5−1 道彦の場所
 九月も半ばを過ぎると、さすがに校舎の中も休みボケや浮ついた感じがなくなってくるものだろう。
 なんとか学会を終えて、二学期三度目の火曜日。
 由紀ちゃんは……彼女は、一度も登校していない。
 当たり前だろう。どこから噂が広がったのか、新学期が始まる前からほぼ全校生徒が彼女が暴行を受けたことを知っていた。
 もちろん、僕が発見したことも。
 あからさまに尋ねてくる生徒はさすがにいない。けれど、真実がわからないからこそ、噂は尾ひれをつけて、あることないことが飛び交い無関係な人々の興味をそそる。
 始業式の日、噂を聞いていたものの半信半疑だった生徒達も、当の本人である根岸由紀子が登校していないこと。彼女の親友である、うるさいほど元気な西園創子が静かなこと。彼女をいつも庇うようにしていた、物静かなことに変わりはないが、焦燥した空気をまとった明神京香。
 始業式の講堂には、ああやっぱり、本当なんだ。という少女達のつぶやきがあふれていた。
 けれど、彼岸を迎えようかという頃になっても、生徒達は、ざわざわと落ちつかず、今日はまた、一段と騒がしい。
 犯人が捕まった、というニュースは、どこから流れたのか校内中を駆け巡った。
 だからといって、何か状況が劇的に変わるわけでもない。
 なにより、由紀ちゃん自身が事件のことをあまり語りたがらず、どうしてあんなところに行ったのか、誰かとあっていたのかという警察の問いに、全く答えようとしなかったのだと言う。
 由紀ちゃんと別れる直前、誰かが居たような気がするけれど、よく覚えていないと、明神さんが言っていたが、誰に声をかけられたのかも、声をかけられたことさえも、彼女は黙して語らない。
 現場の遺留品だったリストバンドと、目撃証言、体液から判明した血液型。
 犯人らしい少年は、別件の傷害事件での逮捕ののちに警察の追及に犯行を認めたのだという。そのあとは芋蔓のように暴行に加わった人間が逮捕されたけれど他の人間は暴行未遂と彼女の持っていた現金を取ったという窃盗。軽犯罪で済んでしまうらしい。
「あら……それ……」
 警察から返却された髪飾りを、見るともなしに机の上において眺めていると、うしろからひょっこりと結城先生が覗き込んできた。
「もしかしたら、根岸さんのですか?」
 壊れた髪飾りを見て、つぶやくように問う結城先生に、ただ頷く。
「踏まれちゃったのかしら……でもこのくらいなら直りますよ」
「ほんとですか?」
「ええ、友人にこう言うの作ってる子がいるんです。無くなった部分や金具も問屋に行けば似たようなものが見つかると思いますし、しばらくお預かりできるなら頼んでみますよ?」
「お願いできますか? いくらかかっても構いませんから」
「ああ、お金なんかいいと思いますよ。じゃあ、お預かりしますね」
 丁寧に、キレイなハンカチに髪飾りを包んで結城先生が笑う。
「遠野せんせ、あんまり思いつめたらだめですよ?」
「え? そんな怖い顔してましたか?」
「そりゃもう。難しい顔して何してらっしゃるんだろうと思っちゃいましたよ。私でお手伝いできることなら言って下さいね。あまりお役にたてそうもないですけど」
「いえ……ありがとうございます」
「犯人、捕まったんですってね」
「らしいですね」
「本当に、根岸さん……かわいそうに」
 何も答えられずにあいまいに笑う。
「すいません、二時限目あるんで」
「あっ私もなんです。やばいわ。三華なのに」
 ばたばたと自分の席に走っていって三年生の教科書を取り、また慌てて職員室を出て行く結城先生。俺は三年の授業はないから行ったことはないけれど職員室から三年生の校舎へ行くにはは一度本校舎の三階まで登って新校舎の二階に降りるか、新校舎の一番奥の階段まで行って、また戻ってこなくてはならないという変な作りになっているからだ。
 化学の教科書。予定通りの進行。そう言えば二学期になったら実験をしようと言っていたのだ。
 それさえも、由紀ちゃんが来ないのなら意味がないような気がして、教頭には実験の許可を貰ってはいない。
 ため息を一つ。
 立ちあがって。
 火曜の二時限は、一学期はとても楽しみな時間だったのに。
 彼女のいたクラスなのに。
 一年生のクラスは、職員室のある本校舎の二階。
 磨かれた階段に最近つけたばかりと見えるすべり止めがちぐはぐだ。
 ゆっくりと階段を昇っていくと、怒声が耳に届き、何事かと駆け昇る。
 廊下に、泣きながらわめいている二人の少女。
 片方、小さい方は、西園さん。
 もう片方、休みの間に明るい色に髪を染めた三田さん。
「アツシがあんな女襲ったりするわけないでしょう!! あの日は私と居たのよ!!」
「嘘つかないでっ! アンタそのウラの子達と居たじゃん。男となんか居なかった!!」
「違う!!」
「違わないもん! アンタのカレシさいってー!!」
「もし仮にそうだとしても、絶対アツシ、あの女に誘惑されたんだわ。だっていっつもヘラヘラ笑ってて、なんか媚びてるみたいだったじゃない!」
「ゆっこはそんな子じゃないもん!!」
「アツシだってそんな男じゃないわよ! 私と付き合ってたのよ? 私が一番かわいいって、私のこと一番愛してるって……なのにおかしいじゃない! アツシがそんなことする理由ないもの! 絶対違うわよ!!」
 壮絶。なにせ彼女達を囲むようにほかの生徒がほとんど廊下に出てきているのだ。
 チャイムが鳴ろうがお構いなしで、彼女達の口争いは続き、ついに三田さんが手を上げたのをきっかけに掴み合いの喧嘩になる。
「あの女っ! ホントは私達よりイッコ上じゃん。大方中学ん時にでもヤりすぎてガキできて堕ろしてたんじゃないの!?」
「自分と同じにしないでよね! ゆっこは小学校のとき事故で一年休学しただけだよ!!」
「誰が誰と同じだって!? どこの誰だかわかんないような男にレイプされたような女と一緒にしないでッ!!」
「アンタのカレシだって言ってんじゃん! バカ女にはバカな男しかつかないのよッ!!」
 殴る、蹴る、ひっかく、つねる。ボロボロになりながら、壮絶に繰り広げられる女の争い。
「やめな、ソーコ」
 止めに入る間さえ見極めることができなかった僕より先に、明神京香が二人の間に割り込んで引き離す。
「止めないでよ! こんなのに、こんなのにっなんでゆっこがバカにされなきゃいけないわけ!? ゆっこは被害者なのに。傷ついてるのはゆっこなのに、なんでッ!?」
「なにが被害者よ!絶対あの女が悪いのよ。じゃあなんであんな暗いトコ行ったのよ? 自分から誘ったに決まってるじゃない!」
 なおもつかみかかろうとした三田さんの頬が、思いきり張り飛ばされて、彼女は床に転がる。
 その場に居た全員が、呆然と明神京香を見つめている。
「アンタの旦那、前の合コンの時から目ぇつけてたよ。ゆっこに。アンタがほかの男とチャラチャラやってる時、ゆっこの隣に陣取って口説いてたもの。肩とか抱こうとしてたし。あの男、西高にもカノジョいるらしいよ。そんなのでいいならバカみたいに信じてたら? 行こう、ソーコ。バカが伝染(うつ)るよ」
 振り下ろした手を払って、それだけ言うと明神京香は教室に帰ってしまう。
 平手打ちというより、殴り倒したような気がするのは僕だけか?
 廊下に三田さんの泣き声が響いた。
「誰か、三田さん保健室に連れてってあげて。ほかの人はもう授業始まってるから、教室戻って」
 出席簿を叩いて音をたてると、月組は移動教室だったらしく、あわただしく道具を持って生徒が廊下を走り去って行く。
 祭りの時、彼女の取り巻きのように同じ学校の生徒がいた気がしたのに、誰も彼女に手を貸すものはおらず、誰も助けてくれないのがまた拍車をかけるのか、三田さんが声を上げて泣き叫ぶ。
「………ごめん、ちょっと保健室に三田さん連れて行くから、もうしばらく授業まっててくれないか?」
 華組に行ってそう言い置いて、三田さんを職員室の向かいにある保健室まで連れて行く。
 階段を降りきった頃には、さすがに泣き疲れたのか、小さくしゃっくりを上げるだけ。
「ぜったい、アツシわるくない。悪いの、あの女のほうだよ。ねぇ、先生も思わなかった? あの子、いつも笑ってたでしょ? ちょっとかわいいからって鼻にかけて。媚びるみたいに」
 涙と鼻水でべたべたになった顔を歪ませながら上げて三田さんが必死にシャツを掴む。
「……そうは、思わないけどな」
 正直にそう言うと、何故かとても傷ついた表情を浮かべた後、失望したようにつぶやいた。
「やっぱり。男には分からないんだ……」
「男じゃなくても、思わない人は多いはずだよ?」
「違う! だってあんな風に笑われたら、男はみんな『自分に気がある』って思うに決まってるもの!」
 それは自分じゃないのか? という言葉をかろうじて飲み込んだ。
 彼女が笑っている理由。
 いつでも微笑んでいる理由。
 その微笑みは、何もかもをなくしても、強く生きようとするものだと、知っている僕と、知らない彼女。
 知らない人には、そう映るのだろうか?
 媚びているように。
 保健医に彼女を押しつけて、わけのわからない嫌な気分をかかえたまま、またため息をついて、教室へと向かった。

「ごめんなさいね、いつも来てくれてるのに。やっぱりあの子、逢いたくないって」
 学会で大阪に行っていた時以外、夕方の杉田家訪問は俺の日課になってしまっている。八年ぶりくらいに逢った、先輩の母親は、市議会議員になったとかで、以前より若返ったようで、それでいてとても疲れた表情を隠さない。
「いえ、いいです。最近、食が細いって先輩に聞いたんで、こういうのなら大丈夫かなと思って」
 差し出した小さな箱の中身は大手メーカーのシューアイス。
「…ありがとう、あの子ね、あなたに逢いたくないっていうのに、あなたが持ってきてくれたものなら無理して食べようとするのよ。だから、迷惑だろうけど、明日も来てくれないかしら? ほんとにいつもごめんなさいね」
「なーにー?」
「あら、駿壱はお着替え済んだの?」
「うん」
「ごあいさつは?」
「えーっと、こんにちは? こんばんは?」
 九月の頭の頃は、午後六時はまだ明るかった。今日は特に、今にも雨を降らせそうな雲が空を覆っていて、あたりはかなり薄暗くなってきている。
「どっちだろうね? どっちでもいいんだと思うよ。シューアイス、駿君の分もあるから、由紀ちゃんと一緒に食べて」
 真剣で悩んでいるのだろう彼の頭をなでてそう言うと、えへーっと笑ってありがとうというと、箱を抱えて家の奥へ走り去って行く。
「こら! 駿壱!!」
「いいですよ。ちゃんとお礼も言ってもらいましたし。それじゃあ、また明日来ます」
「ええ、本当にありがとう」
 お辞儀をして外に出ると雨が降らないのが不思議なくらい、黒くて重い雲がのしかかってくる。毎日数えることもできないほどのため息をついて今日も何も出来ずに、帰路についた。

 不気味な軋みを響かせて、寮の駐車場にアルトを止める。
 三番目の姉が嫁に行くまで通勤に使っていたそれは、俺が譲り受けた時点でいつ壊れてもおかしくない様子だったけれど、こんな音をたてながらも不思議と止まったり壊れたりってのがない、貧乏人にはありがたい車だ。
 鍵を投げて、受ける。
 投げて、受ける。
 投げて……落した。
「まだ死んでなくてびっくりした? それとも幽霊かと思った?」
 瞬く街頭の下に、人影。打ち付けの悪いコンクリートに、ヒールの音が近づく。
 鍵を拾って、そのまますれ違う。
 たくさんある『もしも』の最たるものは奈留美だ。あんなおし問答をせず走って由紀ちゃんを探しに行けば『もしかしたら』もっと早く助けることができたかもしれない。
 もちろん、奈留美に呼び出されなかったら、もっとひどいことになっていた『かも』知れないのだけれど。
「予定、早まったの。今週末、ドイツに発つの」
 振り向かずにそのまま寮に入ろうとした背中に、届く言葉。
「空港で見送ってとは言わないけど、今くらい見送ってよ」
 仕方なく振り向く。
「もう、自分でもびっくりしてるのよ。私、こんなに未練がましい女だったなんて思ってもいなかった」
 奈留美が自嘲気味に笑う。
「でも、私にはあなたしかいなかった。取り戻したかった」
「それは、過去を? それとも、心を?」
「両方」
 多分はじめから、お互い気持ちがすれ違っていた。どちらが悪いとか、そう言う問題ではなくて。
 求めても、手に入らないと分かったとき、人はあきらめるか、さらに追うかどちらかなのだろう。僕はあきらめて、彼女は追った。
「あんなことがあっても、やっぱりあの子がいいの?」
「…………『どんなことがあっても』っていうより、多分『あるから』だと思う。だからこそそばにいてあげたいとか、そんな風にもっと思いが強くなる」
 そう。思いは強くなる。けれど、頭がついていかない。どうすれば一番彼女が傷つかずに済むのか、どうすれば、彼女がまた笑えるようになるのか。
「あなたって、変な男。普通、誰とも分からないような男達に姦わされたような子のことを、どうしてそんな風に思えるの!?」
 確かに、何人もいたけれど、彼女を襲ったのは一人だ。ほかのメンバーは、誰かが来たのでなにもせずに逃げたと証言している。事件の後の検査の結果でも一人だけだとあった。実際に暴行したのは、三田さんの彼氏だけだったらしい。
 でも、そんなことを奈留美に言ったところで、奈留美はされたことはされたのだと言うだろう。
「どうして、あんな、人の顔色うかがってバカみたいに笑ってるような子がいいの?」
 家族だけど家族じゃない、そんな人たちに囲まれて育ってきた彼女は、そうやって笑っていることが人生を円滑に回すのだと無意識のうちに知ってしまったのだろう。
 杉田の家の人々は、本当に裏表なく、由紀ちゃんにやさしかったはずだ。今この状況の中でも、彼らは普通の家族以上に、彼女のことを考えて、心を痛めているだろう。けれど、彼らをやさしい気持ちにさせていたのは、彼女自身だったはずだ。
「どうして男って、ああいう、ぱっと見、儚な気でかわいらしい女の子を好きになるの? あんな子、だれかれかまわず媚び売って、男の庇護欲そそってるだけじゃない」
 吐き捨てるように、奈留美がそうつぶやいた。
 二人の別の人間が、同じ感想を持つということは、多分なにも知らない女性には、そう映るのだろう。
 でも僕は知ってる。西園創子も明神京香も知っているのだ。
 彼女の笑顔は、そんなものじゃないってことくらい、ほんの少し彼女と話せば、すぐに分かることだと思う。
 奈留美には、分からないかもしれないけれど。
「どうしてあんなバカな子がいいの!? どうしてあの子、なんにも疑わずに社の裏なんて行ったのよ……あなたが待ってるって……」
「奈留美ッ!?」
「どうしてこんなことになったの? ちょっと怖い思いしたらいいって、あなたがいなくてがっかりすればいいって、そのくらいにしか思ってなかったのに……こんなひどいことに、なるなんて思ってなかったのに……」
 思わず駆け寄った俺の前に、崩れるようにしゃがみこんで、奈留美がコンクリートの地面に伏す。
「ううん、違う。こんな風になればいいって、ぼろぼろになっちゃえばいいって……思ってた。いい気味だって。でも、耐えられなくて………ごめんなさい……ごめッ………!! ごめんなさい……」
 降り出した雨が、一つ、二つとコンクリートの上にシミを作っていき、あっという間に本降りになった。
 雨の中ただ、謝りつづける奈留美を見下ろしていた。
 自分の頬を伝うものが、雨なのか、涙なのか、分からなかった。


5−2 再び、道彦の場所
 秋雨前線と台風の影響で、あの日からずっと雨が降り続いていた雨が、やっとやんで、十月に入って怖いくらい高く澄んだ秋の空が広がっている。
 あの後、泣きつづける奈留美を連れて、警察へ事情を説明しに行き、奈留美を送って杉田の家に事情を話すのと同時に、もう、謝るしかなくて、ただ壊れたみたいに、ひたすらすいませんと繰り返した。
 杉田先輩が、あなたのせいじゃないし、もう謝らなくてもいいから、と全身ぬれねずみの僕に乾いたタオルをかけてくれたのは覚えているけれど、どうやって杉田家を辞して、寮に帰ったのかよく覚えていない。
 寝てもさめても気分は最悪。
 なんのことはない、もしあの時、あそこに僕がいなければ由紀ちゃんはあんなことになることもなかったのだ。
 自分が『もしも』の最たるものだとわかってまで、明日また来ますと気楽に請け負ったものの見舞いに行けるほど図太く厚顔でいられなかった。

「遠野先生」
 三時限目の授業を終えて、職員室に戻ると、結城先生に声を掛けられた。
「これ、袋が変なものでごめんなさい。遅くなったんですけど」
 そういって差し出された本屋の紙袋をあけると、前に預けた髪飾りがきれいに直って入っていた。
「ああ、ありがとうございます」
「いくつかビーズが欠けてたらしくて、問屋に同じようなものを探しに行ってもらったんですけど、ほとんど秋冬ものに変わってしまっていて……少し数を調整したんで形が変わってしまったそうなんです」
 言われて見ると、確かに少し形が変わっていた。台座もひしゃげて留まらなかったものが、新しいものと交換されている。
「そんな、わざわざ直してもらったのに」
 ごめんなさいねと言う結城先生に慌ててもう一度礼を言って、加工なんかでかかった費用を聞く。
「いいですよ。そんなの。もらったら私、怒られちゃいますから。その子も趣味でやってることだし」
「じゃあ、今度お菓子か何か買ってきますよ。甘いもの大丈夫ですか?」
「ええっ!? あー……大丈夫、だと思いますけど。そんな気使わないでください」
 胸の辺りまで上げた手のひらを僕のほうに向けて振りながら結城先生が笑う。
「それじゃあ私、四時限も授業があるんで」
 なぜかそそくさと去っていってしまった結城先生を見送って、いつものようにパンを買いに行こうとして、俯きながら来客兼教員用の昇降口をくぐると、ちょうど帰るところだったらしい、杉田先輩に会ってしまった。
 咄嗟に、目をそらす。
 そのまま見なかったことにしようとした僕を、杉田先輩が呼びとめた。
「ねぇ、少し時間ない? 話したいことがあるの」
 断ることもできず、人のいないところといえば例の屋上くらいしか思いつかなくて授業中の静かな校内を二人無言で歩いて、さび付いたドアを開ける。
「先週の土曜日にね、校長先生と担任の先生が家に来て、遠まわしにだけど、学校やめてくれって。埼玉か茨城あたりの女子高になら推薦してくれるって言われたんだけど、由紀子がいいって、もう、学校には行かないからって言うから、それも断って、さっき退学届出してきたの」
「そう、ですか」
 やっと始まったばかりの高校生活だったのに。
「あと、昨日、裁判署に行ってきた。って言っても、犯人未成年だからそこにはいないし、こちらがただ喋ってるだけだったんだけどね」
 薄汚れたコンクリート壁をものともせずにそのまま持たれかかって、返事を待つでもなく、先輩が喋りつづける。
「どうしてあんな暗いところに由紀子が一人で行ったのか分かった、って……道彦君が謝りに来たって言ったら、あの子なんていったと思う?『でも先生は悪くないから』って。だから黙ってたんですって。普通に考えたら、道彦君がそんなところにいないことくらいわかったのに、行った自分が悪かったんだって。あなたに、迷惑がかかるんじゃないかってそれだけの理由で、由紀子、黙ってたの」
 責めるわけでもなく淡々と、青い空を見上げながら、先輩が言う。
「もともと食の細い子だったのに、最近やっと食べるようになったんだけど、でも全然体力が戻ってなくてこの間の裁判だって、立ってられないから、車椅子に乗って行ったのよ? 車椅子に……あの子が一番嫌いな乗り物に……!」
 ずるずると背を滑らせて、先輩が座りこむ。
 両手で顔を覆って、しぼり出すように言葉を続ける。
「助けて。誰か助けて。なんで由紀子ばっかりこんなことになるの? 由紀子が歩けるようになるのに、どのくらいがんばってたと思う? 由紀子には、右足は骨が折れただけだって言ってたけど、ホントは違ったのよ? 右足の太腿の筋肉も筋も神経も骨も、全部だめになってたのよ? 手術した医者が、一生歩けないだろうって言ったくらいひどかったの。
 でも、言えなかった。死んじゃった家族の分も私が生きなきゃだめだよねって、がんばってからだ治さなきゃねって……笑ってる由紀子に、あなたはもう歩けないって、言えなかった。毎日毎日、何回転んでも立ちあがって、唇切れるまで歯を食いしばって……たったの九ヶ月でなんの支えもなしで歩けるようになったのは、奇跡なんかじゃない。あの子が……由紀子が努力したからよ。生きようってしたからよ? なのに、なのに……どうして神様はあの子にばっかりつらくするの?
 体も、こころも、つらいはずなのに、昼間に顔見に行ったら笑うのよあの子。大丈夫だよって笑うのよ? 迷惑かけてごめんねって……電気つけて、私か母がいっしょの部屋で寝てても、夜中に何度も悲鳴上げて起きるの。がたがた震えながら泣きながら、ごめんなさいごめんなさいって言うのよ? いつか私が耐えられなくなる……!!」
「先輩………」
 杉田先輩が泣いているのを見るのは、初めてだった。こんなに小さく見えたのも。
「お願い道彦君、助けて。悲鳴上げる前にいつもあの子、あなたを呼ぶの。うわごとみたいに何回も何回も何回も、先生、遠野先生、道彦君って……助けてって………希一君やうちのお父さんでも、あの子事件からこっち構えるのよ? だから二人とも今、私たちのマンションに居てもらってるの。でもあなたを呼ぶの。ずっと呼んでるの。あの日までほとんど毎日来てくれてたでしょう? あの日まではもっと症状軽かったの。あなたが来なくなってからかわいそうなくらい無理しだしたの。玄関で、あなたの声がするだけでいいの。お願い、助けて。由紀子を見捨てないで」
「……でも先輩、僕がいなかったら、由紀ちゃんはあんなことにならなかったんですよ?」
 しゃがみこんだ先輩の前にひざをつく。
「あの日、僕に逢わなかったら、絶対こんなことになってなかったのに……それが分かったのに……」
「違うわよ!!」
 化粧の上に幾筋も涙の跡を浮かせた顔を、あげて、先輩が怒鳴る。びっくりして腰がひけた僕の肩が、細い指に掴まれ、爪が食いこむ。
「君ホントにバカでしょう!?」
「は?」
「学生時代からずっとバカだバカだって思ってたけど、こんなバカだとは思わなかったわよ!」
 いや、だから、え?
「今まで何を見てきたの? 何をしてきたの? 何を感じてきたの? だいたいねぇ、普通気付きなさいよ。あんた好きでもない子の弁当毎週毎週たべてたの!? 好きでもない人に毎週毎週弁当作る女の子がいるとでも思ってるの!?」
「え、あ……いや……なんで知ってんですか?」
「分かるわよ! 毎日あの子が作ったお弁当食べてたらイヤでも! 火、木はね、やたら豪勢なのよ内容がッ! しかもやたら気合入れて作ってるし。分からないわけないでしょう!?」
「そうなんですか?」
「そうよ!! あんた唐揚げおいしいって言ったでしょ?」
「………言いました」
「毎回入ってたでしょ!?」
 あ、そう言えば。
「アレなんかね、前の晩から仕込んであるのよ!! 私は料理しないからよく分からないけど、あの家事だけは手際のいい子があれだけ時間かけるってことはすごく手の込んだもんなの!!」
 よく分からないけれど、怒ってる。それもめちゃめちゃ。
「もう、すごい悔しいんだけど、認めてんのよ」
「イヤ、だから……」
 なにを?
「あの子は、由紀子は道彦君じゃないとダメなのよ……あなたは『あのとき逢わなかったら』って言うけど、違うわよ。あの人は……一之宮さんはあなたが行かなくてもあそこにいたんでしょう? ならね、結果は同じ。ううん、絶対、もっとひどいことになってたわ」
 ……………
「あなたが申し訳ないって思う気持ちは分かるわ。でも、そのせいで由紀子がもっと悲しむのなら、私はあなたの気持ちなんか無視してやる。ホントに申し訳ないって思うんなら、来なさいよ。毎日来なさいよ。由紀子が本当に笑えるまで、ちゃんとしなさいよ!!」
「行っていいんですか? ……っいっ……がっ!!」
「…………ッ!! 殴るわよ!? 一回銀河の果てまで行ってこい!!」
 ……頭突きしてから言いますか? 普通……ほんとに星が見えましたけど?
 間近にある先輩の顔を見ているともう痛くて仕方がないのに、なぜだかバカみたいに笑えてくる。
「気色悪いわね、なに笑ってんのよ? もしかしてさっきので回路変になったんじゃないでしょうね?」
 さすがに怪訝そうな顔でひたすら声をあげて笑いつづける僕を見る先輩。
「あ、ははははは、は……はーすいません、そうじゃなくて、なんかおかしくて」
「なにがよ?」
「だって、僕が由紀ちゃんにプロポーズしたときに一番の難関が……障害が、一番先に崩れたんですよ?」
 笑いすぎて涙が出てくる。しかもこのセリフのあとの先輩の顔。一瞬固まった先輩を見たのは、やっぱり初めてだ。泣いてるのより希少価値が高いかも。
「じっ十万年早いのよ!!」
 大ぶりできた右ストレートをよけると悔しそうな顔でわき腹に左からジャブ。立ちあがって腕も足もなんでも繰り出し放題の先輩をよけて屋上中走り回る。
「なんでっ! 選りにも選って!! 道彦君なわけ!? がーもう、前言撤回!! 誰が認めるかこんちくしょー!!」
 言いながら、先輩も眉間に三本入っていたしわが取れて、いつもの顔に戻っていく。
「本気で悔しいわ!! あの子はね! ちっちゃいとき私のお嫁さんになるって言ったのよ!?」
「ダメですってば。先輩には斎藤先輩いるじゃないですか」
「希一君は希一君よ!!」
 そんなめちゃくちゃな。まあ、でもいつもどおりかな。この人がめちゃくちゃなのは。
「はーもう、年かしら。このくらいで息が上がるなんて」
 お互いぜいぜい言いながら、スタート地点だった屋上入り口でひざに手をかけて息を整える。きっとここでお互い様ですよとか、労わりの言葉を出すとまた年のこと言われそうでヤブヘビになりかねないので言わない。
「ま、とにかく、今日なんか持ってウチきなさい。由紀子が好きだったものとか覚えてない? そう言うの持ってきてよ」
「うーん……いつもはパンだったんですよ。甘そうなやつ」
「んじゃそれね。あーいい運動した。私これで帰るから」
「顔、すごいですよ?」
「泣いたからなー 久しぶりに」
 化粧直しするのかと思ったら、そのまま頬をごしごし手の甲で拭って化粧の方を落としてしまうという荒業ぶり。
「おっけー?」
「……まあ、分からなくはなりましたね……あ、僕も降りますよ」
「なんで? お昼するんでしょ? ここで」
「だから、パン買いに行くんですよ。ここの生徒が昼休みになったら売りきれちゃいますから」
 屋上への踊場を抜けて、いつものペースに戻った先輩と雑談しながら階段を降りる。
「へー人気あるんだ」
「どうでしょう……由紀ちゃんはなかなか食べられないって言ってましたね。だから四限授業ないし僕が買ってきて、弁当と交換してたんです」
「はー……本気? ねえ本気? あのお弁当の原価っていくらくらいか分かってる? 道彦君」
「だからー別にあげましたよ。お礼」
 所詮校舎は三階建て。あっという間に一階に着き、玄関へと向かう。
「なにを!?」
「…………髪飾り」
「や、安ぅ」
「すいませんねぇ、薄給で」
「そうよ!! 給料安いような男はダメよ!」
 明確な弱みを握ることができて、先輩の目がらんらんと輝いている。
「ええ、だからってわけじゃないんですけど就職しようかなって。公島(きみしま)製薬って知ってます?」
「知ってるわよ。頭痛薬とかカゼ薬とか出してるところでしょう? 業界の大手じゃない」
「二年くらい前からずっとそこの研究所から誘われてたんです。この間の学会のときにそっちの人も来てたんで話したら、いつからでもいいって言われたんですけど、ここも一応一年は講師をやるって約束ですし、大学の研究室の引継ぎもあるから、今すぐってワケにはいかないんで来年の春からってことにしてもらって……」
「ッが!! なんですって!? 公島って言ったら一流企業よ? 東証一部上場してるのよ? テレビのゴールデンタイムでCM流してるような会社よ!?」
「そうですね……」
「何でそんなすごいところもっと早く入ってないのよ!! こんな学校今すぐ辞めてそっち行きなさいよ! そっち!!」
「そう言うわけには行きませんって」
「信じられないわ。なんでそうソツがないの? 公島製薬なんて非の打ち所がないじゃない。それはもしかして私へのいやがらせ?」
 どうしてそうなるんですか……
「いやがらせついでに、公島製薬の研究所、神奈川県にあるんですよ」
「うそ!? 神奈川っ!? 遠すぎ!! せめて茨城くらいにしときなさいよ!!」
 できませんって……
「まぁ、でも、ここから先は由紀ちゃん次第ですよ。俺こっちですから、ここで」
 最寄駅へ向かう道から、一本細い路地に入ったところに目的の駄菓子屋があるので、そのまま直進する先輩と別れる。
「ええ。ちゃんと来なさいよ? 来なかったら不幸の手紙送りつけるからね」
 ………女子高生ですかあなたは。
 それでも、別れ際の先輩の顔は、校内で逢ったときよりすっきりしてて、今までどおり……ではないにしろ、いつものように前向きな印象が強くなっていて、すこしほっとしながら、僕は駄菓子屋へと向かった。


5−3 由紀子の場所
 眠るのがこわいの。
 暗いところも怖いの。
 どこにいても、なにをしていても、瞬きの間に現れるのは一番見たくない光景。
 前にもあった。
 眠るのが怖いこと。
 病院で一人、カーテンレールにしきられた白い天井が迫ってくるような感覚に目を閉じれば、見ていないはずの事故の現場をまるで上から見ているような、そんな光景が頭に浮かんではなれなかった。目をあけたら今度は白い天井が目の前までせまっていて、怖くて意識が遠のいた後、気がついたら泊まりこんでくれていたおばあちゃんに起こされて、私はちゃんとベッドの上いた。
 今も同じ。一番見たくない光景が、忘れてしまいたいことが、眼下に広がる。逃げられなくてもがく私。それを見て叫んでいる私。
 あのときと違うこと。それは助けを求めている相手。呼んでいる相手。
 泣きながら父や母や弟を呼んでいた私。
 泣きながら、道彦君を呼んでいる私。
 助けてくれた人がいたこと。
 でも夢の中で、道彦君は来てくれなくて、私はずっと泣いている。
 助けてって呼びながら、逢うのが怖い人。
 ぼろぼろになっちゃった私を、それでも抱きしめていてくれた人。
 突然、夜中にやってきた道彦君は、ずっと謝ってた。
 だから、分かっちゃったんだなって。だって道彦君、自分が悪くないのに、奈留美さんが道彦君の名前使って呼び出して、こんなことになっちゃったって分かったら、絶対自分のせいだって考えると思ったの。
 そしたら絶対、道彦君のなかの私が変わってしまうから。
 道彦君の中の、私への気持ちは変わってしまうから。
 レイプされたことで、嫌われたり、蔑まれたりするのは、かまわないわけじゃないけれど我慢できない痛みじゃない。
 でも、無責任に同情されたり、かわいそうに思われるのはいや。
 私の身に起こったことを、自分のせいだと思われるのはもっといや。
 そのことで道彦君を束縛するのなら、私は私を消してしまうと思う。
 誰かの重荷になることがどれだけお互いつらいかなんて、知っているから。
 せっかく入学したのに、入学金も授業料も制服なんかにかかったお金も、決してバカにならないのに、辞めてしまった学校。
 行きたかったらどこでもいいのよと、お金のことは気にしなくていいのよと言ってくれた杉田の家の人たち。
 杉田家は、お金持ちだから、本当にかまわないのかもしれないけれど、私にはもう返すものがないから。両親が遺してくれたって言う保険金だって、いつまでもあるわけじゃないだろうし。心配してくれるから、大丈夫? って聞いてくれるから、大丈夫だよ、心配要らないよって今までどおり笑っても、佐貴ちゃんも美岬おばさんも、もっと悲しそうな顔をするから……私にはもう、何かしてもらってもしようがないの。なんにも残ってない。
 もう、いなくなっちゃったほうがいいのかなって考えたりする。
 このうちから、出ていった方がいいのかなって。
 でも結局何もできなくて、やさしさに甘えて暮らしてる。
 なんとか時間をかけて、用意してもらったお昼ご飯を食べる。一日中パジャマを着ていたらずっと病人でしかいられないから、昼間は服に着替えて。
 道彦君がこなくなった日から、やっと変らなくちゃって思えるようになった。だからご飯を食べて、まっすぐ歩けるようにするの。夢を見るのは怖いけれど、夜は寝る。
 ご飯を食べたあと、部屋に帰ろうと廊下を歩いていると普段は使わない応接セットがある部屋から人の話し声が聞こえた。
 今日は珍しく、家におじさんもおばさんもいたからお客さんかな?
 私のためにつけられた手すりをなでながら聞くともなしに聞こえてきた声は美邦(みくに)おばさんの声だった。美岬おばさんの妹で、今は埼玉のほうに住んでる、私とは血の繋がりのない、おばさん。
 美邦おばさんは、ちょっと苦手。
 だからそのまま行こうと思った。
「だからっ! どうしてあの子にかける金はあって私への援助はそんなに渋るの!?」
 私のことだ。
「病院のことも家の改装も、学校だって! 姉さん達一体いくら使ったのよ? なのにあの子の親が残したものは使わずにとってあるんでしょう?」
 木製の手すりを握る手に力が入るのが自分でもわかった。長い長い、入院生活。健康保険の利かない当時はまだ医療認可されていなかった治療も、早く治るのならと遠くのお医者様を見つけてくれて、連れて行ってくれた。退院したあとも階段を昇れなかった私のために、一階の車庫があったところを改装して、私のための部屋を作ってもらった。玄関も段差をさらに細かくつけて、足を持ち上げなくてもあがれるように。廊下にはこの手すり。他にも、トイレにもお風呂にも普通の家なら要らないバーが幾つもついている。
 私は、それは全部、お父さんやお母さんが残してくれた保険金で賄われているのだと思っていた。
 ここに来てすぐ位のころに、美岬おばさんが、私の両親がしっかり保険に入ってくれてよかったって言ってたから。いくら杉田のうちが昔からの名家で、お金持ちだからと言ってその全部が、私のこれまで生きてきた費用の全部、負担になっているなんて思ってもいなかった。
「……何度も言ってるでしょう? あの二人が遺したお金は、由紀ちゃんのものよ。私達がいくら伯父や伯母だからって、勝手にどうこうしていいものじゃないのよ。せめてあの子が二十歳になるか、結婚するかしないと」
「だからって、あの子の生活費を全て姉さん達が出さなくちゃならないことにはならないでしょう!? 実の娘でもない子にそんなにかけられて、どうして実の妹の私のたのみが聞いてもらえないの!? 余るほどあるんなら少しくらい援助してくれたっていいじゃない!」
 美邦おばさんが、噛みつくように言っている。
「それにあの子、学校やめたそうじゃない。自分が姉さん達の情けで養ってもらってることも知らないで浮かれて祭りに行って、知らない男に襲われたんですってね」
「美邦!!」
「あんな子、不幸になって当然よ。なんにも知らないでいっつもヘラヘラ笑って……自分がどれだけ人に迷惑かけて来たかなんて全然思ってないんじゃないの? 姉さん達は一度も思わなかった?『あの時一緒に死んでくれてたら』って……」
「美邦っ!! あなた自分が何を言ってるか分かって……」
「分かってるわ! 私はずっと思ってた、あの子がいなければ、きっと姉さん達は私達にもっと援助だってしてくれてたはずだわ!! 全部あの子が悪いのよ!!」
 叩かれる音がした。
「分かったわよ!! もう頼まないからっ!」
 そう叫んで応接室から美邦おばさんが出てきた。
 立ちすくむ私を見て、目をそらした。
「……あんた、なんでまだ生きてるの? 死にたいって思ったことないの?」
 つぶやくようにそう言って、美邦おばさんがブランド物のハイヒールを履いて玄関から出ていった。
「みくっ! 由紀ちゃん!!」
 逃げるように出ていった美邦おばさんを追いかけようと出てきた美岬おばさんが一瞬言葉を失ったように口を閉じた。
「気にしなくていいからね。あなたはずっとここにいたらいいから」
 多分、真っ青な顔をしていたんだと思う。美岬おばさんが抱きしめてくれた。
「そうだよ。由紀子、ここにいたらいい」
 辰巳おじさんの大きな手が頭をなでてくれた。
「美邦もちょっと旦那とやってる事業が上手くいってなくて回りに気遣いできなくなってるだけなのよ? だから、ね?」
 私はゆっくりだけど二人に分かるように、伝わるように首を横に振った。
「……だい、じょうぶ。部屋に、帰って……寝ててもいい?」
「いいわよ。行きましょう」
 美岬おばさんが肩を支えてくれた。着替える? と聞かれて、少し横になるだけだからこのままでいいと断って目を閉じたらすぐに美岬おばさんは部屋から出ていこうとして、振りかえった。
「誰がどう言っても、おばさんもおじさんも、由紀ちゃんのこと大事な娘だと思ってるのよ。だから、あなたは何も気にしないでここにいたらいいのよ」
 念を押すようにそう言ってくれた。でも、それさえもとても悲しくて、薄い布団を頭から被った。涙が止まらなかった。


5−4 道彦の場所
「こ………」
 んにちは、と声をかけようとしたけれど、杉田の家の中は、なんだかそれどころじゃないくらいばたばたしていた。
「あっ! 道彦君!!」
 玄関に立ち尽くしていると、奥から車のキーをにぎりしめた杉田先輩が走って出てきた。
「由紀子見なかった!?」
「は?」
「いないの。まだどこか遠くに行ったりできるほど体力も戻ってないのに……」
 焦りながら靴を履いて早口でそうまくし立てた。
「どうか、したんですか?」
「ウチの親戚にね、口の悪いババアがいるの! それが今日来てて、なんかめちゃくちゃ言って帰ったらしいんだけどそれ全部由紀子が聞いてたのよ」
 杉田先輩の細い指に握られたキーとキーホルダーが擦りあわされてその手のひらの中で軋んでいる。
「あの子ただでさえ弱ってるのに……あんのババア、由紀子に死にたくないかって言ったのよッ!! あんなことがあって死にたくないと思える人間連れてこいっての!!」
「なっ!」
「悪いけど、ここから東のエリア探してくれない? 私は西の方に行くから」
 分かりましたとだけ言って、路駐のアルトのエンジンをかけた。
 東側のエリアと言われて、真っ先に浮かんだのが踏み切り。とりあえずここから近い踏切を知っている限りすべてジグザグに走って彼女がいないことを確認して、さらに向うにある河川敷に向かった。
 堤防の部分は遊歩道になっていて、車止めギリギリまでアルトを突っ込んで川下に向かって走った。別にその時は、川下に向かえば最悪流れてきても分かるとか、そんなことまで考えていたわけではなく、全くの無意識で。
 あの時と同じように、追い詰められるような焦燥感に駆られながら声の限り名前を呼ぶ。こんなところにいてくれるなと思いながら。
 そして、ススキと葦が途切れて川面を見渡す視界が開けたその時。
 ふらふらと夢遊病者のように浅くなった川岸を歩く背中を見つけた。
「由紀ちゃん!!」
 名前を呼んで、転がるように土手を降りて。
 その間にも、一度振り向いたあと彼女は躊躇することなくざばざば水の中に進んでいってしまった。
 名前を呼んだことで余計に彼女を急かしたのだと自分の安易な行動に舌打ちしたい気分だった。僕が川岸についたころには彼女はもう腰のあたりまで水に浸かっている。もう少し進めば、川は急に深くなる。間に合わなくなる。
「待って!!」
 そう言われて待つわけがないとわかっていながらけれど叫ばずにはいられなくて。足にまとわりつく水が重かった。焦れば焦るほど距離が広がるようで。
 不意に、かくんと姿が見えなくなった。深みにはまったのだと気付いた時には僕は歩くのをやめて泳いだ。水深は浅かったし、水の中はにごっていたけど長くて白いスカートの裾が見えて必死で水をかいた。
 ゆらりとこちらにむいた腕を夢中でつかんで引っ張り上げる。まだ十月だけれど、水温はそれなりに低くて、服を着たままのせいか異常に体が重かった。
 なんとか自分の足がつくところまで彼女を引っ張っていった。気を失っているのか、なんの抵抗もない彼女の体を抱きあげた。
 ごほごほとむせる息を聞いて体から力が抜けそうなくらいほっとした。
 濡れた服の上から背中をなでて、息が落ちつくまでにふらつきながらもなんとか自分の膝くらいまでの浅さまで帰る事ができた。
「大丈夫?」
「だいっじょうぶなんかじゃないよ……なんで……なんで道彦君こんなとこにいるの?」
「由紀ちゃんを探してたから」
「なんで探すの? なんで助けるの? 私もう、死んじゃいたかったのに」
 細い腕を僕の首に回して、しがみついてくるのを、抱きしめた。
「なんでいっつも、助けてくれるの?」
「だって、いつも由紀ちゃんのこと助けたいと思ってるから」
「なんで? どうして? 私なんか助けたって、いいことなんて何にもないよ?」
 濡れても軽い体を腕に乗るように抱えなおす。腿の上を支えるように。
 そして少し体を離して、びしょぬれになりながら泣いている彼女の顔を覗きこんだ。
「あるよ」
「うそ」
「だって、生きてるだろ?」
「だって、生きててもしょうがないもの」
「生きてることが、しょうがない人間なんていないよ」
「いるよ。ここに。私、生きてるだけでみんなに迷惑かけてるもん」
「生きてて、誰にも迷惑かけない人間なんかいないさ」
「美邦おばさんが、言ったの。あなた死にたいって思ったことない? って。そんなの何度も思ったの。もう死んじゃおうって、いなくなっちゃおうって。でもできなくて、私今まで生きてたの。でももう……」
「僕だって、死にたいって思ったことあるよ? 高校生くらいの時って誰でも一回くらい思うもんじゃないかな? 思ったことがない人間なんかいないさ。由紀ちゃんだけじゃない」
 何を言っても、由紀ちゃんはぶんぶんと首を横に振る。
「今もまだ死にたいって思う?」
 そう尋ねると、こくんと頷いた。
「じゃあ、一緒に死のうか?」
 今度は頷きかけて、びっくりしたように目を見開いて僕の顔をまじまじと見た。
「なんで、そんなこと。だめだよ。なんで道彦君まで……この間のこと、責任感じてること知ってるもの。同情なんかしないで。かわいそうだって思わないで」
「同情なんかじゃないよ。ずっとずっと思ってた。どうしようかな。初めて逢ったときのこと、金魚すくいしたの覚えてる? もしかしなくても、僕はあの時からずーっと由紀ちゃんのことが好きだったんだ。つい最近まで、気付かなくてごめん」
 腕の中の彼女が、とうとう目を閉じた。
「もうやだ。同情なんかやだ……そんなの、信じない」
「由紀ちゃんがいないなら、僕はこの世にいてもしかたがない。僕が君に生きていてほしいって思うのは、やっぱり君には迷惑なのかな? 目を開けて、僕を見て」
 恐る恐る目を開けた彼女に、精一杯笑って、精一杯やさしく、これまで生きてきた中で一番思いを込めて。
「僕は君が好きだよ。君がいらないのなら、君がこれから生きていく時間を、僕にくれないか?」
「だって、私、そんなふうに言ってもらえるような子じゃないもの。ケガだっていっぱいしてる。知らない人に……ッされたし……今だって」
「じゃあ言いなおそうか?」
 もう一度、しっかり抱きしめて泥のように重い右足を一歩、左足を一歩と歩いて岸まで行って乾いた地面に彼女を下ろした。
 ポケットの中で、本屋の紙袋が水に濡れてよれよれになっていた。
 弱くなった紙を破って、中身を取り出す。
「今はこんなのしかないけど。またちゃんとしたのあげるよ」
 濡れて冷たくなった手に、前とは少し形が変わった髪飾りを乗せる。
「由紀ちゃんの過去も、未来も、もちろん今も、僕に下さい。これまでもこれからもなにがあろうとも、僕は君以外いらない」
 形のいいおでこに貼りついた前髪をそっとはがしてそっとキスをした。
「代りに僕の全部を君にあげるよ」
 屈んだ僕の首にまた細い腕が回った。首筋に顔をうずめるようにして由紀ちゃんが何度も頷くのが分かる。
 冷たくなった体を抱き上げて帰るうちを作ろうかと聞くと、やっぱり彼女は頷いた。


5−5 由紀子の場所
 お前は要らない子だって、面と向かって言われたのは初めてだった。
 でも美邦おばさんの言っていることは真実で、本当のことだった。
 布団の中でひとしきり泣いて、そっと家を出た。
 どこをどんな風に歩いたのかよく覚えてなかったけど気がついたら河原でふらふらと水を見ていた。
 このまま向うに行っちゃおうかな、そんなことを考えていたら後ろから名前を呼ばれた。
 振りかえらなくても分かったけど道彦君の姿が見たくて一回だけ後ろを見たら、背広を着た道彦君が、血相変えて走ってくるのが分かって咄嗟に川に入ってしまった。
 足が悪い私には空気の中も水の中も、実はあんまり変らない。浮力がある分水の中の方が動きやすいなと、どうでもいいことを考えながら川の中心を目指してざばざば入っていったら、道彦君も川の中に入ってきて追いつかれないように必死で前に進んだらあっという間に足元がなくなった。
 悲鳴を上げるヒマもなくこぽこぽとあがっていく泡をみながら、ああ、これでお終いになれるなってそんなことを考えていたら不意に腕を掴まれた。びっくりしたら肺に突然水が入ってきた。マヒしたみたいに体が動かなくて私は水の上に引き上げられていた。
 空気だ。そう思った瞬間苦しくなって、飲んだ水を必死で吐いていた。背中をやさしくて大きな手が何度もなでてくれた。
 道彦君だった。
 どうしてこの人は、助けてほしい時にそばにいてくれるんだろう。尋ねたら問答みたいな答えが帰ってきてけれどその声がすごくやさしくて、どうしてこんなことしたんだって怒られると思ってたのに、全然そんなこと言わなくて、死にたいって言ったら一緒に死のうかって、そんなことまで言ってくれる。
 やさしい声で、私の人生いらないなら僕にくれって、ずーっと前から好きだったって。どうしてそんなプロポーズみたいなことがあっさり言えちゃうの?
 そんな簡単に言えるなんて、やっぱり同情なの? かわいそうな子を死なせないために、そう言ってくれるの?
 やさしい瞳で、全部見透かすみたいに見ないで。目と目があったら私の中身が全部見えてしまいそうで、怖くなって目を閉じた。
 うれしかったの。
 同情なんかしないでって思っても、ただこうしていっしょにいられるだけでうれしいの。どうしようもないくらい好きなのが全部ばれちゃいそうで怖かった。私なんかに好きになられたって、だって絶対迷惑だもの。
 道彦君が黙って、歩き出したから、私はその時初めてまだ道彦君が川の中にいたってことに気付いた。だって私の体は、しっかりと抱き上げられていて水につかないようになってたから。
 やっと水からあがって、そっと地面におろされた。道彦君が屈んでちゃんと私と同じ視線まで顔を下ろして、そして笑ってくれた。
 思い出したみたいにポケットに手を突っ込んで、茶色い袋を破って、道彦君が取り出したのは。
 もうなくしたと思ってた、髪飾り。ちゃんと直ってるの。すこし形が変わってたけど、前より綺麗な気がした。
 おでこにふんわりって、やさしい感触。
「代りに僕の全部を君にあげるよ」
 もう言葉にならなくて、どうして言いか分からなかったからそれ握って、ぎゅーってしがみついて壊れたみたいに頷いた。
「帰るうちを作ろうか?」
 そのまままた抱き上げられた。
 うれしくて頷いて、そしてやっとなんとか言えた。
 ずっと言いたかった言葉。
「わたしね、道彦君のこと、好き。これから先もずっと道彦君と一緒がいい」
 しがみついてたから、顔は見えなかったけど。
 ただ抱きしめてくれる腕に力がこもるのが分かって、とてもとても、嬉しかった。






4−2 ←    → 6


Copyright © 2002 MAY Sachi-Kamuro All rights reserved.
このページに含まれる文章および画像の無断転載・無断使用を固く禁じます
画面の幅600以上推奨