはようと言えるように。
 外にあるボイラで沸かした湯を循環させてあるので、本当は暖炉に火をつけなくても家の中はどこも暖かくなるのだが、寒かったら困るからと滞在を知らせるために途中で立ち寄った、別荘の管理人が灯油のほかにマキを二束分けてくれた。
 だいぶ炎が小さくなった暖炉に、立てかけておいたマキを加える。見上げた高い天井で大きなファンがゆっくりと回りながら空気を混ぜている。
 あまり近くによると、折角寝ている井名里が起きてしまいそうで、ほんの少し離れた場所にまた正座の足を両側に崩したような座り方をして、いつのまにか体から外れたバスタオルを肩に羽織る。
 ぱちん。
 薪のはぜる音がまた、背中の向こうから聞こえる。薄暗い室内に、紅い影がふわりと揺れた。
 眠る井名里の顔をじっと見つめる。この人はどのくらいの時間、人生の長さ、一人で生きてきたのだろう? 大勢の大人に囲まれながら。たった一人の孤独の中で、生きてきたのだろう。
 どこにもない自分の居場所を探しながら。どのくらいの時間、一人で出口を探しながら。
 いつになっても決して癒えない、ふさがらない傷を持ったまま歩いてきたのだろう。
 そんな孤独なんか欠片も見せないで、なにも気づかせないで、夏清に居場所をくれた。ここに居ればいいと言ってくれた。
 祖母が亡くなってから、一人で生きていた間、井名里に……本当の井名里に逢うまで夏清はずっとずっと、助けを求めていた。こうしないと生きていけないのだと自分自身に言い訳をしながら、風俗でバイトをした。
 でもずっと探していた。
 そんなことはやめろと言ってくれる人を。
 そんなことまでして生きなくていいと言ってくれる人を。
 お前は間違っていると、言ってくれる人を。
 夏清を、自分自身を必要としてくれる人を。たった一つ、夏清だけを必要としてくれる人を本当は探していた。求めていた。
 一人でいい、そう思いながらその孤独に押しつぶされそうだった。息の仕方さえ時々分からなくなるほどに、目の前が突然真っ暗になるほど、何も感じることができなくなるほど夏清はどんどん袋小路に追い詰められていく自分を感じながら、止まることができなかった。
 初めて井名里の家に行ったとき。
 やめろと、言ってくれたとき。
 ここに住めばいい、そう言ってくれたとき。
 帰ろうとした自分を、引き止めてくれたこと。
 やさしく名前を呼んでくれたこと。
 暖かいキスを、たくさんしてくれたこと。
 しっかりと生きているフリをしながら、間違った道を進んでいた自分に、たどり着く場所をくれた。
 大きな手のひらは、とても温かくて。
 叔父や従兄に乱暴をされたことも、風俗で働いていたことも、夏清は絶対誰にも言えないと思っていた。いつか誰か、本当に好きになった人、好きになってくれた人にも絶対に。
 その傷も罪も、全部一人でしまっておかなくてはならないと思っていた。
 そんな自分は、自分で殺して生きていこうと思っていた。
 けれど井名里は、全部受け入れてくれた。なんでもないことみたいに。
 何もかも知っても、自分への想いを変えずにいてくれた。
 初めて、優しい顔をした井名里を見たとき、キスしていいかと聞かれて、なぜだか分からないけれど頷いていた。
 あの時は本当に、どうして拒まなかったのか分からなかったけれど。
 今なら分かる。
 全部嬉しかった。
 夏清が無意識に求めていたものを全部くれたのだから。
 何もかも全て。
 名前に力をくれた人。どんなに素晴らしい名前でも呼ぶ人がいないのなら意味がないことを教えてくれた。その声で。
 あのまま、あの時、井名里に逢わなくてもきっと夏清は一人で生きて行けただろう。でも今の夏清はいなかった。絶対に、あのままならば。
 三年経った今でも、クラスメイトとは一線を引いたままで、大人が、先生が勧めるとおりの学校に進んで、型にはまったままの人生を送っていただろう。
 それが、その生き方が全部不幸ではないと思う。でも絶対、幸せではないはずだ。
 ずっと一生孤独なままだったかもしれない。
 クラスメイトと笑って、草野とバカみたいな話をして、実冴のご飯をたべる。今では全部当たり前の日常。
 そのまま、あの時井名里とすれ違っただけだったなら絶対になかったこと。
 この暖かい場所を夏清にくれたこの人は今本当に自分を同じように思ってくれているのだろうかとまたとりとめもなく考える。
 この場所が居心地がいいと思ってくれているのだろうか?
 そこまで考えて、夏清が唇を噛んで首を横に振る。
「そうじゃない」
 どんなに居心地がよくても不意に井名里を捉えるものがあるのだ。
 自分自身ではどうすることもできない部分に大きな枷。抜けない棘。
 眠る前にどうしても聞きたくて確かめた。
『本当は、真礼さんと誰か、他の人と、ってことは、ない?』
 恐る恐る、少しずつ小さな声でそう聞いた夏清に井名里が苦笑して首を横に振った。
 実冴の、北條の家の女性がなぜか男女の双子を産むように、井名里の家にも男性だけに遺伝していく特殊な血液型があるのだという。
 どちらの家も日本の歴史が古代に分類される時代から家系図が続くような家柄で、近代こそ外からの血が混ざるようになったもののそれまでは狭い一族の中だけでその血をまわしていた節がある。そうやって近づいていった遺伝子がどこかのレベルでほかとは違うのだろうと、ため息を少しずつ吐き出しながら井名里が言った。
『俺には、井名里真礼からじゃ遺伝しない井名里の血が流れてるんだ』
 井名里数威……井名里の家の男性からしか、受け継がれるはずのない血が。
 そうやって、逃げ道はあっさりと絶たれたのだとやっぱり困ったような顔で井名里が笑った。
 そんなことくらいなど、おそらくもっと前に検査などで結果が出ていたことだとは分かっていたけれど、確かめずにはいられなかった。
 想像していたよりも明確に、答えは下されていた。
 井名里自身には何の罪もないのに、その罪悪は全て彼にかかるのだろうか? 生まれてきたというだけの理由で。
 兄妹。それが禁忌になったのはまだきっと浅い歴史の上。けれど現代という時代では、おそらく、誰もが眉をひそめる、不道徳。血のつながりが片親だったとしても。どこかで作られた常識と非常識。人は一人で生きていても、それに縛られる。他人は他人のものさしで、容赦なく人を測る。この人は、どのくらいの他人に、どのくらいの時間、無遠慮に測られ続けてきたのだろう。
 自分では測りきれない重い荷物を引きずりながら、この人はどのくらい、一人で生きていたのだろう。想像するだけでこんなにも心が痛いのに。涙が止まらないのに。
 考えても考えても。どんなに思い描いても、夏清には答えが見つからない。どうしてこの人は。
 あんなにやさしく微笑むことができるのだろう。
 あんなにやさしいキスをくれるのだろう。
 あんなに暖かい、場所をくれるのだろう。
「夏清?」
 こんなにやさしく名前を呼んでくれるのだろう。
 どうしてこんなに、涙が止まらないのだろう。
「どうした?」
 顔を両手で覆って静かに泣く夏清に届くやさしい問いかけ。この声にさえ心が震える。
 夏清はこれまで、何度も何度も泣いてきたけれど、それは全部自分のための涙だった。自分がただ悲しかったり、辛かったり、痛かったり苦しかったり。そんな自分自身のための涙しか知らなかった。
 誰かのために、大好きな人のために、これまでも今もこれからもずっといとおしい人のために流す涙が。
 こんなに痛いなんて知らなかった。
 自分のための涙と、こんなにも違うなんて知らなかった。
 なんでもないと応えたくても、言葉が出てこない。ゆっくりと首を横に振って、けれどただ泣き続ける夏清を抱きしめてくれる、井名里の温かい腕。広い胸。息遣い。
 その人のために泣いているのに、やっぱりその心を癒してくれるのはその人でしかなくて、それがさらに夏清を切なくさせる。
 体を離して、そっと夏清の手をとって井名里が言う。
「泣くな。お前が泣くとホントに……こっちが悲しくなるだろう。俺が持ってる世界中、泣いてるみたいだ」
 涙でぬれた夏清の手が、井名里の頬に誘われる。泣きながら見つめる。泣くなといわれると、逆にどんどん涙があふれて止まらない。
「わたし、先生にたくさん、いっぱい、大切なものをもらったの。なのに、わたし、同じだけ先生にいろんなものちゃんと、あげられてるのか全然、わからないの。なにもできないの」
 言葉で救われるほど簡単なことではない。
 カラダが繋がるから、全てが差し出せるわけではない。
 けれど、伝える手段はその二つしかなくて。
 体を伸ばして、そっと近づいて、頬にキスをする。涙で湿った唇を、いままででいちばんやさしく、触れるように。
「礼良が好き。誰よりもなによりも一番好き。あなたの全部が好き」
 こんな言葉だけでは足らないほどに。
「礼良が、あなたがあなたである限り、なにもかも、なんであっても」
 そっと何度も、井名里の顔にキスをしながら夏清がうわごとのようにそう繰り返す。何度も、何度も。
「あなたが好き」
 顔を離して、見詰め合って、キスをして。ゆっくりと唇を開いて、まるで初めてするように最初は遠慮がちに、そして徐々に深く、やわらかい舌が絡み合う。
 キスを繰り返しながら、井名里の手が夏清の体を彷徨う。その存在を確かめるようにそっと。そのカタチを手のひらで見るように。夏清の手も、井名里の肌を這う。ゆっくりと。
 腰に手を絡めて、夏清に覆いかぶさろうとした井名里に、夏清が小さな声で言う。
「あの、ね………私が、上になっていい?」
 井名里の体をそっと押し戻す細い腕。
「今日だけ、私が、抱いてもらうんじゃなくて」
 瞬き。目じりの涙がまた頬に伝う。
 肩を押す小さな手のひらに込められた力はまるで壊れやすいものを扱うように遠慮がちで、微かな震えさえ伝わる。それなのに井名里を見つめる夏清の瞳には何の揺らぎも迷いもない。物理的には抗えなくはない。けれどその瞳に従わされる。
 夏清が押すのではなく、体が後ろへ傾ぐのは井名里自身の意思だったかもしれない。やわらかいけれど少しひんやりとした絨毯の感触が、井名里の背中に広がった。
 のしかかるようにして見下ろした、夏清の小さな唇ふわりと動いた。真摯な光だけを宿す瞳が、同時に柔らかく微笑む。
「私が、あなたを抱きたい」






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