4−2 道彦の場所
 遠くで、電話が鳴っている。
 誰もシカトこいてでやしない。
 当たり前か。ついさっきまで三日不眠不休で実験続けてたんだから。
 リノリウムの床が冷たくて心地いい。寝袋のなかで蓑虫みたいにみんなごろごろ床に転がっているのだ。誰が電話に出たいものか。
「……はい……野村研デス……あーはい、えっと、いると思うけどーちょっと待ってください……あーはい、まぁ、ええ……………はぁ、わかりました」
 ずっと鳴りつづけている電話に負けたのは、今年入ってきたばかりの紺野だな。ずるずると引きずった足音が近づいてきて、容赦なく体をゆすられる。
「とーおーのーさーん」
「なー?」
「でーんわー、一之宮さんからー、伝言でー最後のー花火見にーお祭りいきましょーって」
 お互い脳みその回転が落ちているのでえらく間延びしたような会話になってしまう。
「あーどこー」
「しらねーッス、言ったら分かるって言われたんスけどー来てくんなかったらー死んでやるーって言ってましたよー」
「なに!?」
 最後の言葉に一気に意識が覚醒した。大声で跳ね起きたせいで、ほかに寝てたやつがおどろいたのか寝たままびくびく跳ねている。すまん。
「彼女笑ってましたけど」
 ああ、そう。
 がりがり頭を掻いたら、手がべたついた。そう言えばいつからフロに入ってなかったっけ?
「で、どこだっけ?」
「知りません」
「何て言ってた?」
「最後の花火……だったかな? 今日花火大会あるじゃないですか、ここらで一番最後の夏祭り。こっから車でちょっと行ったとこの神社で」
「花火って何時から?」
「八時回ってからじゃないッスか?」
 ごそごそと、寝袋から這い出る。
「今何時?」
「えーっと……って! そんなの自分の腕時計見たらいいじゃないですか! 俺もう寝ますから、起こさないで下さいね。静かに出てって下さいよ」
 部屋を見まわしかけて、紺野が吠える。あー悪い。腕時計なんて全然忘れてた。ってか紺野、完全に起きちゃってるだろお前。
「じゃなくて、何時までに来いって言ってた?」
 長年誰かが使ってきている寝袋の一つに入ろうとしていた紺野に最後の質問。悪いな、コレで終わりだから。
「さー? 時間はなんにも言ってなかったッスよ。なんかハナシしたいって。大事なこと」
 時計を覗きこむと、あと少しで六時。
「そう、んじゃちょっと出かけてくるわ。フロ入ってから行こ」
 出口にたどり着くまでに二人ほど蹴りつけて、一人踏みつけた。足の踏み場より人が寝てるエリアの方が広いから、どうしても寝起きの体じゃうまくよけられない。
 さすがに本気で死なれたらたまらない。逢って話を聞くだけなら、そんなに時間もかからないだろうし。
 だらだらと、研究棟に隣接した、ぱっと見半壊したような寮に帰る。最上階は雨が降ったら雨漏りするし、残った寮生がどうせ壊れるならと、隣の部屋とのカベを壊して自室を広くしている輩も少なくない。ある意味ホントに壊れてるなぁ
「管理人サーン、フロ沸いてます?」
 そんな建物なので、もちろん個室に風呂はない。一階の浴場は、確か六時くらいから開いてるんだっけ?
「沸かしとる最中。湯ならでるぞ」
「あーそれで充分です。入っていいですか?」
「いいよ」
 どうせ二十人に満たない寮生数だけど、フロは九時まで。昔この寮の部屋が満室だったころと同じだけあいている。
 今にも壊れそうなボイラの音を聞きながら誰かが残して行った石鹸を借用して、面倒だから頭から洗う。学校に行かなくていいもんだから、しばらくズボラして散髪してなかったら、ちょっとびっくりするくらい髪が伸びている。
 やっぱり誰かが置きっぱなしにしている髭剃りも借りて、小汚く伸びた髭もそってしまう。
 体がさっぱりしたら、重かった気持ちも少し軽くなったような錯覚。どうせ帰ったらまた研究室にカンヅメだろうから、どうなってもいい服を選ぶ。小奇麗なかっこうしててもどうせ三日もすればヨレヨレだ。ここのところ全然乗ってない愛車のアルトで紺野の言ってた神社へ向かいながら、いろいろ考える。
 奈留美の家を出てから、一ヶ月半。一度も逢っていない。
 その間なにをしていたかと言うとただひたすら研究。忙しいフリをするつもりが、九月の学会での発表をまかされてしまい、本気で忙しかった。
 お陰で盆もなにもあったもんじゃなく、じいさんの十三回忌もするって言ってたのに、出られなかったくらいだ。
 祭りのせいか、いつもなら混まない道が少し渋滞している。この時間からになると近くの駐車場はもういっぱいだろう。少し離れたところに止めて、歩くしかないな。
 そう言えば、由紀ちゃんに逢ったのもこの祭りのときだったと思う。浴衣を着て、下駄を少し引きずりながら歩いていた。
 手を引こうかと尋ねて、断られたんだ。一人で歩くって。額に汗が浮いていたのは、浴衣が暑かっただけじゃないだろう。
 ゆっくり歩いていた由紀ちゃんに最初こそみんな付き合って歩いていたけど、どんどんみんな先に行ってしまった。最後まで付き合っていたのは杉田先輩と斎藤先輩と、僕の三人だけ。鳥居に手をついてとても疲れた様子で息をしながらそれでも自分で歩くことができてよっぽど嬉しかったのか、歩けたよって笑った由紀ちゃんの顔はすごくきれいだった。
 そのあとはさすがに人ごみの中で押されたりしたらこけてしまうからって、杉田先輩が彼女の手を引いて歩いた。
 一人出歩けたごほうびに何がしたいって聞かれて何でもいいって言いながら、目はしっかり金魚すくいの露店を見てて。でもできないだろうなって顔して。
 金魚すくいやりたい? って聞いてもきっといいって言いそうだったから、やろうかって誘ったら目をキラキラさせながら頷いた。
 杉田先輩に汚れるしやめなさいって言われてしゅんとしながら引っ込みかけた彼女に、斎藤先輩がやらせてあげたらって助け舟を出してくれて。
 しぶしぶ杉田先輩も、一回だけならってオッケーしてくれたんだ。
 二人羽織状態で金魚なんかそうそうすくえるはずもなくて、なんとかちっちゃくてひ弱そうなやつが一匹だけ。
 せっかくすくったのに、飼えないから返すって言う由紀ちゃんに、じゃあ僕がもらっていい? って聞いたら、やっぱりうれしそうに笑って、いいよって。
 結局僕も毎日部屋に帰ることもできなかったから、実家に押しつけちゃったんだけど、あの金魚、どうしてるだろう。
 次の年は何か用があって来れなくて、その次の年には先輩達は卒業してしまったから、付き合いはそこで途切れた。
 だから、あのあとこの祭りに来たのは……ああ、そうだ。
 奈留美と初めてデートに来たのも、この祭りだった。奈留美にしてみれば、言わなくても分かれってことなんだろう。よかった。合ってて。
 新薬の基礎になるかもしれない配列が見つかって、薬品会社と、病院の臨床が集まってああでもないこうでもないと、毎晩おそくまで議論をして。
 病院からのメンツは、インターンに配属されたばかりの人間が二人。仕事外になるから、普通の医者は参加したがらなくて。
 そこで初めて逢って、息投合して、気がついたら一緒に住んでた。毎日顔を合わせても全然苦痛じゃなかったし、むしろ楽しくて仕方なかったと思う。
「すいません、ここ、空いてますか?」
 目に入ったパーキングに車をつっこんで、徒歩。
 人並みに逆らわずに歩けば、すぐに祭りのちょうちんが並び出す。神社の鳥居の前にきれいな格好をした奈留美が立っているのが見えた。
「あら、以外と早かったのね」
「そうか? で、なに? 話って」
 にこりと笑う笑顔が、怖い。急かすなってことなのか?
「まあ、花火までまだ時間あるし、ぶらぶらしない?」
 花火まで引っ張るつもりなのか……
「悪いけど、まだ研究残ってるんだ」
「うそよ。だってみんな寝てたじゃない」
 ………バレてるか。
 どうやって帰ろうか、そればかり考えながら次の言葉を捜していると、背後から元気良く名前を呼ばれた。
「あーれー? 遠野先生だー」
 ギョッとして振りかえると、元気だけが取柄と言ったら大変失礼だが、とにかく元気で声が大きい西園創子がびしりと指差してくれている。彼女がいると言うことは……
「せんせーっ! 今日、どうしたんですか? もしかして私達の見張り?」
 見張りって……そんなことまでするのか? 教師って……
 非常勤講師なので、そんなことはないことを言うとあからさまにほっとしている。
 ぴょんぴょんとびながら、西園さんが近づいてくる。やっぱり、彼女の後から明神さんと由紀ちゃんがついてくる。どうしてそんなに目ざといんだ? 西園創子……
 明神さんが笑いながらすごい格好ですねと言う。悪かったねぇ、汚くて。
 コレでもフロには入ってきたんだけどね……
 社交辞令のように若く見えると言ってくれる分、明神さんの方が喋りやすかった。
 洗いっぱなしで整髪料も付けてないから、前髪も流しっぱなし。
 せめて髪を上げてそれっぽく見せようと言う努力はしてるんだと言うと、西園さんがきっぱりと変わらないと言い切ってくれた。
「西園さん、ナニ気にひどいこと言うね」
 確かにね、貫禄ないですよ、全然。
 じーっと、なにも言わずに由紀ちゃんが見つめている。別れるって言っていたのに、まだこうしてツーショットでいれば、付き合ってるように見えるだろうなぁ
 なんとなく話し掛けづらかった。
 由紀ちゃんが、僕ではなく、奈留美に挨拶をする。避けられてる? もしかして避けられてる?
「いいのよ。お茶の一杯や二杯。それよりかわいいわね。その浴衣」
「ありがとうございます」
 浴衣だ。奈留美が誉めたのは絶対浴衣だ。遠まわしに本体はかわいくないって言ってるようなもんだろう?
 とにかく、黙り出すと雰囲気が怖い。だからと言って由紀ちゃんに話しかけるのは奈留美がなに言い出すか分からないからできない。西園さんの前であることないこといわれたら、新学期が地獄だ。
「明神さんや西園さんは着ないの? 浴衣」
 なんとか会話を続けようと少し無駄な努力をしてみる。
 由紀ちゃんだけ浴衣姿だったので聞いたら残りの二人は口々にあっさり着ないと答えてくれた。  顔を合わせて同意する二人は、どうやらこの怖い雰囲気を察していないようだ。頼む、そのままなにも気付かず去ってくれ……
 願いが通じたのか、時間ないよ、といいながら腕時計を見て、三人がお辞儀をする。
「じゃあ先生、お邪魔しました」
「私達、もう行きますねー」
 一言も言葉を交わさないまま、由紀ちゃんが背を向ける。ダメだ、すごく辛い。今まで一ヶ月くらい話なんかしなくても平気だったのに、逢ってしまうとダメだ。どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
「あ、ゆ……根岸さん」
「はい?」
 名前を呼んでしまった。由紀ちゃんが振り向く。何て言うんだ? 浴衣かわいいね、か? いつも浴衣着てるね……じゃないな、あの時と今年はたまたまかもしれないし。髪飾りつけてくれてる。それ誉めたら……妙にそっち方面感のよさそうな西園さんにナニ言われるか分からない。
「いや、いいよ。じゃあね」
 結局なにも言えなかった。ふと、奈留美からちょっと尋常じゃないオーラが出ているのを感じてしまう。
「はい。先生達も楽しんでって下さいね。今年の花火、すごいんですって」
 いつもの微笑を浮かべて、それだけ言うともう一度お辞儀をして、やっぱり少し足を庇いながら、それでも足早に去っていく。
「誤解されたわね」
「誰のせいだ?」
「ま、いつでも解けるんだし、誤解されついでに中、歩きましょ」
 腕が絡む。やわらかい胸が押しつけられる。
 もう、なるようになってくれ。
 そこまで大きな祭りじゃないから、ゆっくり歩いていても一回りするのに三十分もかからない。ここについたのが七時前。なんだかんだと話していたら、すでに七時を過ぎている。
「分かったから、話ってナニ? それなら歩きながらでもはなせるだろ?」
「ほんと、情緒のない人ね」
「いきなり死んでやるとか呼び出すのもどうかと思うけど?」
 やっぱり、別れる前と同じような剣呑な空気しか二人の間にはない。
「……やめよう、こんな会話」
「そうね。久しぶりに逢ったのに」
 やっと、二人とも笑った。
「あのね、私、年明けにでもドイツに行こうと思ってるの」
「へぇ」
 ゆっくりと進み、立ち止まる人ごみの中、静かに奈留美が切り出した。
「もう一回、勉強やりなおしてみようと思うんだ」
「そっか」
 途切れがちの会話。
 楽しそうに、笑いながら追い越して行く高校生くらいのカップル。親子連れ。
「うわ、遠野だ」
 心底嫌そうに名前を呼ばれて振り向くと、一年月組の三田さんが露出の高い服を着て化粧をしてそこにいた。
 影で僕のことをどう呼ぼうと確かに本人の勝手。しかし面と向かって年上の人間を呼び捨てにするのは、どうかと思う。けれどそれを指摘してあげられるほど今の僕は寛容じゃなかった。教師なら多分、こういうとき諌めるのが本当なんだろうけど。
 回りに、何人か取り巻きのように同学年の少女達が群がっている。
「あ、ソレが噂の彼女?」
「ウッソ、マジ美人。もったいなーい」
 悪かったね。それにもう彼女じゃないんだってば。
「遠野先生、プライベートですか?」
 これは三田さんじゃなくて、取り巻きの子。
「そうだけど?」
「なぁんだ、ならいいや」
「見張りの先生とかほんとにいるのか?」
「らしいよーさっき小石原にあったって子いたもん」
「げー……さいあくぅ」
 僕も嫌だな……あの先生に逢うの……
「まあとにかく、あんまり遅くならないうちに帰りなさい」
「わかってるけどぉ、探してるヒトがいてーでもいないから、やっぱり探してんの」
 三田さん、日本語おかしいよ……
「いっしょに花火見ようって前ほかのお祭りのとき約束したのにー」
「はいはい。見つかるといいね。じゃあ、気をつけて」
 はーい、と返事だけは元気に彼女達が去って行く。
 その後も、何人か生徒に会っては冷やかされることの繰り返し。でも小石原先生に会わずにすんでることに少しほっとしてたり。
「なんか食べない?」
「ああ、そう言えば腹減ったかな」
「やきそばあったよ」
「それでよかったら買って来るけど?」
「うん、食べる……あ」
「どうかした?」
「ごめんなさい、ちょっと病院に定期連絡してきていいかしら? 前に死にかけてたじーさんまだ生きててね、でもそろそろ本気でヤバ気だから、状態聞いてくる」
「ならその間に買って来るよ、さっき通ったカメ池のところにでもいるから」
 文字通り、カメが売るほどいる池。一応ほとりが芝生だから、探せば座るところくらい見つかるだろう。
「ええ、お願い」
 そう言って、奈留美が人ごみの中に消えて行く。
 やきそばを二人前買って、なんとか座るところを見つけたけれど、彼女が見つけられなければ意味がないので、立ったまま待つ。
 程なくして奈留美が戻ってきて、やきそばをぼそぼそと会話のないまま食べる。
 同じ量なら、当然僕の方が早く食い終わる。油っぽいやきそばをゆっくりと食べている奈留美。無言の時間が息苦しい。
「どうだった?」
「え? なにが?」
「いや、ナニって、患者……」
「あ、ああ、うん。平気だって」
「そう」
 何を聞けばいい?
 何をすればいい?
 僕の中ではもう終わっていて、時々感傷の波がやってくるくらいだ。でも奈留美は? 昔はこんな風に言葉が途切れたら、どうしていただろう?
 !?
 だれかに、名前を呼ばれたような気がして、立ちあがる。幻聴だったのか、奈留美が怪訝そうな顔で見上げている。
「どうしたの? 花火、もうすぐでしょ? ここからなら良く見えるんじゃない?」
「じゃあここにそのままいる? ゴミ捨ててくるけど」
「おねがい」
 パックを受けとって、あたりを見まわし、ゴミ箱を探す。
「居たっ!! 遠野先生っ!!」
「うわっ!!」
 タックルをかけるような勢いで、明神さんが突っ込んでくる。
「すいませんっ!!」
 わたわたしながら体を離して、明神さんが肩で息をしている。いつもクールで落ちつきのある彼女がこんなに慌ててる姿は初めてだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あっあたしは、大丈夫、です。あの、先生、ゆっこ……根岸さん見ませんでしたか?」
「見なかったかって、いっしょじゃないの?」
 荒く呼吸を繰り返しながら、明神さんが首を横に振る。
「に、二十分ほど前に、別れたんです。あたし達、私と西園、金魚すくいしてたんですけど、あの子そう言うのやらなくて、後ろで見てて……で、どこかに行くって、すぐ帰るって言ったから、あたし達そのまま、そこに居て……でも帰ってこなくて……あの子、足悪いから一人で遠くに行ったりしないんです。いつもいっしょに……だから、絶対何か……」
 ひざに手をついて、俯いたまま一息にそう言ったあと泣きそうな顔で僕を見上げる。
「会場は?」
「三回回ったんです。帰ってくるかもしれないから、別れたとこに創子が居て……あたし……うしろの暗い方……少し見ただけで怖くて、行けなくて……」
「わかった。そっちは僕が……先生が行くから、明神さんは、警察に連絡して。何もなかったとしても怒られないから」
「何かあったら、どうしよう。どうして一緒に行かなかったんだろう……」
「悩むのは後だよ。早く行って」
 唇をかみ締めて頷くと、無言のまま走っていく。
「ごめん、花火、見れそうにない」
「まってよ。今日は、最後の花火だから……」
「生徒が一人、いなくなったんだよ。探しに行かないと」
「あなたの本業は教師じゃないでしょう!?」
「本業じゃなくても、あの子達にとって僕は先生なんだよ」
「違うわよ! あの子だからそんなに必死な顔してるんでしょう!? そうでなかったらそんなにあせった顔しないでしょう!? あの子がいなくなったって言われたから探しに行くんでしょう? あなたが言った通り、警察に任せておいたっていいなじゃない?」
 細い指が、足をつかむ。
「お願い、ここにいてよ……」
「ダメだ……」
「居てってば!!」
「行かなきゃ……」
「行かないでよ!!」
「………ごめん」
「あやまらないでよ!!」
「……すまない」
「今行ったらホントに死んでやるからっ!」
 指が足に食い込む。
 しゃがみ込んで、その指を、そっと離していく。
「正直に言ったら!? 私なんかもうどうでもいいって、あの子の方が大事だって! 教師としてじゃなくて!! あなた自身の感情でっ! あの子だから……あの子だから……あなたは、行くんだってっ……」
 回りに居た人達が、興味津々といった風でこちらを見ているのがわかる。足から離した奈留美の手が、それでも離すまいと、俺の手をつかむ。汗ばんだ掌と、短いとは言え爪が甲に食いこんだ。
「僕が……そうだって言ったら、君は納得するのか?」
 はっと、奈留美が瞳を見開く。
「君が死ぬって言っても、僕は、行くよ。でも、もしもそれで君が死んだら、僕は悲しむだろう。だけど、それだけだ」
 そう、それだけだ。
「僕はもう、君を選ばない」
 運命があるとすれば。
 それを選択できるとすれば。
「僕は、根岸由紀子を選ぶよ」
 関節が白くなるまで握られていた奈留美の指から、力が抜けて行く。
 きれいに刈られた芝の上に、俯いたまま両手をついて動かない奈留美を置いて、再び立ちあがった。
「行かないで! どうしてダメなの!? 今日はもう、絶対誰にも邪魔されたくなかったのに!! だからポケベルも置いてきたのに!!」
 そのあとも何か奈留美が言っていた。血を吐くような、叫びにも僕は振りかえらずに。人ごみを押しのけて、自然と早まる足に逆らわず、走りだす。
 もうやめようと思った。人の眼を気にして、奈留美のことを気にして、自分の気持ちを無視しすることを。
 人ごみから、神社のウラに回る。
「由紀ちゃん!!」
 暗いけれど、まだ祭りの喧騒がかすかに届く。その向うにも、小さな社が見えた。
「由紀ちゃん!? 居たら返事をして!」
 そこまでいくと、もう真っ暗に近いようなものだ。それまで目がくらむほどの祭りの灯になれた目では、何も見えない。
 できればここにいないことを祈りながら、何度か名前を呼ぶ。
 もちろん返事があるわけもなく、踵を返そうとしたその時、眼の端に、何かが映る。
「?」
 足元もあやしいなか、ゆっくりと、そちらに向かう。
「……………っ!!」
 暗闇の中で青く光るそれは。
「っ!! 由紀ちゃんっ!!」
 僕が、彼女にあげた……彼女が今日つけていた。
 踏まれたのか、土の中に食い込んで、少しひしゃげた髪飾りだった。拾い上げるといくつかビーズがこぼれて落ちた。
 何も考えられないまま、ただ名前を叫びながら、闇雲に雑木林の中を歩き回る。
 話し声がかすかに聞こえ、複数の人間が走り去る足音。
「由紀ちゃん!! っツ……!」
 木の根に躓く。なんとかそばにあった木をつかんで、転ぶのを免れる。手の平が粗い幹で擦れて血がにじんだ。気だけがあせって、足がもつれる。
 違う。足が、震える。
 彼女が居なくなったと聞いてからずっと考えていた、最悪の事態が目の前に広がることが怖くて。
 まるで自分の足ではないような、重さを感じながら、それでもなんとか、歩を進めるとうっそうと茂った雑木林が開けて、小さな広場にたどり着く。
 見えたのは、白い足。
「由紀ちゃん!?」
 暗闇の中に、浮かび上がる白いからだ。
「………っ!!」
 とうとう、足が全然言うことを聞かなくなる。そのまま、彼女の横で、がくりと、ひざが地面についた。
 ひどく殴られたのか、頬が赤くはれ上がって、口の端も切れているのか、乾きかけた血がこびりついている。口の中に何か突っ込まれたままだったので咄嗟に抜き取る。
 いつも強い光を宿していた瞳は、何も映さずに虚空を見ている。
 かなりひどく扱われたのだろう、からだ中に付けられた痣や痕。
 慌てて、浴衣を合わせて彼女の体を覆い、抱き上げる。
「……っきちゃ……」
 言葉が、何も見つからない。
 顔を近づけると、不意に彼女の瞳が揺らいだ。
「……ん、せ……?」
 涙の痕が幾つもついている。大きな瞳から、新しい涙が溢れ出す。
「あッ……わた……私っ………」
 恐る恐る、首に回される腕。
「いいから、言わなくていいから」
「私っ……」
 細い体を、抱きしめることしかできなかった。
 冷たい腕が、手が、爪が、力いっぱいしがみついてくるのを、大丈夫だと、言葉ではいえなくて、ただ抱きしめる。
 小さくしゃくりをあげながら、体を震わせて泣いている小さな体を、抱きしめる腕にさらに力を入れる。
「病院に行こう、いま、明神さん達が行ってくれてるから」
 病院と言う言葉に、さらに震えが早まった。
 言葉を選び間違えたことに気付いても、もう遅かった。
「っ!! ぃあぁ──────────!!」
 魂を抉り出されるような悲鳴が、響いた。


4−3 そして道彦の場所
 すぐにやってきた警察が、救急車を手配して、緊急配備を敷くのを、ただ呆然と見ているよりほかに何もできなかった。
 救急車が来るのと同時に、杉田先輩が来て同乗して病院へ向かったのを見送る。
 立ち尽くしていた俺に声をかけたのは、初老の刑事だった。
「すいません、状況を詳しくお聞きしたいので、署までご足労願えますか?」
 白いハンカチで額をぬぐいながらそう言う彼に、頷いて覆面パトカーだろう黒い車に乗り込んで警察へと向かう。
 二階の、事務室のわきにある応接セットに案内され、どうぞと促されてそこに座る。
 お茶が出され、ぼそぼそとしたしゃべり方で事件について知っていることを尋ねられるが、ほとんど、上手く思い出せなかった。
 何度も何度も同じことを尋ねられて、答える。
 何度も何度も同じことを答えていると、まるで由紀ちゃんが今もずっとそうされているような錯覚に陥る。
「なんで、彼女が……」
 知らずに握り締めていた手の中で、髪飾りが音を立てた。
「それは……?」
「あ…すいません、彼女のです。そうだ……コレが落ちていて……もしかしたらって、林の中に……」
「お預かりしてよろしいでしょうか? 指紋が出る可能性もありますし……先生の指紋もあとで取らせていただくことになりますが……」
「ええ…はい」
 開いた手のひらにとがった飾りが食い込んで出来た痕が幾つも残っている。
 白い布をかけて、若い刑事がそれをどこかへ持っていった。
「すいません、あれって、捜査が終わったら返して戴けるんですか?」
「ええ、指紋を取るくらいですから、お返ししますよ」
「そうですか……指紋が出たら犯人、捕まえることができるんですか?」
 俺の問いに、老刑事が渋い顔をする。
「全力を尽くすとしかいえません……私の個人的な意見ですが、私はこういった犯罪を犯す人間が一番嫌いです……だから、これから死にもの狂いで犯人を探すでしょう…問題は、それからですけれどね」
 最初はすまなさそうだった老刑事の、温厚そうな目に俺には理解できない剣呑な光りが宿る。
 問題はそれから。
 彼がいいたいことは、見当がついた。こういった事件は、裁判とかになりにくいって聞いたことがあったから。
「長いことお引止めしました。さっきの証拠物品が返却可能になったらご連絡させていただきますよ。もう遅いですしご帰宅下さい」
 彼の言葉に、立ちあがった。
「それでは、今後も何か思い出したりしたことがありましたらお知らせ下さい。今日はありがとうございました」
「よろしく、お願いします……」
 やっとそれだけ言って、署を出る。ロビーで見た時計は、もう日付が変わっていた。
 車を止めていたパーキングは、警察署から歩いて三分くらいだった。狭いシートに座って、ハンドルにもたれる。体はひどく疲れているのに、妙に頭が冴えて、目を閉じるとフラッシュバックのように、いろいろなものがまぶたの裏によみがえって、つい数時間前まで眠りたくて仕方なかったのに、今は、眠ることが恐ろしい気がする。
 走らせた車は、自然と彼女が運ばれた大学病院の前まで。本当に、車が止まる引力で、気付いたらそこにたどり着いていた。重い体を引きずって緊急外来から院内のロビーに行くと、非常灯の下に、人影が見えた。
「杉田、先輩?」
 影が立ちあがる。ひどくやつれた様子が、暗い中でもよく分かった。もともととてもキレイな人だったから、その変わりぶりが、ことの大きさを現すようで、咄嗟に目をそらした。
「道彦君……」
 回りに迷惑なくらい大きな声で喋って笑う人、というイメージが強かった。こんな風に、ため息をつくように話す人ではなかった。
 促されて、向かいがわに座る。
「あの、ありがとう……」
「いえ………」
 刺すような沈黙。
 お互い言葉が見つからず、己のひざをただ見つめて。
「………由紀ちゃんは……?」
「うん、処置はすぐ終わって、今、鎮静剤もらって寝てる」
「そう………」
「京香ちゃんや創子ちゃんもいてくれたんだけど、遅くなったし、うちのお母さんが送ってった。なんだかすごく興奮してて、希一君やお父さん……男の人見ただけで泣くから、駿も居たし、帰ってもらって、今日は私が居ることになったの」
「そっか………しばらく、入院するの?」
「うん、しばらくは。新学期始まっても学校も休ませることになると思う」
「そうですね……」
 しんとしたロビー。
 会話が途切れ、見動きすることさえできないほどの静寂。
 なのに、心はざわついて、回りの環境と自分の中とのギャップに暑さも感じないのに汗がでる。
「僕が、いっしょに居たら…」
 ずっと考えていたこと。
 あの時、はっきりと由紀ちゃんに、奈留美と別れたことを言って、彼女達と行動していれば……
「同じこと、京香ちゃんも言うの。ボロボロ泣きながら。ついていってたなら、こんなことにならなかったかも……って。ごめんなさい、ごめんなさいって…でもね、あなたたちが悪いわけじゃないわ」
「でもっ!!」
 防げたかもしれないのに。気をつけてさえいれば、こんなひどいことにはならなかったかもしれないのに……
「たら、かも、なら……みんな同じこと考えてるのよ、道彦君。でも、現実は変わらないわ。私達は、これから、どうやってあの子を癒してあげられるか、それを、考えなくちゃ。後悔ばっかりしてても、どうしようもないのよ?」
「それは、そうだけれど……」
「警察は……? なんて?」
「遺留品もあったり、祭りで人出があったりしたから、犯人、捕まえやすそうなこと言ってたけど……問題はそれからだって……」
「そう………」
「やっぱり、難しいんですか? こういう事件」
「私は、まだそう言う事件を弁護したことがないから、よくは分からないけど、いろいろね、あるみたい。その時になったら、経験のある人に頼もうとは思ってるんだけど。何て、今のうちから心配しててもしょうがないわ。私達は今を生きてるのよ。いま、一番できることをやらなくちゃね」
 無理に笑って、先輩が立ちあがる。
「道彦君も、もう帰って。いろいろありがとう、何かあったら連絡するから……電話番号教えて」
「すいません、今部屋には電話引いてなくて……だいたいいつも大学の野村研にいますからそこにお願いします」
 ゼミの番号をメモに書いて渡す。お大事に、とか、そういう言葉は何か違う気がして、けれどふさわしい言葉が見つからなくて、ただお辞儀をしただけで、その場を辞す。
 前向きに考えようとしている先輩も、無理をしているはずだ。
 ここにいても何もできない自分がとても惨めで、ただ黙って、帰るしかなかった。






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